橋づくし:江戸から見る富士山
大正3年に出版された『東京史跡案内地図』から引用した旧東海道の市電案内図。「日本橋」から「八ツ山」まで旧東海道を市電が走っていた。電停名はよく変わったが、この地図では「中橋」「京橋」「宇田川橋」「金杉橋」「芝橋」などなど、橋または橋跡が電停の名前に選ばれている。また、電停の名称ではないが、停車場名「新橋」も、かつて実在した橋の名前である。https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000009-00054035(巻末地図の一部分を使用)(東京都立中央図書館Tokyoアーカイブより)
日本橋から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
江戸時代の江戸の町には高い建物はほとんどなく、川にかかった橋からは西の方遠くまで見渡せたと思われます。橋のあった場所を選んで、江戸から、東海道からの富士山の眺めを想像してみましょう。
江戸から見る富士山は、北東方向から見る富士山になります。この方角からでは、剣ヶ峰の尖った頂が目立たず、比較的平らな山頂となります。いまの日本人の多くが想像する富士山の形に近い好景といってよいのですが、五合目辺りから下が丹沢山系に隠されるのが残念なところです。
日本橋からの富士山の風景について
現在の日本橋は首都高速が覆いかぶさり、周囲の展望がほとんど失われています。しかし、過去には日本橋から富士山の方向を見渡すことができました。
文化二年刊の『東海道道記』には「日本橋・長さ四十三間、右に御城富士山見ゆる」と記されています。
図は、日本橋から富士山方向の山岳展望をシミュレーションしたCGです。
富士山の手前の丹沢山系の山々は、やや尖った山容の蛭ヶ岳が富士山の中央やや左側に見えています。蛭ヶ岳の左手には不動ノ峯、地味な山容の主峰・丹沢山、竜ヶ馬場、さらに(図では示していない)塔ノ岳といった丹沢山に連なる高い尾根が続き、一方、右手は丹沢山系の山並みが少し低くなって袖平山あたりが少し高く見えています。
丹沢山系の富士山の隠し方から考えると、日本橋の南側よりも日本橋の北側、つまり旧東海道沿いより旧中山道沿いの方が富士山がスッキリ見えることになります。このページでは主に東海道沿いの富士山の眺望を紹介しますが、ページの最下部におまけで、旧中山道沿いの橋から富士山を眺めたシミュレーションCGも掲載しました。中山道沿いでは、日本橋から北にわずかに進んだ駿河町からの富士山の眺めが特に有名です。
さらに、江戸城(現在の皇居東苑)と富士山を同時に眺める光景も、当時の名物として知られていました。江戸城は画面の右側に位置するため、駿河町よりさらに北側から見ると、富士山と江戸城がほぼ同じ方向に並ぶ構図が楽しめたと考えられます(江戸城天守は17世紀なかばには消失していますから、家康が考えたと思われる都市設計戦略と、実際に多くの江戸時代の人たちが眺めた江戸城の櫓を眺めた風景とは、区別して考える必要があります)。
江戸の象徴としての富士山
このように、日本橋やその周辺からの富士山の眺望は、地形や方角による影響を受けながら変化する江戸の風景の象徴の一つとなっていました。
広重『名所江戸百景』安政3年
日本橋由来記
日本橋のたもとに現在もある「日本橋由来記」。
『富嶽遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ』と記されていて、かつて日本橋から富士山が見えたことが記録されています。
二代目広重『東海道五拾三駅「日本橋」』部分
この浮世絵では、丹沢の位置と山並が少しアレンジされています(日本橋よりかなり北、本郷あたりからの眺めに近い?)。
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照 秋好善太郎 編 東光園(大正7年4月)
国会図書館デジタルコレクションより https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12395147/1/18
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照 秋好善太郎 編 東光園(大正7年4月)
国会図書館デジタルコレクションより https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12395147/1/19
大正7年頃の日本橋 同じく大正七年頃の写真だが、上記東光園写真とは逆方向で南から北に向かって撮影している。市電のほかに、自動車が一台だけ見える。人力車が健在。(『東海道変遷史』(建設省道路局)より)
昭和34年頃の日本橋 大正七年の写真にもみえる路面電車軌道とレンガ造りの建物(辰野金吾設計の帝国製麻ビル)がみえる。首都高速都心環状線はまだ開通しておらず、橋の中央に高い「東京市道路元標」がみえる。興亜火災海上ビルは現在の三越新館。(『東海道変遷史』(建設省道路局)より)
日本橋三丁目交差点から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
現在の東京駅八重洲口の正面、日本橋三丁目交差点が旧中橋跡です。昭和4年まで市電の中橋(中橋広小路)停留所が存在しました。
中橋は江戸時代初期には埋め立てられてしまった小川に架かっていた橋の名ですが、江戸最初の演劇場が開かれる(江戸歌舞伎発祥の地)など、中橋広小路とよばれた中橋付近は江戸時代から賑わいの中心地だったようです。“擬宝珠から擬宝珠まで”といわれた、日本橋と京橋の間に家を持つことが、江戸商家・庶民の憧れだったとか。その中心が中橋でした。
日本橋から400 mと僅かな距離ですが、蛭ヶ岳をよく見ると富士山剣ヶ峰の真下方向に少し移動しています。富士山と丹沢の関係は東京都内でダイナミックに変わっていきます。(このページのCGは、すべて富士山が中央になるように方角と高さを調整しています)
江戸名所図会、中橋、国立国会図書館デジタルライブラリー〔部分)
京橋交差点から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
日本橋から700mほど南へ進みました。京橋からだと、蛭ヶ岳が富士山頂の ほぼ真下にみえています。
京橋は、日本橋とともに「擬宝珠(ぎぼし)」がつけられた由緒正しい橋でした。京橋もまた、現在は埋め立てられていますが、地名として残っています。
銀座八丁目交差点付近首都高速ガード下から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
『江戸名所図会』巻一 新橋・汐留橋
芝口橋は通称新橋、「芝口橋と申す筈」という幕府の御触書まで出ましたが、結局、新橋の名前が使われ続けたようです。銀座八丁目交差点横の首都高速下にあたります。現在はバスを待ち合わせている外国人がよく集まっています。
『御触書寛保集成』二四六六 寛永七寅年九月「一 芝口御門ニ付候橋は、芝口橋と申筈ニ候」
現在の新橋駅前付近に源助橋があった。
『東海道道記』には(源助橋は)「源助丁にあり、昔は川広く水上を桜川と云う」と記されています。
浜松町一丁目交差点から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
小さな川があり、この橋の位置で東海道は少し屈曲しました。今の国道1号線も屈曲しています。現在の浜松町一丁目交差点に相当します。
東京タワーからの富士山(2022/12/16撮影)
丹沢との関係は、ほぼ江戸時代の宇田川橋からの景色に近い
金杉橋から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
金杉橋は、渋谷川(古川)にかかる橋です。日本橋とともに、現存する橋ですが、日本橋と同様、いまは首都高速の下になっていて、現在の眺望は寂しい限りです。
『東海道道記』には、「金杉橋、長さ十二間」と記されています。金杉橋があった金杉町については「金杉町四丁あり、左は海手にて浜御殿につゞく」と記されています。
芝四丁目交差点から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
現在の芝四丁目交差点。
旧東海道を下ると芝橋で道が右に曲がって正面に富士山を見据えます(現代の言葉だと、道がまっすぐに富士山に向かう『山アテ』という状態になります)。芝橋から旧薩摩藩蔵屋敷付近までの僅かな区間ですが、東海道を南に下る、道の真正面に富士山が見えた筈です。
『東海道道記』では「芝橋、長さ四間」と書かれている。本芝については、「本芝四丁あり、この辺の海にて小魚を取る。これを芝肴といふ」とある。落語「芝浜」の情景描写の舞台です。
田町駅西口交差点から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
旧東海道は芝橋から富士山を正面に据える「山アテ」区間になりますが、その一方で、東海道は、まっすぐに高輪台地に向かって近づいていくので、富士山は手前の高輪台地に徐々に隠されていきます。現在の田町駅前付近でシミュレーションすると、CG図の上では一応、富士山が見えてはいます。しかし、高輪台地の上の植生や建物の影響もありますから、この辺りでは、当時といえども富士山が見えなくなっていたでしょう。
江戸名所図会、高輪大木戸、国立国会図書館デジタルライブラリー〔部分)
品川駅前(高輪口)交差点から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
富士山は全く見えません。念のため同じ画角、目標設定で描画してみたのがこちらのCGです。高輪台地によって富士山が完全に隠されています。ただの緑一色の図だが、他のCGと同じ画角で、富士山を同じ位置と高さにしてありますので、富士山が高輪台地で完全に隠されることを示しています。
江戸名所図会、高山稲荷社、国立国会図書館デジタルライブラリー〔部分)
江戸名所図会、石神社、国立国会図書館デジタルライブラリー〔部分)
八ツ山橋東詰から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
旧東海道から江戸を出る際、いくつかの地点が「出口」として考えられます。たとえば、高輪大木戸や鈴ヶ森刑場といった有名な場所が挙げられますが、今回は「墨引き線」(町奉行所の行政区界)を一つの候補としてみます。この場合、場所は品川宿の手前、八ツ山周辺ということになります。
古今亭志ん生の落語「品川心中」の冒頭には、品川宿の入口に「これより東海道」と書かれた棒杭があったという描写があります。この棒杭が立っていた場所こそ(棒杭が志ん生師匠の創作でなければ、ですが)旅人にとって江戸の「出口」として象徴的な地点だったかもしれません。
八ツ山橋は、現在の品川駅高輪口付近から緩やかな上り坂を約10メートル登った場所に位置しています。鉄道が開通する以前は、現在の「八ツ山橋」のような陸橋は存在せず、自然の高まりの地形が広がっていたようです。この地点からは、高輪台地を背景に富士山が顔をのぞかせていた可能性があります。現在でも条件次第では同様の眺めが確認できるのかもしれません。
なお、八ツ山からの富士山の眺めを検討する際、高輪台地の先端である御殿山(旧岩橋邸などがある場所)との位置関係を考慮する必要がありそうです。当時の植生や建物の状況によって見え方は異なるため、当時の富士山の見え方を正確に把握するためには、地形以外にも周囲の環境や建築物の状況を詳細に調べることが求められるが、筆者は今のところそこまでは考えていません。
前置きが長くなりましたが、「江戸の出口で富士山が(一旦見えなくなったあとに劇的に)目に入るようになっていた(可能性がある)」という意見です。このウェブページ全体で『出口における劇的な富士山眺望』の話にしているので他のページも見ていただけるとありがたく思います。
北斎、御殿山〔部分)
広重、御殿山〔部分)
広重の晩年の浮世絵は、黒船来航後に描かれた。この御殿山の図は、砲台を設置するための「お台場」を埋め立てたときに御殿山が削られた後の画。
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照 秋好善太郎 編 東光園(大正7年4月)国会図書館デジタルコレクションより https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12395147/1/21
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照 秋好善太郎 編 東光園(大正7年4月)国会図書館デジタルコレクションより https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12395147/1/20
「新版浮画 御大名御参勤御登り品川之図」 北斎 MUSEUM OF FINE ARTS BOSTON https://collections.mfa.org/objects/237822/procession-of-a-daimyo-passing-shinagawa-on-the-way-to-kyoto?ctx=52174222-82cf-4892-beb5-36e7d6da1109&idx=49
品川橋から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
品川橋から富士山方向(PeakFinderによる実写合成画面)。景色に対する富士山の大きさだけが正確。山並みは実際よりも上にもちあげて表示しており、座標・方向も完璧を期してはいないので参考程度に。
目黒川は江戸時代から現在に至るまで大きく流路を変えました。江戸時代には目黒川が現在とは異なる蛇行をしており、目黒川は南品川宿の鎮守社(江戸末期は「天王社」と呼ばれた、現在の荏原神社)の北側まで大きく湾曲していました。現在では、曲がりくねった川の流路はまっすぐにされましたが、旧東海道と目黒川が交わる品川橋の位置は変わっていませんい。この橋は、北品川(品川北本宿一丁目)と南品川(品川南本宿一丁目)の境界に位置していました。
現在の品川橋からだと、たまたま、目黒川の上流方向が富士山を望む方向になっています(実際には建物と高架橋に遮られて富士山は見えない)。江戸時代当時の品川橋から見える景色が、橋の右手正面に富士山が見えるシミュレーションとは異なっていたはずです。
富士山の手前正面付近に主峰丹沢山が配置されます。地味な山容の丹沢山を「丹沢の主峰」として認識するのは難しい。CGの左端には塔ノ岳が見えてきて、ちょうど蛭ヶ岳と塔ノ岳の間に富士山が見えます。
三越百貨店前に掲示されている東都名所・駿河町之図
(2024/2/14撮影)
三越と三井本館の間の景色のシミュレーション。スマホのソフト Peak Finderの画面。富士山の方向と高さは、完璧を期して合わせてはいないが、建物と植生がなければ、おおよそ こんな感じだったでしょうか。
中山道室町四丁目交差点(今川橋跡)から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
今川橋は現在の室町四丁目交差点にあった橋です。
中山道昌平橋から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
東京スカイツリーからの富士山と丹沢の関係は、昌平橋あたりからの眺望に相当する(2025/1/11撮影)
昌平橋まで来ると、蛭が左側にかなりずれて富士山の眺めがスッキリしてきました。
冒頭に述べたように、日本橋より北に進むと、富士山の手前の丹沢の稜線がちょうど凹んできますす。そのため、江戸北部のほうが富士山の眺めがスッキリする感じになります。昌平橋より北、湯島本郷あたりが丹沢を避けて江戸から富士山を眺めるベストショットといえるでしょう。
中山道板橋から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
板橋は石神井川をわたる橋です。
富士山の左裾に姫次、袖平山、左下やや目立つコブが黍殻山、右裾の近くで目立つ山容が大室山。画面左外(描画していない)には檜洞丸。
国道17号線戸田橋から富士山方向(カシミール3DによるCG描画)
「「木曽六十九駅 板橋 戸田川 網干左母次郎」 三代目嵐吉三郎」歌川国貞(3世豊国)(1852)、Museum Fine Arts Boston
国道17号線 戸田橋からのシミュレーションと写真。
富士山の手前中央やや左が大室山、右裾にかぶるのが御正体山。
戸田橋からの富士山(2025年2月9日撮影)
2023/4/26-2025/6/3 眞田則明
カシミール3D、”山旅地図”によるCG描画。地上約2m、300mmレンズ、富士山剣ヶ峰直下標高1000mを画像の(左右、上下の)中心目標に設定、”残雪の山々”風景設定
『江戸切絵図 築地八町堀日本橋南絵図』景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編、尾張屋清七、嘉永2-文久2(1849-1862)、国立国会図書館デジタルコレクション
『江戸切絵図 芝愛宕下絵図』景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編、尾張屋清七、嘉永2-文久2(1849-1862)、国立国会図書館デジタルコレクション
『江戸切絵図 芝高輪辺絵図』景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編、尾張屋清七、嘉永2-文久2(1849-1862)、国立国会図書館デジタルコレクション
『江戸名所図会』国立国会図書館デジタルライブラリー
『東京史蹟写真帖』戸川安宅(編)、画報社(1914年2月再版)、東京都立中央図書館Tokyoアーカイブ
『東京そのむかし』宮尾しげを編、アソカ書房(1956年10月増補版)
『日本地理大系 別巻 富士山』改造社(1931年9月初板)
「市民グラフヨコハマ」101号、1997年9月
『東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照』秋好善太郎 編、東光園(1918年4月)、国立国会図書館デジタルライブラリー
『東海道変遷史』建設省道路局、交通毎日新聞社(1959年12月)
「品川心中」古今亭志ん生(五代目)『古今亭志ん生落語集第三』所収、VAP(1957, 2013)
『御触書寛保集成』、国立国会図書館デジタルライブラリー
『五街道細見』岸井良衛、青蛙房(1959年2月)
「お江戸日本橋の地形地質図」井関弘太郎、『地図情報』11, p.25(1991)
「19世紀江戸のランドマーク体験に関する研究」齊藤潮、八島久子『日本都市計画学会研究論文集、307(1987)
『ふるさと東京』池田弥三郎、東峰出版(1963)