第7章

節をのりこえて

第16節 巨星堕つ

昭和48年度

矢野清先生告別式で「英雄」演奏

3年生が抜けて後、2年生と1年生合わせて34名という例年にくらべてやや少人数でスタートした。

今年の春休みは、野球部が甲子園へ出場したため、わが吹奏楽部も強化練習と並行して応援にかけつけた。

例年通り忙しい4月もなんとか乗り切ったが、5月1日、ちょうど3年生全員が修学旅行でおぢばを離れていた時、わが部の育ての親であり、われわれ部員にとっては神様のような存在であった矢野清先生が出直された。

5月6日の告別式で演奏させて頂き、6月10日の50日祭では墓前演奏をさせて頂いた。このことはわれわれにとって大きなショックであったが、わが部の大きな節であると受け取らせて頂き、部員一同心新たに再スタートを切ったのである。

7月は例年同様子供おぢば帰りひのきしんをさせて頂いた。今年も午前中は8月の演奏旅行に備えて練習をし、夜はプールサイド行事である。今年は例年と異なり、ドリル演奏が主であった。夏休み前から心配された水不足が、おぢば帰り期間中ずっとわれわれを困らせたが、後半に入るとわずかではあったが雨のお与えもあり、無事、最後までひのきしんさせて頂くことができた。

8月7日、島根、山口両県への演奏旅行に出発した。最初の目的地は島根県の出雲であったが、その途上まずわれわれを悩ませたのが、楽器運搬用に学校からお借りしたトラックである。というのはこのトラック、登り坂になるとオーバーヒートしてしまうのである。とにかくこういった調子で15日間、各会場をまわり21日に無事演奏旅行を終え、天理へ到着した。

旅行の後、練習は休みとなったが、その間われわれにとって、またも大きな悲しみが訪れた。それは8月26日の谷口眞先生の奥様のお出直である。そのため、谷口先生は、9月16日の関西コンクールのための練習にもなかなかお見えになれず、部員にとっては非常な試練の時となったが、故矢野清先生に対しても、とにかく勝たなくてはならないと全員が肝に銘じ、自由曲交響詩「自然への回帰」をもって関西コンクールに立ち向かった。

11月4日、名古屋で行われた全日本コンクールにおいてわれわれは12分間に1年間の努力のすべてを注ぎ、他校に例のない4年連続の金賞を受けた。 こうしてこの1年間を振り返ってみると、今年は矢野先生と谷口先生の奥様のお出直という2つの大きな節をわれわれの力でいかに乗り切ってゆくかという大変な課題を与えられた年であり、そのために精一杯の努力をし、それを乗り切る踏み台をつくることができたと思う。

初めて邦人作品を自由曲に

これで今回の演奏旅行の最後の演奏会が終わった。


昭和49年度

全日本で敗れはしたが…充実した1年

本年は3年生が14名と例年に比べて少なく、いささか心配であったが、2年生24名とともに一致団結して春の行事に臨んだ。とくに今年は矢野清先生追悼演奏会が5月に予定されており、これに向かって一生懸命勤めさせて頂いた。

例年以上に春の行事が忙しく、行事のための練習が常だったが、そんな忙しい4月を終え、5月5日の矢野清先生追悼演奏会も多数のOBの方々とともに無事終え、一つの節を乗り切った。だが、今年は1年生の入部が少なく全員で50数名という近年に見られない少人数になった。これも親神様がわれわれに与えた試練だと思い部員一同再出発を誓った。

6月には課題曲が発表された。だが、これにはAとBの2曲に分けられていた。結局、わが部はBの「高度な技術への指標」を選んだ。しかし、自由曲がはっきり決まらないまま7月に入り例年通り子供おぢば帰りのひのきしんをさせて頂いた。今年は昨年と違って水が豊富でありがたく勤めさせて頂くことができた。

8月8日天理をあとに長野県へと向かった。さいわい信州は天理と違って涼しく、無事演奏旅行を終えることができた。長野県をあとに東京へ第1回日本アマチュア音楽祭出演のため向かった。

8月17日、2年前全国コンクールが行われた普門館でこの音楽祭の最後を飾って出演した。演奏後アンコールの声がかかるほどの人気だった。その夜、一路天理へと向かい、翌朝着き、その夜から合宿という強行スケジュールだった。この合宿はCBSソニー依頼のレコーディングで25日まで行われた。

9月に入り、自由曲もようやく決まり、これから23日の関西コンクールまでの短期間に仕上げなければならないかと思うといささか不安であった。この不安を背負って7日に埼玉教区親子ぐるみ大会出演のため埼玉へ向かった。

9月23日関西コンクールで7年連続通算19度目の優勝を飾った。この自信を生かし、さらに磨きをかけてどれだけ11月5日の全国コンクールを待ち望んだことだろうか。本番で少しミスがあったが、みんなとにかく精一杯やった。しかし、結果は銀賞に終わってしまった。教内外の皆様のご期待に沿いえなかった。どれだけくやしかったことだろうか。部員の中には涙を浮かべる者さえいた。しかし、最後まで天理の真の姿を見せようと誓った。

朝8時学校を出発。10時半頃兵神大教会に到着。そこでチューニングをして最後の練習。それから会場に向かうが、到着時間が遅れてチューニングの時間がなくそのまま出場となった。こうなったら、あとは耳で合わすしかない。3時25分舞台に上がる。1年間の努力をこの12分間というわずかな時間に集中する。一生懸命吹いた。少しミスがあったがとにかく終わった。みんな顔が穏やかになる。教会に戻り夕食を済ませて会場の閉会式に行く。いよいよ発表だ。みんなの心は緊張する。出演順に発表してゆく。天理の前の兵庫高校が終わりいよいよ天理だ「第7番目天理高校、銀賞」この声にそれまで静かだった会場がざわめく。われわれはもちろん客席もみんな信じられなかった。大変ショックだった。3年間通して初めて味わう敗退の味。表彰式が終わってからも茫然としていた。帰校後親神様にご報告する。

このように今年のコンクールは銀賞という結果に終わったが、しかし、これと同時にわれわれは一つの教訓を得た。この教訓を生かして、1、2年生の諸君は部の発展に力を注いでもらいたい。また、部員一同の一層の躍進を祈る。


第17節 ふたたび、海外へ

昭和50年度

2度目の海外演奏は東南アジア

3年生が抜けて、新3年生は例年より多く23名。しかし、新2年生は10名という少人数、合わせて33名という例年にない少ない人数でスタートをきった。

今年の春休みには、野球部が甲子園に出場したためOBの方々に手伝って頂いて応援を行った。

4月に入り、われわれには大きな目標ができた。それは東南アジアへの演奏旅行であった。海外への演奏旅行は、吹奏楽部始まって以来2回目、東南アジアへ行けるということは嬉しかったが、しかし、「日本の代表」として恥ずかしくない演奏をせねばならないと部員一同心を新たに、その目標に向かって練習した。忙しい4月の行事も1年生をまじえてどうにか乗り切った。

6月には、北九州への演奏旅行、県中学校吹奏楽講習会があり、そのため、東南アジアの旅行のための練習時間は少なかった。そのうえ、われわれが入部してから初めての曲も数曲あり、プログラムを一通り練習するのがやっとだった。

とうとう出発の日がやってきた。6月30日、本部参拝後天理を出発し、翌7月1日、われわれを乗せた飛行機は午前9時20分羽田空港を飛びたった。昼過ぎにマニラ空港に到着、2日リサール公園でパレード及び野外演奏会、3日カルチャーセンターで演奏会を行った。その演奏会後すぐに飛行機でクアラルンプールへ向かい、4日、クアラルンプールのマラヤ大学で演奏会を行い、5日朝シンガポールへと向かった。午後、国立劇場で行われていたインドア・バンドコンクールに特別出演、翌6日、中国庭園において、パレード及び野外演奏会、7日国立劇場で2回演奏会を行い、東南アジアでの演奏をすべて終了した。8日、シンガポールをあとに、東京へと向かった。夜羽田空港に到着、バスで一路天理へと向かい、翌9日朝無事天理に到着した。旅行先で、病気で倒れたものも何人かいたが、どうにか無事終了した。

旅行の疲れがとりきれないうちに、例年どおりこどもおぢばがえりひのきしんをさせて頂いた。

8月7日、演奏旅行へ出発した。今年は長崎の被爆30周年のため、長崎でパレード、慰霊演奏会を行った。その後、新潟の十日町でパレード、演奏会を行い、北海道へと向かった。小樽、苫小牧、静内、室蘭、函館と演奏会を行い、22日小樽からフェリーに乗っり舞鶴へと向かった。途中ハプニングもあって23時間遅れて舞鶴に着き、24日無事に天理に到着した。

2学期が始まり、コンクールの自由曲は山田耕筰作曲、矢野清編曲、交響詩「おやさま」より第2楽章《陽気づとめ》ときまり、9月14日の関西コンクールを目指して練習をした。今年の目標は、全日本コンクールで「金賞」を取ることであり、その前には、当然関西コンクールでは優勝を遂げねばならなかった。9月14日、関西コンクールで優勝を手にした。次はわれわれの最終目標であった全日本コンクール。去年は銀賞だった。だから今年は意地でも金賞を取らねばならない。部員一同、精一杯練習をした。いよいよ10月26日、全日本コンクール。わずか12分に今までの練習のすべてをかけた。ミスがあった。しかし、やるだけはやった。審査発表「天理高校金賞」。去年のことがあっただけにみんなの喜びも一層強かった。

今振り返ってみて、本年は「東南アジア演奏旅行」と「全日本コンクールで去年取れなかった金賞を取る」という例年にない大きな2つの目標があった。その目標を達成するのに必要となったのは、3年生23名がいかにまとまり、クラブ全体をいかに盛り上げるかであった。言ってしまえば簡単なことかもしれない。しかし、それは容易なことではなかった。23名という多い人数、たしかにまとまれば力がある。しかし、最上級生という解放感、安心感があるために、なかなかまとまらなかった。50名の人間が集まって一つの音楽を演奏するのには、演奏技術が必要であるが、それ以上に「和」というものが大切である。その和の中心となるのは3年生。その3年生が例年より多く、クラブ全体がまとまらなかった。しかし、われわれには、大きな目標が2つあった。その目標を達成せねば!と一生懸命練習し、それがわれわれに「和」をもたらしてくれたのだろう。海外旅行も無事終え、金賞も手にした。今年は例年以上に行事が多かった。それだけに、有意義な年であったと思う。

「おやさま」で金賞-本年2度目の札幌で-

このようにして今年1年が終わった。今年は、教祖九十年祭の前の年、そんな大事な年に、東南アジアの演奏旅行をさせて頂き、そして全日本コンクールでは、交響詩「おやさま」を演奏して「金賞」を得ることができて大変ありがたい、嬉しい1年であった。


東南アジアの旅

…各地で熱狂的な歓迎…

親善の大役はたす

万国共通語と言われる音楽、人々の心にうるおいと、安らぎを与えてくれる音楽は、平和の原動力ともなっている。複雑化していく世界情勢を緩和し、「音楽を通じて国際親善を」との趣旨で、日本国民音楽振興財団の依頼を受け、わが天理高校吹奏楽部一行53名は7月初めにフィリピン、マレーシア、シンガポールの東南アジア3カ国へ演奏旅行に出かけた。

吹奏楽部の海外での演奏旅行は、昭和40年に、世界最大といわれるアメリカの花の祭典、ローズ・パレードに参加して以来2度目である。

このたびの3カ国にわたる親善演奏旅行では、いずれの会場も満員の聴衆で埋められ、熱狂的な歓迎を受けた。各会場の人々は「これが本当に高校生の演奏か」という驚きや感嘆の声が多く、今後も定期的に指導してほしいという要望もあった。なかには、子供をぜひ天理高校へ入学させて、吹奏楽を学ばせたいとの声もあり、われわれ一同を大変喜ばせたものである。

また、技術面だけでなく、部員たちの規律正しい行動も人の注目を集めた。暑い中、また強行スケジュールの中、部員たちは会場の準備やあとかたづけを自分らで行い、こうした行動は現地の新聞、ラジオ、テレビなどでも報道され、親善の大役を果たすことができた。とくに現地の日本大使館の関係者などは、東南アジアの人々は、日本の文化を低くみているので、今回の演奏をきっかけに、日本の文化水準が高いのを認識新たにし、これからの文化活動が非常にやり易くなったと、おほめの言葉をいただいた。

また、九十年祭を目前にして、各会場で必ず、交響詩「おやさま」を演奏し、東南アジア各地で活動する教友の布教の手助けになれたことは大きな喜びであった。

《東京へ》

【6月30日】部員一同は、初めての海外旅行とあってその準備に忙殺され、その上、新入部員を迎えてまだ間もないため、十分練習もできぬまま東南アジアへ演奏旅行に出かけた。

本部参拝後、学校前で校長先生より激励の挨拶を頂いて、父兄やOBに見送られる中、一路東京へ向かった。約4時間後に東京駅に到着、今晩の宿舎である本芝大教会へ向かった。本芝大教会では今回の東南アジ A演奏旅行の添乗員である諸田氏よりパスポート類及び注意事項についての説明があり、次第に東南アジアを身近に感じてきたようだ。その後、われわれはこの演奏旅行の結団式が執行される笹川記念館へ向かった。笹川記念館では、日本国民音楽振興財団の役員及び、われわれと共演することになっている駒沢大学、日本大学のバトン・クラブのメンバーたちと結団式に臨んだ。2代真柱中山正善氏と友人関係である笹川会長は、「全人類は兄弟である」とおっしゃっておられた。このことは、われわれも、もちろん同感であり、天理教の目標とするものであるので、この言葉を聞いてわれわれ一同今回の演奏旅行の責任の重大さがひしひしと感じられ、身の引き締まる思いであった。

この後、キャプテン米田君の力強い宣誓の後、万歳三唱乾杯で結団式を終了した。その後、本芝大教会にて、フィリピンから送ってきたばかりで、まだ練習も行っていない「フィリピン・エアー」に取り組み、夜おそくまで練習にはげんだ。

《マニラへ》

【7月1日】前日の夜おそくまでの練習にもかかわらず部員一同朝早く目がさめ、緊張した面持ちで出発準備に取りかかった。

東京国際空港に到着後、荷物の検査、楽器の積み降ろし、などを終え、ようやく出国手続きに取りかかった。いよいよ出発だ。午前9時20分、JAL-741便に搭乗。うきうきした気持ちで日本を離れた。飛行時間約4時間、機内で昼食、国内線とは比較にならないほど豪華だ。ほんのひと飛びで紺碧の海に囲まれたフィリピン上空に到着、現地時間、12時10分(日本とマニラの時差は1時間)に無事マニラ国際空港に着陸。部員一同ほっと胸をなでおろした。飛行機から出ると「むっ」とする熱帯地方特有の熱風とともに、送迎デッキから、今回の海外演奏旅行の準備をして下さったシンガポール出張所の井上氏をはじめ、その他多くの人々の歓迎の声が聞こえた。そして入国手続きを終えると、歓迎のため部員一同南国特有の香りの強いレイを現地女性に首にかけてもらい、陽気な気持ちになった。しかし、空港で楽器及び私物をホテルと、演奏会場であるカルチャーセンターまで運ぶトラックが来ることは来ていたが、小さなトラックで、それで何回も往復しなければならなかった。

そして、荷物がほとんど運び終わって後、大きなトラックがやって来て、積む荷物がない有り様で、この国の仕事のスローモーさにわれわれは驚かされた。その上、楽器類を扱ったことのないポーターたちが多いので、楽器を無茶苦茶に積んだのか、いざ練習をする段になって、破損が目立ち、ある楽器などはピストンが動かなくなってしまい、ひっかかっている部分を研磨剤でへらしてやっと使える始末であった。

このように空港でもたもたしたため、予定より1時間遅れて宿舎のベイビュープラザに向かった。バスはロハス通り(ここから見るマニラ湾の夕焼けは最高であると言われているが、われわれはついに見る機会に恵まれなかった)を進む。ガイドは、現地人で日本人と間違うほど流暢な日本語を話し、マニラでは言葉に不自由することはないと安心した。ホテル前では、リサール公園バンドの立奏歓迎を受けたのち、本日2度目の昼食を取った。出て来た食事はとても口に合わないという説明を受けたが、2度目の昼食にもかかわらず部員の食欲をみると食事に関して心配することはないと思った。昼食後、マニラでの演奏会場で早速、約2時間の練習を行った。

マニラでサイン攻め-パレード囲む人垣-

《マニラ市内見学》

【7月2日】午前中マニラ市内見物に出かけた。マニラ市内の道路はジープニーと呼ばれるジープの荷台に乗客をのせるタクシーが多く走っており、われわれ一行を乗せたバスはその間をすりぬけながら、リサール公園及び記念館を訪れた。リサールはフィリピンの革命運動家であり、国民的英雄で、リサール公園は彼を記念して名付けられたものである。リサールが処刑された場所は記念碑があり、2人の警備兵が四六時中立っている。その後、サンチャゴ要塞を訪れた。この要塞は、ホセ・リサールが投獄されていたこともあり、今もその牢獄がそのままの姿で残っている。またここは第2次世界大戦中は日本軍の憲兵隊の司令部が置かれ、大勢のフィリピン人が収容されていた所でもある。そして、中国人墓地や、何万という戦死したアメリカ人の白い十字架が緑の芝生の中に見わたすかぎり整然と並んでいるアメリカ記念墓地など、マニラ市の名所旧跡を訪れた。初めての海外旅行とあって暑さもなんのその、みんな陽気そのものであった。

市内のレストランで昼食後、本日行われる予定の野外演奏会のため、ホテルで一同午睡。3時過ぎ、演奏会場であるリサール公園に出かけた。しかし、またもや、南国特有のスローモーさのため楽器運搬用のトラックが来ず、いらいらし通しであった。

いよいよ本番ということで、ひきしまった気持ちでパレードを開始。やはりこのようなパレードを見たことがないのか、多くの人たちは、パレードとともに行進をした。パレード終了後広場において、野外演奏を開始、音を出す前からわれわれのまわりには幾重もの人垣をでき、1曲終わるたびごとに多大の拍手があり、一層奮起して演奏した。そのうちこちらも負けてはいられぬと、地元リサール公園バンドもわれわれに引き続いて交代で演奏し始めた。彼らの音楽には学ぶべきものもあり、大いに参考になった。そしてお互いに吹きあっているうち、夕日も沈み午後7時30分、野外演奏は終了。

ホテルまで歩いて帰り、楽しみの食事。日本では食べることのできない食べ物に、一生懸命であった。食べる量は、ホテルのボーイも驚くほどで、追加の料理ができるまで列をなしているほどであった。その夜は、自由時間が少しあり、部員は、思い思いにマニラの夜を過ごした。しかし、散歩に出かけたりする者は、誰もいなかった。やはり言葉の通じないことと、マニラの夜は、物騒であるためか。

《マニラ演奏会》

【7月3日】今日はカルチャーセンターで初の室内コンサート。7時40分に出発、カルチャーセンターは、マニラ湾へ突き出た一角にあり、マニラ湾が一望に見渡される近代的な建物である。そこで約1時間のリハーサル後、10時に演奏開始、幕開けの「越天楽」のファンファーレには、会場の人々があまりのボリュームなのにびっくりした様子であった。客席を見ると、女子学生が大半を占めていた。話によると、文化庁より各学校に連絡がいっており、学校あげて聴きに来られ、マニラ市内の学校は言うに及ばず、フィリピン諸島の島々からも来ていたようだ。満員の聴衆に喜んでもらえるよう張り切って吹いていたようだ。約2時間の演奏終了後は、楽屋の入口まで大勢の学生がサインを求めに来ていて、みんな、顔を赤らめながらサインにこたえていた。

この後すぐにわれわれ一行は、次の演奏目的地であるクアラルンプールへ向けて出国の準備に取りかかった。マニラ空港で昼食後、午後3時30分、JAL-747便で、バンコクへ、バンコクからタイ航空のTG-415便でクアラルンプール国際空港に午後8時半頃到着した。途中飛行機になれないためか、降下中吐き上げる者もいたが、すぐに元気を取り戻しひと安心。空港ではクアラルンプールの文化庁の方と挨拶を終えた後、空港で待たされること数時間、最初何の理由で待たされるのか分からなかったが、前日にプロボクシング世界ヘビー級タイトルマッチがクアラルンプールで行われ、われわれ一行が到着した時、そのボクサーが出国するため空港にやって来たのを、空港の係官たちが、一目見ようと仕事を放り出したため、われわれの私物、楽器等、検査ができなかったためであった。どうして、南国は、どこでもスローモーで、呑気なのであろうか。でもようやく検査も終わり、3年生は、明日の演奏会場のマラヤ大学へ楽器運搬、1、2年生は、先に今夜の宿舎であるマラヤホテルへ私物を置きに二手に分かれた。結局3年生がホテルに帰ってきたのは午後11時半で、それから食事、でもマニラで見せたあの食欲はどこへやら。疲労のため食欲もなくみんなぐったりとした様子であった。しかし、たったひとつの救いは、ホテルで出されたチャイニーズティーという飲み物でやっと生気を取り戻した。結局その日寝静まったのは午前2時頃であった。

暑さも吹き飛ばして-入場券は売り切れ-

《マラヤ大学にて演奏会》

【7月4日】昨夜の疲れがまだ残っているのかみんな眠そうである。眠いのを我慢しながら午前10時にクアラルンプール市内見物に出かけた。マレーシアは錫の産地でもあるので、錫の露店掘り、錫工場や天然ゴム林など訪れた。天然ゴム園では現地の人が、ゴムの採収の仕方を実演してくれた。地理の本などによく写真が出ているが、本物のゴムの木を見るの初めてとあって、みんな熱心に見ていた。しかし、旅の疲れと、暑さのためみんなぐったりとした様子。でも午前中のんびりと過ごしたためか、今夜の演奏会の練習に入ると、やはりできる限りの演奏をしようとするのか、練習に熱が入ってきた。午後7時30分から演奏開始、聴衆はやはり学生がほとんどであった。そしてマレーシア民謡を演奏した時は、会場割れんばかりの拍手に旅の疲れなど吹き飛ぶ思いで大変嬉しかった。演奏会後、市内の学生らと交換パーティーの席が設けられ、みんな使いなれぬ怪しげな英語を操り一生懸命話をしていた。でも分からぬ中にも結構楽しいひと時を過ごした。なお、今日の演奏会の出席者の中には、文化青年体育大臣のマーマド氏をはじめ、文部大臣、マラヤ大学副総長などがおられた。

その夜は、翌日にそなえて早く就寝。

【7月5日】起床6時、朝食もそこそこに出発準備を整え空港へ向かう。毎度のことながら吹奏楽部の強行スケジュールには参ってしまう。でもそれだけ責任ある仕事をしているのだと思えば気持ちに張りが出て、苦労も吹き飛んでしまう。

9時30分、われわれ一行は、マレーシア航空-605便で今回最終目的地であるシンガポールに到着、空港ではわれわれの世話役である井上氏の通訳で、レセプションが行われ、シンガポールの報道陣が会議室へ詰めかけ、国あげての歓迎といってもいいすぎではなく、改めてこの演奏旅行における責任の重大さを感じるのだった。空港を出ると赤道直下とあってさすがに暑い。みんな暑さで体がまいってしまうのではないだろうかと思えるほどだ。しかし、みんなの顔は明るい。そんな暑さなど吹き飛ばすように4時30分からインドア・バンドコンクールにおいて招待演奏をした。

シンガポール国立劇場は、明後日の演奏会場でもあり、第1回東南アジア文化祭の催された場所でもある。そしてバンド・コンクールが終わった後、前々からわれわれの演奏会の入場券が売り切れてしまって、どうあっても聴きたい人々の要望にこたえるため、特別公開リハーサルを行った。われわれにとっては、これほどまでに演奏を聴いて頂けるのは光栄であった。その後宿舎であるオーキッド・インに向かう。宿舎では夕食後、各自思い思いの時間を過ごす。

《真柱をお迎えしての演奏会》

【7月6日】午前中はジュロンのバード・パークにある中国庭園でパレードとコンサートを行った。パレードが終わると体中汗びっしょり。その後野外コンサートを開いたが、前日、コンゴへ行かれる途中、シンガポールへ立ち寄られた真柱様に演奏を聴いて頂け、本当に幸せであると思った。

午後は国立スタジアムで開かれている、青少年フェスティバル観閲式を見学。直射日光の下での一糸乱れぬ規律正しさには、頭の下がる思いである。

夜は真柱様がわれわれをヒルトンホテルの夕食会に招待して下さった。夕食会では、井上氏の開いている日本語学校の生徒も招待されており、豪華な食事を前にみんな和気あいあいとした様子に真柱様も満足された様子であった。

最後の演奏会

《楽しいショッピング》

【7月7日】今日待ちに待ったショッピングの時間、日本を出発する前から「何を買おうか」と言っていた。みんなの両手には土産物で一杯、中身はいったい何だろうか。

午後7時30分、東南アジアでの最後の演奏会開会。演奏前に、「最後の演奏会だ。しっかり吹こうぜ」の合言葉で一手一つになり、シンガポールの人々に演奏を披露した。アナウンスは、英語、中国語、日本語の3ヵ国語でされ、聴衆も満員、いかにも親善演奏にふさわしい。ファンファーレで幕が上がり、第1曲「コリオラン序曲」。続いて「交響詩おやさま第2楽章陽気づとめ」からムードは一変して「エジプト舞曲」そして「ハリケーン」の音に聴衆は圧倒されたようだ。続いて「アラビアのローレンス」「日本民謡」最後に「ビートルズは飛んで行く」で締めくくる。次々と花束が贈られてアンコールも重なり「コパカバーナ」のフィナーレに満場拍手の渦。

できるかぎりの演奏をという僕らの気持ちが通じたのか、大変喜んで頂けたと思う。演奏終了後茶話会で、劇場の支配人とか、大臣と懇談し、東南アジアでの最後の夜を楽しんだ。

《帰国》

【7月8日】はやる心を抑えJAL-712便で無事日本へ午後9時30分到着、税関の検査も高校生ということもあって誠にスムーズに終わり、その足でバスに乗り込み、一路天理へ。

9日朝9時無事に天理に着き、校長先生の出迎えをうけ、ねぎらいの言葉を頂いて東南アジア演奏旅行全行程を終えた。


昭和51年度

「銅賞」屈辱のコンクール

今年も昨年に続いて、全日本コンクールにおいての「金賞」を最終目標として、短い練習時間ながら、練習を重ね奮闘努力してきた。今年の部活動の1年間を振り返ってみるといろいろな面で解決していかなければならない課題をもち、その試練を乗り越えて、部活動がさらに飛躍していく過渡期であったように思う。いわば吹奏楽部そのものの根本を見直すのにいい時期だった。

12月、3年生が抜けたあと、新メンバーによるクラブ活動のスタートをきったが、部員不足が悩みの種となった。1、2年生合わせて25人という人数ではパレードも満足にできない。4月に入って新入部員を迎えた時期になっても全員で50名に満たない状態だった。この2、3年部員不足が続き、クラブの改革によってこの問題を解決するため、「和」のもとにクラブを活発にしようと活動を行った。

冬から春にかけて少人数の部員で、必要となる基礎技術の徹底を期して、まず音づくりをするため基礎的練習を行った。

4月から新入部員をまじえての本格的活動が始まった。コンクールまでの数ヵ月間に約半数を占める1年生をどう引っ張っていくかが大きな目標となった。4月の忙しい行事があるなか、2、3年生が協力し、自分たちの技術向上とともに1年生を指導していくように努めた。

6月には演奏旅行があり、7月にもおぢばがえりひのきしんなど舞台に出る機会が多くなった。そのため直接舞台演奏に通じる練習も要求され、また舞台に慣れるということもコンクールに通じるものがあった。

おぢばがえりひのきしんが終わると、関西コンクール目指しての練習が始まった。今年も、「心に訴える演奏を!」を目標にして練習に励んだ。この時期には演奏に大きく影響する部員全体の和も大切にしようと努めた。関西吹奏楽コンクールで優勝を手にし、全日本コンクールに臨んだわれわれにとって、吹奏楽に求めるものの根本的相違の結果が生んだ「銅賞」は、大きなショックであり、部にとっては、新しい吹奏楽の開発ということが必要になった。

この1年間、谷口先生の指導のもとにひとつひとつの行事を大切にこなしていくことによって、吹奏楽部というクラブ活動を、活発にし、発展させようと A全部員が心を合わせ、目指した1年だった。

初めてのステージ演奏で、音があまり出ず、ミスが多かった。

 

モデル演奏と練習を目の前で聴かれて全員とても緊張していたようだ。


昭和52年度

部員確保を目標に努力

今年は昨年のことがあるだけに、「すべての人の心に訴える演奏を!」と「部員の確保」を2大目標とし、努力してきた。

冬から春にかけては、部員の「和」と個人の技術の上達をはかるため、全体のミーティングの機会を多くもったり、基礎からの練習を徹底し、一から始める思いで練習を進めた。

4月には、みんなが部員の確保に努めた。しかし4月の忙しい行事のため、手がまわらなくなり、新入部員は25名を越した時点でのびが止まってしまった。またそのなかで2、3年生は協力し、自分たちの技術の向上とともに、1年生の指導にも努めた。

7月のこどもおぢばがえりひのきしんは、演奏旅行の少ないわれわれにとって、舞台慣れという点でコンクールに通じるものがあった。部員はみんな、1回1回の舞台を真剣に勤めさせて頂いた。

おぢばがえりひのきしんが終わると、関西コンクールに向かっての練習が始まった。出場者だけでなく、その他の部員も目標の下に役目は違うが互いに助け合い、練習が進んだ。また、先生から指導を受けるだけでなく、演奏を録音し、自分たちでも検討し合った。

関西コンクールでは、優勝を手にし、全日本へと駒を進めた。その間、演奏旅行、天高祭、ドリル演奏など、さまざまな行事があった。しかし、これも全日本コンクールにつながる大きな土台となる重要なものであった。その土台に部員はみんな足を踏みそろえ、全日本コンクールに挑んだ結果、金賞を獲得することができた。

 

モデル演奏や練習をすぐ目の前で聴かれて、笑顔を見せてはいたが、みんな緊張は隠せなかったようだ。

1年生を入れての初めての演奏旅行で、うまく仕事がはかどらず、心の落ち着きもなくなり、演奏のミスも多かった。


昭和53年度

大阪フェスティバルホールで40周年演奏会

今年も去年に続いて、全日本コンクールにおいて「金賞」を最終の目標として、週休2日制という短い練習時間のなかで、密度の濃い練習を重ね、3年生を中心に奮闘努力してきた。今年は、昨年の課題であった「部員の確保」という問題に関しては、約70名の部員を確保できたことは、これから新メンバーでスタートする僕たちにとって、大きな支えとなった。

11月、3年生が抜けたあと、新メンバーによるクラブ活動のスタートをきった。部員が1、2年合わせて45名という少ない人数ではあったが、何とかパレードもすることができた。

冬から春にかけては1、2年生による全体ミーティングを幾度ももち、部員の「和」のもとに、クラブ活動を活発にしようと努力し、また、4月から入ってくる新入部員の確保という問題について、いろいろと話し合いをもった。 春の合宿では、必要となる基礎技術の徹底と、個人の技術の上達をはかる上で、まず、音づくりを中心とする練習を行った。

4月からは、新入部員をまじえての本格的活動が始まった。4月の忙しい行事があるなか、2、3年生が協力し、自分たちの技術の向上とともに、1年生を指導していくよう努めた。

7月のこどもおぢばがえりひのきしんと、8月の演奏旅行は、われわれにとって、舞台慣れという点でコンクールに通じるものがあった。部員はみんな一人ひとり、1回1回の舞台を真剣に勤めさせて頂いた。今回の演奏旅行は、われわれにとって初めて経験する長期間の演奏旅行であったが、部員たちがみんな協力しあって無事終わることができた。

演奏旅行が終わると、関西コンクール目指して練習が始まった。レギュラーだけではなく、他の部員も目標の下に、役目は違うが互いに助け合い、練習が進んだ。関西コンクールでは、金賞を手にし、これらのいろいろな経験をもって、全日本コンクールに挑んだ結果、金賞を獲得することができた。

兄弟校で初の同時金賞-谷口眞両校を指揮-