サニヤ・バヤーニッチ
6月5日
本発表は、人工知能以後のカント読解を試みるユク・ホイと、技術哲学を展開したベルナール・スティーグラーの思想を接続することで、アルゴリズム社会をエージェンシー、判断、個体化の変容として理論化するものである。
ホイは『Kant's Machine』において、現代の機械を知的・道徳的・政治的存在として理解しうるのかという問いを、カントによる合理主義的機械観および経験主義的機械観の批判を再検討することを通じて提起する。彼はサイバネティクスと人工知能を、判断力、自律性、理性の問題系のなかに再配置することで、AIを単なる技術的システムではなく、批判、責任、そして集合的方向づけの条件そのものに対する挑戦として捉える。
これに対しスティーグラーは、技術を人間の外部に位置する道具ではなく、第三次保持(tertiary retention)を通じて記憶、欲望、個体化を構成する根源的条件として理解する。したがってデジタル技術やアルゴリズム的システムはファルマコンとして機能する。それらは集合的知性やケアを支える可能性を持つ一方で、プロレタリア化や方向喪失を引き起こし、savoir-faire、savoir-vivre、savoir-théoriser の喪失をもたらしうる。
本発表はこれら二つの理論的枠組みに依拠しながら、かつて精神分析が論じた「影響機械(influencing machine)」が、今日ではアルゴリズム的インフラとして常態化していると論じる。現代の主体はもはや外部からの支配を幻覚するのではなく、ランキング・システム、推薦アルゴリズム、予測分析、さらには Model Context Protocol(MCP)のような技術的装置によって、絶えず呼びかけられ、評価され、形式化されているのである。これらのシステムは関連性、正当性、記憶、権威の条件をあらかじめ組織化し、解釈そのものの前提を構成している。
この観点から本発表は、機械が生み出す出力の分析から、解釈を可能にするプロトコル的条件そのものの批判へと視座を移す。スティーグラーの観点から見れば、こうしたプロトコルは中立的なインターフェースではなく、心理的・集合的個体化を方向づける器官学的配置(organological arrangement)である。他方、ホイの観点から見れば、それらはAI以後における批判的理性の可能性を試す新たな試金石である。
最終的に本発表は、エージェンシーの回復を個人による抵抗の問題としてではなく、プロトコル設計の政治、制度的異議申し立ての可能性、そして判断の技術的条件に対する集合的ケアの実践として捉え直すことを提案する。
長坂真澄
本発表の目的は、ユク・ホイの著書『Kant's Machine』を、理性が直面するさまざまな二律背反との関係において論じられる「理性のエピジェネシス(epigenesis of reason)」という概念に焦点を当てながら紹介することである。
本書においてホイは、「理性のエピジェネシス」という概念を中心的な導きの糸として用いながら、AI時代における人工知能と人間にとっての認識(たとえば知能)の可能性、道徳の基礎づけ、さらには永遠平和の実現可能性を探究している。
エピジェネシスという概念は、『純粋理性批判』(1781/1787年)と『判断力批判』(1790年)において異なる文脈で登場する。一方では経験の可能性の基礎となるカテゴリーに関わり、他方では生殖を通じた種の発展に関わるものである。ホイは両者に共通する思想的着想を読み取り、さらにこの概念を『実践理性批判』(1788年)で論じられる「理性の拡張(Erweiterung der Vernunft)」と結びつける。カントによれば、この拡張を通じて実践理性は、理論理性によってその客観的実在性を証明することができないにもかかわらず、神、自由、不死を要請する。この解釈に基づけば、エピジェネシスの概念は三批判書全体を貫く基本的なモチーフとして理解することができる。
本発表ではまず、カントが理性のエピジェネシスおよび理性の拡張という概念を展開する諸文脈を概観する。続いて、このエピジェネシスがなぜ認識の可能性、道徳の基礎づけ、永遠平和の追求にとって不可欠なのかを検討するとともに、それが理性の直面する二律背反の解決においてどのような役割を果たしているのかを考察する。この検討は、目的論的判断の二律背反と、それを規定的判断力と反省的判断力の区別によって解決するカントの議論へと至る。
さらに本発表は、『Kant's Machine』の紹介を踏まえつつ、この問題系をシェリング『超越論的観念論の体系』(1800年)におけるカントの二律背反解釈と接続することを試みる。そこから、理性の自己展開としてのエピジェネシスという構想が、ドイツ観念論の展開のなかでいかなる意義を持ちうるのかを考察する予定である。
Abudjana H. E. Babiker
2026年6月12日
本発表は、植民地帝国の時代が始まった15世紀以降、戦争と勝利の概念がいかに変容してきたのかを考察するものである。戦争の形態や勝利の実現手段が変化したにもかかわらず、敵対性(antagonism)という基本的な構造は、今日に至るまで存続していると考えられる。
東インド会社(EIC)は、国家でも私人でもない半主権的かつ自律的な主体として登場し、敵との直接的な対決だけでなく、さまざまな媒介的・間接的手段を通じて勝利を生産する新たなモデルを提示した。そこでは、戦争や代理戦争は勝利を獲得するための一時的な行為へと位置づけられ、勝利そのものはより持続的な制度的・空間的編成によって支えられるものとなった。通常、戦争と勝利の言説は敵の存在を前提とするが、東インド会社は敵の位置づけを周縁化し、敵対性を別の形で組織化するとともに、インフラストラクチャーを通じて勝利を構築し制度化したのである。
さらにバビカーは、植民地プロジェクトおよび東インド会社的モデルが、今日の制度的危機のなかでも変容しながら存続していると論じている。本発表はこのモデルを空間的観点から検討し、領土や地理空間、ハードおよびソフト・インフラストラクチャー、さらには建築そのものが能動的な主体として機能していることを明らかにする。これらは制度的な免疫論理(institutional immune logic)を通じて作動し、長期的かつ持続的な勝利の生産に参与している。
また本発表では、こうした「勝利のインフラストラクチャー」に関する複数の事例を取り上げながら、ペタル・ボヤニッチの提唱する「勝利する精神(victorious mind)」の概念との関連を検討する。そのうえで、国家主体のみならず非国家主体によっても活用される勝利のインフラストラクチャーの必要性と、それらが「絶対的勝利のプロジェクト(the project of absolute victory)」を維持・再生産するうえでいかなる役割を果たしているのかを論じる。