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4.科学研究費による研究課題
1224年にイングランドに上陸したフランシスコ派修道会は、先に上陸したドミニコ派修道会とともに托鉢修道士の会で、イノセント3世が主催した第4回ラテラン公会議の決議の精神であるキリスト教西欧世界の平和維持のための信仰統一を目指して、教区巡察、説教を行い、同時にオクスフォードやケムブリッジ大学で神学研究に取り組みました。その一人アダム・マーシュはオクスフォードで学位を取得し、グロステストとの間に60通の書簡を残しています。私はこの書簡を詳しく読んで、彼の司牧観を解明したいと考えています。
朝治啓三「アダム・マーシュからグロステスト宛書簡」『関西大学東西学術研究所研究叢書』第16号、2023年3月15日、1-37頁。
朝治啓三「フランシスカン、アダム・マーシュのシモン・ド・モンフォール宛書簡」『関西大学東西学術研究所創立70周年記念論集』2022年、37-64頁。
リンカン大聖堂内のグロステストの墓石
従来私が主たる関心持って取り組んで来たのは、13世紀半ばのイングランド王国の世俗権力者による、権力構造の解明です。しかしシモン・ド・モンフォールが1264~65年に政権を獲得した時彼の政権を支えていた勢力は、伯のレヴェルではグロスタ伯だけであり、シモンはそれより軍事力や所領規模では劣る諸侯たちの支持に依存していまた。しかしイヴシャムで死ぬまで彼を支持していたもう一つの勢力があります。チチェスタ司教など5人の司教たちです。政治史家は司教を聖職者としてではなく、シモンのカリスマ性に魅かれた聖界領主としてしか認識せず、司牧の意味を全く考慮しない歴史像を描いて来ました。
これに対してリンカン司教グロステストは1253年に死んだ後も、その神学思想を引き継ぐ司教や学者が、神の計画に従って既存の国制の不備を改善すべきことを主張し続けていたことが、多くの研究者によって明らかにされつつあります。私の研究関心は、13世紀半ば、スコラ哲学が最高度の発展を遂げていた時期に、司教が国制にいかなる影響を与えていたのか、世俗大諸侯であるシモン・ド・モンフォールたちが、カトリック神学の国制観と、世俗の国制観を如何に調和させて位置づけていたのか、を解明することにあります。
この分野での朝治の最近の研究業績:(関西大学のホームページから「学術リポジトリ」にアクセスすると、私の業績をダウンロードできます。)
朝治啓三「リンカン司教グロステストの修道院巡察」『関西大学文學論集』74-4。2024.3.
朝治啓三「13世紀イングランドにおける司教による修道院巡察」『関西大学文學論集』72巻4号、2023.3、1-28頁
朝治啓三「司教の巡察をめぐるグロステストと聖堂参事会の論争」『関西大学文學論集』71-4、2022.3.
朝治啓三「1250年リヨンにおけるグロステストとイノセント4世」『関西大学文學論集』70-4,2021.3
朝治啓三「1253年グロステストのGravamina」『関西大學文學論集』69-4、2020.3
1265年シモンの議会への召集状
1264年と65年にシモン・ド・モンフォールが、国王ヘンリ3世の名前を付した召集状で、召集したパーラメントは、イングランド議会史上初めて州代表の騎士と、都市代表の市民とを、召集した議会として、我が国の世界史教科書にも記述されている重要な歴史的会議です。しかしこの説明は19世紀末のイングランド議会政治が有効に機能していた時代に、その状況を13世紀に反映させて、イングランド議会政治の伝統が長いものであることを誇示するために作り出された、仮説にすぎません。現在のイングランドで使用されている高校生向けの教科書で、この集会を庶民院の始まりと説明しているものはありませんし、そのように主張する専門研究者はいません。
欧米の研究者が最近焦点を当てている論点は、シモン・ド・モンフォールが国制改革運動への大諸侯の支持を失い、身分上は下位の州騎士や都市民の支持を得るために、彼らをパーラメントへ召集して、そこで決定された新制度を州や都市に持ち帰らせて広めさせたという、政治性があったか否かという点です。シモンを国制攪乱者とみなして、彼は改革よりもヘンリの王位を奪取しようとしたのだと決めつける研究者もいます。
個人的野心や統治者の一過性の政策間違いによって、歴史的事件を説明することは学問的手続きを欠いており、結論の正しさを保証できません。シモンが大諸侯の支持を失ったのに、多数の司教がシモンを支持したのは何故かも、これまでの研究者は説明できていません。ヘンリ3世が国制改革を拒んだ理由を歴史的文脈の中で説明し、シモンらが国制改革を志した必然性を史料に基づいて明らかにする必要があります。次の世紀のイングランドでは議会は国王役人を弾劾したり、国王を廃位するなど国制上の重要な制度になります。13世紀のパーラメントが14世紀議会となる必然性を解明するのは、研究する価値のあるテーマです。
この分野での朝治の最近の研究業績:(関西大学学術リポジトリからアクセスできます。)
朝治啓三「シモン・ド・モンフォール研究の現在」『関西大學文學論集』68-4、2019.3
朝治啓三「庶民院の創始?1265年シモン・ド・モンフォールの議会」『鷹陵史学』47号、2021年9月
Keizo Asaji, Embryo of the Commons? Simon de Montfort's Parliament in 1265, Spicilegium, vol.5, pp.1-15.
1254年ヘンリ2世時代のアンジュー家領
イングランド王国を一国史としてではなく、中世西欧に成立していた神聖ローマ帝国、フランス王国、アンジュ―帝国という3種類の帝国的権力構造の中で把握する史観。北フランスのアンジュ―伯家は12世紀ジョフロワの時代にフランス王家であるカペー家と、平和維持領域の版図をめぐって実力闘争を繰り返していた。カペー家のルイ7世が王妃エレアノールを離縁すると、ジョフロワは彼女を息子アンリの妻として迎えた。その結果南仏の広大なアキテーヌがアンジュー家領となった。アンリは母方の相続権によってイングランド王国を領有したが、滞英日数は限られ、西フランスのアンジュー家領を巡行した。その後のアンジュー家のイングランド王ジョンが1204年にノルマンディを失ってからは継続して滞英することになったが、失ったアンジュー家領の回復を目指す大陸出兵は、その息子ヘンリ3世時代にも4度実施された。
1250年フランス王ルイ9世が2月エジプトのマンスーラで敗れて捕虜となり4年間現地にとどまり、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が12月死んだとき、西欧の代表者としての役割がアンジュー家に齎される可能性が生じた。1254年ローマ教皇がヘンリにシシリーへの十字軍を呼びかけ、ヘンリの次男エドマンドにシシリー王位を提供すると提案したからである。ヘンリは教皇によってイングランドで聖職者に課税する許可を得、俗人への課税を提案する。1257年には王弟リチャードが空位期のドイツの王に選出される。西欧諸勢力の中心的存在としてのアンジュー家の意義が現実化し始めた。
しかしイングランド住民にとってはシシリー王位もドイツ王位も、自分たちの利害とは直接つながらない。アンジュー家がイングランドを自家の利害を追求するための領有地とみなして収奪することに、イングランド住民は王家のイングランド統治方針を被治者の意向に沿ったものへと改革することを志向するようになった。聖職者も何度も会議を開き十字軍課税に反対した。ヘンリが課税への同意を得るためにパーラメントを召集した時、7人の諸侯がヘンリに国制改革を要求した。
この分野での朝治の最近の研究業績:
朝治啓三 「バロンによる国制改革運動再考―アンジュ―帝国史の視点から」愛知大学人文科学研究所、2019年
朝治啓三「アンジュ―帝国」川北実編『イギリスの歴史を知るための50章』明石書店、2016年。
Keizo Asaji, The Angevin Empire and the Community of the Realm in England, Kansai University Press, 2010.
朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄編著『中世英仏関係史』創元社、2012年
独日臺西洋医学の系譜― 日本統治期台湾における西洋医学導入史における杜聡明の意義
第1次大戦以前ドイツで学位を取得した日本人医学者の学位論文から見た日本へのドイツ医学の導入
大阪府立図書館蔵住友文庫医学学位論文の索引作成
19世紀日本ベルギー関係の研究―久米邦武とアンリ・ピレンヌの筆禍事件
17世紀日英関係史の中のリターン号事件(1673年)の意義
シモン・ド・モンフォールの妻エレアノールの家計簿から見た伯夫人の家政機関
イーリ司教文書から見た聖界領荘園の会計文書
13世紀ケムブリッジシァのハンドレッド陪審から見た国王巡回裁判の意義
プラント・ハンター、ジョセフ・バンクスとイングランド重商主義政策
中世イングランド貴族社会における紋章Heraldryの意義
13世紀ウィルトシァの世俗領荘園の裁判文書と会計文書
13世紀ダラム司教の巡回裁判と領主共同体
刊行した書籍:上記したものの他に
朝治啓三『シモン・ド・モンフォールの乱』京都大学学術出版会、2003年
朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄編著『帝国で読み解く中世ヨーロッパ』ミネルヴァ書房、2017年
朝治啓三・服部良久・江川温編著『西欧中世史 下』ミネルヴァ書房、1995年
朝治啓三・田中きく代・中井義明・高橋秀寿編著『境界域から見る西洋世界』ミネルヴァ書房、2012年
朝治啓三編『西洋の歴史基本用語集』ミネルヴァ書房、2008年
そのほか『歴史学事典』弘文堂、『世界史辞典』角川書店、『紋章学事典』創元社などの項目執筆。
1265年シモン・ド・モンフォールの議会、これについては鷹陵史学会で講演。
マグナ・カルタの歴史的意義
シモン・ド・モンフォールの議会の歴史的意義
エドワード1世時代国制史
4.科学研究費による研究(ごく最近のもののみ記載)
18K01053 基盤研究(C) 司教と王国
21K00931 基盤研究(C)司教の司牧と管区行政