人首丸の墓碑(鬼っこの墓)
608年(大同元年)大岳丸の子・人首丸が田村阿波守兼光に討ち取られました。人首丸は15・6歳の美少年であったと云われています。阿波守は武士の情けをもって人首丸の死骸を大森山の中腹に葬り、その上に石塔を建て観世音のお堂を造りました。桂の木を伐って観世音菩薩の像を彫り、堂内に安置して戦勝記念としました。山火事によりお堂は焼失しましたが、現在観音様は玉里地区の大森観音堂に移されています。
人首城址跡(お館山公園)
人首城は、葛西氏の重臣である岩谷堂城主・江刺三河守重胤の二男・人首如清が城主であったといわれています。その後、天正18年(1590)に葛西氏が豊臣秀吉の奥羽仕置によって所領没収になると、当時の人首城主である人首平十郎盛恒は、宗家・江刺氏と命運を共にし人首城を退去しました。江戸時代に入ると、人首の地は伊達藩の藩境警備の重要な拠点に位置づけられ、伊達政宗は慶長11年(1606)沼辺摂津守重仲を城主に据え、要害として人首城の改修と城下町の整備に当たらせました。以降、沼辺氏が明治維新まで支配していました。 人首城の大手門は現在、佐伯邸に移築されています。
宮沢賢治「人首町」詩碑
宮沢賢治が人首町を二度目に訪れたのは、大正13年3月24日でした。その日は人首町の菊慶旅館に投宿。大正6年も含め2度投宿しています。翌日25日早朝、菊慶旅館から人首町を眺め、人首橋付近で五輪峠方向を眺めながら周辺を散策し「人首町下書き稿」を記しました。人首町を高台から望む、久須師神社(通称:だんながね)には、米里の「賢治街道を歩く会」によって【人首町】の詩碑が建てられています。
賢治街道を歩く会 – 「賢治街道を歩く会」は宮沢賢治の足跡や作品と米里の関わりの深さを正しく後世に伝えるため発足した会です。
種山ヶ原
宮沢賢治が愛した種山高原。星の輝きの向こうから銀河鉄道がやってきそうです。爽やかな風が高原を吹きわたり、風の又三郎が気持ちよさそうに遥か向こうの岩手山を望んでいます。宮沢賢治ゆかりの景勝地「イーハトーブの風景地」の1つとして国の名勝にも指定されています。「風の又三郎」の像がたたずむ【種山高原星座の森キャンプ場】も大人気です。
人首文庫(佐伯邸)
かつて仙台藩の重臣で、この地を治めた人首城主沼辺氏の家老職で、寛文6年より代々続く佐伯家。母屋は武家屋敷の景観で、庭には樹齢200年もの枝垂れ桜が圧巻です。旧内務省図書課の検閲官だった佐伯郁郎氏が残した文学資料を、施設文学資料館として保管。佐伯郁朗氏は生前、小川未明や北原白秋、萩原朔太郎、草野心平、山本有三らとの交流があり、彼らが郁朗氏に宛てた書簡などの資料も保管されています。
Gorsch邸
旧菊池長兵衛宅。長年空き家となっていたが、令和5年に服飾デザイナー「Gorsch」の鈴木氏が買い取り、ギャラリーとして展示会やイベントを行う新たな場としてよみがえりました。社名「Gorsch」は、宮沢賢治【セロ弾きのゴーシュ】から名付けたそうです。春と秋に新作コレクションや展示会、地元農家さんとコラボした産直なども開催しています。
琉球藍染工房
清らかな湧き水を利用して、藍染めをされている平敷さんご夫婦。一つ一つ手染めした作品はどれも温かみあるものばかりです。牧草地には羊も飼い、刈り取った毛を藍染で染めて小物作りも。のどかな景色に溶け込む作品をお届けしています。秋から冬の時期に作品を作り、春から夏にかけて全国の百貨店に販売に行っています。
池とロックガーデン
山を切り開き岩を掘る。高橋さんご夫婦が長年かけて作った、癒しのMYガーデン。大小あわせて10ヶ所の池と、約5,000坪の広大な庭園には約300種の山野草や宿根僧などが咲き、四季折々の花や草が楽しめます。足を踏み入れるとまるでそこは天国のよう。美しい自然を感じる場所です。
中沢「麓山神社本殿」
米里中沢に鎮座する麓山神社本殿。中沢麓山神社は、山の麓の急斜面に鎮座しています。聖観音を祀ったことに始まっており、神仏習合の山岳信仰でした。人首丸討伐の際に、坂ノ上田村麻呂が建立したといわれています。県指定文化財に登録されています。
村社・麓山神社
白山権現は、梁川村との境、白山堂北野に鎮座せしが、数回の野火に遭い、元禄15年(1702)12月、人首城主沼辺重次が氏神として現在地に奉遷、御屋敷前正覚院坊が司祭しました。明治4年時の戸長菊池伊兵ヱらが相談し、中沢麓山神社を村社として神祇院に申請し、明治8年、県官出張の際に私有地内に村社を祀る事は好ましくないということから、現在の場所に中沢麓山神社の御分霊を勧請し、村社麓山神社として崇敬し現在に至っています。
白鳩八幡宮
延暦年間(782~805)に、坂上田村麻呂が東夷征討の折、米里・学間沢の明神森に戦の勝利(降伏鎮護)のために、京都の賀茂大明神を奉祀したと伝えられています。延暦17年、田村麻呂の家臣・掃部(かもん)が賀茂明神と胆沢より八幡宮を一つにして、掃部の氏神としています。後年、八百姫(やおひめ)という仙女が来て、桜を植え若狭の国(福井県)に帰って行きました。この桜は御神木として祀られましたがのちに倒れ、その時、2羽の鳩が飛び立ったことから白鳩八幡宮と称し、この地の氏神として現在に至ったといわれています。
山ノ上観音堂
大同元年(806)、坂上田村麻呂が東夷征討の折、大森山にて人首丸を討ったのち、それを弔うために創建したと伝えられています。風土記(宝暦)には、自覚大師作・聖観音木造3体とあり、平安末期頃の作とみられる十一面観音立像2体のほか、神形座像、僧形像3体、如来像、毘沙門天、天部像などの古い像は確認されましたが、聖観音はなかったそうです。江刺三十三観音十八番札所となっています。
八咫烏神社
八咫烏(やたがらす)神社は延暦20年(801年)、坂上田村麻呂の命により、人首丸追討でやって来た田村兼光が、夷賊討滅祈願のため烏堂(うどう)山頂に創始したと伝えられています。のちの山火で焼失し、山頂に石堂を残すのみとなっていました。弘化2年(1845年)に、場所を山頂から中腹に石堂を移動し、遥拝所として建立しましたが、氏子の高齢化などにより参拝が厳しくなったため、令和6年8月に氏子総代の屋敷内に移築されました。地元では「からす神様」と呼ばれています。
人首カトリック教会跡地
明治10年、フランス人宣教師・サンドル・べリオスの洗礼を受けた水沢の菊池又三郎が布教。明治17年にカトリック教会が設立され、岩手県下では最初の教会といわれています。明治元年に、坂本龍馬のいとこの沢辺琢磨(さわべたくま)がその護送途中に「人首番所」で役人を相手に教えを説いたのが最初とされています。信者数は多い時で300名を越していたといわれます。 当時は1日に3度、二つの教会堂の鐘の音が村全体に鳴り響いており、おそらくここを訪れた宮沢賢治もそれを耳にしたことでしょう。現在は「アンジェラスの鐘」のみが残っています。昔は、教会でクリスマス会が行われ子どもたちが教会に招待され
ハリストス正教会
明治12年、岩谷堂在住の副伝教師・山内ヤコフの伝道がはじまりといわれています。明治26年には、日本大主教・ニコライが東北巡教の際に人首に立ち寄り、花火を上げるなどして村を挙げての歓迎を受けました。大正末期には120名ほどの信者がおり、信教者が増えたことで明治19年から教会堂の建設にかかり明治23年竣工。ビザンティン建築で鐘楼をもつ四層からなり、堂内の聖像壁画は十数種におよび荘厳華麗でした。昭和8年の大火で焼失。その後に再建されましたが、昭和17年の失火で再度焼失し現在は跡地となっています。※MAPは正教会跡地
聖母マリア像
昭和38年(1963)に、自徳寺の人首墓地(公葬地)東南の高台に、人首カトリック教会を望むように、聖母マリア像(テレジア欠畑美奈子作)が建立されました。残念ながら、2011年3月11日の東日本大震災での大きな揺れにより聖母マリア像は倒壊してしまいました。
自徳寺の大イチョウ
龍首山・自徳寺には樹齢約600年の大イチョウがあります。秋になると麓の町からイチョウが色ずく様子も見られ、このイチョウが色づくと米里にも雪が降るという言い伝えもあります。そして本堂の前の【イトヒバ】も見事な大きさです。そしてここの住職さんは、日本一画数の多い名字(躑躅森(つつじもり))を持つことでも有名です。画数は、なんと54画あります。
真言宗・法門山 福泉寺のカヤの木
慶長11年(1606)に、宥海上人(ゆうかいしょうにん)が開基したといわれ、邑主沼辺氏の人首移封と同時に家中寺として移ったと伝えられています。大正6年に寺は松崎村(遠野市)に移り、真言宗法門山福泉寺として繁栄しています。昭和11年小山栄二郎が、寺跡を福泉寺別院として再興を図りましたが、再建には至りませんでした。本堂の向拝は北上市稲瀬町の内門岡、如意輪寺本堂の向拝として残っています。現在は、福泉寺跡地に大きなカヤの木(根回り5ⅿ以上)が残っています。
湧き水「金山水」
米里木細工地区の湧き水「金山水」。人首川源流近くから湧く水は、なめらかで口当たりが良いです。夏はとても冷たく、湧き水で顔を洗うと暑さも吹き飛びます。水を汲みに来た方いわく「この水で淹れるコーヒーは格別です」と。わざわざ遠くから湧き水を汲みに来る人もいるほど、おいしい天然水です。
戸中(とちゅう)金山
米里は昔、たくさんの金山がありました。金鉱は大野金山・舘沢(勝浦金山)・木細工(小谷澤金山)・古歌葉金山・根津葉鉱山(天子山金山)・戸中金山・大内沢金山・笹ノ田金鉱区などがあった。その中でも一番大きい金山だったのが、戸中(とちゅう)金山でした。金山の採掘は約90年ほど行われました。★現在は閉山して立ち入り禁止となっています。
中沢とことん水車
平成16年2月に農山村の景観保全を目的に、地区住民により水車と水車小屋を修復復元されました。米や蕎麦を挽いたり、小さい水車では里芋の皮むきなどに利用されています。水車小屋へ続く小川には、春になるとかわいい梅花藻(ばいかも)が咲き誇ります。
木細工清流キャンプ場
閉校した旧木細工小学校のわきに流れる小川(人首川の源流)を利用して、キャンプが楽しめます。サウナテント(各自持ち込み)を設置して、サウナで火照った体を冷たい小川に飛び込んでクールダウン。この上ない贅沢な時間をお楽しみください。利用料金は1名500円。
キャンプ場のご利用予約は 米里振興会 0197-38-2221
旧木細工中学校
(木細工分教場)
旧木細工小学校は昭和32年(1957)東映教育映画「風の又三郎」のロケが行われた校舎です。平成27年2月21日に木細工村おこし会(代表・菊池春男氏)が、この校舎の保存事業が完了し、記念式典・記念講演会・祝賀会が行われました。老朽化のため取り壊されるところでしたが、村おこし会が立ち上がり、地元は元より日本中の皆さんからご支援をいただきました。
笹ノ田手づくり野菜
無人販売所
県内でも先駆けに作られた野菜の無人販売所。地元の農家さんが丹精こめて作った野菜が、季節によってたくさん並びます。形が悪くったっていいじゃないか~!そんな規定外の美味しい野菜が、ワンコインで購入できます。朝採れ野菜は早い者勝ち。県道27号線沿い、遠野方面へ行かれる方はぜひお立ち寄りください。
おいしい特産品
1605年、伊達政宗のの命により神殿開拓のために作られた【樋茂井堰(ひもいぜき)】。米里から玉里まで約15㎞にわたり農業用水が引かれています。稲作をはじめ、夏野菜のトマトやきゅうり、ピーマン、ナス。そして寒暖差によって蜜がたくさん入った江刺リンゴも有名です。そのほか県下でも最高級を受賞した和牛も育っています。豊かな大地に育まれた美味しいものがたくさんです。農家さんの本気をぜひ味わってみてください。
資料調査
昔から沿岸部と内陸をつなぐ重要な場所でした。城下町として生まれ、宿場町として栄えました。歴史と文化が現在も色濃く残る米里。地区センターや人首文庫に残る資料調査を、慶應義塾大学文学部准教授の福島幸弘先生、国立歴史民俗博物館准教授の後藤真先生、学術資料の調査をされている合同会社AMANE様のご協力をいただき、地区に眠る古い資料の調査を行いました。書かれている内容からその時代背景や、米里の当時の様子が詳しくわかるきっかけになるかもしれません。調査いただいた資料(人首文庫のみ)はデジタルアーカイブでの公開を行っております。
ニホンオオカミがいた?
米里の下大内沢地区のあるお宅で守られてきた獣の頭蓋骨が、ニホンオオカミのものと判明されました(平成30年調査)。米里・中郡地区にはオオカミを神様のお使いとする三峯(みつみね)神社もあり、鹿喰地区の白山社の白山堂東斜面には「狼穴(おいのあな)」という所もあります。オオカミの絶滅の原因は、病気感染や人的被害も増え自治体が駆除を行い絶滅したといわれています。
ひょっとこ
遠野出身の佐々木喜善が江刺を歩き回り、その地で聞いた昔話や伝説などを書き記し発刊した【江刺郡昔話】。米里の浅倉利蔵さんとの出会いから生まれたこの本の中に【ひょっとこの始まり】というのがあります。米里地区にはお家のかまどに、土や木で作られた「かまど神」が残っているお宅もあります。
オガミサマ
米里には昔「オガミサマ」と言われた方がおりました。北部のイタコ、岩手県南部のオガミサマと呼ばれる盲目の拝み人が、伝承してきた口寄せ・祈祷・占いなどを行っていたそうです。そこで使われていたのがオシラサマでした。昔は何かある度に、このオガミサマを頼りに人が集っていました。
※現在はこのお宅から祭壇や仏様、オシラサマが龍首山・自徳寺に移されています。
掃部(かもん)長者
延暦17年(798)坂上田村麻呂の家臣、掃部(かもん)が学間沢に進駐し、ここを領して、旧南部領との境界である蛭ヶ山(びるがやま)の中腹に住んで、掃部長者(かもんちょうじゃ)となりました。長者は山麓で盛んに砂金を採取して豪勢な生活を営んでいたそうな。当時の市(いち)のあった所は現在の笹の田で「笹の田和」と称され、人家が密集していたといわれます。長者屋敷から西を望むと、胆江の沃野は一望に見渡せるところにあり、胆沢にも住居や多くの水田を有し雇い人も大勢いたそうです。長者は黄金に物を言わせて胆江地方の産米を集め、集められた籾の殻は屋敷の近くの野に捨てました。それが積もり積もったものが現在の「糠森山(ぬかもりやま)」となったと言い伝えられています。※画像はAIにて金長者をイメージして生成したものです。実際の人物像ではありません
百一文庫
米里に移住して約半世紀。家主さんが仲間と共に大切に作り上げてきた憩いと癒し、そして原点の場所です。秋の紅葉シーズンは、息を飲むような景色に圧倒されます。今までコツコツと作り上げた自然美。そしてここでしか味わえない【暮らし】。家主さんいわく、地域で行う【イベント】も大切だけど、不便を楽しむ【フベント】があってこそ!とおっしゃっていたのが感銘しました。
小川未明詩碑
「いかなる烈風も
若木を折る力なし
伸びれ子供等よ」
旧人首小学校には、小川未明氏(日本児童文学の父と呼ばれた)の詩碑が建っています。小川未明氏と佐伯郁朗は交流があり、旧江刺郡下で10町村の合併計画がすすめられたころ、村長を務めていた佐伯信が「未来ある子どもたちのために何かを残したい」と、弟の郁朗に相談したことで詩が生まれ、詩碑の建立が実現しました。
旧人首小学校校庭
人首言の葉花火
(ひとかべことのははなび)
令和元年(2019)に始まった、人首言の葉花火。コンサートで米里を訪れた、シンガーソングライター・しらいみちよさんとの出逢いがきっかけとなりました。蝦夷の戦で犠牲となった、人首丸の魂を花火で弔いたい。言の葉にちなんで、地域の方々からのメッセージとともに空に花火を届けます。美しい花火を上げていただいているのは、今や日本を代表する山梨県の株式会社マルゴーさんです。
麓山神社春の例大祭
(はやまじんじゃはるのれいたいさい)
米里の春の風物詩。毎年5月5日の子どもの日に合わせ、村社である麓山神社の例大祭が行われています。このお祭りは100年以上も続いており、村社の神様(お神輿様)を先頭に、神楽(しんがく)が神社から人首町を練り歩きます。昔は各自治会ごとに大きな山車を作って、人首町内をパレードしました。現在は米里地区自治会連絡協議会を中心に、神楽(しんがく)の奉納や江刺甚句まつり年祝連の踊りで、この日の人首町はとても賑やかになります。
自徳寺盆踊り
(じとくじぼんおどり)
米里の夏の風物詩。お寺の境内で行う昔ながらの盆踊りです。米里で昔から踊り続けてきた盆踊り曲「米里音頭」。小さいころから馴染みの音頭に、子どもからおじいちゃんおばあちゃんまで、みんなでやぐらを囲んで輪になって踊ります。薄暗くなると塔婆のお焚き上げもおこない、お和尚さんのお経とともにご先祖様を供養します。盆踊りのフィナーレは地元特産品などが景品に並ぶ抽選会。米里に帰省してきた人も楽しみなお祭りです。
自徳寺節分会
(じとくじせつぶんえ)
毎年、2月の第1土曜日に開催される節分会。自徳寺では、地区内外よりたくさんの和尚さん方がお越しになり、600巻にわたるお経をパラパラと空読する【大般若経転読】法要を行います。見ごたえのある圧巻の節分法要です。1年の家内安全や無病息災、五穀豊穣、交通安全などを願います。法要の後は和尚さん方による豆まきを行い、その後に「ざぐびら」という郷土料理の汁が振舞われます。