なぜかアラームが鳴る直前に起きることがある。スマホを手に取ると、アラームが鳴る一分前だった。
この現象の名前は知らないけど、これを得と感じるか損と感じるかはその人次第だろう。ちなみに私は損だと感じる人間だ。だって本当はあと一分寝ていられたのだから。
ちなみに澪は得と感じる人間だそうだ。理由は、アラームに眠りを阻害されずに済むからだそうで。
「……え⁈」
思わず跳ね起きる。
「え⁈ え⁈ え⁈」
手や腕、それにTシャツをめくってお腹を見てみる。
私は昨日、車に轢かれた。
それなのに、体のどこを見ても傷ひとつなかった。
そもそも、私はいったいどうやって家まで帰ってきたのだろう?
「お母さーん‼」
叫びながら階段を駆け下りる。
「なによ」
台所に立つお母さんが、怪訝な目つきで私を見る。
「私、昨日どうやって帰ってきた⁈」
「ん?」
お母さんは小首をかしげた。
「あんた、昨日どこにも出かけてないでしょ」
「何言ってんの、昨日の夜、私出かけたじゃん! 大事な人に会ってくるって! そしたらお母さん、そうですかって……」
「ぷぷ」
お母さんはなぜか吹き出した。
「いつまで寝ぼけてんの。ほら、早く準備しなさい」
「なんで覚えてないの⁈」
「いいから、さっさと着替えてきなさい」
どうして、お母さんは昨日のことを覚えてないのだろう。
「……どういうこと?」
何か、得体の知れない事態に直面しているような気がした。
私は部屋に戻って、すぐにスマホを取った。こういうとき、私が頼る相手は一人しかいない。
「もしもし⁈ 澪⁈」
『なーにー』
澪の寝ぼけた声が返ってくる。
『どったの、こんな朝早くに』
「私、昨日交通事故に遭ったんだけど、何か聞いてない⁈」
『……ええ⁈ 事故⁈ き、聞いてないよ! 昨日の何時に事故ったの⁈』
「夜! 澪に言ってなかったんだけど、実は昨日、デートが中止になって! でも夜から会ったんだ!」
『ちょっと待って! デートってなに⁈』
「ひまわりパークのやつに決まってるじゃん!」
私が答えると、なぜか澪は黙った。
「ねえ澪、聞いてる?」
『……うん。あのさ、私もしかしたら紗夏の話、どこかで聞きそびれちゃったのかわかんないけど、デートの話、初めて聞いたよ?』
「……え」
ゾッとした。背筋がぞわぞわとして、ねっとりとしたイヤな汗がこめかみを流れた。
私が歩空先輩とひまわりパークにいく話は、何度も澪と話している。それどころか、デートのための服を一緒に買いに行った。デート当日だって、澪は私にラインくれた。なのに、どうして覚えていないのだろう。
澪も、お母さんも変だ。
いや、もしかすると――。
「私がおかしくなったのかも……」
『紗夏、ちょっと大丈夫⁈ 変な夢でも見たの⁈』
あれが夢? そんなわけない。私は車に轢かれたときの感触を、生々しく覚えている。
でも実際、私の体は傷ひとつない。
ってことは夢?
私が歩空先輩から告白されたのも、彼女になれたことも、全部夢?
「ごめん、あとでかけ直す!」
私は澪との通話を切り、すぐに制服に着替えた。
もし昨日の出来事が現実に起きたことだったのなら、事故の痕跡が残っているはずだ。
私は再び階段を駆け下り、家を飛び出した。家の脇に置いてある自転車を見た瞬間、息が止まりそうになった。
事故に遭ったはずなのに、私の体と同様、自転車は無傷だった。
「なにが起きてるんだよ……!」
恐怖と不安に押しつぶされそうになりながら、私は自転車を漕ぎ出した。
いつだったか先輩と一緒に歩いた田んぼに囲まれた道を走る。私の影と先輩の影が手を繋いだ道。先輩が私を、好きになってくれた道だ。あの出来事すらも、夢だったというのだろうか――。
「…………」
視界が開けた瞬間、頭が真っ白になった。
そこにあるはずのものがなかったから。
事故の痕跡どころの話じゃなかった。
徳丹城が、なかった。
徳丹城跡があった場所は、古ぼけた商店街になっていた。
とても理解しがたい光景を前にして、嘔吐が止まらなくなった。人生で味わったことのない、強いストレスを体が感じているのだろう。
いったい、どこからおかしくなった?
昨日の出来事どころか、徳丹城の存在すらすべて夢だったとするなら、私と歩空先輩との関係は?
私はスマホを手に取った。手の震えが止まらず、左手で強く右腕を掴んだ。
「ない……! ない! ない! ない!」
スマホのどこにも、先輩の名前がなかった。
まさか――。
私は再び自転車を漕いだ。私が向かう先は学校だ。
自転車を漕ぎながら、先輩との思い出を回想した。初めて会ったとき、私は先輩に強烈なタックルをお見舞いしてしまったこと。体育祭で三百枚以上の写真を撮ったこと。ウザ絡みしてくる三森から先輩が守ってくれたこと。自転車の鍵を一緒に探したこと。そのときに先輩が最低な下ネタを語ったこと。一緒に徳丹城跡でハンバーガーを食べたこと。
先輩が私を、好きだと言ってくれたこと。
それらの思い出はたしかに私の胸の中にある。夢であるわけがない。
自転車を玄関の前に乗り捨て、土足のまま校舎へと入る。
先輩の下駄箱。
先輩の教室。
バスケ部の部室。
「ない……! ない……‼」
どこを探しても、歩空先輩に関するものはどこにもなかった。
徳丹城と先輩が消えてからは、先輩との思い出を反芻する、ただそれだけの命だった。
過ぎてゆく時間を、ただ傍観していた。無気力を隠す気力さえなく、何の努力もしないまま、私の高校生活は終わろうとしている。
努力したところで、また同じことが起きるとも限らない。だから何をするにも気力がなんて湧かなかった。私はこの世界を、まったくと言っていいほど信用していなかった。私はきっと、この世界に嫌われている。バカにされているとさえ思えた。
澪は私が精神病に罹ったと思い、何度も通院を勧めてきた。それがイヤで、次第に澪とも疎遠になってしまった。あれだけ一緒にいたのに、今では廊下ですれ違っても、挨拶はおろか目が合うこともない。
結局、歩空先輩はこの世界のどこにもいなかった。というより、最初から存在していないことにされていた。
この二年とちょっとの期間、私は何度か先輩の夢を見た。先輩が私を迎えに来てくれる夢だ。
『志田ちゃん! 俺たちの世界に帰ろう!』
そういって、先輩は私を抱きしめてくれる。私は大泣きしながら、先輩を抱きしめ返すのだ。
『どこにいってたんですか!』
『ごめんごめん、悪かったよ。ははは』
先輩はあの頃のように無邪気に笑う。そうして私を優しく抱きしめて、髪を撫でてくれた。
夢から覚めた直後は、いつも現実と夢がごちゃごちゃになっていた。何が夢で、何が現実かわからない。じわじわと現実が侵食してくると、それを体が拒否して、泣き叫んでしまう。そんな日は学校を休んで、ただひたすら泣くだけだった。
一度、先輩の後ろ姿によく似た人を見かけたことがある。その瞬間の、胸の高鳴りを今でも覚えている。期待してはいけない、と思いながらも、私は無我夢中でその人を追いかけた。
人違いだったとわかったとき、世界に見放された感覚があった。一歩も動けず、自分が涙を流していることにさえ気づけなかった。諦めろ、と誰かに言われた気がした。
それでも私は、未だに先輩を探し続けている。きっとこの先も、ここに住んでいる限り、私は先輩を探し続けてしまうだろう。だから高校卒業後はこの町を出ていくことにした。名前を書けば受かるような大学に進学し、知らない町で私は長い長い余生を過ごすつもりだ。
澪の言うように、私は精神疾患に罹っている可能性もある。でも、今はそれならそれで、別に良いと割り切っている。あの夏までの人生が、すべて私の妄想や幻だったとしても、歩空先輩への想いだけは本物だ。
『紗夏に会わせたい人がいる』
澪からそんなラインが来たのは、二月の中頃のことだった。
外は雪が降っていた。羽毛のような雪が、風に揺れることもなく一直線に落ちてきている。
待ち合わせ場所は岩手医科大学附属病院と、道路を挟んで向かい側にあるカフェだった。
岩手医大病院には、歩空先輩のお父さんが勤めていた。でも調べてみても『相去』姓のお医者さんはいなくて、つまりこの世界には歩空先輩はおろか、家族さえも存在していなかった。
病院前の通りは、オレンジ色の光が灯る街灯が並んでいる。雪に街灯の明かりがにじみ、その背後には荘厳なお城のように病院がそびえていた。
幻想的でさえあるその光景を、素直に美しいと思えない自分がいる。
なぜならこの町には、本物の城が存在していたのだから。
友愛の場所。
いつか私の大切な人が、あの城跡をそんな風に呼んだ。
あの場所が失くなってしまったから、私と澪の関係も変わったのだろうか。
待ち合わせ場所へ到着し、店の外で傘の雪を払い落とした。店内を覗いてみると、テーブル席に澪の姿が見えた。私が知らない、ピンク色のニット帽を被っている。昔は澪の服を、全部把握していたのに。
澪と対面して、二人の男性がこちらに背を向けながら座っている。大学生くらいの年齢だろうか。
「おーい!」
私に気づいた澪が手を振る。それに続いて、男性二人がこちらに振り返った。
――ん⁈
私は、この人たちをおそらく知っている。でも、どこで会ったのかは覚えていない。
一人は大きな黒縁メガネが特徴の優しそうな男性で、もう一人は鳥の巣みたいなもじゃもじゃヘアが特徴の男性だった。
「紗夏、来てくれてありがとう」
「ううん……」
「志田さん、初めまして」
メガネの男性が立ち上がって、愛想よく私に挨拶をした。パーマの男性は座ったまま、私に微かに頷いて見せた。
「僕たちは、医大に通う学生でして、ミステリー研究サークルに所属してます」
澪は昔から都市伝説の類が好きだから、その関係でこの二人と知り合ったのだろう。
「僕が北島で、彼は鳥橋です」
「どうも」
鳥橋さんは、ほとんど口を動かさずに言った。
北島さんは取り繕うように、「ああ、気を悪くしたらすみません」と言った。
「彼は人見知りというか、人と話すのが苦手なんです。別に怒ってるわけじゃないので、安心してください」
「そうですか……」
別に、鳥橋さんの愛想が悪かろうが、どうでもいい話だった。
「ま、とりあえず座って!」
澪に促され、私は澪の隣に腰を落ち着かせた。
「紗夏、先に謝っておくね。紗夏のこと、色々とこの人たちには喋ってあるの。ごめん」
「いや、別にいいよ」
私にとってはただの事実だし。
「実を言いますと」北島さんは神妙な顔つきで指を組んだ。「紗夏さんの身に何が起きたのか、わかったかもしれないんです。あなたと彼を、もう一度会わせる方法も」
出し抜けに、北島さんはそんなことを口にした。
「彼って……」
「相去歩空さんですよ」
そんな展開は、まったく予期していなかった。
店内には緩やかにBGMが流れていて、私たちの他には女性客が一人いるだけだった。女性客はイヤホンを挿しながら、静かに本を読んでいる。
「紗夏さんは、ワタリドリノスバコをご存知ですよね?」
「はい、知ってます」
ずいぶんと懐かしい言葉だった。
「この件は、都市伝説のワタリドリが関係しているのではないかと、僕らは予想しています」
願いを叶える伝説の鳥。
曰く、スバコは人の往来が多い場所にある。
曰く、ワタリドリは現実に起こり得ることだけを叶える。
曰く、町のシンボルが渡り鳥の町にのみ、ワタリドリは出現する。
曰く、スバコは高い場所にある。
曰く、スバコの場所が特定されると、ワタリドリは次の場所へ飛び立ってゆく。
「つまり、です。紗夏さんの身に起きたことは、『ワタリドリが誰かの願いを叶えた結果』だと思うんです」
どういうこと?
「……話が見えてきません」
「世界が一変したのは、紗夏さんが事故に遭った後だったそうですね」
「そうです。私、車に轢かれてしまって……。死に値するような事故でしたが、気づいたときには家で寝ていました」
そして目覚めたとき、世界からあの人と徳丹城が消えていた。徳丹城は歴史上、存在しないものとされ、徳丹城があった場所は商店街となっている。
「紗夏さんが事故に遭われたとき、歩空さんは歩道橋にいたと、澪さんからお伺いしてます。それで、お間違いないですか?」
ふいに、他人の口から先輩の名前が出てきて、妙な嬉しさを覚えた。
「そうです、歩空先輩は歩道橋の上から、私に手を振ってました」
「それなら歩空先輩は……好きだったあなたの事故を目の前で目撃したわけですね」
北島さんは歩空先輩を慮ってか、痛みを堪えるように顔をしかめた。だから私は、北島さんは私の話を、本気で信じてくれているんだと思った。
「当然、歩空さんは目の前で起きた事実を受け入れたくはなかったでしょう。だから、祈ったんです。あなたが生き返ることを」
「あ、ってことは……」
「そうです。ワタリドリノスバコは、あの付近にあったんだと思います」
偶然にして事故現場の近くにあったワタリドリノスバコの効力によって、歩空先輩の願いは叶えられた。そういう話だろうか。
「おそらく、歩道橋の支柱の陰のあたりに、スバコはあるのだと思います。でも特定まではしていません」
――曰く、スバコの場所が特定されると、ワタリドリは次の場所へ飛び立ってゆく。
特定されていないということは、まだスバコは歩道橋に存在している?
「じ、じゃあ、ワタリドリに願えば、私はまた歩空先輩に会えるんですか⁈」
「まずは落ち着いて話を聞いてください。すべてを理解しないままワタリドリに願えば、あなたは死んでしまいます」
え? 死ぬ? どういうこと?
「実は、僕たちは長いことワタリドリノスバコを研究し、そして行方を捜索してました。あなたたちが通う学校にも、実はお邪魔させていただいたことがありましてね」
「あ!」
それで私はようやく二人を思い出した。
「体育祭! あのとき、北島さんと鳥橋さんいましたよね⁈」
私が言うと、北島さんは目を見開き、鳥橋さんは眉を寄せた。
「よく覚えてましたね……?」
「私、体育祭で歩空先輩の写真をたくさん撮ったんです。その中の数枚に、お二人が映り込んでたんですよ」
「そうだったんですか! ちなみに――」と北島さんは澪を見やる。「――澪さんの記憶では、紗夏さんは写真を撮ってましたか?」
「いえ、一枚も撮ってないです!」
「なるほど……」北島さんは顎を撫でた。「これで確信が持てました。やはり、世界は改変されたんです。歩空さんのいない世界に」
「ちょっと待ってください。色々と納得できません。歩空先輩の願いは、私が生き返ることですよね? どうして世界が改変されなければいけないんですか?」
「ワタリドリは、現実に起こり得ることだけを叶える性質があるからだと思います。ワタリドリにとって、人が生き返ることは非現実的なことなんだと予想します」
「世界の改変だって非現実的じゃないですか」
「一般的に言えばそうです。でも、ワタリドリにとっては、非現実的ではないんだと思います」
言っている意味がわからない。もどかしい。早く真相を知りたいのに。
「私の予想ですが、ワタリドリは時間を司る存在なのだと思います。便宜的に、『時間の神』と呼ばせていただきますが、時間の神であるワタリドリは、過去未来を含めた世界を四次元的に俯瞰でき、そのうえこの世界の時間を巻き戻すことができるのかもしれません」
時間を逆行する鳥。つまり、過去へ渡る鳥。だからワタリドリと呼ばれているのだろうか。
「申し上げづらいですが、歩空さんがもしも世界に存在していなかったら、紗夏さんが事故に遭うことはありませんでした。だからワタリドリは、歩空さんの存在をなかったことにしたのです」
私は頭の中で話を整理する。
高校一年生の夏、私は死に値する事故に遭った。
目の前で恋人の死を目撃した歩空先輩は、私が生き返ることを願った。
たまたま近くにあったワタリドリが、その願いを歪んだ形で叶えた。
私が生き返ることは、つまり私が死なないことと同義。
私が死を回避するには、歩空先輩の存在が最初からなかったことになればいい。
だからワタリドリは、歩空先輩の存在を消した。
「いったいどうやって、ワタリドリは先輩の存在を消したんですか?」
「そのヒントは、徳丹城の消失にあります。紗夏さんがいた世界では、志波城から移された城柵、徳丹城が存在していたそうですね」
「そうです。それで間違いありません」
「徳丹城が造られた当時、歩空さんのご先祖様にとって、何か大きな分岐点があったのだと思います。わかりやすくいえば、死ぬか生きるかの分岐点です。ワタリドリはその分岐点まで時間を巻き戻した。何度巻き戻したかはわかりませんが、その中で、歩空さんのご先祖様が命を落とす世界線が存在したのだと思います。それは見方によっては、『現実に起こり得ること』なんです」
――そういう意味での、現実に起こり得ることだったのか。
「歩空さんのご先祖様が亡くなることと、志波城から徳丹城への移城は、何か深い繋がりがあるのだと思います。簡単に言えば、歩空さんの先祖が亡くなると、志波城から徳丹城への移城は実行されない」
「……北島さんの仰ってること、なんとなく理解しました。けど、まだ納得できないことがあります。この世界――というか未来? が作り変えられたのに、どうして私だけが、前の世界の記憶を引き継いでいるんですか?」
みんなは前の世界のことを覚えていないのに、私だけが覚えているのは変だ。
「……ん? たしかに、どうしてだろう?」
「えー⁈」
と澪が身を乗り出す。
「結構重要なポイントになりそうなのに、わからないんですか?」
「うん……」
北島さんは腕を組んで首をかしげる。澪はため息をつきながら背もたれによりかかり、ストローに口をつけた。
しばらく沈黙が続く。若干気まずかったけど、
「いらっしゃいませー。お一人様ですか?」
店内に新規のお客さんが来てくれたおかげで、気まずさがほんの少しだけ和らいだ。五十代くらいの男性は、外国籍の方なのだろうか、カタコトの日本語で注文をしている。
「キミも」
終始黙っていた鳥橋さんが、突然呟くように言った。
「キミも祈ったんじゃないのか?」
「えっと、どういう意味ですか?」
「……キミが事故に遭ったとき、『たとえ自分が死んだとしても、歩空を忘れたくない』って。俺には人の気持ちはわからないが、そんな願いをしてもおかしくはないんじゃないか?」
「……そうだったかもしれません」
はっきりとは覚えてないけど、そんなことを祈った気がする。
「仮に紗夏の願いをワタリドリが叶えたのだとしても、妙じゃないですか? だってワタリドリって、現実に起こり得ることしか叶えないんですよね?」
「いや、人は前世の記憶を持ってたりするから、一概に起こり得ないこととは言えないんじゃないかな」
「じゃあもうそれでいいです。私が気になるのは、一度願いを叶えてもらった紗夏は、もうワタリドリに願いを叶えてもらうことはできないのかってことです」
「そんな制約はないと思う。ただ、ワタリドリに願いを叶えてもらうのは、これが最後になるのは間違いない」
スバコの現物を見ずとも、私たちが歩道橋へ行って願いを叶えてもらったら、それは居場所を特定したようなものだ。そうじゃなかったら、私たちは無限に願いを叶えてもらえる。
ワタリドリにお願いすれば、もう一度私は歩空先輩に会えるかもしれない。嬉しさを隠しきれず、喜びを爆発させそうになるけど、私はその感情をぐっと抑えた。
北島さんに確認したいことは、もう一つあった。
「……あの、どうして北島さんたちは、私にワタリドリノスバコの場所を教えてくださったんですか?」
私に教えなきゃ、北島さんは願いを一人占めできたのに。
「正直に言えば……僕も人間ですからね、ほんの一瞬だけ、自分の願望を叶えてもらおうかと思いましたよ。でも、あなたの夢は、僕の夢でもあります。僕の夢は、ワタリドリに会うことでしたから。それになにより、最初に澪さんが訪ねてきたときのことを思うと、とても横取りする気にはなれませんでしたよ。澪さんは僕らに、『どうしても助けたい親友がいる』『力を貸してください』って、お願いしてきたんです。澪さんは僕らにワタリドリノスバコを横取りされるリスクを背負いながら、僕らにお願いしてきたんです。その気持を踏みにじったら、僕は人としての大事なものを失ってしまいます」
「ちょっと北島さん! 私のこと、勝手に喋らないでくださいよっ!」
澪は恥ずかしいのか、大きな声で宣った。
「澪さんは、僕らのところだけじゃなく、色んな場所を訪ね歩いたみたいですよ。オカルト雑誌の編集部や、有名な霊能力者とか、色々」
「澪、それほんとの話なの?」
「……うん」
澪は照れくさそうに笑った。だけどすぐに、申し訳無さそうな顔をした。
「……私さ、紗夏のことを病気だと疑ったこと、今でも後悔してる。どうして紗夏のことを信じてあげなかったんだろうって。世界中の誰もが信じなくても、私だけは信じてあげなきゃいけなかった。だから……ごめん。ごめんよ、紗夏。私、ずっと謝りたかった。でも、謝るだけじゃダメだと思って、紗夏を救う方法を探してたんだ」
澪はセーターの袖を伸ばして、涙を拭った。
「……私、許されないことしたよね。高校生活、紗夏はずっと孤独だったよね」
「やめてよ、謝らないで」
「好きだった人がいなくなって、紗夏は深く傷ついたよね。それなのに、私にも信じてもらえなくて、ずっと心細かったと思う。ごめん……ごべんよ」
「いいってば……!」
私はバカだ。大バカだ。
世界から歩空先輩や徳丹城が消えても、この世界に澪はいてくれたじゃないか。いつだって頼りになる親友を、どうして私は頼らなかったんだろう。
「紗夏の願い、叶えてもらおう」
「……うん、ありがとう」
「そのことですがね、願い方は十分に気をつけないといけません。たとえば、『元の世界に戻してください』なんて願いは絶対にNGです」
そりゃそうだ。また私は事故に遭ってしまう。
「じゃあ、『歩空先輩と私が存在する世界にしてください』ってお願いするのはどうですか?」
「それも絶対にダメです。その願い方だと、澪さんが消える可能性があります」
「うえ⁈ 私が⁈ なんで⁈」
「極論、紗夏さんは歩空さんに恋をしなければ、あの事故に見舞われることはなかった。紗夏さんが歩空さんに恋をしたきっかけを、思い出してください」
私が歩空先輩に恋をしたきっかけは、ワタリドリ(オウム)を澪と一緒に追いかけたことだった
「つまり、澪さんが存在していなければ、紗夏さんは歩空さんに恋をしなかった。恋をしなかったということは事故に遭わない。だから澪さんがいない世界に改変される可能性があるんです」
「ワタリドリって融通きかねーな!」と澪がうんざりとした様子で言う。「んじゃあいっそ紗夏は、『私の好きな人が全員いる世界にしてください』って願えばいいんじゃない?」
「いやいや澪さん、そんな単純な願いでは……」
と北島さんは窘めようとしたけど、
「……案外、的を射てる気がする」
感心したようにうなずいた。
「それでいきましょうか」
「よし! じゃあいきましょう! 世界をばばーんと変えちゃいましょうよ! いこう、紗夏!」
世界を変える。
そんなとんでもないワガママを、どうか許してほしい。
「みなさん、本当にありがとうございます。これから歩道橋に行って、私の願いをワタリドリに叶えてもらおうと思います」
私がそう宣言した瞬間、だった。
誰かが慌てた様子で店外へと出ていった。店内を見回すと、最初から座っていた女性客の姿は確認できた。ということは、外へ出たのは途中から来店した男性客のようだ。たしか鳥打ち帽を被っていた、外国籍の方だったと思う。
あれ? 今の人、会計した?
「……」
なんだか、イヤな予感がした。
その予感は、私以外のメンバーも抱いたようで、互いに顔を見合わせた。
店外から、けたたましいエンジン音が轟く。
「マズい……‼」
北島さんが叫ぶ。
「ハンターだ……!」
そういえば、ワタリドリノスバコを狙うハンターがいると聞いたことがある。
あの男性客がハンターなのだとすれば、間違いなく行き先は歩道橋だ。
「僕の車に乗ってくれ!」
「Please give me a lot of money‼」
北島さんの車で歩道橋へ向かうと、先ほどの男性客が歩道橋から高らかに願いを唱えていた。
男性が歩道橋から下りて車に乗り込むまでを、私たちは呆然と眺めていた。男性は最後、私たちを一瞥し、勝ち誇ったように笑った。
「……僕のせいだ! ハンターがいる可能性を、どうして僕は考えなかったんだ!」
「北島さん、どうか自分を責めないでください。私が不用意に、歩道橋という言葉を出したのがいけなかったんです」
私は諦めの境地にいた。
「紗夏……」
澪は泣きじゃくりながら、私の手を取った。
「こんなことになって……ごめん。期待させるだけさせて……」
「ううん、いいの。澪が力になってくれたことが嬉しいから。それに、まだワタリドリノスバコが、歩道橋にあると決まったわけじゃないし」
周辺の電信柱にある場合だってある。
「ダメ元で、願ってみるよ」
すっかり肩を落とした澪と北島さんを残して、私は一人で歩道橋を上がる。ちなみに鳥橋さんは先ほどのカフェに残った。誰かが残らないと、食い逃げになるから。
「ふぅ……」
歩道橋の欄干に両手を乗せて、私は夜空を眺めた。ワタリドリがいないのならば、星に願ってみようかな。
思えば、この場所に来るのはずいぶんと久しぶりだった。歩空先輩と付き合って以来だ。
ふと、思う。そういえばここは、歩空先輩と私が恋人になった場所だった。
もしかすれば私と歩空先輩が付き合えたのも、ワタリドリのおかげだったのかもしれない。
名もなき歩道橋に名前をつけるなら、何がいいかな。空を歩く橋で、歩空橋なんてどうだろう。
これから先、私は勝手にそう呼ぼうと思う。彼がこの世界にいた痕跡として。
息を吸い込むと、冷たい空気がしんと肺に染みた。ほんの少しだけ涙が出そうになるけど、涙は我慢した。私が泣く場所はもう決めてある。
「どうか、私が好きな人すべてが存在する世界になりますように」
私がそう口にした瞬間、妙なことが起きた。
世界から、音が消えた。
それどころか、目の前の道路を走る車は、時間が止まったかのように静止していた。
いや、実際に時間が止まっているようだった。星の瞬きさえも止まっていた。
カン、カン、カン、と誰かが歩道橋の階段を上ってくる音がした。音のない世界では、その音はやけに響き渡った。
「……鳥橋さん?」
私の前に現れたのは、カフェに残っていたはずの鳥橋さんだった。
「これはどういう……」
「今、この世界の時間を止めている」
「……鳥橋さんが、ですか?」
「そうだ。なぜなら、俺がワタリドリだからだ」
え? 何を言ってるの?
「……冗談、ですよね?」
「いや、本当だ。北島の、『ワタリドリに会いたい』という願いが、俺をこの姿にした。本来の俺の姿は、誰の目にも見えない」
淡々と、荒唐無稽な話を鳥橋さんは続ける。
「残念ながら、タイムアップだ。キミが願うより先に、スバコの位置を特定されてしまったからな」
「ってことは、スバコはやっぱり歩道橋にあったんですか」
「ああ。歩道橋を支える支柱の隙間に、スバコはあった」
「……じゃあ、私の願いは叶えてはもらえないんですね」
「そうだな。本来なら、俺は時間を巻き戻し、キミの望む世界が出現するまで世界を観測し続ける。サイコロを振るみたいにな。だが、もう俺には力が残っていない。力を振り絞ったところで、時間を戻せるのは一度きり」
一度きり? 逆に言えば、一度なら時間を戻せるってこと?
「じゃあ! その一回に賭けたいです!」
「ならば、確実に相去歩空をこの世界に存在させるため……」
鳥橋さんは、私を指さした。
「キミ自身で、過去を変えるんだ」
「私が……?」
「そうだ。俺がキミ自身の時間を止めたまま、世界の時間を巻き戻す。キミは何がなんでも相去歩空の先祖を生存させるんだ。キミが運命を変えたのを察知したら、俺は三年前の夏まで時間を進める。七月三十一日の午後五時四十二分五十一秒までだ」
「……もしかして、私が歩空先輩と恋人になる時間ですか?」
鳥橋さんは黙ってうなずいた。
「さて、最後に一つだけ謝りたい。相去歩空の願いを、不本意な形で叶えてしまって申し訳なかった。俺が歩空を殺したようなものだ。悪いが、俺は人間のことがよくわからないんだ」
「そんな、謝らないでください! あなたがいなかったら、私は死んでいたんですから。こうして歩空先輩にもう一度会えるチャンスまでいただけて、何とお礼を言ったらいいか……。それだけじゃありません。ワタリドリノスバコの都市伝説が存在していなかったら、私は歩空先輩を好きになることはなかったんです。私は歩空先輩に恋をしたことを、後悔したことは一度もありません。あなたに、感謝します」
私が言うと、鳥橋さんは目を細めた。
「……ああ、そうか。これが人の優しさというものか。心地いいものだ」
鳥橋さんは微かに笑った。
「千二百年の時間を戻す。さあ、目をつむってくれ」
私は言われたとおりに目をつむった。
「歴史の分岐点にキミを降ろす。場所は志波城近くの森だ」
「は、はい……」
「相去歩空の先祖、空丸という男を救うんだ。キミなら絶対にできる。そう信じ抜け。俺も信じるから」