役者必読妙々痴談下

役者必読妙々痴談下

花笠文京の作で上巻と同じように、現役役者の批評であるが、下巻では三代目坂東三五郎(半草庵楽禅)の幽霊が、親友だった三代目中村歌右衛門の子である四代目歌右衛門(中村芝翫)を説教する。 次は女形で有名な三代目瀬川菊之丞(仙女)の幽霊が五代目岩井半四郎(杜若)を説教する。 最後の話しは幽霊でなく、病床の三代目坂東三五郎(秀佳)が四代目三津五郎を諭す咄となっている。 歌舞伎に通じていないと読んでも中々理解し難い。

役者必読妙々痴談巻之下

江戸 三芝居士口授

玉虹老人偏次

半草庵楽禅中村芝翫(しかん)を懲す

中村芝翫往る年江戸堺町座へ下りてより以来(このかた)

浪華に居る師匠中村歌右衛門が仕置たる狂言を

繰出して勤しに、金主の帳尻のつばまりハいかが

にや知らねども、芝翫贔屓のひきもきらず、奥向ハ *芝居業界

半草庵楽禅: 三代目坂東彦三郎(1754-1828)

中村芝翫: 四代目中村歌右衛門(1798-1852)

更なり、町中の評判よく、師匠梅玉が吉例に習ひて

中村座へ居すわりて、外座へゆかず居宅も二町々近 *秋葉原界隈

辺ハさわがしと深川常盤町に住居して、妻妾

の中睦ましくくらしけるが、或日芝居果ていつも

ごとく内へ帰り一盃をかたむけ、其夜ハ妻の方へねる

夜なるにいかがしたりけん、枕につけどもねぶられず

夏の月照わたり、時鳥の遠音しきりなれバ、浴衣

の形り団扇(うちわ)もて蚊を追ながら庭に出て、河岸の*小名木川

下チタン一

切戸を開きミれバ。鼠衣の老僧一人勿然と歩ミき

たり、河辺を指さしていふやう、あの船にハ蚊もをら

ず殊更に川風のいと涼し、今宵ハあたりに邪魔も

なし、わぬしに申入たき一条あり、いざまづ是へ、と誘

われ、心ならずも其侭に芝翫河辺に下り立て

件の舟へ乗移るに、外にハ客もミえざりけり、其時

芝翫ハ我なりのゆかたがけ単帯なるに、心付御誘

引に任せ御舟へハ参りたれど、失礼なる此出立、羽織

梅玉: 三代目中村歌右衛門(1778-1837)の俳名

どうも流行(はやら)ぬ役者あり、又声の調子もあざやか

ならず、未熟なる芸ながら、もてはやされる役者あり

当時ハ芸能より愛敬が第一なり、されバ速に愛

敬ほしとて、神仏を祈りたりとも其かひなかるべし

愛敬ハ平生の行ひにあり、とかく役者ハ諸事に

心を用ひ、見物の心叶ふやうにせねハ出世ハ成

がたし、芸能よしといへども至て小がらなるハ損也

男ぶり格好も勝れてよけれど、声の調子あしけれ

下チタン三

バ見物の好ぬものなり、愛敬を沢山に持て、其上に芸の

品よきを立者とハいふなり、まづ中むかしにてハ白延四代目団十郎

訥子四代目宗十郎大十町大谷広次吾父薪水二代目坂彦等なり、此人々ハ皆

五十年以前なれハ、名バかりにて知まいが、上方にも小

六玉・鬢付屋・大芙雀、近くハ嵐吉二代目季冠秀佳などを

こそ名人ともも上手ともいふべけれ、此両人ハ役者中興の

手本となる事どもを仕残し置たり、故人になりて見

れバ芸能愛敬そなわりたる者にて古今無類の役者

をも着用せねバ、出直して参らんと立んとするを、く

るしからずと押とどむ、彼老僧ハ別人にあらず三代め前

の坂東彦三郎楽禅、原庭の隠居なりけれバ芝翫

大に迷惑し心中に思ふやう、何故に此舟へハ来り

しぞ、兼々師匠の云れしにハ立者となりたらバ、一人

歩行すべからず、夜とても見苦しき形いたすなと教

られしハ爰のこと、いかにもして逃帰らんとあたりをみ

れバ舟ハはや大川へ漕出したり、かくて楽禅隠居ハ手づ

下チタン二

から薄茶をたてゝ芝翫に進め、藤間の吉と呼し昔

とは違ひ、当時ハ一座を預る座頭の立者、遠慮有てハ

愚僧も気毒、打くつろがねハ咄もならず、年の立のハ早

ひもの、わぬしが江戸へ下りて七八年、舞台の風も一変

し、老眼にミる時ハあアでハないと思ふことも、皆見物が

能うけて芝居繁昌するから、若い役者が上手に

成、ミる見物が下手になりしか、ふたつの内なり、むかし

より世々有事ながら、芸も上手男もよけれども

師匠: 三代目歌右衛門

藤間の吉: 藤間吉太郎、四代目歌右衛門の母は

藤間勘十郎の妻の妹だったことから、若い時

にこの名で呼ばれた。

*本所原庭に隠居

*五代目 白猿 市川団十郎(1716-1806)

*嵐小六・中山文七

*尾上新七、嵐吉三郎

*坂東三津五郎三代目(1775-1831)

なり、女形ハかあいらしきが愛敬、敵役ハ悪体なるが愛

敬なり、舞台にて相手になりて真に悪きハ故人中

島勧左衛門、故人市川宗三なり、平生から無人相にて

愛といふもの更になく、敵役を我生涯の家業に

せねバならぬと凝て勤めしゆへ、狂言のうへにても真

底悪かりしなり、立者ニはならざれども、是等が

中の上手ともいふべきなり、今ハ中役者の中にも

巧者上手ともいふほどの者甚稀なり、増て立者の

下チタン四

数も片手の指を折にも足ぬ時節、役者らしくせり

ふをいふ者一人もなし、たとへ生れ付ておぼへあしき者

にても、数遍稽古を重ぬれバ、記憶されぬといふ事な

かるべし、昔とてもおぼへのよきもの計りもなし、無

筆にて人によませておぼへる役者もあれど、見物

のしらぬ内証の事ハどうてもよし、しかしながら出

世して一座のたばねをも勤めんと思ふ心あらバ

能書博識ニハ及びもない事ながら、いろは四十七字ハ

中村芝翫

涼風をたづねて

思わず楽禅坊が舟に会す

役者ハとかく座頭を早くしたがるのが不了簡なり

既に先年歌右衛門が下りたる時も、座頭ハ断てせぬのが

第一の愛敬になりたり、尤その比にハ上に立役者大分

有て、させもせず、しもせぬなり、今の様なる座頭なら

ハ心遣ひなく、誰にても出来る筈なり、先座頭といふ

者ハ楽屋の惣大将にて、作者の軍師と牒じ合せ、一

座の役者を士卒の如くなつけおき、見物の大敵を

引受て舞台の戦場にて、花々敷功名手柄を

下チタン九

顕さん事を願ふものなれハ、たとへ今ハ一年住といふ事

なく、六割の給金にて勤るとても、其身の城郭ハ

中村座ならバ一年中の狂言をもあらかじめ是々と

心組して、其上外場の出し物に寄、臨機応変

のさそくをするとも、替りめ毎に是のあれのと、女子

供が古着でも買やうに、仕物(しもの)に目うつりがして迷ふ

故に自心にも訣断が出来かねるなり、又しても女形

をしてハ、加役金をとり、今度も又女形をせねバなら

なき藤間勘十郎が胤ほど有て、景事ハ手に入た *踊りの師匠

物だが、其身の高慢が出ると是ほど上手に成て

居のに、なぜ見に来てくれぬかと思ふ事も有なり

されバ芸道に至て我ハ是で上手だと極めるハ、人の

上手をしらぬ故にて、我心の下手なる了簡なり、世

の中の誰しも人の上に立、我ハ人より勝たりと思

ふハ皆々の心に有事なれど、そこを熟(とく)と我身を

顧て、まざまざと意の駒の手綱をゆるめぬを

下チタン八

発明とも上手ともいふべし、物に順道あり、時節あり

其身に応ずる時を考へざれハ諸芸共に出世ハなりがたし

上方の諺に鼻たれも次第送りといふ事有て、先輩

を乗越て上に進む事も有(あれ)ども、是ハ其当人の身に

よる事なり、又上に立先輩なれど芸能も未熟にて

有ながら、上に立べき器量あるゆへ、見物も其順をか

ぞへて見ているなり、人の上にいて下手といわるゝ

より其下にいて上手といわれたきものなり、今の

たとへにて、論にも評儀にもかゝワらず、ただ気象が能

とか何とかいつてハ置ものゝ笑止な事どもなり、中古よ

り男ぶりもよく声の調子もよく、愛敬の有役者ハ

至て少し、其中にもてにはでも知ていれバせりふの

言廻しも自然とよく成、見物の気に入やうな当ぜりふ

を案じて、独永く謂稽(しゃれ)をいつて、夫で名代もんと取 *滑稽

はやされしハ、故松本錦紅なり、是ハ其人の生れ付た

る妙ともいふべきほどの事なり、全く当人の才智計

下チタン七

でもなく、初代桜田左交といふ作者有て、意を合して

いたるゆへ、皆錦紅が手柄の様になつたり、尤歌舞妓

開闢より二百年余の間、名人上手もあまた過去し

上なれバ何芸とても仕尽して末に及び、かうした

ならバよかろうか、あアしたならバ新しくならふかと

余りこんたん仕すぐして其意を失ふ事が多し、今 *し過ぎる

江戸ハおろか京大坂にも所作師のないのがそなた仕 *踊りの名手

合せ、富十郎が出来やうが仲蔵が再来しても外に類

さらなり、走りまハりの俗字位ハよめるやうに心がけて

居ねば叶ハぬ事なり、そなたの師匠歌右衛門が初手 *文化五年

江戸下りの時、去屋敷の奥からお侍が三階へきてみ

ている前で、ぜひとも書て呉いとて、色紙と扇を出

して、いろはでもいひから自筆でかくと詰ばらを

切るやうに、何ら句ぎる何だかワからぬものをかいたが

其時おれにも並べて書て呉いと所望ゆへ、一寸ひと

ふでかきに蚯蚓をかいて、御縁先ミヽづのたくる

下チタン六

五月雨といふ画賛をして、お茶をにごしておいたが、さす

がの歌右衛門も赤面して、其日から急に手習を始めて

おれに画(え)の手本をかいてくれいとて、書ハ誰やらに学ん

で今大坂でハ大天狗になられたさうだが、遊芸ハ猶

更何でもすこしづゝ弁へねバ大きに困る事があるも

のだ、今の若ひ衆ハ器用な事で、狂言のかハりめに

するとて急に茶の手前をけいこしたり、舞台で大

字をかくとてにハかに手習をしたり、目くら蛇の

*てにをは 前後

一年住: 一年契約

誰もいふ、良薬ハ口にゝがく人も頼ぬさし出ぐち

歌右衛門も去年からかわりめ毎に不評のよし

まだ老込といふとしでもないが、贔屓の人気

をそこねぬうち、そなた登て舞台をひかせ、是

まで度々の名残狂言、今度が本まの一世一代、とも

ども側から進てやり梅玉名とげてなにワづの

梅の親玉、功なりこまやが師の恩を送かへせと

永物語、芝翫ハ河風身にしミて袷を着んとかい

下チタン十一

さぐれバ、床に懸たる一軸の画面ハ則楽禅が其

むかしまだ薪水と呼たる比、嵩谷風の水に舟

気韻そなハる走りがき、絵筆の跡こそゆかしけれ

瀬川仙女岩井杜若を詰(なじ)る

五代目岩井半四郎ハ近頃無類の女形にて町

方の娘是が風俗を学ざるハなし、両の手に桃と

桜を持たるにも劣ざる粂三郎、紫若のふたり

を子にもちて太上天皇の大太夫、年経(としふ)といへども

ぬと、かわりめ毎のやうにするのハよからぬ事なり、どこ

にかしこも中二階が少ひ故、無拠するでも有ふけれど

見物も久しひものだと思ふから、よくても能(よひ)とも誉*相変わらず

ず、一生勤ねバならぬ家業なれバ、仕いそぎハせめが

よし、他人のをれがいらぬ世話をやくやうだか、歌

右衛門とハ別て心安くて、一世一代をした時も同座

して居て、心切にいふてくれたる恩もあれバ、芝翫の

名をついだそなたをおれハ他人のやうにハ思わぬ

下チタン十

又いまの薪水四代目坂彦 が大坂へ登た時ハ、歌右衛門も彼

是とせわをやいて、自分が羽がい下へ抱へ込気で有

たけれど、ちと気象の勝た生れゆへ、自身から遠

ざかつて寄つかず、浜芝居へ下りて修行するさう

なが、綿熊とかいふ人に家事を頼て、今更困ると

いふことだ、此春ハ筑後の芝居で手柄をしてゐる

と、かぜの便も嬉しけれバ、そなたにあふた序ながら

耳うちしておきたい事もあり、其場の座なりハ

筑後の芝居:*道頓堀の大きな芝居
浜芝居: 大坂の小芝居

瀬川仙女: 三代目瀬川菊之丞(1751-1810)文化七没

岩井杜若: 五代目岩井半四郎、(1776-1847)目千両と云われる。 弘化四没

*高嵩谷 町絵師

春毎に緑色増柳島に引篭、せんざいに流を

ひかせ山を築、池をほらせて鴛鴦(おしどり)をはなち、手

舟に棹させて魚を漁(すなど)り、筑波を望む楼上あり

富士見の亭あり、狆に似たる滝爺もあれバ、万

年も老せぬ亀次郎もあり、代々法華経の信 *弟子岩井亀次郎

者とて不老ふしぎの立物なり、去冬粂三郎

に半四郎の名を譲て庭の山水を楽ミ、朝夕

こころ易く暮さんと思ふても、女形が少いから何

下チタン十二

ぞといふと引出され、イヤイヤながら出勤すれバ以前

におとらず金もとれ、見物も待なへバ元来役者

ハ舞台が好、天窓(あたま)をおさへる者もなく無理な事でも

勝手でも云て通るが役者の徳なり、柳島よりハとを

からぬ押上の大雲寺ハ瀬川代々の菩提所にて、宗

門ハ異なれども折々香花を手向るこそきどくな

れ、爰にまた瀬川仙女ハ日外(いつぞや)無可有(むこう)の郷に遊びて

より、仙女の名空しからず、霊を仙宮に飛して杜若

が庭を詠(なが)めて余念なきとうらやミ、姿を現して

築山の辺を徘徊するに、杜若見付て驚きたる気

色もなく、自提莨盆を腕にかけて、泉水の向なる

亭に伴ひ、互に物語こと半時ばかり、毎日入来る客の

如し、其時仙女ハ五代目路考が厚恩を受たる事を *仙女の子

労ひ、当人の心得違にて能(よか)らぬふるまひ多く、淫酒

の為に身を亡し名をけがし、位牌所の絶たるを

歎き何事も昔に劣諸芸の衰微なるに、かしこき

下チタン十四

御世の静なるを仰ぎ、下(くだり)役者の延着まで御苦労に

懸たてまつるも恐入たる事多し、夫といふも役者が少く

殊更女形が払底の中に、中村富十郎の、山下金作

のと立派なる名跡が出来て、女形の情をワきまへている

者一人もなし、口広事ながら女の情態をうつす者ゆへ

声の調子がよふて顔の美しきが第一にて、常々の

事までもやさしくする事肝要なり、王子の太夫

が噺しにも、袖崎政之助といふ女形ハ愁い事の名人

*実川額十郎(延着)

王子の大夫:二代目瀬川菊之丞 王子の百姓出身

袖崎政之助: 享保の頃の役者

五代目路考 五代目瀬川菊之丞(1802-1832)

にて、せりふを多くいはず、さまでもない役にもこなし、思入

にて見物を涙(なか)せしとなり、すべて女の意(こころ)もちを片時も

忘るゝことなく、身を嗜ミ容(かたち)をくずさず艶もつはらにし

て、色気をふくむをよしとせり、八百屋お七の役にふう

じ文の紋を残せし嵐喜代三ハ、一幕の内書板(かきぬき)の

せりふを半紙一二枚ほどならでハいはずといへり

常の女でさへ男をさしをき多弁なるハ、色気のな

いものなり、まして男と生れて女の真似をすることな

下チタン十五

れバ、召遣ふ家内の奉公人にも寝顔を見せず、云

ひ事もうちばにしておかねばならぬなり、其代(そのかわ)り

立役よりハ余分の給金も取、太夫と尊敬(そんきょう)される也

芝居木戸前の者にまで四季折々の揃を遣し

櫓下に名前を揚る事、座頭でもならぬことなり

女形ハ狂言も立役によなれてする者ゆへ、敵役に

いぢめられ或ハ不義を言かけられる時、見物の目か

らもそこへ出て助てやりたく痛々敷ミゆるのが女

*嵐喜代三郎

形の情合なり、元来(もとより)女形に武道といふ事ハなき筈なり

むかしの山下金作・芳沢あやめ此両人ハ至て不器量な

りしゆへ、専ら色気なき武士の妻などの役をして

武道をいたせし由、それハ人々の生れ付て若年にて

も振袖娘の似合ぬもあればなり、当時三扇の役

所ハ、肩揚の有娘の様に思ひ、顔もうつくしく

愛敬ハこぼれるほど有、羽二重の似合身をもち *中年の女形

ながら、白井権八の悪婆のと立役からする加役

下チタン十六

をして、今でハ家の狂言になりたれど、それハ体に

持て生れたる役なるを、其子供が親の真似をす

れば能事と心得て、女形の情を失ひ、女にも稀

なる艶色の面を持てゐて、早切の立廻りをし *テンポが速い

たり、尻をからげて立役の者をなげたり、ほうつ

たりして、とかく男のまねをするのをとどめもセ

ず、だまつてみてゐらるゝのハ、よからぬ事也、それらの

事を五代目大若衆めが見習ひ、どこのくにゝ角力

*五代目瀬川菊之丞

*岩井半四郎の紋

女にせまるよし、人ハ一代名ハ末代、再び不良の風説

あらバ、先祖の名おれと其場において、路方が命簿

に墨を塗、定劫と云置て、不便ながらも鬼となし

たり、瀬川の家ハ是迄も血筋の続くを悦ばず、他人

を以てつぐ例なれバ、去べきものを見付出し、名を

起させて給わるべし、頼といふハ此事と、芝生の岡

に立ましとせしが、忽然と小町桜か山姥といふ見得にて

虚空をはるかに昇天せり

下チタン十八

香請亭秀佳倅三津五郎に教訓す

前の坂東三津五郎秀佳が技芸の絶妙なるハ尋

常(よのつね)の意外に出てよく人の所知なれバ、今更批評

するもおろかなり、平生ハ訥弁早云(はやこと)にて愚なるか

ごとく、家事経済にかゝわらず、舞台衣装の外ハ

ミな人まかせなり、常着の衣服調度など別に物好

して製作することなく、昼夜とも酒気をおびざれハ

物いふ事少し、奴婢等若過して大切なる器物など

の役を仕をるやら、かたきやくするさへあるに後々ハ

先祖の名前をけがし、女形の有ふことか、あるまい事か

密夫間男の悪名をうたワれ、笑ひ本にまで画(え)がゝ

れて、恥を後世に残すこと口惜しいやら悪いやら、下

界の取沙汰仙宮に聞へ、忉利天の中二階までも、其

噂やむ時なかりしが、七十五日の峠を越し其婦人も

神仏にゝくまれて、泉下へおもむき、其心痛と今迄

の不養生が一時に再発して、たちまち一堆(いっつい)の塊(つちくれ)

下チタン十七

となる。大方の御見物もかゝる不行跡なる者ともしろ

しめさず、夭をおしませ給ひ、他人のなげきをミるに

つけ、孫の失たハかなしからず、贔屓の涙をもらひ

泣して、愁る眼中朱をそゝぎ、とくより此事あかし

たく意(こころ)には思ひながら、期年の月日を待たりし

が、明れバ去年の睦月の始、吾仙宮の暇ある日、閻魔

の聴に愁訴して、娑婆のやうすを窺へハ、迅速耳(じんそくじ)

千里眼の両人が申口ハ、又も姦夫の心きざし、主ある

*秀佳 三代目坂東三津五郎

砕きても、叱る事なく重てハ気を付ろといふのミにて

少事をとがむる事なし、実に俳優の大家別に比すべき

ものなし、すぎし卯の冬かりそめの病に伏せしが、予め

全快すまじき事を知、或夜人しづまりたる時、せがれ

秀調を枕辺の呼ていふやう、凡芸術の中、礼・楽

射・御・書・数の六芸ハ一生涯学びたりとも其限り

もない事にて、一芸を極て天下に名を知らるゝ

といふことハ難い事にて、役者風情のいらぬ事な

下チタン二十

れど、各其大意を心へて居て香・茶・俳諧・乱舞

遊芸の鳴物等までハ中々数多の事なれバ、皆

ことごとく稽古して置といふとハ出来ぬものなれど

其中に我好にて一図に徹すれば上達して、妙

所に至らぬといふ事なかるべし、吾歌舞妓役者

のハ外からミる時ハおこがましく、芸道といふ程

の事でもなく、賤しき物の限りにミゆれども、口へ

出していふにもいわれぬ心苦しく六ケ敷家業也

卯の冬: 天保二年

せがれ秀調:四代目坂東三津五郎

御 :馬車を御する

昔ハ素人が役者に成て出世したるものも大分有

しが、今ハ役者の子が役者に成てさへ、中々急に

出世もできず、素人に役者にならふとゝいふたハ

けも少し、併ら大江戸の御見物の有がたさハ、親の

贔屓ハ子をも取立下さるゆへ、根生の贔屓を

ねがふこそ幸なれ、親の名を継強ミにハ悪い所

ハ見のがして、少でも能事があると、何でもかでも

いゝいゝと評判されるを図に乗て、かならずいゝと

下チタン廿一

思べからず、其時ハ親の贔屓と光が残てゐるゆへ

よくも何ともないのを、ただひゐきめに能々と誉る

のなり、自身の意(こころ)もどうか見物がうけたやうだ

と思ハバ猶更謙退辞譲(けんたいじじょう)して芸をみがき、色々

工夫して勤るが勧要なり、其時わるくすると魔

がさして慢心したがるものなり、慎て用心すべし、と

かく今の立者ハ不断の事が利好にて、倹約を専

として、物毎にけちけちするのを能事と思ふ人

あり、世の中一統に倹約して費をいとはば先

第一役者がついへなり、むかし役者のない時分には

芝居もなくて済だものなれど、目出度御世にハ

繁昌の飾となりて、芝居丁(まち)近辺の潤となり

多くの人の営ミとなるゆへに、我々共も大金を

取ていらるゝなり、されバとて物ことをやりばなし

に費をかまわずせい、といふにハあらず、弟子ハ更

なり、常々出はいりする者内外の奉公する男女迄

下チタン廿二

めをかけてやるがよし、今見物も時代につれて、役者共が

不断のことまでも、能聞出して知てゐる時節なれバ

楽屋内の評判がよけれバ、其噂がお客先から見物へ

しれて評判が出るものなり、是自然の隠徳なり、ち

よつとおじぎをしても、五両七両の祝儀をもらふ身な

れバ、清く遣へバ又清く呉るお客も沢山に有ものなり

揃の浴衣なども、只人にやるとおもふハひがごとなり、是

ハ千両役者の引札なり、先々へ評判を頼む種なり

蒔ぬ種ハはへぬといふ喩のとをり、若いうちまきちら

すのハ出世の種おろしと思ふべし、近頃ハ芝居ニ金主と

いふ者なく、家業のため大勢を扶助のためのつひき

ならず、金を借出し芝居興行するゆへ、段々に大借が

出来て其身の気ばかりが大くなりて、一替りの給金

丸払を取てもまだるくおぼへ、実印を押て金を

かり込て一統の座払ひをするゆへ、仲間の者の身

上をおせるだけハおして根ぎるから、其外の下分の

下チタン廿三

者ハ思ふまゝに込て、金主の様な心持に成て一芝居で

千両以上の金をまふける気になりたがるなり、中役

者中女形をはじめ、狂言方・はやし・稲荷町とても皆

妻子けんぞくを養ふための家業なるに、何のあいつ

らがなどゝ物数にせぬゆへ、蔭でハ屎乞児(くそかたい)のやうに

いわるゝなり、是禍ハ下からと楽屋からそしら

れる事多し、近きたとへに殿さまが自身に鑓挟

箱を持てハあるかれぬなり、鑓持箱持其外大勢の

侍・中間が供をしてあるくから、威光も有てひとが

恐るやうなものなり、立者ばかり有ても中役者が

なけれバ狂言もできぬ道理なり、下手なものが有

ゆへに上手も格別に顕るゝなり、かりそめの事とても

軽々敷せぬがよし、一寸表をあるくとも遣ふ男、留

場の者ハいうに及バず、弟子を連て行べし、是体に

貫目の有やうにミする手だてなり、されバとて意を

ばおもて立ものぶりをすべからず、稲荷町下男

下チタン廿四

とても丁寧にしておけバ、側からうやまつてけいそつに

ハせぬ物なり、心にいかほどの才智あるとも、顔へ利発を

出さぬやうにするならバ、出世のできるハまたゝく内、この

事かまへてワするゝな、まだもはなしハ沢山あれど、夜

も更たれバ翌日の夜、とかたり残して伏たりける

作者曰前編の丁数かぎりあれバ半を分て梓行(しこう)

せり、後編の発兌(はつだ)近きにあり、ともに合して

見たまふべし

出典: 個人