丹波国造最北の地とも言える京丹後市久美浜町は市町村合併前は、“熊野”という地名があり、熊野神社や修験に関わる遺跡や伝承もある丹波修験の最北の重要な地であると考えています。
【久美浜】
久美浜の地名の由来は、四道将軍の一人、丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと/たにはのみちぬしのみこと)の「国見の剣」に由来すると伝えられています。「国見(クニミ)」が「久美(クミ)」に変化したという説が有力です。
【熊野】
熊野郡という地名は、この地が熊野神社の神領であったことや、出雲の熊野神を勧請したことが由来とされています。
また、熊野は神聖な場所を意味し、多くの神々が祀られている地という意味もあるそうです。
【熊野山 甲山寺】
小天橋を見下ろす兜山の南側山麓の古刹「甲山寺」。
兜山山頂の“熊野神社”を護ってこられた修験色の強い(個人的感想)寺院です。
ご本尊:阿弥陀如来様
ご開基:行基大僧正 開ご創:736年
本堂、護摩堂、他
甲山寺 入り口の看板より
天平8年8月4日行基の開山と伝えられ甲山(兜山)山上式内熊野神社の別当寺である。
本堂本尊に熊野神社の本地仏阿弥陀如来を安置し、天正年間兵火により消失した利剣山大盤寺の本尊石造不動明王(秘仏)を祀っている。庫裏及び前庭、裏庭は宝暦年間の造営である。当時と熊野神社の中間に山上での祭祀に用いた閼伽の井(升池)がある。
柴灯大護摩供・火渡り修行【厄除弘法大師祭】
2024年から住職を務められる武田法龍住職により、これまで内向きに行われていた法要を地域を護るため、地域を巻き込んだ例祭へと“本来の寺院のあるべく姿"にするために、地域の大祭として生まれ変わりました!
まだ2年2回目にも関わらず、地域の自治会の方々や子供たちで賑わうその姿は法龍住職の思い描く“地域寺院のあるべく姿”であり、今はほとんど消滅しかかっている地域と山伏の関係の再興だと感じました。
古来、地域ごとの祭り事には、様々な形で山伏たちが脇役として支えてきたと伝えられている。また、神仏や修験道という日本古来の生活様式・文化を再興する事で日本の素晴らしい道徳心の醸成や強い絆のある地域自治が実現されると感じました。
出仕されておられた山伏衆は、福岡や愛媛、大阪など各地から法龍住職との繋がりで集まられた僧侶・在家の山伏の方々で構成されており、住職のお人柄あっての大護摩というのも信仰のあるべき姿のように思います。
弘法大師御作と言われる利剱不動明王様が祀られる護摩堂
阿弥陀三尊が祀られる本堂
兜山山頂には古来より祭祀場があったとされ、現在も「熊野神社」がある。
住職より教えていただきました↓
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独立国家であったこの地を平定すべく派遣されたのが四道将軍の丹波道主命で、平定された豪族が川上摩須。その娘・川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)と夫婦となり、もうけた娘たち4人が垂仁天皇へ嫁ぎその中の日葉酢比売(ひばすひめ)が皇后となった事を祝い建てたのが山頂の熊野神社です。
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丹波篠山には丹波地域最大の前方後円墳「車塚古墳」があり、被葬候補者としてこの丹波道主命があげられおり、丹波国造地域のつながりを感じました。
【熊野神社の看板より】
熊野神社は「延喜式」神名帳に記載され、熊野郡の名称の由来にもなった神社と伝えられています。
平安時代の歴史書「日本三代実録」貞観十年(868)九月二十一日条に「丹後国正六位上熊野神」に「従五位下」を授ける記事があり、これは当社のことと思われます。
そもそも鎮座している甲山には祭祀遺跡もあり、「甲山」は「神山」が転じたものという説もあることから、山全体が信仰の対象となっていたのではないかと考えられます。
「丹後旧事記」など江戸時代の地誌類には、丹波道主命の勧請、川上麻須郎の造立と伝えられています。
また「熊野郡誌」には、養蚕農家が境内の小石を借り受け、家に祀るとネズミの害を逃れるという風習があった事が記されています。
兜山山頂の展望台からの北側「小天橋」の風景。
山に囲まれた丹波地域の最後の山を登った先に見るこの絶景は古来より神を感じさせられる場所である事を痛感する。
この丹波国造最北のこの地に「熊野」がある事は修験道の行者にとって、とても意味深いものだと感じました。また、それぞれの地域で発達したと思われる山岳信仰・修験道も、やはり「丹波修験」と言える繋がりがある事を実感しました。