第6章

新たな発展をめざして

第14節 谷口眞、指揮者に就任

昭和41年度

指導者不在でスタート

今年も例年通り、4月に新入部員35名を迎え、2年生20名、3年生17名を加えると70数名となり、昨年に劣らぬ大世帯となった。 本年度は全日本吹奏楽コンクールに、2回目の「3年連続制覇なるか!」という大きな目標と、ローズパレード参加のバンド「天理高校吹奏楽部」という名のもとに、なんとしてもやらねばならぬ!という使命をおびてスタートした。

だが内部の実情は非常に悪く、満足できる材料はあまりなかった。まず、長年吹奏楽部を指導して下さっていた指揮者の矢野清先生が教祖八十年祭の期間中に病気になられた。部員はお願いづとめをして先生のご回復を親神様にお願いした。身体の方は少し回復されたが、肝心の右腕がご不自由で、指導をして頂くのは到底無理であった。3年生26名が卒業し、レベルが落ちたと言われた私たちにとって、その上指揮者がいないということは、非常な不運でもあり、また、吹奏楽部の歴史上重大な危機でもあった。

こうして部員一同は3年連続全国制覇の年にあたり「こんなことでは…」と思い悩んだが、今こそ先生や先輩方から教えられた不屈の精神力を発揮するべき時旬であると、部員一同よく自覚し、持ち前の若さと根性で練習一筋に打ち込んだ。

しかし、4月に大きな行事をひかえて、指揮者の先生がおられないのは本当に心細かった。

4月に入って、たくさんある行事のために、谷口先生が指揮をして下さるようになり、例年以上に多忙な4月の行事であったが、無事に私たちの役を果たさせて頂いた。その後6月の声を聞く頃に、この谷口先生が正式に指揮者として就任され、みんな喜びも新たにたくさんの行事に参加し、いよいよ合宿に入ったのである。

合宿は例年子供おぢば帰りの期間中に行い、その間にうんと実力を養成し、それをその後にある演奏旅行で大いに発揮するのがならわしだ。だから合宿は実力養成期であるので、苦しいことも多い。が、部員一同、一つの屋根の下で生活するので、楽しいことも多々あった。子供おぢば帰りのプールサイド行事に参加しながら、続いて予定され トいる演奏旅行のためにも、部員一同、尚一層の努力を重ねた。

今年の演奏旅行は、8月6日から18日まで、静岡・神奈川方面であったが、この地方は吹奏楽も大変普及しているし、ローズパレードに参加したバンドとして、多くの人々が注目しているので、いい加減な演奏は絶対にできないと思い、みんな緊張して演奏した。関東方面には先輩もたくさんおられ、演奏終了後などよく来られて、温かく、しかも、厳しい激励の言葉をかけて下さって、私たちはより一層発奮した。今年は例年より日程が長く、1日4回の市中行進というのもあったが、この強行軍にあっても、一人の病人もなくつとめを終えさせて頂くことができた。

多忙な夏の行事も無事終了し、いよいよ私たちに与えられた課題であり、そしてまた、2度目の3年連続全国制覇の第1段階でもある関西吹奏楽コンクールを目前にひかえ、谷口先生指揮のもと、全員張り切って練習に励んだ。練習日数の不足で悩んだのは、昨年同様であった。コンクール練習に入ると、ご身上を押して矢野先生もご苦労下さり、より一層の指導をして下さった。 

こうしてコンクールは9月11日神戸国際会館でその幕が切っておとされたのであるが、当日は多数の先輩たちが見守って下さった中で、谷口先生の指揮のもと、落ち着いて演奏でき、無事に大目標の第1段階を通り抜けることが出来た。 

NHKコンクールは、昨年度に続き2年連続優勝という大望を抱いて全員頑張ったが、その結果は意外にも選外という、予想もできぬ結果に終わった。だがこれも「親神様の深い思惑あってのことである」との先生のお言葉に、部員一同反省し、残る全国大会には、なんとしても優勝しなければと決心を新たにし、全国大会に臨んだ。全国大会は11月20日、仙台の宮城県民会館で開かれた。全国大会に出発するにあたり、校長先生の「勝つことよりも、仙台の人たちに良い音楽を聞いてもらおうという心を忘れないように」とのお言葉を心に入れて、ステージに上がった。4時20分演奏開始。ここでも関西コンクールの時と同様、落ち着いて演奏でき、ついに吹奏楽史上初の2度目の3年連続(通算7回目)全国制覇をなしとげ、全員喜びの中に天理へ帰り、親神様にご報告申し上げ、この大任を無事果たさせて頂いた。

後輩諸君、大変苦しかったが、この大任を果たすに1、2年生の役割を、立派に勤めてくれてありがとう。われわれ3年生は、心から礼をいう。それとともに言い残しておきたいことは「今年のような苦しいことの連続の年でもやればできる。決して弱音を吐くな!」これは、われわれ3年生の今年の合言葉だったが、この気持ちをいつまでも忘れぬようにして、一手一つになりきって「天理高校吹奏楽部」の名が、世界に聞こえるまで頑張って下さい。来年も、より一層の活躍と発展を期待し、充分に勤めてくれることを祈り、3年生一同、卒業させて頂きます。

夏休みはたった1日、年間70数回の行事

2度目の3年連続優勝達成

こうして本年度は、無事3年連続制覇の夢を達成したのであるが、この陰には皆様方の厚いご支援と、先生方や先輩方の温かくしかも厳しいご指導を頂いたことに、心からお礼を申し上げます。とくに矢野先生には、身上をおしてご苦労頂き、感謝にたえません。

1、2年の諸君! 来年はNHKだけとなったが、谷口先生についてしっかり頑張り、この喜びを来年も味わってもらいたい。卒業にあたり、3年生一同心から声援を送りたい。「一手一つ」となり、この栄光を来年もまたここに記せるよう、健闘を祈る。


昭和42年度

2学期から食堂が練習場に

今年も新入部員を数十名迎え、例年のごとく大世帯を背負ってスタートした。今年の目標はNHK全国器楽合奏コンクールで優勝することと、全日本吹奏楽コンクール3年連続優勝記念演奏会を無事終えることである。今年は各パートに3年生がいたので、4月の諸行事も比較的安定した演奏ができた。こうして5月、6月の小さな行事も楽に終え、合宿へと入った。しかし、4月から合宿まで感じたことは、何かしら横のつながりが薄いように思われた。けれどもそんなことも合宿練習で吹っ飛ばそうと意気盛んであった。

今年の合宿も昨年同様子供おぢば帰りの期間中に行われた。合宿は僕たちにとって欠かすことのできないほど重要な要素を含んでいる。それは心と心の触れ合いである。こうした触れ合いが演奏上において実によく現れるものである。もちろん実力を養成する期間であることはいうまでもない。午前、午後は練習。夜はプールサイド行事に出演というきつい日程も、部員同志が励まし合い、それほど苦にもならず全日程を終了することができた。

そして続いて待っているのは演奏旅行である。合宿中に蓄えた実力を、実際に舞台でフルに発揮するのがこの演奏旅行である。今年の演奏旅行は8月6日から15日までで、鳥取、島根方面であった。演奏旅行先々の演奏会では、いちいち僕たちに役立つことばかりで大変よい勉強になった。こうして長い演奏旅行も大きな事故なく全日程をつとめさせてもらうことができた。

そしていよいよ目標のNHKコンクールが9月17日行われた。そしてこの日、県代表に選ばれ、10月29日の近畿予選を待つことになった。いよいよその日の発表の時間がきた。が、意外にも近畿予選で負けた。おやっ?と思った。後から後から悔しさが込み上げてきた。しかし、いつまでもそうはいっておれない。残る招待演奏を成功させて最後を飾ろうと誓った。

こうして再び招待演奏を目指して頑張った。そして、11月25、26日の両日、東京新宿厚生年金会館で全日本吹奏楽コンクールが行われ、同時に招待演奏を行った。演奏後いろいろな先輩からアドバイスを受けたが、2日間にわたる招待演奏も好評のうちに無事終えた。

過去3年間にわたる全国優勝を成し遂げて下さった先輩に恥じない演奏ができたのも、今まで僕たちをご指導して下さった矢野先生、谷口先生その他の諸先輩のおかげである。とくにこのたびは、矢野先生が東京までご苦労下さり、お教え下さって本当にありがとうございました。 これで今年1年のすべての行事を終えさせて頂きました。1、2年生の諸君もよく頑張ってくれてありがとう。君たちには来年、再来年があります。今以上に頑張って「天理高校吹奏楽部」の名を名実ともに向上させて下さい。以下演奏日記を記す。

初のコンクール招待演奏

以上で本年の全行事が終了したわけである。本年はNHKコンクールこそ逃したが、招待演奏という一見簡単そうで、実際は重い責任がかかっているこの仕事を無事終えたことは、今年の大変大きな成果であった。

また、このかげには矢野先生、谷口先生をはじめ、諸先生、諸先輩のなみなみならぬご指導を頂きましたことを、重ねてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。1、2年生の諸君!

来年は君たちに新しい試練がやってくるでしょう。それに打ち勝つ唯一のものは「一手一つの和」です。いついかなる時にも、この言葉を忘れずに前進して下さい。

最後に君たちの健闘を祈ります。


昭和43年度

ドリル、TV初登場

本年も新入部員22名を迎え、3年生14名、2年生24名の総勢60名が決意を新たに、昭和11年以来の伝統の上に一歩を力強く踏み出した。とくに今年は真柱様継承奉告祭の年なので、前の真柱様のお言葉である「一手一つの見本は天理高校吹奏楽部である」と言われたことを胸におさめ、指揮棒一つに心を合わせるよう努力した。練習時間の短縮化にともない、一刻もおろそかにできなかった。その上3年生が例年より少なく不安ではあったが、反面各パートに3年生が1人ずついるという強みもあり、4月の教祖誕生旬間も全員参加し、例年のことではあるが、忘れられない最初のつらい時であった。5月に入り、テレビ出演の話で部員一同大はりきりであった。

そして、夏の合宿。いわゆる本年第2の成長期に突入した。昼は演奏旅行用の曲を主として練習。夜はプールサイドで大活躍。「ゲゲゲの鬼太郎」や「ウルトラセブン」の歌が演奏されると、プールサイドは一段とにぎやかになり、われわれは、それを見て大変楽しかった。そのなかにも辛いことや、悲しいことがいろいろあった。それだけに実力養成に役立った。演奏旅行の曲もでき上がり、この頃になると1年生の目つき、顔色が変わってくる。みなその日その日を必死でつとめている。1年間を通じ、「根性」という言葉をよく聞いたり、言ったりするのもこの頃である。よくやった1年生、この段階を経なくては次に行けないのだ。

吹奏楽部としては最大の行事のひとつである今夏の演奏旅行は、静岡、広島、山口方面であった。行く先々の土地の人たちに大変喜んで頂き、教会関係者の人々に深く感謝され、この旅行がにをいがけに万分の一なりともお役に立っていることを、みな一層心に銘記し、舞台度胸や技術に著しい向上をみて、いろいろなみやげ話を持ち帰り無事終了した。その後すぐコンクール練習に入った。部員一同暗黙のうち「何が何でも勝ち取る」の誓いのもとに、連日谷口先生、野口先生の指導を受け、矢野先生に何度も見て頂き、今までの先輩の苦労をかみしめて頑張った。

関西吹奏楽コンクールでは見事優勝を獲得した。また、昨年までのNHK器楽合奏コンクールにかわる全国学校合奏コンクールに参加(録音テープ)し、奈良県代表となった。引き続き今年の重要行事のひとつである真柱継承奉告祭に、多数のOBの方々とともに参加、久し振りに矢野先生に棒を振って頂く。あとで、ある人が矢野先生が指揮をしておられるのを見て、後ろ姿が山田耕筰先生にそっくりだといわれるのを聞いたのが印象深かった。

関西代表として全日本吹奏楽コンクールに臨むためにどれほど練習したことか。谷口先生に何度叱られたことか。とにかく精一杯の全力投球だった。全エネルギーを出した。しかし、結果は2位だった。指導の諸先生に申し訳ない気持ちであった。教内・教外の皆様のご期待に添い得なかったのである。部員一同、くやしい思いでいっぱいだったが、勝っても負けてもさすがは天理だと言われて帰ろうと心に誓い、天理のマナーを最後まで崩さず精一杯つとめさせて頂いた。また、全国学校合奏コンクールにも近畿代表となった。

このようにコンクールには優勝できなかったが、それよりももっと大きなものをこの場で学べたと思う。それを大切にして、また、それを成長させて1、2年生は来年こそわれわれにできなかったことを成し遂げ、部の歴史の1ぺージにつけ加えて下さい。しかし、たえず忘れてはならぬことは、天理のド根性である。今度こそやり遂げて下さい。

静岡から下関まで大移動

真柱継承奉告祭

以上、本年は全日本コンクールの結果は2位に終わったけれど、みんな大切なものを心に残すことができたと思う。

一番大切なものは、やはり真の「一手一つの和」と「根性」だと思う。本年度の成績についての反省の上に立って、諸先生、諸先輩のご指導のもとに来年こそは今年の失敗を繰り返さぬよう1、2年生の諸君の力によって真の「一手一つの和」を実現し、根性をもって頑張って下さい。そして、後輩諸君がこの「天理高校吹奏楽部」の伝統を引き継いでさらに立派なものにしていくことを祈ります。


昭和44年度

集中豪雨で演奏会が中止

今年も新学年を迎え20数名の1年生が入ってきた。2年生19名、3年生24名を加えると70名という大世帯となった。 昨年は惜しくも全国2位という結果に終わり、また、一昨年は招待演奏であったので、今年こそ優勝しないと、今年の3年生は1度の優勝経験もなしで卒業するという結果になってしまう。それでとくに3年生にとっては非常に大切な1年間であったと思う。昨年、九州の福岡電波高校に敗れた、あの京都会館でのくやしさをしっかり心の底に置き、今年1年は「臥薪嘗胆」を合言葉に全力を尽くした。

今年は3年生が24名という多人数だったので、演奏面ではある程度安定してはいたが、統制の面でのむつかさしが多少あった。練習、練習、行事、行事の連続で、さぼったりする者もいたが、しかし、そうした時、お互いに戒め合い、また、元気づけ合って進んできた。時には同級生の者に対しても説教じみたことを言ったり、けんかしたりしたこともあった。反面、語り合ったりすることも忘れなかった。それぞれ個性の強い者ばかり集まった24名ではあるが、日に日に全国大会を目指して心をひとつにしていった。そして2年生をひっぱり、1年生を指導しながら『心に訴える演奏』を目標に掲げ、11月のコンクールに向かって努力を続けた。

4月から順次、心に残ったことを書き留めておきたいと思う。

今年も行事の多い4月を迎え、例年のように教祖誕生祭をはじめ数々の行事に参加し、3年生一同最後の誕生旬間行事への参加だと思い勇んでつとめた。また、この月の26日の月次祭には天理教音楽研究会第1回定期演奏会をOBの方々とともに無事終えた。

5月2日には、名古屋での行事に参加した。今年初めての県外行事参加であったので、4月の気分を一掃して参加した。

6月にはコンクールの課題曲も発表され、われわれ一同もそれを期待と不安のうちに迎えた。しかし、自由曲がまだはっきり決まらないうちに夏休みを迎え、合宿に入った。今年の合宿は、いちれつ会館を宿舎として行われ、プールサイド行事取り止めの噂もあったが、例年通り行われ、参加させて頂いた。練習は天高本校舎食堂で行われ、真夏の暑い中ではあるが、学校の取り計らいで冷房装置が入ったので、大変練習しやすい環境であった。また、日程の方も午前中に無理なスケジュールを組まずに、パート交代制の練習をしたり、勉強する時間も設けられていた。しかし、暑い最中のことであり、また、睡眠時間をあまりとらないせいか、倒れる者も数名あった。なんとか合宿を終え、山形、山梨、長野方面への演奏旅行に出発した。

旅行中で一番印象に残っていることといえば、やはり、8月8日のことである。その日、朝6時に起き、朝食後7時半に旅館を出発し、鶴岡で山形方面へ向かう列車に乗った。しかし、集中豪雨のために、近くの川が氾濫して列車不通となったため、駅構内で4時間半ほど待った。待てども待てども列車は動かず、2台のバスを急遽チャーターしてようやく1時にバスに乗り込んだ。普通2時間ほどで山形市まで行くことができるのだが、道路も不通になっているのでわざわざ秋田県をまわり、8時間かかって山形市民会館に到着。昼頃から待って頂いたお客様のために、心を込めて1時間半を吹きまくった。夏の演奏旅行において他に楽しいこともあったが、やはり苦しみの方が大きかったように思う。全員無事に天理に帰ってきて、息をつく暇もなく翌日には、西宮球場で行われた「ムーンライトフェスティバル」に参加した。

合宿中に突然決まった自由曲はリストの大曲とあって、しかもその上、大部分カットしなければならないため、不安ではあったが、それを補うためにも、課題曲を抜群の出来にしなければならないと部員一同、コンクールに出る者も出ない者も心を合わせて練習に励んだ。

9月の関西吹奏楽コンクールでは、優勝できたものの、成績はあまり良くなかった。この調子でいくと全国コンクールでの優勝は危ないと各自肝に銘じ、一層の努力を誓い合った。この月の日曜日もほとんど行事が続いた。

10月に入り、体育祭、学芸祭、また、よのもと会総会も無事終えて、いよいよコンクールまでわずかとなった。11月に入ると、練習にもいよいよ熱が入ってきた。毎日、授業が終わってから8時頃まで練習である。…演奏……ピーッと注意の笛がなる……先生の大きな声…………部員の返事が響く……再び演奏……また 笛がなる…………先生の声も熱をもってくる…大きな声……コンクール2日前、出発前夜は食堂での最後の練習を終えて楽器の積み込みをして、全員で本部参拝に行った。

全日本コンクール8度目の優勝

11月15日の朝8時過ぎ、それぞれの思いを心に抱いて天高を出発した。午後2時からの会場リハーサルでの演奏は会心の出来にはほど遠かったように思った。しかし、弱音をはく者はいなかった。夕方、愛町分教会で2、3度練習して、その日の練習は終わった。いよいよ明日が勝負だと思うと、多少自信はあるとはいえ、やはり気になった。先生に注意された箇所を夜遅くまでこっそりと練習していた部員もいた。

いよいよコンクール当日、朝早くから起き出して教会周辺の清掃ひのきしんをした。そして、練習は9時頃から2時間ほど続いた。昼食をいただいてから神殿で参拝し、愛町分教会をあとにして、バスで会場の名古屋市公会堂に向かった。バスの中でのみんなは意外と落ち着いていた。会場に着いて一度公園で吹いた後、すぐに舞台の袖に入った。会場内では一切音を出せないので、朝教会でチューニングをしただけである。いささか不安でもあったが、合わそうという気があれば絶対に合うんだと自分に言い聞かせて舞台に上がった。高校の部、第1番目の演奏とあって、中には顔を赤くしていた者もあったが、全体的に落ち着いて、谷口先生の指揮棒についていけた。始まる前に楽器に御供さんの包み紙を貼っていた者もいた。演奏時間11分40秒、意外と早かった。しかし、演奏している時はすごく長く感じた。ひょっとしたら時間超過じゃないかとさえ思った。今まで一番長く感じ、また一番充実感を感じた12分間であったと思う。退場するとみんなの口から一斉に溜め息が出た。1年間の苦労、また3年生にとっては3年間の苦労がこの12分にかかっていたからだ。この12分にわれわれは青春をかけてきたと言っても過言ではない。やれるだけやった。何も後悔することはないというのが、みんなの声であった。

……「高校の部、第1位、関西……」残りの言葉は歓声に消されてしまった。みんな抱き合ったり、喜びいっぱいに外へ飛び出して行ったり、またお互いに肩をたたき合ったりしていた。よかったの一言であった。3年間の苦労が報われたと痛切に感じた。そして去年の雪辱をとげたという喜びとともに、何か複雑な気持ちであった。表彰式を終えて、恩師矢野先生のところへ報告にいった。

愛町分教会に帰ると、いたるところに「祝優勝」と書かれた提灯や紙が掲げてあるのには驚いた。聞くところによれば、前日からすでに用意されていたとのこと。早速親神様にこの喜びを報告した。それから教会の人々に聴いて頂くために簡単な演奏会をしたが、さすがにその晩は寝つかれなかった。

優勝してはじめての朝を迎えた。午前中は名古屋を見学して、昼過ぎにいろいろお世話になった教会をあとにした。天理駅前には4時に到着。すぐ祝賀パレードが行われた。道路を埋めつくした人々の顔を見、紙吹雪を浴びながら吹いている時、つくづくと優勝できてよかったと思った。本部に着くとすぐ祝賀会が行われた。そして親神様に優勝したことを報告、パチ、パチ、パチ、パチと四つそろった拍手の音、そして広い参拝場に座って頭を下げていると自然に涙がこぼれてきた。回廊を歩くと、周りに足音だけが響く。苦しかった練習、合宿、いろいろな行事や、先輩や先生から怒られた時のことなどが頭をかすめる。本当に充実した3年間。いろんなことを頭に思い浮かべながら、真柱邸に挨拶にうかがい、学校にもどった。

本年は念願の8度目の全国優勝を成し遂げた。1年生の時に招待演奏を体験、2年生の時には惜敗したくやしさに涙を流し、そして3年生になってやっと掴んだ全国優勝。3年生にとって本当に運の良い3年間であったような気がする。この陰には教内外の皆様方の温かいご支援があったこと、また、矢野先生には不自由なご身上にもかかわらず、何度も足を運んで来て頂いたことをわれわれ一同本当に心から感謝しています。

1、2年生の諸君も、新しい目標に向かって一歩ずつ確実に進んで下さい。我々もこの3年間に経験したことを土台にして、卒業後もそれぞれの道で頑張りたいと思っています。

3年生24名卒業にあたり、心から君らに声援を送りたい。今年われわれが味わった喜びを、君たちにもかみしめてもらえるよう健闘を祈ってやまない。

自由曲での誤算

-谷口 眞-

4月の初め「中世風な音による変奏」という曲が見つかり、自由曲としてアメリカの出版社に航空便で注文した。航空便で1ヵ月、普通便では3ヵ月もかかる。ところが1ヵ月も過ぎ、6月中頃になっても何の音沙汰もない。課題曲は6月1日既に発売されている。楽器店を通じ調べたがまったくわからない。6月が過ぎて7月21日、やっと楽譜が届いた。どこで間違ったか普通便できていたのだ。先ず曲の内容を知る必要がある。すぐ音を出してみた。ところが5つのソロ演奏がある。これはよくあがってしまうコンクールには非常にマイナスだ。次に聞かせどころが弱すぎる。矢野先生ともいろいろ検討したが、最終的に自由曲としては不適当と決まった。さあ大変である。8月3日には演奏曲目、出演者名簿を提出しなければならない。やむなく選んだのが、リスト作曲「前奏曲」であった。

カット大作戦

この「前奏曲」は、普通オーケストラの演奏で17分30秒という長い曲である。本校のバンドでは18分を優に越えてしまう。2曲で12分というコンクールの時間制限は、自由曲を5分40秒以内で収めるということである。結局、3分の2以上はカットしなければならない。ところが、この曲の導入部は2分30秒ほどかかり、それに続く50秒ほどの最初のテーマは終結部にも再び現れ、両方で1分40秒、導入部を加えると4分10秒で、あます時間は1分30秒となる。この時間で内容を作らなければならない。

全関西に辛勝

9月に入ってやっとでき上がり7日のコンクールに出演した。結果はよくなかった。2位の鳴尾高校と票を5対4と分けかろうじて優勝できた。原因は自由曲である。カットが大き過ぎて音楽としての芸術性が認められなかったということだ。東京のある作曲家からは自由曲を代えなさいと、わざわざ忠告の電話までもらう始末だった。関西コンクール規約には曲目変更に関する項目がないので、さっそく公文書で曲目変更願を提出した。ところが、全日本コンクール規約には「予選で演奏した曲」という一項があり、結局、変更は認められなかった。

人事をつくして

最後に残 ウれた手段は「課題曲を完璧なものに」「自由曲をさらに検討」することであった。自由曲を調べ直したところ、行進曲風な変奏のテーマが抜けている。どうしてもこれを挿入する必要がある。時間は38秒だ。そこで2曲の間の15秒を5秒に短縮し、全体に速度をはやめることでやっと40秒の時間を作り出した。これが決定したのは11月5日のこと。コンクールまで10日しかなく、それこそ全員必死の思いであった。「人事をつくして天命を待つ」「やるだけやってあとは親神様のご守護を頂くだけ」毎日どなりつけながら練習を続けたのだ。

11月16日、演奏は終わった。噂によると「課題曲は抜群だったが、自由曲は審査員全員が非難している」ということだ。私は「これで敗れたら部員全員に頭を下げて謝らなければ」と腹に決めていた。あとで聞けば、矢野先生も同じことを思っておられたそうだ。

「あった」「ご守護はあった」。普段「喜んで勤めさせて頂け、尽くしただけは必ず自分にかえってくる」と言ってきたものの、本当にご守護を頂けるものかどうか結果をみるまでわからない。本当によくやってくれた。夏休みの子供おぢばがえりひのきしん、演奏旅行、部員には言える限りの無理を言ってきた。それでも「苦労を通じての喜び」「人の心に訴える演奏」など生徒なりのスローガンをつくって、よくついてきてくれた。優勝の喜びは、大声でどなられながら、休日返上の練習、パレードや演奏会に1日4回公演という強行スケジュールなど、すべての苦労を忘れさせてくれる。どんな無理を言っても優勝させてやりたい。3年間の苦労の連続もこの一瞬、喜びにかわる。何もわからぬまま必死の努力を積んだ41年の優勝、そして自由曲に悪戦苦闘の末、勝ち得た今年度の優勝、いずれも忘れえぬ思い出として生涯心に残ることであろう。


第15節 コンクール表彰制度変わる

昭和45年度

万国博覧会オープニングパレード

3年生の抜けた後、1、2年生だけの活動が始まった。なかでも3月は万博出演と選抜野球の応援をさせて頂いて、70年の幕開けを飾った。 さて、今年も新学年を迎え、30名近い新入部員を得て本当に嬉しかった。総勢70名余の大世帯で力強くスタート。昨年は通算8度目の全国優勝を飾り、今度はわれわれがこの上に立ち、この日本一の座を守りぬく責任があるのだ。3年生19名を中心に日々の練習に全力投球し、勉強とクラブの両立、学校、クラブ、寮と区別することにも徹底するようつとめた。しかし、最初は何故かみんなの心にエンジンはかかっているのだが、出発するのに時間がかかった。だがいったん発車すると、止まるところを知らざるごとくばく進した。途中横転しそうになったが、そこは安全運転でなんとかきりぬけた。悪条件であった関西コンクールも突破し、いよいよ全国大会。みんなの心は燃えた。 しかし、そうした時、今年の全国コンクールの審査方法が変わることを知った。おおよその見当はついたが、出演してみないとどうなるかわからなかった。優勝をとるには以前より楽な感じもするが、その逆も考えられる。ともかく部員一同、もう一度心を入れ直して一致団結して全国大会に向かって突進した。

このように1970年、新しい時代への第1歩の年にもう一度心に残ったことを記しておきたい。

何といっても最初のスタート4月の教祖誕生祭、青年会、婦人会総会、OBの楽朋会との定期演奏会と毎年忙しいため、それだけに万全の策をとった。しかし、自然の力、悪天候続きには悩まされ、こんなに雨が続いたのは初めてだった。体は雨でずぶぬれになっていたが、みんなの心は何か温かくぬくもっているような気がした。そこには無事つとめさせて頂いた喜びに心勇んでいたに違いないと思う。そして入学式が8日と遅かったので、新入生を入れての行事は心配されたが、みんな助け合ってつとめに励んだ。

5月の名古屋の苦い経験が、その後良い試練を与えてくれた。こんなことではいけないと、心を入れ直して6月を迎えた。その頃になり、少しずつ落ち着きを取り戻した。そして早くもわれわれにとって欠くべからざる夏の合宿がやってきた。天大の南棟の3階で約2週間。

全国の子供たちといっしょにプールサイド行事。子供たちの演ずるショー。飛び込み選手らの見事な演技。われわれもこれに負けじと演奏。ハワイ、イギリス、ネパールなど外国からのお客さんも多く帰って来られ、国際色にあふれていた。どれを挙げても、おぢばならでの風景である。燃えるような暑い夏の毎日をよく頑張った1年生。よくやった2年生。さあこれからいよいよ大使命を背負っての演奏旅行。岡山、広島に向かって出発進行。予想通り日差しは強かった。健康な汗を流して精一杯つとめている姿、父さん母さん見て下さい、僕はこんなに一生懸命ひのきしんに励んでいますといわんばかりに一人ひとりの体にあふれている。一人でも多くの人たちに喜んで頂ける。これだけで暑さも疲れも忘れる。それとともに演奏面での勉強は普段の練習ではできない要素がみられ、それを身につけることが、これからもっとクラブ向上のためになろう。数々の思い出と感激のうちに一路バスは天理に向かった。

8月30日、東京武道館においての青年大会での演奏と舞踊詩「ひのきしん讃歌」は心深く焼きついて忘れることはないだろう。ほとんど息つく暇もなく、コンクールの練習に移った。練習不足で多少不安はあったが、関西大会くらいでは絶対負けられないと、少ない練習時間をフルに使った。3年連続15度目の優勝で、いよいよ全国の壁に向かって一丸となった。しかし、全国大会では順位による審査でなくなったと知り、とても複雑な気持ちになった。どうなるのか念願の2年連続優勝の道は遠くなっていった。

「吹奏楽のための交響曲」で2冠

10月末いよいよ全国大会が目の前に迫り、日一日みんなの顔色が変わってきた。3年生は修学旅行を返上して大会にかけた。最後の仕上げにと熱が入り、毎日遅くまで秋の空に鳴り響いた。出発の前日の練習では、優勝旗を前に立て、それに千羽鶴をつるし、他校の手に渡ることのないよう祈った。11月1日東京に向かう。

本芝大教会で1日の夜と2日の午前、午後と練習して明日に備えて万全を期した。その頃連盟からの詳しい表彰方法についての連絡が入ってきた。それによると、金、銀、銅のグループに分けて、全参加団体が表彰されることになった。コンクールを単に勝負だけの場とせず、吹奏楽の祭典の場とすることにした。ということは金1校ということはないだろう。おそらく2校は出るだろうと予想できた。それでもわれわれは最高の金賞をと思った。金賞の自信はあった。この調子であとはミスさえしなければと気分的には楽であった。いよいよ当日、教会での念入りなチューニングをすまし神殿に参拝。高校の部2番目の舞台に上がる。やはりコンクール会場での独特の雰囲気を感じる。指揮棒が下ろされると、待ち構えたように高らかに課題曲の最初のファンファーレが鳴り響く。12分間みんなの心は指揮棒一つに集中する。自己満足してはならない己れとの戦いである。指揮棒が止まる。次の瞬間!

会場から、われんばかりの拍手が聞こえてきた。退場の時は今までのいろんなことが走馬燈のように頭の中を駆け巡った。審査発表だ。「天理高校……金賞……」と聞いて、やはり自信はあったとはいえ、ホッとした気持ちで強い感激はまだわいてこなかった。そのあと大教会に帰った後谷口先生から審査結果の内容を聞いて幾分わいてきた。みんなもはっきりとした形で全国一になりたかったと思ったのが、偽らざる気持ちだったと思う。しかし、そんなことよりも部員一人ひとりが力を合わせ、いろんな逆境の中を乗り越え、ここまで来れたこと、そして、コンクール会場での掃除の時、ある先生からお褒めの言葉を頂いたこと、矢野先生、谷口先生からの「ごくろうさん」の一言を頂いたことは金賞にもまして嬉しく思った。かくて1970年の新しいスタートを切った今年のコンクールも終わった。

2月に入り、全国合奏コンクール録音があり、願ってもないテスト到来。やるからには最高のものをとふだんの実力を充分出し切ることができ、最優秀賞を獲得。このコンクールは前のNHK器楽合奏コンクールで、過去2回優勝しており、改称されてからの初の優勝を手にすることができ、今年は2大コンクール最優秀賞に輝き、われわれにとって思い残すことない最高の年であったことを嬉しくまた、感謝の気持ちでいっぱいです。

お道の行事も無事終えさせて頂いたかげに諸先生、諸先輩の温かい熱意のご指導のあったことを一同心から深く感謝しています。本当にどうもありがとうございました。

1、2年生の諸君は、限りない若いエネルギーをもとに、これからの新しい目標に向かって力強く進んで下さい。そして、何よりも大切で力強いのは、やはり「一手一つの和」であることは言うまでもないと思うが、もう一度ここで再認識してもらいたいと思う。 クラブを通じて得たものは他の何にもまして得がたく、われわれの将来にとってきっと役に立つと思う。また、少しでも人に喜んでもらえたという気持ちを強制されずに自ら生み出すことができるなら最高ではないか。やればできる。古い伝統の上に新しい良いものは必ずのせることができよう。そして時代の流れにともなっていけない要素もあるだろうが、とにかく君らの持つ信念と根性をもって所期の成果をあげられ、より一層の躍進を祈ります。


昭和46年度

関西学院の自由曲と勝負

本年も多数の新入部員を迎え、部員一同胸に希望をふくらませスタート。 今年は5月の初めから高松、福岡への演奏旅行で大変忙しかった。高松はジャンボフェリーで、福岡はジェット機。1週間で四国と九州をまたにかけ、吹奏楽部ならではの忙しさ。この忙しかった5月の後には、例年のごとく7月の子供おぢばがえり、そして私たちはプールサイド行事の「ウランキング」に出演。この行事は連日2回行われ、かなりきつかった。でもこれが私たちの演奏技術の糧となるのである。そして昼間は演奏旅行のための練習。ビゼーの「アルルの女」第2組曲、野波光雄の「復帰への前奏曲」、そして自由曲である「平和の祭」など。この自由曲は谷口先生のお骨折りでようやく手に入れた曲であり、自由曲と決定すると、一段と練習に熱が入った。

合宿が終わると、苦しくて楽しい夏の演奏旅行。そして演奏会1回1回を大切にコンクールのつもりで演奏。お客様には喜んで頂き、中でもアンコールの曲である「コパカバーナ」などは非常に人気があった。また奄美大島では島全体で歓迎して頂き、会場は入りきれないほどの盛況だった。この南九州の演奏会はほとんど超満員だったので、部員一同安心して帰路についた。行き帰り60余時間の船旅だった。 演奏旅行が終わると、一番の難関の関西コンクール。しかも、自由曲が大学の王座の関西学院大学と同曲であった。でも関西は満場一致で通過できた。そして全日本吹奏楽コンクールへと進んだ。

全日本吹奏楽コンクールの前に、矢野先生が言われた言葉、「高校と勝負するのと違う、関学を相手に勝負するんや!」。この言葉は私たちに強い刺激を与えてくれた。あとから谷口先生に聞いた話だが、矢野先生が言われた後、音色が一回ごとに変化してきた。結局金賞を受賞し、1年間を振り返ってみると、谷口先生がよく私たちに聞かして下さった言葉「自分がやったことは必ず自分にかえる」なるほどと思った。

こうして吹奏楽部の歴史に新しい1ページを書き加えることができた。


昭和47年度

日本一への努力と苦労

3年生が抜けて以来「心に訴える演奏を」、「自分らにしかできない独特なカラーを作ろう」を合言葉に、1、2年生は一致団結。順調にスタートした。4月から順次心に残ったことを記し、活動の概況としたいと思う。

例年以上に忙しい4月であった。これに備えて春休みの終わりに合宿を行い、無事諸行事を終えることができた。こうしていち早く軌道に乗り、5月、6月は落ち着いて練習ができた。6月末には自由曲、課題曲も決まり、両方ともブラスが重要なポイントとなり、金管陣は一層張り切った。

7月には例年通り、こどもおぢばがえりのひのきしんをさせて頂いた。短い夏休みの後、合宿に入る。昼は訪問大使、領事館員の先頭を切ってパレード。夜はプールサイド行事。雨もなく、連日出演できたのは幸運だった。(もっとも、われわれの一番期待するものは雨であるが)他校からの見学も多く、学校と宿舎(北寮)との距離も遠いなど、これらの合間をぬって練習時間を見出すのは容易ではなかった。が、こんなことはバンド以外にはできないんだと、一人ひとり肝に銘じ旅行の曲目を消化した。この猛スケジュールを終え、夜北寮に帰って6階を見上げた時には、なかなか頂上が見えない登山者のようであった。上まで登り切った時は精根尽きたという感であった。

こうして合宿も終わり、演奏旅行に出発の日、8月7日、参拝の後真柱様に出発の挨拶をし、9時過ぎ天理を出発した。伊丹では搭乗するにはしたが、なかなか離陸しない。後で聞くと故障。とんだハプニングではあったが、苦しい合宿の後でもあるし、みんなの心はすでに沖縄に行ったかのように一抹の不安も感じなかった。青い空の中で2時間、小さな窓から見えた真っ青な海、緑の珊瑚礁、白く光る波。それらに囲まれた沖縄。その美しさは今もまぶたから離れない。感無量であった。いろいろあったが、詳しいことは後で書こうと思う。

演奏旅行も無事終え、関西コンクールとなった。旅行の後練習は休みだったので、口と感じを戻すのに苦労した。が、難なく突破。残すは全国コンクールだけとなった。

その日、11月5日。3時10分。1年の努力をこの12分に集中。結果は3年連続の金賞であった。 「当たり前だ」「伝統だ」という声がよく聞かれる。これほど憤慨させるものはない。どこが当たり前であるのか、どれほど伝統がわれわれに手助けしてくれるのか、決してそんな生易しいものではない。

また、われわれは日本一ではないが、日本一である。今年も金賞が4校も出て昔のように優勝というはっきりした形に表されなくなった。が、自分はそう信じて疑わない。なぜならば、日本一の和を以て、日本一に成るべく努力、日本一に成るべく苦労、そして日本一に成るべく練習を積んだからである。決して日本一の設備、楽器、プレーヤーを持っているわけでもないし、伝統のためでもない。

この1年間、これらの一つひとつの歩みが言葉では言い表せない伝統となって、吹奏楽部の新しい伝統が築かれたのだと思う。


■リレー旅行記

「沖縄演奏旅行」

4半世紀を越える異民族の支配が終わろうとしていた。だが人々の苦悩は現地を見るまでは理解できなかった。

47年3月8日、谷口先生とJAL機上の人となり、まだ見ぬ、幾多の英霊の眠る沖縄をこの眼でしっかと見ようと、何か武者ぶるいにも似た感を覚えたのであった。

翌9日、南部戦跡地を巡る途中、禿山のような小高い丘の中腹に案内され示されたのが、直径も深さも20メートルほどもある中に樹木の生い茂った洞穴の跡であった。「母がまだ眠っています」と案内役の山口国三那覇分教会長の言葉に、一瞬冷水を浴びせられたような気になった。その後「ひめゆりの塔」「健児の塔」と多くの若い生命の散った跡で覚えた感慨も、この言葉に勝るものではなかった。この日南部一帯は、こぬか雨に煙っていた。

「沖縄を緑に」の言葉に応え、本部ではココヤシの実1万個をハワイの教友の助力で、当時の政庁に寄贈することになった。一時は、害虫も一緒に渡ってくるという戦前からの法令で、中止となった。その法令も不思議に解かれ、また輸送も順調に進み、5月の本土復帰直後、無事贈呈式が行われた。

復帰を記念して、子供大会が那覇市で開かれる話も聞いた。これは宿泊などの事情から中止となったが、本部から吹奏楽部が派遣されることに決まった。会場地決定のため3月には下検分ということになった。ここまでの決定を見るのに教区の方々の熱意と努力は筆舌につくし難いものがあったであろう。

後援御礼の挨拶で琉球放送や沖縄タイムス社など回った。沖タイの牧港篤三常務は、老父子然とした詩人であった。「しっかり見て下さい」と言われた。 氏はまた米軍支配下の新聞人としての苦しさも語られたが、これも心に残るものがあった。

首里高校の富原守哉先生は前年その吹奏楽部で金賞を射止められたが、身体中がメロディーの塊のような中年の先生。何くれと助言を受け、北の名護市まで同行して下さった。その他、音楽関係の数多くの先生方の助力を得ることになったが、本当に有難いことであった。

宿舎の山口会長は、おたすけに、またわれわれの案内に実にエネルギッシュであった。腰の重そうな教区の人たちを教区長の河合先生とぐんぐん引っ張って行かれる姿は頼もしい限りだ。

輸送関係、ポスター、プロ、次第に形を整えていった。7月の終わりには、教区の子供たちがプールサイドに姿を見せ、バンドの演奏で勝連節、谷茶前節を踊ったり「ちんぬくじゅうしい・ていんさぐの花・安里屋ゆんた」を元気に歌ってくれ、部員も沖縄を次第に身近に感じてきたようだ。

こどもおぢばがえりも終わり、町は再び静かになった。がバンドは相も変わらぬ忙しさ。楽器の点検、ラベルを付けたり、それでも6日の夕方には楽器を伊丹まで一足先に送り出した。御供米も頂いた。さあ、明日はいよいよ出発だ。(部長 野津 敬)

▼沖縄へ

【8月7日】

連日のひのきしんの疲れも吹き飛ばし、片山団長以下総勢58名、元気に沖縄演奏旅行に出発した。

本部参拝後お玄関で中山表統領先生の激励を頂き、校長先生から事故のないよう「元気でやってくれよ」と挨拶頂いて、伊丹へ。全日空 103便に乗ったが「只今管制塔からの指示を待っております」とのアナウンスに約30分待った。みんな気にもとめず、見送りの人たちと別れを惜しんでいた。が実は機体の荷物ハッチが再三開いたせいだと後になって知った。飛行時間は約1時間40分。機内で小さな箱の昼食。復帰前の方がよかったそうだ。ほんのひとっ飛びで珊瑚礁に囲まれた沖縄。眼の痛くなるほど青い海。でも、なかなか着陸しない。おかげで沖縄を空から見学と洒落こむことになったが、着陸してみると日航のジャンボ・ジェット機が着いたばかり。人、人、人………。 教区の方々の出迎えをうけ、片山団長を先頭に小さな木管楽器や私物を持ちバスに乗り込む。先に着いた大きい楽器の受取に楽器係3名と西田先生は倉庫に残り、バスは車の波にのろのろと進む。ガイドの上原さんは本島にいる間毎日お世話になったのだが、最初から「ちんぬくじゅうしい」の歌で車内は陽気そのもの。

宿舎の那覇分教会も歓迎の大アーチ。参拝後小憩の後、パレードの準備をして、5時30分、那覇市のメインストリート、国際通りを県庁までパレード。ここも車の洪水である。県庁では南洋杉種子の贈呈後、平良議会議長の挨拶があり、立奏で応えた。あわただしい一日だった。

【8月8日】

思ったより涼しい夜を過ごして朝づとめ、朝食もそこそこに、南部戦跡地での慰霊演奏に出発。漁夫で知られる糸満市を通り、2時間余りで「ひめゆりの塔」に到着。団長、部長の献花に「海征かば」など演奏。次いで、「健児の塔」で演奏の後、学生たちの自決した洞窟見学。摩文仁の丘は各県の慰霊塔が密集して建てられている。最も高所にある「黎明の塔」は牛島司令官の座禅を型どったとか。演奏後、あたりを見回す。海上に1700の米艦船が集結したとか。砲弾の跡も生々しい断崖に当時の激戦の模様がうかがえた。帰途、那覇市南郊の旧海軍司令部壕を見学。地下への階段の数の多さや、つるはしで掘った固い壁に驚く。戦後の僕等には口ではピントこないが、目の当たりに戦争の面影を見ては自然と当時のことがしのばれるようであった。しかし、ここも今は観光地。売店で思い思いに土産物を買って時を過ごし宿舎へ帰った。いよいよ明日から本番。ひきしまった気持ちで練習を開始、夜は那覇商業の部員も見学に来て、いやが上にもひきしまる。近くの銭湯で汗を流し、ミーティングの後、2日目の夜はふけた。(3年村田俊彦)

▼名護とコザ

【8月9日】

午前中は楽器の手入れをしたり、演奏会のことを話したりして時を過ごした。昼食後、楽器をトラックならぬ米軍のおんぼろスクールバスに積み込む。運転は山口会長。1時出発で途中カデナ空軍基地を通り、万座毛で途中下車。万人を座らすにたる広い草地の下は断崖絶壁。青い海。30分休んで今日の会場地名護市に到着。名護高はセンバツに、夏の大会に出場。学校の近くから市役所までパレード。渡具知市長の挨拶があり、6時から名護中でいよいよ本番となった。お客さんに喜んでもらえるよう張り切ったが、初めてのためか、あまり良い出来ではなかったようだ。でも普段は人の集まりの悪い名護で体育館一杯になったので、教会の方たちにも喜んでもらえたと思う。首里高校の富原先生その他大ぜい那覇市からも聴きに来られた。後かたづけや掃除をすませて、午後11時頃宿舎に帰った。消灯は0時をとっくに過ぎてしまった。

【8月10日】

今日はコザ市での演奏会。午後2時出発したが、途中首里へ回って守礼の門を見学した。戦後再建したものだが、昔の王城への入口。今は琉球大学となっている。昨日は東シナ海を見たが、今日は太平洋岸を走ってコザに着く。パレードは2つに分割して行った。通りの店の看板が、ほとんど英語であったり、団旗についているローズパレードのバナーを見て驚いている米人を見ると、やはりコザは基地の町という実感がわいてくる。パレードの終わりはカデナ基地の第2ゲート前であった。

仲之町小学校の体育館で午後7時の開演だったが、会場の設営が遅れていた。前日の失敗を繰り返さぬためにも、より真剣に演奏をした。会場には米人の顔も見られた。(3年小嶋理)

▼那覇演奏会

【8月11日】

いよいよ沖縄第1の都市「那覇市」での演奏会だ。ここでは、初日パレードを行ったので今日は演奏会だけだ。みんな今まで以上に一生懸命演奏させて頂こうと張り切った。

会場は1800名収容の那覇市民会館。満員の聴衆にいよいよ使命の重さを感じた。午後3時に1回目の演奏会。河合教区長の開会の挨拶も一段と力がこもる。ファンファーレで幕が上がり、指揮の谷口先生の紹介に続いて第1曲、那覇市出身の野波光雄作曲の「復帰への前奏曲」が哀調を帯びて流れる。夜の公演では、野波氏をステージに迎え盛んな拍手が湧いた。「交響詩おやさま第2楽章陽気づとめ」からムードは一変して「プレリュードとアズテックダンス」、コンクールの課題曲「明日に向かって」と「シンフォニック・ファンファーレ」、それから「ウエストサイド物語」と「ハリケーン」の音に聴衆は圧倒されたよう。

第2部ではハワイアンに日本民謡と進み、少年会の有志で沖縄民謡を3曲披露する。子供のために「サインはV」はじめ4曲続け、最後に「ブラック・マジック・ウーマン」「バーレスカ」。次々と花束が贈られアンコールも重なり「コパカバーナ」のフィナーレに満場拍手の渦。2回の公演とはいえ、お客さんは別である。できる限りの演奏をという僕らの気持ちが通じたのか、大変喜んで頂けたと思う。

公演を終わり、安心した気持ちと明日の休みへの期待に、勇んで教会に帰り、お礼参拝をして消灯となった。

【8月12日】

待ちに待った休養日である。朝の行事を終えて「行動に充分注意をするように」と部長先生より話があり、安い店など教えてもらって思い思いに街に出た。タクシーが安いのに驚く。70円で目的地の国際通りまで行ける。三越もある。内地と大して変わらないが、英語だけの看板もあって奇妙な感じもする。土産品を買いに店をのぞく。洋酒などの輸入品は空港で税金を払戻してくれるので安い。 昼食後、買った土産品のことを話したり、近くの波の上宮やプールに行く者もいた。楽器係は明日にそなえて空港まで楽器を運んでくれご苦労さまだった。

夜、首里高校の部員との交歓会。自己紹介、パート別の話し合いをもった。彼らも同じことを考えていることがわかった。それにしても私たちは良い楽器を与えて頂いて幸せだと思った。話題は尽きなかったが全国大会で再開を誓って別れた。(3年永尾泰宏)

▼八重山と宮古にて

【8月13日】

那覇市から空港までのたった1本の道路、両側には鉄条網が張られ、その向こうにはベトナムから帰ってきた装甲車が長い列をつくって置かれていた。そのような米軍基地に囲まれた道を那覇空港へと急ぐ。

日本最南端の八重山諸島のいっかく、石垣島へ行くのである。空港で2人のアメリカ兵に話しかけられた。勿論、英語。あまりの速さに相手の言うこともわからぬまま、僕たちのことを話すと、相手もわかったらしく、何とかその場を逃げきった。

南西航空YS11Aは64人乗りなので、貸切り同様。バスガイドさんなみにスチュワーデスさんにも「お願いします!」空と海がまったく同じ色。1時間半で石垣島に着陸し、タラップを降りた時、イメージ通りの沖縄だという印象をうけた。それは太陽の暑さを肌で感じたことであった。本島では夜は天理より寒く、風邪をひいた者もいたくらいだった。ちょっと信じられないくらいだ。そんな体験をしてきた僕たちだったので、いよいよ心が勇んできた。

八重山分教会は神殿が新築されたばかり。少し休んで川平(カビラ)公園へバスで向かった。竹富島に、西表(イリオモテ)島が見える。海水はまったく透明、水平線はあくまでも青い。カニを取ったり先生を交えて遊んだが、こんな大自然そのままの公園をいつまでも残したい気がした。

台風に備えた独特の赤瓦屋根に唐シシの魔除けがのった低い家並を通って、登野城小学校までパレード。汗が顔や体全体を滝のように流れ落ちても、みんな必死に「心に訴える演奏」を目指して吹きつづけた。演奏会が終われば、また力を合わせて場内を清掃。今夜の司会は八重山高校のバンド部員と放送部の2人の女生徒が懸命につとめた。

【8月14日】

午前中自由時間があったが、なにしろ5分も外出すれば頭が変になりそうな直射日光。そのため八重山高校の部員との交歓会後はもっぱら昼寝。石垣空港をお昼過ぎ離陸。30分ほどで宮古空港の人となる。機長も降りて挨拶をされた。空港は漲水分教会の鼓笛隊がわれわれを歓迎している。小さな子供たちが笛を吹いてくれるのを見ると、あの歓迎に応えられるような音楽を贈らねばと、心はいよいよ勇みたった。加えて今夜が沖縄最後の演奏会である。

西里大通りの商店街からビジネス通りへ回り、警察、市役所、県の宮古支庁とパレードして平良市でのパレードを終わった。夜新装なった市民会館でこけら落としともいうべき演奏会。満員の聴衆に最後まで聴いて下さった平良市長さんも満足そうであった。ここでの民謡には「豊年のアヤグ」も入れ、会場の手拍子も大きく響いた。沖縄の最後を飾るにふさわしい出来ばえであった。そして、この日までの私たちの演奏が、たとえ一点となっても沖縄の人々の心の灯となり燃え続けてくれるなら、これに勝る喜びはないと思った。

【8月15日】

台風接近をつげるニュースをあとに宮古空港を11時45分出発。以後の便は欠航となったとか。楽器を一部空港前の倉庫に預けて宿舎に帰った。(3年浅野祐一)

▼沖縄の休日

この日2時過ぎ、万座ビーチ目指しバスはひたすら走った。いつもならバスの中では半分は寝ているのだが、今日だけは別だった。みんなの眼はランランと輝き、どの顔も生き生きとしていた。前回行った万座毛の入江が万座ビーチである。海に着くと、さっそく着がえて軽く準備体操。先生の注意の後、心を躍らせてコバルトブルーの海へ一目散。初めての?沖縄の海を存分に楽しみ、貝を拾ったり、簡単なモリと水中眼鏡で魚を追い、また横にあるプールでダイビングをする者もいた。河合先生の「南沙織と違うか」の声に、すぐ確かめにやらされる者もいる。果たしてそうであった。そうこうするうちに豚も焼け、全員が初めての丸焼きに舌つづみを打つ。でもちょっぴり豚が可哀そうなんて言いながら、たらふく食べている。

楽しい時間はどうしてこうも早く過ぎ去るのか。海に別れを告げ、暗くなった雨の国道58号線を教会へと帰ったが、みんなぐったり。そして最後の夜を迎えるはずであったが、その頃には、台風は一段と激しくなってきていた。でも楽しい1日だった。

【8月16日】

1日中台風で外出もできず、テレビで甲子園の野球部を応援した。晴天の甲子園。所かわれば天気かわるで、この台風のすごさは内地では想像もできないものであった。

【8月17日】

朝臨時便が出ることになり、10日間の演奏旅行を無事終えさせて頂いたお礼づとめのあと、11時、教区の方に見送られ台風の余波をついて離陸。思い出の沖縄を後にした。 午後1時、無事伊丹に着き、校長先生、土佐元先生の出迎えをうけ、ねぎらいの言葉を頂いて全行程を終わり、引き続いて次の演奏地へと向かって行った。(3年原田正喜)