半世紀の歴史
(甲浦ポンカン50年の歴史)

 東洋町は、太平洋に面する海岸丘陵地で、標高は30~300m、平均30度以上の急傾斜が海岸線まで迫っている地形です。平均気温は16.7℃、は29.8℃(8月)、最低気温は3.6℃(2月)、降水量は年3,000mmとなっています。
 東洋町においては、昭和7年に2~3戸の生産者によって山南(現在の香我美町)からポンカンが導入され、昭和30年代まで栽培されていましたが、台風による甚大な被害や、山すそで園地が狭く作業性も悪く、1戸がわずか10aほどを栽培するほどの下火となっていました。
 その後、1戸が所有する有望系統を母樹としたり、鹿児島県から導入した品種を中心に昭和34年頃から再び栽培が盛んになってきました。この期間中、カラタチ台木の不親和(タターリーフウイルス)に悩まされたりしましたが、ユズ台木の利用によってこの問題はほぼ解消されました。そんな中、タターリーフウイルスに侵されていない高しょう系のポンカンが発見され、この系統(徳村系)が産地の主流の品種となっていきました。
 昭和43年8月1日、「県営開拓パイロット事業」(県営農地開発事業甲浦地区:総事業費3億3千8百22万6千円)が着工され、64.6haが造成されることによって、県下最大のポンカン産地を形成しました(下部写真参照:昭和47年3月31日完成)。ブルドーザーにより傾斜15度までは山成畑、15度以上は階段畑とし果樹(ポンカン)を造成。幹線道路は国道55号線甲浦峠より、地区中央部に向かい各団地を連結し道路を新設しました。保全施設は尾根づたいに防風帯を設置し、排水路としてU字工を伏設、地区周辺には土砂止蛇籠を30箇所設置、防除施設として、地区を2ブロックに分割し、2箇所に貯水槽を設置しました(1号槽:205t、2号槽:140t)。
 この時、ポンカンが選定されるに至った経緯について、高知県の土地改良第12号(昭和56年11月25日発行)の中で「この時期での開拓パイロット事業は、その主目的が経営規模の拡大であり、7桁(収益が1,000,000円以上)の実現のため、基幹作目も収益性の高い温州みかんが優先採択されていた時期でもあった。当時の村山町長は、この事業実現のため、政治生命を賭けて奔走し用地調達から基幹作目であるポンカンの導入を決意するまでは、国内では鹿児島県および本県の限られた地域で植栽されており、これら産地と遠く台湾、香港の海外産地の気象状況、品質等について、綿密な調査分析を行い確信を深めたもので、当時のこの事業は県農地開拓課が担っており、筆者も開拓建設係長として在任中でこれを担当していたが、村山町長の熱意とその周到さに胸を打たれたものであった。このような経過の後、昭和42年度県営開拓パイロット事業として採択され漸く着工されるに至った。」と書かれています。
 昭和44年からポンカンの定植が始まり、昭和48年12月にうち5haのほ場で合計20tの出荷がありました。造成直後の農家戸数は37戸で、1戸当たりの耕地面積は約1.0haと大規模化が図られました。
 その後、砂利道だった基幹農道は昭和49年〜53年(第1期:昭和49年〜52年:40,704千円、第2期:昭和52年〜昭和53年:31,778千円)にかけて舗装工事が行われ、園地環境も格段によくなりました。
 昭和56年2月の未曾有の寒害により、樹が枯死するほどの大きな影響を受けましたが(下部写真参照)、生産者の必死の努力もあり回復へと向かいました。
 その後、昭和61年より地域農業拠点整備事業が甲浦地区ナベシコにて始まり(5.6ha、64,800千円)、平成元年に3.5ha植栽され第2パイロットが誕生しました。

 参考データ:営農計画(昭和57年頃)
       作付面積(30ha)、生産見込(600t)、反収(2t)、単価(150円)、受益戸数(35戸)

昭和46年:パイロット山造成工事完了直後

平成に入り2代目の生産者が中心となり栽培しています

舗装される前の幹線道路

当時、甲浦側の入り口には大きな看板が

寒害被害による落葉(栗林秀樹氏園地)
昭和56年4月9日 森下顕博氏撮影

寒害被害による落葉(西内哲夫氏園地)
昭和56年4月9日 森下顕博氏撮影

当時の甲浦ポンカンのPR用写真

生産がピークだった頃の甲浦集出荷場