写真 第1回山形県民ふれあい書道展 山形美術館入り口で
文責 菅野苔石
・県内書道愛好者のための公平な文化活動の場として、展覧会審査はより健全であらなければならない。
・営利に結びつく審査のし方は排除する。
・高校生や学生の作品は、教育上の観点から観る必要がある。
・中央展のまねではなく、本県に合ったカラーにする。
本会を立ち上げるにあたり、色々な方により意見を求めた。その中で、名称を「ふれあい書道展」としたらというものがあり、まさに「ふれあい」の書道展を開催する意欲にも繋がり「ふれあい書道展」と書いた。多分そのあとと思うが、金沢山形市長は今期限りで引退する旨をひそかに告げてくれたので、手ぐすね引いて第1回展は会長不在で開く腹をかためた。
山形美術館には何度も足を運んだ。主として借館の時期とか経費補助の件で、秋には総合書道展があるので、7月初旬に落ち着いた。県費から芸術団体へ金が出ていること、それを山形美術館に委任していることが、県教委との交渉でわかった。その金は県美展と県写真展そして総合書道展、この三つに分けているが、額が少ない上に書道二つには無理だという結論になり、入場料制にする事で折り合う。その点で美術館は単なる貸会場ではない、半ば共催の関係にある。これらの交渉以前は、二つにわれた総合書道展の仲裁をしてくれた。会場をグランドホテルに移したりしたが、収拾しなかった。当時の事務局長は以後の本会の立ち上げに支援を惜しむことはなかった。
よりどころのない者の集まりとしては、後援はほしいもので、県内各市には地区の役員が、県以下報道機関を執行部が担当した。どこも首尾よくとりつけた中で、県教育委員会だけはその三月中に承認されず、手を回されたのかと話したりして、年度の変わる四月には担当が変わることを願って待ったのでした。四回も五回もの交渉の中で「県民」は山形県が県民芸術祭を行っているから使ってだめだとの指示もあって第1回展の要綱やポスターにはなく、白紙に一枚書いたのが原稿となった。皆は「県民」を入れたいと思っていたから、忘れたことにして2回展からは入れた。そこだけが活字になっている理由です。
第1回展の審査員を決めなければならない12月、國井誠海先生をたずねた。県民書道展の状況と現在までの進捗状況を伝え、ご協力を仰ぐべく、話は深夜まで及んだ時、賞状の原稿揮毫をお願いしてしまった。「賞状はあんた達の方がうまいんでないか。」と言われたが結果は了解、気さくな先生で話は多岐にわたった。毎年賞状を見るたびに思い起こします。
会長の件について、当初から政治家を避ける意見が多く、ごく初めの頃山形新聞社長にお願いしてみてはという意見が出たので、議事録に書いてあったからだろう、県総合書道会側からご当人に伝わって、山形美術館を通してお目玉をくった。そのあとになって金沢山形市長引退の話を聞いており、逆であればと悔いた、もはや忘れかけたのが、この度の20回記念講演会講師の片野達郎氏が体調を悪くして、四月に茂吉記念館長を辞任の旨申し出をしたところ、当館の理事長になっていた氏が「七月に講演を依頼されている由、その団体は私も知っているので、やめずに公演の日まで館長でいて下さい。」としばし留任をお願いされたとのこと。知り合いとはさまざまなものだと感じ入った次第。
金沢忠雄会長として十年、市長時代は私達弱小グループの新年会等にもわざわざ来てくださった。市長七期27年、多忙だからすぐお迎えの車が、ビールをコップ一杯グイっと、さしみは箸を斜めに入れると四、五切れ一挙にパクっともう歩き出している。引退となれば色々な団体がお願いに行くのではないか。確実に受諾してもらうため再度田中哲氏にお願いをしておいたところ、東北芸工大理事長室へ来るようお達しがあり、3、4人で出向いた。理事長室には執務室と応接室があった。すぐに出てこられたので結論から先に切り出したところ、「ああいいよ」のご返答に皆の顔がゆるんだ。それからの2回展以後、県内各市から祝電、どこかの市長さんじきじきに展覧会を見て芳名簿に記帳してくれた。傘の下とはプレッシャーからの解放でもある。
生みの苦しみの中、役員各自よく動いて下され、第1回展を開くための準備資金がないので協賛者を募りお願いをした。協賛者に支えられての出発だったことを忘れてはならない。その審査員を決めるべき頃、本県内の騒ぎが中央にも聞こえて、兄弟子の成瀬映山氏が、「菅野君審査員は決まったのか。よかったら推薦してあげようか。」と津金孝邦・井茂圭洞両先生に推薦理由をあげた上で、「よかったら電話しておくよ。」と心配して下さったのか励ましてくれたとも思った。それで國井先生を含め3名の審査員で堂々の船出となった。が仕事にあたった役員は大変苦労をされた。ジュニア部も作業が5時までに終わらず、教育会館の大ホールに作業場を移して、遠方の方はホテル泊まりとなったことを思い出します。
協力一致と書いた横額が新庄南高校職員室正面にあった。鶴岡の松平穆堂先生の書になるのを、11年毎日見ていたからかしっかり脳裏に写る。その持つ意味が今更に彷彿とし、会員各位に一体感をかみしめている。
上記、菅野苔石の文は本紙より抜粋