現象学

日常世界(生活世界)を考える哲学

フッサール

現象学の生みの親

1900年頃活躍

「無意識(人が意識する手前)」の現象学を開拓

綜合

ちょっと見て「たくさんか、少しか」わかるような「感性的綜合」(≒知覚)と、きちんと数えて分かる「カテゴリー的綜合」がある。

「綜合」とは、たんにばらばらなものをとりまとめるのではなく、そのつど、まとまりが新たに生成する(宗となる)という意味がある。

感性的綜合

一冊の本を手にとって見るとき、「本の重さ」や「表紙の触覚」「表紙の色覚」などはばらばらにではなく「一冊の本」という知覚にまとめられる。

そのまとまり方は境界がはっきりしない、溶け合っている「融合」のようなものだ(フッサール)

見え

手術で目が見えるようになった(開眼した)とき、患者は襲いかかってくる視覚上の刺激の洪水に身をさらすことになる。

はっきりとした形と色を持たない印象の混沌とした渦巻きの世界に秩序を築き上げていくことで、見える世界を獲得(知覚)する。

→見えている世界は決して当たり前ではない

見える側と見えない側のまとまり

置物のようなものの見えている側は、見えていない背後をも併せ持っている。様々に見える側面の射映を通して一つの対象として見えている。

この際重要なのは「見えている意識」と「見えてはいないがそこに与えられている意識」の違い。実際には見えていなくても無自覚的に予測している。だから予想外のものがあったとき「あれっ」と思う。

→「あれっ」と思ったからこそ、見えていないときの無自覚に気づく。そうでなければ気づかない。

近代の見る・見られる(対象)という「主観と客観の二元論」とは異なる。意識はすべて、自覚せずにすでに何かが予期されながら、それと気づく前にすでに何かに向かってしまっている。

「何かを意識してしまっている」ということがまずはじめにある。二元論的に主観が意識作用として働き、客観をある意識内容として構成するというように理解されてはならない。