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調査した石造物の報告書等をご覧いただけます。 現在掲載数 18
New‼ 「立山町岩峅寺中世板碑について」(2025,2,16作成) PDF
調査報告を掲載しました。(掲載先未定)
岩峅寺に残る中世板碑の刻銘について調査しました。
New‼ 「立山町芦峅寺 吉祥坊庭園燈籠 調査報告」(2025,2,11作成) PDF
調査報告を掲載しました。(掲載先未定)
芦峅寺宿坊泉蔵坊に残る二基の「常夜灯」燈籠について調査しました。
New‼ 「立山町芦峅寺 吉祥坊庭園燈籠 調査報告」(2025,2,5作成、2025,2,8改訂) PDF
調査報告を掲載しました。(掲載先未定)
芦峅寺宿坊吉祥坊庭園に残る幕末の「常夜灯」燈籠について調査しました。
New‼ 「立山町末谷口周辺の旧立山道みちしるべ石仏について―一つの立山道の復元―」(2025,1,15作成、2025,3,20改訂) PDF
論考を掲載しました。(掲載先未定)
立山町の東部を通っていた立山信仰道の一つ、末谷口村をとおる旧道沿いには、「立山道」と刻まれたみちしるべ石仏が数体ある。この石仏について年代や石工を解明し、またそれらが置かれた位置などを手がかりに、旧道のルートを探ったもの。
論考を掲載しました。(掲載先未定)
本研究所調査研究報告8で紹介した上市町窪の地蔵菩薩は、明和4年(1767)眼目山立山寺への道標石仏として造立された。この特徴と共通する石仏が、周辺地域に12体確認された。この分布状況などからその性格や石工の由来について考察したもの。
論考を掲載しました。(掲載先未定)
立山町栃津にあった「善光石」には、刀傷がつけられた石として知られ、『立山町史』に紹介された。現在栃津から富山市内へ移されたものを調査検討し、その意義について検証したもの。
論考を掲載しました。(掲載先未定)
立山町本郷島にある「子守り」地蔵は、子供を抱く子安地蔵である。明治38年常願寺川石工森井竹次郎作になるもので、これを納めた六角堂は県東部では珍しい。石仏・地蔵堂・露盤宝珠瓦について調査検討したもの。
新規情報追加につき、内容を改訂しました。
論考を掲載しました。(掲載先未定)
『富山城研究』第2号に掲載した同名の論考について、内容を見直し修正したもの。
論考を掲載しました。(掲載先未定)
立山町栃津にある北陸唯一の親鸞聖人分骨堂は、栃津集落から向かう参道があった。ここへ導く道標は、明治~大正に大山上滝の西田石工が寄進したものである。道標の詳細と、かつて建っていた場所などの復元について、調査検討したもの。
論考を掲載しました。(掲載先未定)
黒部川に架かっていた旧愛本橋(愛本刎橋)は、現在橋台部分だけが残されている。左岸側には最終形の橋台石垣が残されており、この石垣について概要を調査したもの。
個別論考を改訂しました。(掲載先未定)
学史について修正追加しました。
論考を掲載しました。(掲載先未定)
現在、芦峅寺庚申塚に置かれた六地蔵石仏は、かつてそこから300mほど西の旧立山道の途中に置かれていた。
刻銘の解読から、この六地蔵石仏は、浄土宗金沢市八坂安楽寺の僧空潜が寄進したものと判明した。
空潜は貞享頃の人物で、このころ金沢の浄土宗寺院が立山道整備のため多額の寄進をした。石仏もこのころのものと推定される。
論考を掲載しました。(掲載先未定)
戦国山城で新たに巨石石垣(石列)が発見され、天正期の石垣と推定されます。
このような遺構は、砺波市増山城(国史跡)と池田城のみ。佐々成政が弓庄城の土肥氏攻めの際に築いた陣城として、廃城を再利用したか?
個別論考を改訂しました。(掲載先未定)
立山登拝道に置かれた六地蔵石仏について調査しました。
調査報告を掲載しました。(掲載先未定)
旧相真坊庭園に残る幕末の「常夜灯」燈籠について調査しました。
個別論考を掲載しました。(掲載先未定)
立山登拝道に置かれた六地蔵石仏について調査しました。
新規情報追加につき、内容を改訂しました。