最終更新日 2023.03.31
文化財(ぶんかざい)とは長い歴史の中で生まれ、はぐくまれ、今日まで守り伝えられてきた貴重な有形・無形の所産をいいます。このページでは豊見城(とみぐすく)市にある各地の文化財を紹介します。
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豊見城市内の主な文化財と戦跡を紹介しています
豊見城市は24字があり、23字が戦前以前から続く地域で、1字豊崎が埋め立てによってできた地域です。全24字に48の自治会が組織されています。
この『口上覚』は、琉球王国時代の豊見城間切の地方役人である文子に任命されてから約40年間の履歴となっています。豊見城按司御守役を仰せ付けられたことや、お供して「江戸上り」に参加したこと、黍酒を玉城間切で稽古させ、御料理座へ納めさせたことなど地方役人の勤務昇進を知る貴重な資料となっています。※文子=書記
「字与根大城家文書」は、土地の所有や開墾などを認めた19世紀の古文書群のことです。開墾地の権利関係を記した「仕明知行帳」1冊、「仕明請地帳」2冊のほか、墓地の売買契約に関する「墓敷譲手形」「墓敷村証拠」各1冊の計5冊です。
首里王府から島尻方面に行くには国場川下流を渡るのが便利です。しかし、1522年以前は橋がありませんでした。王府は宿道の整備、屋良座森グスクへの軍事道路として木橋を架けました。木橋は風雨や害虫により修理・維持費がかかり農民は負担に苦しみました。1708年には両岸の田畑を取り除き、石橋に架けかえられました。その後、1836年にも改修が行われています。碑はその経緯を記述したものです。現在、石碑は1980年に台湾大学所蔵の拓本をもとに字真玉橋区民によって真玉橋公民館前に復元されました。
真玉橋は1522年に首里城ならび軍事的要素である那覇港を防御する目的として、尚真王によって架けられた橋で、首里王府と島尻を結ぶ交通の要所でもありました。戦後埋められていた橋脚部分は、1995年の試掘調査によって埋もれていた真玉橋の石橋遺構が確認され、1996年に行われた調査では当時を忍ばせる石畳やアーチ部分が豊見城市、那覇市の両市で発掘されました。
龕とはかつて葬儀の際に死者を乗せ墓まで運ぶために使われた「輿」のことで現在でいう霊柩車のようなものです。字饒波では長年使われてきましたが、火葬の普及により1967(昭和42)年頃を最後に使用されなくなりました。2014(平成26)年、長年の役目を終えたため龕屋を取り壊し整備が行われることに伴い、「龕」本体が市教育委員会へ寄贈されました。2015(平成27)年から2019(平成31)年にかけて劣化箇所の修復を行いました。龕は豊見城市の葬制や地域の関わりを知る上で貴重な資料です。
印部石とは、1737年から1750に行われた元文検地の際に、測量の図根点(基準点)として用いられたものです。別名で「ハル石」とも呼ばれています。印部石は各間切(現在の市町村に相当)に約200~250基が設置されたといわれています。表面にはカタカナや平仮名で「い・ろ・は・・・」の文字と、小地名である原名(はるな)が刻まれています。刻まれた原名には現在の地名と一致しないものもあります。指定を受けた4点はいずれも細粒砂岩(ニービ)を加工したもので作られています。印部石は首里王府によって行われた元文検地の状況を知る上で貴重な歴史資料です。
豊見城グスクは、那覇港や漫湖を見下ろす琉球石灰岩の丘陵地に立地したグスクです。14世紀末~15世紀初頭、三山時代に南山王の従弟である汪応祖(おうおうそ)がグスクを築き、尚巴志によって落城された伝説があります。城壁やアーチ門などグスクの遺構は戦後の採石により壊されてしまいました。ハーリー発祥の伝説が残り、現在は那覇ハーリーの開催前の4月に「ハーリー由来祭り」が開催されます。
瀬長グスクは島内にかつてあり、瀬長按司が居住したグスクだったと伝えられている。これについては、琉球王府が1713年に編集した『琉球国由来記』の中で、「瀬長按司ハ王位ノ御婿ニテ・・・(巻8)」、「往古ハ瀬長按司居住ノ跡アリ・・・(巻12)」)と記述されている。これまでに中国製青磁や陶器・グスク系土器などが出土している。
平良グスクは、字平良集落の背後に連なる本市最標高109mの丘陵上に形成されたグスクである。グスクの西側は絶壁だが、東側および南側は一部緩やかな斜面となっており、生い茂った樹林の中に城壁と石畳道が存在する。また、グスク内には字平良が崇拝する御嶽があり、初拝みや五月ウマチーなどにムラやノロ、門中などが拝んでいる。
長嶺グスクは、字嘉数と字長堂の境に位置し、標高98mの丘陵上に形成されたグスクである。『豊見城村史(1964年刊)』によれば、長嶺按司の居城として南山の第一線として備えたとあり、グスクの頂上部付近を「ウフヤックヮ(物見)」、その東側がデーグスクと称され、グスクの台所があったところだと伝えられている。そのほか、グスク内には『琉球国由来記(1713年)』に記載された「長嶺之殿」や「按司墓」などがある。
保栄茂グスクは、保栄茂集落の北東側に位置する標高106mの丘陵上に形成されたグスクである。三山時代、中山に対峙する第一線の拠点である瀬長、豊見城、長嶺の各グスクに対し南山グスクからの中継地としての役割をもつ出城ではなかったかと考えられている。
豊見城グスクの北西にある小島チーヤは、ハーリーゆかりの地であるとともに、漫湖が水上交通の要衝として賑わっていた時代の舟着場でもあったといわれている。また、毎年旧暦4月には、字豊見城の年中行事で、害虫駆除と作物の豊作を祈願するアブシバレー神事が行われる場所である。
イシマシモーやイシマシと呼ばれる座安の拝所である。かつては琉球石灰岩の小高い岩場に三本の松が生えていた。拝所であるイシマシにはニライカナイの神を祀っているといわれ、遠くの拝所への遥拝(ウトゥーシ)にも使われる。戦前期は製糖期終了後のクスユックィー(腰休めの行事)が行われる場所のひとつであり、五月ウマチーと六月ウマチーで巡拝する拝所となっている。
宜保のビジュンは、アガリヌモーグヮーという小高い丘の中央に祠があり、丸みのある石1個を霊石として祀っている。戦前は家族の健康祈願や旅に出る際に拝まれていた。その他には、旧暦一月二日の初御願や旧五月十五日の五月ウマチー、旧六月二十五日の夏ヌ御願(カシチーウイミ)等でも拝まれる。
高安のビジュンは祠の中に丸みのあるニービヌフニ(細粒砂岩)1個を霊石として祀っている。昔話が伝承され、「高安のビジュン物語」として紙芝居が作成された。毎年旧暦9月13日に、ビジュンヘーシ(アギーヘーシとも)という伝統行事が現在でも行われている。
クンジャーガーは、渡橋名集落が所在する真和志原の南端に位置する井戸である。別名ウブガーとも呼ばれ、正月の若水や葬儀の湯灌の水としても利用された。造られた時期は定かではないが、南山系の人々が造った井戸とも伝えられる。
龕が安置されている建物で「龕屋(ガンヤー)」である。高安の龕がいつ頃から使われ始めたのかは記録がなく定かでないが、現在の龕は沖縄戦で破壊されたものを1952年(昭和27)に再建し、1968年(昭和43)まで実際に使用された。
建物は、「龕」(死者を運ぶ屋形型の輿)を保管する建物で、字保栄茂では龕本体を「コージャー」または「アカンマー」などと呼び、龕屋のことを「コージャーヤー」または「コーヤー」と呼んでいる。このコージャーヤーは、大正時代に集落内ウドゥンモーにあったものを現在地に移したものだという。
龕を保管する建物、龕屋の跡地である。饒波の龕屋は、長年の役目を終えたため、2014年に龕屋跡地として整備が行われた。毎年旧暦8月9日には「龕の祝い」と称して祈願が行われている。収められていた龕は豊見城市歴史民俗資料展示室に常設展示されている。
名嘉地のシーサーは古くから名嘉地の守り神とされ、現在でも旧暦八月十五日にムラの安全祈願をする「シーサー拝み」や旧四月の「アブシバレー」で拝まれ、字名嘉地の方々に信仰の対象として大切にされている。
田頭に設置された2体のシーサーは、彼方からやってくるあらゆる災厄から集落を護るために置かれている。2体とも頭部のみの簡素な造りのシーサーで、伝承によれば200~300年前に造られたものと伝えられ、古くから集落の護り神として大切にされてきた。沖縄戦で戦車に危うく攻撃されそうになった状況から人々を救ったという逸話が残されている。
渡嘉敷のシーサーは、集落の南側にそびえ立つ保栄茂グスク(西御嶽付近の大岩)に向けて立てられた。保栄茂グスク付近にある大岩が、大きく口を開けて「渡嘉敷クワークワー(渡嘉敷集落を食おう)」としているように見えるので、その返しの魔除けとして建てられたと伝えられている。また村に火事が多かったのでその火返しの魔除けとして建てられたという伝承もある。
真玉橋のイリヌシーサーは、集落西側に位置し、かつては漫湖に浮かんでいたガーナー森に向けて立てられた伝説が残る。昔、ガーナー森は大きな魔物で、真玉橋の人々を食べようと夜な夜な襲ってきた。村人が困っていたところ、天から3つの大きな石が降ってきて、魔物の尻尾を押え付けたため、魔物はそのまま動けなくなり湖面に浮かぶ小島・ガーナー森になったという。村人たちは神の加護に感謝し、以後ガーナー森が襲いかかってこないよう、シーサーを置いたと伝えられている。
真玉橋のアガリヌシーサーは、集落のほぼ中心部、生活道の脇に置かれている。このシーサーは、国場川を隔てた対岸の高台・カラヤームイ(または瓦屋原:那覇市国場)に向け置かれたものと伝えられ、一説には、カラヤームイからの風難を防ぐための守りであるとの由来が残されている。
根差部のシーサーは、集落のほぼ中心部、生活道の脇に置かれている。かつては漫湖に浮かんでいたガーナー森に向けて立てられた伝説が残る。信仰の対象として、女性たちによる拝みと祝宴の行事「三月遊び(サングヮチアシビ)」で拝まれる。
この石碑は、方言でニービヌフニ とよばれる細粒砂岩製の碑 で、梵字 (古代インドのサンスクリット語 を書き表す文字)で彫られています。残存する部分から推測すると「アビラウンケン」と思われ、これは宇宙を形成する「地、水、火、風、空(空間)」を意味し、密教で宇宙の中心の仏とされる大日如来を表しています。この碑が建立された時期や由来などは不明ですが、おそらく魔よけの意味を持つものと考えられます。
石火矢橋は、豊見城グスクの南東をながれる饒波川下流に架かる橋で、戦前まで美しい曲線のアーチとそれを支える独特な形の橋脚が連なる5連の石造アーチ橋であった。橋の創建年代は定かでないが、橋には、三山時代、尚巴志が南山の支配下にあった豊見城グスクを攻めようと城内に女間者を送り、謀計によって架けさせたとの伝説が残されている。
嘉数バンタは、かつて豊見城グスクや瀬長島とともに「豊見城三景」に並び称された景勝地である。琉球王府時代、バンタに隣接する嘉数集落内には、王家の分家筋にあたる豊見城御殿の別荘が置かれ、別荘をおとずれた要人たちがくつろぐ憩いの場所でもあったと伝えられている。
ジョン万次郎(中浜万次郎)は1841年、14歳のとき出漁中に遭難。仲間とともに無人島に漂着後、アメリカの捕鯨船に救助され米国マサチューセッツ州フェアへブンに渡った。日本に帰国する際に琉球国摩文仁間切小渡海岸(現在の糸満市大度)に上陸し、豊見城間切翁長村(現在の豊見城市字翁長)の高安家に留め置かれることとなった。
字与根の塩田は、干潟を利用した入浜式塩田で、かつては泊潟原(那覇市)、泡瀬(沖縄市)などと並ぶ県内でも主要な製塩地となっており、そこで生産される塩は「与根マース」の名で知られた。その起源は、明治30年代中ごろ、おもに那覇・泊からの移住者らにより始められたものである。
通称「伊良波収容所」は、沖縄戦終盤、伊良波集落北側に米軍によって設置され、主に本島南部の激戦地でとらえられた人々が最初に送られた一時的な収容所であった。沖縄戦において生存者や捕虜等を収容する施設である収容所は、沖縄県内に数多く存在した。
調べたい分野
施設名・ホームページ
住所・マップ
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豊見城市文化財の発刊物
シリーズ名・書名・発刊年
豊見城村文化財調査報告書
第01集 伊良波西遺跡 1986年
豊見城村文化財調査報告書
第02集 伊良波東遺跡 1987年
豊見城村文化財調査報告書
第03集 豊見城村の遺跡 1988年
豊見城村文化財調査報告書
第04集 高嶺古島遺跡 1990年
豊見城村文化財調査報告書
第05集 渡嘉敷後原遺跡群 1997年
豊見城市文化財調査報告書
第06集 宜保アガリヌ御嶽 2003年
豊見城市文化財調査報告書
第07集 根差部クチャガー 2005年
豊見城市文化財調査報告書
第08集 瀬長グスク他範囲確認調査報告書 2008年
豊見城市文化財調査報告書
第09集 豊見城市の遺跡-市内遺跡分布調査事業- 2011年
豊見城市文化財調査報告書
第10集 重修石火矢橋碑・豊見城グスク 2013年
豊見城市文化財調査報告書
第11集 名嘉地の住民避難壕群 2014年
豊見城市文化財調査報告書
第12集 保栄茂古島遺跡・瀬長グスクほか-市内遺跡等発掘調査報告書- 2016年
豊見城市文化財調査報告書
第13集 豊見城西原遺跡発掘調査報告書-沖縄空手会館建設に伴う埋蔵文化財発掘調査- 2017年
豊見城市文化財調査報告書
第14集 市内遺跡等発掘調査報告書-平成24・26・27年度 豊見城グスク他 確認調査- 2018年
豊見城市文化財調査報告書
第15集 豊見城古島B遺跡発掘調査報告書-沖縄工業産業振興拠点施設(仮称)の建設に伴う埋蔵文化財発掘調査- 2020年
豊見城市文化財調査報告書
第16集 市内遺跡等発掘調査報告書 Ⅱ-豊見城グスク・豊見城古島B遺跡- 2020年
豊見城市文化財調査報告書
第17集 市内遺跡等発掘調査報告書 Ⅲ-豊見城グスク・豊見城古島B遺跡- 2021年
豊見城村の文化財
豊見城村の文化財(増補)2002年
豊見城村の文化財
第2集 漫湖周辺の文化財と野鳥 2000年
豊見城市の遺跡及び古墓群分布図 2014年
遺跡や埋蔵文化財、考古資料は「遺跡」ページへ
遺跡(準備中)
芸能
工芸技術
武術
口承文芸
衣食住
生産、生業関係
交通・運輸・通信
交易・商業
社会生活
風俗慣習用具
年中行事関係
祖先祭祀関係
屋敷信仰関係
生育儀礼
葬送儀礼
職業関係
外来宗教
民俗芸能用具
娯楽、遊戯関係
風俗慣習
信仰関係
民俗芸能
民俗技術
民俗知識
記念物
天然記念物
動植物・地質鉱物
史跡
名勝
戦争遺跡
文化的景観
伝統的建造物群保存地区
選定保存技術
時代区分 沖縄県教育委員会文化財課『みんなの文化財図鑑-埋蔵文化財 編-』沖縄県教育委員会を参考に作成
文化財においては主に成立・作成年代
地質年代
(未特定)
先カンブリア時代
古生代
中生代
新生代
昭和_戦後_復帰前
昭和_戦後_復帰後
昭和_戦後
(未特定)
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