(みやじまえいし)
米沢猪苗代片町(米沢市)生れ。
慶応三年(1867・10・20)~昭和18年(1943・7・9)。
本名は吉美。通称は大八。師は張卿。
東京外国語学校中途退校。中国語学者。
11歳で勝海舟の門に入り、15歳で興亜学校に入学。16歳で東京外国語学校支那語学科に転校。二年間の在学中、後の二葉亭四迷と同級で、一緒に退校している。亡くなった際には墓誌銘を揮している。清国公使に勧められ20歳で張廉卿に師事。八年間に及び、経学、文章、書法を学んだ。師の死に水を取り帰国。その後は中国語の塾「善隣書院」を開き子弟を育成した。東京帝国大学、東京外国語大学講師を務め、中国語を教える。生涯門弟三千を超えると言われる。山本五十六も戦中に中国との国政や情報を乞いに訪問している。代表作に大養毅(木堂)の墓誌銘がある。書はあくまでも自分の人格を高める手段であるとの考え方から、他人に見せる展覧会を嫌った。
「元好問 赤壁賦の句」
得意江山在眼中、凢今誰是出群雄。
「七言律詩」
海外真看更九州、高天下地忽同流。傳聞弱水西王母、紛起人間傳望侯。大鳥翩翻横海下、天吳睒賜睨人愁。司農歲發金钱盡、傳得蒲萄一醉休。
「山田蠖堂・三叉江之詩」65歳
贖佳人々々顰、太守嗔 。妾身任君殺、妾身任君活。妾身已有伍郎在、妾心不可奪。握裹鬢髮亂如糸、木蘭舟中斬娥眉。遺恨不知深幾尺,三叉之水終古碧。
「宋 岳忠武王之語」59歳
國之有忠義、猶天地之有元氣也。天地非元氣、不運國非忠義不立。
(さいとうもきち)
南村山郡金瓶村(上山市)生れ。
明治15年(1882・5・14)~昭和28年(1953・2・25)。旧姓は守谷。
東京帝国大学医科大学卒。歌人、日本芸術院会員、文化勲章受章。精神科医。】守谷家の三男として生れ、14歳で齋藤紀一に寄傷。
32歳で次女の輝子と結婚し婿養子となる。23歳、正岡子規の「竹の里歌」を読み作詩の志を抱く。その後、伊藤左千夫に師事し、歌誌「馬酔木」や「アララギ」に歌が載る。ドイツ留学後に青山脳病院を再建し、院長となる。「柿本人麻呂」の研究で学士院賞受賞。
歌人として日本芸術院会員となる。歌集に「赤光」「あらたま」「寒雲」「白き山」など全十七冊。特に大石田町に疎開中の「白き山」
は山形の山河を歌い上げている。書は幼少時に佐原窿應の影響で中林梧竹、中学では西川春洞の書を学び、特に竹の書を珍重した。
大石田に疎開した折には、彩色の植物や果実などの静物画も描いている。
みすずかる信濃高原の朝めざめ口そそぐ水に落葉しづめり
神の代のとほき明りのさす如き安けさにゐて啼く鳥のこえ
松風のつたふる音を聞きしかどその源はいづこなるべき
にんげんは馬牛となり岩負いて牛頭馬頭どもの追ひゆく處
さ庭べの八重山吹の一重なりしばらく見ねばみなちりにけり
土屋竹雨
(つちや ちくう)
鶴岡市家中新町生れ。
明治20年(1887・4・10)~昭和33年(1958年・11・5)。本名は久泰。字は子健。
東京帝国大学法学科卒。漢詩人、日本芸術院会員。大東文化大学初代学長。
幼少より祖父から漢詩教育を受ける。大学在学中より多くの漢詩学者と研鑽し、漢詩漢文の第一人者となる。著書に「日本百人一詩」「漢詩大講座」三巻等がある。また「原爆行」は世界で翻訳され流布している。酒をこよなく愛し、蘭を愛で、興到りて筆を執り、詩や水墨画をものにしている。清貧を求め、揮毫しても潤筆料を求める事無く、どうしてもと言われた時には「釘三本」と言われた有名な話がある。若い頃より書の研鑽を積み、扁平で右下がりに特徴のある文字は、詩人の書として一般の書家と風格を大きく異にしている。
「芳山懐古」
天子當年駐翠華、故宮啼老白頭鴉。
青山長是傷心地、輦路春風又落花。
土屋竹雨
「緝熙樓偶拈」 54歳
君居清且曠、使我意從容。葉動生虚籟、雲開見數峯。
徴池魚不種、奇石蘚深封。半夜得明月、高懸百尺松。
土屋竹雨
「自東村沿梵字川上湯殿山」
久説三山勝、今爲百里游。穿雲攀絶壁、躡石涉飛流。
陰潤虹身幻、深林鹿跡幽。天風何浩浩、來自月峯頭。
土屋竹雨
「杜甫詩句」70歳
乾坤一艸亭
土屋竹雨
「水墨山水」
木落鳥巢露、前山雪欲來。
吉田苞竹
(よしだ ほうちく)
鶴岡市十二軒町生れ。
明治23年(1890年・12・20)~昭和15年(1940・5・1)。本名は茂松。字は子貞。師は黒崎研堂、日下部鳴鶴。山形県師範学校卒。書家。
幼少より黒崎研堂の門にあり、師範学校卒業後は小学校教員となり、文研に合格して酒田高等女学校教諭となる。この時期は各種競書雑誌にて常に上位入賞している。その後、日下部鳴鶴の門に入り、書道大成の志を抱き28歳で上京。古神帖の研究や月刊誌「神帖大観」を発行するなど、正統な書道の普及と発展に寄与した。書壇社や東方道会を設立し、多くの後進の育成に当たる。漢詩の学習、硯等の文房の収集にも努めた。各地で講習会を開催し多忙を極め、49歳で講演中に倒れ早逝した。長命であれば、戦後の書道界が一変したであろうと言われる。
「杜甫•韋諷錄事宅觀曹將軍畫馬圖」
國初已來畫鞍馬、神妙獨數江都王。將軍得名三十載、人閒又見眞乘黄。
會貌先帝照夜白、龍池十日飛霹靂。内府殷紅瑪瑙盤、婕好傳詔才人索。
盤賜將軍拜舞歸、輕紈細綺相追飛。貴戚權門得筆跡、始覺屏障生光輝。
昔日太宗拳毛騧、近時郭家狮子花。今之新圖有二馬、復令識者久嘆嗟。
此皆騎戰一敵萬、縞素漠漠開風沙。其餘七匹亦殊絕、迥若寒空動煙雪。
霜蹄蹴踏長楸間、馬官廝養森成列。可憐九馬爭神駿、顧視清高氣深穩。
借問苦心愛者誰、後有韋諷前支遁。憶昔巡幸新豐宮、翠華拂天來向東。
腾驤磊落三萬匹、皆與此圖筋骨同。自從獻寶朝河宗、無復射蛟江水中。
君不見金栗堆前松柏里、龍媒去盡鳥呼風。
吉田苞竹
「李白・済平調詞の一」
雲想衣裳花想容、春風拂檻露華濃。若非群玉山頭見、會向瑶臺月下逢。
吉田苞竹
「論語・述而篇語」17歳
飯疏食飲水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣。
吉田苞竹
「菊華圖」
陶家遺愛