安政大地震

安政大地震

安政の大地震と呼ばれる1855年に起きた関東南部の地震は江戸を直撃した。 現在の基準ではM6.9と推定され、関東大震災M7.9や阪神・淡路M7.3に比べると決して大きくはないが、直下型であり人口密集地であった為、大きな被害があった事が伝えられている。

この文書は江戸の町人の記録で、地震を自ら体験して翌日自分の足で各地の被害状況を見て回って記録している。 各町内の様子は地盤の強い所と弱い所(埋め立て地)で家屋破損の差が大きく出ている。 叉当日火も出たが幸いに風がなく、大きく広がらなかった事が記されている。

安政二年十月二日夜地震

天災の免かれ難きことハ堯舜の御世に九年の

洪水あり、湯の時に七年の大旱ありと云へば、非

常の天災は聖朝の御世とても遁れ難きこと

知りぬべし、されバ方今万民太平の

御世の御恩沢に浴し、往古より種々の天災あり

て厄を蒙り、非命に没したる事なり聞といへ共

只ものヽ本、年代記のうへ、或は老翁の茶話とのミ

おもひ居たるを、近年畿内より東海道・相模辺迄

地震津波の災危ありて、人民多く死亡せるよし

成れども大江戸近くには其憂患なく、諸人快楽

安逸に恒の産を守りて、是はた余処の事との *ナリワイ

ミ聞過し居なりしに、今年安政二年十月二日夜


亥時大地震ありて、大江戸近国四方廿里ばかり

ハ皆此災にかゝれり、そが中にもとりわき大江戸中

を以て太酷といはんニ、抑其地震の発するや、地*ハナハダ

底に大砲の音の如き響ありて、惣地上激浪のう *オオナミ

つ如く震動き、地裂天墜るかと驚かれ、見る見る百

万の人家・倉庫・神社・仏寺傾覆し、是が為に打

殺されしもの幾ばくといふ数をしらず、或は梁

におされ、或はくじけし柱にはさまれ、又瓦屋根

二階の下に敷かれ、土蔵の壁に埋もれなどしたる

男女老少泣さけび、助けくれよ、起して給ハれと

よばわる声ものすごきに、火また四方より炎々

と燃出、焔天をこがすといへども人々畏れあハてたる

おりからなれバ心神混乱に酔るが如くにて、防ぎ

消さんとする念なし、火は四方遠近はかりがたし

といへども、三十余所計に見え、何れの方より風吹来る

とも市中残る方なく焼けなんこと必せりとミゆさ

まを、其夜幸ひに風常よりも静にして火勢弱く

火さき遠きに及ばざれハ、火消人足なども甚すく

なかりしか、暁ちかくなる頃ことごとく消しおふせ

たり、是しかしながら災の中の幸ひにして、此夜

風なきハ産土の神々の守り給へるなるべし、と諸

人いゝあへり、扨夜明けて後遠近のありさまを聞

に其噂とりとりにて虚実とりまじへて証としがたき

事のミおほかれバ、おのれ四方の知己を訪らふつ

いで、その所々のさまを見るに随ひ、是を図し聞にした

がひ、是を記し後生の児輩に此災死を知らす、枕を

高く安らかに眠れる 御世のかたじけなきを

しらしめんとて、一ツの冊子につゝりおきぬ、同じ

大江戸のうちにも其災危に軽重あることなと

よみもや知り給へと書

日本橋より南方中橋迄表側破損少し、同所西方両河

岸より呉服端・数奇屋丁・檜物長・上槙丁・南槙丁・桶丁

辺破損、同東方四日市・平松丁・小松丁・箔屋丁・福島

丁・新肴場埋立地・大鋸丁・松川丁・本材木丁六丁め

迄の中、家蔵共大破損、崩家潰家多し


南鍛冶丁・狩野屋敷・五郎兵衛丁・北紺屋丁・畳丁、大根河

岸・常盤丁・太田屋敷・具足丁・炭丁・因幡丁・柳丁・材木丁

八丁目河岸迄焼る、右之町々土蔵一ヶ所も残少なし

海賊橋・坂本丁・牧野様上屋敷北東方破損、九鬼様上

屋敷表側所々大破損也、細川様中屋敷破損、神田代地

崩家あり、越中様上屋敷大破損、河岸の土蔵五ヶ所

潰れ、松屋丁・高輪新規代地破損、崩家なし、本八丁堀

通五丁目迄破損、河岸通物置所・石垣等破損、金六

丁より日比谷丁の間大破損、崩家潰家あり、亀島丁・八

丁堀御組屋敷破損崩家あり、同年十二月八日夜水谷丁

より出火、同南方水谷丁四丁目、上地丁・竹橋丁弐丁・与作屋

敷、地蔵橋辺迄焼、此辺野原の如し、 北方茅場町

業師堂破損、山王社灯龍倒、石鳥居其外大破損

同所浦茅場丁大破損、半丁余潰家あり、同所河岸通

酒蔵大破損

霊巌島川口丁・霊巌島丁・長崎丁・白銀丁大破損潰家

湊丁・越前様大破損、同所越前堀潰家あり

深川ハ他ニ勝れて武家・町家共ニ崩潰多く、安体なる

は一軒もなし、諸人とも生たる心地もなかりし

公の御救より志有人の助力して、困民を救ハれしかバ

目障の体も改玉の春を迎、門松の色深く仮宅の賑

より限なき憂さへ得し、容ハ実移変人心もいやま

し勇ましく、是普く大君の御慈愛より起る所なれ

バ、唯々 御国恩を忘ざる様に心掛べし

出典:安政雑記