第5章

熟成期

第11節 全日本吹奏楽コンクール連続優勝

昭和32年度

良い楽器が充実しているわけではない

昭和11年に天理学校音楽部として部員わずか13名で発足した本バンドが幾多の変遷を経て本年度全関西吹奏楽コンクールで7ヵ年連続優勝、全日本吹奏楽コンクールで2ヵ年連続優勝という栄誉を与えられるまでに成長したのは、真柱様はじめ教内外各位がその育成に多大の指導援助を寄せられ、また指揮者の矢野清先生が終始変わらぬ熱意をもって厳格高度の指導を続けてこられた賜である。

「天理が優勝するのは当然だ。良い楽器が充実している」という声を聞く。また本バンドはいつも楽々と優勝しているように思っている人もあると聞く。しかし他の部と同様、本バンドが優勝するまでには非常な努力労苦の過程があったのだ。われわれの楽器は決して上等ではない。最近はどの学校でも楽器整備に意を用い、本校と同じ楽器編成になっている。本校のは昔の船場大教会吹奏楽団の楽器を受継いでいるほどで、古くかなり傷んでゆがみがきている。内部から腐蝕し、さわれば凹んだり穴があいたりするようなものまで使用している。この間東京芸大の先生が本校の楽器を吹いてみて、「こんな楽器を吹いていたら肺病になる」と冗談を言われたほどである。平日の練習時間は他校に比して恵まれていない。二部の授業が始まる5時前に終わらなければならない。われわれ部員が他校部員より優れた音楽的才能技術をもっているわけでもない。本バンドの演奏技術はその規律ある行動とともに一に名指揮者矢野先生の微に入り細に亙る厳格なる指導に負うものである。

夏季演奏旅行はじめ各地での演奏に際し、われわれの演奏に対してのみならず行動態度に対しても常に賞賛を受けているが、われわれは学生バンドとして天理高校生としての誇りをもって行動しているつもりである。また、こうした諸行事への参加はわれわれの演奏技術の向上に少なからず貢献していると思う。そのなかにはかなり苦しいこともあった。その苦しみに堪え、障害を一つ一つ乗り越えてきた。1年間を振りかえってみると多彩な行事がめまぐるしく思い出される。

演奏旅行は「にをいがけ」

本バンドの演奏旅行は修学旅行や物見遊山とは違い「にをいがけ」という大きな使命を持っている。この点をしっかり自覚して天理高校生としての誇りを傷つけぬよう行動したつもりである。駅に到着すれば休む暇もなく楽器を取り出して行進演奏に移り、会場に着けばただちに演奏会。昼夜数回にわたる演奏会や演奏行進を終わって宿舎に帰り、夜食入浴などを済まして就寝するのは11時、12時になる。翌朝6時頃起床して8時頃の列車に乗り次の演奏地に向かう。実に忙しい日程であり、列車内及び就寝中を除いてほとんど演奏しているといっても過言ではない。唇は腫れあがり、歯が浮く。暑さと疲労と睡眠不足でフラフラになる。睡眠不足は列車内で少しでも補うようにつとめる。薬品箱からはビタミン剤をはじめとし頭痛薬胃腸薬など次々に減ってゆく。それでもわれわれは頑張る。大きな期待を持って会場に集まっている超満員の聴衆を見れば、われわれは疲れたなどとは言っておれない。唇や歯の痛みに堪えて最良の演奏を聞いてもらうためにすべてを忘れて演奏に没入する。そしてあの万雷の拍手を受ける時、われわれの苦労は報いられ全身の力が抜けてゆくような茫然とした幸福感を味わう。

演奏旅行は苦しいが、この苦しみを通り抜けてこそわれわれにとってはこの上ない鍛練となるのだと思う。

コンクール失格寸前

かくして今年も教内の皆様の期待にそえるような成績を修めて無事過ごさせて頂いたことを深く感謝している。われわれは優勝に酔うことなく、更に優秀な成績を神様にお供えさせて頂けるよう一層の努力精進をしよう。本バンドについて芸大山本教授が言われた通り、もうこれからは優勝を争うことよりもひたすら技術の向上に向かって進むべきであろう。しかもわれわれは天理高校生であり、道の青年であるということを忘れずに。


昭和33年度

真柱様から新しい楽器を頂く

今ここにわが部の歩みを顧みた時、本年が最も意義深い年だと言えよう。昭和13年矢野清先生をお迎えした当時わずか12、3名だった部員の絶えまない努力により今日の基礎が築き上げられ、先輩諸氏の一段々々と積み重ねられた輝かしい歴史と伝統の上に、本年度全関西吹奏楽団体コンクール高等学校の部において8ヵ年の連続優勝を遂げ、全日本吹奏楽団体コンクールに臨み、永年の念願である3ヵ年連続全国制覇の偉業を成し遂げわが国吹奏楽界最高の栄誉が与えられたのであります。

ここまで成長させて頂けましたのも、親神様、教祖のご守護はもとより、真柱様の親心あふれる温かいお心づくし、教内外各位の多大なるご援助、ご鞭撻の賜であり、矢野先生の終始自分を捨てて、部員のために尽くして下さった行きとどいた、しかも厳格高度なるご指導に他ならないのであります。また常に矢野先生の手となり足となり部の発展にお力添え下された先輩のあるのを忘れることはできません。

わが部にとって大変嬉しかったのに、去る10月真柱様より数十もの多くの立派な楽器を頂いたのであります。楽器の整備については各方面からのご援助を受けて鋭意努力を続けてきたのでありますが、なかには相当年月の経つのもあり、老朽化し、いたみかけているのもあったおりのことなので、われわれに新たなる希望と力を与えてくれたのであります。この上欲を申せば毎日の練習時間と場所のほしいことです。二部の授業の始まる5時までの1時間半はいつの間にか過ぎてしまいます。コンクール前ともなれば、これが痛切に感じられ、各方面に協力を求めなくてはなりません。本年はとくに一ヵ所に腰を据えてできる練習場には恵まれなかったのですが、幸い中学校、小学校、教館等のご好意により、各練習場をお与え頂き、また青年会、婦人会、その他の多くの人々からご親切なお世話になり激励下され、安心して練習に精魂を打ち込むことが出来ました。過去の輝かしい業績からよく当バンドはいつも楽々と優勝しているかのように思われがちなのですが、決してそうではありません。優勝までの道は険しく、大変な悪戦苦闘の連続なのです。毎日の練習 ノある者は唇を切り、腫らし、ある者は歯をガタガタに浮かしてしまいます。寒さに思うように指が動かなかったり、下がる音程を上げようと歯をくいしばるのです。しかし喜びを勝ち得た今日すべてがなつかしい思い出となって、脳裡に残されております。

本年も夏季演奏旅行、その他各地へ出張演奏に出かけたのでありますが、その演奏だけでなく、常におぢばの学生であるという自覚と誇りをもって行動するわれわれの態度にも、数多い讃辞を頂戴したのであります。このようにいろいろ行事に参加することにより技術も進み、更にふだん習えないような団体生活における何ものかを同時に会得出来ましたことは嬉しい限りであります。

次に本校1年間の天理スクールバンドの足跡をたどってみることにいたしましょう。

苦しみを乗り越え、喜びを見出す

われわれの演奏旅行は単なる旅行ではない。もちろん旅行によって団体訓練を受け、技術の向上とあらゆることに耐えられる不屈の精神を養うことが目的であるが、それだけではなく演奏を通じて行動を通じて、にをいがけをさせて頂くところに大きな使命がある。われわれはこのことに誇りと喜びを感じ、天理高校生としてはずかしくないよう常に努力しつづけてきた。行く先々で大勢の方々がハッピで出迎えてくださることはわれわれに自身と勇気とを与えてくれる。ジリジリと焼けつくような真夏の太陽の下での演奏行進、吹き出る汗は上着までもビッショリぬらす。「汗水流して」という表現があるが、まさにその通り口に流れ込む汗もけっして塩からくは感じない。疲労と睡眠不足は時には手足を自由にさせない。しかし、熱狂的に歓迎して下さるその地の人々の姿に接しては、そのようにみにくい姿を見て頂くわけにはいかない。また、唇を切り、腫れ上がらせ、歯をうかしていても、いつ止むともしれない万雷の拍手、アンコールに次ぐアンコールの嵐には「疲れた」だの「痛い」などと言ってすまされるものではなく、心からそれに応えられるよう全力を尽くすのである。われわれはこの中に喜びと満足を見出し、気持ちがほぐされるのである。苦しみを乗り越え、喜びを見出せるわれわれは幸福である。この演奏旅行によって鍛えられた精神は尊く堅い。

「鐘楼よりの展望」で3年連続優勝達成

かくして本年も期待通り勤めさせて頂き、3度優勝旗をおぢばへ持ち帰れ、喜 ムに堪えません。われわれは天才でもなければ、特別すぐれた技術を持っているわけでもありません。矢野先生や先輩を中心に、常に手をとりながら部員が一つになった結果がこの輝かしい結果をもたらしたのだと思います。われわれは常にこの気持ちを忘れずになお一層協力し、天理青年として立派に育っていきたい。


昭和34年度

春の選抜野球、夏の甲子園と応援

幾多先輩の並々ならぬ努力によって築かれた伝統は、よく全関西コンクールに8ヵ年連続、また全国コンクールに3年連続優勝という輝かしい偉業を樹立した。このあとをうけついだ本年度は誠に大事な年となった。日本吹奏楽連盟規約の定めるところ、こうした成果は、1ヵ年コンクールでは審査対象外ということとなった。このときこそコンクールへの目標を除外してそれ以上の向上をと志した。果たして新年度のスタートはどうであったか。3月1日苦しみも楽しみもともにした3年生21名は先輩として巣立った。がこのあと4月20数名の新進1年生を迎えて50名を越える今まで以上の編成ができた。

部長 永田先生、副部長 森岡先生。指導、作編曲、指揮 矢野先生。副指揮並びにドラムメイジャーとして本年度卒業の宮地正忠先輩が、新しく学校職員として籍をおき、これに従来通り先輩の矢野晄道、岩橋慶三両氏がそれぞれ作編曲、副指揮並びにインスペクターを担当して、村本キャプテン、滝本、広瀬副キャプテンという陣容がすべて整った。なお今日まで部長としてご苦労下さった小山先生は学校での担当職務の関係上、顧問として全関西吹奏楽連盟理事、また、奈良県吹奏楽連盟(夏より結成出発)理事としてたくさんの先輩とともに協力して下さることとなった。

私たちの目標は今までと同様、全関西また全日本コンクールに出演して優勝することである。それが前記のように本年は招待演奏の形となって審査対象外という別格扱いはうれしくもあるが、また心外でもある。しかし、この年にこそ飛躍すべきと、対外演奏もできるかぎり控えることとして、実質的の向上充実を志して練習を重ねてきた。 この間、部員の精進もさることながら先輩の励ましと応援はもちろん先生方の指導、各方面の援助はお礼の申しようもない。ここに感謝申し上げるとともに、更に今後のご声援を祈りつつ日誌の頁を繰ってみたい。

四国演奏旅行は甲子園優勝校からの招待

招待演奏は出場辞退

  身のこなし曲の心をそのままに 

      熱こめて振る指揮棒冴え

  若人らゆたけき中に一すじの

      きびしさとおりたのもしく見し

  嵐やみてしづけき夕思わする

      曲和みたる調に入りぬ

  たぎりきて上りつめたる音のあと

      落し止めたるわざの見事さ

  うらわかき人あつまりてかなで出づる

      調にこもる熱に押されいる

  珍らしき楽器並べて吾らにも

      なじみの深き民謡となる

  アンコールすぎてつづけば少年らの

      疲れおもいてあわれをおもう

  手のさばきかくも速やかにあざやかに

      踊ると見ゆれドラムの上に

  あざやかに叩きおへたるドラム止み

      拍手の音の鳴り止まぬなり

  会はてて外に出づれば頬に寄する

      師走の夜風泌みとおるなり


昭和35年度

150名の大編成でシンフォニックバンド

昭和11年、部員5名から発足、13年、矢野清先生をお迎えし、わずかな部員たちの努力により今日の基礎が築き上げられ、以来20数年、矢野先生の、常に部のため、部員のためにお心づくし下さった厳格な、しかも慈愛あふるるご指導と、幾多の先輩の並々ならぬ努力によって積み重ねられた歴史と伝統は、一昨年まで全関西吹奏楽コンクールに8ヵ年連続優勝、全日本吹奏楽コンクールには3ヵ年連続優勝という偉業を樹立。そして昨年度は、吹奏楽連盟規約の定めるところにより、審査の対象外として特別演奏の資格を与えられ表彰されるなど、誠に輝かしい栄誉あるものであった。このあとを受けついだ本年度はさらに全関西では9度目の優勝、全日本においては4度目の全国制覇を成し遂げ、審査員をして、出場する毎に優勝すると驚嘆せしめるとともにわが部の歴史に輝かしい1ページを加えたのである。

今、全国制覇までの道をふりかえってみると、苦しかったことも楽しかったことも、すべてが懐かしい思い出となって脳裏に残されている。 2月27日、10数名の卒業生が先輩として巣立っていくと、技術の弱体化を痛感しながらも、部員一同コンクールを目標に新たな希望にもえ、昨年以上のレベルにと出発したのである。 4月になって30名余りの1年生を迎えると60名をこえる大編成ができ上がった。 部長、永田先生、副部長、森岡先生。指導、作編曲、指揮、矢野先生。副指揮並びにドラムメイジャー、宮地正忠先輩。作編曲、矢野晄道先輩。昨年度に変わりないが、昭和31年度より昨年まで副指揮並びにドラムメイジャー、インスペクターを担当されいろいろとわが部のためにご苦労お力添え下さった岩橋慶三先輩がその任をひかれ、大教会の方にお帰りになった。

わが部にとって嬉しかったのは、コンクール体制に入る2学期より天理教館を練習場としてお与え頂いたことである。周囲の方たちのご理解と親切なお世話激励のもとに安心して練習に精魂を打ち込むことができたのは、大いに感謝に堪えない。 しかし、優勝までには幾多の困難がまちかまえていた。まずコンクールの練習にはい チて痛切に感じたのは、昨年度審査の対象外の資格を受けコンクールに出場していないため、経験者が少ないということであった。メンバー40名のうち、コンクールの経験者はわずか5名。しかも、一昨年の1年生の時でありますからほとんど皆無といってよいくらいであった。これが練習の上に大きな影響を及ぼし、かんじんの全関西の舞台においてもみんなあがってしまって、練習通りの演奏をすることができなかったのである。

過去の輝かしい業績から、簡単に優勝できるんだといったような安易な考え方が部員の心のどこかに宿り、一生懸命練習に打ち込んでいるつもりでも、そうした精神的なたるみをなかなか取り去ることができず、矢野先生はじめ、先輩諸氏に一方ならぬご苦労をかけてしまったような次第である。 また、数名の主力メンバーが身上その他で退部のやむなきにいたったため、3年生の数も少なく、昨年度行事に追われたため基礎練習ができていないうえに、全国的に吹奏楽のレベル向上のため、優勝するためには曲もそれ相当の曲を選ばなければならず、自由曲の難解であったこともその一因であった。 フランス人ダリュウス・ミヨー作曲の自由曲「フランス組曲」は近代音楽として特異なハーモニーをもち、普通のバンドの楽譜ではあまり用いていない音が重要視され、そのうえ短い経過句で激しく強調されているため、低音部、金管などでは、正確な音程を出すのに難しく、演奏上相当の技術を要し、アマチュアバンドとしては高級な難しい作品だった。

しかし、矢野先生の指導のもとに、また、本年度全関西コンクールの審査員をしておられた荒巻先輩の教えをも仰ぎ、部員一同連日の猛練習に、ある者は唇を切り、ある者は歯をグラグラに浮かしてしまいながらも種々の困難を克服、見事喜びを勝ち得ることができたのである。 これも親神様、教祖のご守護はもとより、教内外各位の深いご理解とご支援、ご鞭撻、校長先生、永田部長先生をはじめ諸先生の心からなるご援助、ご指導、そして何にもまして矢野先生の常に変わらぬ筆舌には尽くすことのできないご指導に他ならないのである。また、常にわれわれ部員のためにお骨折り下さり、部の発展のためにお力添え下さった先輩諸氏にはお礼の申しようもないところである。 ここに今後のご指導、ご支援を心からお願い申し上げながら、本年の天理スクールバンドの足跡をたどってみることにした。

長島愛生園、光明園慰問演奏

斬新な自由曲「フランス組曲」


第12節試練のとき

昭和36年度

部室が教館に移動し、ハイスクールバンドの名消える

昭和11年創立以来25年、矢野先生の常に変わらぬご慈悲あるご指導と、幾多先輩諸氏の多大なるご努力により、親神様、教祖の限りないご守護のもとに教内外各方面の方々のご支援とご理解を頂き、全関西吹奏楽コンクールに通算10回、全日本吹奏楽コンクールに4回優勝という輝かしい実績を樹立し、「出場すれば必ず優勝する天理」と某新聞が報じるにいたった。しかしながら、このあとを受け継いだ本年度は全く思いもよらぬ年となってしまった。われわれの最大の目標は、今までと同様に、全関西及び全日本吹奏楽コンクールに出場して優勝することである。ところが本年は、ある理由によりこれに参加できなくなってしまったのである。

一口でいえば、本年はついていなかったように思われる。今この1年間を振り返ってみて、わが部の歩みはいかにあったかを思い起こしてみたい。

2月27日、1年あるいは2年間苦楽をともにした9名の卒業生が巣立たれ、4月の新学期を迎えると同時に、十数名の新部員が入部し、5月に入って、過去2年間並々ならぬご尽力を下さった永田先生が学校を引かれるとともに部長もやめられ、新たに教務主任であられる西田先生が着任された。こうして、部長、西田先生、副部長、森岡先生。指導、作編曲、指揮、矢野先生。作編曲、矢野晄道先輩。副指揮並びにドラムメイジャー、宮地正忠先輩。それに部員約50名と新編成ができ上がり、さらに一層の向上をと西村キャプテンの高い理想のもとに、部員一同大いに張り切り、快いスタートをきった。

ところが、職員室が講堂に移されると、われわれの部室は教館へ自動的に移された。このことはわが部にとって個人の技術を向上するという点で大いにマイナスとなった。というのは、個人練習やパート練習が充分にできなくなったからである。

6月には従来親しまれてきた「天理スクールバンド」という名称が「天理高等学校吹奏楽部」に統一された。

またコンクール体制に入るべき9月になってすべての休日が行事行事でうめられ、その方の練習にも忙しく、課題曲も随意曲もほとんど手をつけることができなくなり、ついに9月30日に矢野先生から、今年はコンクールに出場しないというお話があった。われわれにとって最大の目標であるだけに落胆も大きかったが、とりわけ3年生には、もう2度とこのような機会に恵まれないだけに、そのショックは甚だしかった。キャプテン以下数名の者が身を引いたのはこのためであった。一時は虚脱寸前の状態にまで陥ったが、その後部員の気持ちもだんだんにおさまり、3年生の残された仕事は1、2年生の指導をしっかりすること、それがお世話下さった矢野先生への恩返しとなるだろうとまとまりがつき、また、1、2年生は来年を目指して再出発しようと心を定め、11月19日新役員の改選を行い新たな決意を固めた。

一方で楽しい思い出も多い。九州、北陸、東北、北海道と各方面への演奏旅行は一生忘れられない思い出として、頭の中にやきついている。ことに東北、北海道への旅行が長期間、長距離のものだっただけに、忘れがたいものがある。3年生のこの旅行記が、「吹奏楽研究」の11月号に載せられた。以下これらの演奏旅行を主とした演奏日誌を繰ってみよう。

3850キロの大演奏旅行


昭和37年度

夏季演奏旅行、今年はどこにも行けず

4月、まず18日、教祖御誕生奉祝祭を第1日目として、19日には春季体育大会、20日には婦人会総会、21日には青年会総会、そして22日には教祖御誕生祭記念演奏会、これには、多くの先輩も参加され、天中、天高の部員と、先輩諸氏よりなる天理楽朋会の合同編成で、天理シンフォニックバンドと称しての大演奏会であった。また翌23日には、真柱様御誕生日と、新学期より多忙な行事であった。このように、この月は連日本教に関する行事が続いており、伝統的にわが部はそれらの行事に参加させて頂いているからである。

しかし、多忙な行事に日を送る一方、かなりに苦しい思いをせざるを得なかった。というのは、部員たちの演奏は、近年、いや今までにない低調さで、そのひとつひとつの行事に参加させて頂いても、はたして皆様にご満足頂けただろうかと、部活動の本年の発端から心配される状態であったからである。

そのような思案にくれているうちにも、一学期を終え、4月と並んで重要な行事のある7月を迎えた。全国津々浦々の幾万の道の子供が寄り集う、子供おぢばがえりがそれである。毎年わが部は、その子供たちの心の中に、このおぢばでの思い出をより深くさせるプールサイド行事に参加させて頂いている。今年も例年通りに参加させて頂くことになった。しかし前述したような低調な演奏のままでは、楽しみにしている子供たちに喜んでもらえないだろうと、21日から前期強化合宿練習を行った。

宿舎は北寮で、全員初めてひとつの屋根の下で起き臥しし、1年の思い出をここにも作り得たようであった。この強化練習の目的にはもうひとつの重大なことがあった。当部始まって以来の栄光は、誰もが知るところであるが、その誇りを積み重ねているコンクールに、今年も出場するのだという意欲を、部員たちはみなぎらせていたからである。このような意気込みの中で、午前中学習、午後に練習、夜にはプールサイド行事(25日より)の日程で始められた。むんむんと熱気のこもる音楽室、ここで今日まで何十年間、先輩が同じように矢野先生のご指導を受けてきたと思うと、益々練習に熱が入る。微かな音程の違いにも先生の怒鳴り声が響く。素っ裸になって、額に ャれる汗が目にしみこんできても、強化練習の言葉そのまま、かなり厳しい練習を続けていった。

25日よりプールサイド行事が始まり、10時半から11時頃に、また楽器を持って学校へ引き返し、その時になってやっと今日一日の勤めが終わった。そういう気持ちになってくる。これから宿舎まで帰るのだが、こんなことがあった。2日目だったか、一日を終えて帰舎する途中、人家はシーンと寝静まっていた。そこへわれわれの靴音が、ザッ、ザッ、ザッ、ザッと侵入していったのであるが、突然、二、三軒の二階の室、また戸口が開いて「やかましい!」と怒鳴りつけられてしまった。ここはちょうど道幅も狭く、人家が密集しているところである。つま先とかかとで歩いてこの場を逃げ出た。それから、ここを通らないようにし、また、帰舎時にも、三つに分かれて行くことにした。それにもうひとつ、始めのうちのことだったが、寮の小門も閉まっていて、何かもやもやとするものを感じたことがあった。

8月になってプールサイド行事も4日には終わり、まがりなりにも無事勤めを終えさせて頂けたことをお礼申し上げた。

毎年この夏休みには、演奏旅行があって部員たちの楽しみのひとつにもなっていたのだが、今年はついにどこへも行くことができなかったのは、残念な思い出の一つとして数えられるだろう。それにこの演奏旅行は、部員たちの技術向上の機でもあり、もし、今年も昨年同様にどこかへ出張演奏していたなら、今少し演奏技術にも磨きがかかっていただろうと思われるのである。このプールサイド行事をもって、休み中の主な行事は終わったわけだが、コンクールへの意欲に燃える部員たちの意気込みで、合宿練習は延期され、コンクール出場の実現も、どうやら望まれるほどに上達していった。 せっかくの休みだからとの先生のお言葉で、一応前期強化合宿を13日に解散、26日再び全員集合して後期合宿練習を行うことになった。そのまま第2学期を迎え、他部(運動部)でいうシーズンの月を迎えたわけである。

関西で悔し泣き、NHKで感涙

本年はコンクールも1カ月あまり早くなり、部員たちの練習にもより激しさが加わっていった。何度やっても先生に怒鳴りつけられて、それでもできない個所、とうとう泣き出す者も出るほどであった。しかし、誰もそんなことには負けなかった。唇が切れても無理をして吹いた。少しくらい熱があっても、懸命になって吹いた。そんな毎日が続いていった。そして、29日、この日はNHK器楽合奏コンクール奈良県予選の日である。何といっても、まったくのゼロから出発してまだ半年余り、なかには未経験者もおり、完全に音を出しきるのに日も浅い。それに演奏旅行や出張演奏等、舞台度胸も薄い。それだけに、これに優勝できたことは、明日にひかえた関西コンクールに、いくらかの自信も得られ、喜びも大きかった。しかし、まだ不安もあった。翌30日、関西コンクールに出場、無念にも第3位という、今までにない順位を記録してしまった。あとにテープで調べてみると、本番の時に、本番前より音程の高くなっているパートがあり、この順位を納得せざるを得なかった。

今年は矢野先生の意とするところから、キャプテンが指揮をした。自分の指揮が未熟でみな固くなってしまったんだと、キャプテンは流れる涙も拭わず泣いていた。キャプテンだけではない、誰の目にも涙のあふれない者はなかった。NHKコンクールに一抹の望みをかけて、11月の近畿予選コンクールを待つしかなかった。しかし、このコンクールには、音程の固定された楽器(ハーモニカ、マンドリン等)の使用も許されており、吹奏楽は、2分の1の望みしか持たれない状態であった。録音審査なので、音の美しい演奏が有利になるのである。しかし、われわれは望みを捨てなかった。11月、ついに10日午後7時より発表があり、われわれの演奏を全国コンクールへの出場校に推したのである。新たに湧き出る全国優勝の野望に、みんな胸の躍動も抑えきれず、不安を抱きながらも、その日その時を待った。12月1日、午後9時、ラジオのニュースによってわれわれの吹奏楽は全国優勝の声を聞くことができた。その一瞬、飛び上がる者、抱き合う者、その場その時の喜びは、この筆先では形容できまい。これにより、7日、東京産経ホールで表彰並びに、記念演奏会があるために上京、近く学期末考査をひかえてのことだったので、その準備品を持っての上京であった。ちょうどご上京中であった善衞様はじめ、多くの教内外の観客の前で、またラジオ、テレビによって全国の人々に聴視して頂いたのである。

急行「よど」で帰和して10日、はれて天理市中をパレードして、喜びを一段と高めたのであるが、東京からの車中、途中富士山が望まれた。名のある画家が描いた絵に見られるような、桃赤色に太陽に染められて、白い帽子も桃色にうっすらとほのめかせた富士は、めったと見ることができない美しさだった。誰かが言っていた「何やら、俺たちのために、わざわざ作ってもろたようやな」。みんなそう思ったことであろう。

年が明けて昭和38年。元日からの行事で、今年は何かよいことが続きそうな気がする。そう思う者もあった。9日には全国高校ラグビー大会に出場した本校ラグビー部が、堂々優勝して市中パレード、この先頭に立って花をそえた。

二つのコンクールを指揮して

  昭和37年度主将 -山本一海-

新学期の頃は、例年にない技術の低下だといわれ、とてもコンクールに参加できる状態ではなかった。しかし、8月上旬には、例年に近いほどまで技術も向上したので、やっと参加できる許しが出た。序曲「フランドリア」を自由曲として、課題曲「鬨の声」とともに練習に入った。先生は在校生に指揮させるとおっしゃって、僕が指揮することになった。経験も自信もまったくなく、大役に当惑していたが、先生が懇切に指導して下さるので、度胸を決めて練習に入った。しかし右手がどうにか振れるようになったと思えば、左手が思うように動かず、夢中で指揮をしていると、姿勢が悪くなって注意される。まったく肩が凝ってついには、手が思うようにならなくなる始末。先生の指揮を見ていると何でもないように見えたが、まったくむずかしいのにはまいってしまった。どうにか拍子が振れると思ったら、曲の感じが出ないと注意。まったく血まめを何度もつぶしての懸命な練習だった。連盟主催の関西コンクールには張り切って出場した。その結果は…入賞したとはいえ、僅かの点差で3位になってしまった。指揮が未熟なので部員たちが堅くなり、思うように演奏ができなかったためではないかという悔悟の念と、出場すれば必ず優勝とまでいわれた先輩の功績と誇りを一瞬にして崩してしまって、申しわけなさと口惜しさが交錯し、会場に来て声援して下さった皆様にも顔向けができず、悲嘆のどんぞこに沈んでしまった。ただここで一縷の望みをかけて、NHKの近畿地方コンクールの結果を待つより道がなかった。その間の部員たちは不安、焦慮、苦悩でまったく堪えきれない、切ない思いであった。12月1日の全国大会を待った。当日の放送時間となった時、他の地区の代表の演奏をじっと聴いていると、不安と緊張に耐えられず、室を出て行った部員も多かった。全国高校の部、最優秀校は「近畿代表……」と聞いただけであとは夢中、みな雀踊りせんばかりに喜びあった。


昭和38年度

関西コンクール惜敗

新学期を迎え、ただちに新部員が30数名入ってきた。全部員の半数を占めるという例年になく多い入部者だった。 3年生の中には高校にやってきて初めて楽器を持った者も多く、例年に較べて技術の面では低い水準であったと思える。練習場も学校から教館に移って3年目であり、例年の水準にまでもっていくには、矢野先生はじめ先輩方々の適切なご指導を得たとはいえ、並大抵ではなかった。僕ら3年間のうちに演奏旅行の経験も少ないわけで、失敗を繰り返し、その度ごとに先生方の心配をわずらわして、不勉強の自分たちのせいと思えば、申し訳ないことのみが多かった。

昨年度まで、ドラムメージャーであり副指揮者であった宮地さんが山本先輩(今年度卒業生)と交代され、パレードのなかにもいろいろな民謡が織り込まれていったのは新風を呼んだといえる。

昨年度部長の西田先生は、教頭職につかれてお退きになり、森岡先生が部長となられた。長く副部長としてお世話頂いてきたのであり、この上もなくよい部長先生を迎えた。新たに大矢先生が副部長となられて、今年度の陣容が整った。

演奏旅行は日誌にゆずるとして、例年の関西吹奏楽コンクールには惜しくも第2位となったのは、本当に残念であった。審査員の話の中にも、「曲目の選定と少々のミスのため」とあったが、来年の奮闘を誓いあったのである。曲目はベートーベンの「運命」第4楽章で、これはテンポ、音程など難しかった。連日の苦しい練習の中にも、技術の向上が見られ、気持もとけあって頑張ったのである。NHK合奏コンクールは、昨年度の全国一を汚すまいと励まし合ったが、県代表とはなれたものの、テープ審査による近畿大会では優良校ということで、関西コンクールと同じ天王寺商業に涙をのんだ。

この二つのコンクールに全力を尽くしたつもりのわれわれは、何か気が抜けた思いであって、ある者はもう練習も面白くないと言い始めた。しかし矢野先生より「後輩のため、また自分らの仕事を最後まで勤めよ」とお話し頂いて、3年みんなが努力を誓いあったのである。2学期は多くの行事に参加した。また、12月22日からは松山方面への旅行だった。自分たちの残り少ないクラブ生活に有終の美を飾りたいものと、楽しかったこと、つらかったことなど思いつつ、また、来年の活躍を祈るものである。

台風のため旅館の2階でも演奏


第13節充実に向けて

昭和39年度

五輪選手の夕食会で演奏

新学期を迎え、ただちに新部員が数十名入ってきた。僕らの目標はなんといってもコンクールに勝つことだ。今年負けたら3年連続負けることになるのだ。そのために最初から部員一同頑張った。そのためには多くの者が演奏し、層を厚くするように、1、2年生の指導が大切であった。それは合宿や演奏旅行で少しはカバーできた。もうひとつは精神を統一して演奏しなければいけない。だから精神統一が大切だった。それをやれば優勝も夢ではないということで、3年生が主体となって1、2年生を指導していった。

演奏旅行は中国地方へ10日間であった。今年は部員が多いために50名しか行けないこととなり、みんなオレが行くんだと心に誓い頑張っていた。そのせいもあって、演奏旅行も無事終わらして頂いた。 昨年度までドラムメージャーであり、副指揮者であった山本さんが森本先輩に交代され、みんな気持ちを新たにして練習に励んだ。

例年の関西吹奏楽コンクールには4年ぶり11回目の優勝を達成し、みんなやる気を出し全国大会へ臨んだ。全国大会の会場、高松市民会館は昨年演奏旅行で演奏したところであり、みんな自信があった。演奏も落ち着いてでき、ひさびさに5度目の優勝を遂げることができた。今年も負けると3年連続負けるということで、みんな一生懸命に練習をやりはじめ、早朝練習するパートが多かった。このような努力が実を結んだのだろう。NHK器楽合奏コンクールは、県大会でのテープ審査によるもので、近畿大会においては見事優秀校に選ばれて全国大会に進んだが、惜しくも2位に止まった。この2つのコンクールに全力を尽くしたわれわれは思い残すことのない年だったと思う。

後輩諸君、80年祭の年に3年連続優勝を達成するように来年からの活躍を祈る。

「サンタフェ物語」で4年ぶり日本一


昭和40年度

演奏旅行は和歌山へ

4月に新入部員を迎え、1年生20名、2年生20名、3年生25名という大世帯をもって昨年度朝日新聞社主催、全日本吹奏楽コンクール優勝から、さらに今年は、NHKも優勝し、きたる教祖八十年祭に無形のお供えとせんことを誓い、新たな決意のもとにスタートした。3年生の多い年はチームワークをとるのが難しい、と先輩から何度も言われたが、3年生は明るい者ばかりで、そんな気を使わなくともよくまとまってくれた。練習終了後は互いに冗談を飛ばし合い、部内はいつも笑い声が絶えないというような空気であった。

例年通り夏合宿に入り、演奏旅行の曲目を練習し始めた。今年は前記のように上級生が多く、1年生中ではわずか4、5名程度しか舞台に出られないのであるが、みなよく頑張ってくれて大助かりであった。合宿は教祖八十年祭のために、例年より2学期が早く始まる方針なので、子供おぢば帰りの前日まで休みとなり、最初のうちは身体をならすのにひと苦労であった。

そして演奏旅行。今年は和歌山方面であった。毎年この旅行によって、舞台度胸と技術が著しく向上する。みなその主旨を果たさんものと頑張り、無事終了させて頂いた。 なお、今年は非常に行事が多く、目標であるコンクールの練習ができず、本格的にコンクール体制に入ったのは、10日前である。今年は諸条件から優勝は難しいと言われながらも、毎日、先生のご指導のもとに頑張った。相続く叱咤々々の中で、われわれは今まで全国に誇る伝統を築いて下さった先輩の苦労をもう一度思い出して頑張った。そして、全関西吹奏楽コンクールでは見事優勝の栄を獲得したのである。気をよくした部員は数日後にひかえたNHKコンクールに全国優勝の野望を抱いて練習した。

奈良県大会では、昨年度の経験を生かし慎重に演奏した。そして11月7日の朝日全日本のコンクールを待たずに、ラジオはわれわれの優勝を発表したのである。残るは朝日。今まで本校吹奏楽史上にないNHKと朝日の必勝を期して、ますます練習にも磨きがかかった。全国大会では全神経を集中して演奏した。全力を尽くした。そうして念願の2つのコンクールに優勝しえたことは、卒業にあたり悔いを残さずにすんだと誰もが思ったことだろう。

明八十年祭の年には3年連続優勝の記録を後輩諸君に期待し、また幅広い活躍を祈るものである。

自由曲「ニュース・リール」で優勝

初の海外演奏、第77回ローズパレード参加

本年度の吹奏楽部は2つの全国コンクール優勝に加え、日本吹奏楽界にも前例を見ず、また永く歴史に残るであろうローズパレード参加という大きな足跡を印した。

このパレードは、正式には Pasadena Tourna- ment of Roses と称し、カリフォルニア州パサディナ市で毎年1月1日に行われる豪華絢爛の花の祭典で、本年は第77回目に当たり、海外からの参加は本校が最初である。

さて、パレードは延々8Kmの大通りを、学校、会社、団体などのフロート(山車)が約60台進み、その間を国内一流のバンドが行進する。フロートはその年のテーマに従って趣向を凝らし、色とりどりの生花で余すところなく飾りつけられ、その華麗さは目を奪うばかり。

参加バンドは22団体で、いずれも厳選された大学、高校、海軍、救世軍、市などのバンドで、普通150人から200人の編成で、ほとんど派手な制服を着ている。沿道は前日から毛布、寝袋持参の座り込み組を含め、150万から200万の観衆で埋まり、一つの行事としての観客動員数は世界一と称している。

参加バンドの選抜基準は、過去の実績、外観、参加経費の負担能力、5マイル(8Km)以上の演奏行進能力などである。本校独自の立場では参加にはほとんど望みをかけていなかったが、真柱様の深い思召により、11月に入って参加が決定し、校長先生を中心として関係者が対策にあたり、教内外の絶大な声援を得て、実現をみたのである。

教祖八十年祭の年の初めに、遠くアメリカの地で年祭のファンファーレを高らかに奏で、かの地の教友を激励し、高い水準を誇る米国吹奏楽界に、本校の更にまた日本吹奏楽の真価を認めてもらい、にをいがけの端なりともつとめさせて頂き、教内にも喜んで頂いたことは、この上もない喜びであった。

大部隊の渡米であるから、国内の演奏旅行とはくらべものにならぬ困難があり、短期間で万全の準備を整えるため、校長先生のご苦心、現地伝道庁を中心とした教友各位のご協力は筆舌につくしがたい。 昨年正月に渡米した指揮者の矢野先生が、本年度のトーナメント協会長のリチャーズ氏に会った時、氏は本校吹奏楽部の実体を知り、本年のパレード参加をすすめ、その後も再三、極めて熱心に参加を要請された。本校が参加の方向に向かったのは氏の熱意によるところ大である。

ローズパレード参加のほかに日程にあるように、各地で演奏を行ったが、部員の整然としてきびきびしたマナーとともに水準を抜く演奏に、いたるところで予想以上の好評を博し、専門家もお世辞抜きで賛辞を寄せてきた。事実、本校の演奏がパレードでも、ステージにおいてもアメリカの学校バンドにはひけをとらないという自信を得たことは、一つの収穫であった。

大きな使命をもって渡米した吹奏楽部が、かなりの強行軍にもかかわらず、全員無事つとめをはたして帰校したのは、親神様のご守護は申すに及ばず、各方面の温かいご声援の賜と、心から感謝にたえない。