「なんにもない」がある贅沢
「なんにもない」がある贅沢
まずは移り住む前の豆知識
岩手県奥州市江刺米里の概要
奥州市の東端にあり、人首川(ひとかべがわ)の上流に位置します。東は五輪峠、物見山(姥石峠)を距て遠野市小友町、気仙郡住田町が境で、北は花巻市東和町が境となります。歴史は深く、延暦20年(801年)征夷大将軍・坂上田村磨呂が東征し、延暦21年(802年)江刺を鎮圧するため胆沢城を築きました。坂上田村麻呂軍は蝦夷のアテルイ・モレの連合軍と大嶽丸を滅ぼしました。大嶽丸の子ども・人首丸(ひとかべまる)は逃れて大森山に立て籠もり要害を領して官軍と対戦したが、官軍の総大将・田原阿波守兼光に討ち取られました。時に大同元年(806年)秋。人首丸は15.6歳の美少年であったと云い伝えられています。斬首される際、人首丸は遺言として「この地にわたしの名を…」と言い残したことから「人首町」と名付けられたと、代々口伝されてきました。この町には人首城(人首要害)もあり、沼辺氏時代は1,000石、明治維新まで統治しました。慶長10年(1605)伊達政宗の命により米作りのため玉里御免野開拓により、当時北上山地最大の用水路「樋茂井堰(ひもいぜき)」が開削が着手され米どころとなりました。鉱業も盛んで、昭和20~30年代まで金・銀・銅・鉄・硅石・石灰岩など、たくさんの鉱物資源が採掘されていました。大正時代には、宮沢賢治が地質調査へこの地に足を運び人首町に投宿し「人首町」という詩を残しています(春と修羅より)。当時の人首町は宿場町として大変賑わっており、沿岸をつなぐ盛街道や遠野をつなぐ五輪街道など、人と文化が交わう町でした。小さな人首町に2つの教会(カトリック教会・ハリストス正教会)も共存していました。鉱山が衰退したことや、集団就職などにより人口も減少。高齢化率は半数を超えましたが、コミュニケーションを大切にして皆さん元気に楽しく過ごしている地域です。産業は、水稲、夏野菜(トマト・ピーマン・きゅうりなど)、りんご、肉牛となり優良な特産品がたくさんあります。
米里の住民
人口 1,003人
(男性508人 女性495人)
世帯数 450戸
(令和7年12月末現在)
面倒見が良い住民性です。地域のコミュニケーションも良い地域です。少子高齢化により地域活動の存続が難しくなってきています。環境整備(川や道路の草刈り作業やごみ拾いなど)、自治会ごとに協力して守っています。
【悠々自適な田舎暮らしに憧れて移り住みたい方へ】
助け合いが重要視される地域のため、自治会活動への参加など色々な関わり合いがあり、コミュニケーションが大切です。その点をご理解いただければありがたいです。
地域の行事や活動
地域での環境整備活動
毎年、自治会ごとに河川や県道の草刈り作業を委託されています。
そのほかにも、米里総合運動場や閉校した小学校の草刈りも担っています。