寄江原の空中写真を示します。農地整備事業を行う以前である1975年のもので、整備事業の際には古墳群が発見されました。これらは若干山側の標高が高い範囲に分布しておりました。遺跡や周辺の地形から、江戸時代に治水される前の水源である備中川は蛇行を繰り返して比較的平坦な荒れ野を形成してきたものと推測されます。
1975年 (国土地理院 空中写真閲覧サービスより)
古墳群の配置と地形および各地名から推測しますと、「寄江原」の地名については、
①現状の開けた地形を「原」と言っている。
②この地域を灌漑する池(鹿田大池)が築造されるまでは備中川の氾濫原(または畑地)として、「寄江の原」と呼ばれており、次第に開田が進んだものの通称地名として残った。という経緯があったのではないかと思います。
江戸時代の治水工事により水源の備中川(旭川の支流)の流れは固定され、田畑の水災は減少しました。更に農業農村整備事業(平成10~17年)が行われました。それでも2018年の西日本豪雨で寄江原の農地は低いところが冠水しました。
寄江原はこのような歴史と特色を持ったところです。
最近の寄江原空中写真を示します。圃場の整備ができ、中山間地域としては珍しく備中川からパイプライン(閉路)による潅水管理を可能としています。
主な旧来の水源は写真左にある鹿田大池および写真上部の日野上川で、備中川を含めた3水系を利用しています。それでも水稲栽培には水が必要で、一部小麦や大豆などに転作してやりくりしています。
2011年 (国土地理院 空中写真閲覧サービスより)
この地には有名な代官がおられましたのでご紹介します。
宝暦5年(1755)に大雨が降り、備中川下流(北側)の旭川が氾濫して向津矢地区その他の地域が被災しました。当地を治める石黒代官(石黒小右衛門 )は復興を行うとともに江戸へ方策を問う使いを送りましたが、水災の多い地域を復興するより遠く離れた丘陵地の原野を開拓して移住するよう指示を受けてしまいました。
独自の判断で復興に成功した石黒代官は翌年に幕府に対し住民をそのまま住まわせてほしい旨報告しましたが、幕府の判断は指示に従わなかったとして使者をよこしました、石黒代官は自分の問題が住民や関係者に悪影響をもたらすことを避けるため(と思われます)自害しました。今でも地方のために尽力された代官は慕われ、旧鹿田代官所近くのお寺に石黒代官は祀られています。