大和高田白拍子伝承塾の歴史
●2007年度 TMOにおいて白拍子養成講座が村山左近氏の指導により開始
●2008年4月 TMOから白拍子伝承塾として夢咲塾が引き継ぎ
●2024年4月 「夢咲塾白拍子伝承塾」から花柳楽彩氏の「白拍子究む会」に引継ぎ
2024年4月7日 長年お世話になった白拍子の関係者へのお礼を兼ねて引継ぎを行いました。これにより、夢咲塾は白拍子伝承塾事業を花柳楽彩氏に引継ぎ、2004年度から実施している静プロジェクト事業により、静御前の郷、大和高田を継続してアピールさせていただきます。
■開催日時 2024年3月10日(日)開場13:00~
■開催場所 さざんかホール3階レセプションホール
(大和高田市本郷町6-36)
■白拍子伝承塾成果発表会(文化庁助成対象外事業)
出演 塾生の皆様
時間 13:30~14:00
■講演会と座談会
テーマ Re:現在進行形としての無形文化遺産
-静御前伝承をN次創作する—
時間 14:10~16:40(途中休憩有)
講師 橋本裕之先生(坐摩神社権禰宜・國學院大學客員教授)
座談会 同上講師、花柳楽彩先生、他進行夢咲塾
■参加費無料 定員100人
(事前申し込み不要、お誘い合わせの上ご参加ください)
■問合せ 夢咲塾
☎090-9114-6969(上嶋)FAX 0745-24-2262
時は、平安時代にさかのぼりますが、大和高田市磯野は、静御前の生母、磁野前師の出身地であり、源義経と別れたあと、静御前が余生を送った地と伝承されています。この静御前は、幼くして都にのぼり、舞を極めました。たいそう器量がよく、舞が上手であり、自の水干に帯刀、立鳥帽子という男性装東で舞う、当時一世を風靡した自拍子の一人として名を知られるまでになった、ということです。このころ、源頼朝は平家追討のため、兵を挙げ、源義経を都にのぼらせました。そこで静御前と出会い、二人は結ばれることとなります。が、義経と頼朝の不和のため、義経は静御前とともに吉野へ逃れる途中に、この大和高田にも立ち寄つたということです。
「静御前とその母、磯野前師(磯野禅尼)ゆかりの大和高国市伝承地」
1)「衣掛の松」句碑:静御前が衣を掛けたという松を偲ぶ、森田湖月の句碑
2) 静御前記念碑:大中公園内にあります。堀江彦二郎先生撰文、米国玉泉先生揮豪。
3) 静御前の塚跡:磯野村に現存する古地図に記された塚の跡地
4) 静御前終焉の地:義経との別離後、静御前が病を癒したとされる地
5) 義経(弁慶)の七)妬:義経や弁慶ら一行が腰掛けたといわれる七つの石
6) 石園坐多久轟玉神社(龍王宮)静御前ゆかりの神社.
2020/12/13 第14回 龍王宮 白拍子奉納舞 YouTube https://www.youtube.com/watch?v=2Qdyn75sFwE
静御前の絵馬も奉納されています。
2019/1/26 奈良ちとせ祝ぐ寿ぐまつり平城宮跡朱雀門 白拍子舞 YouTube https://youtu.be/L9_Ivp76LwE
大和高田と静御前伝承の時代背景
1071年 〇興福寺雑役免帳に平田荘の記載
平安後期から興福寺荘園の平田荘は、高田・布施・万歳・岡などの荘官によって支配
1112年 〇東大寺文書(葛下郡土地譲渡記録)
対馬守:万歳氏の記載(平安期の中流官人)、治部小輔友直が万歳を称している
1180年 〇平清盛は平重衡を南都に向かわせ、東大寺・興福寺を焼き、仏敵となる
1184年 〇一の谷の合戦に万歳氏が源氏義経軍に加わり、頼朝より葛下郡に領地(万歳郷)を与えられ
「万々歳相違あるべからず」と賞せられた。(大和高田市史)
〇義経は、後白河法皇による恩賞の官位を断り、静御前(17歳)側室を拝受(吉村芳俱氏談・義経記)
1185年 〇屋島の戦い、壇ノ浦の戦い(義経が源氏大将)、平家滅亡
〇義経は壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送するが鎌倉に入れず京に帰る
〇頼朝が義経追討の指示
〇義経は尼崎から船団を組んで九州落を試みるが暴風のため失敗、天王寺を経て吉野に向かう
途中一行は、大和高田大中の春日神社で休憩:弁慶(義経)の七ツ石民話
〇吉野山吉水神社で義経と静御前は身を隠していたが追討を逃れるため別れて逃避行
〇静御前、金峯山寺の僧兵に捕らえられ勝手神社で白拍子を舞う
1186年 〇静御前、母の磯禅師と共に鎌倉に送られる
〇静御前、鶴岡八幡宮で頼朝、政子の前で白拍子を舞う
〇静御前、義経の子(男子)を出産
〇静御前と磯禅師は、帰郷を許される
〇磯禅師の郷、大和高田に帰郷、磯野村古図(1751)と伝承が残る(塚跡、衣掛の松、笠上の杜跡)
1189年 〇義経は奥州藤原氏の下で没
1192年 〇源頼朝が征夷大将軍に就任
1195年 〇頼朝は、東大寺再建に尽力、落慶供養に数万の兵を率いて参列