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ルィセンコ主義はなぜ出現したか <br>―生物学の弁証法化の成果と挫折―
19世紀以降の科学の発展する過程とともに、誤った学説が国家権力と結びつき、国家権力が学界や国民に対するテロルや混乱を巻き起こした事例を歴史上にみることができる。進化生物学に関連する誤った学説がテロルや社会的混乱を引き起こした例として知られているのが、そして本レポートで取り上げるルイセンコ学説である。ルイセンコ学説は、ソビエト連邦の生物学者であるトロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコ(Трофим Денисович Лысенко)の遺伝学説であり、獲得形質の遺伝を唱えてソビエト連邦の国家権力と強く結びつき、異議を唱える遺伝学者の迫害や、誤った農業政策の決定に深く関与し、ソ連の遺伝学の混乱・衰退と農業生産の低下を引き起こした。ルイセンコ学説は「ヤロビ農法」やミーチン哲学と共に世界各国へ輸出され、20世紀には特に日本や英国で論争の的となった。本書『ルイセンコ主義はなぜ出現したのか―生物学の弁証法化の成果と挫折』では、こうしたルイセンコ主義が当時のソ連の遺伝学会でなぜ誕生し、なぜ支持されるに至ったのか検証する。後述するが、ルイセンコ主義のような学説・主義の誕生と国家権力との結びつきは当時のソ連に限定されるものではなく、どの国でも生まれうるものであり、こうした検証は将来第二、第三のルイセンコを生まないために必要な考察の糧になるだろう。
ルイセンコの進化学説は、春化処理(バーナリゼーション、またはヤロビザーツィア)発育段階論に始まり、外的環境条件によって生じた形質変化が次世代にも遺伝するという、進化生物学的に誤った学説である。ではルイセンコ学説は、当時のソ連の生物学が未熟であったが故に誕生し支持を集めたのだろうか。本書は、ロシア帝国からソ連の時代にかけて発展した遺伝学と遺伝学論争についての記述から始まる。確かに、ハーシーとチェイスの実験によってDNAが遺伝子の正体であることを突き止めたのは1944年であり、ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を発見したのは1953年である。しかし、遺伝子の正体がDNAであることが分からなくとも、染色体は発見されていたし、1930年代には既に集団遺伝学の理論的な基礎が完成されていた。また、1920年代のソビエト連邦には優れた遺伝学者が多くいたのも事実である。種分化の生殖隔離機構をエピスタシスによって示した「ドブジャンスキー・マラーモデル」など、現代の生物学でも重要な学説を提唱したドブジャンスキーやマラーも、ルイセンコの台頭以前に国外に出て行ったがソ連出身の遺伝学者である。現代の進化理論の基礎である、遺伝学とダーウィンの自然選択説を結び付けた「進化の総合説(新ダーウィン主義)」は1920年代のソ連遺伝学派がその先駆けであったし、ルイセンコ学説がソ連内で支持されていた時期と同時期に誕生している。進化の総合説では、自然選択により生存に有利な遺伝的変異をもつ個体が次世代により多くの子孫を残し遺伝子頻度が変化する(現在では、これに木村資生の中立説などの要素が加わることで、生物一般の進化という現象が説明できるとされる)。このように、当時の生物学に未発達な部分はあったものの、集団遺伝学や進化生物学の基礎がソ連含む遺伝学者の間で出来上がりつつあった時期でもあり、ルイセンコ学説は当時の生物学が未熟であったがゆえに起こった学説であるという見解は偽科学の正体を矮小化してしまう。
ルイセンコの学説がソ連で支配的になった「ルイセンコ事件」の悲劇は、ルイセンコと国家権力との結びつきと、遺伝学者への弾圧・粛清であろう。本書には、ルイセンコが当時のソ連の社会的状況を巧みに利用し、ソ連の農業生物学の権威となった過程が詳細に記されている。1928年から1932年にかけての急進主義的なソ連「文化革命」は、旧ロシア帝国時代からの科学者・専門家である「ブルジョワ専門家」を追放し、ソビエト建国以降に短期間で育成された「プロレタリア専門家」「マルクス主義自然科学者」に急速に置き換えるとともに、科学者や哲学者に当の現行の政策への従属と直接貢献「科学におけるボリシェヴィキ的党派性の確立」を要求した。この、哲学論争においてミーチン派の指導部から厚遇される状況は、デボーリン派を支持した遺伝学者を苦境に陥れた。農民出身であるルイセンコの「裸足の教授」というイメージは「文化革命」期のソ連では専門家の理想像であったし、遺伝学者がショウジョウバエを対象に研究を行ったのに対し、ルイセンコらは農作物を対象としており非専門家には実用性を印象付けた。一度は遺伝学者との論争に敗れたルイセンコ派であったが、こうした条件と、大粛清で混乱していた社会状況に乗じてソ連生物学界に台頭し、敵対する学者を「人民の敵」「トロツキスト」「外国のスパイ」と罵り逮捕させた。ルイセンコ派の台頭は、その後のソ連の生物学に大きな遅れをもたらしたことは想像に難くない。
ではなぜルイセンコ学説はソ連で力を持つことができたのか。スターリンがソ連の最高指導者として君臨していた時代、農業集団化など反農民的政策とそれによる収量減、五か年計画による無理な工業化が推進されていた。また、1930年代になると日本(満州国)とナチスドイツというファシスト勢力がソ連を挟み撃ちする形で台頭した。こうした時代背景の下でのスターリン主義と先述のミーチン哲学のもと、すぐに成果を生み出すものを真の科学とする風潮が生まれたと本書は指摘する。結果として、ルイセンコ学説のような、成果が出ているように見える偽科学を指導部が支持・推奨するようになったのである。ルイセンコ派と遺伝学者の論争には、大粛清による社会的混乱や、哲学・政治イデオロギー論争としての、当時のソ連に独特な側面はあるものの、科学の「実学主義」的な側面は現代の資本主義国においてもみられる傾向である。近年の日本の科学政策は、国立大学の改革や「選択と集中」方針に見られるように、短期的に利潤が得られる分野への投資に集中し、基礎研究を蔑ろにした実学主義に依る政策決定がなされているように見えてならない。本書の指摘するように、実用主義がルイセンコ主義のような偽科学の台頭や科学の停滞を許したとすれば、ルイセンコ事件をかつての共産主義国に特有の現象として捉えず、日本のような現代の資本主義国における科学政策の在り方も議論しなければならないだろう。