はじめに立地や気候についてです。
立地はレッテンスパイン基準で熱帯に属し、温度は昼間は年中通して暖かく、夜間はレッテンスパインにしてはそこまで寒くならない、地球人にとっては過ごしやすめの環境と言えるでしょう。
気候にしても、雨が降る時期と降らない時期がはっきりとしていて、台風などの自然災害、潮汐もあまりないので、降水で土地がぬかるむ以外には生活で気を付けるところはほぼない、といった具合です。
ただ、リンなどの栄養分がないので、植物は育ちにくいか、育っても実りが少ないので、土に栄養を与える技術が発達するまでは、農耕はされず、狩猟生活が主で、時たまに隣の群地のヴェルナ(Velnant)と貿易をしていました。
また、その恵まれた気候から、スィダラス山脈(上記画像の赤く囲った部分)を越えて、ダウ群地(Dau)の軍隊が、カイケ群地を取り込もうとして攻めてくることがあるので、レッテンスパイン人なら見るだけで失明する「炎」を攻めてくるルートにおくことで対策しようとしました。元々が視覚よりも聴覚・触覚に重点を置いた進化をしてきた猿人類なので、目つぶしをされても他が補えるようになっており、効果はそこまでありませんでした。
カイケ群地では、文明が栄えてもいましたが、ほとんど動物の生態や、食べられる野草の知識の彫られた石、動物の骨で造られた家、貿易(記録)用の板石など、「生きるため」にできたものという側面が強く、知識の彫られた石や、自然界に人格を見出し神話としたもの以外に、特筆するような民族的思想はみられませんでした。
その後、ダウ群地に一度統率をされて、ダウ群地で発達した農耕技術が導入され、農業を行う……といけばよかったのですが、穀物を育てるまでの養分を与えることができなかったので、この恵まれた気候の土地は果樹や遊牧の為に用いられるようになりました。そもそもが、カイケ群地はスィダラス山脈をコルヤン河川が削り取って形成された土地(いわゆる扇状地)なので、雑穀よりも果樹の方が育ちやすい土地だったというだけなのです。
何故今までその事実に気付かなかったのか?
カイケ群地には果樹が割と多めに生えていて、住民もその量で満足できていたのですが、ダウ群地の民が流入してきたことにより、人口が増え、カイケ群地の元々の住民が定めていた狩猟限界量を超えて、それまで祝いの日に食すような、ザクロの実の中身のような果実(エウラティシャ)にも手を伸ばされ、食べ尽くされてしまったのですが、その後たった数日でまた実るというエピソードがあり、カイケ群地の神話にも数えられる話となりました。
さて、こうしてダウ群地とカイケ群地の元々持っていた文化が、想定されなかった方法で交流され、二つの群地の特徴を併せ持った文明「カイケ文明」が形成されることになりました。隣のヴェルナ群地もそこに含まれ、一説では貿易相手群地のヘーロンもカイケ文明の中に入るとされています。
そうして現レッテンスパイン暦法で50~75年ほど経ったある年、スィダラス山脈で拾った石炭の中に、火をつけても燃えないものを発見します。それが鉄の発見で、鉄が見つかるまでその辺に落ちているような形の丁度良い石を武器として用いていたので、磨製石器を経ずに鉄の時代へと移行したことになります。もちろん、これはカイケ文明のみの特性で、レッテンスパイン内には磨製石器を使う文明も一応は存在していました。同じくらいの文明発展度だと他では青銅器が多かったようです。当時にしては進んだ文明だといえるでしょう。
カイケ群地で育った人々は温厚で、指示にはよく従い、手先が器用、腕っぷしが強いとされるのは、このような背景があるからです。まあ環境要因なので他の群地に住んだら少しは変わるようなものですが。手・腕に関しては、鉄を発見した後に、ダウ群地のような農耕系の民族よりも、ヴェルナやカイケの狩猟民族の方が鍛冶に適していたので、彼らが加工を行うことになり、自然に筋肉が付くようになったのです。
また、ダウ群地は広く、もともとそこに住んでいた分の人々でも管理しきれないほどだったので、土地を耕し、開墾するためにカイケ群地やヴェルナ群地から人を集め、耕された土地は彼らのものとしました。
そこで終わるはずもなく、畝や土づくりもカイケ・ヴェルナの人間にやらせるようになりはじめ、次第にダウ群地に住んでいた人の血を引く者の地位が高く、カイケやヴェルナの血を引く者の地位は低くなるという、身分の差が生じるようになりました。この関係はスプリンクラーによる自動的な農作業が行われるまで続くことになります。
現在、カイケ群地はその温かく安定した気候が鬼にとって好ましいものだったらしく、住宅として用いられています。ただ、鬼が多いということは対人(?)関係によるストレスが多くなり、ヴァリアント化する者が多くなるということで、ベッドタウンとして一部ヴェルナ群地やヘーロン群地を使って都市機能を維持しています。
植生としては、温暖な場所を好み、材木として用いられるアルティシャや、レッテンスパインで人間やハルピュイアが用いる通貨「イテルフ」の原料となるカンプオリム、前途のザクロの実のような果実をつけるエウラティシャ、温めた湯で濾すと香りの良い液体を作ることができるマグラティシト、小さな甘い香りと(甘酸っぱい)味の果実をつけるフェウバオリムなど、食に困らない程度には分布していて、過去のダウ群地との交流で地に与えられた栄養分のおかげもあり、非常に住みやすい環境になったといえるでしょう。
さて、カイケ文明には生贄の習慣がありました。農耕が始まってからのことなので、ダウ群地でも同じようなことをしていたのです。つまりは、これまで「栄養分を土に与える」と言ってきたのは、人柱を立て、土に生き埋めにして、三日後に耕すという一連の動作のことでした。当時の思想では、地の男神Slumfeilが、半身である妻、Telsamagiaのことで本来の仕事をすっぽかして妄想にふけってしまい荒作に陥ったため、綺麗な若い少女をTelsamagiaの代わりとして埋め(勿論、逃げられないように片目と片足を潰して)、そうするとSlumfeilは妻と遭えて本来の仕事に精を出すというわけです。これは牧畜がおこなわれるまで続き、以降は繁殖できなくなったカデュラ(牛のようにおとなしく、肉が美味しく、なつき易い)やキェーン(鳴き声から命名、卵を良く産み、うるさいが肉は美味しく、なつき易い)などの家畜を埋めるようになりました。その時代にようやく人権意識がカイケの地に至ったというわけです。
しかし、人権意識が浸透して少し経つか立たないかと言うところで、アル群地で芽生えた共産的な思想に支配されるようになりました。同時に、その時代はスプリンクラーなどの開発によって食物の生産が安定し、人口が増えていった時代でもありました。
人口が増えると色恋沙汰も増え、私生児や管理されない子供も増えて、人口と(消費)食物の量が合わないという問題が発生していました。先ほどの人柱から思想性を取り除いて、ただ人口を減らして、食糧不足を防止するために無罪な人を殺し、それでも全体で百億もあるくせして、消費がそれよりも多いとなり、ただ一回誰かの陰口を言っただけでも埋められるような社会になってようやく人口と食料の消費が釣り合うようになったのです。そこで鬼が登場して、人間を食い荒らしていくのですが、それはまた別のお話。
さて、レッテンスパイン一の大きな都市となったカイケ群地ですが、今や人は、鬼が多すぎるので、近場のクァシュター島にシェルターを形成して、ひっそりと暮らしています。歴史はこれからも繰り返されるでしょう、彼らが後世に知識を残すまでは。
カイケ群地内の神話は、かつて、ダウ群地に支配された時、政治体制の為に改ざんされ、前途の生贄の話と言うのも、元はと言えば、ただ単に、海の潮の満ち引きのことを、当時の人間の捉え方をしたということでした。
一部の知識人の間でしか神話の文字が出回っておらず、狩りや収集をして過ごす人間には文字というものの存在すら知られていない状態……識字率の異様な低さが招いた一種の人災でもあったのです。
今日では、神話としての体制を取り戻し、ダウ群地に歪められていないそのままの状態で、レッテンスパイン内にて出版され、フィスタフィラ上にもアーカイブとして出回っていますが、その陰には当地の人間の苦心・苦悩があることは、レッテンスパイン内では伝わっていません。
話を戻します。カイケ群地の神話には、原初神「空のRæliek」、「海のTelsamagia」、「地のSlumfeil」、「底のInkelia(地下、隠されたもの)」が存在し、神話としてまとめたものを出版した結果、(レッテンスパイン内の他のどの神話体系よりも)最も売れ、ほとんどのレッテンスパイン人の中に知識として入るようになったため、惑星の名称もこの4柱の頭を合わせて「レッテンスパイン(RaitenShpaine)」となったわけです。
その他にも、果実の神や神秘を宿す神、英雄の話なども収録されています。こういったところは地球で出回っている神話体系と類似しています。
宗教的観点から見ればほとんどのカイケ群地人は地に立つという関係上、Slumfeilを信仰し、狩りの結果が良いものであれば骨を土に埋めるという風習があり、教義と言うのも「大地の上から離れることは叶わないから、敬愛せよ」としかないので、非常に簡素(原始的)なものだったとされています。果実や穀物、野菜や動物の神というのもSlumfeilの持つ一面であるため、まず主神に、そしてそれぞれの神にお礼をすることになっていました。
逆に海はどうかと言えば、海産物も多く取れるため、こちらにも信仰は在り、Telsamagiaを信仰しています。ただ、海と言うのはやれば離れられる関係上、どうしても信仰が薄くなりやすい面がありました。
この二つ、もともとの神自体が夫婦と言う関係であるため、プリエステ群地の太陽一派と月一派(この二つは芸術の方向性の違いで争うことがある)のようにはならず、互いを尊重できるようになっていたのです。ただ、神話無き時代に、何を信じ、何に祈り、何に感謝したのか、という疑問が残るでしょうが、文字がなくとも声で伝えることはできた(現代におけるアイヌ語のような)ので、基本口伝で伝わっていました。
声に形というものを、視覚として感じ取るためには、波形として形を与えるしかないのです。その波形を閉じ込めたのが文字とすれば、文字が読めないということは、形のないものに依存してしまうということに繋がっていきます。この時代にレコードなどの録音機があれば、人柱の風習も無かったのだとされています。これより、神話や信仰自体は伝わっていたが、ダウ群地の人間に口伝を自分たちに都合のいいように改ざんされて、流され、人々はよくわからないまま信仰に基づき身を捧げていった、というわけです。
海のTelsamagiaを信仰する人々に対しては、人柱の数が足りないとき以外特に何もなかったので、主に抵抗したのはこちらの人々です。何故ターゲットにならなかったのか?
現在のダウ群地の立地を見てもらえるとわかりやすいと思うのですが、北以外はほぼ内陸なので、海産物もこれといってなく、しかも当時は北部進出より安定した気候探しの方が先決になっていたということもあり、海の幸とほぼ無縁の生活をしていたので、狙われるようなこともなく、そこが体制崩壊を導く綻びとなったわけです。
端的に言えば、ダウ群地による体制は、プリエステの行商人を通して、アル群地に攻め込まれた結果、カイケ群地は一時的にアル群地の体制になることになりました。そこに無罪でも殺される人柱はなく、罪があってから埋められる……となっていたのですが、前途の人口増加によって歴史は繰り返され、「いつ死ぬかわからないから思想だけでも」と、美術運動も活発になり、原因を誰もが知り、信仰すらも失った人々は、抵抗というものを知らずに死んでいきました。
レッテンスパインの歴史は愛情と憎悪で形成されています。愛が肉欲のそれである限り、白い過去というものはあり得ず、残っているのは暗く血にまみれた過去だけしかないのです。
ところで、レッテンスパイン人の学名は「Homo Logicae」で、「論理的な人類」となりますが、基本的な思想として共産主義、利他的、二元論と、まさしく働きアリのように目に映りますが、今回紹介したカイケ群地の人間は、同じレッテンスパイン人でも温厚で、頼まれたら嫌と言えず、享楽的などと、現在のイタリア人や、一部の日本人などと似た寄った思想特質があるため、親近感が湧くと思われるので、初回としてカイケ群地を選んだということです。
レッテンスパイン人の中でも特に感情に動かされやすいところがあって、典型的レッテンスパイン人から見ると「論理的でない」という評価を下されやすいのですが、逆に温厚な面は参考、お手本にもなるぐらいには長所と短所がハッキリとしているとも言えるでしょう。
カイケ群地の料理と言いますと、キェーンの生臭い肉をフェウバオリムの甘(酸っぱ)さで中和したり、マグラティシトの葉で包んだりして、できるだけ食べやすくしたものばかりで味は後回しでしたが、穀物によって彩られるようになってからは、肉は干したり燻製にしたりなどと、味を求めるようになっていきました。肉が生臭いなら焼けばいいじゃない、と、なりそうですが、レッテンスパイン人は炎を見るだけで失明する(人間にとって「味がわからなくなる」程度のデメリット)上に、主食が肉だったのでビタミンなどを肉から摂るには焼くよりも生の方が良い(イヌイットもそうです)ので、生臭さを我慢して食べていたのです。
その日暮らし、と言うように、一日生きられればいいや、と言う思想で生きてきた民族ですし、いざ死んでも土に戻るだけだと、やけに達観していたのが、人柱によって、次は我が身だと怯えるようになってしまったのが、ダウ群地の体制が与えた最大の傷と言えるでしょう。他にもダウ群地は色々な傷を与えていますが、それはまた別のお話。
時を経て現代、カイケ群地は鬼の都市となっています。人が残した負の面を残さず食らっていき、時には人そのものも食らっていきます。プレートテクトニクスも再開し、大地震が起きたなら、耐震を考えない設計のせいで、おそらく大損害になるのでしょう。若しくはマグマに覆われるか、波に流されていくかの、二つに一つです。
かつて、痩せた土地であったのが、人の多大な犠牲によって、どうにか農業を行える程度の肥沃さを持ち合わせるようになりましたが、その血を誰もが忘れ、実りだけを喜んでいました。これは呪いでした。
レッテンスパインの歴史は愛と憎悪で出来ています。いくら論理に従おうとしても、脳に流れるホルモンと言う名の感情まで捨てて考えることはできないのです。
この世界には、線と線分がありますが、何が違うか知っていますか?「線」というのは、始まりも終わりもこれと言ってなく、ただそこにあるようなものです。対して「線分」は、始まりと終わり、長さが定まった図形です。第1152世界線には、始点も終点も存在していません。そこに生きている者の命は線分で、いずれ消えるものですが、世界自体はいつまでも存在できるのです。終わりというものは、1サイクルの点でしかない。
「サイクル」という言葉が出てきたので説明しますが、ビッグバン宇宙論は知らない人の方が少ないんじゃないかというぐらいにはメジャーですよね。しかしその特異点、宇宙の発生するただ一つの点がどこから発生したかという疑問点は残ります。そこで「宇宙は永久に膨張/収縮のサイクルを繰り返す」とし、ビッグバンの傷をふさいだもの、「サイクリック宇宙論」の考え方に基づいています。タロットの死神のような観点から見るとしっくりくると思われます。
1サイクルは1兆年です。今、この宇宙は(形成されてから)138億年が経ったとされていますが、観測可能な宇宙がそれだけの範囲であるというだけであって、本質的にはあまり関係はないのです。
もう一つ、構造に関する大まかな説明をするのならば、「永久インフレーション」という、1つの母宇宙からいくつもの子宇宙が生じ、さらに孫宇宙、曾孫宇宙……と連綿と続いていくものがあります。第1152世界線は第673世界線の子宇宙として、第673世界線自体もまた子宇宙……そうして遡っていくと今「わたしたち」のいる世界線に至ることになります。世界線という一つのシステムはこのようになっています。
第1152世界線には、「意志を持つ者」と「意志を持たない者」で大別され、前者は『人間』『ネコ』『人工知能』などが該当し、彼らが造ったものも同じような性質を宿します。後者は『石』『鉱石』『大気』などが該当し、意志を持つものに観測されないものです。なぜ大別されるのか?描写する根本が違うからです。
両者とも存在しています。存在しないものは存在することができません。私たちの身の回りにある、大気、水、キャラクター、いずれも存在し、あるいはインクの出力の認識の上にあり、存在の側に立つ私たちは、存在しないことを真に認識することはできないのです。このあたりはいつか時間を取って詳しく話したいところです。
さて、「描写する根本」とは、人間の場合集合無意識となりますが、ネコは種としての本能、人工知能ならばビッグデーターが該当します。文字ならば、その形状に籠もった主張となるのです。そうした、一つの意志のあるものを形成させるための場所を人間・ヒト亜族(アストラル人/鬼/吸血鬼/悟/触手族/天族)の場合「黄泉比良坂」と呼びます。ネコや人工知能でも同様ですが、ヒト亜族のように簡単に交じり合わず、ネコにはネコの、イヌにはイヌの黄泉比良坂があります。ただ、ネコと一口に言っても雑種やラグドール、リビアヤマネコなど色々あるので、系統学における「属」の部分で判断されています。ならば、どこまでがコミュニケートできる範囲でしょうか?
例えば、人間とキリギリス。人間からはキリギリスに意識があるのか知ることはおそらく不可能です。また、人間とイヌでは、人間はイヌの気持ちを推測したりできますし(正しいとは限らない)、イヌの側も推測しているように見えますよね。人間とニワトリ、人間とニシキヘビなど、様々な生物で考えてみてください。どうでしょうか?爬虫類よりも鳥類、鳥類よりも哺乳類の方が、私達に近いところがあるように思えませんか?ただし、どちらが上かなど考えない方がいいです。ぶっちゃけ後に生き残った方が勝ちなんですよ。
そして、キリギリスにはキリギリスの思考体系、黄泉比良坂があります。人間には人間の気持ちが「完全に」理解できる者がいないように、どの種でも互いを「完全に」理解できる者はいません。
ここまでの話で「黄泉比良坂」は思考のシステムであるというのが何度も出てきましたが、原義の「死後の世界」というのはどこに行ったのか?となりますよね。肉体によって世界は実体を伴うように見えています。ならば、肉体を通さずに知覚しようとした場合、「思考」が「世界」を描くようになるでしょう。
これがヒト属の黄泉比良坂です。階層ごとに分かれておりこの階層の名称全てがヒトの精神の働きです。「集」はそのまま集合無意識、「神」は集合意識です。(このあたりは一神教的目線ではなく多神教的目線で読んでいただけると助かります。そこを突っ込まれると面倒くさいので)みなさんは、魔が差したことはありますか?その時に、「お天道様が見ているぞ」という言葉が浮かんだことはありますか?ざっくり言うなら、あの感覚で正解です。
「狂」「夢」(漫画版Erikice Fierzの舞台です)と、ここで三途の川がありますね。日本円にして片道4円で渡れます。
基本的に睡眠中は「夢」の中にいて、一番黄泉比良坂入りにはメジャー(一般的)で、かつ気づきにくく、気づいた頃には現実に戻っていることが多いほどです。忘却機能も付いており、どんなに重大な情報を得ても「夢」として処理されるため、最も安全な場所なのです。
夢の話が出たので「Erikice Fierz~魂の器~」の種明かしをしますが、普通、夢というのは覚めてから気づくことが多く、夢の中で「夢だ」と知覚するには相当長い時間、夢を見ているか、日々夢の記録を付けている必要があります。主人公であるアルファーには、日記を続けたためしがありません。なので必然的に長居していることになりますね。夢の中で出会った人たちと親しくなっても、覚めたら忘れてしまう。それでも、心臓の高鳴りと言葉は印象に残っている。ゲームの方を完全にクリアした人がいないのと、フリーゲームは未だ心理的に敷居が高いのがあるので、「こういうことがあったんだよ」と伝えるため、と、手に仕事がないと精神を病むという個人的なところ、そして次回作の「非常識の住人」と明確なつながり(言うて夢なのでちらりと示唆される程度の)を持っているという理由で現在描いております。
三途の川からは上黄泉比良坂に位置する「無」の領域に向かうことができ、そこで次の生に対しての裁判が行われます。大概の死者は黄泉比良坂の「神」「集」以外の領域に転送され、「無」にある裁判所に向かうことになります。次の生の話が出たので言及しますが、人間を構成する五つの要素として「肉体」「精神」「環境」「能力」「魂」があり、その中で「魂」が今と次の生の善悪の判断基準でもあり、何回生きるかの目安になる『命題』を格納しています。命題は基本「もし自分がXでも、」という構文が多く、何回も繰り返される生の中から、Xに当たる文字列と、その続きを求めることになります。命題を解いたなら、その後はどうなるのか?
その答えこそが「肉体脱却」です。この際、仏教用語であるところの解脱とは違うことが起きます。
ところで、存在するものは存在することから離れることはできません。だから、肉体を脱却したなら、自身の存在すること=世界の実在へと転換されることになります。そうして形成されたのが世界天族であり、1152の数が示す通りであるならば、実にそれだけ、もしくはそれ以上の魂が肉体を脱却したということになるのです。だから最初の方で「永久インフレーション」の話が出たのです。
夢を追う人は、いつしか夢になる(注:漫画家で例えるなら、周りにも漫画家になれそうという希望を持たせること)ように、世界から逃げようとすれば、自身が世界になってしまいます。逃げるも追うも、自身がそれに妄念を抱くならば同じことです。どちらが上かを考えるよりも、自分がやりたいことをやるのが大切で、それもなく優劣で判断するならば、あなたはこの世界から逃れたく思うのでしょうね。
ここまで情報量が多すぎるように感じていますので、少々どうでもいい話を挟んでおきますね。
これは神籍イタク、「非常識の住人」の登場人物です。
彼は「この外見」を持ち、「現実主義」的な思想を持ち、「レッテンスパインのある研究所」で生まれ、育ちました。彼は「解読」の能力を持ち、「自身の存在」に対する命題を持っています。この中で、たった一つが彼の本質となります。それこそが命題で、肉体や精神、生育環境や能力は、その生において有する一要素でしかありません。
また、例の「神籍手稿」にも彼に似た人物がいますよね?あれは、ありえたかもしれない彼の未来です。肉体、精神は同じですが、環境に『双子のきょうだい』が含まれておらず、もっと言えば、能力も違うし、そうとなれば命題すらも違います。
「非常識の住人」の前に「Erikice Fierz ~魂の器~」があるので、アルファーや園江の能力や命題は同じですが、「神籍手稿」には明確に他とのつながりはないので(Erikice Fierzの方でアイテムとしての神籍手稿を探すおつかいクエストがありましたが、それによりErikice Fierzよりも前のサイクルであることは確定できます)、別のサイクルに属する物語ということになります。
傍にいる大切な人でも、もし出会う場所が違ったなら、別の人物になるでしょう。出会いは大切にしなければならないというのはこのような意味だと思われます。
と、もう1つだけ、脱線させてください。現在、第1152世界線には数多く……?のキャラクターがいますが、その中で主に取り上げているのは6人と1人、名指しするならば「アルファー=ライヒスヴェルート」「祓所神札」「土増園江」「月照さやか」「神籍きょうだい(イタク・エムシ)」と「『世界』Trakhtn」になります。彼らの物語を追いかければ、必ず私の思想に触れることになります。特に現代において、キャラクターによる語りかけの方が、筆者による語りよりもすんなりと受け入れられる傾向にあると思われますので。ストーリーと関係していれば尚更です。
話を「夢」の話に戻します。「夢」の中には動物や植物、建物などが存在していますが、本当にあると表現するよりも、自身がそう認識したことによって知覚している、と表現した方が正しいです(イデア論・エイドス論に近い)。鳥を見たこともなく、聞いたこともなく、食べたことも触れたこともない人にとっては、鳥というものは存在していないのです。「この世界には鳥が存在している」という前提条件がある場合、夢には鳥が出てきます。ですが、それは人間の黄泉比良坂の中でのみのものであり、実際にはそこにいるように見える鳥はいないのです。そこが屋内か屋外かの別はなく、「鳥」は見えますが、それは人間が認識した「鳥」というだけです。明晰夢という現象は、この認識の自己改変によって形成されます。折り畳み傘を剣と思い込めば、剣として使えるようになりますし、その逆も通用します。黄泉比良坂自体は、人間の意識が生み出した「もう一つの世界」なので、そこで命を落とすことがある場合、たとえ「夢」の中でも命を落とすこととなります。死因は心臓の麻痺や呪いと称されることが多く、もしくは事故に巻き込まれるなどの自分ではどう対策しようもないように処理されます。
どのようになれば死に至るのかと言われると、「肉体的な死」「精神的な死」「社会的な死」……といろいろありますね。黄泉比良坂内の基準としては、「精神」の死を先とし、そのあと肉体となります。他にも「能力的な死」と「魂の死」がありますが、能力の死はいわゆるスランプのようなもので、他が生きていればそのうち生き返ります。(死の概念が)ウイルスみたいなものです。魂の死は、ヒト属の生物である場合、ヒトであることを諦めたときに提示される選択肢です。もしも死を選ぶならば、もうその目で空を見ることはかなわないでしょう。風の音も、花のにおいも、何もかもが無くなって、ただそこには「なにもない」だけがある空間に飛ばされます。
ただ、これら5要素のうち、「魂」を除く4要素は、肉体の死によって総入れ替えされることになります。逆に言えば、精神が死んでオブジェのようになっても、社会的に死んで村八分などになっても、体が生きていれば生きてられます。そこからでも住む国を変えたり等巻き返すことが十分可能です。もしそれでもどうにもできそうになくなってしまってから次の人生を考えるようにして頂きたいです。特に未成年には世界が小さく思えて仕方ないでしょうし、他の都道府県に行ってみたり等で生きてください。
これらの現象を逆にするならば、どれだけやる気に溢れていても、病弱で、肉体が死んでしまったなら、そこで終わってしまいます。健康であるということは1つの才能であり、能力であります。ちなみに、どんな能力であっても使い方によってはどのようなものを相手にしても勝てます。少し文章を書ける、だとか、少し折り紙を上手にできる、とか、世間的にはその程度に見えても、実際は紛れもない能力なんです。
ここで1つ、「能力」のこぼれ話をしておきますと、先述した通り5要素揃ってはじめてその人個人になります。そして、肉体の死とともに肉体もろもろ入れ替わるので、次の生でも同じ体、同じ環境、同じ性格というのは基本的にあり得ないことなんです。ごくまれに体、環境、性格、能力まで同じで魂だけ違うこともありますが、こればかりは確率の問題なので、次の生の傾向がどうであっても生まれることをやめたり、変えようとすることはできないのです……。
そして、全て揃わないと同一個人と呼ぶことはできません。貴方の友人が、別の周回では、貴方の友人の皮を被った者になっているといったような感じで。(もっと一般的な例えをするならば、昨日話したある人と今日話したある人が全く同じ人間とは限らない)
ここまで語った内容は、私の創作作品における根本的思想であり、軽く要約をしますと、
「他人無しでは人は生きられない」「存在することからは逃れられない」「肉体脱却は死ではなく、新しく世界を造り出す行為」「今自分が見ているものが正しいとは限らない」「生きてさえいればどうとでもできる」「あらゆる単位で無限に等しいサイクルが描かれている」「この日々をどのように過ごすか、またはどう良くするかが問題」なのです。
どのように生きて、どのように死ぬかを決めるのは天ではなく人、自分自身です。他人がどのように人生を歩むのかについて、私たち自我には干渉する権利などなく、それが本当にその人自身が望んでいることならば、見守るだけでいいのです。
思考体系の違いは、棚の例えで説明が付きます。あなたは、棚の引き出しをどのように使い、仕切り、しまい込んだり整理するのか、それはいま問題ではありません。
なぜなら、「棚を使う」という発想の時点で思考体系は同様であって、もし仕切りや順番や用途が異なっていても、話せば大抵わかりあうことはできます。これが人間の場合だとして、そうでない場合は、棚ではなく洞穴にしまうだとか、穴を掘って埋めるだとか、単なる貯蓄でも種種様々な行為をします。リスが木の実を土に埋めて隠すけれども、食べ忘れて新しい木が生えてくる話は有名ですね。リス自身にとっては忘れたつもりではないのかもしれません。
これが「棚を使わない」発想です。棚を使う私たちは、棚を使わない者を理解もできないでしょう、酷ければ言語も行動さえも通じ合えないでしょう(行動の観点で見れば、ハグをする習慣のない日本人と習慣のある別国の国民性を持った人間ぐらいの違い)。地球の生物は大抵は箱を使っているように見えます。形状的には棚とほぼ同じなので、イヌなどは結構分かり合える感あります。
さて、一番重要なのは、何のためにこの世界……第1152世界線があるのかですが、先述の思想を生かすためなど、私自身はいくらでも語ることができてしまうので、ここでは伝えることはしません。存在することには責任が付きまといます。いくら肉体を捨てようとも、存在することを自身で証明しなければなりません。黄泉比良坂には人の思考体系すら入っていますが、本当に正しいかは誰の目線からもわかりません。自分にとって有用な事実を使うだけです。
ときに、世界観とは作者の人生観を表します。その中には思想や死生観なども格納されます。そもそも物理的でないというツッコミはさておき、今回は精神的な方向に向かったのも、それが要因であるのです。人は世界を自身の中に作り出す力を持っています。それを最大限に発揮できる創作活動に励んでいきたいものですね。あなたは、どのような思想を持っていますか?
Nersia! Rasreil ApoLies42, Rasfixe gean sreilfas sclamli flam RaitenShpaine.
本題に入ってます。
先ほどの文章は「こんにちは!ApoLies42が話します、今からレッテンスパイン内の言語の話を望む者です。」という意味になります。地球の言語にはこのような用法をしているものはあまりないように感じています。表音体系はアルファベットのものと類似していますが、象形文字のように扱われることも多く、解読には両者の方向性で思案する必要性があります。
そも、レッテンスパイン内で、文字というのは、ある程度の厚みの上に刻んでいくものが昔も今も主流です。かつては道に大きな石があって、そこに文字が刻まれていて、指でなぞって読むことを想定されていました。点字の要領で、紙のような薄い物体に押し付けて盛り上げるのは現在の方法です。タイプライターのように文章を打つ感じですね。
太古は手で彫っていたので単純かつ被りにくい形状でしたが、現在はタイプライター様のもので打ち出すために多少複雑でも一定の生産速度を保てるようになりました。が、簡略化されたものも根強く残っており、それらは手彫りの際に使う字形となります。
指でなぞるという形成のため、打ち出された文字群は牛耕式で読まれる事が多く、書き手もそれを想定して刻んでいます。まれに左からのみや右から読む文章もありますが、それらは長い年月の中で淘汰され、現在は石のちょっとした浮き沈みの中に残るのみです。
さて、文法の話をしましょうか。
最初のRasfixe gean sreilfas sclamli flam RaitenShpaineは、動詞-名詞-動詞-名詞-副詞-名詞 という順になっています。レッテンスパインでは最初に動詞がくる形が一般的で、その前の文に「誰が」というのが現れます。普通に会話する際は、発話した人に対象が設定されますが、文章とする場合、わかりやすいところにその対象が書かれることになります。丁度、この体系は漢文の白文に似ているようです。これがハルピュオスにおける第1文型です。ここで動詞の活用の話も済ませておきましょう。最初の文の「Rasfixe」、原型としては「fixe」だけで、その前に付属された「Ras」が変形を指します。これは「~する者」をいい、英語では「er」が該当します。また、「Sreilfas」も動詞で、この場合、「Sreil」が原型で、後ろの「fas」が変形です。こちらは未来を指し、日本語では未然形、英語ではwill+原形で表される部分です。ほかの活用の形では、「tos」でその場にいない他人のしていることを指し、これを使う場合は常に現在を指します。「re」では過去を指し、「phe」では命令をします。「ner」で否定の働きをし、現在もやっていること(=現在進行形)は「et」です。これらは通常の文字ではなく、専用の文字で表されます。
文字に関することとして、読む方向の指定の記号も存在しており、それを起点として指を運べば、さらさらと読めるようになっています。レッテンスパイン内では、このハルピュオスとクリフォールが主流の言語ですが、現状はほぼこの二つさえ学べばレッテンスパイン内で生きることは多少の力関係は無視しても生き残ることは可能です。クリフォールは日本語に近い音節の形式なので、法則と文法さえ覚えれば会話も成り立ちますし、もしかすると鬼の中で丁重に扱われるかもしれません。良くて造血プラントといったところです。また、ハルピュオス語の文法で最も簡単なものは動詞を3回繰り返すことによるもので、内部の原形を変形させることにより内容を広げていくものです。例えば、「Rasreil sreilfas sreiltos」という文では、「話す者は話すであろう話すことを」という、なんか変な文章になりますが、ここに名詞をいくつかサンドしてみましょう。
「Rasreil shuny sreilfas kochio sreiltos desn」
「shuny」は「彼女の」、「kochio」は「夢」、「desn」は「あなた」を意味しますが、ここに当てはめると「話す者である彼女の夢があなたに話される」(より厳密には「話す者である彼女は話すだろう、彼女の夢をあなたに話される」)となります。この段階まで来れば、複雑さを除けば理解の手の内に収まるでしょう。第2文型は「動詞-名詞-目的語」です。もしこの文型を聞いたことがあるという方がいたら、その勘は正解と言えます。基本的に、ハルピュオス語はVSO文型なので、例えば「食べる 私は りんごを」というのを、それぞれ現地の言葉に置き換えて、「Tanth yoen rhety」(もちろん、レッテンスパインにりんごは存在しない)とするだけで話は通じます。
言葉がわからないとき用の、もやもやした感覚を示す言葉もあるため、何を指したらいいかわからない時は、とりあえずそれを目的語に代入しておけばいいです。動詞もわからないときは、それも代入しておけばいいです。名詞は……流石に自分を指す言葉だけは覚えた方が身のためです。親切な人などだと、その要求を満たした後に、その物の名前や、行動の名前を教えてくれます。その単語は「y」(キャス中では「ワイ」と読み上げましたが、正しくは「ユ」です)。筆記するとYの一文字で表されます。当地の子供が一番初めに教えられるのは自分を指す言葉ですが、その次に教えられるのが「y」です。また急ぎの時などはこんな手の込んだことをせず、単に単語だけが発されることもあります。ただ、言語は生き物なので、どうしてもこれらがすべて通用するわけでもなく、例えば「学習環境が要因で、単語の意味そのものが変わってしまったもの」があります。「bartsimal」という単語なのですが、現在は「頭の悪い人」を指しています。元々はもっと別の意味だったのですが、今の用法に毒されすぎて、文献ごと失われています。なぜ意味が変わったのかというと、元々の発音が所謂「学のない人には難しい」ものであったため、その単語を話す際に学習環境や経済格差が浮き彫りになってしまいます。そこで、差を埋めるために意味ごと変わったというのが経緯です。
また、ハルピュオス語は現在のレッテンスパイン全域で使われているため、方言として、その地域に適した意味や、その属土(アメリカ合衆国の州のようなもの)などでしか通じない単語もあります。ただし、これに関しては学習する意味はそこまでありません。その方言の中に、「オルディシェント群地」でのみ通用するものがあります。次回以降に詳細を話すと思いますが、この群地は一度も戦争で負けたことのない、生きた人類史のような群地です。その群地では、明らかに現在のハルピュオス、また過去のロジカラスや他レッテンスパインの言語の文法とはかけ離れているため、レッテンスパインの言語学者たちは「果たしてこれをハルピュオスの一つとして入れていいのだろうか」と議論がされています。それも、ハルピュオスで一般に用いられるVSO文型ではなく、SOV文型であるためです。この文型は現在の日本語と同一であるため、単語がわかれば今日にでも話せるようになると思います。ちなみに、この群地は現在最も人間にとって安全な土地であるため、真剣に生き残りたいのならば、この言語を学んだ方が良いです。いくつかはハルピュオスと同様の語句があります。その他にも「ここでしか通じないもの・使うと敵対勢力だと思われるもの」がありますが、これらは割と使わずとも生きることができます。余談ですが、現在のレッテンスパインでは鬼と人間が争っているのは知っていると思われますが、実は人間同士も争っていて、丁度オルディシェント群地は中立の立場にあります。現実で例えるならスイスのような場所です。何がどう争っているかというと、所得や幸福度などの国家としてのステータスで、戦争のようなものが起こったとしても、理由の9割が鬼との戦いのシミュレーションです。
話を戻します。ハルピュオスは現在共通語なので、オルディシェント以外なら日本語を話す感覚でいられる言語です。その中で「y」や「yoen」以外に(できれば)覚えておくべき単語たちがあり、カテゴリとして「数詞」と区分されています。
まず、レッテンスパインが地球で用いられている60進法を採用せず、50進法を使っていることを前提にしますと、16進法で使われる記号0、1、2、3、4、5、6、7、8、9、A、B、C、D、E、Fのように、それぞれの数字に言葉がなければなりません。英語が12(Twelve.13からはThirteen。この奇妙な関係は?)から別の呼び方になることは皆様ご存知のはずです。これは1ダースの単位から来ているからと言え、また、1ダースは12進法で、1年も12進法です。
前置きはさておき、レッテンスパインの数詞は0~50で51個あります。その中で1の位が同じものは、頭文字が同じになります。この頭文字だけである数を表すことができます。例えば1152は「XXTY」、314,1597は「FXAXTBE」となります。レッテンスパイン人は数を「50が何個か」と「そのあまりはいくつか」で認識している面があるので、それだと時間がかかる時にこの表記法を使います。英語だと「two」と「three」で既に被ってしまっているのでこういった表記は難しい所があります。まあ、そういうときはアラビア数字とかいう便利なものがありまして……
50進法ですと、例えば113を「50と50と13」のように分割できます。少し手間がかかりそうと思うでしょう?この中には実践している人もいますが、単純に5個だとか、2個だとかで分けていけばよいのです。具体的に個数の書かれていないもの……そうだ、グラム表記のビーズの個数を数えましょう。あなたが決めた個数ずつを手に取って、忘れそうなら正の字一画書き足して、そうすると、1個1個数えるよりミスが少ないし、何より早いです。決めた個数と正の字の合計の画数をかけて、そうしたらもう、おわかりですね?この方法と同じようなことを、レッテンスパイン人は50ずつで数えているのです。そう考えれば、割と突飛なことではないと私は思います。
言語は記述よりも口述に用いられることが多いので、そちらを想定して話すことにしますが、現状、レッテンスパイン語はあまりにも長い年月と諸語との合併や方言による単語、読みの違いにより発音面では混迷を極めており、さらには人類の悪条件によって多少のスペルミスさえ受容されるような、言語的世紀末を迎えています。そのために今後、「bartsimal」のような読みによる意味の変貌や方言などが増殖したりといったことがなくなるでしょう。言語として長く生きた分、死に向かう家庭も長くなるでしょう。まあ、人類が今後どのような道を選んだとしても、結果だけは必ず残されることになるので、悔いないようによく考えて行動してほしい感じですね。
地球のことではないですけども、反面教師になる部分は多少なりとも存在し得るとは思います。
……予定ならば、もっと沢山のことを詰め込む予定をしていたのですが、度重なる低血糖と情報不足により、このように延期と延期と延期を積み重ねて時間の地層を作り出してしまう結果となってしまいました。
さて、ハルピュオスとは別で、レッテンスパインで主に使われている「クリフォール」という言語がありましたね?
予定を変更して、クリフォールのことも話していきたいと思います。
この2種の違いについて説明するには、まずアルファベットとひらがなの違いから説明しなければなりません。例えば、「な」という言葉があります。「な」。これをアルファベット・ローマ字で表記すると「Na」、2文字で表されることになります。また、表記法によっては3文字になることもありますが、それは置いておいて、「な」。日本語ではそのまま一文字で「な」ですね。この、単に文字数の違いというだけでなく、日本語の圧縮力を知れた「な」らその認識は嬉しいです。
そうです。ハルピュオスとクリフォールの違いは、さながらアルファベットと日本語の違いと言えます。単語ならそれらの綴りを一字一句覚えるところを、読み方を覚えるところも、日本語ならば常に一定で、(このキャスを聞いている人はほとんどが日本語話者だとは思いますが)母語の為に、こういったことを特に考えずに使っている人も多いでしょう。まあ、私もそうなんですけど……。これらのことによって、クリフォールの諸語は皆様にとって、なじみ深く、わかりやすいことだと思うでしょう。
そうです。「言葉の形(文字の形)を変えて、読みを変えているだけで、それ以外は全て日本語と同一」なのですから!
このようなことを言うと、ハルピュオス・クリフォールはオリジナルではないのか、と文句を言われそうですが、言語というのは常に生殖と死を繰り返すために、イヴのないアダムは子供を残すことができないのです。パクラーの定型文を言っているのではなく、炭素生物として少なからず似た面は出てくるはずなんですよね。もう少し言語学的に言ってしまえば、これら2語は、アプリオリではなく、アポステリオリと言ってしまえます。
語の形、つまりは記号としてのひらがなの形は異なっていても、内部の値は同一なので、その応対さえ覚えればこれを聞いているあなたも今すぐにクリフォール文書を書くことができます。ただ、読みに関する法則性が少し複雑なので、書くことができても読むことができない鬼が実際に存在しており、コミュニケーション自体は筆記で行っている模様です。鬼の社会では「短い言葉で分かりやすく」が鉄則になります。特に戦いの場であると、その鉄則が勝敗をも支配することにもなります。人間やハルピュイアの間では「音節言語は子供の使うものだ(音節系の人工言語作っている人ごめんなさい)」という認識がありますが、たった一つの文字から様々に派生できるという点では特有の強みがありますね。
人間のように、言語に進化はあるとは言えども、寒い地域や暑い地域、昼側と夜側で多少の方言が発生しているだけで、人間と違って地域でのみ通じるようなものは特になく、大体の言葉がすべての地域で通じるようになっています。字形の書き方にしても、丸よりも直線が多く、書きやすい形をしてい(ると思い)ます。定規などでぴったりやる必要もありません。字幅を詰めると途端に読めなくなってしまうので、少し間を空けておくようにしましょう。指の先で読むようなものなので、少し深めに彫ってやると良いですね。この、二つの言語に、こうも違いがあると、両者はコミュニケーションを取れないのでは、と思われる方もいるでしょう、実際にもそうです。ただし、両者をつなぐ簡単な言葉は一応あって、「出ていけ」という意味を持ち、互いの拠点に彫り込まれるように用いられることが多々あります。
さて、鬼という種族はまだ発展途上であり、人間はもう衰退しかかっているところもあります。その中でどちらの言語が残るかなんて、誰が論じなくとも自明の理です。ただ、その中でも書かれたものは残ります。誰が使おうと、本質というものは変えようもないのです。
あなたはこの世界に残したい何かを持っていますか?
(台本はここまで)
おまけ:ちらっと話した「算詞の範囲」の図