性別について、身体的な存在と概念的な存在。
現代社会では、性別を身体そのもので語ることは少なく、むしろ社会的な役割として語られることが多い。 性別は生物学的な概念から、社会的状況、慣習、文化的背景、宗教、政治などを含む複雑な社会的概念へと発展してきた。性別は、結婚、性交渉、親族の役割、職業など、異なる文化において異なる行動規範を持つ。 私たちが生活の中で行う行動や判断は、暗黙のうちにこれらの規範に影響されている。
例えば、私の出身である中国の伝統的な身体観では、人前で身体を論じることは恥ずべきことであり、悪いことだとされている。 身体は恥というイメージがあるため、中国では子ども向けの性教育の本が出版されず、性教育が義務化されていない。 子供を持つ親の中には、子供に性について教えることは恥ずべきことであり、社会的なモラルに反すると感じる人も多く、伝統的な性意識と社会環境の影響により、親自身が理解し、客観的に判断することができない、 親が見落としているのは、科学的な性教育が子どもたちに自分の体を理解させるということである。 身体のプロセスを理解する自分の体を守る方法、自分の権利を知る方法、思春期の体の変化に対応する方法、学校生活中で体の発育の速さによるいじめを避けるなどを子どもたちに教える。 性別と人の関係を客観的に見る方法、性別平等の意識を醸成する方法などが含まれている。
伝統的な性観念と性教育が二分されるのは、両者の間に根本的な違いがあるからである。 ひとつは、長い年月をかけて蓄積された文化や社会習慣に基づく集団概念である。 もうひとつは、知識として存在する人体の生理を中心に、科学的な視点で客観的に解釈することです。 しかし、身体に関する伝統的な考え方の影響を受けてきた親が性教育を受け入れるのは難しく、考えを変えるには時間とチャンネルが必要なのは理解できる。
アートは性教育の新しい可能性である、視点を変えるもの
変わることは簡単ではないことを理解しつつ、変わることは可能であると信じている。
アートの持つ自由さ、創造性、面白さは、論文や研究書よりも身体に関する固定観念を変える可能性が高いと思う。
アートと身体教育について、私は今年茨城で滞在製作時「乳の街」という作品をつくった。このインスタレーション作品は、乳の形をした数百個「小さな建物」で構成されたミニチュア都市である。 乳の「建物」の表面にかわいい紋様を描いている。 この街には主要交通道路が整備されており、電車「小宝」線が定期的に走っている。 明るい色と街の躍動感で、身体の固定観念から離れて、新しい視点で私たちの身体を認識する。
インスタレーションは固定されておらず、大人も子どもも自由に作品に触れ、「建物」を組み立て、自分が好きな街を作れる。子どものおもちゃのような空間に、オープンな環境の中に遊ぶことで、いろいろな身体意識から抜けて、人と身体の距離を近くなる、同時に、都市化された乳房建物群を表現して、身体は日常的な存在である、都市と同じように、存在しているは身体全ての意味だ。 私たちが身体に与えているさまざまな意識は、そのほとんどが自分の身体を客観的に知ることを妨げていると思う。 特に、子どもの性教育について、 性の危険性、身体の羞恥心などの意識は、社会が子どもへの性教育を避ける原因となり、子どもの科学的な性教育を受ける権利も損なわれる可能性がある。
作品を通して、人々がまだ身体や性について話すことにプレッシャーを感じている環境の中で、身体に新しい視点を提供し、アートが身体を認識するもう一つの優しい方法となることを望んでいる。
この作品は、日本の田舎の市民会館で初めて展示された.驚いたことに、多くのおじいちゃん、おばあちゃんから、「身体ってこんなに面白いんだ」と気に入ってもらえた。 そのため、身体からアートへ、最後にアートから身体へも戻れると信じる。
日本の性文化に欠けている視点、性文化の芸術的表現
日本に来て、日本のいろいろな性文化産業ぶりに驚いた。日本のアダルト文化はどこにでもあり、公開的かつ合法的である。2019年以前は、日本のコンビニエンスストアで誰でも簡単に、成人向けの本を手に取ることができた。しかし、これらのアダルトグッズの中で、女性消費者やLGBTを消費者としているものは多くない。 日本の女性にアダルトグッズについてどう感じているかアンケートを取った時、ほとんどの人が「嫌だけど、慣れた」という答えであった。
日本では性教育の普及が遅れている.一方で女性は比較的保守的な性意識で育ち、自分の体を恥じ、自分と似た裸身が商品として売られることに日常的に対処しなければならない。 このような性文化では、女性の欲望や個人的な感情は無視され、結果として女性にとって厄介な社会状況になっている。 私は性文化に反対しているわけではなく、より人道的で合理的な方法で存在してほしいと思っている。
このような性文化を再びの思考するにあたり、私は、このような日常的な性文化が、しばしば突然、予期せず、非友好的で断片的に女性の世界に入ってくることを示したいので、「十八禁侵入」と名付けたインスタレーションでアート空間に織り込まれた形で再現することにしたのである。
消費はしていないけど、店頭に並んでいるアダルト本、広告、ゲーム、写真、レコードなどは、日常生活の中で、欠片のように突き刺さってくる。その瞬間、裸になって、挑発的になって、たくさんの人に見られている、自分に似た身体に、彼女たちはどのような気持ちで立ち向かったのだろうか。
私は帯状に切ったアダルト漫画を2㎝×2㎝のブロック状になるように編みあげて、420㎝×360㎝の紙の壁というアート作品を作り上げた。女性の日常生活の中で幾度となく無視される気持ちのリアルな存在と、そのボリュームの具体化を表現している。アダルト漫画が日常から切り離され芸術作品として展示されたとき、人々の目にはどのように映るだろうか。
このアダルト文化であるこの日常が、インスタレーションという形でアート空間に表現されると、その不協和音の中で、存在を別の角度から見つめ直すことになる。
アートは問いを投げかけ、その答えの空白を鑑賞者に委ねるものだ
ジェンダーをアートで表現することは、素材の多様性、形式の自由性、視点の柔軟性などの特徴を活かし、ジェンダーというデリケートな話題を検討するのに柔らかい可能性を提供できると思っている。アートの表現は具体的なものではなく、問題の解決方法ではなく、その価値は "問題提起 "と”人の可能性スペース”である.問題を発見すると同時に、その問題の重要性、言い換えれば問題の価値を提示する。
アートを通して、人々の日常で軽視される存在を細部まで多面的な視点から形にする。日常生活が芸術表現の素材となる際に、従来の形と変わった存在となり、違和感が感じられる。この違和感こそが、人々の内省を促すのである。特にジェンダーに対して保守的な地域において、芸術はコミュニケーションのルートとして位置付けるべきだと考えている。人々は芸術空間にいながら、第三者の立場から現実に基づいた想像力を加えてジェンダーと個々の人生との関係性について見直すことができるのである。
芸術表現を通じて、ジェンダー問題に対する異なる視点が開かれ、対話の可能性が生まれる。
性别の問題に直面すると、ほとんどが性别に焦点を当て、人に関する話題であることは無視される。 しかし実際には性別よりも人として存在が第一であるべきだ。 その人が何に出会い、何を必要としているのか、それをまず見るべきだ。
例えば『ひとり親世帯の家で生活する1か月間』作品では、片親の家庭に入り、1ヶ月間一緒に生活し、その日々を写真や日記で記録し、自分の心身の感情も含めて表現している。 「乳の街」では、子どもの視点から身体を見つめ、色や形、遊び心のある想像力を通して、性教育の可能性を考えている。 パフォーマンス映像作品「坐立難安」では、現代社会における身体と身体意識の分離を表現、力の相互作用という物理的原理と社会が身体に押し付ける様々なイデオロギーが、最終的に各個人に作用することをパフォーマンス作品として表現している。
作品のさまざまな発表形態を通じて、鑑賞者はさまざまな視点から存在する問題を見ることになって、芸術表現を通じて、人々がアート空間の雰囲気の中で、作品を見、考え、自分との対話の基盤を確立することになるのだと思う。 見る人と自分との対話、作品との対話、さらには自分自身と周囲の人への思いとの対話。 導かれるように、アートの力を発揮する。
ジェンダーは人と人との関係であり、人が対話を始めることが問題解決の第一歩である。
YOUYOU
校正:moche
2022.05.27