永遠の落下
小林坩堝『落下の夢 vergissmeinnicht』を読む
永遠の落下
小林坩堝『落下の夢 vergissmeinnicht』を読む
小林坩堝『落下の夢 vergissmeinnicht』思潮社 2025
頌歌と悼歌、その両方が高く深いところで渾然としている。冥く切ないところから「精神」が頌められている。この本を読んだときまず初めにそう感じた。
黒い表紙の真ん中に垂直に一本の線が表題とともに黒く箔押しされている。ブラウザの画面からでは判らないその一本の線の、表紙とは異なる黒の質感と微かな凹みが、まるで、この書物は表紙の中央でふたつに割れてしまうかのような錯覚をもたらす。表題は『vergissmeinnicht』。ワスレナグサ。Vergiss-mein-nicht。その線は抹消線のように花の名を横断する。抹消するものよりも長い抹消線。銀刷りの同題がそこへ十字架状に重複する。二つのvergissmeinnicht。顕在と、抹消された不在、あるいは否定された服喪。なにを忘れないというのか。
おまえはもっと醜く咲くべきだ
いちばん美しく咲くべきだ
ぜんぶ忘れて
花に生れたおまえの復讐をやれ
宙空より悲しい地上でのたうち回れ
「わすれな草」七四頁
地上では生き永らえないがゆえに夢となった精神たちへの、ほめうたであり、いたむうた。この世界で生きられない者は飛ぶより他ない。人に飛翔は荷が重い。飛ぶという重たい行為をするように造られていないわたしたちが飛ぶとき、人はそこに夢を見る。夢が成る。
風船で吊ったゴンドラに乗りアメリカへ飛びだした「風船おじさん」、「おれは百万枚のパンティを降らして死ぬ!」と言う男、官報行旅死亡人欄に見つけた「男一匹の刺青」という記載、ひとり命を絶った詩人の親友……。
戦後詩―現代詩への深い理解と高度な技術のうちに、まぎれもなく一人の人間が、亡き人を称揚し悼んでいる「うた」が聴こえる。しかもおのれのみの感傷にとどまらず、戦後日本の焦土から高度経済成長期とその没落の果てにある現在の頽廃の遺物たちが、そこここに見え隠れして、どうしようもなく消耗した悲哀を添えている。さらには一人の人を弔うために、みずからの実存の底から悲しみの記憶を汲み上げて、複数の死者が顕ちあらわれてくるではないか。
重化学工業地帯、人造マリモ、ヘリウムガス、台風の日に川を見に行く人、行旅死亡人、六価クロム盛土、「夢ふうせん」……この狂った世界に反し、常軌を逸することにより生きる「きちがい」たち。
この詩集は、『でらしね』『小松川叙景』よりも、強く著者の実存が感じられ、懐かしい優しさと怜悧な詩精神が、切ない誠実さのうちに編まれているのを感じ目頭が熱くなるのを禁じ得ない。喪失についての、地に足の着いた考察の達成。
走り書きの感想の最後に、ベンヤミンの「歴史の天使」を思わせるこの詩集へ、もう一つどうしても思い起こさずにはいられないマラルメの「落下の夢」を献じたい。
永遠の朝露が洗う、おのおのの硝子のうちに、
じぶんを映してみると、わたしは天使に見える! 死のう
――藝術であれ、窓硝子こそ、神秘であれ、そうあってくれ――
王冠のようにじぶんの夢を戴いてよみがえりたい、
《美》が花咲きみだれている、わたしの前世、《天【シエール】》で!
けど、ああ! 《現世》が支配者で、そういう強迫観念が、
たしかな隠れ家にいても襲ってきて時におえっとなる、
だから、不浄な吐瀉物の《愚かさ》というもののせいで、
あの青空の前でさえ、思わずわたしは鼻をつまむ。
方法はあるのかな、ねえ、苦渋を知り盡くした《わたし》、
あの怪物に汚されたクリスタルの屋根をぶち破り、
わたしの二本の羽根のない翼で、逃げ出すための?
――たとえ永遠を落ちてゆくはめになったっていいから――。
ステファヌ・マラルメ『窓』結崎剛訳
20250602 ver.1