GONTA
「ごん太」は、卒業生から贈られた津屋崎人形だが、なぜかツボにはまってしまった。謎の多い造形や彩色、よく分からない微妙な表情と年齢不詳の雰囲気、それらを総合した若干の不気味さに、自分の感性がシンクロしたのだと思うが、よく説明できない。
あるきっかけから「ごん太」をスーツケースに入れて海外出張に持って行こうと考えた。そして名前を「GONTA」と書くことにした。
by minako ikeda
「ごん太」は、卒業生から贈られた津屋崎人形だが、なぜかツボにはまってしまった。謎の多い造形や彩色、よく分からない微妙な表情と年齢不詳の雰囲気、それらを総合した若干の不気味さに、自分の感性がシンクロしたのだと思うが、よく説明できない。
あるきっかけから「ごん太」をスーツケースに入れて海外出張に持って行こうと考えた。そして名前を「GONTA」と書くことにした。
by minako ikeda
仕事柄、海外に行くことが多い。そして、大抵の場合は1人だ。
2020年の今は海外に行けないし、当分は行けないかもしれない。出張が多いせいもあるけれど、旅は基本的に1人がいいと思っている。
あるきっかけから「ごん太」をスーツケースに入れて持って行こうと考えた。
卒業生からもらった津屋崎人形の「ごん太」に、一瞬ではまってしまった。よく説明できないが、何かヤバいものを感じたのだと思う。
名前を「GONTA」と書くことにした。
海外に連れて行くこともあり、名前をアルファベットにした。それと「ごん太」は、生産者がつけた商品名だから、少しばかりの固有性もあった方がいいと思った。
「ごん太」というのは、福岡県福津市津屋崎に伝わる津屋崎人形と呼ばれる土人形で、江戸時代の安永年間(1700年代後期)に作られた生活土器が始まりだったという。最初は生活に必要な器などを作っていたのだろう。しかし、フクロウを象ったモマ笛がすでに江戸時代に津屋崎で作られていることから、江戸時代には人形がつくられていたことになる。
フクロウだから厳密には人形とは言えないかもしれない。フクロウは先を見通す能力を持つ生き物で、子供や老人が食べ物を喉につまらせないよう、食事の前にこの笛を吹いて気道を広げたという話を読んだ。そのときは一体どんな危ない食事をしていたんだろうと不思議に思った。しかし、このような大事な機能をもっているとすれば単なる玩具とも言えなさそうだ。ちなみに、安永年間には桜島の大噴火があり多数の死者が出たという。
「ごん太」は、明治時代に登場した人形で、もともとは全身を米粉で白塗りにした、舐めても大丈夫な子供用のおしゃぶりだったらしい。
ごん太のつるんとした身体は片手でしっかり握りしめられ、握っているとなぜか安心する。
津屋崎人形は、半永久的につかえる人形型に粘土を押し付けて形をつくる。2枚の型にそれぞれ粘土を押し当て、それを重ね合わせる作り方だから中は空洞になる。形ができたら自然乾燥させ、そのあと「空吹き窯」に入れて、800度から900度の温度で、7、8時間ほど焼成する。そして焼き上がった人形の顔や身体に手作業で絵付けを施す。ごん太はごん太でも、その表情や髪型、姿勢、着ているものなど一体として同じ個体は存在しない。
ごん太を作っている工房には、江戸時代から今までに作られた型が1500種ほどもあるらしい。型にはそれぞれ作者の名前と年号が入っているという。型がいかに尊重されてきたのかがわかる。
ごん太の造形も独特だが、彼に匹敵する不思議な人形のバリエーションが1500体も並ぶ姿が想像できる。どうやってこんな造形を考案したのか、そのクリエイティビティの凄まじさに圧倒される。作者の名前とともに何世代も受け継がれてきた型。型がいかに尊重されてきたのか、大事にされてきたのかを考えると感動する。そして、どのごん太も纏っているピンクのショールが何なのかも調べてみようと思っている。
現在、稼働している工房はたったの2軒だが、そのうちの1軒は今の代で廃業すると決めているらしく、実質的には1軒だけになってしまう。津屋崎人形師は、毎年7月に行われる津屋崎祇園山笠の山の人形飾りも制作してきた。津屋崎人形師の技術の継承は祭礼の継承をも左右する。
伝統工芸は、少し深堀するといつも神様の話につながっていく。その度に、ものをつくるという行為は神聖なことなのだと気付かされる。
世界各地でGONTAの記念写真を撮っているうちに、GONTAと自分が重なった。
自分で自分のアリバイ写真を撮っているような感覚。GONTAが立っている場所は特別な意味を持ち始め、写真に写っているのはGONTAであり日本からやって来た私になった。彼の曖昧な表情が何かを語っているとすれば、それは私の頭のなかの言葉だと思う。
なぜ陶製の壊れやすいGONTAを、そうでなくても重たいスーツケースに入れて連れ歩くのかは自分でもよくわからないし、そもそも余計なことかもしれない。
EU離脱の可否をめぐって大騒ぎだったイギリスのマンチェスターからドイツのフランクフルトへ向かう。搭乗券はもはや紙ではなくてスマホの画面に。飛行機に乗るのは簡単になったものだ。難航していたブレクジットは無理じゃないかと、一瞬思ったりしたけれど、数ヶ月後には実現してしまった。ヨーロッパがひとつになるという長年の夢。その歴史的な実験が少しずつ綻びていくような気がした。新型コロナウイルスの影響で国境が次々と閉じられている今、今後、世界がまた分離する方向に向かうのではないかと案じている。
フランクフルトには、1980年代の後半に4年くらい暮らしていた。GONTAが立っているのはゲーテ大学のキャンパス。背景の彫刻は、20世紀を代表する哲学者・社会学者のアドルノ。フランクフルト学派の中心人物でゲーテ大学の教授を務めた。私がこの大学に通っていたときに社会学を副専攻にしたのは、フランクフルト学派に傾倒したからで、アドルノの弟子のハーバマスの哲学の講義を直に聴けたのは幸運だった。実際は難しすぎてほとんど理解できなかったが。
フランクフルトを流れるマイン川にかかる歩行者専用の橋「アイゼナーシュテーク」。名物のアップルワインを飲みによくこの橋を渡って対岸のザクセンハウゼンに出かけた。フランクフルトはドイツでは珍しく高層ビルが立ち並ぶ都会で、マインハッタン(マイン川とマンハッタンをかけた造語)と揶揄されていた。ドイツ人はこういう景観をあまり好まないようだった。
フランクフルトでは、旧オペラ座の近くに住んでいた。このオペラ座は第二次世界大戦中の1943年に爆撃で破壊され、38年間も廃墟のまま残された。1981年に元の外壁をそのまま活かして復元され、建設当時の美しい姿を取り戻した。現在はコンサートホールとして使われている。
この旧オペラ座から歩いてすぐのところに、世界10位の取引高を持つフランクフルト証券取引所がある。フランクフルトは金融の街だ。取引所の正面には、雄牛と熊の像があり、雄牛は高値(上昇)、熊は安値(下降)の象徴。GONTAは熊の方に親近感を覚えていたようだ。
この街に住んでいたころは気づかなかったが、歩道のいたるところに金属プレートが埋め込まれている。このプレートに刻印された文字を読むと「ここに、ヴァレンティン・ボルン(1891年生まれ)が住んでいた。1942年3月18日に連行され、1943年にナッツヴァイラー・フロッセンブルクで、175条に基づき有罪判決を受け、1945年3月5日に処刑された」とある。ナチス時代のユダヤ人迫害の歴史を忘れまいとする意思。
バイエルンの支配者が代々夏の居城としてきたニンフェンブルク宮殿。1664年にイタリアの建築家の設計で竣工した。広大な敷地に変化に富んだ風景がデザインされている。すみずみまで計画された人工的な自然はミュンヘン市民の憩いの場になっている。直前まで打ち合わせをしていたミュンヘン人に強く勧められて閉館間際に滑り込んた。彼自身は哲学者だが、家系は代々バイエルン王家の御殿医だったらしい。宮殿は一般公開されているが、所有者は今もバイエルン国王の家系であるヴィッテルスバッハ家だという。
ドイツは連邦国家で地域性が強い。なかでもバイエルン州は独自の伝統文化に誇りを持っていて、州都ミュンヘンは富裕層が多く古風な価値観を持っているという印象が強い。ベルリンを首都とするかつてのプロイセンとは対照的だ。好き嫌いは人によるけれど、ベルリン好きの私も何十年ぶりかにミュンヘンを訪れて少し好きになった。
サンディエゴには東京から直行便が出ているし、西海岸の都市だからフライト時間は意外に短くて、すぐに着いてしまった印象。しかし、アメリカは自分にとって、どうしても文化的に遠い国という感覚があって、いつもおっかなビックリだ。この時も、まず治安が気になり「サンディエゴ」「治安」をキーワードに検索したところ、1997年から2007年までの年間平均殺人件数は139人で、それは住民10万人につき12.2人の割合だと、Wikipediaに書いてあった。犯罪率は減少傾向にあるとのことで、2007年は市内で59人が殺害されたらしい。データが古いので何とも言えないし、この割合が多いんだか少ないんだかもよく分からないが、とにかく殺されないように気をつけようと思った。
予約したダウンタウンのホテルのロビーには大画面テレビがあってニュースをやっていた。トランプ大統領のロシア疑惑の話で、どのメディアも反トランプだったが、大統領の地位はゆるぎなく今日に至っている。次期はどうなるかと少し心配している。
ホテルはダウンタウンと決めている。豊かな自然環境に憧れはあるが、市街地が落ち着く。街もそうだがホテルの中も観察する。色んな人が色んな用事でこの街を訪れているのを外見から想像する。不思議なプロダクトも観察する。ロビーに常備されているレモンとハーブが入った爽やかな水の側にはどこにも置けない底が尖った紙コップ。日本の桜の香りとうたった芳香剤は桜とは無関係のケミカルな香り、など。
アメリカはどこへ行っても移民の歴史の話が出てくる。サンディエゴはメキシコとの国境の街だ。歴史的には大航海時代にスペイン人がやって来てスペイン領になり、その後、メキシコ領になったが、1840年代のアメリカ・メキシコ戦争でアメリカに譲渡され、その後カリフォルニア州に組み入れられた。地名の多くは今もスペイン語で、現在でも街中のサインは2カ国語表記されることがある。サンディエゴからメキシコに国境を跨いで通勤する人も多いらしい。その逆は分からない。確かトランプ大統領が国境に壁を立てるという話があったっけ。メキシコ料理のレストランがたくさんあるが、もやはサンディエゴ料理といえそうだ。
滞在したホテルはダウンタウンの旧市街にあった。このエリアはサンディエゴ発祥の地と言われている。フランシスコ会修道士がやって来てここを拠点にキリスト教の伝道を始め、ヨーロッパからの入植者が集まり集落を形成したことによるらしい。その名残かリトル・イタリーという地区があり、イタリア料理のレストランが立ち並び、今もイタリア語が飛び交う。多くのレストランの入り口には、イタリア移民の祖先がどいう経緯でここに渡って来て、どうやってこのレストランを開くにいたったのかの苦労話や成功談を記したプレートがかかっている。何世代にもわたって、ルーツの文化を受け継いできたんだろうと思った。
サンディエゴにはアメリカ海軍の軍事基地が多数あるらしい。航空母艦ミッドウェイを背景にGONTAの記念写真を撮った。ものすごく巨大で全体がどんな形をしているのかよく分からない。この空母ミッドウェイは、第二次世界大戦中の1943年に製造が開始され、2年後の1945年に進水したという。軍事の知識はさっぱりでよく分からないが、どうやら世界中を航海し、大西洋艦隊や第6艦隊、第7艦隊などに配属され、世界に紛争や危機が起きるとそこへ行って軍事展開してきたらしい。横須賀を母港としていたこともあったそうで、ベトナム戦争や湾岸戦争にも参加したという。現在は、海軍航空博物館となっていて、とてつもなく広くて見学には丸一日かかるそうだ。個人的にはそういうものをみる気にはなれない。
周辺のウォーターフロントパークには、海軍兵と看護婦がキスしている巨大な彫刻がある。1945年、トルーマン大統領の第二次世界大戦の勝利宣言を聞き、抱き合って喜ぶカップルの当時の写真をもとに制作された彫刻だと説明されていた。ほかにもボブ・ホープという当時の伝説的なコメディアンが、軍隊を慰問した場面をリアルに表現した彫刻群もある。その彫刻を背景に自撮りする中国人観光客を背景にGONTAの記念写真を撮った。複雑な気持ちになった日。
サンディエゴでの最後の食事は、SANUKIYA UDON。どう見ても讃岐うどんではなく「FRESH JAPANESE STYLE UDON」でもないけれど、何だか嬉しい。
Thank you for reading texts for so long...