第8章

専用練習場出来る

第18節 新子菊雄就任

昭和54年度

ふしから芽を出す努力

今年も昨年に続いて、全日本コンクールにおいての「金賞」を最終目標として短い練習時間の中で、密度の濃い練習を積み重ね努力してきた。今年一年をふりかえってみると、いろいろな面で解決しなければならない課題が、数多くあった。谷口眞先生の指揮者退任、待望の練習場の完成などと部にとっては不安や重大な責任を同時に背負い、その試練を乗り越えることは、吹奏楽部がさらに躍進していく過渡期でもあり、また根本的な問題を、今一度考え直させられた時期でもあった。

11月、3年が抜けた。われわれにとってはすでに3年が抜けたその瞬間から大きな壁にぶちあたっていた。今までのレベルからは考えようのないほどの実力の低下である。練習が終わってからの毎日のミーティングにも熱が入り、一からやり直す思いで練習に打ち込んだ。 冬から春にかけて、必要な基礎技術の徹底を期して、まず音づくりを中心とする基礎練習を行った。

春の合宿では、新任の新子菊雄先生を迎え、生徒の和をより一層深め、新しい先生とのつながりを深めようと、生徒一人ひとり、自分に厳しく練習に励んだ。

4月からは、新入部員をまじえての本格的活動が始まった。行事が続き、忙しくあわただしく過ぎる毎日のなかで、2、3年生が協力し、自分たちの技術向上とともに新入部員の指導に努めた。

5、6月と行事が続き、7月に入り、今年もこどもおぢば帰りがやってきた。8月に待っている演奏旅行と関西コンクールを目前に控えて、毎日のひのきしん一回一回を真剣につとめさせて頂いた。そんな緊張したなかで、どこからともなく和やかなムードが漂いはじめたのもこのころであった。

演奏旅行も無事終えさせて頂き、全日本への第一関門である関西コンクールを目指しての練習が始まった。「心に訴える演奏を!」の目標のもとに、みんなの心をそろえ、拭けども流れるこの汗の行方を夢見ては、おのずと楽器も軽く感じられるようになってきた。その結果、関西コンクールで金賞を獲得し、全日本への切符を得た。

中間考査を終え、息つく暇もなく全日本への追い込みが始まった。こうしていよいよ全日本へ挑んだ。その結果、夢にまで見た「金賞」を獲得することができた。

今年の1年は、40数年伝統を誇る吹奏楽部にとって非常に大きな「ふし」であったと思う。油断することなく、毎日水をやり無事に「芽」を出すことができたことは、厳しい試練の中から生まれた喜びであり、またその任務を果たすことができた充実感であった。そして金賞を獲得し終えた今、今年より更に厳しい来年の全国制覇への試練の道は、すでにスタートしているのである。

例年通りの忙しい4月の教内行事も新入部員の参加をえて無事勤めさせて頂いた。

創部以来初めての専用練習場完成

ファイナルコンサート始まる

おそらく吹奏楽部40数年の歴史と伝統のなかで、今年ほど多種多様な出来事が相次いだのも珍しいだろうと思う。しかし、渦の中で、われわれはただじっとうずくまっていたのではなく、「とにかくなんとかしよう」と部員全員が一生懸命やった。気持ちばかりが急いてかえってマイナスになったこともあった。しかし、その精一杯勤めさせて頂くという気持ちでどんな些細なことにも全力でぶつかったということが、今われわれが思い返してみて、それはまぎれもない充実感となってかえってくるのは、絶対的な事実であり、そしてその充実感とは「金賞受賞」なのである。思い返してみて、われわれの目標は「心に訴える演奏」であった。全日本で金賞を獲得した今、われわれは及ばずながらも目標を達成したという満足感であふれている。しかし、今年ですべてが終わったということではない。来年、いや百年後も千年後までも続いていく吹奏楽部にとって満足という文字は、栄光を勝ち取ったその一時しかないのであって、またすぐにたゆまない努力が始まるのである。努力なくしては栄光はない。これからさらに伝統の1ページを綴っていく後輩の諸君!この「努力」という文字を絶対忘れないで、さらに地道な試練を乗り越えて、この吹奏楽部をより発展させ輝き続けさすこと、これが君たちの残された、いや与えられた名誉ある課題であり義務であると思う。頑張ってくれたまえ!


昭和55年度

4年連続金賞目指して

今年も昨年に続いて、全日本コンクールにおいての「金賞」を最終目標として、密度の濃い練習を重ね、全員が一手一つとなって努力してきた。今年1年をふりかえってみると、吹奏楽のレベルの向上とともに「全員がよりいっそう歌える演奏を」をひとつの目標として、いろいろな面から音楽に取り組んできた。これは音楽の根本を見直すのにいい材料であった。 冬から春にかけては、部員の「和」と個人の技術の向上をはかるため、全体のミーティングの機会を幾度かもったり、基礎からの練習を徹底し、一から始めるつもりで練習を進めた。また、4月に入ってくる新入部員の確保という問題についても、いろいろと話し合った。

4月には、全員が部員の確保に努めた。2年生部員が14名というわれわれにとって、来年のことを考えるとどうしても必要な新入部員であったが、20名を越した時点で伸びがとまってしまった。またそのなかで、2、3年生は協力し、自分たちの技術の向上とともに、1年生の指導にも努めた。

7月にはおぢばがえりひのきしん、8月には演奏旅行と行事が続いたが、これもにをいがけだと思って、1回1回を真剣につとめさせて頂いた。また、3年生が多いためまとまりにくかったが、この頃からだんだん3年生にも「和」ができ、バンド全体がひきしまった。

演奏旅行も無事つとめさせて頂き、課題曲と自由曲もようやく決まり、「心に訴える演奏を」の目標のもとに、出場者だけでなくその他の部員も一丸になって練習を重ねた。短期間で仕上げなければならなかったのでいささか不安であったが、それをカバーするために全員必死になって練習した。その結果、関西コンクールで金賞を獲得し、全日本コンクールへと駒を進めることができた。

2学期が始まり、天高祭、演奏会などの行事があった。これも全日本コンクールにつながる大きな土台となる重要なものであった。その土台に全員が足を踏みそろえ、全日本コンクールに挑んだ結果、金賞を受賞することができた。

この1年間、新子先生の指導のもとに一つひとつの行事を大切にこなし、その合間をぬってアンサンブルや合唱、レコード鑑賞などを行い、一人ひとりの音楽性を高め、全員が楽しく音楽に参加し、その上で全員 ェ一手一つとなって、今までとひと味違った音楽を目指してきた1年だった。

今年も各行事をしっかり勤めさせて頂き、全日本コンクールにおいても4年連続の金賞を受賞。これは間近に迫る教祖百年祭に向けて、また一歩大きく前進したと思う。後輩諸君!今年植えた種を来年に、また、教祖百年祭に向けて育てていってくれ。それはけっして容易なことではないが、苦しくなったときは、いつでも自分たちには天理高校吹奏楽部員として、輝かしい伝統を守っていかなければならない使命があることを忘れないでくれ。


昭和56年度

「オセロ」で金賞、5年連続成る

今年も昨年に続いて、全日本吹奏楽コンクールでの「金賞」を最終目標として、部員一同、「和」をモットーに努力してきた。今年1年を振り返ってみると、昨年と同様「全員がよりいっそう歌える演奏を」を第1目標として、音楽というものによりいっそうみがきをかけた。 冬から春にかけては3年生がぬけて、1、2年合わせて35人しかいなかったので、部員の和と個人の技術の向上をはかるため、基礎からの練習を始め、一からやり直すつもりで練習に励んだ。また、新入部員の確保という問題については、重点的に話し合った。

4月からは、新入部員をまじえて本格的な活動が始まった。4月の忙しい行事があるなか、2、3年生が協力し、自分たちの技術の向上とともに、1年生を指導していくよう努めた。

7月にはこどもおぢばがえりひのきしん、8月には、演奏旅行と行事が続き、われわれにとってこれもひとつのにをいがけだと思い、それぞれ行事を真剣に勤めさせて頂いた。そんな緊張したなか、知らない間に「和」というものができあがった時期であった。

演奏旅行も無事終えさせて頂き、全日本への第1関門である関西コンクールを目指して練習を始めた。短期間で仕上げなければならなかったので、部員一同、共通の目標のもとに今までの行事を思い出しては、お互いに協力し合い、練習には熱が入った。その結果、関西コンクールでは金賞を獲得することができ、全日本コンクールへと駒を進めた。2学期が始まり、天高祭、中間考査が終わり、息つく暇もなく全日本への追い込みが始まった。また、今年は5年連続ということもあって、みんな一丸となって全日本に臨んだ。その結果、「金賞」を獲得することができた。

この1年間、指揮者の指導のもとで部員が一手一つになりひとつひとつの行事を大切にし、あらゆる面での一人ひとりの音楽性を高めたことは、厳しい練習から生まれた喜びであり、またその任務を果たすことができたという充実感でもあった。そして金賞を獲得した今、来年に向かって、さらに厳しい試練の道がすでにスタートしはじめたのである。

今年も、この長い演奏旅行を無事に勤めさせて頂いたということは、これから後にわれわれに残されている使命を果たすことにおいて、非常に良い勉強となり、また土台となったと思う。8泊9日の日程のなかで、演奏会12回、パレード3回と、厳しいスケジュールであったと思う。しかし、コンクールへつながる大切な舞台であるため、1分いや1秒たりとも気を抜いてはならない大切な旅行であった。


第19節 3度目の海外演奏旅行

昭和57年度

タイへは春休みを利用して

昨年11月に部を引き継いで以来、それまで自分たちの3信条としていた「一手一つの和」、「互い立て合い助け合い」、「ひのきしんの精神」に加えて、「自らの音楽を求めよう」「良い音で心の歌を奏でよう」「心から挨拶しよう」の3つを新たな目標として、半世紀ほどの伝統を守り、さらに素晴らしいバンドにしていこうと、「心に訴える演奏」を目指して新しいサウンドを作り始めた。

今年は楽朋会創立40周年記念演奏会、タイ演奏旅行、全日本吹奏楽コンクール招待演奏と例年にない大きな行事が3つもあるということもあってか、はじめからあせっているような雰囲気があり、1年を通じて細かいところまで十分気を配れなかったようであった。

冬期は1、2年のレベルを上げようと基礎練習やすべての基本であるマーチの練習を中心に行って、学年は関係なく各自が曲を完璧に吹きこなせるように努力し、少ない行事を確実にこなすようつとめた。

春休みに入って、タイへの演奏旅行を手伝って下さる昭和56年度卒業生の方々もまじえて本格的にそのための練習に入ったが、思うようにはかどらず不安であった。しかし、演奏会本番の反響は予想以上によく、国際親善に役立つことができた。

新学期になって、新入部員の確保に力を入れようとしたが、入学式は雨のためパレードができず、ことに新入生歓迎クラブ発表会には、伝染病の疑いで部員の半数が隔離されたので出場もできず、勧誘だけで何人入ってくるか心配であった。しかし、入部者の数はそんなに多くなかったが、やめる率が非常に低かったので、そうにか人数だけは保つことができた。これも先生方やドラムメジャーの方はじめ、2、3年生でも4月当初の新入部員の指導の仕方については十分考えたたまものであろう。4月の行事についても、ぎりぎりまで前年の3年生に手伝って頂いたり、新学期前の合宿がなかったので、曲ができあがるかどうか不安だったが、あせりながらも密度の濃い練習を重ね、集中した行事を消化することができた。そして、5月、6月と演奏会やパレードをやっていくうちに、7月に入り、今年も「夏のこどもおぢばがえり」がやって ォた。その後演奏旅行、奈良県吹奏楽コンクールと1年を通じて最も苦しい時期の一つをのりこえた。毎年8月末に関西吹奏楽コンクールに出場しているのだが、今年は招待演奏ということでコンクール審査対象外なので関西大会には出場できなかった。

2学期に入り、天高祭、録音コンクールなど数々の行事をこなしていき、1年生もクラブに慣れてきたころ、全日本吹奏楽コンクールが目前となってきた。一度決めた曲を変更するなどして、なかなか曲ができずにあせったが、中間考査の後集中して練習し、なんとか形だけは整えて東京へ出発した。東京でも演奏会2つをはさんで短い練習時間ではあったが、少しでも良いものにしようとみんな一生懸命練習したので、特別招待演奏にふさわしい演奏をすることができた。3年生はそれでいちおう引退であるが、残された4つの演奏会でも人に喜んで頂こうと、受験勉強で忙しい中を週何回か合奏日を決めて練習した。最後まで納得のいくよう勤めさせて頂こうと張りきって演奏した。

この1年間は天高バンドにとって大きなふしであった。指揮者である新子先生も就任されて4年目ということで、これまでの伝統のなかで改善すべきところは大きく変え、新しい方法をどんどん取り入れていった。はじめは今までと違うのでとまどったが、慣れてくると自分たちで話し合って変えていくような前向きの姿勢をとることができた。これからも伝統を守るとともにそれにしばられることなく、先生方やドラムメジャーの方の指導のもとで、自分たちで音楽を作っていってほしい。

3月31日~4月5日・タイ演奏旅行

この演奏旅行の中心となる目的は、タイ国バンコック市にある青少年福祉センターの開所式の式典で演奏することである。というのはタイがバンコックに遷都して今年がちょうど 200年となるので、その記念行事がタイ国内いたるところで行われるのである。そのひとつとして日本の莫大な資金援助によってバンコックに青少年福祉センターが建てられたのであるが、その開所式の式典で演奏する吹奏楽団を日本から出してほしいとタイから要望があった。そのため外務省からの依頼があり、全日本吹奏楽連盟の派遣ということで天理高校吹奏楽部のタイ演奏旅行が決定した。団長:全日本吹奏楽連盟副理事長 永長信一、副団長:同連盟常任理事 平松久司、指揮者 新子菊雄、引率者:大矢博、村田篤美、北野博志、日本交通公社嶋村文男、ドラムメジャー上原浩、写真撮影大久保家治

天理高校吹奏楽部にとって3度目の海外演奏旅行であったが、非常に名誉ある仕事をさせて頂いて部員一同心より喜んでいる。国内での大きな行事で、他の団体をさしおいて自分たちが演奏させて頂くことはあっても、日本代表として海外へ遠征するというようなことは、そうめったにあることではない。この大役をつとめさせて頂いたことが、これからの練習に、また、卒業後何をするにしても大きな自信となるだろう。しかし、結果的にはタイの方々に喜んで頂き、国際親善に大きく役立つことができたが、その練習での経過を思いおこすと、考え直すべき問題もある。あるひとつの演奏会だけのために取り繕った音楽では、本当に心に訴えるということはできないであろう。いつどんな人に聴いて頂いても喜んでもらえるような素晴らしい演奏をしなければならない。これからも数多い行事のひとつひとつを成功さすことを考えるとともに、常にレベルの高い演奏をするために毎日の練習の1分1秒を大切にするということを再認識させられた行事であった。

楽朋会40周年記念演奏会-昼夜とも超満員-


半世紀ほどの歴史を持つ吹奏楽部でも、今年は例年にないことが多くあった年で、部の方針も大きく移り変わっていく境になる年だったと思う。1年を振り返ってみると、大きな行事に目がいってしまい、日常の練習や行動の細かいところにも注意しながらやっているつもりでも、後になって考え直してみると全然できていなくて、いつまでたっても進歩していなかったことが多かったように思う。行事が間近で曲を仕上げる点でも焦りすぎて悪い結果もあり、ミーティングで激しい意見の食い違いも少なくなかった。しかし、今思い返すとそれらはみな部を一歩でも前進させようとしてやったことで、充実感となってかえってきている。とくに練習場を与えて頂いてからは毎日の練習は楽である。練習場所のない時代、教館で練習していた時代、食堂で練習していた時代、それぞれ今より時間も短く、楽器の練習以外の方が辛かったほどである。今の現役は最後の「食堂の味」さえ知らず、練習場が当たり前にさえなっている。食堂での練習を経験しているのは去年の3年生まで。設備が整っているのはよいことであるが、その楽さが「甘さ」になってはならない。時間が増し、設備が整ったならより高いものを目指して頑張らなければならない。それが良いものを与えて下さったことに報いるただ一つの手段であると思う。伝統を重んじるということをわれわれは常に感じているが、言葉だけで終わらせないためにはどうすればよいか。それは一つひとつの行事を確実にこなし、われわれの演奏を聴いて頂く人全員に喜んでもらえるようにすることだと思う。これからも何世紀も続いていくであろうこの天理高校吹奏楽部を発展させていくという名誉ある義務を背負う後輩に望むことは、伝統を守る厳しさを知ってほしいということと、決して妥協せず、常に完璧を目指してほしいということである。