note:岡部隆志さんとは月光の会でお会いしてからだからもう20年近くお目にかかっていない。しかし懐かしく、その著書は折に触れて読んでいて、菱川善夫・小笠原賢二の系譜に連なる「歌を書かない」短歌評論家として、深く広い視野から歌を照射するその文業を仰していた。このたびは近くへおりてきて、童子のそばで遊ぶ翁のような一文を賜った(傍らには犬もいるようではないか)。本稿掲載にあたって岡部さんに『幸福な王子』について書いて欲しいねと語り合った猪股ときわさんに感謝する。(g)
おもしろがることから遠くなってしまったなあ、と最近思う。おもしろがることを優先して生きてきたわけではないが、おもしろくないことはやらない、というのが私の基本的な生き方だと思っている。むろん、おもしろいとかおもしろくないとか言ってられない選択を迫られたことはたくさんあったが、それでも、選択したからにはおもしろがってみようと、時には必死にふるまってきた。
だが、今、定年を過ぎてとくに仕事もなく、好きなことをしながら生きていい、そういう生活(人はこれを余生と言う)を送りながら、考えてみれば、好きなこと、おもしろいことって無いなあ、と感じるのだ。おもしろがるにはそれなりの生命力が必要だ。仕事をしていたとき生命力はその仕事に費やされ、おもしろがることは主に仕事のストレスを解消する遊びに向けられた。そうやってわたしは社会の歯車になっていたから、おもしろがることは社会を維持する仕組みの一つだったわけだ。が、余生の今は、社会からもう社会の維持とは関係ないから好きに生きていいよどうせもうすぐ死ぬんだし、と言われているようなもの。仕事のない子どもは、おもしろがって生きることが生命力の更新になるから、おもしろがること自体がおもしろいので、なんにでもおもしろがれる。だが、わたしたち老人はおもしろがることは残された生命力の消費にすぎないから、おもしろがって生きるというようにはなかなかなれない。それでもおもしろがって生きている老人たちはいる。彼らは、そうすることが社会とつながれる(役に立つ)という意味をそこに見出しているからだ。遊ぶこともたぶん同じで、遊ぶこと自体が社会とのつながりを断ち切っていないことの確認になっている。だから、老人は一人で遊ばない。他者を巻き込んで遊ぶことで自分たちもひとつの社会を形成していると安心できるのだ。
わたしは、他人と一緒に遊ぶことが苦手である。短大の教員をしていたから、仕事ではよくしゃべったし、飲み会にもよく付き合ったが、それは、わたしがおもしろがれる許容範囲(おもしろがれる程度の仕事上の関係)での付き合いであって、それを契機に他人と遊べるような関係を築くことはなかった。だから、仕事という関係が無くなれば、わたしは一人で余生をおもしろがらなければならないことになった(おっと妻を忘れてはいけない。厳密には妻と二人でだが、妻がわたしといることをおもしろがってくれていると言い切る自信はないし、妻との生活はおもしろいとかおもしろくないということではない)。ただ、わたしには学生運動での活動家仲間がいて、彼らとは今でも深い付き合いがあるので友人のいない孤独な人間でないことは断っておきたい(でも、彼らと遊ぶことはほとんどない)。つまり、わたしは、今、言うなら、社会性のないどちらかと言うと孤独な「ひとり遊び」の余生を送っている。だから、生きることにおもしろがれないのだ(書きながらだんだん憂鬱になってきた)。
さて、結崎剛歌集『幸福な王子』について感想めいた文章を書こうと思いながら、今のわたしの心境をつい書いてしまったのだが、これには理由がある。この歌集の感想を一言で言えば、「ひとり遊び」ということになるからだ。余生をおもしろがろうとしていながらできないでいるわたしの「ひとり遊び」とはかなり違うが、でも、共感できるのは、きっとわたしの「ひとり遊び」と相通じるところがあるからだろうと勝手に思ったからである。とりあえずそうみなしたのだが、むろん、同じだと言うつもりはない。
この歌集は「蕩児」「鏡階段」「青空の函」「幸福な王子」という四つの章からなっている。とりあえずは、この四つの章のそれぞれから気になった歌を取り出してみたい。まずは「蕩児」(傍線は筆者がつけたもの)。
老いはであることを生きたした息した逝きもせず今ここにゐるのよ
命全く瞬くまにてひるがへれかわくゆゑ宙をゆきたる衣
生きてゐると急に死ぬから空曇りつつ手を皿にして傘にしてけよ
死からのち思ひだすこと纔かわづかなかみくづゆ溢れてくるよ
一首目は、言葉遊びと言ってもいいだろう。傍線をつけた言葉を取ってしまうと意味がとりやすいが、それでも「息した」が歌の意味を理解するには邪魔になっている。ただ、これは「生き」「息」「逝き」という韻を踏み、また、「生きした」を「息たし」とずらしながら重ねる手法で、ある意味では、和歌の古典的技法の応用でもある。ただ、傍線部の邪魔の仕方はイレギュラー効果をただ狙っているようで新鮮で面白い。歌の意味をあえてとるなら、老いてまだあの世に逝きもしないで生きて息していることだ、ということになろうか。老人のわたしが詠むならそれなりのリアリティがあるが、若い結崎氏が詠んでいるから、これは老いをネタにした言葉遊びだ、と言えなくもない。
ただ、この遊び、なかなか凝っていて、読んでいて不思議な気分にさせる。二首目は傍線部「て」がイレギュラー効果だが、歌の意味が不思議だ。「宙をゆきたる衣」が面白い。『万葉集』だったら「ひるがえれ」「白栲の衣」になるんだろうなと思う。「命全く瞬く」とあるから、生の「はかなさ」が詠まれているととりあえずは言える。三首目は下句の「手を皿にして傘にしてけよ」が上句の「生きてゐると急に死ぬから」とどうつながるのか意味がとれない、というところに面白さ(遊び)があるのだろう。四首目も同じだ。上句からの意味のおさまりが不明だし、「かみくづ(紙くず)ゆ溢れてくるよ」なのか「くづゆ(葛湯)溢れてくるよ」なのか考えてしまうところが面白い。
この四首、なんとなく同じような歌であることに気付かないだろうか。実は、言葉遊びが過ぎていると思える歌を選んだのだが、選んでみると「生」と「死」という深遠なテーマがさりげなく詠まれている。深遠なテーマが言葉遊びによって遊ばれている、とまでは言えないにしても、ひっそりと自己主張されている。
子どもって死が怖い。見えるもの触れるもの感じとれるもの、それらをなんとなくわかるものとして処理する理解の容器に詰め込んで、その容量を増やしていくこと、それが子どもにとって生きるということだ。だから、理解できないわからないことに直面すると、それは生きていることが止まってしまうことだから、不安になるし怖くなる。そのわからないものの最たるものが「死」だ。しかし、一方でわからないことに好奇心をかき立てられる。子どもにとって「死」は怖いが魅力的なのだ。
「蕩児」に次のような歌がある。
ひさしぶりに寝たきりの祖母を動かすは骨より長き箸二本もて
蝉に耳 あるよ 腹にね 死のまへのはばたき Forte subito piano
一首目、この祖母、別に骨になっているわけでないのに、骨になっているかのように扱われている。ブラックな遊びとも言える歌だが、子どもが恐れと興味で「死」に触れようとしている感覚の歌と言えないか。二首目は、子どもの時、昆虫標本を作るときの昆虫の「死」に触れる体験を思い出す。
映画『スタンド バイ ミー』は死体を見に行く少年たちの冒険の物語だった。この歌集を読んでこの映画を思い出した。この歌集『幸福な王子』の最初の章「蕩児」は、「死」にそっと触れようとしているかのような子どもの「生」に溢れていて、その興奮は、「死」を隠すことで成り立つこの世の秩序を少しばかり逸脱させる。歌の言葉遊びは、その逸脱を伝えるものになっていると言えようか。あえて子どもという言い方をしたのは、子どもは大人もしくは老人よりはるかに「死」に敏感であり、そしておもしろがれる生命力を持っているからだ。老人のわたしも「死」に敏感だが、さすがに「死」をおもしろがれないし、それをテーマに言葉で遊べない。『スタンド バイ ミー』の物語は主人公たちが子どもでなければ成立しない。
結崎氏は子どもではない(大人でも老人でもない)が、この歌集では、子どものふるまいのように言葉をあやなす。それはたぶんに戦略的だ。そのように感じる。
「蕩児」以降の章から気になった歌をあげる。
「鏡階段」
鋭く変なわたしが君に伝はつてしまつたな何もない掌【たなごころ】
われにのみ聞こえる声のうるささのしづけさやだあれもふりむかず
わたしのことだれもなんにも考へてくれなゐ世界ひもくれずあれ
「青空の函」
児は声とともに生まれきさはがしき世をなにものも隔てず聞きて
あかんばうといふ宝庫に放りこむ言葉おりなすかなしみもあれど
わが葬をわれ見ず耳がひらくのみ声といふ声が零【ふ】りかけられて
「幸福な王子」
草つて凄異る生え様びつしりとゐることの暴力のやはらかさ
生きるつて大変生きてるつて変生ききつてなんか顔変はつたか
全き声いくたに越えてなく雲をつばさはくぐれわれは山彦
「鏡階段」の歌はとてもわかりやすい。他者に言葉が伝わらないことを素直に詠んでいる。それは寂しいことだし作者が自閉気味であることを思わせる。わたしはこれらの歌に共感する。いや共感するのはわたしだけではないだろう。みな誰でもこれらの歌のような、自閉的な自己を抱え込んでいる。わたしがこの歌集を「ひとり遊び」と評したのは、このような歌があるからだ。
「青空の函」から選んだ歌は、言葉もしくは声が主題だ。死ぬとき様々な言葉が零りかけられる(三首目)。生まれるときも同じだ。この世に生まれることは声を零りかけられることなのだ。だからこの世は騒がしい(一首目)。やがてあかんぼうは零りかけられた言葉を通して世界というものを感じ取っていく。悲しみも(二首目)。聖書ははじめに言葉ありきと言うが、本当は最初に声(言葉)という雑音ありきなのだ。その声の雑音シャワーを浴びながら、あかんぼうは人となる。それとともに声の雑音シャワーの持つ力を感じ取れなくなっていく。だが、最初の雑音シャワーを忘れたわけではない。だから、子どもは、わけのわからない言葉、汚い言葉、ふざけた言葉が好きなのだ。それは、喪われた声の雑音シャワーの回復だからだ。この歌集の言葉遊びにもたぶんにそのような回復行為が意図されている。
最後の章の「幸福な王子」の歌の作者は社会に揉まれているように見える。人との付き合いがうまくいかずに生きている大人のように思える。一首目は草の生命力に負けている自分を詠む。二首目の「生きるつて大変」は、資本主義社会での競争を生き抜くといった意味での大変さではないだろう(そういう大変さも入っているだろうが)。むしろ、他者とのコミュニケーションの大変さととった方がいい。他者との関わりを面倒だと一度思ったら、それは呪縛になり、ひとりで遊んでいたほうが気が楽だというような心性をずっと持ち続けることになる。他者が怖いというわけではない。ただ言葉がうまく伝わらないという思いにとらわれて、付き合うのが面倒なだけだ。でもそれってやっぱり変な生き方だという自覚はある。三首目は、他者に伝わろうと発せられる言葉の大変な旅を詠んでいるととれるだろう。「山彦」とは結局反響する自分の言葉だ。他者に伝わっているかどうかわからない。山に登って山彦で遊ぶ。これは典型的な「ひとり遊び」である。
「王子」は孤独である。誰も一緒に遊んではくれない。ひとりで遊ぶしかないのだ。だが、それを幸福だとみなすのは王子ではない。王子だとするなら自嘲の表現だろう。「幸福な王子」はその意味では寂しいタイトルだ。
歌集『幸福な王子』の歌をあれこれと解読しながら思ったことを述べて来た。斬新でおもしろい歌集である。私は歌集評をけっこう書いて来ているが、こういうタイプの歌集は初めてである。私の歌集評の方法は、歌を詠む作者の生き方や気持ちを、わかるわかると思うまでに、作者に感情移入(シンクロすると言ってもいい)していくことである。なかなか感情移入できない歌集もあるのだが、この歌集は割合すんなりと入り込めた。
わかるということは、私にも同じところがあると共感していくことである。作者がこのような歌を詠むその必然(切実な動機といったもの)を自分のこととして読み解読する。その読みが当たっているかどうかは問題ではない(まあ当たっていたほうがいいけれど)。大事なのは、個という存在から詩の言葉が生まれるその様子をなるほどと思える(かっこよく言えば普遍的に)ように捉まえられるかだ。この歌集に関しては、少しは捉まえられたのではないかと思う。
日常というヴェールを引き剥がすような言葉の遊び、それは、逸脱への願望だが、秩序をひっくり返すまでの過激な願望ではなく、孤独な「ひとり遊び」である。過激になるにはそれなりの発信力(つまり他者への強い関わり)が必要。が、それは不得手だ。とりあえずは、どこかで、同じ「ひとり遊び」をしている者たちと密やかな共感の世界が作れればいい。それが歌を詠む一つの理由だ。
私は老いて人とかかわっていくような力がないので「ひとり遊び」するしかないのだが(性格の問題もあるが)、この歌集に共感はできた。「ひとり遊び」の密やかな仲間になれたのかなと思う。
最後に次の歌に触れておきたい。
犬の息はやくて浅し人といふ深く呼吸をするものがそふ
わたしはこの歌が気に入っている。わたしは犬を飼っていたからこの歌がよくわかる。それにしてもこの観察眼には恐れ入る。犬を抱き上げたときの犬の呼吸から、犬の命とそれを抱き上げる人の命への気づきを詩の表現にしてしまう。この歌集、こういう何気ない事象に言葉を与えて詩にする技が気持ちいい。
おもしろがることから遠くなってしまったなあ、と最近思う。おもしろがることを優先して生きてきたわけではないが、おもしろくないことはやらない、というのが私の基本的な生き方だと思っている。むろん、おもしろいとかおもしろくないとか言ってられない選択を迫られたことはたくさんあったが、それでも、選択したからにはおもしろがってみようと、時には必死にふるまってきた。
だが、今、定年を過ぎてとくに仕事もなく、好きなことをしながら生きていい、そういう生活(人はこれを余生と言う)を送りながら、考えてみれば、好きなこと、おもしろいことって無いなあ、と感じるのだ。おもしろがるにはそれなりの生命力が必要だ。仕事をしていたとき生命力はその仕事に費やされ、おもしろがることは主に仕事のストレスを解消する遊びに向けられた。そうやってわたしは社会の歯車になっていたから、おもしろがることは社会を維持する仕組みの一つだったわけだ。が、余生の今は、社会からもう社会の維持とは関係ないから好きに生きていいよどうせもうすぐ死ぬんだし、と言われているようなもの。仕事のない子どもは、おもしろがって生きることが生命力の更新になるから、おもしろがること自体がおもしろいので、なんにでもおもしろがれる。だが、わたしたち老人はおもしろがることは残された生命力の消費にすぎないから、おもしろがって生きるというようにはなかなかなれない。それでもおもしろがって生きている老人たちはいる。彼らは、そうすることが社会とつながれる(役に立つ)という意味をそこに見出しているからだ。遊ぶこともたぶん同じで、遊ぶこと自体が社会とのつながりを断ち切っていないことの確認になっている。だから、老人は一人で遊ばない。他者を巻き込んで遊ぶことで自分たちもひとつの社会を形成していると安心できるのだ。
わたしは、他人と一緒に遊ぶことが苦手である。短大の教員をしていたから、仕事ではよくしゃべったし、飲み会にもよく付き合ったが、それは、わたしがおもしろがれる許容範囲(おもしろがれる程度の仕事上の関係)での付き合いであって、それを契機に他人と遊べるような関係を築くことはなかった。だから、仕事という関係が無くなれば、わたしは一人で余生をおもしろがらなければならないことになった(おっと妻を忘れてはいけない。厳密には妻と二人でだが、妻がわたしといることをおもしろがってくれていると言い切る自信はないし、妻との生活はおもしろいとかおもしろくないということではない)。ただ、わたしには学生運動での活動家仲間がいて、彼らとは今でも深い付き合いがあるので友人のいない孤独な人間でないことは断っておきたい(でも、彼らと遊ぶことはほとんどない)。つまり、わたしは、今、言うなら、社会性のないどちらかと言うと孤独な「ひとり遊び」の余生を送っている。だから、生きることにおもしろがれないのだ(書きながらだんだん憂鬱になってきた)。
さて、結崎剛歌集『幸福な王子』について感想めいた文章を書こうと思いながら、今のわたしの心境をつい書いてしまったのだが、これには理由がある。この歌集の感想を一言で言えば、「ひとり遊び」ということになるからだ。余生をおもしろがろうとしていながらできないでいるわたしの「ひとり遊び」とはかなり違うが、でも、共感できるのは、きっとわたしの「ひとり遊び」と相通じるところがあるからだろうと勝手に思ったからである。とりあえずそうみなしたのだが、むろん、同じだと言うつもりはない。
この歌集は「蕩児」「鏡階段」「青空の函」「幸福な王子」という四つの章からなっている。とりあえずは、この四つの章のそれぞれから気になった歌を取り出してみたい。まずは「蕩児」(傍線は筆者がつけたもの)。
老いはであることを生きたした息した逝きもせず今ここにゐるのよ
命全く瞬くまにてひるがへれかわくゆゑ宙をゆきたる衣
生きてゐると急に死ぬから空曇りつつ手を皿にして傘にしてけよ
死からのち思ひだすこと纔かわづかなかみくづゆ溢れてくるよ
一首目は、言葉遊びと言ってもいいだろう。傍線をつけた言葉を取ってしまうと意味がとりやすいが、それでも「息した」が歌の意味を理解するには邪魔になっている。ただ、これは「生き」「息」「逝き」という韻を踏み、また、「生きした」を「息たし」とずらしながら重ねる手法で、ある意味では、和歌の古典的技法の応用でもある。ただ、傍線部の邪魔の仕方はイレギュラー効果をただ狙っているようで新鮮で面白い。歌の意味をあえてとるなら、老いてまだあの世に逝きもしないで生きて息していることだ、ということになろうか。老人のわたしが詠むならそれなりのリアリティがあるが、若い結崎氏が詠んでいるから、これは老いをネタにした言葉遊びだ、と言えなくもない。
ただ、この遊び、なかなか凝っていて、読んでいて不思議な気分にさせる。二首目は傍線部「て」がイレギュラー効果だが、歌の意味が不思議だ。「宙をゆきたる衣」が面白い。『万葉集』だったら「ひるがえれ」「白栲の衣」になるんだろうなと思う。「命全く瞬く」とあるから、生の「はかなさ」が詠まれているととりあえずは言える。三首目は下句の「手を皿にして傘にしてけよ」が上句の「生きてゐると急に死ぬから」とどうつながるのか意味がとれない、というところに面白さ(遊び)があるのだろう。四首目も同じだ。上句からの意味のおさまりが不明だし、「かみくづ(紙くず)ゆ溢れてくるよ」なのか「くづゆ(葛湯)溢れてくるよ」なのか考えてしまうところが面白い。
この四首、なんとなく同じような歌であることに気付かないだろうか。実は、言葉遊びが過ぎていると思える歌を選んだのだが、選んでみると「生」と「死」という深遠なテーマがさりげなく詠まれている。深遠なテーマが言葉遊びによって遊ばれている、とまでは言えないにしても、ひっそりと自己主張されている。
子どもって死が怖い。見えるもの触れるもの感じとれるもの、それらをなんとなくわかるものとして処理する理解の容器に詰め込んで、その容量を増やしていくこと、それが子どもにとって生きるということだ。だから、理解できないわからないことに直面すると、それは生きていることが止まってしまうことだから、不安になるし怖くなる。そのわからないものの最たるものが「死」だ。しかし、一方でわからないことに好奇心をかき立てられる。子どもにとって「死」は怖いが魅力的なのだ。
「蕩児」に次のような歌がある。
ひさしぶりに寝たきりの祖母を動かすは骨より長き箸二本もて
蝉に耳 あるよ 腹にね 死のまへのはばたき Forte subito piano
一首目、この祖母、別に骨になっているわけでないのに、骨になっているかのように扱われている。ブラックな遊びとも言える歌だが、子どもが恐れと興味で「死」に触れようとしている感覚の歌と言えないか。二首目は、子どもの時、昆虫標本を作るときの昆虫の「死」に触れる体験を思い出す。
映画『スタンド バイ ミー』は死体を見に行く少年たちの冒険の物語だった。この歌集を読んでこの映画を思い出した。この歌集『幸福な王子』の最初の章「蕩児」は、「死」にそっと触れようとしているかのような子どもの「生」に溢れていて、その興奮は、「死」を隠すことで成り立つこの世の秩序を少しばかり逸脱させる。歌の言葉遊びは、その逸脱を伝えるものになっていると言えようか。あえて子どもという言い方をしたのは、子どもは大人もしくは老人よりはるかに「死」に敏感であり、そしておもしろがれる生命力を持っているからだ。老人のわたしも「死」に敏感だが、さすがに「死」をおもしろがれないし、それをテーマに言葉で遊べない。『スタンド バイ ミー』の物語は主人公たちが子どもでなければ成立しない。
結崎氏は子どもではない(大人でも老人でもない)が、この歌集では、子どものふるまいのように言葉をあやなす。それはたぶんに戦略的だ。そのように感じる。
「蕩児」以降の章から気になった歌をあげる。
「鏡階段」
鋭く変なわたしが君に伝はつてしまつたな何もない掌【たなごころ】
われにのみ聞こえる声のうるささのしづけさやだあれもふりむかず
わたしのことだれもなんにも考へてくれなゐ世界ひもくれずあれ
「青空の函」
児は声とともに生まれきさはがしき世をなにものも隔てず聞きて
あかんばうといふ宝庫に放りこむ言葉おりなすかなしみもあれど
わが葬をわれ見ず耳がひらくのみ声といふ声が零【ふ】りかけられて
「幸福な王子」
草つて凄異る生え様びつしりとゐることの暴力のやはらかさ
生きるつて大変生きてるつて変生ききつてなんか顔変はつたか
全き声いくたに越えてなく雲をつばさはくぐれわれは山彦
「鏡階段」の歌はとてもわかりやすい。他者に言葉が伝わらないことを素直に詠んでいる。それは寂しいことだし作者が自閉気味であることを思わせる。わたしはこれらの歌に共感する。いや共感するのはわたしだけではないだろう。みな誰でもこれらの歌のような、自閉的な自己を抱え込んでいる。わたしがこの歌集を「ひとり遊び」と評したのは、このような歌があるからだ。
「青空の函」から選んだ歌は、言葉もしくは声が主題だ。死ぬとき様々な言葉が零りかけられる(三首目)。生まれるときも同じだ。この世に生まれることは声を零りかけられることなのだ。だからこの世は騒がしい(一首目)。やがてあかんぼうは零りかけられた言葉を通して世界というものを感じ取っていく。悲しみも(二首目)。聖書ははじめに言葉ありきと言うが、本当は最初に声(言葉)という雑音ありきなのだ。その声の雑音シャワーを浴びながら、あかんぼうは人となる。それとともに声の雑音シャワーの持つ力を感じ取れなくなっていく。だが、最初の雑音シャワーを忘れたわけではない。だから、子どもは、わけのわからない言葉、汚い言葉、ふざけた言葉が好きなのだ。それは、喪われた声の雑音シャワーの回復だからだ。この歌集の言葉遊びにもたぶんにそのような回復行為が意図されている。
最後の章の「幸福な王子」の歌の作者は社会に揉まれているように見える。人との付き合いがうまくいかずに生きている大人のように思える。一首目は草の生命力に負けている自分を詠む。二首目の「生きるつて大変」は、資本主義社会での競争を生き抜くといった意味での大変さではないだろう(そういう大変さも入っているだろうが)。むしろ、他者とのコミュニケーションの大変さととった方がいい。他者との関わりを面倒だと一度思ったら、それは呪縛になり、ひとりで遊んでいたほうが気が楽だというような心性をずっと持ち続けることになる。他者が怖いというわけではない。ただ言葉がうまく伝わらないという思いにとらわれて、付き合うのが面倒なだけだ。でもそれってやっぱり変な生き方だという自覚はある。三首目は、他者に伝わろうと発せられる言葉の大変な旅を詠んでいるととれるだろう。「山彦」とは結局反響する自分の言葉だ。他者に伝わっているかどうかわからない。山に登って山彦で遊ぶ。これは典型的な「ひとり遊び」である。
「王子」は孤独である。誰も一緒に遊んではくれない。ひとりで遊ぶしかないのだ。だが、それを幸福だとみなすのは王子ではない。王子だとするなら自嘲の表現だろう。「幸福な王子」はその意味では寂しいタイトルだ。
歌集『幸福な王子』の歌をあれこれと解読しながら思ったことを述べて来た。斬新でおもしろい歌集である。私は歌集評をけっこう書いて来ているが、こういうタイプの歌集は初めてである。私の歌集評の方法は、歌を詠む作者の生き方や気持ちを、わかるわかると思うまでに、作者に感情移入(シンクロすると言ってもいい)していくことである。なかなか感情移入できない歌集もあるのだが、この歌集は割合すんなりと入り込めた。
わかるということは、私にも同じところがあると共感していくことである。作者がこのような歌を詠むその必然(切実な動機といったもの)を自分のこととして読み解読する。その読みが当たっているかどうかは問題ではない(まあ当たっていたほうがいいけれど)。大事なのは、個という存在から詩の言葉が生まれるその様子をなるほどと思える(かっこよく言えば普遍的に)ように捉まえられるかだ。この歌集に関しては、少しは捉まえられたのではないかと思う。
日常というヴェールを引き剥がすような言葉の遊び、それは、逸脱への願望だが、秩序をひっくり返すまでの過激な願望ではなく、孤独な「ひとり遊び」である。過激になるにはそれなりの発信力(つまり他者への強い関わり)が必要。が、それは不得手だ。とりあえずは、どこかで、同じ「ひとり遊び」をしている者たちと密やかな共感の世界が作れればいい。それが歌を詠む一つの理由だ。
私は老いて人とかかわっていくような力がないので「ひとり遊び」するしかないのだが(性格の問題もあるが)、この歌集に共感はできた。「ひとり遊び」の密やかな仲間になれたのかなと思う。
最後に次の歌に触れておきたい。
犬の息はやくて浅し人といふ深く呼吸をするものがそふ
わたしはこの歌が気に入っている。わたしは犬を飼っていたからこの歌がよくわかる。それにしてもこの観察眼には恐れ入る。犬を抱き上げたときの犬の呼吸から、犬の命とそれを抱き上げる人の命への気づきを詩の表現にしてしまう。この歌集、こういう何気ない事象に言葉を与えて詩にする技が気持ちいい。
岡部隆志 OKABE Takashi |1949年、栃木県生まれ。専門は日本古代文学、近現代文学、民俗学だが、中国雲南省少数民族の歌垣文化調査も行う。歌人福島泰樹主宰の短歌結社「月光の会」に参加し、短歌誌『月光』の短歌評論を書き続けている。現在まで四冊の短歌評論集『言葉の重力』『聞き耳をたてて読む』(ともに洋々社)、『短歌の可能性』(ながらみ書房)、『「悲しみ」は抗する』(皓星社)を刊行。共立女子短大の教員を定年退職し、現在、韓流ドラマ鑑賞とファンタジー系物語を読みながら余生を送っている。