<主催者イムラーン 紹介>

<この活動の理念>

 はじめまして。このページをご覧いただき、ありがとうございます。

 私は米国催眠療法協会(複数)認定の催眠療法士・催眠療法トレーナーであり、現在、催眠療法という潜在意識へのアプローチをベースとして様々な角度から心身魂を癒す心理療法研究・セラピストをしております。音楽家でもあり、心理と音楽も繋げながら、いろいろと楽器も研鑽中です。

「それぞれ個々が自分の可能性をどんどん拓き、癒し、ただあるがままでいつの間にか自分が発揮され、ありのままの姿でいつの間にか支え合い・補い合いの社会が広がっていく…」をコンセプトに、Easy Going Life Communityというコミュニティも主宰しております。


 …と、挨拶すると、ごくごく社会一般のひとに、見えますよね。

 …ん、見えないか?確かに催眠療法士、というものだけでも、少しばかり珍しい(マイノリティ)ではあるかもしれないが。

 しかし、ここで驚かれては先に進むことができないので…。

 上記は、ごく一般的に聞こえる自己紹介をしてみました。しかも、個人的なことは出さず活動だけを軸とした自己紹介、ですね。そして、実は性別や名前すらも、言っていない自己紹介…でもあります。お気付きでした?

 しかし、こんなものでも人というのは、ある程度、聞かされた情報だけで、「その人」のことを知った気になってしまうものです。

 もう少しだけ…自己紹介、させてください。


 私は、今は辛うじてImran(イムラーン)と名乗って社会で活動をしてはおりますが、実はついこの前までは、自己紹介を求められて、「名乗る」ことすら、性別や年齢を答えることすら、できなかったのです。

 なぜなら、敢えて医学的に区分けされた名称に当て嵌めると、「解離性同一性障害」と現代日本では呼ばれる状態で、これはいわゆる「多重人格」状態なのですが、「私」というものがそもそも誰を指すものなのかわからず(一番多い時には交代人格が120名を超えました)、そもそもその「状態」を知らないひとには、自己紹介のしようすらなかったからです。しかし、だからといって自己紹介の一言目から「解離性同一性障害」を出したところで、理解などされません。解離性同一性障害、現代日本では、実は精神科医ですら、理解してくれないのです(寧ろもし伝えてしまったら、「ここでは診られません」と追い出される始末)。一般人への自己紹介ではもう何一つ、伝えようがありませんでした。

 ちなみに私の解離性同一性障害(と当て嵌められるような状態)に関しては、やっと出会うことのできた解離に理解のある医師・カウンセラー、また、私の心理療法の師とそのお弟子さんたち、その後の私自身で当事者兼研究者の視点から編み出してきた自己セラピーにより、現在は社会生活においてはほぼ「寛解」と言える状態にはなっているのではないかと思われます(寛解、の定義も難しいのですけれどね)。

 少なくとも私は、現在解離の専門家自体が少ない中で、当事者&研究者としての当事者向けカウンセラー・セラピストとしてやっていた時期もあります。また、「解離」という現象自体、実はヒトには当たり前にある現象なのです。それが「通常と違う理解されにくいような形で起こったり、起こる必要のないところで誤作動したり」して、「社会適応に問題を起こす」と、「障害」と呼ばれるようになります。少なくとも今現在は、私は「解離」によって起こる因果をすべて、私自身の研究やセラピスト・音楽活動に活かすことができている状態である、という意味においてコントロールできており、「寛解」と言える状態です。


 もうひとつ、自己紹介させてください。

 私は、現在この文章をPCで打ち込んでいますが、どうやって打ち込んでいると思いますか?「普通」に、画面を見ながら文字面を目で追いながら、こんな大きなWebsite、しかも別のところで毎日記事も挙げているようだし、一日中作業しているのだろう、と、思いませんでしたか?

 実は、私の事務作業時間…いや、そもそも一日のうちで「視覚情報をそれなりにでも扱うことのできる時間」は、せいぜい3時間程度です(24年3月現在)。

 しかも、朝いち。何度も眼球の反乱(拒否反応)や休憩を挟みながら。そして、PC画面の輝度を通常(大抵100)から10まで落とし、その上で可視光遮光率86%(14%しか光を通さない)の遮光グラス…に実は更に遮光シートを貼ったものを着用して、しかしそうすると今度暗すぎてコントラストがなくなり結局見分けることができないため「白黒反転」「拡大」「音声操作」を駆使しながら、その日の視覚情報処理能力の耐久時間の中でできるだけの最優先事項を決める形で、少しずつ、少しずつ、作業をしています。

 その上に、実は私は、動くものの刺激(動体刺激)に耐えることができないようです。自分が僅かに動くだけでも視界(焦点)は動きます。更に、PC画面で打ち込んでいれば文字がどんどん動きます。何も打っていなくてもカーソルが点滅していたりします。そのため、私は結局、作業時もほとんど目を開けていることができません。どうしても見なければならない時だけ、ピンポイントに絞って、自分が静止し、画面も静止状態である上で、僅かだけ右目を開けます(他者から見ると睫毛で隠れているほど細すぎて、閉眼状態に見えるようです)。それで、要するにほとんど識別できない僅かな隙間&静止状態で時間をかけて認識して、また目を閉じ、ほんの少しだけ角度をずらして、また同じことをして…ごくごく僅かしか写すことのできない小さなカメラでカシャ、カシャと撮って行って頭の中で現像して並べ、僅かな情報で判断する、というのが、私の視覚情報および事務作業の処理方法です。文字を打ち込んでいる時も、外出時も、日常雑事もほとんどすべて閉眼状態です。視力があるないの以前に、動くものに眼球や視神経、脳回路が耐えられず拒否反応を起こすのです。それでも無理やり目を開けている時間が長かったり、閉眼でも瞼の外側からであっても光刺激が蓄積したりすると、眼痛・頭痛・吐き気や眩暈、身体全体の不調に及び、下手をすると数日寝込んでも体調がなかなか回復しないこともあります。

 …しかし、Websiteや記事を見ているだけでは、とてもそんな「マイノリティ」な状態だとは、思わないでしょう。

 どうしてそんなこと(視覚障害状態)が起こるのか。医学的な説明は別の記事に回しますが、これは視機能(視覚情報処理)の障害です。

 私は、実はここでもまたマイノリティが出てくるのですが、出生時(もしかしたら出生前にも)のいろいろな事故で難産となり、脳に酸素が不足した影響(でないかと恐らく思われる、という診断)で、先天性脳性小児麻痺の状態を呈していました。重度のアテトーゼ型脳性麻痺で、当時なかなかいろいろなところでもうまく診断がつかなかった挙句、7人の医者が次々に診断して少なくとも全員が口を揃えて「この子は成長しても100%寝たきりになるだろう、自分で動くことができても背這いしかできないだろう」と言ったような状態であったそうで、今現在こんなことをしているというだけでとんでもなく奇跡的な話のようです。

 幼い頃から「追視ができない」「おもちゃに反応しない」などの視機能の異常はあり、一番最初の診断書にも「視覚障害」の記載があります。眼球の構造と発達にはどうやら異常がなかったらしいのですが、つい最近、やっとこういう症状に対応できる(研究している)権威の先生に辿り着いて言われたことは、「”見る””視覚を使う”ということに必要な視神経や脳の回路も含めた”見るメカニズム回路”が、定型(通常)の発達をしなかったのではないか」という見解でした。

 しかし、実は、医学の領域はまだまだ歴史が浅く、そして当然ながら人間の手の届く範囲しか研究できていないため、外側から見える部分やMRI(脳の輪切り静止画像)などで機構の異常は少しはわかっても、視神経や脳の広範囲の領域を連携させるメカニズムや信号が”どう動いているか”など信号伝達の状態の異常や不通などは、実はまだまだ存在すらも気付かれておらず、異常や不通があってもそれに「病名・疾患名」がついていません。その私を診てくださった眼科の権威は、僅かな研究者がやっと気づき始めた、しかしそれで日常に重大な支障が起こっているヒトは実は物凄く多い(自分の状態自体に気付けず言語化できないから声を上げられないだけ)、視神経や脳の回路の異常や連携不全の問題を、10年程前に「眼球使用困難症候群」とひとまず総称し、認知できるようにしようと動いておられるようです。

 眼球使用困難症については、こちらこちらの記事で説明していますので、ぜひ一度、読んでみていただいて、まずは「知って」みていただきたいのですが、ひとまずここでの自己紹介としては、私は周囲から見ると、白杖に遮光グラス(の上に閉眼)、ほぼ弱視か全盲の視覚障害者のように見られる外見と生活をしております。


 先天性脳性麻痺に始まり、視神経や脳回路を含む視機能異常、解離性同一性障害、これだけでも専門家すら少ない、一般的には更に認知されていない<マイノリティ>ばかりなのですが、

そこから二次的に発達障害、感覚過敏、今ではHSPと呼ばれるような状態、神経症や精神疾患、性同一性障害もありますので今の社会的言い方で言えばLGBTと振り分けられるような状態でもあります。

 …我ながら、マイノリティの宝庫の人生を歩んでいるようです…。

 そして、専門家もほとんどいない疾患の複雑複合状態でしたので、結果的には己で古今東西のあらゆる理論や療法を学び、組み合わせ、自分を含め個々に適応させることのできる体系を編み出し、一番深くヒトの根源的部分(宇宙にも繋がる潜在意識と身体そのもの)を科学・スピリチュアルなど領域を超えて貫く理論と技法「催眠」というこれまたマイノリティ(笑)を駆使し、視覚を使わないゆえに逆に晴眼者の感覚では観察発見困難な領域をも複合させて、マイノリティどころか独自の編み上げた体系にて心理療法研究家・セラピスト・音楽家をやっております現在です。

 そうそう…音楽の領域でも、どういう因果でしょうね。日本では非常にマイノリティである、アラビアの民族楽器を研鑽し、演奏やセラピーにも活かすことができるよう、研究しております。ちなみに元々の専門は声楽です。


そんな中で、同志たちと立ち上げたEasy Going Life Communityという活動。

その中でこの度、「障碍・社会的マイノリティ部門」のコーナーを立ち上げました。

 障碍、社会的マイノリティ、疾患などと(社会的には)呼ばれるような状態で、もしくは外国からの移住など”言葉の壁”というような状態だけでも、そのために現代の日本社会とうまくかみ合わず、いや、うまくかみ合う方法がないのだと感じてしまい、自分は置いて行かれるのだ、自分は社会について行けない、劣等なのだ、などと、実はご自身の中にたくさんの可能性が眠っているのに、少なくとも誰にでも「自分を心地良く生きさせる」権利と能力は眠っているのに、それらを閉ざされてしまう、閉ざしてしまうひとたちが、この世には本当に大勢います。寧ろそれはまったく<マイノリティ>などではなく、本当に世の中の大勢<大多数>のひとたちがそんな状態です。

…しかし、世の中、社会というのは、そういう人たち(大多数)によって成り立っているのなら、この状態で世の中・社会がうまく回るわけがありませんよね。

ひとつひとつの障害やら疾患やら”(ひとりひとり違って当たり前の)複雑な状態”を別物と見ればそれぞれはマイノリティと言われても、それで生きづらさを感じて社会に対して自分を閉ざさざるを得なくなっている人たちは社会の実は大多数。社会はそういう人たちで成り立っているわけですから。


そしてどんなに少なくとも、そのひとりひとりの人たちは、社会で生きている状態において、「基本的人権」を自分の中に守る権利があります。法律では寧ろ「向上に努めなければならない」とすら書いてあります。

そして、心理セラピストをやってきて、他のセラピストさんやいろいろな人たちと話してきて、歴史的に体系化されてきたあらゆる学問を見て、つくづく思うのは、「ヒトはひとりひとりに、ちゃんと自分自身の可能性を拓き心地良く生きる能力を持っている」ということです。

この2点が揃っているのに、なのに、何かが複雑にちぐはぐになり、社会がうまく回らなくなっている、そして社会の構成員であるあなたや私たちひとりひとりが、なぜだか自分を閉ざす方向にばかり進まざるを得なくなっている。

これは、おかしいですよね。


これがちぐはぐになる理由のひとつに、「バリアフリー」を謳うために、流行らせだした「平等」というものがあるように思います。「平等」の定義は、何でしょうか。

今、国や社会の風潮では、「平等」=「誰もが同じことを同じやり方でやる」こと、であるかのように流行らせているように感じます。どう思いますか?

「平等」というのは、「(それぞれ違う個体であるそれぞれが)みんな、自分のやり方で、やりたいことをやる」(もちろん社会的倫理などはあります)…つまり、「みんなができていることを誰かだけができない、という状態はおかしいのでは?みんながやっていることは、個体の差はあるけれども、その個々の個体の心地良い形で、実現する権利はあるのではないですか?」という提起ではないか、と、私は思っているのです。少なくとも、「赤ん坊も大人も巨大なお相撲さんも高齢者も手足を持っておられないひとでもみんな同じやり方で同じサイズの服を着ることができて然るべきだ」というような意味ではないと思うのです。「生きやすい」ための「平等」のはずではありませんか?


少なくとも、「少しでも自分の人生心地良くしたい」という人たち、「支え合い・補い合いの優しい社会を望む」人たち、まずはご自身の人生やご自身の大切な存在の人生から、心地良くしていきませんか。

「ヒトはひとりひとりに、ちゃんと自分自身の可能性を拓き心地良く生きる能力を」持っています。

それを、一緒に、拓いていきませんか。

また、それを拓いていけば、おのずと、自然と、周りにもそれが拓かれ、周りの人たちもいつの間にか癒されるようになっていき、本当に優しい、ひとりひとりがあるがままの姿でその人それぞれの可能性や役割がどんどん拓かれて発揮されていき、お互いがお互いにいつの間にか支え合い・補い合っている…そんな社会の輪が、必ず広がっていきます。

そのために、私たちは、Easy Going Life Community、またここのコーナーを立ち上げました。


と、同時に、例えばですが私のように(眼球を扱う)眼科でも(脳の機構を扱う)脳神経内科でも(精神疾患を診る)精神科でも手が届かない狭間の領域の視機能使用困難状態や、私自身が当事者でもあり今はセラピストとしても向き合っている、(行動科学としての表面化した症状を扱う)精神科でも脳神経内科などでも手が届かない、魂に近い心と身体の深い深い部分の傷…そしてそれによって人生や社会生活が困難となっている解離性障害や愛着形成不全などの問題によって芋づる式に出てきている精神疾患…など、現代社会には、

医療の谷間

福祉の谷間

に嵌ってしまって、一体どこに手を伸ばしていいのかわからない、繋がるべき支援に繋がることができない、人たちが本当にたくさんたくさん、たくさん、います。

私や同志のセラピストたち、Easy Going Life Communityでは、そういう医療の谷間、福祉の谷間を少しでも埋めることを可能とするよう、必要な人たちが必要な支援と繋がり、自分の可能性を社会とWin Winの状態で歯車をかみ合わせて回っていくことができる世界を目指し、動いております。


いいな、と思っていただけたかたや、対人支援や障碍・マイノリティへの理解を深めたい、お互いに知り合うことをしたい、当事者のご家族ご友人のかたや、街中で何かサポートできないかな、と少しでも思ったことがあるかた、などなど…

ぜひ、私たちとお話しにいらしてください。


長くなりましたが、こんな主催者がこんな理念のもと、同志たちと一緒に、今後ともいろいろな交流会やイベントを企画してまいります。