矢倉(やぐら)は、宿場町草津に列なる東海道沿いの街道集落であり、また大津への短絡路である矢橋道が分岐する交通の結節点でもあった。
享保6年(1721)の矢倉村明細帳によれば、当時家数144、人数794を数えるまでに発展していたが、もとは街道より西方300m余り離れた「矢倉若宮八幡宮」周辺に戸数3,40戸余りからなる小集落であったという。
その小集落が慶長19年(1614)、膳所(ぜぜ)藩主戸田氏鉄による草津宿の拡張・整備を目的とした、矢倉村の東海道沿いへの移住策が図られ、街道集落としての形態が整ったのである。
全国的にも著名な「草津名物姥が餅屋(うばがもちや)」も、当時は矢橋道との交差点に店先を構え、旅人相手に繁昌を極めたことは多くの浮世絵で周知のとおりである。
一方、矢倉の故地には現在、応神天皇を祀る矢倉若宮八幡宮(やぐらわかみやはちまんぐう)が残るのみで、旧状を窺うべくもないが、矢倉村の村名起源に因む(矢倉若宮八幡宮は、応神天皇が東国巡幸の時、この地に兵庫を建て、武器を蔵した」ことにより「兵庫(ひょうご→やぐら)、矢倉村と改称)と称したという縁起を伝える武神奉祀の古社である。
加えて、当宮南側の宇都屋敷においては、昭和53・54年に実施された発掘調査の結果、鎌倉時代から安土桃山時代にわたる建物跡、井戸跡等の旧矢倉村の遺構が確認された。
横穴式石室を有する古墳で、かつて「円面通宝」が出土したと伝えられる「若宮八幡宮古墳」、さらに近年の草津川新川用地内における発掘調査により、古墳時代から奈良・平安・鎌倉時代に及ぶ大規模な集落跡の実態も判明し、矢倉が古代から開発の進んだ地域であったことが証明されつつある。
なお、旧矢倉村から移住した家人達は、今も「居住組(いじゅうぐみ)」と唱え、「サンヤレ踊り」と呼ばれる囃子物を継承し、矢倉若宮八幡宮の祭事を執り行い、矢倉の伝統を守りつづけている。