仙台湾貝塚の基礎的研究





ー後藤勝彦の考古学ー



  2011年10月31日  桂島貝塚から

ホームページ開設にあたって

このたび、父の遺稿に関するホームページを開設する運びとなりました。

父の残した膨大な文書や資料を整理するにあたり、まだ、世に発表されていない論文があるとのこと。考古学門外漢の私たち家族にとっては、その論文の価値がわからず、果たしてどれ程お役立てできるものか想像もつきません。ましてや、父存命であれば、何とするものでしょうか。

一途な父でした。それが故に、何かと皆さんにご迷惑をかけたのではないかと気にしております。しかし、私たち家族にとっては頼りがいある父でありました。仕事場で、パソコンに没頭する姿は目に焼き付いています。文書の保存がうまくいかず、数十ページにも及ぶ文書をパーにしても、笑って、また打ち込めばいいさと、楽しそうにしていた最晩年でした。

「パソコンに遊ばれている」父が打ち込んだ最後の論文。専門家の方々には、種々ご意見あるかと思いますが、何卒ご笑読いただければと、あちらの世にいる父に代わりましてお願い申し上げます。

令和元年吉日

                                                                                                                                                                                                                                    後藤勝彦長男           後藤浩一 

管理人からのごあいさつ

平成28年(2016)11月27日に享年88歳で亡くなった後藤勝彦先生の考古学を紹介するHPです。

先生は仙台湾における貝塚研究、特に宮戸島の貝塚調査において「宮戸島編年」と呼ばれる縄文時代後期土器編年に大きな業績を残されました。

平成2年(1990)に宮城県仙台西高等学校長で退職される折に、これまで出された論文をまとめた『仙台湾貝塚の基礎的研究』を出版されました。さらに平成25年(2013)には『仙台湾沿岸貝塚の基礎的研究』Ⅱを上梓され、この年の8月11日には盛大な出版祝賀会が催されました。全5冊のシリーズは平成26年(2014)に完結しました。

平成27年(2015)にはこのシリーズをたよりに、横浜市歴史博物館から資料借用のリクエストが入り、東北で最もよく層位と型式変遷を示す資料として、平成28年(2016)の1月から3月まで開催された『称名寺貝塚-土器とイルカと縄文人』展に、先生が調査された南境貝塚の銛頭と釣針が出陳されました。こうして南境貝塚の研究成果も、日の目を見、先生もとても喜んでおられました。

ただ、先生の構想は、これで終わるものではありませんでした。その後も、純粋に層位の順番だけを頼りに、資料をもう一度見直したい、こうした思いを抱いておられ、平成27年・28年と出された『宮城史学』からの論文は、まさにこの層位と土器型式の問題を真正面から扱ったものとなっています。先生はすでに、六反田や下ノ内、下ノ内浦、伊古田遺跡の地区・層位別の資料化も着手しておられ、南境貝塚に留まらず、縄文時代後期全体の土器編年の見直しをしたいというのが本当のお考えでした。

 夏前に一度、入院されて、戻ってこられてからは、こうした思いも半ばあきらめられたご様子で、もう一度南境の土器を見たいといったものに変わっていました。南境の土器は、松島町から旧歴史資料館の浮島収蔵庫に納められ、もとの副館長室にきれいに収蔵されています、骨角器や線刻礫は本館の金庫扉の収蔵庫に大切に保管されていますという話をし、ただこの暑さでは浮島収蔵庫の資料見学はたいへんなので、先生、もう少し涼しくなってからにしませんかという話をしております。

 11月の初めにお電話を頂いたときは、もっと切迫したご様子で、版下だのいらないものはなげようと思っているのだが、一度相談に乗ってくれないかというものでした。蔵書などはほとんど寄贈され、あまり残ってはいませんでしたが、最後まで手元に残しておかれた座右の書や捨てるには忍びないような本ばかりが残っていました。

その時は、来月の宮城県考古学会で机を出してもらって、ほしい人にもらってもらいましょう、若い人たちで持っていない人たちがいるのでぜひもらってもらいましょう、と話をすると、俺も行って手渡して握手をしたい、そんなことをおっしゃっておられました。あと、当時の現場の写真や実測図、調査日誌はとても大切なので、これはその市町村で保管してもらうのが一番良いですよと話をしています。

最後に、先生、今ならば、気候も涼しくなったし、浮島の南境資料を見るのは一番良いですよ、これ以上寒くなってしまうと、来年の春までは見るのは無理ですよと、お勧めはしたものの、すっかりあきらめたご様子で、もういいからというばかりでした。

……そして、11月27日、先生は静かに去って行かれました。


それから、3年近くの歳月が流れ、いよいよ最後の最後まで手元に残っていた遺品の整理をすることとなり、手渡し損なった論集は岩手県沿海部の博物館や図書館、教育委員会に寄贈することにし、形見分けの旅に出ました。

先生愛用のパソコンには55万文字を越える未完の論考が残されていました。「宮戸型式についてと、その後の進展について  陸前地方の縄文文化中期末から後期・晩期の編年学的研究」と題され、26章に及ぶ研究史と4章からなる南境貝塚に関する検討でした。 筆は平成28年(2016)2月23日の1回目の入院の前で止まっていました。

未完とは言え、重要な論考を含んでおり、ホームページにおいて公開に踏み切ることとしました。

このホームページの管理人は相原淳一が務めております。ご連絡はメール(siogama7㋐gmail.com     ㋐を@にしてください)でお願いします。


令和元年(2019)11月27日  

                       


                                                                                                                                                                                                                                                                              管理人     相原淳一 

                                                          (最終更新  2024.2.6

お し ら せ

『宮城考古学』第24号(宮城県考古学会:2022年5月13日)が刊行されました。

後藤勝彦先生が最晩年に取り組まれた三十稲場式に関する特集が掲載されています

亡くなられて4年越しとはなりましたが、ようやく刊行に至り、

5月15日にご仏前に報告に行ってまいりました。

特集にご参集いただいた7名の皆様に深く御礼申し上げます。


著作

1929年5月28日生まれ、宮城県(旧制)白石中学校卒業。東北大学教育学部学校教育学科卒業。

アルバム

桂島貝塚の遺物整理

桂島貝塚の調査は昭和38年(1963)年に浦戸第二小学校の新築移転に伴い、塩竈市教育委員会を調査主体として、事前の緊急調査として実施された。第1次調査が同年10月19・20日、26・27日の4日間、第2次調査が11月18~20日の3日間であった。調査員は加藤孝宮城学院女子大学助教授、後藤勝彦、今泉武男、佐藤達夫、槇 要照の5名である。

発掘調査当時から、「大木8b式」か、それとも「大木9式」なのか、「山内清男大木囲貝塚出土編年基準資料写真」にはない土器群として、学界からも広く注目されていた。後藤は昭和38年4月に塩釜市立塩釜女子高校に赴任したばかりで、塩釜女子高校史編纂の特命で担任・部活顧問からは外れ、校務分掌は校史編纂を担当した。そこに、市立浦戸二小の発掘調査が舞い込んできた。後藤は「多少遺物整理が出来たが、編纂事業で体調を崩し、入退院を繰り返す」こととなり、遺物整理は暗礁に乗り上げ、発掘調査報告書は未刊のままとなった。

桂島貝塚の整理作業にようやく着手できたのは、後藤が定年退職を迎えた平成2年(1990)からのことである。本格的な整理作業は平成18年(2006)6月から、塩竈市公民館地下のボイラー室に遺物を広げ、土器の接合、実測、採拓、ワープロ原稿の作成を進めた。「この1年有余の公民館地下室での整理で突然脳血栓となり、整理の中断もある。今も多少後遺症もある。今後は健康に留意し、残された遺物の整理を成し遂げ、満願の日をむかえたい。」(後藤勝彦2010『桂島貝塚』塩竈市文化財調査報告書第8集)

        

中尊寺弁慶堂にて         1949(昭和24)年

        

台囲貝塚の発掘調査     平重道先生(右下)・加藤孝先生(後列中央)とともに         1956(昭和31)年7月

        

台囲貝塚の発掘調査     後藤(中段右から二人目)         1956(昭和31)年7月

        

松島町貝殻塚貝塚の発掘調査             1973(昭和48)年7月

        

塩竈市情報・交流コーナー 「マリンプラザ」にて記念講演          2010(平成22)年11月3日(文化の日)

『宮城県塩竈市桂島貝塚発掘調査報告』(塩竈市文化財調査報告書第8集:2010年3月)の刊行を記念して

       

後藤勝彦先生を囲む会          2013(平成25)年8月11日

『仙台湾沿岸貝塚の基礎的研究Ⅱ -南境貝塚-』(2013年1月)の出版を祝して

       

『宮戸型式についてと、その後の進展について

陸前地方の縄文文化中期末から後期・晩期の編年学的研究 』(2016)

 

                                                                                                                                                                                            後     藤          勝     彦

 

筆者の考古学研究の始まりは宮戸島里浜貝塚の昭和26年から始まり、約10年間の調査体験が基本である。里浜寺下地区、袖窪地区、梨の木地区、畑中地区、特に,台囲地区がその中心である。その当時陸前地方には後期縄文文化の柱となる後期縄文時代の型式編年の設定がなく、関東編年型式による時期の決定しかなった状態であった。最初の遺物整理が昭和27年台囲貝塚の整理で後期末から晩期前葉の遺物の整理であった。その処女報告が次の表題である。

目              次

第1章1956(昭和31年)「宮城県宮戸島里浜台囲貝塚の研究 」『 宮城県の地理と歴史』 1集

第2章1957(昭和32年)「 陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器編年について」『塩竈市教委教育論文』第2集

第3章  1960(昭和35年)「宮城県名取市高館金剛寺貝塚―陸前地方後期縄文式文化の編年的研究-」 『  宮城県の地理と歴史』第2集

第4章  1962(昭和37年)陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土―陸前地方後期縄文文化の編年学的研究― 『  考古学雑誌』第48巻第1号

第5章  1968(昭和43年)芳賀良光「 宮城県宮戸島貝塚梨木囲遺跡の研究 」『仙台湾周辺の考古学的研究』宮城県の地理と歴史第3集

第6章 1970(昭和44年)「宮城県七ヶ浜町吉田浜二月田貝塚発掘調査報告 」  宮城県塩釜女子高社会部『 貝輪』6号

第7章 1972(昭和47年)「二月田貝塚第二次調査」   宮城県塩釜女子高社会部『 貝輪』7号

第8章 1971(昭和46年) 後藤勝彦・丹治英一・槇要照「宮城県七ヶ浜町沢上貝塚の調査 」『 仙台湾』創刊号 

第9章  1980(昭和55年)小井川和夫「 宮戸島台囲貝塚出土の縄文後期末晩期初頭の土器」『宮城史学』7号 

第10章  1968(昭和43年)齋藤良治「 陸前地方縄文文化後期後半の編年についてー宮戸台囲貝塚及び西の浜貝塚出土の土器を中心として―」『仙台湾周辺の考古学的研究』宮城県の地理と歴史第3集

第11章 1968(昭和43年) 槇 要照陸前宮戸島に於ける縄文後期末の遺物の研究」仙台湾周辺の考古学的研究』宮城県の地理と歴史第3集

 第12章 1988(昭和63年 )高柳圭一「宮城県金剛寺貝塚の再検討村上徹君追悼論文集

第13章 1995 (平成7年) 須藤隆 『縄文時代晩期貝塚の研究2 中沢目貝塚Ⅱ』東北大学文学部考古学研究会

第14章 2002(平成14年)関根達人「 沢上貝塚出土晩期縄文土器の再検討」『宮城考古学』 第4号

第15章 2004(平成15年)後藤勝彦・小井川和夫『富崎貝塚-北上川中流域の淡水産貝塚の研究―』石越町文化財調査報告書第1集

第16集 1993(平成5年)関根達人 「「西ノ浜式」とその周辺」 『歴史』第81輯 東北史学会

 第17章  1974(昭和49年)「縄文後期宮戸Ⅰb式周辺の吟味―南境貝塚出土の土器をもととしてー」『東北の考古・歴史論集』平重道先生還暦記念論文集

第18章 2004 (平成16年)小井川和夫 「里浜貝塚風越地点出土土器の検討」『 東北歴史博物館研究紀要 』5 東北歴史博物館

第19章 2004(平成16年)後藤勝彦 「南境貝塚調査の層位的成果Ⅰ―7トレンチの場合― 陸前地方縄文中期から後期の編年学的研究―」『宮城考古学』6 宮城県考古学会

第20章  2005(平成17年)後藤勝彦 「南境貝塚調査の層位的成果Ⅱ―8トレンチの場合―陸前地方縄文時代中期から後期の編年学的研究―」『宮城史学』24 宮城歴史教育研究会

 第21章  2008(平成20年)後藤勝彦『 宮城県松島町西の浜貝塚調査報告(昭和41年度)―陸前地方縄文文化の編年学研究』松島町文化財調査報告書第1集

第22章 1986(昭和61年)藤沼邦彦ほか『 田柄貝塚 Ⅰ 遺構・土器編』宮城県文化財調査報告書第111集

第23章 2008(平成20年) 小林圭一 「縄文時代晩期初頭に関する一断想-山形県高瀬山遺跡出土土器の検討を通してー 」『先史考古学研究』第11号 阿佐ヶ谷先史学研究会

第24章 2014(平成25年)後藤勝彦 「南境貝塚調査の層位的成果Ⅲ―5・6トレンチの場合―陸前地方縄文時代中期から後期の編年学的研究」『宮城史学』33 宮城歴史教育研究会

第25章 2015(平成26年)後藤勝彦 「南境貝塚調査の層位的成果Ⅲ―5・6トレンチ場合 (再提示): 陸前地方縄文時代中期から後期の編年学的研究」『宮城史学』34 宮城歴史教育研究会

第26章  2010(平成22年)小林圭一『 学位論文 亀ケ岡式土器成立期の研究―東北地方における縄文時代晩期前葉の土器型式』早稲田大学 総合研究機構 先史考古学研究所

Ⅰ 南境貝塚7トレ編年関係の整理

Ⅱ 南境貝塚8トレンチ編年関係の整理

Ⅲ 南境貝塚5・6トレの編年の整理

Ⅳ 南境貝塚5・6トレの再提示の編年整理

第1章   1956(昭和31年)「宮城県宮戸島里浜台囲貝塚の研究 」

                                                                                                                                                                                                                      『 宮城県の地理と歴史』 1集

 

1    はじめに

台囲貝塚は斎藤忠氏「松島湾岸諸島の貝塚調査概報(1)」に報告され、新しくは、加藤孝氏によって報告されている(2)。しかし、この他、齋藤報恩会や多くの先学によって調査されている。特に、当貝塚直接の報告でないが、連接する里浜貝塚は、大正八年松本彦七郎博士によって、「宮戸島里浜及び気仙郡獺沢介塚の土器」(3)として発表されており、古くから宮戸人骨の出土の貝塚として全国に名高いものである。この調査は研究室学生の後藤・齋藤良治が宮戸型式の編年の設定は昭和26年11月の宮戸里浜貝塚調査から始まる。東北大学教育教養部歴史研究室平重道教授の塩竈市史編さん用務のため、松島湾貝塚含めて調査が必要なため当貝塚を訪れて小発掘がなされた(注1)。

その後研究室学生の考古学実習の巡検がなされて、収集遺物に弥生式土器の破片の混入、しかも後期の遺物が含んでいることで、昭和27年からの調査は塩竈市史編纂委員会の貝塚調査として、市史編纂委員長古田良一博士の指導、直接に宮城学院大学加藤孝氏の指導で宮戸島台囲(風越)貝塚の調査が実施される。陸前地方の後期縄文土器の編年の確定がなく、その編年の手掛かりを得たい望みがあったことから計画がされ、台囲貝塚を中心に畑中囲・梨木囲・袖窪囲・里浜寺下囲地区と約10年間継続されるのである。

宮戸型式は昭和27年の3次わたる調査遺物を中心に設定されることになる。

 (1)    斎藤 忠「松島湾内諸島に於ける貝塚調査概報」『東北文化研究』二の四(昭和5年)

(2)    加藤 孝「阿武隈北上両河岸段丘上並に松島湾岸諸島に於ける貝塚の分布とその編年」『宮城学院研究論文集』Ⅱ(昭和27年)

(3)    松本彦七郎「宮戸島里浜及気仙郡獺沢介塚の土器」『現代之科学』七の五・六(大正8年)

(注1)  齋藤良治氏 寺下囲小発掘の報文がある。『地域社会研究』を参照。

 

2 貝塚の位置

台囲貝塚は桃生郡鳴瀬町(1)里浜字風越九番地~台囲にわたる。宮戸島は松島湾に散在する島嶼中最大のもので、松島湾東部に存在し、台囲貝塚は桃生郡鳴瀬町(現東松島市)。今は航路廃止でなくなったが、塩竈から市定期船で約2時間、桂島、野々島、寒風沢,朴島を経て、宮戸島里浜に到着する航路があった。里浜の船着場の眼前の台地が有名な里浜貝塚である。里浜部落を南東から北西に延びる標高20mの凝灰岩台地があって、船着場よりこの台地を横断し南西斜面にでる。この辺も貝塚で貝が露出している。約500mで前述の丘陵より分枝した標高約50mの丘陵が西北に延び、里浦に突出している。また、この丘陵から南西に分かれる丘陵枝がある。貝塚はこの西北に延びる丘陵と、南西に分かれる分枝丘陵の鞍部から、西北に延びる丘陵の西南斜面に発達している。また、北東斜面にも貝塚がある。 貝塚付近は階段状に3段に分かれ、現在畑地になっているが、貝殻は南北に約30m、東西に約100mの範囲に散布しており、特に、中段と下段に貝殻散布の密度が大である。ちょうど里浜貝塚の裏側になる。

(1)    宮戸村は町村合併によって、野蒜村と合併し、鳴瀬町となった。

 

3 調査の経過

昭和27年の調査は天候と他の地域の調査の関係で3回にわたって調査した。

第1次調査 7月27日~31日   5日間、

       第2次調査 8月3日~5日       3日間 

第3次調査 8月18日~22日 5日間      総13日間

 

4 出土遺物

南西斜面の中段に幅南北2m東西4mのトレンチを設定して調査した。結果、表土より凝灰岩基盤まで、トレンチ東隅で2m80㎝、西隅で2m40㎝であり、貝層3層を確認し、この間混貝層、混土貝層が連続し,明瞭に各貝層間には、堆積の時間的差を確認した。

出土遺物は土器が中心である。完形土器 4点、破片土器総点数 14,373点 うち口縁部破片点数 1,471点 底部破片点数 489点 体部破片点数 12,413点であり、この出土土器を整理して次の3つに分類することが出来た。

  A   表土から第1混土層にかけての土器=第1層土器

  B   第1混土層下の第2貝層から第2混土層にかけての土器=第2層土器

  C  その下層の第3貝層からその下の土層にかけての土器=第3層土器

 

第1層土器には各種の施文土器がある。 

1  瘤状小突起を有する土器 大部分は縄文の結束せる部分に小突起を有するもので(図4-1~4、7,26)、中には縄文入組の結合せるところに突起を有するものがあり(図4-1・2)又縄文帯のなかに独立して大形の突起を有するもの(図4-24・25)、条線の中に突起のあるもの(図4-6)、縄文帯の中に帯状に小瘤状突起のめぐらされたものもある(図4-6・7)、この中、口縁部に帯状の突起を持つものもあり(図4-5・8~14)、しかも、この帯状の突起がヨコに数ヶに分かれているものもある(図4-5)

2  入組文を有する土器,この系統に属するものは、大部分が結合の場所に突起を持つが、中には入組が施文されたものもあるが(図4-15、22)、これにしても口縁部に帯状に瘤状小突起を有している。これらは殆ど施文が口縁部から頚部に又は体部の一部にかけてあり、器形も前述した種類のものと同じく深鉢形が多い。

3  列点刺突文を有する土器、これだけの装飾が施されている土器は少ないが、口縁部に沈線で区画された帯状の列点刺突文がある(図4-1・16~18)。この中に帯状に数本が装飾帯をなすものもある(図4-18)。

4  刷毛目文を有する土器、この種の土器は、施文方式が一定しておらず、不規則で、流水文・格子状文・波状文など多種多様であり、この種の土器は,口縁部上端が研磨され、施文帯がその下部から底部近くまで全面に施されている。器形も口縁直立の平縁多く、深鉢形で土質も精選されておらず、どちらかというと粗製であり、焼成にしまりがない。器厚は7~8㎜くらいである。

5  縄文施文土器、大部分は羽状縄文施文土器で単節である。単節の斜行縄文にしても(1)、横位で右撚り、左撚りでその比は同数でどちらも絶対的でない。平底で口縁部直立の深鉢形乃至浅鉢で器厚は6~12㎜である。

6  無文土器、この系統の土器は、大別して極めて粗製の一群で輪積の痕跡を持ち深鉢形が多いものと、光沢のある精製の一群と2分される。大部分は深鉢形である。


第2層土器にも各種の施文がある。

1  刺突列点文を有する土器、第1層の列点刺突文と施文手法が異なる。施文帯が区画され、口縁部上端と頚部のくびれに施されるのが特徴である。その列点刺突が単列(図5-1・3・4・6・7・10・11・13・16)と複列(図5-2・5・8・32)がある。単列でも八の字形に施されたものもあり(図5-1・7)、口縁部大波状を呈するものである(図5-1・2・3・32)。これは、大波状は奇数で口縁部横断面が五花形をなすものである。この中に口縁部と頚部の間が無文で研磨されているものと(図5-1・2.・4~8)、縄文の施されたものとがある(図5-3・32)。これらの外に、口縁が平縁をなすものもある(図5-10~14・16)、これらは例外なく口縁部内側が肥大しているのが特徴である。器形は口縁が開き、やや内反りした頚部でしまった鉢形か浅鉢である。

2  S字状施文土器、この種の施文は前述土器群にも見られ、しまった頚部の下部に斜行縄文を地文とした上に、数条の沈線を施し、その沈線間にS字状の文様がある(図5-1)。また平縁で口縁部が研磨されて区別され、頚部に縄文を地文とした上に同じように数条の沈線を巡らしその沈線間にS字状の文様の施されたものである(図5-27・28・30)。

器形も類推の域を脱しないが、口縁が開いた、胴張の深鉢形が多いようであり、平底である。

3  縄文帯施文土器、縄文を地文とし、この上に浅い線刻を施し、この間を磨消したもので、口縁部縄文と口縁部研磨と区別され、文様として一条の縄文帯を巡らし,これを基にして、下部に不規則な縄文帯を施したものと(図5-17~21)、口縁部から数条の平行の縄文帯を施したものとがある(図5-22~25)。前者は口縁部が緩やかな波状で、外反した甕形か壷形であり、後者は平縁が大部分で、口縁部が直立したものが多く、鉢形か壷形である。

4  刷毛目文を有する土器、第1層土器にも存在。大部分が平縁で、土器面の凹凸を刷毛目状のもので補正し、平滑にしたもので、第1層土器と同じように流れ・格子状と不規則で多種である。(図5,35)

5  縄文施文土器、縄文だけ施文された土器片が、破片の大部分をしめている。この層には、特に羽状縄文土器が少ない傾向があり、同時に縦位に横位の縄文を施して文様化した羽状縄文(図5-32・34)が見られることである。横位の単節斜行縄文にしても右撚り・左撚りと存在し、どちらも絶対的でない。器形は底部が口縁部直径の比に対し、やや小さめの深鉢形が一般的である。 

6  無文土器、第1層土器とかわっていないが、特に精製された物が多く、口の開いた大波状、山形突起のある深鉢形も多く目立っている。

第3層土器 

1  渦巻文系土器、口縁部は直立乃至やや外反で、緩やかな小波状か平縁であり、小波状突起下部に渦巻きのあるもの(図6-1・8)、平縁でも口縁部研磨され、口縁部から線刻の渦巻(図6-7)、一条乃至数条の沈線で区画し、その沈線下に線刻の渦巻のあるものがある(図6―3・4・6)。渦巻の退化した形として凹部となっているも(図6、9)、突起(図6、16)、粘土紐状の円(図6、23)、線刻の円文もある(図6、15・17)。これらは、この渦巻あるいは突起から頚部にかけて、直線の線刻がなされており、ここから文様が展開される。この種は細い撚りの縄文原体を縦位に回転された縄文を地文としている。これは深鉢形で図6拓影15の様に,頚部が締まったもので、平底、器厚も6㎜から12㎜位までである。

2   隆線・刻線・列点文施文土器、これらは同一系の土器であるが、施文文様によって隆線・刻線・列点と分類される。これによって口縁部と頚部が区画される。その上、隆線・刻線・列点で区画された上部、口縁部まで研磨されているのが共通した特徴である。刻線が巡らされているものは、口縁部下に刻線だけで、その下に粗い撚りの縄文が施文されたもの(図6、11~13)、刻線が巡らされ、その下部に撚りの細い縄文を施文とした上に二重連弧文、直線などが施文されたものとがある(図6、16~21)。隆線は刻線と同じ口縁部にめぐらして区画し、下部に縄文の施文土器(図6、22~25)で中には口縁部と頚部に方形区画した隆線から、胴部にかけて施されたものがあり(図6-24)、中期の土器を思わせる。 列点施文は前述土器と同じく区画され、下部縄文が施文されている(図6、26~31)。また、波状口縁がありこの波状部に縦に列点が施される(図6、26~28)。これは波状杷手の退化であり、列点も、渦巻きも突起の退化形式である。この列点文の中に隆線に列点が併用されているものもある(図6、31)。これらは、口縁部がやや薄くなっている。これらは大部分が口縁部直立の深鉢であるが、円筒形の深鉢も目立って見られ、平底で口縁部直径の割合に底部が大きいものがある。焼成もあまりよくない。磨消手法も粗雑なものが多い。

3  縄文施文土器、全面縄文施文されたもので、単節斜行縄文が絶対的であり、右撚り・左撚りが存在する。口縁部に直角に施文されるものが多く(図6、32)、縦位である。深鉢で口縁部に小突起を有するものもある。平底で器厚も6㎜から9㎜位までである。

4  無文土器 ほとんど粗製で器面が粗雑であり、口縁部上端が薄くなっており、深鉢が多く,焼成もしまりがなくもろい。以上で出土土器各層の説明が終わる。

 

5  出土遺物の考察

土器を整理して、第1層土器・第2層土器および第3層土器に分類したが、各層の土器は、層位的に同位でなく、それぞれ異なった貝層及び下部土層より出土せるもので、各層間にかなりの時間的差異があったと考えられる。

第1層土器は瘤状小突起を有するもの、入組文・列点刺突文・刷毛目文を有するものと細別されたが、これらも同層位中より出土するもので、時間的な差がなく、同時期のものとおもわれる。

第2層土器についても同じことがいわれる。刺突列点刺文・S字状・刷毛目文を有するものは第2貝層及び第2混土層から出土しており、刺突列点およびS字状文様は同一個体に施文されたものが多いことを見ても、同層位と認められるのである。但し、第2層土器には、縄文帯を施文した土器群が存在している。これは以上あげた土器より古い型式のものとされているが、残念ながら今回は層位的に解明することができなかった。

第3層土器は渦巻文・隆線・刻線・列点文とそれぞれ特色があげられるが、同層位のものであり、同時期と考えられる。

以上、出土遺物で説明してあるが、形態、諸部の装飾や文様帯,器面精斉の縄文・器質などをそれぞれの特色を考えると、関東地方の後期の諸型式に相当する。第1層土器は安行Ⅰ式に,第2層土器は加曾利BⅠ・Ⅱ式に、第3層土器は堀之内式に相当するものと考えられるのである。これらの編年上の問題を側面から確実なものにするもの、時期によって形態変化のある骨角器、特に、銛について考察すると、第1形式、固定化―鈎が左右に数個付いたもの、及び単に尖頭のもの―と細別され、第2形式、ハナレ式―燕尾形のもの、上下に鈎がついた鳥の飛行形もの―と2形式存在する。第1形式は第1層土器及び第2層土器に伴出している。第2形式は第1層土器と第2層土器で伴出するものに差異がある。燕尾形は第1層土器と伴出し、次期晩期の燕尾形のハナレ式銛への前段階を思わしめる。 飛行形は第2層土器が伴出しており、編年上のポイントをなすものと思われる。石器についても各種の石器が出土しているが、特に第3層土器と伴出した玦状耳飾がある。この時期のものとして珍しいものである。自然遺物についても、松島湾岸出土のものと大差なく、非常に豊富で、魚類はタイ・スズキが大部分を占めており、獣類にしてもイノシシ・シカが圧倒的に多く、貝類も大体変化は認められない。しかし、ホタテカイ・カキの真中に小穴のあるもの、アカニシ頭部の砕かれたものなどあり、食べ方の一例であると思われ、注意すべきことだと考えられる。

6  結語

(1)この調査によって今まで不確定であった、陸前地方縄文式文化後期の編年に手掛かりを得た。

(2)骨角器の一部である銛の形態が土器型式の変化と同調して変化を見せ、編年学上の一ポイントを形成すること

(3)先史時代の漁撈・採集の問題及び食生活の問題が解明されることである。

この文献は考古学を主題とした最初の文献である。層位を主とした最初である、しかし第1層土器の無文土器の粗製土器群に剥離痕、輪積の痕跡のある土器群は製塩土器の仲間と考えられる土器を見落とし、その性格をなおざりにしている。列点刺突文の内容が甘い、箆刻目文があるようだ。また、第3層土器は貝層と土層の遺物を区別していない。土層は古い土器の堆積が多い。中期の土器を思わせると記している。拓図にボタン状突起を配置した袖窪式の混在もある。これが基本に宮戸Ⅰa・Ⅰb式論が展開される。この論文付図の拓本図は不鮮明である。奥松島縄文村歴史資料館に保管した宮戸遺物は野蒜小に保管され、津波被害を受け、再度、対比、比較検討は不可能である。 

第2章  1957(昭和32年)「 陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器編年について」

                                                                                                                                                                                                                          『塩竈市教委教育論文』第2集

基本的に1956(昭和31年)の報文の資料を基礎として、層位的に3層の分類、その後の整理によって層位的に型式的に細分され、陸前地方後期縄文土器の編年試みた報告である。

 1 緒言        略 

2 出土土器の特徴とその考察

整理の結果層位的に三つに分類された。今回下層の第3層土器から説明する。

A 第3層土器 この種の土器は関東後期の堀之内式に併行するもので、施文文様によって4種に分類し1型式と考えたが、その後2つに細別されると考えられるようになった。

1類  隆線・稜線文土器(図1,2) 縄文中期大木10式に盛行する鰭状の隆線施文の痕跡が口縁部装飾帯として残り、この口縁部装飾帯部が一条乃至数条の隆線(稜線)で区画される。その上、中期末の磨消縄文が縦位に展開するが、この土器群では、口縁部の隆線を基本として、体部文様の隆線が4本乃至6本、縦位に施文され、同じく体部下に1条の隆線が巡らされて縦位の隆線の連結し、底部と体部と区切って方形区画になる。この隆線の両側に粗い磨消が施されているものと、隆線に併行しての刺突文・刻目を施文するものがある。縄文は一般に撚りの細く粗い。縄文原体はコイル状に巻付け、縦位に回転施文されているのが特徴である。縦位の縄文は、この第3層土器で消滅し、撚糸文が盛行する。器形は円筒状の深鉢乃至口縁内反の甕形が一般的である。

2類  渦巻線刻施文土器(図4) 線刻渦巻文、連弧文、二重連弧文・その他、幾何学的文様が施文されたもので、特に渦巻文が特異の存在である。この種土器は殆どといってよいくらい口縁部が研磨され、またこの渦巻文を中心に文様が展開される。その場合、渦巻は対称的であり、かつ、口縁部に1条乃至数条の沈線文が集約施文されて文様帯を区画する。 

器形は口縁部小波状・大波状あり、中期大木9・10式、関東の堀之内旧式に見られ把手の退化した小波状を有するもの、平縁のものもある。口縁部直立の円筒状深鉢、口縁内反、頚部の締まった甕形が多い。

1類・2類の土器に伴う粗製土器は、単斜行縄文の縦位に施文された深鉢及び、口縁外反で同じく単斜行縄文施文されて、頚部に帯状の研磨帯を有するものが存する。

 

B  第2層土器 関東の加曾利B式の諸型式に当たることを言及し、施文文様によって6種に分類し、当時の段階で1型式と考えたが、これも2型式に細分される。 

1類  帯状の磨消縄文・平行沈線施文土器(図5~10)

この時期の土器は、磨消手法が進み磨消縄文が多用されてくる。まず、器形は分化してくるが、深鉢型が一般的であり、口縁部直径に比して底部直径が小さくなり、しぼまってくる。磨消縄文が口頚部に巡らされるか、数条の平行沈線が巡らされ、その間にS字沈線を配されたもの(図6)、沈線の鰭状の文様で連結されたものがある(図5)。この型式は古くから古式ものとされており、前型式からの発展と考えられる。円筒形の深鉢が多いこと、前型式で頚部に数条沈線が施文されたが、この型式はそれらを受継いだと考えられるのである。

2類  刻目施文土器(図11、12)

刻目によって施文帯が明瞭に区分される。口縁端と頚部に帯状に施文され、全体の文様は刻目文と磨消縄文によって構成される。口縁は大波状を呈し、例外なく口縁部内側が肥厚しているのが特徴である。口縁は石榴の花の様に開き、やや内そりし、頚部で締まった深鉢形乃至は浅鉢形で、口縁部横断面が五花形を呈するのも大いなる特徴である。

 

C 第1層土器 この層位の土器は、関東での安行Ⅰ式に比定された。

1類  瘤状小突起施文土器

縄文帯の結束する部分、入組文の結合する部分に小突起を有する。特に、口縁部及び頚部に、瘤状小突起帯を巡らして装飾帯を区画している。その他、結縄文・帯縄文が施文され、又、瘤にも紐状の縦長のものがあり、ときに刻目がなされるものがある。全体として前型式の2類の器形に似て、口縁の開いた頚部のやや締まった胴膨れの深鉢形であるが、皿形・台付形など種々変化し、形式の分化がある。特に、入組文、刺突文、刻目の土器の存在がある。2類である。

各層間の土器は関東地方後期縄文文化の諸型式に比定されることは以前論及した。整理の結果として各層間の土器が細分されたが、編年学的序列について考察する。


編年序列の考察 

第3層土器の第1類は、鰭状の隆線文様等が多く使用されていることから、中期大木10式と近似の関係にあるが、しかし、大木10式から考えると施文方法が幼稚で雄健さがなく形式化され、したがって、大木10式の次に配列され、換言すれば、中期の様式を強く引き受けたもので、当貝塚としては古式に属するものである。

第2類は、第1類と施文方式の同系統に属するものがあるが、殆ど沈線乃至刺突列点で施文され、他に鰭状の文様から退化したと考えられ、沈線渦巻文と幾何学的文様から見て、型式的発展系列は、第1類から第2類へ進んで行くものだろうと考えられる。

この時期の土器を出土する遺跡を県内に求めるならば、志田郡鹿島台町石竹にある石竹貝塚である。この土器と比較してみると若干の違いが見られるが、しかし、隆線施文、及び把手状の鰭状の装飾、把手の退化と見られる波状突起などから、線刻渦巻文へと移行するように思われる。

また、関東地方の堀之内式の主文様は、渦巻文および鰭状の文様などあり、陸前とそうへだたりはなく、渦巻文は全国的に盛行したと考えられている一地方であったと思われる。

第2層土器第1類は、主として縄文帯及び平行沈線のその間にS字の配されたものを、指すが、文様帯は口縁部に寄った部分に施文される。この型式は、一見前述土器型式と関係がないようだが、第3層土器の第1類に盛んだった、鰭状文様の退化としてS字が考えられ、又、第2類の口縁部に沈線が数条集約されたのが、この期の平行沈線へと受け継がれ、また、中空の把手がみられることからして、 前述の次に配置されるものと考えられる。しかし、問題は桃生郡前谷地村の宝ヶ峯貝塚出土土器と当貝塚出土の土器にも僅かながら見られたのであるが、体部には平行沈線が施文されてS字を配し、一方、口縁端及び頚部に刻目があって、口縁部内側の肥厚した土器群がある。要するに、型式的に第1類と第2類の両方の特質をもつものである。そこで、移行型式としてこれを一型式と見るかどうかの問題だが、資料も少ないことだし、今回は第1類に一括包含して考えたい。 

第2類は平行沈線だけの施文が少なくなり、主として刻目と磨消縄文によって文様が構成される。この型式は関東では少なく福島・山形県の土器に近似し識別できないほど近似している。第2類土器は器形、文様などから考えて茨城県立木出土の土器に近似し、併行関係にあると考えられる。従って、第2層土器は層位的に第3層土器と区別され、型式的に二つに細分されると考えられるのである。

第1層土器は、瘤状突起の施文が一般的で、関東と同じ推移をたどる。特徴としては、瘤状小突起が帯状にめぐらされること、前述第2類の大波状口縁及び小突起があるが、その上、瘤状小突起が口縁に縦長の瘤として施文される。(又、入組文、刺突文、刻目文の土器がある。)これらは、名取郡高館金剛寺の金剛寺貝塚出土の土器を模式としたものと近似しており、関東安行Ⅰ式と併行などと関係する。

型式的推移について考察を加えるならば、第3層土器は器形が厚手の深鉢形か甕形土器から漸次変化をし、第2層土器は第1類から明瞭に器形が分化し、浅鉢、台付、壷、注口などが現れる。しかし、口縁直立の鉢形が中心である。(表(2))。施文文様にしても器形により異なるが、隆線系の文様が口縁装飾帯を基本に体部まで施文展開されるが、次いで、これらの隆線が細隆起線、あるいは、刻目・沈線・平行沈線・刻線となって口縁部及び体部上半に集約され、文様帯を区画して、磨消縄文と組み合った文様を構成し、次いで、瘤状小突起帯が施文され磨消縄文と組み合って展開する(表(1))。底部も平底が一般的で第2層土器の時期から上底風のもの、丸底に近いものがあらわれる。また、時期を追って、口縁直径に対して、底部直径が小さくなるのも一傾向であり、葉文、網代文の底部も存在する(表(3)・(4))。従って、分類された各土器群は、調査によって確認された三つの層位的関係が明瞭で、それが層位間で細別される。即ち、関東後期縄文式堀之内Ⅰ・Ⅱ式に比定される 

第3層土器、ここでは宮戸Ⅰ式と仮称しよう。この宮戸Ⅰ式が前述の理由で二つに細分されて、第1類・第2類が宮戸Ⅰa式と宮戸Ⅰb式である。次いで、関東加曾利BⅠ・Ⅱ・Ⅲ式に比定される第2層土器は宮戸Ⅱ式、これも同じく宮戸Ⅱa式と宮戸Ⅱb式に細別される。又、関東安行式に比定される土器は第1層土器、宮戸Ⅲ式でこれも二型式に細分され、宮戸Ⅲa式・宮戸Ⅲb式であるが、しかし昭和27年調査では宮戸Ⅲb式に当たる土器は出土せずとしたが、刺突文、刻目文があるが、量が少なくて認定できなかったのが本音である。 

詳細は後日に譲り、個々では細別される一型式が存在するということにとどめおきたいとした。そこで、台囲貝塚出土の土器編年は、第3層土器である宮戸Ⅰa式を古式として、以下宮戸Ⅰb式、宮戸Ⅱa式、宮戸Ⅱb式、宮戸Ⅲa式、宮戸Ⅲb式の編年序列が考えられると思うのである。

第3章  1960(昭和35年)「宮城県名取市高館金剛寺貝塚―陸前地方後期縄文式文化の編年的研究-」                                                           

                                                            『  宮城県の地理と歴史』第2集

 

陸前地方後期縄文文化の編年研究が盛んになり、金剛寺貝塚出土の一部に東北大学伊東信雄教授によって金剛寺式という名称が与えられた。しかし県史通史編という制約から内容が明確でなかった。昭和27年以来の宮戸島遺跡調査会が台囲貝塚中心に調査を実施し、調査成果として層位的、型式的に宮戸Ⅰa式・Ⅰb式、Ⅱa式・Ⅱb式、Ⅲa式・Ⅲb式、Ⅳ式なる型式名を設定して研究を進めていた。後期縄文文化の研究の手掛かりを得たいという考えから、宮城師範学校の考古学同好会が山内清男先生・東北大学大塚徳郎氏、加藤孝・小野力の両氏の指導で昭和22年に調査した遺物が、同好会から史学班に発展し、その遺物を引き継いでいた。その遺物を後藤が再整理したものである。調査してから10年余埋もれた遺物の再発掘である。特に三叉文の施された遺物で、口縁部に集中する遺物の他に、頚部文様、胴部文様にまで三叉文の深鉢の出現があり、後期的と考えられ悩まされる。

 2 貝塚の位置              3 調査の経過               4 出土遺物の概略            ( 略)

5 出土土器の分類 

出土土器は総点数が1614点、うち完形土器3点である。口縁部383点、胴部1045点、底部86点である。

土器は装飾文様などから精製土器と粗製土器と分類された。精製土器は諸部の装飾文様、器形、器質などからしていくつかに分類される。

特に外反したものは頚部で締まり胴部がやや膨らみ帯びた甕形であるが、一般に深鉢形が多いようである。底も小さく不安定なものから、丸底乃至は丸底に近いもの、上底まで見られる。概して、口縁部の直径に比して底が小さい。装飾文様も口縁部付近に圧縮される傾向を示すが、中にはかなり胴部にまで及ぶものもあり、瘤状突起の施文と磨消手法が文様構成に大いに活用されている。

(1)瘤状小突起のある一群(第6図) 瘤状小突起という非常に広範囲なところまで含まれるが、この瘤小突起の施文がこの一群の大いなる特徴であると同時に、入組くまれた磨消縄文の施文に注意しなければならない。

器形は口縁が平縁、山形口縁で平縁が一般的のようであり、器形も直立かやや内反したもの、また、外曲したものもあり、特に外曲したものは、頚部がしまり胴部でやや膨らみをおびた甕形であるが、一般に深鉢形が多いようである。

底も小さく不安定なものから、丸底乃至は丸底に近いもの、上底まで見られる。概して、口縁部の直径に比して底は小さい。

装飾文様も口縁部付近に圧縮される傾向を示すが、中にはかなり胴部にまで及ぶものもあり、瘤状突起の施文と磨消手法が文様構成に大いに活用されていることである。 

瘤の施法にも、単独のもの、但し大きい突起状をなす。複数に配されたもの、縦長で刻目のあるもの(第6図1)、一つの瘤に刻目がなされ横に二分されたもの、耳状のものなど各種であるが、貼り付けた以外のものとして、竹管、棒状刺突具で刺突し突起に擬したものもある(第6図6、7)。瘤の施文される位置も各種であるが、口唇部にはなく、口縁端、頚部に紐状にめぐらされる(第5図4)。また、入組文の結合部、入組文中の刻線上に配されるもの、口縁部に巡らされた帯縄文上に配されるものがある(第6図1)。 

これらは、いずれも精製された粘土を利用し焼成良好で器質も締まっている。器厚も4mm乃至7mm程度の案外薄手のもが多い。

(2)刺突列点分施文土器群(第7図) 

この一群は多くないが、器形は平縁で口縁直立及びやや内曲した深鉢形が多い。文様も口縁部周辺に集約され、胴部にわたるものはごく稀である。この種の土器は、例外なく口縁端に紐状の刺突刻目がなされ、その下部の頚部付近にも同じ刻目刺突がめぐらされて胴部と区画される。そして、この刺突刻目も浅い線刻で囲まれるものもある(第7図1、2)。焼成はどちらかというとよくない。 

(3)刷毛目(櫛目)文土器群 これは刷毛目状に細い櫛状の植物性施文具及び竹管と考えられるものを束ねたもので、施文方式もなくただ器面整斉のために、不規則に土器面に施文したものと、細い棒状の施文具で装飾的に胴部器面に施文したもの(第5図4、第7図6)とがあり、口縁直立の深鉢形が圧倒的に多い。これらは、宮戸島貝塚台囲地区の第1層土器から第2層土器にかけて出土した一群と殆ど大差がない。粗製土器の仲間であって焼成良好なものと、不良のものとがあり、器厚も案外薄手である。

(4)縄文施文土器群(第5図1) 平状の口縁で直立の深鉢形が一般的である。縄文の施文方向にしても右傾と左傾があり、当貝塚の資料では、どちらが絶対的であると断定は出来ない。羽状に施文されたのも存する。しかし、いずれにしても単節であり横位である。

これら縄文施文土器群の中に、胎土中に繊維を含み節の粗い、そして焼成不良で吸水性多い、前述土器と相当時期の異なる土器が数点出土している。 

(5)無文土器群(第5図2,3) 精製されたものと、そうでないものとに大別される。前者は水漉しした粘土をもってつくられ、全面研磨し光沢を帯びたもので、器形も鉢形、壷形、台付、皿形など多種にわたる。中でも三叉文の透かし彫りのあるものがある。第5図3は器高6cm、口縁直径12.4cm、底部直径6cmの浅鉢の完全土器で、一ヶ所に把手のあるものである(注1)。精製土器に対して、粗製土器で土器面を単に整斉した、粗面のまま無文土器である。口縁直立に平縁が圧倒的であり、深鉢・浅鉢形が一般的である。ただ,この一群に口縁が肥大し厚みを呈したものが相当存在することと、また、口辺部が箆状工具で横位に研磨され、口端、口唇部上面も整斉されているものがある。この研磨帯の下部が粗面のままのものが、かなり存在するということが特徴である。また、土器内面も箆状工具で凹凸を整斉したのもある。研磨帯と粗面の境に、一条乃至数条の横線を囲むもの、口縁に突起があり、同じく横線を二条配した台付土器もある(第5図2)。

(6)入組文系の土器群(第8図、第9図) この種の土器群は、当貝塚出土土器群の中でも特徴のあるものである。瘤状、刺突刻目文、刷毛目文土器群より新しい時期のものである。しかし、これらの土器群も二大別される。入組文の施文される方法及び器形、器質、装飾、器面整斉を見ると、第1群は口縁突起の下部及び入組文の結合部に三叉文が必ずといってよいぐらい特徴的に配されるものである(第8図1~6)。これは、器形が大体において鉢及び甕形が多いが、その他小形のものも存在するよいうである。まず、口縁部外反し、波状突起口縁の頚部でやや締まり胴部でふくらみ、その部分に一条の稜を配し、棒状工具で凹凸を施した稜と、そうでないもの、即ち、口縁直立かやや内曲せるもので、小波状口縁とに区別される(第8図9~12)。これらは、縄文帯と縄文帯との間に、磨消縄文によって入組文が配される。入組結合部の研磨された部分に例外なく三叉文が彫刻状に施文される。ただ、波状突起口縁は突起の部分が発達して口縁端に達し、突起の上面は二つ乃至三つに分かれことと、八字の研磨部にこれも必ず三叉文に施文されている(第8図)

第2群は小波状口縁で直立か内湾するもので、文様は口辺部に圧縮され、口辺部に沈刻の入組文・三叉文が施文されたもので、深鉢形が多いようであり、ほかに浅鉢、壷形、台付、注口と多種にわたる。この中で施文方法によって、口縁部を研磨し、ここに入組波状の沈刻を施し、入組の結合部に凹部を作り、その下部に二本の沈線で作り出された縄文帯を囲繞して、装飾部と区画し、胴部には単斜行縄文か、単に器面を整斉した無文となるもの、また口縁に二条の沈線をめぐらした中を研磨し、この研磨帯に入組波状の沈線を巡らし、その下部に、前述の仲間と同じ土器(第9図2)とがある。この外に研磨帯に二重の弧線文を配し、稜線にかわって点列を囲繞して装飾帯と区別しているものがある(第9図7)。これらは非常に焼成良好で研磨された部分は光沢を帯びている(第9図)。

底部の形態、文様について、底部86点中、平底が圧倒的で77点、上底あるいは台付が8点、丸底風のもの2点である。文様もアンぺラ状の編物の圧痕をとどめるもの53点、葉文底4点、無文16点、不明3点である。葉文とアンぺラ状圧痕の両方あるものが2点ある。また底部の付近が箆状工具で研磨され整斉されたものも相当ある。 

(注1)  現在川内東分校日本史研究室に保管されていない、幸い筆者が8年前に実測した物があったのでこれによって知れる。(第5図3)

6 出土遺物についての考察 

当貝塚はいつ構成された、ならびに当貝塚の出土の土器の編年について考察する。正確な発掘記録がないにしても、当時調査に参加した人々の談話と地点別層位図を総合して見ると、貝層上部=表土から混土貝層=と貝層及び黒土層との間には、相当の時間的差があったと見てよかろう。即ち、貝層を境として層位の線が引けることである、因みに出土土器について見ると大きく二大別される。入組文を主体文様として瘤状突起を配した一群と、入組文を配し、三叉文の施刻された一群とである。これらは前者を金剛寺第1類、後者を金剛寺第2類と呼ぶことにする。ところで、帯縄文を有し(入組文、弧線文ある)、瘤状突起を配したものは、縄文後期の後半に、また、沈線入組文及び三叉文の彫刻されたものは晩期初頭に比定されている。したがって、当貝塚出土の土器は貝層を境に上部及び下部より出土する土器に時間的差を見てよいし、型式的に考えても前述の第1類土器は第2類土器より古いものと考えられる。

今日、当貝塚出土土器の一部に、即ち、第1類土器に金剛寺式(注1)という名が附せられ、また宮戸島遺跡調査会による宮戸台囲貝塚出土の金剛寺第1類近似の土器に対し層序的に見て、宮戸Ⅲ式(注2)の名を冠して呼んでいる。しかし、金剛寺式も宮戸Ⅲ式もいくつかに細別される。金剛寺式についての詳細はわからないが、宮戸Ⅲ式についてはⅢa・Ⅲb(注3)に分けられようである。従って、宮戸Ⅲ式の細分の仕方で金剛寺第1類土器をもっと詳細に考察するならば、瘤状突起の施文方法によって細別される。口縁部の縄文帯上に縦長の瘤状突起を施文したものである(第6図1)。資料は少ないが、施文方法が他の土器と異なっている。これについても、宮戸島台囲地区にこれと施文方法の同じものを探せば、台囲第1類土器(注4)にあたる。これは宮戸Ⅲa式と称するもので、関東では安行式の帯縄文系に属し、縄文帯上に縦長の瘤を特徴とする安行Ⅰ式に併行すると見ている。したがって、この金剛寺第1類土器、即ち第6図1の土器も関東安行Ⅰ式(註5)に併行するものと見てよかろう。

ついで、入組文施文し、なおボタン状の瘤状小突起の配されたもの、また突起でなく棒状施文具で刺突し、突起に擬したものについても、2個ずつの複数に配されたものがあり、これは宮戸Ⅲb式(註6)及び安行Ⅱ式(注7)に併行するものであろう。

また、粗製土器の中で紐状の列点を口縁端及び頚部付近にめぐらしたものがあるが、これは、関東での紐線文系の土器群(注8)に相当し、安行Ⅱ式併行のようである。詳細は後日に待たなければと問題を先送りしている。

次に、金剛寺第2類土器だが、これは前述もしたが、第1類の次にくる時期晩期初頭に当たる大洞B式と思われる。沈線波状入組乃至入組結合部などに施文される三叉文が特徴である。ところで、今日所謂大洞B式と一般的に称されるもので分類して見ると、この範疇にどうしても入らないものが出てくる。それは、波状口縁で突起部が三分し、その部分が八字に研磨され、そこに三叉文が彫刻される。そして、縄文帯があって下部に入組文があり、結合部に三叉文があり、体部には一条の稜線などが施され、文様帯が体部に及ぶものである。この種の土器については、宮戸島台囲地区のB・Cトレンチから相当出土し、物議(注9)をかもしたし、また、万石浦沿岸諸貝塚のうち女川町浦宿貝塚からも相当出土している。当貝塚出土のものは、第10図2・3・4に示した。突起部が二乃至三分されること、八字研磨に三叉文があること、突起部に沈刻一線がひかれこともなどからしても、金剛寺第2類土器中にある以上の土器群と近似にあると思われる。又、宮戸島台囲B・C地区の出土の土器も近似している。特に、C1区の第2混土、第二貝層、第二混土層出土の土器(注10)(第10図1)が前述第2類の中にある以上の土器群と近似している。

したがって、以上のグループは今までは、簡単に安行Ⅱ式だ、あるいは大洞B式だとかたづけられていたが、これらは、形態、諸部、器面整斉、施文方法から見て、当貝塚第1類土器の影響を強く、また、所謂大洞B式とは分離され一つの型式と考えた方がよいと思われる。関東では古くは山内清男氏(注11)、近時芹沢長介氏(注12)が大洞B式直前型式を考えられ、また、設定されている。

こうしてみると、金剛寺第1類土器が二つに細分され、また、第2類土器も二細分されるとおもわれる。したがって、土器編年を見ると、金剛寺貝塚出土土器は、宮戸Ⅲa、Ⅲb式及び晩期大洞B式直前型式=宮戸Ⅳ式と大洞B式にわたり、関東での安行Ⅰ・Ⅱ・Ⅲa式に併行するものであろう。

又、当貝塚からは以上の土器以外に繊維を含んだ土器が出土している。前期大木1式である。

 

まとめ

当貝塚出土の再整理した結果、当貝塚の土器と宮戸島台囲地区の出土で陸前地方の後期縄文文化の土器型式に設定する手掛かりと、晩期大洞B式直前型式宮戸Ⅳの新型式設定の可能性が強くなったが、また問題があった。

 

(注1)      伊東信雄「宮城県古代史」『宮城県史Ⅰ』

(注2)      後藤勝彦「宮城県宮戸島里浜台囲貝塚の研究」『宮城県の地理と歴史』

(注3)      「前掲」

            台囲、第一層土器であって疣のつき方によって区別したものである。

(注4)      後藤勝彦「宮城県宮戸島里浜台囲貝塚の研究」『宮城県の地理と歴史』

(注5)      山内清男『先史土器図譜』62・63・64

             大町四郎・片倉修「下総岩井貝塚―特に安行式土器について―」『先史考古学』1の1

(注6)      拙稿「前掲」『宮城県の地理と歴史』

(注7)      山内清男『先史土器図譜』67・68・69

(注8)      大町四郎・片倉修「下総岩井貝塚―特に安行式土器について―」『先史考古学』1の1

(注9)      台囲貝塚調査中において後期か晩期かの問題で論争となった。

(注10)      齋藤良治「宮城県鳴瀬町宮戸台囲貝塚発掘報告」昭和三十年度Cトレンチの報告を参照されたい。

(注11)      山内清男「真福寺貝塚の再吟味」『ドルメン』三の十二

(注12)      芹沢長介氏などは型式を設定されている。


第4章  1962(昭和37年)陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土―陸前地方後期縄文文化の編年学的研究― 

『  考古学雑誌』第48巻第1号

里浜台囲貝塚は宮戸最大の宮戸島里浜にあって、松本博士、日下部・早坂両博士によって調査され、層位によって土器編年がなされた古典的貝塚である。その後、斎藤忠氏、加藤孝氏によって、研究調査がされ、塩竈市史編纂委員会、その後は宮戸島遺跡調査会により、昭和27年から10年近く宮戸島台囲を中心にB・C・G・T・Lの各トレンチ、寺下囲・袖窪囲・梨木囲を調査、松島町西の浜貝塚、女川町浦宿貝塚、名取市金剛寺貝塚出土の遺物再整理によって新しい知見や訂正が必要になった。そのため台囲地区出土の遺物の再吟味を行ったのである。 

そもそも宮戸島里浜貝塚の出土土器は松本博士によって、薄手式土器または凹曲線文土器、宮戸式土器と呼ばれ、精粗に区別があるという。しかし、現在はこれらの土器は、一般に亀ヶ岡式土器に比定されるものであって、これから述べようとする台囲貝塚出土の土器は、晩期亀ヶ岡式土器も少々含むが、主として晩期以前のものである。現在、陸前地方後期縄文式土器型式編年は、東北大学伊東信雄教授によって、南境式、宝ヶ峯式、金剛寺式と編年されている。しかし、宮戸島遺跡調査会も台囲貝塚の土器に注目し、ここに台囲貝塚出土土器を中心として後期初頭から晩期初頭までの編年系列を追及している。先学の御教導を仰ぎたいと考えた。

 

2 出土土器の特徴 

台囲貝塚昭和27年調査の出土土器については層位的に三分類され、第1層土器、第2層土器、第3層土器と区分され、昭和30年調査のCトレンチにおいても層位的に三分類され、同年のBトレンチでもCトレンチと同じ結果であった。昭和31年調査のGトレンチ、昭和27年の調査の補完のための調査においても同じことがいえた。ところで、昭和27年の第1層土器と昭和30年Cトレンチの第3層土器は、その器形、文様の特徴から見て併行関係にあり同時期と考えられた。

そこで、この五つの層位関係を基にして台囲貝塚出土の土器を新たに六類に分類して説明することにする。

第1類土器(第1図 1~5) 器形は円筒形の深鉢形が一般的であり、甕形、壷形などがあるが、他に頚部で締まる胴張りの鉢形も見られる。口縁様態も大部分が平縁の直立したもので、やや外反したものも少々見られ、口縁部断面を観察すると、口縁部端に行くにしたがって薄くなっているものもあり、この種のものは縄文だけか無文の粗製土器に多いようである。大突起はなく、小突起であり、口縁も大波状を呈しているものもある。

ところで、この第1類土器は、器面調整や文様装飾等から見て、二群に分類される。第1群(第1図1、2)は縄文中期大木10式に行われた稜線の鰭状の痕跡が、口縁部装飾として残り、主として稜線を口辺部及び胴部に巡らし、その間を同じ稜線で四乃至六本連結し底部と区分している。このように稜線を主文様とする土器群である。しかし、この稜線に沿って刺突点列が施文されているのが多数あり、また稜線に囲まれた部分には、幼稚な磨消縄文手法 が施され、口縁端から口辺部の稜線まで研磨されているものが特徴である。

第2群(第1図3、4)は、線刻の施法で渦巻文が主文様である。これらは線刻渦巻文、連弧文・二重連弧文その他、幾何学的な文様が施文され、口縁部の渦巻を中心に文様が胴部へと展開する。また口辺部には一条の線刻・点列を巡らし、前述第一群土器の稜線の持つ意味と同じで、この線刻・点列より口縁端まで研磨されていることは同じである。また渦巻の退化と見られる凹部や突起、円形の線刻なども見られる。

縄文は細い撚糸文で縦位に回転施文されているものが大部分である。底部も口縁直径に比して大きい。

第2類土器(第1図 6~16) 器形は分化し深鉢、浅鉢、台付、土瓶形、注口などがあり、口縁は平縁、大波状などで口縁部が内側に稜を持って肥厚しているのが特徴である。磨消縄文も発達し、線刻と組合って変化のある文様を構成している。文様の特色は口頚部に平行沈線が数条めぐらし、この平行沈線間にS字状及び鰭状の沈刻(第1図9、10)によって連絡されたものと、口縁端に近くと頚部に一条あるいは二条の刻目帯をめぐらしもので、これらは口縁部が外反し、大波状で口縁の横断面が五花形を呈する器形で深鉢が多いのも特色の一つである。突起を持った土器は見当たらない(第1図15、16)。

このグループになると棒状工具か細い工具を束ねたもので器面に不規則に施文し、器面を整えるものがあらわれ、文様も刷毛目状に施文されたものである。

縄文も横位に羽状施文されたものが一般的であるが、縦位に羽状縄文が施文されているのもこの第2類土器の特徴である。 

第3類土器(第3図 1~10) 深鉢形に大きな特徴が見られる。大波状か山形の口縁部で外反し、頚部で締まるものであるらしく、手法は前記第2類土器と似ているが、口縁部、頚部の刻目帯の代わりに縄文帯による文様が主で、この縄文帯には一条の沈線が加えられている。また時に口縁端や、磨消縄文による縄文帯の交叉する部分及び縄文帯内部に小さな瘤状の小突起の配されることがある(第3図2、3、4)。(瘤状突起の初現である)

大きな特色は口縁の突起にあり、波状の口縁の頂上に親指状の突起があり、この突起間には小突起がいくつか配されこの小突起に刻目が施されて二分されているのが特徴的である。そして、口縁部は殆ど内側に肥厚している。以上のような器形、突起を持った中に、刷毛目様のものを縄文に擬して入組させている例もある。また第2類土器で見られた縦位の羽状縄文が残っている。このように、第2類土器の影響の非常に強いものであるが、大部分の破片であるため全体の器形を知れるものはない。したがって底部様態も不明である。


第4類土器(第2図 1~8) 瘤状小突起が器面に施された一群である。器形にも変化があり、精製土器では口縁部が外反し、頚部で締まった深鉢形が多く、粗製土器では口縁が直立するか、やや内湾する深鉢形である。一般に深鉢、浅鉢、台付、壷形、注口など多様である。

瘤状小突起の施法はまちまちであるが、概して、口縁部に一条乃至二条の小突起帯として施文され、同じく頚部にも小突起帯がめぐらされている。そして、この間に入組文が配されており、その入組文中に疣のあるもの、また、入組結節部にあるものなどがある。しかし、もう一つの特色は入組文でなしに、細隆起線を口辺部から頚部にかけて平行に数条巡らし、この隆起線上に瘤状小突起を配したもの、また細隆起線施法で入組らしい手法もあり、隆線でなく沈線で置き換えたものも見られる。またこの方法と同じやり方で縄文帯のものも見られる。 

瘤状小突起のつき方にも、耳状、舌状に口縁部についたもの、頚部に大きな突起となっているものがあるが、一般に瘤は小突起である。しかし瘤それ自体、単独につく場合に二個ずつ複数についたものなど変化にとんでいる。

ところで、この瘤状小突起の施文された土器と共の伴出するのであるが、平縁で口縁直立かやや内曲した深鉢形で、たまに口縁に突起がある。文様も口縁部に一条か二条の点刻目(刺突)が紐状にめぐらし、頚部付近に同じ施法がなされ胴部と区画される。このように、文様は口縁部周辺に集約され、ときには胴部に棒状工具様で器面にひっかきが見られる。

第2類土器から始まる刷毛目状の施文土器が、この第4類土器でも多い。縄文も羽状縄文が多い。

第5類土器 (第2図 9~12) 第4類土器の影響が強く、器形は頚部で締った胴張りの深鉢形が多いようであり、浅鉢、台付、注口など器形の分化は一層著しい。 

特徴は口縁突起に刻目が入り二分乃至三分されること、大突起と小突起に分かれ、大突起の下部に横位に一本の沈線が施され、突起部と区分している。頚部には稜帯か、これに擬した点列が一本めぐらされ文様帯を区分している。主たる文様は磨消手法によって入組文が配され、この結合部分に三叉状の文様が配されるもので、これも口縁部の縄文帯と頚部の縄文帯の間に施文され、文様も胴部まで展開する。この種の土器に箆状工具で刺突線刻し縄文 に擬したものが盛行する、またこの期では、第四類土器で盛行した瘤状小突起はなくなるようであり、また刷毛目状の施文されたものはまだ残こっている。

もう一つの特徴は、精製土器、粗製土器とともに、口縁部は口縁端にゆくにしたがってふくらみ(肥厚)を呈するのが特徴である。

第6類土器 (第2図 13~20)文様帯は口辺部に集約され、沈線に囲まれた部分に、波状沈線の入組文が施文されているのが大きな特徴である。この第6類土器になると磨消手法が著しく発達し、全面研磨された土器が見られる。器形も分化し深鉢、浅鉢、台付、壷形、注口、皿形など各種であり、小形のものが多い。口縁の突起は少ないようで、小波状口縁が大多数である。口縁部が研磨されたものが大部分であり、沈線波状入組の施文されていないものは、沈線が一本めぐらされたものもある。

以上、台囲出土の土器を六類に分類し、その特徴の概略を説明した。しかし、この層位による分類で、どのグループと伴出したのか、不明のものも見られた。この問題についても出土土器の考察で吟味を加えたい。


3 出土土器の考察 

さて、以上6類に分類して土器の特徴を説明したが、これらの土器は関係及び編年系列について考察を深めよう。

第1類土器が全般的に縄文施文法は、中期大木10式に見られる縦位の縄文が圧倒的に多く、また稜線施文法もその系列をくむもであろうし、特に、鰭状の隆線文様などが多用されてことから、大木10式の影響を強く受けたものである。しかし、施法は大木10式に見られる雄渾さがなく幼稚で形式化され、大型の雄健な突起は影をひそめ、小突起か波状口縁が大多数であること、稜線も口辺部に圧縮される。線刻を主とした渦巻文や幾何学的文様が多いという特徴から考えて、関東地方後期縄文式土器で堀之内貝塚出土の土器を標式(1)とした堀之内の諸型式に比定されるようである。

陸前地方においても一般に同系統の特色を持つ土器が広く出土している、しかし、これだけ単独に出土する遺構はみあたらないが、志田郡鹿島台町大迫石竹貝塚に上層部より第1類土器類似(2)のものが出土しているが、比較しても若干の違い見られる。即ち、台囲の第1類土器には、把手状の大きな突起が少ないということがあげられよう。またこの時期のものとして桃生郡鳴瀬町川下り響貝塚(3)からも出土している。

ところで、陸前地方では南境貝塚出土のものを標式として南境式(4)と呼んでいるし、また筆者も台囲貝塚出土の土器を中心として宮戸Ⅰ式(5)と呼んだ。この第1類土器は層位的には最下層のものであり、台囲出土の土器としては最古式にあたる。しかし、この第1類土器も稜線を主文様としたものと、線刻渦巻文を中心とした土器群に分類されたが、型式的発展系列から考えて、第一群土器と第二群は同時期と考えてもよいが、発展としては第一から第二群へと行くのではないかと考えている。しかし、それでは第一類土器は中期大木10式から直ぐ続く型式であるかどうかについては、多少の疑問が残るが、宮戸里浜梨木囲第二次調査は中期終末期のものであり、その結果から短日時に解明されるものと考えている。

また、この土器は関東地方堀之内諸型式に比定したものの違いが見られる。例えば、口縁部は殆ど直立したもので、関東では見られる口縁が「く」字に内湾し、この「く」字の部分に線刻があり細隆起線をめぐらし、8字の突起を配したような土器は(6)、台囲では僅か1点に過ぎないし、突起にしても握りこぶしを思せるように三分乃至四分された突器はなく、ほとんど小さな単独の突起である。しかし、渦巻文が盛行していることは同質であり、渦巻文の全国盛行と同歩調の文化圏であったことが考えられる。

続いて、第2類土器については、陸前地方では桃生郡河南町前谷地宝ヶ峯遺跡出土の土器を標式とした宝ヶ峯式(7)に相当し、奥羽北半では大湯式(8)併行のものであろうし、関東では加曾利B式の諸型式(9)に併行するものであろう。

第2類土器は第1類土器の下層部より出土しており、層位的な差が明瞭である。第2類土器は平行沈線にS字の配されたもの、磨消縄文と刻目帯によるものと二分類されるが、宝ヶ峯式の中には二つの要素を持ったものが多数存在し、また、団扇状の扁平な突起を持ったものが存在しているが、当第2類土器には見あたらない。このような点で第2類土器の編年的位置に問題があるとしても、大突起がないということが宝ヶ峯出土の差異が認められる。また、関東では加曾利BⅢ式土器は、磨消縄文と刻目文によって構成されるというし、前型式では平行沈線やS字の施文されたものであるという(10)。とすると、文様の発展は平行沈線を多用したものから刻目文を主としたものへと考えられる。筆者も当貝塚Gトレンチ第2貝層土器を観察したときにも、このことを論及し述べたが、宝ヶ峯出土には中間にはいるものが相当あり、以前には台囲第2類土器を宮戸Ⅱ式と仮称し、Ⅱ式のa類の仲間として把握したが、まだ問題があるだろう。 

その上に、宝ヶ峯では中空の突起の存在し陸前地方各地に発見されているが、台囲ではそれは全然ないとうことも今後大いに問題となることである。

宮戸Ⅱ式b類とした磨消縄文と刻目文を主としたものは、福島県小川町三貫地貝塚(11)や茨城県立木出土(12)のものに近似したものが見られる。


第3類土器については、今まで資料が少なかったために、今日まで第2類土器の仲間として考えられていたが、昭和31年の台囲Gトレンチや、昭和34・5年の宮城県松島町西の浜貝塚の調査結果、大量に出土し、それも瘤付き土器の下層部より出土し、次の第4類土器と違ったものとして注目され、なお、宮戸Ⅱ式とも違うということになった。したがって、この新知見をもとにして昭和27年出土の土器群を点検すると、少数ながら第1層土器の中からと第2層土器の上層部分から検出された。 

大きな特徴は前述もしたが、瘤状小突起が器面上に施文される第4類土器の前身を思わせ、また、口縁の突起に特徴がある。全般的に言って第2類土器の刻目の施文された土器群の影響が非常に強いものであり、次期の瘤状小突起の第4類土器への過渡的型式として考えられる。この第3類土器に併行すると思われものに、丸森町清水遺跡のA地点(13)から出土したものが考えられるし、関東地方での茨城県上高津出土の土器(14)に近似しており、曽谷式に併行するものではないかと密かに私考しているが、器形が殆ど一器形にかぎっていることと、伴出粗製土器の問題も未解決の問題である。しかし、西の浜N、R、S地区の整理進行によって解決は時間の問題でもあるので、ここでは一型式の可能性として、詳細は機会を見て発表したいと考えている。

第4類土器は瘤状小突起の施文されている土器群であり、松島湾内、阿武隈川流域、北上川流域と県全般に見られ、これらの土器に金剛寺式や新地式など型式名があたえられておる。筆者も以前に台囲第2層土器に宮戸Ⅲ式として説明を加えた。しかし、関東地方での安行式土器には扇状の把手とか、瘤状突起にしても大きな特色が見られるが、第4類土器には安行式のようなごてごてした突起とか、扇状の把手は見当たらない。ただ器面に疣状小突起が入組の結節に、内部、紐線の結合部とか口辺部、頚部に疣状小突起帯がめぐらされているだけであって、関東地方のあのような扇状の突起とか、瘤状突起は関東地方特異の発達したものでないかと考えている。しかし、この第4類土器は第3類土器の影響を受けたもので疣の施文が特に発達したものと把握しており、第3類土器から第4類土器へと発展するものと考えている。

続いて第5類土器になると、第4類土器に見られた疣状の小突起は完全に消滅すようで、磨消縄文による入組が盛行する。そして、第4類土器の影響を強く受けながら発展し、疣状の小突起は口辺部では縄文帯となり、頚部では稜帯が沈線点刻となり、縄文帯と変化し、山形の大突起はなく小突起に置き換えられ、この小突起も二つ乃至三つに分けられ、口縁部が肥厚するし、磨消縄文の外に刻目状の細い箆状のもので刺突し縄文に擬したものが好んで使用されているようである(箆刻目)(15)。また、入組の部分に三叉文の祖形らしきるものが表現される。しかし、この第5類土器は第4類土器の発展として考えられるが、それでは、他地方では何時のものがあるかについては、浅学のためあまり類を見ないが、しかし、晩期大洞B式とは大きな違いがあると思う。そして、また、我々の意識の中には、関東地方の安行式の面影がおもい浮かばれて、どうしても混乱を招く次第である。前述もしたが、関東地方安行式での瘤状突起は特別のものであると考えつつも、それでは、この疣の突起の見られない第5類土器は粗製、精製にしても、口縁部が肥厚する特色を考えるならば安行Ⅱ式あたりに併行するものかと愚考しながらも、あるいは新しい型式とも考えられるようである。 

第6類土器所謂大洞B式に併行するようであり、三叉文、沈線波状入組が口辺部に配されるようであり、関東地方安行Ⅲa式に併行するものである。こうしてみると第1類土器から第6類土器までの系列の中で、台囲貝塚の出土の土器は、編年系列の発展の上で問題点もあるようであるが、第1類土器をかつて宮戸Ⅰ式と呼び、第2類土器を宮戸Ⅱ式、第4類土器を宮戸Ⅲ式とよび、宮戸Ⅰ式から宮戸Ⅲ式への発展を考えたが、宮戸Ⅱ式からⅢ式への間に第3類土器の区分が考えられるとすれば、ここでは仮に松島町西の浜貝塚出土の土器に多く見られ注目されたので、西の浜式とでも呼ぶことにすると、宮戸Ⅱ式から西の浜式、続いて宮戸Ⅲ式へと続くことであろう。しかし、宮戸Ⅱ式もa類とb類に分類し、これもa類からb類へと移行すると考えている。また以前にも宮戸Ⅲ式をa類とb類と区分し、疣の施文方法によって分類したが、今回はここで、第4類土器をa類に、第5類土器を一応ここでb類の中に入れておこう。しかし、この第5類土器の中に大洞B式に近いものも含むものであり、牡鹿郡女川町浦宿貝塚からも注意されたし、岩手県西磐井郡貝鳥貝塚のAトレンチ最下部から大洞B式直前の型式と見られるものが注目されており(16)、筆者の宮戸Ⅳ式と呼んだ時もあるが、ここでは宮戸Ⅲ式b類の仲間に含めておこう。ただし、将来一つの型式として分類される可能性は十分考えられる。

しかし、この安易な結論のために編年に大きな混乱が起こる。また、この論文は宮戸型式の成立後、二月田貝塚の調査があったが、宮戸Ⅳ式の成果が修正され、しかも山内清男氏の大洞B式の細分に不明な点があり、否定的である。大洞B式研究が頓挫し、B1・B2式についての報文もなく、研究は停滞する。特に大規模な貝塚、西の浜・南境貝塚の長期の調査がなされ、膨大な遺物を抱え、整理も進まず、苦悩の時期である。

 

(1)  吉田 格「関東」『日本考古学講座』

(2)  以前、宮城学院大学加藤孝氏が調査された資料を拝見することが出来た。資料は宮城学院女子大学に保管されている。

(3)  松本彦七郎「陸前桃生郡小野村川下り響介塚調査報告」『東北大学理学部地質古生物学教室研究邦文報告』7・8 昭和4・5年

(4)  伊東信雄「宮城県古代史」『宮城県史』Ⅰ

(5)  後藤勝彦「陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器編年について」『塩釜市教委教育論文』Ⅱ

(6)  池上啓介他「横浜市鶴見区下末吉町小仙塚貝塚調査報告」『史前学雑誌』第7巻第4号

          大山 柏・池上啓介・大給 尹「千葉県一ノ宮町貝殻塚調査報告」『史前学雑誌』第9巻第6号

(7)伊東信雄 「前掲書」

(8)江坂輝彌「東北」『日本考古学講座』

(9)吉田 格 「前掲書」

                芹沢長介 「縄文土器」『世界陶磁全集』Ⅰ

(10)吉田 格「前掲書」

(11)筆者で当貝塚におとずれ表面採集の遺物に若干見られた

(12)吉田 格「前掲書」141頁

(13)志間泰治「丸森町清水遺跡の調査」『宮城県の地理と歴史』Ⅱ

(14)芹沢長介「前掲書」170頁

(15)斎藤良治「宮城県鳴瀬町宮戸台囲貝塚の研究―昭和30年度Cトレンチ―」『宮城県の地理と歴史』中でも注目されている。

(16)草間俊一「岩手県西磐井郡貝鳥貝塚」『日本考古学年報』9

第5章  1968(昭和43年)芳賀良光「 宮城県宮戸島貝塚梨木囲遺跡の研究 」『仙台湾周辺の考古学的研究』宮城県の地理と歴史第3集

1 はじめに                                       註略      

2 発掘調査の状況と主な経過 梨木囲貝塚発掘調査は昭和36年7月24日から同28日の5日間、東北大学教育学部歴史研究室が中心となって行われた。調査は林謙作氏によってトレンチが設定された。東西5m×3mの長方形である。

豆畑の表土の剥離をする。表土下20㎝で灰層(遺物包含層)となる。遺物は土器、骨角器、石器、貝輪等の人工遺物、及び魚骨、獣骨等の自然遺物が多数であった。土器が主体であり、調査員の話し合いで後期関東堀之内式に比定しえるものと考えられた。

25日、灰層下のキサゴを主とする貝層(キサゴ貝層と命名)を剥離したが、出土土器の型式には変化がなし、層位の傾斜は北から南へ約15度と見られた。

26日、キサゴ層下は木炭層、その下がカキとアサリの貝層となる。キサゴ層中より出土する土器の型式は、以然同型式であった。午後学生を交代して、カキ、アサリ貝層を剥離した。(層位名アサリ層上面)。

27日、アサリ層中と名付けた層位を剥離する。口縁に刺突列点文様を持ち、その小波状口縁部に穴のあいた把手を持つ土器が多く出土した。次の層位を純貝層と名付けて作業を継続したが、依然として上記の小波状口縁、円穴把手のついた土器が出土した。

純貝層下の混土では、初めて出土土器に変化が見られた。混土層下は破砕された真珠質の貝層が約40㎝続くが、遺物は極小となった。この層より出土の一括土器は大木9式併行のものと思われる。

28日、破砕貝層下は土層となり、発掘を打ち切る。


3 出土土器の分類 出土土器の破片総点数は10,144点であり、

その内訳 口縁部破片 1,936点 

              体部破片 8,149点 

               底部破片     422点

                 その他破片    178点 

    但し、この点数は一括土器として出土した破片点数を除くものである。

発掘に際しては、層位に細心の注意を払い、慎重に調査を進めた。また、これ等の出土土器を整理するに当たって、層位別に部屋を分けて精密に吟味したが、その結果、本遺跡出土の土器は大きく次の3群に分類できた。


第1群土器 灰層、キサゴ層、アサリ層、純貝層より出土の土器群で、意匠によって次の4種に類別できる。

第1類土器 十字花型〔記名の意味不明〕に小波状隆起を呈する口縁、器の厚さは0.4~0.9㎝で、口縁部から底部にかけて、湾曲することなく、自然に細まって行く深鉢型である。意匠の特徴は、口縁部が擦消され、体部の撚糸文との境目に稜線が横に走り、その上部に接して刺突文が並列している。体部文様は主に左よりの一貫した撚糸文である(第3図1・2・3及び第4図Ⅰ)。

第2類土器 第1類土器と同様、十字花型小波状隆起を呈する口縁で深鉢型、撚糸文の体部文様が口縁部から頚部にかけて、口縁の隆起点を軸としてコの字型に四条擦消され、擦消の帯が沈線を持って撚糸の部分と区別されている。さらに、口縁部の隆起点、及び各コの字形の接点に鰭状の突起を有する土器群である。(第3図4・5及び第4図Ⅱ・Ⅲ)

第3類土器 第1類土器、第2類土器と同様の意匠であるが第3図6、第4図Ⅵ、のように隆起点が円穴の把手となっている土器群。

第4類土器 第3図7及び第4図Ⅴの様に擦消と撚糸文のみの手法で刺突列点文、鰭状突起及び円穴把手等の意匠を持たない土器群。

以上が第1群土器であるが、多数の撚糸文の中に若干、縄文も含まれる。

第2群土器 混土層より出土した土器で、第4図Ⅵ・Ⅶの様な破片は多数にのぼるが、完形品に装飾のあるものは見当たらず、縦位に回転押捺した撚糸文だけのものと、その口縁部に擦消の帯と沈線を横にめぐらしたものに完形品があり、第3図8・9・10・11のような頚部から体部にかけて僅かながら膨らみをもつ深鉢土器である。

第3群土器 最下層の破砕貝層より出土した土器群である。本層位は出土遺物が少なく、完形品2点と上層各部に比べてかなり少数の破片を見るだけであるが、第3図12・13・14及び第4図Ⅷのように、器形は頚部に締まりを持ったキャリパー型に近似のもので文様は隆帯渦巻文様を主としたもので、器形も大型で、厚さも0.7~0.9㎝と厚手である。

4 考 察 

本遺跡出土の土器を、層位別に分類して、吟味を加えた結果は、最上層の灰層と次層のキサゴ貝層の土器は全く同一であった。また、発掘当時アサリ層、貝層、純貝層の3つに分けた各層間にも土器の種類に変化が認められなかった。この両グループの土器を纏めて第1群土器と呼称した理由は、①土器破片の数量比に差異は有るが、コの字状擦消文様に鰭状突起を有する土器が両グループ共に出土している。②両グループの装飾ある土器は、口縁部に十字花形に小波状隆起を呈する。③刺突列点文土器に付いては、把手のあるもの、ないもの共に稜線の直ぐ上に接して、刺突列点文が施され、小波状口縁の隆起点に纏まる。④キサゴ層出土の第3図3、貝層出土の第3図6の土器を対照すると、それぞれ口縁部直立、内湾の違いがあるが、総体的意匠において小波状隆起点直下に撚糸文が残留し、擦消の帯によって頚部と体部が区別されるという共通点を持つ。

総じて、これ等の両グ-ルプの主体をなす土器は、器形において頚部がほとんど直立の深鉢型であり、装飾は刺突列点文、沈線で縁取られたコの字形の帯状擦消文様、鰭状突起、円穴把手であるが、これ等装飾に付いては、あるものはその1つを、あるものは2つを組み合せもち、またあるものはその全てを含んだりする。従って、この両グループの土器型式を総体的意匠から明確に分類することには無理があると考えられる。

本遺跡出土遺物中で、最も多く出土したのはこの第1群土器であり、本論ではこの第1群土器が陸前地方縄文式土器編年上どのような位置に比定されるかが主要な論点である。

第1群土器は、出土土器のほとんどが深鉢ないしは鉢形を呈し、器形の分化が見られない。体部の文様がほとんど左撚り、縦位の撚糸施文法によるものである。底部は網代文が多い。器形において、口縁部がほとんど直立である。口縁部及び体部のコの字状擦消の曲折点に鰭状突起を有する。②の縦位の撚糸(1)施文法は中期の流行を示す指標であり、③もそれに属する。⑤の鰭状突起は、後述する第3群土器の隆帯渦巻文様を山形に擦消する手法(大木9式併行)が更に進んで、渦巻の一部が残留したものと考え 、中期的要素が強い。また、器形の分化及び口縁部外湾(2が後期の指標とすれば、①・④の特徴から後期的名要素が否定され、さらに後期初頭の関東堀之内式(3)(4)に一貫して見られる疣状突起が全く見当たらない。これ等の積極的観点及び消極的観点両面から考えて、第1群土器における相対的年代の下限は堀之内式以前であり中期末葉に属する。また、鰭状突起の手法を有すること陸前大木10式に比定される。ゆえに既定の大木10式の指標からすれば、第1群土器に見られる刺突列点の型式が見落とされていたことになり、本遺跡に関する限り、第1類刺突列点土器は第2類コの字型帯状擦消、鰭状突起を有する土器と共に同一型式に属し、この両者共に中期の最後の型式たる大木9・10式(6)両者の土器破片を含み(第4図Ⅵ・Ⅶ)この点問題となるが、個々では層位的に第1群と第3群の間に存することだけを述べて、第2群土器に付いては後述する。

第3群土器は渦巻隆線を主体的文様とするが、渦巻の内部が擦消され、その縦断面は山形をなし、(前述、第1群第2類土器の鰭状突起は是の一部残留と推定される)体部の隆帯にも擦消が強く用いられ、器形はキャリパー型に比べると、頚部の締りが鈍く、正確にキャリパー型とはいえないものである。したがって、甲野勇氏の第6群土器D類(3)即ち関東加曾利E式より1型式新しい型式に比定せられる、山内氏の陸前大木9式の指標中の一つタイプに併行する。

東北大学教育学部歴史研究室が発掘、所蔵する宮戸畑中A地区発掘の完形品22点を見ると、キャリパー型またはほとんどそれに近いものが10点、小型鉢8点、円筒形深鉢2点、立体的把手を持つ大甕型1点、その他1点があるが、キャリパー型の多くは口縁部或いは口縁部から体部にかけて隆帯の渦巻文様がめぐらされ、その渦巻は擦消の手法が用いられていない。したがって、畑中A地区出土の土器は加曾利E式に比定し得るものであり、本遺跡第3群土器よりも1型式時代の上がるものであろう。ゆえに本遺跡の陸前地方縄文土器編年上の位置は大木9式から同10式に比定される。即ち編年的系列は時代の古い順に(畑中A)⇒第3群土器⇒第2群土器⇒第1群土器となろう。

ここで第2群土器について述べなければならない。これ等の土器群は層位の上で第3群土器と第1群の中間に存することは言うまでもない。また、第3群土器に著しい隆帯渦巻文様は第2群土器では全く姿を消し、第2群土器の完形品は平縁で頚部にから体部にかけて、緩いふくらみを持つ鉢型であることから、第3群土器と一型式を画する。第1群土器とは、その顕著な特徴である鰭状突起、コの字形帯状擦消、刺突列点文が見られず、やはり一線を画する。にもかかわらず山内清男氏が大木9・10式と二型式に分類した指標の土器が個々では同居する(前述)ことになる。第2群土器に装飾土器の完形品がない現在、本遺跡の発掘遺物から結論はでないが、大木9・10式にも再吟味の必要があると考えられる。

5 結 言 

本論において最も問題となるのは、本遺跡出土の主体土器である刺突列点文を有する第1群土器第1類土器が、縄文式土器編年上、中期末葉に属するか、後期初頭に属すべきものかという点である。結局「何が後期か」という大きな問題になるのであるが、筆者は先の考察で第1群土器が中期に比定し得るものとし、後期と一線を画する理由として①~⑤の観点を挙げたが、その重要ポイントとして、山内清男氏が中期への特徴としている縦位(1)撚糸施文法を引用し、器形においては八幡一郎氏の後期(関東堀之内式)の特徴として口縁部が外湾(2)する点を引いた。なぜならば、前者については、縦位の撚糸文が中期の流行に1つの支配的位置を占めるからであり、後者については口縁部が直立から外湾してくることが、浅鉢、皿、台付型への器形分化の端緒と見なすからである。筆者は、この器形の分化を後期の重要な指漂と考えてよいと思う。本遺跡第1群第1類土器は一貫した鉢形であって、器形の分化が全く見られず、縦位の撚糸施文法に終始しており、更に精製、粗製土器の区別も明確でないことからも、中期と断定した。しかし、隆帯渦巻文様等の様な剛健なる中期的文様を持たず、装飾方法に幾何学的文様を取り入れている点など後期的要素もかなり強いことは事実である。しかし、前述したところからこれ等土器群を後期と見るにはあまりにも中期的要素が強く、後期への移行期にある中期末葉の新型式と見るべきであると考える。

なお、本遺跡について考究すべきことは多く、①最上層から混土層に至るまで、第5図Ⅸ(混土層出土)の様な刺突文が一貫して出土するのは、刺突の施文法が本地域においての長期の流行と見なすべきか、また、このことは、第1群土器の様に灰層から純貝層までかなり厚い層に渡って同型式の土器が出土することと共に、直ちにこの地域の人々の長期にわたる定住と、その文化であるといい得るか否か、②破砕貝層は津波襲来による貝粉砕であろうか、③数点みられた朱彩土器の用途は何、④土錘作成に使われた土器は、各層主体土器と、どんな位置関係にあるのか、などの問題が残っている。

第4図の各層出土拓影に、鰭状突起、刺突列点文があり、方形区画文の施文があり、大木10式の影響があり、また、図版Ⅵの1・2はアルファベット文と見る。大木9式から10式の特徴である。

最後に本論をまとめるにあたって、ご教示は略。

 

(1)山内清男「斜行縄文に関する二三の観察」『史前学雑誌』第2巻第3号

(2)八幡一郎「日本石器時代文化」『日本民族』東京人類学会

(3)甲野 勇 「関東地方における縄文式石器時代文化の変遷」『史前学雑誌』第7巻

(4)大町四郎・片倉修「下総岩井貝塚―特に安行式土器に就いて」『先史考古学』第1巻第1号

(5)後藤勝彦「陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器について」『考古学雑誌』第48巻第4号

(6)大木型式山内編年「縄文式文化編年史料」(10~30)加藤孝所蔵 

 

第6章 1970(昭和45年)「宮城県七ヶ浜町吉田浜二月田貝塚発掘調査報告 」

  宮城県塩釜女子高社会部『 貝輪』6号

1 はじめに(略)

2 位置

  貝塚は標高59.4mの君ヶ岡から北東に延びる丘陵があって、それが突出して代ヶ崎浜と吉田浜とを区画している。この丘陵から北西には幾つかの分枝舌状丘陵が突出している。この舌状丘陵で一番北東にあるほぼ標高15~10mの丘陵の東西両斜面に貝塚が構築されており、小さな馬蹄形状の貝塚である。詳しくは、七ヶ浜町役場から東に約1.8キロ、火力発電所正門からほぼ南0.6kmにあり、宮城郡七ヶ浜町吉田浜字二月田2番地にある。今回の調査地点は小玉助氏の所有の畑地で、丘陵の東斜面で現在休耕している。本貝塚周辺には沢上貝塚(縄文晩期)、吉田浜貝塚(縄文早期)、君ヶ岡貝塚(縄文中後期)などがある。


3  調査経過 略  

4   出土遺物 大部分は土製品の縄文土器である。出土土器は総点数11、986点内完形土器5点、施文文様、器形、器質等によって14類分類された。後期中葉から晩期末葉までの土器群である。

第1類土器(第5図1~4)完形品がないが、口縁部破片から考えて、口縁部に刻目がなされた大波状の口縁となり、口縁の断面が五花形を呈する器形と考えられる。口縁内部に稜を持って肥厚しているのも特徴である。宮戸Ⅱb式に相当するものである。

第2類土器 資料が少ないが、前述の第1類土器の影響が強いもので、大波状や山形の口縁が特徴的であり、口縁部が内部に肥厚していることも同じである。ただ大きい特色は口縁の突起にあって、波状口縁等の頂部に親指状の突起を配し、この大突起間に1~2個の小突起が配され、この小突起に刻目がなされて二分される特徴である。西の浜貝塚調査によって西の浜式としたものである。当時第3類土器への過渡的の土器群とかんがえている。


第3類土器(第4図2、第5図5~17)貼瘤状の小突起が器面に施文された一群である。この貼瘤状の小突起は口縁部、頚部に帯状に施文されるのが基本であるが、施文手法、施文場所、その他の文様と組み合って変化がある。突起の形態で分類すれば大きく2分類できる。

A類 基本的に小突起の施文されたものである。これはこの貼瘤小突起帯を1~3条を口縁部に巡らして口縁部文様帯を形成し、その下部に格子目状の沈線(5・8)、磨消縄文による入組文(12・13)による頚部文様帯を構成し、頚部に1条の貼瘤小突起を巡らし胴部文様帯と区画する。その他施文方法によって変化がある。

B類 口縁部が研磨され頚部に大形で細長い突起を2個配したものである。この突起は横に刻目されて2~3分される。(16、17)この突起間を1~2本の沈線で連絡されている。これら口縁やや外反した器形で胴部も研磨されて無文となるようである。ただし9は小突起帯をめぐらしているが、この小突起帯の位置、手法がB類の仲間に入る。

第3類土器は平縁の深鉢形でやや口縁部が外反しているものが一般的である。口唇部土面が内側に傾斜しているものが多い(5~7,10,13)。

第4類土器 (第4図1、第6図25~39、写真3) 刻目を帯状に施文した一群で、第3類土器の貼瘤小突起帯を帯状に施文したモチーフと同じ手法のものである。器形は深鉢が一般的であり、口縁部様態も平縁が多数であるが、突起を持つものもある(25,28~30,32,35)。しかし32,35はB突起状施文のものである。また、刻目帯の口縁部文様帯の下部には、入組文が施文され、その結節部に貼瘤の小突起が施文されているものもある。刻目帯に小突起のあるもの(29,33)もある。この刻目手法によって、幅の狭い入組文の施文された(35,39)があり、刻目帯から入組文手法への変化がよく知られる。この段階で刻目の分類に注意がなされていない。

第5類土器 (第5図18~23)器面整斉に刷毛目状の施文が横位や縦位に施文される一群である。第1類から第4類土器まで確実に伴出するものである。器形は深鉢形が基本で平縁が一般的である。

第6類土器 (第6図40~45)本貝塚出土では問題となる土器群である。文様手法は第4類土器の刻目施文とその刻目施文の入組文の文様が発展したものと考えられる。箆状工具で口縁部のその下部に配された入組にも縦位の間隔の狭い刻目がなされるのが特徴であり(箆刻目)中に、この手法で口縁部、頚部文様帯を構成し、胴部文様での入組文に縄文の施文するのが一つの型を占めすようである。山形突起を持つ(45)もあって、その下部に三叉文の配されたもの、頚部の入組の結節部に貼瘤状の小突起の配されたもの(41)も見られる。口縁部が肥厚するのも特徴である。

第7類土器 (第7図46~73) 三叉文の施文された一群であって本貝塚主体の土器群である。三叉文によっていくつかに分類される。まず、入組文の決節部に三叉文が配置されたもの(46~51)、b小波状で口縁部が研磨されて玉抱三叉文の施文された一群(52~62)である。これにc 61・62のように縄文帯から始まる例も見られる。また、大波状突起の下部に八字体の研磨帯があって、そこに三叉文配置される一群(63~66,69,70)と e三叉文はないが波状から波状へと連弧状に口縁部研磨された土器群(67、68,70)がある。この第7類土器は一般的について文様帯は口縁部に集約され、下部は縄文(羽状か斜行)か無文となる。器形も分化して深鉢形,浅鉢,椀形,台付き等変化が著しく、また55、72,73のように小形土器も普及してくる。口縁部も小波状と山形状とあって、特に、後者は口縁外反して頚部で締まる器形になる。胎土は良好で焼成も一般に良い。57など黒色研磨された美しい土器である。

第8類土器 (第8図74~80) 口縁部に1~2条の沈線を巡らして研磨し、口縁部文様帯を形成する。それ以外の文様は施文されていない。ただ、この沈線の下部は縄文か、たまに無文である(79)。口縁は平縁か小波状口縁の深鉢で、口縁は直立か、やや内反したものもある。底部は上げ底部か台付きのものまで存在する。(大洞B式の仲間である)

第9類土器 (第4図4) 無文土器群である。無文土器と総称したが、土器全面を研磨した土器群と口縁部周辺のみ研磨され、その下部が粗面のものと二大別することが出来る。前者は量的に少なく、器形も椀形、台付き、注口と変化が多い。後者の粗面の無文土器は大部分が深鉢形であり用途分類がある。口縁部も口縁端に行くに従って厚みを増すものがある。

第10類土器 (第5図24) 量的に少ないが、雲形文の施文されたもので縄文晩期大洞C1式に相当する一群である。器形は皿形である。

第11類土器 (第4図、第8図85~101) 工字形文の施文された一群であり、晩期大洞A式に併行するものである。器形及び施文文様等によって二大別される。前者は口縁部周辺が研磨され工字形文が口縁部に集中し、深鉢、浅鉢、台付きと分化する。後者は口縁部が外反し、甕形深鉢で口縁端に刻目施文され、頚部は無文帯か2~3条の沈刻線が施文されて文様帯を画する。その下部は縄文が施文されるものである。全般的に言って、文様帯は口辺部に周辺に集約されるし、口縁部裏には1条の沈刻線が施文される特徴を持っている。

第12類土器 第11類土器と共伴する土器群で、素焼で輪積痕のある粗面の赤焼で尖底底である。通称製塩土器である。内面の整形されているのが特徴である。器厚も2~3㎜程度の薄さである。口縁部も箆で整えられないものが多く、やや内反しているか直立である。器表面には剥離痕のあるものもあって,強度の火力にあたったことを示すものと考えられる。松島湾沿岸の晩期末大洞A・A’式に伴出する。

第13類土器 (第8図82~83) 縄文のみ施文された一群である。斜行縄文施文のものを本類土器とした。資料の数が多いが、第14類土器の羽状縄文の一部分が破片のため本類土器に入ったかもしれない。

第14類土器 (第8図81,84) 羽状縄文施文群を本類土器とした。羽状縄文の幅が広いものが多いようであり、晩期の羽状縄文の特徴を示している。82・84の様に綾繰文の施文ものがある。

その他の土製品として土偶5点(第9図、写真4)、特に、はG区2C出土で黄色土層上面から出土,土偶の北西にはクジラの椎骨が伴出している。土偶の顔面は仏のような柔和な顔形が多いが、本遺物は顔面に特徴がある。目は凸状で、口唇に刻目を施して歯牙を表現した怪奇な様相の土偶である。現存長約16.5cmで頭部裏側に一部、左頬、左腕、両乳房、両脚が欠損した中空土偶であ。他か4.3cm,開脚した小形土偶である。耳飾1点、土錘2点、石製品として石斧6点、石匙4点、石鏃7点、石錘5点、石棒5点、石刀2点、石皿?2点,丸石1点、骨角貝製品として鹿角製銛27点、刺突具骨鏃18点、釣針6点、骨匙3点、垂飾具類6点、浮袋の口5点、弓筈?1点があるが中段に左右に目,鼻、口を配した人面であり注目される。現在紛失不明、自然遺物として貝類・甲殻類・海胆類・魚類・両棲類・爬虫類・鳥類・哺乳類など125種類の識別がなされる。

6 考察 

層位は大きく二つ在り、そのうち、混土貝層(2層)は黄褐色土層まで続く、ただこの2層を貝の多い部分で2層AとBに細分しているが、この層位で明確にAとBに区分は困難であった。従って、宮戸台囲貝塚、金剛寺貝塚・西の浜貝塚N・R・S、沢上貝塚・青島貝塚の調査成果、報文もとに考察を進め、宮戸式の成果を検討し、第14類の土器群を8群に整理した。

第1群土器は口縁部、頚部に刻目帯を持ち口縁部内部が肥厚し、大波状の深鉢形土器で、台囲貝塚の第2類併行するもので、宮戸Ⅱ式(1)としたものである。第2群土器は量が少ないが、第1群土器の手法を強く受け、特に第3群土器に盛行する瘤状突起手法が始まるものとして注目された土器群で宮戸台囲の第3類土器併行し、西の浜貝塚のS区で注目された西の浜式(2)に相当するもので、この土器群は過渡期の特徴をもち、伊具郡丸森町清水遺跡(3)にそのの類例が見られる。ところでこの第1群・第2群土器は後期中葉の土器群としてその分布はかなり広いものがあり、東日本一帯から北海道と広がる。特に寺脇貝塚、三貫地貝塚、青森県岩木山麓の遺跡群-十腰内遺跡―、礼文島船泊遺跡等々があげられる(4)第3群土器は貼瘤施文の土器群である。貼瘤手法は第5群土器まで引継がれ、第6群土器で消滅する。この第3群土器は台囲貝塚の第4類土器に併行するもので宮戸Ⅲ式(5)に相当するものである。この貼瘤土器群も上記土器群と同じように分布範囲が広い。しかし、貼瘤施文では共通性を持っているが、施文方法ではかなり地域性が考えられる。その一つは関東的手法と東北的手法であろう。

貼瘤施文土器群について深鉢形を基本として器形と文様の変遷から関東安行式各編年に対比した研究と文様の変遷から関東安行式各編年に対比した研究がある(6)。しかし、この研究に対してとやかく言う材料が今は無い。後期後半の研究には非常に示唆される意見であり、参考となる。

第4群土器は貼瘤手法が衰退し、それに変わって刻目帯が貼瘤帯と同じモチーフで施文されるものであって、台囲貝塚第4類土器のある仲間に併行するもので宮戸Ⅲb式(7)に相当する。この土器群も第3群土器と共に分布はかなり広いようである。

さて、第1群土器から第4群土器まで共伴する粗製土器の一つが刷毛目文を不規則に施文した土器群、第5群土器である。これは前述の時期に限られことも特徴であろう。又、羽状縄文施文土器の羽状縄文の幅が晩期に出現する羽状縄文より原体の長さが狭いようである.又、斜行縄文施文にしてもLR、RLとも存在する。

第5群土器としたのは刻目手法を用いての入組文を口縁部文様として、頚部には一条の貼瘤帯があって、その下部に縄文手法による体部文様帯を構成するものであって口縁部も突起が配され、それが肥厚しており、又、突起頂上が2分~3分されるのが特徴である。そして、このように体部まで文様帯を持つ文様手法はこの土器群で終りを告げるようである。宮戸台囲貝塚でもまとまって出土しており(8)、非常に問題となった土器群である。

しかし、本貝塚出土の土器にこの種の土器群で三叉文施文されたものが存在する。三叉文施文をもって晩期とする観点から考えれば本群は後期的要素を強く残しながらも晩期初頭に位置付けられると考えられるが、まだ疑問も残るのである。又三叉文施文でも東北北半と南半で地域性がある。魚眼状文などは南半の特徴であろう。

第6群土器も第5群土器とほぼ同じ時期と考えられる。主体的に三叉文施文の土器、口縁部が研磨され1条の沈線がめぐらされたもの、全面研磨の無文土器が本群だ。これは、一般的に晩期大洞B式に併行するものであって、近時山内博士によってさらに大洞B1,B2に細分(9)された。本群は三叉文施文土器群には大洞B1式に併行するものがある。関東地方での安行3a式にも問題があるらしい。 

第7群土器は雲形文の施文された土器群であり、量も少ない.大洞C1式に併行するものと考えられる。第8群土器は工字形文を主体とした大洞A式に併行するものである。塩釜市一本松貝塚(10)や松島湾諸貝塚にその類例を求めることが出来る。この大洞A,A‘式に伴出する無文粗面尖底土器がある。これは、その形態の均一性とその出土状態の特殊さ、また、強度な火力があたった状態から、製塩生産に使用された土器群に理解されている(11)。ただ、その生産活動がどのような内容でおこなわれたか、その細部については具体的に不明であり、現段階としては推測の域を出ないといってよい。しかしながら、このような特殊な土器生産は何らかの新しい胎動を考えるよい材料となろう。 

こうして見ると本貝塚出土の土器群は縄文後期の中葉宮戸Ⅱ式から、西の浜式、宮戸Ⅲ式、大洞B、C1式、A式の時期に相当することになる。まとめると

(1)本貝塚は縄文晩期大洞B式を中心としていることが判明。

(2)貝塚の上部では大洞A式の層が検出され、同時に製塩土器が多数検出されたこと。

(3)今回の調査で自然遺物を125種類も検出したことは東北では始めてのことで、今後自然遺物を通しての研究が進展に寄与する所になる。

(4)骨角製品の中漁撈用具が多数を占めており、自然遺物でも魚骨の遺存骨が多く、内湾魚のフグ・スズキ・ボラ・タイ類、回遊魚のマグロ・ブリ等が採捕され釣漁法、刺突漁法、網漁法と漁猟活動が積極的に行われことが、まだ十分といえないが分析によってその内容が把握されてきた。

(5)この時期の住居跡としては県内最初のものであり、2次調査に期待される。

(1)後藤勝彦「陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器に就いて」『考古学雑誌』48-1

                林       謙作「日本の考古学2 縄文時代        東北」

(2)前掲書    註(1)に同じ

(3)志間泰治「丸森町清水遺跡の調査」宮城県の地理と歴史第二輯

(4)福島県磐城教育委員会「寺脇貝塚」

                岩木山刊行会「岩木山ー岩木山麓古代遺跡発掘調査報告書ー」

(5)前掲書      註(1)に同じ

(6)安孫子昭二「東北地方における縄文後期後半の土器様式ー所謂「コブ付土器の編年」石器時代9

(7)前掲書      註(1)に同じ

(8)斎藤良治「陸前地方縄文文化後期後半の土器編年についてー宮戸台囲貝塚及西ノ浜貝塚出土の土器を中心としてー」仙台湾周辺の考古学的研究    

            槇       要照「陸前宮戸島に於ける縄文後期末遺物の研究ー台囲出土の土器についての考察ー」        仙台湾周辺の考古学的研究

            山内清男「日本遠古之文化」先史考古学論文集Ⅰ

            山内清男「所謂亀ヶ岡式土器の分布と縄文式土器の終末」先史考古学論文集Ⅲ

(9)山内清男「日本原始美術(1)」 講談社

(10)加藤孝「塩釜市一本松貝塚の調査―東北地方縄文式文化の編年学的研究(2)―」地域社会研究3・4号

(11)加藤孝・後藤勝彦「古代東北における製塩遺構の研究」日本考古学協会発表要旨(別府大学)

                後藤勝彦「東北に於ける古代製塩についての一考察ー東北古代史の実証的解明の一試論としてー」

第7章 1972(昭和47年)「二月田貝塚第二次調査」 

  宮城県塩釜女子高社会部『 貝輪』7号


1 はじめに 2貝塚の位置 3 調査経過 略 

4 各調査トレンチの概要 

1トレンチ 住居址の再吟味のため東西に拡大し、柱穴の広がりを吟味した。層位は約20㎝の表土があって、ほぼ黄褐色の粘土層となる。表土は浅い。表土はほぼ南北に厚くなり、黄褐色粘土層が傾斜していた。しかし東南部には凝灰岩礫が敷きつめられていた状態のところもあり、特に、東側は黄褐色粘土が切れている部分が多く、そこには、黄色粘土が敷きつめられていた。この部分に円形状の黒褐色粘土の落ち込みが3箇所あって、製塩土器が層状に堆積した遺構を発見した。住居跡遺構も製塩遺構に関係したものである。

3トレンチ(第3図)二月田貝塚のある台地西南斜面の最下段に設置したトレンチであり、層位的な各種遺物の採集を目的とした。予想した通り混貝土層等を含む貝層の堆積が厚く、しかも、貝層は南西に傾斜し、複雑な堆積状態を示していた。西壁を基準に層位を説明すると、第1層は褐色混貝土層の表土が20~45㎝がある。貝も破砕貝で時期も大洞A式を中心として、大洞B式や宮戸Ⅱb式及び土師器等の混入している。撹乱層。続いて第2層があるが、土層、混土貝層、混貝土層、橙色灰層を含む混貝土層、土層と5層に出来る。15~25㎝である。晩期初頭の層位である。第3層は20~50㎝で褐色土を含む混土貝層、土層、純貝層の3層に分かれ、アサリ、オキシジミ、サルボウ、アカニシ、イタボカキ、ツメタカイ等が特に多い貝層である。遺物の出土も多く、大洞B式併行である。第4層は器形的に古い型式の土器層位である。純貝層で木炭層によって3層に区分される。30~45㎝で東壁では薄くなる。続いて、第5層暗褐色粘土層であり、縄文後期末の遺物を出土する。以下黄褐色地山へと移り無違物層となる。3トレンチは2次調査で最も遺物が多く、層位的に成果をあげた。 

4トレンチ(第4図)一次調査で貝層の西端と考えた地点、貝層は浅く、大洞B式単一の遺物を採集予想した地点である。予想し通り浅く30~75㎝で黄色土層に達する。堆積は薄く、耕土(表土)の第1層、第2層は混土貝層でアサリを主体として、貝の壊れているものが多い。第3層も混土貝層で第2層より貝の混入がやや多い。第4層はアサリ、シオフキが細かく破砕され、木炭、魚骨の多い層で2~10㎝で薄い。第5層が黄色粘土層上面である。遺物も層位的に明確に押さえることが出来なかった。上層から大洞A式、BC式?、B式となるようである。 

5トレンチ 1トレンチの住居跡の広がれを確認するために、1トレ東側に設定。南西隅に貝混入まばらな貝層があるのみ、表土と黒色土層に分離される。南西側に遺物の出土が多い。硬い灰の固まりが見られた。特に、南西隅人骨(幼児骨)が出土。このトレンチの時期は大洞A式で尖底の製塩土器が多数出土した。硬い焼土層(スーケル)が検出されたが、時間切れ打ち切りとなった。(製塩遺構のようである) 

4 出土遺物 3・4トレ中心に遺物が多く、層位も明確である。第1次では18類分類して説明した。第2次は第1類に宮戸Ⅱb式相当は僅かに11点出土、第2類の西の浜式は4点のみで主体にならない。土器は第3類からである。

第3類土器 貼瘤状の小突起が器面に施文される一群。特に、3トレ5層がその中心である、量的に多くない24点である。所謂A類である。口縁がやや外反する深鉢形が一般的である。

第4類土器 刻目を帯状に施文した一群。第3類土器の貼瘤小突起帯を帯状に施文したモチーフと同じ手法のものである。これも第3類土器と同じく3トレ5層を中心として出土している。第一次と同じく口縁部に突起を持つもの、口縁部の刻目帯口縁部文様帯の下部に入組文が施文されて、その結節部には貼瘤の小突起を配したものもある。出土量が多く36点である。

第5類土器 刷毛目状の施文が縦位、横位に不規則に施文されたもの、後期の指標である。第3類、第4類土器と共伴する。器形は深鉢形が基本であり、平縁が一般的である。遺物量は少なく17点である。

第6類土器 この一群は量的に言って多くはない.文様手法は第4類土器の刻目施文の口縁部文様帯とその下部に頚部文様帯の入組文の方法と同じである。ただ、刻目手法に大きな違いが箆状工具で口縁部やその下部の入組文にも縦位に間隔の狭い刻目なされるのが特徴(箆刻目)であり、胴部文様の入組文に縄文が施文されるのが一般的である。器形も口縁部が外反し頚部がしまり胴部で膨らむ深鉢形であり、口縁端には山形状の突起を持つものである。そしてこの突起上面が2~3分されるものもある。                    

第7類土器(第5、6、7,8,9図) 三叉文の施文される一群であり、第1次調査と同じように本貝塚の主体の土器である。第1次調査では、三叉文の施文部位、方法によって2群に細分したが、今回は施文部位、方法及び層位的関連から3群に分類した。               

A群土器(第5図1,2、第7図、第9図11) 頚部文様帯、胴部文様帯で入組文の結節部に三叉文の配置されたものであり、第1次調査の第7類土器第7図46~51がこれに相当するものである。                                                                                                                          

器形は深鉢形が一般のようであるが、小形浅鉢,台付き等もある。深鉢形は口縁が外反し頚部でややすぼまる器形で、文様帯も胴部まで展開するものであり、口縁部に縄文帯をめぐらし、その下部に文様が施文されるのも一つの特徴である。しかし、、第7図19のような例外も多少見られる。

また、口縁が肥厚する特徴もあり、小波状口縁、小突起の口縁がある。小突起様態も第5図2、第7図19~21のような低い小突起のものと、第7図22~29のような明確な小突起に分かれるが、その突起上面が2分~3分されてことは同じである。                             

文様は口縁部文様帯として入組文が複列にめぐらされ、その結節部に三叉文の彫刻されているもので、たまに、この結節部に凹部を配して、これを起点として入組が結節されるものもある。頚部に点列を含む縄文帯をめぐらして胴部文様帯と区画し、ここに配される入組文だけに三叉文の配されるものもある。                                                                     

こうして観察してくると、文様帯の区画、施文法から見て,第6類土器と共通する特色を持つものであり差異はわずかであり、刻目施文と三叉文の施文される位置の多少の違いのみのようである。                                                                                                            

要するにこのA群土器の層位は他の三叉文施文土器群より下層に当たる第3トレンチ第4層が主体的であることを明記しておかねばならない。                    

B群土器(第5図4,5、第8図1~21) 一般的に言えば小波状口縁で口縁部に研磨帯をめぐらし、この部分に玉抱三叉文、沈線波状の入組文、三叉文等が施文されるもので、文様がこの口縁部に集約され、下部は縄文か無文のものである。口縁部は小波状となるのが特徴である。器形は深鉢形が基本であるが、浅鉢,椀形,壷形,台付きなど器形の変化は著しい。3トレンチ,第3層を主体的に出土しており、量も多い。

C群土器 (第5図7、第8図31~34、第9図1~17)、C群はは深鉢,浅鉢が中心に施文されるようで、口縁大波状の突起の下部に連弧文に研磨帯を巡らし、ちょうど八字状の研磨部に独立した三叉文の配されるもの、沈線から棘状に上部に沈刻することによって三叉文にした文様の施文される一群である。この一群も細部を観察すると、同じ施文法でも2つに細分されるようである。

a類 高い突起に三叉文の配されているもの。鋭い刺状の沈刻を沈線から上部に施文したもの。

b類 波状突起の下部に三叉文が配されたもの。a類は文様施文から言って、第6類土器にも存在するし、第7類土器のA群土器の第5図1、などにも同じ様な手法が見られ、層位的にも3トレ第4層にその類例が多い.これに対してb類はa類の発展としして把握され、文様帯も口縁部に集約され、胴部文様帯も無くなり、波状突起も突起様態から退歩的なものとして把握されなければならない。第7類土器A群とB,C群の間に時間的差を認められる。全般的にいって器形の分化が著しく、各種の器形がある。胎土も良好で焼成も良く、黒色研磨された美しい土器も認められる。 

第8類土器 (第9図18~27)口縁部に1条の沈線を巡らして、その上部を研磨して口縁部文様帯を構成するだけで、他の文様の施文のないものである。第7類土器の変形であろう。沈線の下部は縄文か、たまに無文である。器形は口縁か小波状か平縁の深鉢形が基本形で、台付の鉢形である。大洞B式に併行する。

第9類土器 (第5図3,8)無文土器である。しかし、土器全面を研磨した土器群と口縁部周辺のみ研磨され、その下部が粗面のもの、器形の変化も著しく、椀形、台付、注口等と存在する。粗面の後者は大部分が深鉢形であることも一つの特徴であろう。

第10類土器 雲形文の施文する一群で量的にも少ない。4トレに多い。縄文晩期大洞C1式に併行するものである。

第11類土器 (第10・11図)工字形文の施文された一群で、晩期大洞A式に併行するものである。器形、及び施文文様によって2群に分類される。

A群 工字形文を施文するもので、土器面が研磨されている一群で、整製土器の仲間である。器形も変化があって深鉢形、浅鉢形、台付等に分化する。

B群 口縁部外反した深鉢形が一般的であって、小波状の口縁で、口縁端に刻目が施文され、頚部は無文帯か、2~3条の沈刻線が施文されて、下部の文様帯と画する。文様帯は口辺部周辺に集約されるし、口縁部裏面に1条の沈刻線が巡らされる特徴をもっているものである。

第12類土器(第12 ,13 ,14図) 第11類土器と共伴する土器群で5トレ、1トレのBC区検出の遺構内部からの出土が中心である。通称製塩土器である。素焼きで輪積痕のある粗面の土器で赤褐色を呈し,尖底か尖底風の丸底の土器群である。全般的にいって剥離痕の甚だしいもので、細片で、残っても底部の部分は特徴的に残る。口縁は内反か直立している。図上復元から考えると、口縁直径18~11㎝内外で、15㎝あたりが特に多いようである。器高のわかる土器は無いが、図上復元から18~15㎝が最も多いようで、尖底の深鉢形である。器厚は2~3㎜程度の薄さで、土器内面が箆で整形研磨されているのも特徴であろう。 

この土器群は松島湾沿岸の縄文晩期大洞A,A’式から弥生中期の桝形囲式に共伴する。特徴的存在がある。

第13類土器 縄文施文の一群で、それも斜行縄文施文が本類の土器群である。その内面は第1次調査と変わらないので参照。

細分がなされた。第1次調査を参照のこと。

底部は 第3表 記載の通りである。その他の土製品 耳飾り1点、 耳栓1点、円盤状土製品3点、石製品 石斧1点、石匙7点、石鏃12点、石棒1点,軽石製浮子1点、その他の石製品2点、貝製品 貝輪5点、骨角製品 銛16点,刺突具類13点、不明骨角器6点、釣針1点,髪飾り3点、弓筈形3点、指飾り1点、(6)自然遺物 多数、新出のもの19を含めて141種である。埋葬人骨2体、屈葬は青年期、幼児骨である。製塩遺構として掘っ立て柱住居跡にからんだ濃縮遺構の採カン遺構と考えられる。3個の円形ピット状が検出された。底面に粘土が張られ内部から大形の製塩土器の出土がある。西の浜貝塚の弥生期の掘っ立て柱の遺構に次いで2例目である。

6 考察 (1)出土土器の編年的考察 特に、出土層位は3トレが堆積も厚く層位も確実である。3トレでは4つの層位に分かれる。第2次では文様、器形、器質等によって12類分類し、更に他資料と比較して8群にまとめることが出来た。

第3群から第4群土器間では、貼瘤施文,紐状突起列点文が特徴であり、粗製土器の一群として刷毛目文施文群があり、これは、第4群土器までに伴出するものである。縄文施文土器群で、特に羽状縄文施文に縄文幅の狭い施文と幅の広い施文があって後期・晩期の時期が区分される。この仲間は宮戸台囲貝塚の1層土器群に併行し、後期後半宮戸Ⅲa,bにあたる(1)。第5群土器は胴部まで文様帯が展開され、口縁突起が配され、突起頂上が2~3分され、口縁部肥厚するものが特徴であり、これらは二月田第6類土器、沢上貝塚第3類土器、また、登米郡石越町富崎貝塚でも分類され(2)、後期最末期として分類されることが確実である。

第2次調査で問題となるのは第7類土器のA類土器である。第Ⅹ群土器と仮称したが3トレ4層を主体として層位的に検出されたものである。入組文を主体とするのもので、その結節部に三叉文が配置したものもので、文様が胴部まで展開することでは第5群土器に共通する特性もったものである。しかし、B・C類土器とは区分される。これは,B・C類土器とは明確に時期差を示すものとして編年的位置付けをなすことは可能である。おそらく第5群土器の仲間であろうが、第5群土器でも新しいもので、このⅩ群土器は第5群土器の次に位置するものであろう。問題は第5群土器との関係は不明であり、今後検討しなければならない課題である。

故山内清男博士が大洞B式を細分してB1、B2に細分した(3)が、この内容にしてもわれわれには不明の点がある。三叉文出現をもって晩期とする通念的解釈から考えると、この第7群土器=第Ⅹ群土器をこの範囲に入れるのに疑問を感ずるのである。第6群土器は晩期大洞B式に併行するものであり、第7群土器は量が少ないが大洞C1式に、第8群土器は大洞A式に当たり、本貝塚の東斜面が中心のようであり、貝堆積も少ない時期のようであり、第1次、第2次調査を通じて主体となる貝層に当たっていない。この時期の松島湾内貝塚は遺跡規模が小さくなることも特徴である。塩竃市一本松貝塚(4)等に類例を求めることが出来る。

こうして考察すると第2次調査の出土土器群は縄文後期末頃の宮戸Ⅲ式から新型式の数型式、晩期B, C1、A式の時期に編年される。

(2)器形と組成 (第15表)第2次調査出土の主体的時期は大洞B式で3トレ3層を中心としている。3トレを中心として、第5層と第1層、第2層の大洞Aを除き、所謂三叉文施文の大洞B式併行の土器の口縁部を考察した時、466個体をか数えることが出来た。深鉢形土器が圧倒的で全体の432個体で92.5%当たる。中でも、口縁外反して胴部で張り出す器形(A型式)、口縁が直立でそのまま底部へという器形(B型式)を比較すると、1:20の割合であり、個体数では21個体と412個体である。それに,A型式は3トレ4層出土が61.9 %占め、3トレ3層は33.3%に過ぎない.A型式は古い様相をもったものと把握出来る。其れに、文様も口縁部文様帯、頚部文様帯、胴部文様帯と3区画され、入組文が施文され、三叉文も配されるのが特徴である。B型式でも口縁直立といっても、A型式と同じように口縁部に突起を持ったもの(類)でも、3トレ4層出土がやや多い。しかしながら、口縁部小波状(b類)、平縁(c類)では圧倒的に3トレ3層出土が多い.また、B型式の粗製の関係は約1:2で、割合では31.4%と68.6%となる。文様帯も口頚部に縮小し、沈線波状入組文、単独三叉文、玉抱き三叉文、魚眼状文が研磨帯に施文される特徴もつものである.B型式では平縁の縄文施文及び口縁部周辺のみ研磨され、胴部は粗面の粗製土器が圧倒的である。浅鉢形土器では口縁部が外反するのが見あたらなかった。また、壷形土器、注口土器、皿型土器の比率は非常に低い。口縁部が「く」字状に外反した器形は少ない。 

器形の組成から考えて二月田貝塚3トレ4層まで出土した大洞B式併行の土器組成は、代ヶ崎沢上貝塚(5)の土器組成と非常に似ていることであり、類例として東北北半の大間町ドウマンチヤ貝塚(6)などがあり、装飾的に乏しい深鉢形土器を中心としている傾向は福島県寺脇貝塚(7)でも確認されていることである。このような傾向はとは違って青森県是川遺跡(8)で壷形、注口土器の比率が高く、貝塚を伴う亀ヶ岡文化の内容との相違を示すものとして注意しなければならないであろう。

4 二月田貝塚の性格―生産用具、自然遺物を通して―

二月田貝塚調査の自然遺物から考えると、哺乳類の遺存体は各種検出されているが、その量的なものを見ると調査面積にも関係があるが、やや低調といわなければならない。しかし、なかでもシカ、イノシシ等の中形獣類は食料として,また、毛皮、鹿角・骨製利器の材料獲得のためにも、その個体数量は多い。

鳥類も海鳥を中心に捕獲され貝塚立地に左右されている。やはり中心となるのは季節的なガン・カモ類が過半を占め、次いで通年海岸地域に生息するウ類である。このことは内陸部の貝塚とは大きく性格を異にする。

以上は狩猟として弓矢を使用されまた特殊な罠猟による方法も十分考えられる。

骨角製品の量的なものから見て二月田貝塚人は海への働きかけ十分考えなければならない。

骨角製品の大半は銛、ヤス等の刺突用具、僅かに釣針は1点であるが漁撈用具である。仙台湾沿岸貝塚の後期末から晩期初頭の貝塚ではこの内容が著しく現れている。二月田貝塚周辺では沢上貝塚があり固定銛6点、燕尾形離頭銛2点、鹿角・骨製刺突具4点,エイ尾刺3点と釣針なしと二月田と性格が非常に似通った貝塚である(9)

ところで、釣漁法は目的物を個々に採捕するもので、従って用具が小さく、使用方法が比較的簡単な漁法で、その利用範囲が広いものである。この一般的な釣漁法に対して、刺突用具の発見が多く、刺突漁法の盛行を示すものであるが、しかし、このような刺突漁法とて、ヤス漁法、銛漁法に区分される。これらは魚骨遺存体等から考えて、その対象物、漁場の種々の条件によって、区分して使用されたものであろう。その中でも漁法から考えて、ヤス漁法は一番原始的な要素を持っており、単純な漁法で用具も先端を鋭く削り上げることによって、その機能を果すのでその利用範囲も広いようである。鉈切洞窟遺跡ではマダイを含むタイ科の各種、ベラ類,ハタ類等は釣漁法と共にこのヤス漁法での主な対象となったことであろうと述べている(10)。本貝塚でもマダイ,クロタイに遺存骨多いことから釣漁法と共にヤス漁法が広汎に使用されたことは事実であろう。また、スズキの鰓蓋骨に刺痕のあるものがあって、ヤス漁法もあったことを示すものである。

また、銛漁法の対象となったのは大形魚マグロ、カジキ類、エイ類,海獣類としてイルカ、オットセイ、アシカ類であったと思われる。ヤス漁法は浅海での低棲魚が主な対象となったが、銛漁法は水中でも表層を泳ぐ魚でなければ効果は半減するものである。この銛漁法は特定種ということでなく、タイ類とかの底棲魚も含めて広く利用されたことであろう(11)

本貝塚出土の魚類遺存骨の主体はタイ類、スズキ、フグ類、マグロ等であり以上のことが十分考えられる。

また、問題としなければならないことは、本貝塚でもマイワシ、マアジ、アイナメ、ハゼ、ウナギ等の小魚骨がブロック採集されていることである。これは椎骨径2~3㎜の小形魚である。これらの採捕技術を示す資料は少ないが、釣漁法,刺突漁法と共に規模の小さい網漁法を考えなければ理解できないだろう。縄文中期末から後期初頭にかけて南境貝塚、青島貝塚には相当数の魚骨層が堆積しており、また、内陸主淡貝塚の富崎貝塚(後晩期)でも、淡水魚であるフナ、コイの堆積層があり、網漁法や特殊な簗漁法などが十分に考えられる。

貝類を含めての自然遺物から考え、また、貝塚立地から考えて、松島湾口に当たるにしても、内湾型貝塚である。湾内で育った小形のスズキ、フグ類、クロタイ等が中心をなし、貝類にしてもアサリ、オキシジミが主体であり、わずかながらもヤマトシジミ、オオタニシの産した部分もあり、内湾の入り江の性格をよく示している。

しかし、外洋への働きかけがなかったわけではなく、マグロ、エイ類、海獣類、サメ、カツオ等の回遊魚に対しても積極的であった証拠は自然遺物や道具から推察することが出来るのである。

厳しい自然の中で縄文人の生活活動の旺盛な創造性に、いまさらながら驚異を感ずるのである。

 

(1)     後藤勝彦「陸前宮戸島台囲貝塚出土の土器について」『考古学雑誌』48-1

林 謙作「日本の考古学Ⅱ―縄文時代―東北」河出書房新社 

(2)     後藤勝彦外「宮城県七ヶ浜町沢上貝塚の調査」『仙台湾』創刊号

(3)     山内清男『日本原始美術(1)』講談社

(4)     加藤 孝「塩釜市一本松貝塚の調査」『地域社会研究』3・4巻

(5)     前掲書註(2)に同じ。

(6)     江坂輝弥外「大間町ドウマンチャ貝塚」『下北』

(7)     渡辺一雄外『寺脇貝塚』磐城市教育委員会

(8)     保坂三郎『是川遺跡』中央公論美術出版

(9)     前掲書註(2)に同じ。

(10)  金子浩昌『館山鉈切洞窟の考古学的調査』早稲田大学考古学研究室第六冊

(11)  前掲書註(10)に同じ。

第8章 1971(昭和46年) 後藤勝彦・丹治英一・槇要照「宮城県七ヶ浜町沢上貝塚の調査 」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                              『 仙台湾』創刊号 

『仙台湾』創刊号 表表紙

『仙台湾』創刊号 発刊の辞

8 1971(昭和46年)宮城県七ヶ浜町沢上貝塚の調査 後藤勝彦・丹治英一・槙要照

仙台湾創刊号

1まえがき  略 

2 貝塚の位置と現状 貝塚は亦楽からほぼ北に延びる丘陵があり、これが途中でV字状に分枝して代ヶ崎浜に突出する。主枝丘陵は塩釜湾(千賀の浦)に面した浜沿えに北東の延びてその先端が、標高56mの松島四大観の一つ多聞山となる。もう一つの分枝丘陵は主枝丘陵とほぼ併行して突出する。この両丘陵に囲まれた入り江がまたY字状に小入り江が二つ開けており、この入り江を二分し、突出した小台地に西斜面に位置するのが本貝塚である。詳しくは、亦楽の七ヶ浜役場からほぼ北へ約1.1km,火力発電所正門前から南東へ約0.6kmであり、宮城郡七ヶ浜町代ヶ崎沢上17の2にある。

貝塚の周辺は畑地であり、この台地沿いに東に排水溝があり貝塚はこの南に限られる。その規模は小さい。沢上貝塚は三つ小貝塚で形成されるようである。台地の先端の西南斜面にある小貝塚(B)と、それから、ほぼ西ヘ30m離れ調査された本貝塚(A)と、この貝塚より北側へ約30m離れた、Y字入り江の南斜面に構成された小貝塚である。この小貝塚を私達は峰囲貝塚と区分している。調査した本貝塚は大洞B式主体の貝塚であるが、台地先端貝塚は大洞C式に時期が下降するようである。また、峯囲貝塚は晩期末の大洞A・A′式に併行する貝塚で製塩土器である尖底土器等が多数出土している。

3 調査の経過  略

4 出土遺物について (1)縄文土器 総数2,132点 口縁部252点、体部1,831点、底部49点である。10類に分類した。

第1類土器(第5図70) 貼瘤状の小突起が帯状に施文される一群である。本貝塚ではこの一群が主体的に出土する層はない。僅かCピット表土から1点出土しているに過ぎない。小突起帯の下部には格子目状に沈線が施文されている。口縁は平縁で直立している。縄文後期の土器である。

第2類土器(第5図67~69)刻目を帯状に数条巡らした土器群である。小破片で不明な点が多いが、68のように胴部の膨らみから考えて、口縁部が外反した器形であろう。平縁もあるが、突起(69)もあり、おそらく偶数個配されるのであろう。Aピット各層から出土しており主体的なものではない。

第3類土器(5図71~73) 僅か3点の出土であるが、第2類土器と刻目施文は同じである。しかし刻目が箆工具(箆刻目)による入組文施文であり、二月田貝塚1次の第6類土器にあたる。

第4類土器(第3図1~9、第4図1~38、第5図43~48) 三叉文の施文された一群であって、本貝塚主体の土器群である。三叉文施文方法、位置によっていくつかに分類される。 

第1に入組文の結節部に三叉文が配置されるもの(第3図1、第4図10、37,38、第5図44~46)である。器形的には深鉢形が基本であって、それも、口縁部が外反し胴部で張り出す器形が多い。口縁部形態も平縁でなく小突起を持つ、二月田第7類土器で46~48、50~51と差異が見られる。45,48,51のような小波状が少ないことである。

第2は口縁部に八字状の研磨があってそこに三叉文の配置された一群(第4図1~13)である。このほかに、三叉文の施文はないが八字状の部分が縄文帯となっている一群(14)であるが前述の仲間として把握したい。器形は口縁を外反した胴部で張り出す器形で口縁部に突起があって、この突起の先端部が肥厚し、三分されいる(2,3)のも存在する。また口縁が小波状を呈し、直立かやや内湾する深鉢形がある。前述の器形は文様が口縁部文様帯だけでなく、頚部、胴部と展開するが、後述の器形は口縁部に文様帯が集約されたものである。

第3は魚眼状入組文の一群(第4図23~26,28~31)である。この一群は小形の土器が多く、器形も台付深鉢、椀形、皿形が多い。 

第4は玉抱き三叉文の施文された一群(第3図3,4,9、第4図10、15~22、第5図47,48)である。この一群は施文帯が口辺部に集約される。10にしても口縁部装飾帯に施文されている。器形も深鉢、椀形、台付と各種である。この中で21は口縁部が「く」字状に外反したているものは例外的である。

第5類土器 (第5図39~42、49~57、第3図10,14)口縁部に1条乃至2条の沈線を巡らし、口縁部に区画を作る一群である。これも2群に分類される。

a類は口縁部に2条の沈線をめぐらして、この2条の沈線間を研磨している一群である(39~42)。ただ、41はこの沈線間が研磨されていない。

b類は口縁部に1本の沈線をめぐらし、その上部が研磨されて研磨帯を構成し、下部は無文か縄文が施文されているものである。その縄文も単節斜行が多く,それもRLが多い。勿論、羽状縄文施文(55)もある縄文の節が1~4㎜で、なかでも2~3㎜が多い。口縁部は平縁か小波状口縁で深鉢形が基本である。揚底風(台付) 深鉢もある。焼成良好で胎土も良質である。

第6類土器 (第5図64~66、第3図6~8,11,12)無文の一群である。しかし、精製研磨されるものと、粗面の無文と2分される。精製研磨された一群は器形的にいって、台付、椀形、壷形、注口土器等に多く、粗面の一群は深鉢形に多い。前者は胎土良質で焼成も良好である。器厚も5~6㎜が多い。 

第7類土器 (第5図58~60、第3図5)斜行縄文の一群である。総破片数の約16%を占める。RL・LRともあるがRLが多い。その施文の幅2.7㎝~1.6㎝とあり、ほぼ3㎝と2㎝に区分される。原体の撚りが細く2㎜位、それ以下のものもある。縄文結節部の回転施文である綾繰文が見られる。特殊なものとして無節の縄文もある。口縁部は一般には平縁であるが58ように小波状のものも存在するし、口唇部が箆で整正されているものもある。深鉢形が基本である。特殊なものとしては器厚も8㎜程度で、厚手で胎土に繊維の混入した土器が数点出土していることである。 

第8類土器(第5図61~66)羽状縄文施文群が本類土器群である。結束された羽状縄文の施文はない。器厚5㎜前後が多い。

第9類土器 (第5図74~82)羊歯状文を主体とする一群である。出土

点数も多くなく、それもCピットに集中している。器形は小形の深鉢形が多く、それも「く」字形に内湾したものが多い(79~82)。文様も口辺部に圧縮集約され、口縁端に細い刻目が施文され羊歯状施文も細長いものである。また、76,78の様に香炉形の器形もあり、三叉状入組文の変形状の波状沈線文が施文されたものもある。

第10類土器 (第5図83~87、第3図13)平行沈線に刻目を施文した一群で縄文晩期大洞C1式に相当ものである。主体はCピットであるが、Aピットの第1層から1点だけ出土しているが、全体として僅かである。器形は深鉢形、椀形、皿形がある。底部はAで18点,Cで31点である。平底が一般で台付上げ底風が僅かであるが存在する。平底でも無文が圧倒的であり網代文3点である。

2     土製品 破片土偶3点、土製耳飾2点。

3     骨角製品 鹿角製銛頭6点、鹿角製・骨製刺突具4点、魚骨製刺突具エイ尾刺を利用3点。

4     石製品 岩版1点、石製垂飾具2点、その他の石器、堀野宗俊・佐藤一郎氏の採集品石匙9点、採集品石鏃48点、石錘2点、石斧4点がある。

5     貝製品 貝輪1点サルボウ製。

6     自然遺物 軟体動物門①腹足綱3種類,②斧足綱13点、脊椎動物門①魚綱6点、②両棲綱1点、③鳥綱5点,④哺乳綱5点、総計33種であるが松島沿岸貝塚から考えると少ない。アサリ中心の貝塚である。二月田貝塚の貝類の状態と非常に似ている。

Ⅴ 出土遺物の考察 

1 土器編年について 施文文様によって10類に分類した。主体的な土器群は第4類土器の三叉文施文である。大洞B式。しかし極めて僅かであるが貼瘤、刻目文の縄文後期後半の土器も存在する。この第4類は三叉文、玉抱き三叉文、魚眼状文等の施文から晩期初頭大洞B式に併行すると考えられる。しかし、本貝塚の三叉文施文土器群は、施文方法・位置によって4群に分類された。

(1)入組文の結節部に三叉文のあるもの、

(2)口縁部に単独に三叉文のあるもの、

(3)魚眼状入組文のもの、

(4)玉抱き三叉文のものである。層位的ではない。第4類土器の一般的特徴として文様は口辺部に集約される。ただし、(1)の仲間に文様が胴部に発展するものがあり、また、文様発展から考察すると、入組文施文は後期後半の特徴であり、その影響を受けた入組文の結節部に形成発生する三叉文は古い伝統が継承されたものとして理解される。口縁部の形態から見ても一般に小波状を呈するし、文様も口縁部に集約される。しかし、口縁部に突起を持ったものがあって、これらは文様が胴部まで展開するし、口縁部文様、頚部文様、胴部文様と区画される。この器形はこの時期まで後期の伝統として受け継がれるものである。

ここにも古い伝統を認識することが出来る。したがって第3図1、第4図2、3、4、10は古い要素を持ったものとして把握しなければならない、(2)(3)(4)は(1)との間に器形的な差が認められるし、また、器面調整の変化や文様帯の退化が見られることである。第3図1との間に器形的な差が認められるし、また、器面調整の変化や文様帯の退化が見られることである。第4図1の小波状口縁下の三叉文の単独施文は10の突起下に配された三叉文施文の継承であり、それも、4や第3図1の実測図は口縁部文様帯と頚部文様帯を区画する帯縄文から上下に突出した棘状のものに見るような施文が独立したものであろうし、入組文結節部に施文された三叉文の独立と考えられる。このような収縮した口縁部文様帯も縄文施文部分が消滅して、器面研磨帯となり、そこに玉抱き三叉文、魚眼文が施文されるものに変化していく,もちろん、器形も小形が目立ち、浅鉢状の椀形や台付が多くなる。中でも、第4図13などは三叉文の退化した形態として理解されるし、口縁部が「く」字状に外反した21はこの時期のものとして特殊な存在であり、東北北半と違って何か仙台湾周辺の地域性と考えたい.

勿論、第4類土器だけで大洞B式全体を説明できるものではなく、第5類土器もその仲間として把握しなければならないし、第6類土器の精製無文土器群も大洞B式の精製土器として位置づけしなければならない。

粗製土器の内容と精製土器との組成との関連も注意しなければならない。破片点数で見ると全体的に見れば精製土器13.6%粗製土器83.9%であり、是も、口縁部においても、26.2%と60.7%であり、粗製土器が多い。縄文施文土器群第7類・第8類で縄文はRLが多いということと、羽状縄文には結束された羽状縄文施文がないことも特徴であろう。以上のことからも本貝塚の精製土器群第4類,第5類と第6類土器の一部を晩期初頭大洞B式に比定される。

近来、縄文後期から晩期への発展の中で、後期と晩期の区分を何処で一線を引くかは論議のあるところである。三叉文の出現をもって晩期とする一般的な考えや、器形と文様帯の関係によるなどの考え方がある。本貝塚は後期末の資料が少ないが、本貝塚に近い二月田貝塚の2次にわたる調査、石越町富崎貝塚調査でも後期末から晩期初頭の資料を採集した。その中で本貝塚第3類土器,二月田貝塚の第6類土器の手法を持った土器群は富崎貝塚に存在する。地域差なのだろうか、それにしても、この時期までこの手法で施文されている土器群は新資料であろう。また、本貝塚での第9類土器は大洞B~C式である。近時この大洞B~CもB~CとB~Cに細分されたがその内容は不明である(6)。しかし本貝塚のわずかな資料でも文様発展から考えて大洞B式に近いものと羊歯状文が非常に長く伸びて刻目をなし大洞C1式に近いものとがあることを指摘できる。

2 器形と土器組成について 本貝塚調査分と調査以前出土を含めて、口縁部を中心に考察し、大洞B式に当たるもの143個体を数える。

深鉢形土器が圧倒的で全体の83.9%を占める。中でも、口頚部が外反して開き胴部ですぼまり底部へという器形(A型式)、口縁が直立でそのまま底部へという器形(B型式)を比較するとほぼ1:9の割合である。個体数では12個体と109個体である。B型式精製土器との比は1;4となる。口縁部からの個体数で問題が在るが、B型式の精粗の比は、44.8%と55.1%となる。粗製土器の器形はB型式で、それもC類だけである。

浅鉢形土器、壷形土器、注口土器等の比率は非常に低い。前述もしたが材料の少なさから即断は出来ないにしても口縁部が「く」字状に外反した器形が少ないことも一つの材料であるが、東北北半(津軽地方)の土器群、中でも青森県是川遺跡出土の土器群と浅鉢、壷形、注口,香炉形の土器組成の比率に差異が認められる。是川遺跡は壷形、注口土器の比率が高いことである。しかし、同じ東北北半でも大間町ドウマンチャ貝塚(9)と本貝塚や、二月田貝塚の土器組成の比が似ていることは注目しなければならないだろう。そして、装飾性に乏しい深鉢形を中心としていることも重要なことである。このような傾向は福島県寺脇貝塚でも確認されていることから考えても、亀ヶ岡文化の内容理解において貝塚出土の遺物から、即ち、漁撈活動を中心とした亀ヶ岡文化のあり方を示すものである。 

3 自然遺物からの考察 動物遺存体は33種と仙台湾周辺の貝塚として非常に少ない。盗掘などのためと考えられる。しかし、スズキ、フグ、クロダイ等の内湾性の魚類が多く、それに、マグロなどの大形の回遊魚やサメ類の外洋性の魚類みられ、これに伴って漁撈用具として刺突具が多い。浅海の内湾での活動が多かった。近接した二月田貝塚と同じ性格である。

漁撈用具から見ても釣針等の釣具が極めて少ないことも特徴である。ドウマンチャ貝塚では銛・釣針類が皆無であるという。仙台湾、三陸沿岸、相馬沿岸は回転離頭銛,有鈎銛頭、各種の釣針等の鹿角製漁具が非常に発達した地方であり対照的に違いある。勿論、ドウマンチャ貝塚の性格を狩猟活動が低調でマダイ漁を中心とした漁猟活動を主生業と考え、専業的漁撈村落の可能性を示されており(11)、仙台湾周辺の貝塚と直接比較できないとしても、釣針が少ないとう言う特徴は漁撈形態を考える場合、非常に共通的なものと見ることが出来る。晩期初頭の漁撈活動は原始的な刺突漁法、イワシ等の網漁法が盛んであったのであろう。特に、網漁法に付いては遺存遺物が少なく明確ではないが、貝層内部に含まれる、小形魚の遺存骨の分析、検出で明瞭となるであろう。二月田貝塚でも貝層ブロック中にマイワシ、マアジ、アイナメ、ハゼ、ウナギの遺存骨等が相当量検出されている事実からも十分考えられる。

(1) 後藤勝彦「宮城県名取市高舘金剛寺貝塚出土の縄文式土器の研究―陸前地方後期縄文式文化の編年的研究―」『宮城県の地理と歴史』第2輯

    後藤勝彦「陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器について―陸前地方後期縄文式文化の編年的研究―」『考古学雑誌』第48巻第1号

   斎藤良治「宮城県鳴瀬町宮戸台囲貝塚の研究―昭和30年度Cトレンチ―」『宮城県の地理と歴史』第2輯

   斎藤良治「陸前地方縄文文化後期後半の土器編年について―宮戸台囲貝塚及び西ノ浜貝塚出土の土器を中心として―」『仙台湾周辺の考古学的研究』

   槙 要照「陸前宮戸島に於ける縄文後期末遺物の研究―台囲出土の土器についての一考察」『仙台湾周辺の考古学的研究』

(2)a 山内清男「日本遠古之文化」先史考古学論文集Ⅰ

   b 山内清男「所謂亀ヶ岡式土器の分布と縄文式土器の終末」先史考古学論文集Ⅲ

   c 渡辺一雄、松本友之、渡辺誠、馬目順一『寺脇貝塚』磐城市教育委員会

   d 今井富士雄、磯崎正彦『十腰内』岩木山刊行会

   e 安孫子昭二「東北地方における縄文後期後半の土器様式―所謂「コブ付土器」の編年―」『石器時代』9

(3) 二月田貝塚の第二次調査を実施して、昭和44年7月の第一次調査よりも好資料を収集した。特に第二次調査は南斜面にピットを設定し、晩期初頭の遺物を層位的にほぼ確認位置づけることが出来た。二月田貝塚第二次調査報告として整理し、刊行準備中である。

(4) 富崎貝塚は淡水産貝塚で桑畑となっており、桑への追肥のため破壊されることになったので、町史編さんにも関連して事前に調査したものである。

(5) 宮城県塩釜女子高等学校社会部「宮城県七ヶ浜町吉田浜二月田貝塚発掘調査報告」

(6) 山内清男『日本原始美術Ⅰ』講談社

(7) この器形の分類には、安孫子昭二「東北地方における縄文後期後半の土器様式」石器時代9の記載内容を参考にした。

(8) 杉山寿栄男『日本原始工芸概説』

(9) 江坂輝弥、渡辺誠、高山純「大間町ドウマンチャ貝塚」下北

  これによると第Ⅱ群(大洞B式)土器561個のうち、深鉢427、鉢80、広口壺23、細口壺20、浅鉢8、注口3個体で比率は深鉢・鉢90.4%、壺7.7%浅鉢、注口1.9%を占めるにすぎない。

(10) 前掲書註(2)cに同じ。

(11) 前掲書註(9)に同じ。


    第9章  1980(昭和55年)小井川和夫「 宮戸島台囲貝塚出土の縄文後期末晩期初頭の土器」『宮城史学』7号 

本論文は後藤も参加し昭和30年宮戸台囲貝塚Bトレンチ8月3日から13日の調査で小井川氏が整理したもので、宮戸Ⅳ式(大洞B式に先行する)土器群の二月田貝塚後の成果である。

東北地方の縄文後期、晩期は、亀ヶ岡式土器の出現をもってなされる。しかしながら、この区分は大別であって、その細部についての検討は十分なものではない。たとえば東北地方の後期編年は、良好な資料が少ないということに影響されているが、二、三の地域で徐々に研究が進められつつあるものの、なお判然としない部分が多い。仙台湾地方では、南境式、宝ヶ峯式、金剛寺式の大きな系列が組み立てられた(伊東1957)後、宮戸島・西の浜貝塚出土の土器等を基に編年研究進められている(後藤1956,1957,1959,1961、斉藤1959,1968,槙1968).しかし、各型式の内容が十分明らかにされてはおらず、今後の補正が必要とされている。特に末葉については不明な点が多い。

亀ヶ岡式土器についても、大洞諸型式に細分され、一応の編年体系が明らかにされている(山内1930)ものの、所謂雨滝式の提唱(芹沢1960)、更に同型式の確認(戸沢)、大洞B・B-C式の細分(山内1964註1)等、後期と隣接する部分において再吟味の必要に迫られており、各研究者の晩期初頭の土器、後期最終末の土器群の把握の相違とも併せて、この時期の土器群の研究はますます複雑化しているといえる。

このように、後・晩期の接点の状況が不明瞭であるということはつまり、亀ヶ岡式土器の開始という点が不明瞭であるということであり、このことは最近先史時代研究の大きな視点として取り上げられつつある「文化圏」・「領域」等の問題を扱う際にもかなり障害となっている。

従って、後・晩期の移行過程の土器群を追求することによってこの大区分を吟味することは、亀ヶ岡式土器(文化)の発生,及びその圏等を考える上でも意義が在ることと思われる

近年、我孫子昭二氏は、この移行期の土器群の解明のために、深鉢形土器を用いて様式論を展開し、しかる後に、「けいしき」や地域差,地域性の解明を図るという方法を提示されている(我孫子1969)。

その裏付けのためにも、各地域の確実な資料の提示とその累積によって問題の核心に近づく必要がある。幸いにして筆者は、宮戸島台囲貝塚出土の資料を整理する機会を得たので、本稿において,台囲貝塚と言う一地点に於ける後期~晩期への移行課程の土器群の変遷を考えてみたい。(註2)

(註1)山内博士の大洞B式の細分は1944頃と言う(今井・磯崎1968)が、管見によれば明記されたものは「日本原始美術1」(山内1964)である。

(註2)(資料は宮城教育大学歴史研究室に保管、その後鳴瀬町に移管、津波の被害を受けて不明。

本稿で扱う資料は昭和30年度に調査されたBトレンチ出土の遺物である。調査面積は2×6mと小規模なものであり、遺物の量は多くない。

3 Bトレンチの層位は表土,第1貝層、第1混土層、第2貝層、第2混土層、第3貝層、第3混土層・第4貝層・第4混土層の9層である。出土土器は口縁部破片で約1200点ほどである。しかしながら、縄文施文または無文の粗型土器の占める割合が大きく、また各器形が十分揃ってはいない。従って、個々ではそのうちでも比較的量の多い深鉢形土器のうち文様の施されたものを主な対象として取り扱う。土器は、その出土層位と特徴から次の4群に分けられる。

第1群土器(第1・2図)第1貝層・第1混土層から出土している。

〔深鉢形土器A類〕(第2図7~9)口縁部が外反し、頚部で締まり、再び体部が張り出して底部へ至る器形である。出土量が少なく詳細は明らかでないが、次に述べる深鉢形土器B類に比べ、概して小形であり、台付のものも見られる。小波状口縁のもの(第2図8)や、それに山形突起を組み合わせたもの(第2図7・9)がある。文様帯は、頚部に施文された縄文帯(第2図7・8)刻目帯(第2図9)によって上下に2分され、各種の三叉文で文様が描かれる。胎土・焼成共に良好で丁寧な作りであり、ことに無文部分は入念に研磨されている。

〔深鉢形土器B類〕(第1図、第2図1~6)口縁部が直立またはやや開き、体部はやや丸みを持つがほとんど屈曲はなく底部にいたる器形である。大小の別がある。小波状口縁のものと平縁のもとがあるが、前者が圧倒的に多い。口辺部に箆状工具によって磨かれた文様帯を持ち、その下部は1~2条の沈線で画される。文様帯中は、無文のままのもの(註3)(第2図6)と、三叉文を基調とする文様が施されるものとがある。三叉文は、地文としての縄文と組合いながら

、中央の点と点対称に関係で連結する玉抱き三叉文(第1図1・2、第2図2)、点または円文を両側から挟みこむような魚眼状三叉文(第2図1・3・5)、また小波状口縁の波頂へ付き出す三角形の彫法によるもの(第2図4)など各種がある。体部及び文様帯中に施される縄文は多くがLRの斜行縄文で、体部縄文中に稀に綾絡文が見られるもの(第2図2)もある。なお、第1図1~3の土器は体部下半の色調が赤褐色に変化し、現存部下端の割れ口が脆く崩れており,再酸化作用をうけているものである。また、第1図3の土器に施された、大腿骨文を思わせるような入組文による文様構成のものは本類中では例外的なもので、1例のみ認められる。

第2群土器(第3図)第2貝層から出土している。

〔深鉢形土器A類〕(第3図6~9)口縁部が平縁のもの(第3図8)、波状のもの(第3図6)、頂上部が2・3分する山形突起を有するもの(第3図7)、あるいは波状突起と山形突起が組み合うもの(第3図9)など各種があるが、平縁のものは少なく、発達した突起を持つものが特徴的である。いずれも頚部に縄文帯(第3図6・8)や、横長楕円形の彫去による文様(第3図7)を有する。文様は頚部を挟んで上下共に施される。各種の三叉文を基調とした文様であるが、それらは、第1群土器に見られように三叉文として独立し、いわば線化したものではなく、全体的には入組文の一部と解することも可能なものが多い。なお第3図6の土器は、頚部があまり締まらず、口縁部は直立に近く、また頚部以下の体部に文様は施されないが頚部に縄文帯を有すると言うもので、器形と文様帯の配置の関係においてはA・B類の中間的なものであり、文様的には第1群土器に類似する要素が認められる。

〔深鉢形土器B類〕(第3図1~5)第1群土器に比べて資料が極めて少ない。小波状口縁をなすもの(第3図1~2)と山形突起を有するもの(第3図3~5)とがある。後者においては、3は小形のもので肥厚する山形突起下に入組文を主文様とする文様帯を有するものであり、入組文中には三叉状文も併せて描かれている。また4は口縁部に無文帯を有するものである。突起はなだらかに高まり僅かに肥厚するもので頂部が2分されている。なお、前者についてはその諸特徴が第1群土器と同一であり、それと区分することが出来ない。両群の移行期に向いては或いは共通するものである可能性もあるが、発掘または整理作業の過程で第1群土器が紛れ込んだと考えられないこともない。

第3群土器(第4図、第5図1・2)第2混土層、第3貝層から出土している。 

〔深鉢形土器A類〕(第4図3~5)出土点数は多いが、器形・文様の全容を知れるものは少く、頚部以上について述べる

口縁部に、頚部の2・3分する山形突起を持ち、突起を含めて口縁端は肥厚する。文様帯は、口縁下に施される1条の沈線によって上限が画され、その中に入組文が施される。地文は縄文であるが、入組文中を箆状工具による刻目で埋める手法も多く認められる(第4図4・5)。頚部文様としては、瘤状の高まりと横長楕円形の彫去を交互に配したものも在るが、資料は少なく全体的には明らかでない。体部文様も頚部同様はっきりしないが、第2群土器のそれらから推して、入組文を主体とすると思われる。

〔深鉢形土器B類〕第2群土器同様資料が少ない。口縁部に頂部の2分した大小の山形突起を交互に配し口縁下に2条の沈線をめぐらせてその下に入組文を施したもの(第5図2)と、口縁部に無文帯を有し、山形突起をはいしたもの(第4図1)とがある。いずれも突起部が肥厚する。次に深鉢形土器ではないが、本群に特徴的な資料が2・3出土している。

〔壷形土器〕(第4図6・7)口縁部が内傾し、頚部は以下で球形に外張りして底部へ至る器形である。頚部に横長楕円形の彫去による文様帯を有し、第4図6では体部にボタン状突起を中心として結節部に三叉文の彫去のあるいは入組文による文様帯をもつ。

〔皿形土器〕(第5図1)平面形は楕円形である。口縁部長軸上に2個の大突起を持ち、突起内面には一種の魚眼状三叉文が施されている。また体部にも、4個の魚眼状三叉文を主体として文様が見られる。

〔台付浅鉢土器〕(第5図2)台部に三叉状および十字状の透しがある。体上部には、深鉢形土器口縁部の突起に近似した山形突起帯が巡っている。

第4群土器(第5図4~9)第4貝層、第4混土層から出土している。瘤状小突起を持つ土器群と、瘤の退化形態と見られる刺突文を有する土器群とがある。これらの遺物は、後期後半に位置づけられ、以後の展開等を考慮するうえで十分な吟味を必要とするものであるが、本トレンチの場合資料が少なく、また最下層近くであることもあって、層位的に混乱を認められることから、本稿において省略する。

(注3)無文帯のみのものを文様帯とすることには疑問があるが、沈線によって区画すると言う意図が認められることから、本稿では文様帯の範疇に含めた。

以上に述べた土器群が、縄文後期末ないし晩期初頭に位置付けられることはこれまでの研究によって明らか、ここで現段階における当後期の編年研究の状況を概観してみたい。

陸前地方の縄文後期の編年は、まず伊東信雄氏よって、南境式→宝ヶ峯式→金剛寺式の大枠が提唱された(伊東1957)この後、後藤勝彦氏は宮戸島台囲貝塚出土土器を持って宮戸Ⅰa(注4)・Ⅰb・Ⅱa・Ⅱb・西の浜・Ⅲa・Ⅲb式細分し(後藤1956他)、主にいわゆる瘤付土器(宮戸Ⅲa)間での編年を推論した。次いで後藤氏は、瘤付土器以降についても、金剛寺貝塚出土の資料をもとに、「大洞B直前型式=宮戸Ⅳ式」を設定し(注5)(後藤1959)、後期編年の確立を意図したが、その後の諸論文では宮戸Ⅳ式を廃し、宮戸Ⅲb式として一括した(後藤1961他)。

また、齋藤良治氏もかつて「大洞B直前式」を考え(斉藤1959)、その後これを宮戸Ⅲb式として独立させた結果(斉藤1968)後藤氏との間で「宮戸Ⅲb式」の把握において違いが生じている。さらに、その後七ヶ浜町二月田貝塚においては、大洞B式以前の新型式が層位的に確認されたことが報じられている。

また縄文晩期の編年は、始めに述べたように、山内清男氏の大洞諸型式の設定後、目立った動きがなかったが、芹沢氏・戸沢氏による「雨滝式」の設定、確認、山内氏による大洞B・BC式の細分等の作業以後混迷しており、晩期初頭の土器は夫々の研究者よって大洞B式、雨滝式、大洞B1式等に使い分けられている、その後我孫子氏は、後期後半から後期初頭の深鉢形土器について精緻な研究を行い、東北地方の土器編年についての論考を発表した(我孫子1969)が、具体的な点で、処所に疑問が残り、氏自身も認めておられるように、あくまで仮説の域をでていない(我孫子1973)。このような研究の段階において、本貝塚の土器編年的な位置づけを行うことは困難であるが、文様、器形についての変遷の実態を提示しながら、若干の考察を行うこととする。

〔文様について〕各群における文様の変化は、入組文と三叉文との関係において次のように理解される。それは、第3群土器は、文様の主モチーフが入組文であること、第2群になると、入組文が主であるが、それに三叉状文が付加されること。第1群では、入組文的な要素は薄く、むしろ三叉文が支配的になるという点である。と言っても、その違いは画然としたものではなく、多分に漸移的である。

  ところで、仙台湾地域では、模式図のように、入組文の結節部から段階的に、三叉文の発生する過程を示す資料が多くの遺跡で知られているが、Bトレンチ出土の各群の土器は、この各段階に合致するものと考えられる。つまり、いいかえれば三叉文は、入組文の発生時(後期中葉)からその発生の萌芽があるといえるのであり、三叉文と入組文とはその共存期(後期後葉)においては不可分のものである。従って、単に「三叉文」と言った場合、どの段階で独立した三叉文として理解するか意見の分かれるところであるし、また、共存期にあっては、同一土器内における共存だけでなく、第3群の壷・皿・台付・浅鉢土器等に見られた様に、所謂三叉文に施された器形と、それをもたない器形の共存という現象も認められる。三叉文とは不可分の関係にある入組文についても、例外的ではあるが、第1群の第1図3のように、三叉文が主文様の時期においてもなお、入組文が施文される例がある。

   以上のように、台囲Bトレンチ出土の土器における入組文から三叉文へという文様的な変化は両者の共存現象をも含めて、一連の流れとして矛盾なくその変遷を辿ることが出来る。その間に特に断絶は認められない。従って、暗に三叉文の出現という文様的な面から、後期と晩期とを区別する見方もあるが、既に述べた事柄を理由として、それには多くの無理が伴うと思われる。なお、口縁突起部に施される三角形に彫去された三叉文については、第3群土器から見られるが、その系統については明らかに出来なかった。また、資料が1片でかつ小片のため特に触れなかったが、第3群深鉢形土器A類に見られた刻目手法についても、稀ではあるが、第1群土器にも認められている(第2図9)。

〔器形について〕

口縁部突起 口縁部突起もそれぞれ段階的に変化する過程が知られる。第3群土器にあっては頂部の2,3分する突起が付せられ、突起及び口縁端が肥厚する傾向にが認められる。このような現象は皿形土器に付いても見られ、また台付浅鉢形土器では、体部に突起帯をめぐらしている。本トレンチ出土資料中には見られないが、沼津貝塚(沼津貝塚出土石器時代遺物3・図版第61―1)、西の浜貝塚(第5図3・宮城教育大学歴史研究室蔵)出土の注口土器に付いても、このような突起の存在が知られていることから、このような突起はある広がりを持つ一つの特徴とも考えられる。

第2群土器では、その形態が更に発達し、山形突起の切り込みが大きくなり、また波状突起との併用も見られるようになるが、肥厚現象は顕著ではない。しかし、第1群土器になると一転して、小形土器の一部を除き低い小波状口縁へと変化する。第3図5の土器は、波状口縁では在るが、丈の高いもので、第2群、第1群の過渡的段階のものと考えられる。

深鉢形A・B類における変化 深鉢形土器の器形そのものについても変化が見られる、A類は第3群、2群において主体的な位置を占めているが、1群においてはさほどではない。このことは、2群から1群へ移行する過程で、2群の3図6、1群2図7・8の土器が示すように、小形精製化する現象よるものと考えられる。と同時に2群3図5の土器から見られように、A類のうちのあるものがB類へと転換することも考えられる。この土器が中間的な要素持つことは、既に各所で指摘した所であるが、まず器形的に頚部でやや括れながら、全体的には単純な深鉢形B類に近いこと。しかし文様帯の巾が広く、頚部に文様帯を有していることなどである。B類については、2・3群のA類に代わって、無文帯を持つものの他に、三叉文を主とした文様帯を有するものが出現し、1群で主体的な位置を占めると言う逆のことが言える。なお、1群の小形土器中にB類が認められるが、2・3群のB類の例が少なく, B類について十分考察することは出来なかった。(註6)

Bトレンチ出土の土器群の概略とその変化の過程を述べた。この変化の中で、文様上の明確な転機を捉えることは困難であった。しかしながら、器形の変化から大きな転機が見られようである。即ち,深鉢形土器A類が一方では小形化し、また一方ではB類へ、それも文様が簡素化された形で転換し、その結果、大形の単純な深鉢形土器と、小形の精製土器の組み合わせへと、セット関係が分解・整理の現象がみられる。そして第1群の大形の深鉢形土器(B類)には、全てでないが煮沸用に使用されたと思われる再酸化の痕跡のあるものもある。ところで、縄文式土器の大別における後期と晩期の区分は、いわゆる薄手式の範囲と、亀ヶ岡式及びその併行型式との区分とされ(山内1937)、また亀ヶ岡式土器の重要な特色は、粗製土器と精製土器の2者があることである。そして、粗製土器は、鉢形土器が大部分で、文様が施されることは稀であるが、あるいは簡単なものが施されるのに対し、精製土器は一般に小形で各種の器形があり、華やかな文様が加えられる(山内1930,1932)とされる。本トレンチにおいてこのようなセット関係への転換の現象は、第2群土器と第1群土器との間に認められるのである。既に述べたように、両群間には文様的な著しい変換は特にみられないが、この器形及びセット関係の変化をとらえて、本稿においては後期最終末の土器群として把握出来ると考えられる。なお、これまでいわれている大洞B1式土器は、第2群土器を指すものと思われる。 

(註4)その後、後藤氏は、宮戸Ⅰa式は中期に含まれるべきものとして後期編年から除外された(宮城県教委1969)

(註5)加藤孝氏も宮戸Ⅳ式の名称を用いたことがある(加藤1960)

(註6)深鉢形A・B類の量比の考察は「二月田貝塚」においてもなされている(塩女社会部1971)

東北地方の晩期の土器は、亀ヶ岡式土器という名称のもとに統一され、その研究の歴史も長い。しかしながら、その大綱により具体的な吟味が十分でないまま今日に至っており、近時混乱が生じつつある。本稿においては、仙台湾の一地点における後期から晩期への移行過程を紹介したが、資料的には深鉢形土器に限ったものであり、それ以外の器形等についても更に広く検討を加える必要がある。また、地域的には、いわゆる亀ヶ岡文化圏の中心部からはやや外れており、その点をも考慮した上で本資料において認められた変化の過程がどの程度の地域、範囲で承認されるかなど残された問題は多い。

 

謝辞、引用・参考文献 略 


    第10章  1968(昭和43年)齋藤良治「 陸前地方縄文文化後期後半の編年についてー宮戸台囲貝塚及び西の浜貝塚出土の土器を中心として―」『仙台湾周辺の考古学的研究』宮城県の地理と歴史第3集

1 はじめに (要約)陸前地方の縄文文化後期の編年が伊東教授の代表する遺跡名による南境、宝ヶ峯、金剛寺式が提起された、宮戸遺跡調査会による宮戸台囲貝塚による層位的成果による宮戸Ⅰab式,Ⅱab式, Ⅲab式が示されている。最近では更に細分され西ノ浜式がしめされている。伊東教授の金剛寺式の実態、宮戸Ⅲab式の内容を検討したい。筆者の調査担当した西の浜貝塚のRトレンチで後期遺物を相当量出土し、台囲貝塚のCトレンチでも後期遺物を取得した。両者の関連について、後期後半の編年を中心として若干の考察を加えたい。両貝塚出土土器の各層位関係、土器に施された文様、器形等の変遷過程を考察し、後期後半の土器編年に付き私見を述べて見たいと思うのである。先学の御教導を仰ぎたいと考えている。

 註(1)伊東信雄「宮城県古代史」 宮城県史1

(2)後藤勝彦「陸前宮戸島台囲貝塚出土の土器編年について」塩竈市教育論文Ⅱ

(3)伊東信雄(1と同じ)

(4)伊東信雄「沼津貝塚出土石器時代遺物」Ⅲ 東北大学文学部東北文化研究室 

(5)後藤勝彦「宮城県名取市高館金剛寺出土縄文土器の研究―陸前地方の縄文文化の編年的研究―」『宮城県の地理と歴史』第2輯

(6)後藤勝彦「陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器について―陸前地方の後期縄文文化の編年的研究」『考古学雑誌』第48巻第1号

(7)加藤孝「陸前宮戸島台囲貝塚の研究」東北史学会(昭和31)

加藤孝「陸前宮戸島貝塚調査概報」東日本史学会(昭和30)

加藤孝 「後期の銛と晩期の銛」東日本史学会(昭和31) 

(8)後藤勝彦「宮城県宮戸島里浜台囲貝塚の研究」『宮城県の地理と歴史』第1集

     後藤勝彦「陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器編年について」塩竈市教委教育論文Ⅱ

(9)齋藤良治「宮城県鳴瀬町宮戸台囲貝塚の研究―昭和30年度Cトレンチ」『宮城県の地理と歴史』第2輯

 

2 宮戸島台囲貝塚、西ノ浜貝塚について

(1)宮戸台囲貝塚の位置(略)

(2)西ノ浜貝塚の位置 西ノ浜貝塚は松島湾をへだてて宮戸島の対岸に当たり、宮城県松島町高城磯崎にある。宮戸島貝塚同様、松島湾周辺に於ける数多くの貝塚の中でも規模の大きい貝塚の1つである。貝塚は、松島湾に面して南に緩く傾斜した丘陵の周辺にある。

(3)両貝塚の調査 宮戸島貝塚は古くから里浜貝塚として調査研究され、多数の人骨を出土した貝塚として有名である。今回この貝塚の出土遺物は、縄文中期後半、後期、晩期、更に弥生式文化の時代まで含む土器・骨角器、石器等があり、また多数の人骨が埋葬状態のまま発掘されたことも見逃せない。この貝塚の第1の特徴は骨角器の保存状態が極めて良好で、各種の骨角器類が多量に発見された事である。次に貝塚を形成する貝の堆積が極めて厚く、各期の文化を示す層序が極めて判然としていた。従って、各文化層に含まれる土器を基にしてその編年を考察するのに好都合であった。更に、土器の保存状態が良好で、出土量の多かったことも特徴の1つとして付け加える事が出来る。

 西ノ浜貝塚の調査は東北大学教育学部歴史研究会が行った、昭和34・35年の調査は宮戸島で確認された後期の編年の再確認が目的であった。出土した遺物は後期後半より、晩期初頭にかけての土器が主だった。土器、骨角器、石器等の遺物は宮戸島に比較して多くは無かったが、その保存状態は良好であった。

註 (1)松本彦七郎「宮戸島里浜貝塚の分層的発掘」『人類学雑誌』34巻 (大正8年)

同     「陸前宮戸島の古人骨発掘について」『歴史と地理』3の1(大正8年)

同     「宮戸島里浜介塚人骨の埋葬状態」『現代の科学』7の2(大正8年)

同     「宮戸島里浜貝塚及び気仙郡獺沢介塚の土器」『現代の科学』7の56

     早坂一郎 「宮戸島先住民遺跡概報」『現代の科学』7の1


3 両貝塚の層位関係について(第1図) 台囲貝塚Cトレンチ、西ノ浜貝塚Rトレンチの層序及びその関係は第1図に示した通り。各層出土の土器をそれぞれ特徴あるものにまとめ、層位と出土土器の類型を次ぎに説明する。

台囲貝塚Cトレンチにおいては、7つの層が認められた。上層から数えて、第1貝層は所謂晩期大洞B式と思われる土器を出土した層で、この層出土の土器を第5類土器とする。第1混土層、第2貝層、第2混土層出土の土器は口唇部に山形の突起を持つ土器群でこれを第4類土器とする。第3貝層、第3混土層出土の土器は、突刺文様帯を有する土器群で、第3類土器とする。以上のように貝層は7つ認められたが、そこから出土した土器をまとめると、第5類土器、第4類土器、第3類土器と3つにわけることが出来る。

西の浜貝塚Rトレンチにおいては、3つの層が認められた。これらの層より出土した土器を各類ごとにまとめると、3つに分類できる。第1混土層より出土した土器は、台囲貝塚Cトレンチの第3貝層、第3混土層から出土した第3類土器と同じで、突起を有する土器群である。是を台囲出土の土器と同類と見て、第3類土器とした。次に第1貝層、第2混土層から出土した土器は、台囲貝塚Cトレンチでは出土しなかった小突起を主な特徴とする土器群で、これは第2類土器とする。同じ層からは、第2類土器の外に口唇部の断面に特徴を持つ第1類土器が出土している。台囲貝塚Cトレンチ、西ノ浜貝塚Rトレンチより出土した土器を夫々の特徴ごとに第1類土器より、第5類土器まで分類したが、第3類土器は、両貝塚の層より出土している。また、各文化期には逆転層、挿入層等の時代の不連続を示すものは無く、この層序は、時代順を示すものと観察された。従って、第1類土器より、第5類土器までは順序を示していると見て差遣いないと思う。第1類土器は最も古く、第2類土器が是に次、第3類、第4類、第5類土器と続くものと考えられる。

 註 (1)齋藤良治「宮城県鳴瀬町宮戸台囲貝塚の研究―昭和30年度Cトレンチ」『宮城県の地理と歴史』第2輯


(2)第2類土器 (第3図)西ノ浜貝塚出土の土器で、Rトレンチでは文化層が厚く、出土量も多い土器群である。

1 器形は深鉢形のものが最も多く、浅鉢、壷、注口土器がある。 

2 精製土器と粗製土器は区別されるが、一般に大型の精製土器は体部の上半のもが研磨されていたり(2,3)、文様帯が極めて粗雑な土器(1)であったりして、深鉢型の精製土器で入念に製作されていないものもある。これに反して壷形(8,13)の土器は大型であっても入念に製作されている。

3 小形の土器(4,5,7,10,11)は全面が非常によく研磨され、4,7は特に入念に製作れている。7は底部にまで文様が施されている。

4 精製土器に施される文様は、磨消縄文帯(3,5,6,7,13)と、平行沈線文様(2,4,10,11)とがある。この文様と器形、精粗の関係は無い。

5 精製土器には文様帯の中に疣状の小突起が施されているのが、第2類土器の大きな特徴である。土器の頚部や口縁部に施されている突起は文様帯の中にあるものより大きく、縦割りにしているもの(2,5,6,10)、突起にくぼみをつけているもの(6,11)がある。4の口唇部の施されている突起は体部の延長とも見られ外反している。殆どの突起は器面に張り付けられたもので、三角錘をつけたように鋭角にをしており、体部に付着していないで、落ちてしまっているものも多い。

6 粗製土器は一般に深鉢型が多い。大部分はやや外反しているが、中には、内湾している土器(17)や、頚部が締まっている土器(20)もある。

 文様は斜行縄文の土器が最も多く、羽状縄文は前者に比較して少ない。(15,18,21)縄文の施文は粗雑で、器面がよくならされていない。縄文については刷毛目による文様が施されている土器が多いが、刷毛目によって8字状のある土器(16,20)刷毛目が縦に施されている土器(14)横に施されている土器(19)等がある。格子目文の土器(12)もあるが、2のように精製土器の体部の下半分に施されているものもある。

 底部は(10,11,13,15,21)のように上げ底になっているものが、一般に小さな底部でやや安定性を欠くもの(10,13)もある。

 第7図の3,5の土器は伊具郡耕野出土の土器であるが、第2類土器の特徴を持っている。3は黒色の焼成の良くない土器であるが、体部中央部に4個付いている突起に穴が横に開いており、紐を通して垂下したものと考えられる土器である。

(3)第3類土器 (第4図)第3類土器は、西ノ浜貝塚Rトレンチ、第1類土器,台囲貝塚Cトレンチ、第3貝層,第3混土層より出土した、層位的には、第2類土器及び第4類土器とは区別できたが、土器の出土量が、第2、第4類土器に比較して少なかった。第3類土器は次のような特徴を持っている。

 口縁部、頚部に1条あるいは数条の突刺文帯を持っている事が大きな特色である。施文状態を見ると、磨消縄文帯をはさんでその上下に施されているもの(4,8,13)、突刺文帯のみ施される。さらに5の如く口唇部に刻目を入れているものもある。

2 口唇部、頚部に2個の突起をもつ土器(2,8,9,10,11,14)、小波状口縁になっている土器(4,6,8,13)、山形突起を口縁部にもっている土器(1,3)がある

3 磨消縄文による入組文は、横S字状になっている土器(3,8,9,13,14)が多い。

 器面に疣状の小突起の施されている土器(3,4,8)があるが、小突起の施されていない土器もある。疣状の小突起は、縦長に2個連続したもの(3)ボタン状のもの(4)縦長のもの(8)があり、前の第2類土器の疣状小突起のように先端の鋭く尖っている突起がない事が特徴である。

(4)第4類土器 (第5図)台囲貝塚Cトレンチ出土の土器である。Cトレンチでは,第1混土層、第2貝層、第3混土層から出土し、出土量も多く、文化層も厚かった。

1 精製土器、粗製土器共に非常によく研磨された土器が多く、入念に製作され、焼成が極めて良好である。

 精製土器の口縁部に山形の突起のつく土器(1,2,4)がある。

 精製土器には、入組文の施されている土器(1,2,3)と無文の土器(4,5,6,8)とがある。

入組文のある土器で頚部に列点のある土器(2)があるが、この列点は箆状の工具で体部をけずりとった様な感じで、第3類土器の突刺文とは手法において異なっている。入組文の間に三叉状の文様が,彫刻的に施されている土器(2,3)もあるが、前類型の土器にはみられなかった。無文の精製土器は黒色を呈し、非常によく研磨され、(4)の台の透かし、(6)注口の飾り等彫刻的である。

4 粗製土器の文様は、羽状縄文(14,17)、斜行縄文(12,13,15,16)が大部であるが、無文(7,11)の土器もある。刷毛目文の土器がほとんど発見されなかった。粗製土器といっても器面がよくならされ、口唇部が水平で凹凸がない、深鉢型の土器で大型の土器があり(17)、大型の割合には薄手に製作され、土器の厚みも平均化されている。

(5)第5類土器(第6図) 台囲貝塚Cトレンチ第1貝層出土の土器でCトレンチでは文化層も薄く、土器も出土量も少なかった。

1 精製土器、粗製土器共に入念に製作されたものが多く、焼成は極めて良好である。

2 口縁部は小波状になっている土器(2,4,5)がある。

3 精製土器の入組文は彫刻的で縄文を施されないもの(2)や、入組文というより三叉状文といった方よいような土器(図7,7)や、魚眼状文というような土器(図7,6)があるが、全て彫刻的である点が特徴である。

 粗製土器羽状縄文の土器が多く(6,7,8)の大型の土器もある。


4 出土土器について

(1)第1類土器(第2図)第1類の土器は出土量も少なく、器形全体を推測までの土器が無いので、拓影だけを載せた。西ノ浜Rトレンチ出土の土器で、第2類土器と同じ層から出土したが、発掘中に第2類土器とは区別する事が出来なかった。第2類土器との層位関係は不明確である。

 第1類土器は次のような特徴を持っている。

 口縁部が内側に肥大し、やや内湾している感じがする。大波状口縁の先端は指で粘土摘まみ上げたような感じのする特徴的な突起を持っている。断面は体部よりも口縁部が急に厚く肥大しているのが特徴である。(1,4,5,6,7,11,15) 

 大波状口縁になっている土器(1,2,3,6,7,11)があり口縁先端が鋭角になっていて、口唇の刻目の入った突起を持つ土器(1,3,4,11)がある。 

 平縁の土器もあるが、口縁部の断面は内側に肥大していて、内側に稜線を持っている。更に口唇部に小突起を持っている土器もある(9,12~15)。

 文様帯の中に疣状の小突起を有す土器(1,7,8)がある。しかし、全ての土器に認められるわけではない。

5 文様は大部分が磨消縄文である。この磨消縄文帯の中の縄文が羽状になっていたり、縄文原体が短く、縄文の走行方向の違う土器が多い。

6 文様が磨消縄文でなく、刷毛目を施してこれを磨消刷毛目文の土器(12~15)がある。この文様を持つ土器は磨消縄文を持つ土器より少ない。

第7図、1,2は伊具郡耕野出土ものである。両方とも小型の注口土器で口縁部にはその特徴はないが、磨消縄文手法、小突起が施されていること等より第1類土器と思われる。なお、双方共に2条の刻目帯を持っている。遺物包含地なので、層位関係は不明であるが、宝ヶ峯式土器および第2類、第4類土器が伴出している。

 粗製土器羽状縄文の土器が多く(6,7,8)の大型の土器もある。


(2)第2類土器 (第3図)西ノ浜貝塚出土の土器で、Rトレンチでは文化層が厚く、出土量も多い土器群である。

1 器形は深鉢形のものが最も多く、浅鉢、壷、注口土器がある。 

2 精製土器と粗製土器は区別されるが、一般に大型の精製土器は体部の上半のもが研磨されていたり(2,3)、文様帯が極めて粗雑な土器(1)であったりして、深鉢型の精製土器で入念に製作されていないものもある。これに反して壷形(8,13)の土器は大型であっても入念に製作されている。

3 小形の土器(4,5,7,10,11)は全面が非常によく研磨され、4,7は特に入念に製作れている。7は底部にまで文様が施されている。

4 精製土器に施される文様は、磨消縄文帯(3,5,6,7,13)と、平行沈線文様(2,4,10,11)とがある。この文様と器形、精粗の関係は無い。

5 精製土器には文様帯の中に疣状の小突起が施されているのが、第2類土器の大きな特徴である。土器の頚部や口縁部に施されている突起は文様帯の中にあるものより大きく、縦割りにしているもの(2,5,6,10)、突起にくぼみをつけているもの(6,11)がある。4の口唇部の施されている突起は体部の延長とも見られ外反している。殆どの突起は器面に張り付けられたもので、三角錘をつけたように鋭角にをしており、体部に付着していないで、落ちてしまっているものも多い。

6 粗製土器は一般に深鉢型が多い。大部分はやや外反しているが、中には、内湾している土器(17)や、頚部が締まっている土器(20)もある。

 文様は斜行縄文の土器が最も多く、羽状縄文は前者に比較して少ない。(15,18,21)縄文の施文は粗雑で、器面がよくならされていない。縄文については刷毛目による文様が施されている土器が多いが、刷毛目によって8字状のある土器(16,20)刷毛目が縦に施されている土器(14)横に施されている土器(19)等がある。格子目文の土器(12)もあるが、2のように精製土器の体部の下半分に施されているものもある。

 底部は(10,11,13,15,21)のように上げ底になっているものが、一般に小さな底部でやや安定性を欠くもの(10,13)もある。

 第7図の3,5の土器は伊具郡耕野出土の土器であるが、第2類土器の特徴を持っている。3は黒色の焼成の良くない土器であるが、体部中央部に4個付いている突起に穴が横に開いており、紐を通して垂下したものと考えられる土器である。



(3)第3類土器 (第4図)第3類土器は、西ノ浜貝塚Rトレンチ、第1類土器,台囲貝塚Cトレンチ、第3貝層,第3混土層より出土した、層位的には、第2類土器及び第4類土器とは区別できたが、土器の出土量が、第2、第4類土器に比較して少なかった。第3類土器は次のような特徴を持っている。

 口縁部、頚部に1条あるいは数条の突刺文帯を持っている事が大きな特色である。施文状態を見ると、磨消縄文帯をはさんでその上下に施されているもの(4,8,13)、突刺文帯のみ施される。さらに5の如く口唇部に刻目を入れているものもある。

2 口唇部、頚部に2個の突起をもつ土器(2,8,9,10,11,14)、小波状口縁になっている土器(4,6,8,13)、山形突起を口縁部にもっている土器(1,3)がある

3 磨消縄文による入組文は、横S字状になっている土器(3,8,9,13,14)が多い。

 器面に疣状の小突起の施されている土器(3,4,8)があるが、小突起の施されていない土器もある。疣状の小突起は、縦長に2個連続したもの(3)ボタン状のもの(4)縦長のもの(8)があり、前の第2類土器の疣状小突起のように先端の鋭く尖っている突起がない事が特徴である。


(4)第4類土器 (第5図)台囲貝塚Cトレンチ出土の土器である。Cトレンチでは,第1混土層、第2貝層、第3混土層から出土し、出土量も多く、文化層も厚かった。

1 精製土器、粗製土器共に非常によく研磨された土器が多く、入念に製作され、焼成が極めて良好である。

 精製土器の口縁部に山形の突起のつく土器(1,2,4)がある。

 精製土器には、入組文の施されている土器(1,2,3)と無文の土器(4,5,6,8)とがある。

入組文のある土器で頚部に列点のある土器(2)があるが、この列点は箆状の工具で体部をけずりとった様な感じで、第3類土器の突刺文とは手法において異なっている。入組文の間に三叉状の文様が,彫刻的に施されている土器(2,3)もあるが、前類型の土器にはみられなかった。無文の精製土器は黒色を呈し、非常によく研磨され、(4)の台の透かし、(6)注口の飾り等彫刻的である。

4 粗製土器の文様は、羽状縄文(14,17)、斜行縄文(12,13,15,16)が大部であるが、無文(7,11)の土器もある。刷毛目文の土器がほとんど発見されなかった。粗製土器といっても器面がよくならされ、口唇部が水平で凹凸がない、深鉢型の土器で大型の土器があり(17)、大型の割合には薄手に製作され、土器の厚みも平均化されている。


(5)第5類土器(第6図) 台囲貝塚Cトレンチ第1貝層出土の土器でCトレンチでは文化層も薄く、土器も出土量も少なかった。

1 精製土器、粗製土器共に入念に製作されたものが多く、焼成は極めて良好である。

2 口縁部は小波状になっている土器(2,4,5)がある。

3 精製土器の入組文は彫刻的で縄文を施されないもの(2)や、入組文というより三叉状文といった方よいような土器(図7,7)や、魚眼状文というような土器(図7,6)があるが、全て彫刻的である点が特徴である。

5 出土土器の考察

 第1類土器より第5類土器までの特徴を説明したが、これらの土器の推移、発達及び編年系列について考察を進めたい。

第1類土器は、宝ヶ峯式または宮戸Ⅱ式といわれる土器に類似している。即ち大波状口縁及び口縁部の肥大は、前型式の変化したものであると考えられる。しかし。大波状口縁が口縁部突起に変化していること、体部に小突起を持つ土器があること等より、宝ヶ峯式は宮戸Ⅱ式土器の次に位置づけられものだあろう。同様の土器は台囲貝塚Gトレンチ、西ノ浜貝塚のRトレンチ以外のトレンチからも出土している。後藤勝彦氏もこの類の土器に注目され一形式をなすものとして宮戸Ⅱ式の次に編年的な位置付けをされ、西ノ浜式の型式名を命名されている。

 第2類土器は、三角錘のごとき先端尖った疣状小突起を体部につけている土器である。この類の土器については、丸森町清水遺跡(2)、金剛寺貝塚(3)、台囲貝塚等(4)から出土した例が報告されており、金剛寺式とか、新地式とか、宮戸Ⅲa式とか命名されている。

 この類の大きな特徴の1つである先端の尖った疣状の小突起は前型式、即ち後藤氏の編年による西ノ浜式に散見され、第2類土器いたってその全盛となる。口縁部に突起があったり、波状口縁の土器もあるが、西ノ浜式土器の波状口縁の変化したものと考えている。

 疣状の突起で口縁部及び頚部に比較的大きい疣が付されているが、疣の中央に穴をあけた土器や疣を縦割りにした土器、または疣を2個連続して縦割りと同じ感じをだしているのが特徴であるが、関東地方における安行Ⅰ式に併行するものではないかと秘かに考えている。

 第3類土器は後藤氏が宮戸Ⅲ式a類、即ち筆者が第2類土器とした中に含めている、伊東教授も金剛寺式の中に含めておられているようである。しかし、第3類土器は、金剛寺貝塚(5)、台囲貝塚(6)、西ノ浜貝塚からも出土しているし、西ノ浜Rトレンチにおいては層位的にも前型式と区別することが出来たし、台囲貝塚Cトレンチ(7)においてもこれを層位的に確認する事が出来た。

 土器そのものを見ても前型式における体部に付けられた小突起は鋭さをなくしてボタン状の突起となり、口縁部や口頚部に付されていた比較的大きい突起は、2個の連続した突起に変化している点、前型式からの発展をしめすものと考えている。比較的大きい突起の中にはこれを横割りにしているものが見られ、関東地方の安行Ⅱ式にも対比できるように思われる。

 次に前型式においては、精製土器が入組文系と平行沈線系にわけられ、これらが1個体の土器の中では混在しなかったが、第3類土器においては、文様上このような2つの系統は全く認められない。この類の土器になると、前述した文様の2つの系統は1つの土器の中に統合されてくれるのではないかと秘かに考えている.即ち、入組文は統一され型として横S字状に発達し、平行沈線文帯は突刺文帯に変化したのではないかと考えられるのである。

 従って、これを1つの型式と認めるなら、その編年的な位置付けは後藤氏の宮戸Ⅲa式の次に位置するものと思う。

 第3類土器は出土量も少なく,一型式として位置付けるには資料が不十分である。この第3類土器は第2類土器の1つの形態上の変化だけであるのか、または、地域的な特色であるのか、今後吟味する必要があると思うが、ここで、第2類土器とは異なってこの群の土器が1つのまとまりを示しているという事を提示しておきたい。

 第4類土器については、後藤氏(8)筆者(9)が既に触れ、晩期大洞B式の直前型式であることには異論のないとろである。後藤氏は宮戸Ⅲb式として編年的位置付けされている文様は入組文が前述した突刺文帯を有する土器群の横S字状から発展して、入組文の中に彫刻的な三叉文の文様が入り発展が見られる。また、入組文が発展した形としてこの魚眼状の文様、頚部に見られる突刺文帯の彫刻的な刻目への変化、口縁部の2個の連続した突起の山形突起への変化と、前型式から発展が伺える。また、新しく黒色に研磨された焼成の良い無文の精製土器の出現も第3類土器とは異なり発展が見られる。

 このように考えて、後藤氏の宮戸Ⅲb式という編年は妥当なものであると考えている。

 第5類土器は、所謂晩期大洞B式である。

 文様の発展としては前型式よりも彫刻的になり極めてよく研磨された土器が出てくる。山形突起は滑らかな小波状となり、三叉文は、この型式の1つの特徴といえるまでに発達している。

 以上、第1類土器より第5類土器まで文様や器形等を基にしてその発展系列を考えてきたが、編年的な系列として次のようにいえると思う。なお、型式名は後期の編年を細分化した後藤氏の型式名によった。即ち、第1類土器は、西ノ浜式であり、第2類土器は宮戸Ⅲa式の一部であり、第3類土器も宮戸Ⅲ式の類であろうが、筆者としては宮戸Ⅲa式の次に位置するものであると考える。なお、この型式については今後十分な検討がなされる必要があると思う。第4類土器は、宮戸Ⅲb式であり、第5類土器は晩期大洞B式である。今後に残された問題としては、度々触れている通り、第2類土器と第3類土器との分離及び第3類土器の蒐集であると思う。また、台囲貝塚、西ノ浜貝塚は松島湾の貝塚であり地域的な特色も十分に考えられるので、この点の吟味も十分になされる必要があると考えている。

 註(1)後藤勝彦「陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器についてー陸前地方後期縄文文化の編年的研究」『考古学雑誌』第48巻第1号

(2)志間泰治「丸森町清水遺跡の調査」『宮城県の地理と歴史』第2輯

(3)後藤勝彦「宮城県名取市高館金剛寺貝塚出土縄文式土器の研究」『宮城県の地理と歴史』第2輯

)後藤勝彦「宮城県宮戸島里浜台囲貝塚の研究」『宮城県の地理と歴史』第1輯

)後藤勝彦 前掲書(3)と同じ

)齋藤良治「宮城県鳴瀬町宮戸台囲貝塚野研究―昭和30年度Cトレンチ」『宮城県の地理と歴史』第2輯

) 同(6)と同じ

(8)後藤勝彦「陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器編年について」塩竈市教委教育論文Ⅱ

(9)前掲書(6)と同じ     

6 おわりに  (略)


    第11章 1968(昭和43年) 槇 要照陸前宮戸島に於ける縄文後期末の遺物の研究」仙台湾周辺の考古学的研究』宮城県の地理と歴史第3集

     1 まえがき (略)

 2 出土遺物の特徴 この地区から出土した遺物は、土製品、特に土器や石器、骨角器、貝製品等であるが、遺物中、過半数占めるものは土器であり、出土土器の総点数は14,000余点で、器形の知れる土器は鉢形土器 5個、皿形土器 4個、椀形土器 5個、香炉形注口土器 1個であるが、大部分は小破片であり、これを、口縁部、胴部、底部に分類すると口縁部 1,642点、胴部 12,170点、底部 413点となる。昭和33年調査では、層位が7層見いだされ、各層を上層より、表土、第1貝層、第1混土層、第2貝層、第2混土層、第3貝層、第3混土層となる。出土した遺物の特徴から大きく3層に分類された。 

第1層土器 表土より第1混土上層にかけて出土した土器

 第2層土器 第1混土層より第2混土層にかけて出土した土器

 第3層土器 第3貝層より第3混土層にかけて出土した土器である。

A 第1層土器 この第1層出土は細かく見ると次の特徴をもっている。

(1)魚眼状入組文を有する土器 これに類するものは、大部分、口縁が、ほぼ平滑であり、研磨された器面に、魚眼状の入組文が施文されているもので(第1図8・9・10・12、第2図1・2・3・4・5・6)、いずれも、口縁近くに施文されているものが多く、器形は、皿形、椀形、台付、鉢形等があるようである。

 施文方法は、入組文の中心が立体的に施されたもの(第1図12、第2図1)、沈線により中心円の描かれたもの(第2図5)、中心が凹点によりえがかれたもの(第1図9・10、第2図4・6)等があり、中には、口縁の突起下に入組文の描かれたもの(第1図12)や、台部に入組文の描かれたもの(第1図8)等もあり、入組文はほとんど、入組文下の一条乃至二条の沈線(第1図8・9、第2図1・2・5)あるいは、入組文の上下の沈線により区画されている。

 これらは、いずれも精製された粘土を利用し、焼成も良く、黒色を帯びているものが多く、器質も締まっている。器厚は4mm乃至6mmで比較的薄手のものが多い。

(2)小波状口縁を有する土器 この種のものは、割合小型の土器に多いようで、器厚も45㎜内外で薄く、口縁が小波状なし、研磨され、丸みをおびたもので(第1図7・14、第2図7・8・9)、中には入組文の施されているもの(第2図3)もあるが、大部分は、口縁が研磨され、1乃至2条の沈線により、研磨部と地文と区画されている(第2図7・8・9)のみのものが多いようである。

(3)三叉文を有する土器 この系統に類するものは、器形を見ると、頚部でやや締まり、胴部が少し膨らみを帯びたもの、或いは、口縁部が直立し、胴部がやや膨らみを帯びた鉢形のものが多いようであるが、小型の椀型に近いもの等も見られるようである、しかし、いずれも口縁に突起を有し、突起下に八字文、及び直立した三叉文を有するもので(第1図4・11、第2図1018)、中には口縁部突起が比較的緩やかに、波状を描いているもの(第1図11、第2図10~14・16・19)、著しく突起の飛びだしたもの(第1図4、第2図15・17・18)などがあり、また、三叉文下に優雅な感じのする磨消入組文の施文されたもの(第2図12)、入組文の左右に三叉文が施され、入組文には地文の残されているもの(第1図4・11、第2図19)、入組文のややまずい感じのする磨り消の不完全のもの(第2図18)等もある。色調は赤褐色、乃至黒褐色で、焼成もかなり良好である。以上が第1層土器の主要な文様を有する土器であるが、これらの土器に地文として施文されている縄文は、大半が左傾の縄文である。

B 第2層土器 この種の土器群は、器形を見ると、台付皿形のものなども中には見られるが、大部分は、頚部でしまり、口縁の開いたもの、或いは、口縁直立の深鉢形が圧倒的に多く、文様施文方法も、ほぼ同一のようで、口縁には、いずれも突起を有し、器面には、縄文、刻目乃至は磨消帯が巡らされ、その間に入組文が施文されているものである(第1図1・2・3・6、第3図1~18)、中には、口縁の平滑なもの(第3図7)も見られるが、大半のものは、口縁に数個の大突起が施されており、突起の先端は刻目、または、くぼみにより、2分乃至3分されており(第1図1・2・3・6、第3図1~4)、大突起間に更に小突起が施されている。また、突起部は殆ど磨消されているが、突起の根元に1条の沈線が描かれ、縄文帯と区画されているもの(第1図2・3、第3図2・3)、突起及び口縁全体が磨消されているもの(第1図1)、沈線が施されず、突起の磨消部分と縄文帯及び刻目帯がぼかされていもの(第3図1・4・5・8)、突起及び器面全体が研磨されているもの(第1図6、第3図6)等がある。

体部についてみると、いずれも縄文帯及び、入組文が施されているが(第1図1~4、第3図1~18)、第1層土器と異なり、入組文内は磨消されず、地文がのこされている。入組文の施文状態は、口縁部付近に圧縮されているもの(第1図1)もあるが、多くは、胴部全体に2段~3段にわたり施文されており、地文には刻目を施し、縄文に擬したものもある(第3図1)。また、体部中頃に凸帯を有するものも見られる(第1図2、第3図17・18)。これらはいずれも焼成は良好で、やはり赤褐色、及び黒褐色をおびたものが多い。以上が第2層土器の主要なものであるが、やはり縄文は第1層土器と同様に左傾のものが多い。

C 第3層土器 この類に属する土器群は、器形を見ると、口縁外曲の大型深鉢、口縁直立の深鉢、椀形、注口、香炉形土器等と多数にわたり、大小も、さまざまであり、いずれも器面に疣状の突起を有しているものが多い。しかし、その施文様式は、種々の様式が見られ、なかなか複雑である。そこで、その施文様式により、次ぎのよいう分類してみた。

(1)疣状小突起を有する土器 この疣状小突起を有する土器が、この第3層土器の代表的なもので、その疣状小突起の施文が、この一群の大きな特徴であり、口縁部につけられたもの、体部に付けられたものなど種々のものが見られる(第1図5・15、第4図)。疣の施法にも、縦長の突起の付されたもの(第4図5・24),大型の突起が付され、先端に刻目の付されたもの(第4図12・15)、耳状のもの(第4図10)、小粒のものが付されたもの(第4図4・8・9・22)、ボタン状のもの(第4図6)等があり、これらの突起は単独に付されているものと、複数に配されているものが見られる。また、疣の施文位置について見ると、これも各種あり、沈線の結束する部分に付されたもの(第1図15、第4図10・12)入組文の結合部に付された(第4図11条線上にふされたもの(第4図1・8・22)、縄文帯上に有するもの(第1図5・15、第4図4・7・14)、磨消帯上に付されたもの(第4図3)等がある。

(2)列点刺突文を有する土器 この種の文様を有するものは,刺突文のみで施文されているものでなか、疣状突起と共に施文されているものが多い。しかも、ほとんどが、口縁付近から頚部に施されているものが多い(第4図2・3・16・17・18・24)。

(3)刷毛目文を有する土器 これは、刷毛目文、或いは櫛目文を有するもので、やはり疣状突起と共に、施文されているものが多いが、刷毛目状に、ただ器面整斉のために器面に施したもの(第4図23)、装飾的に器面胴部に網状に施文したもの(第4図6.7・8・9)等が見られる。ただ、器面整斉のために施文されたものは、造りが粗いようである。以上が第3層の主たる文様を有する土器であるが、色調は赤褐色乃至黒褐色で、焼成もほぼ良好であるが、列点刺突文、刷毛目文を有するものの中には、焼成のやや、しまりのないものが見られる。

 3 出土遺物に関する考察

 33年度の調査に置ける、台囲地区の土器は以上の様なものである。

そこで、これらの遺物を見ると、種々の土器に示されている諸特徴は、明らかに、縄文後期後半より縄文晩期初頭にかけてのものと思われる。しかも、これらの遺物の整理を進めた結果、土器の出土層及び文様の施文法等により、第1層、第2層、第3層土器と、大きく3層に分類したが、これらの各層の遺物は、夫々層をことにして出土しておるもので、時間的にも差異があったと考えられる。次に、これらの遺物を各層毎に考察を進めいきたいと思う。

(1)第1層土器 第1層土器は、前述した様に、表土より、第1貝層、第1混土上層にかけて出土したものであるが、施文法の特徴により、魚眼状入組文、小波状口縁、三叉文を有するものと、細別した。しかし、これらの内、三叉文を有するものが、他の魚眼状入組文、小波状口縁を有するものより、幾分多く、第1層の主体土器は、この三叉文土器と思われる。そこで、次に細別されたものについてみる事にする。

 魚眼状入組文を有するものは、口縁部が平滑なものが多く(仲には、小波状のものもあるが)、器形は椀形、皿形(台付)、深鉢形のもの等が見られ、器面は表裏両面共に,よく研磨され,口縁近くに優雅な曲線により、魚眼状の入組文が施文されているものである。

 小波状口縁を有するものは、口縁部が緩やかな丸みを帯びた細かな波状口縁を描いたもので、研磨されており中に入組文の施文されているものもあるが、多くは、研磨されたのみで、1乃至2条の沈線により胴部の地文と区画されているもので、器形は小型の椀形に多いようである。そこで、これらの2つの様式を見ると、これとほぼ同様の施文様式を示すものが、金剛寺貝塚上層より出土しており(1)、これらは、あきらかに、縄文晩期の特徴を示しているもので、所謂大洞B式(2)に併行するものと思われる。 

 三叉文を有するものは、第1層出土の主体土器と思われるものであるが、その土器の施文特徴は、口縁部に突起を有し、突起下に直立した三叉文を有し、また、入組文の結合にも三叉文を有するものであるが、詳細に見ると、この三叉文を有する土器群の中にも、施文手法にやや差異が見られるようである。即ち、口縁部が比較的緩やかな波状を描き、三叉文が連続した細長い文を呈し、胴部に施文されている入組文は前述に魚眼状入組文と極めて類似して優雅な磨消入組文が施文されているもの(第2図10・11・12・13)と、一方は口縁部の突起に著しく突出し、先端の開いたものもあり、三叉文は、ほぼ三角形を呈し,各々不連続で単独に施され、また体部入組文も前者に比較するとやや拙く、入組文内は磨消が不完全で地文がのこされているもの(第1図4・11、第2図15・16・17・18)の2種の手法であるが、これらの2種に差異は、器形による文様の差異は、或いは、施文手法の新旧による差異であるかについては、ほぼ同一層位と思われるところより出土しているために明確にすることは出来ない。ところで、この三叉文を有する土器は、やはり前述の金剛寺貝塚上層より第2類土器(3)として出土しているものと近似の関係にあるものと思われるが、施文様式から見ると、前者の一部(第2図11・12等)の入組文施文手法等から見ると大洞B式と併行関係にあると見てさしつかいないと思われるものもあるが、後者(第2図15・18)の場合を見ると、大洞B式とは幾分異なっており、併行関係にあるとは見られないようであり、大洞B式に先行するものではないかと考えられるが、前述した如く、出土層の差異が明確に捉えられなかったため、確かとることは出来ない。

(2)第2層土器 第2層土器は、第1混土層下部より、第2貝層、第2混土層にかけて出土したもであり、文様形式は、ほぼ1形式である。

 器形及び文様形式に付いてみると、出土遺物の項において述べて様に、口縁には突起が付されており、しかも、大突起と小突起にわかれ、両突起が交互に付されている。大突起は肥厚し、先端は刻目により2分乃至3分されており、器形は深鉢が多く、口縁がほぼ直立し、胴部のややふくらんだ深鉢形土器(第1図1)も見られるが、大部分は口縁が外反し、体部中頃がしまり(この部分に凸帯乃至縄文帯がめぐらされている)下部の胴に至りやや膨らんだ深鉢形土器である(第1図2・3)(A類型)。

 体部文様についてみると、いずれも縄文帯(または刻目帯)、及び磨消帯が口縁部にめぐらされ、その下方に体部中頃までに、入組文が、、1乃至2段階描かれ、体部のほぼ中頃と思われる部分に凸帯乃至は縄文帯が1条巡らされている。またこの凸帯下部から底部にかけて、さらに入組文が見られるが、この底部にかけての施文様式を示す資料は良好なものが見られないため詳細は不明である。また、これらの入組文の内部には、いずれも縄文乃至は、刻目、が施文され、第1層土器中の三叉文を有する土器の後者に施文されている入組文の施文様式と大部類似している。

文様形式は、以上の様であるが、これらは主に鉢形土器における文様形式であり、この他に皿型土器も少数みられるが(第1図6)、これらは突起の大小交互に付され(大突起の先端が2分されている)ているほか、表裏とも全面研磨されており、文様は施されていないようである。しかし、皿形土器(台付き)は出土数が少ないために、他の施文様式に付いては不明である。

これらが、第3層土器の文様施文法及び器形であるが、これらの特徴より編年上の位置について考えてみると、これは大洞B式土器に並行するものと考えられる第1層土器よりは、層位的にも下の層より出土しており、また施文様式、特に入組文の施文手法は大洞B式の手法より拙い感じのするものであり、後藤氏が同じ当台囲貝塚出土の土器を中心に立てられた編年上の第5類土器(4)に相当するものと思われ、また同氏が金剛寺貝塚の発表(5)於いて述べられている大洞B直前型式の特徴と非常に近似しており、第3層より出土疣状突起に付されている形式から三叉文をする形式への移行過程において、その中間に位置するものと思われる。

(3)第3層土器 この層に属する土器は、第3貝層より、第3混土層にけての出土したもので、最下層のものであり、文様、及び器形は、非常に複雑多様であり、殆ど全ての土器に疣状小突起の付されたものである。それで、出土遺物の項においては、第3層土器を文様施文方法により、疣状小突起をするもの、列点刺突文を有するもの、刷毛目文を有するものと細別したが、これらは、いずれも単独で施文されているものではなく、両者が入り混じって施文されている場合が多く、特に疣状小突起及び列点刺突文は、同一器面に両者が施文されていることが多い。単に列点刺突文のみ施文されているものは、手法の粗雑な土器に多いようである。

 そこで、これらの文様の施文様式に付いてみると、縄文帯、及び磨消帯がめぐらされ、その上に、小突起が付されているものが最も多く、このような磨消帯、及び縄文帯が2乃至3条、口縁部近くに巡らされている。この他に、沈線の結束した部分に小突起の付されたものも大部見られ、ボタン状の突起を入組文と共に有するもの、また状縄文帯の施されたもの等も少数みうけられる。また、この第3層より、第1、第2層においては見られなかった刷毛目文の施文されたものが出土しているが、他の土器に比し、作り、土質共に粗雑である。

次に器形についてみると、文様施文手法と同様複雑であり、前形式(西ノ浜式)の影響と思われる山形及び大波状口縁のもの(第4図21・24)も少数見られるが、多くは、口縁は平滑であり、その他に口縁に突起を有するものも混在し、頚部がややしまり、口縁の開いた深鉢形土器及び口縁直立の鉢形土器が多く、その他、香炉注口土器(第1図15)、破片の状態から皿形土器と思われるものも見られる。以上が第3層土器の主なる施文手法及び器形についての特徴であるが、この第3層土器の編年上の位置について考えてみると、後藤氏が27,28年度の同じく、当、台囲地区出土の遺物において述べられている。第3類土器(西ノ浜式)及び第4類土器(宮戸Ⅲa式)(6)に相当するものと見られるが、主体は第4類土器と思われる。

 註(1)後藤勝彦宮城県名取市高館金剛寺貝塚出土縄文式土器の研究―陸前地方後期縄文文化の編年的研究―」『宮城県の地理と歴史第2輯 昭和35年9月

(2)山内清男所謂亀ヶ岡式土器の分布と縄文式土器の終末―」『考古学』第1巻第3号

(3)後藤勝彦「前掲書」    

(4)〃  陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器について」『考古学雑誌』第48巻第1号

(5)  註(1)前掲書 

(6)  註(2)前掲書

 Ⅳ む す び

(1)この33年度の台囲地区の調査により出土した遺物、特に土器は縄文後期の後半より、縄文晩期初頭にかけてのもので、ほぼ継続的に出土している。

(2)これらの継続している土器は、その文様形式により、順次下層より、

、大波状及び山形の口縁を呈し、疣状小突起を有するもの。

、器面に疣状小突起及び縄文帯、入組文を有するもの。

、口縁部に大小の突起を有し、体部に入組文を有するもの。

、三叉文が施され、体部に磨消入組文を有するもの、及び魚眼状入組文を有するもの。

 (残念ながら拓本図も断面図がほしかった。本誌編集の責任者として責任を感ずる)


    第12章 1988(昭和63年 )高柳圭一「宮城県金剛寺貝塚の再検討村上徹君追悼論文集

1 はじめに(要約)金剛寺貝塚は1947・48年に宮城師範学校の考古学同好会によって、山内清男・小野力氏の指導で調査され、その後、後藤が再整理し、1960年に発表したものである。特に1957年伊東信雄が東北地方の縄文後期を遺跡名で金剛寺式・宝ヶ峯式・南境式とした標準遺跡貝塚である県史内容では具体的には、金剛寺式は器形には甕・深鉢・浅鉢・壷・土瓶・台付土器などがあり文様として入組文があり、所々に疣状の小突起がつけられるのが特徴であると説明されている程度であった。その後、東北大学教育学部(宮城教育大学になる)学生の考古学実習のため、当貝塚を巡検し、当時山内編年に型式名がなく、同等な遺物があるだけであった。研究室の教授が塩竈市史編纂を委託され、陸前地方の後期編年の手掛かりを得たいと望み、松島湾の貝塚調査塩竈市史編纂の貝塚調査から、宮戸遺跡調査会と発展して加藤孝氏の指導により宮戸台囲貝塚をほぼ10年間継続して、調査が実施されのである。通称川内学派が成立する。金剛寺式に対して宮戸編年が示される。『仙台湾沿岸貝塚の基礎的研究』Ⅴ168頁上から15行から21行までが、宮戸Ⅳ式を宮戸Ⅲb式含めた胸の内を示している。

 金剛寺貝塚の位置は高館字川上東金剛寺地区内の標高約30m前後の丘陵北東斜面にあり、西南斜面にも貝塚(西貝塚)あり(注1)、アサリ・シジミの半淡・半である、調査地点はm幅で丁字形のトレンチ(3×3m)で、上層から20cm前後の表土、50~30cmの混土貝層、1213cmの純貝層、13~25cmの黒土層、12~13cmの赤土層の順に堆積が認められ、純貝層を境に上部混土貝層と下部の黒土層で時期が異なる遺物が伴出したとのことであった(注2)。出土遺物の大部分は土器資料で、総数1,614点(内完形3点)にのぼり、他の資料として耳飾土錘・骨角器石匙・石錐・石斧・凹石等が出土している。図示された土器資料(41点)は後期後葉から晩期初頭で占められているが、当該期以外に前期の大木1式も少量検出されている。

2 金剛寺貝塚出土の土器資料

後藤勝彦氏は出土土器(深鉢形)を装飾文様等から、大きく六つに分類した.氏の分類に沿って出土土器を整理していくが、示された拓本には断面図欠如しているため、周辺遺跡の類似資料等を参考にすることで、器形状の特徴を推定した。記述に誤りがあれば、その責任は筆者にある。なお該期の深鉢形には胴部中位に括れを有する器形と括れを持った無い器形が存在する。以下前者をA類、後者をB類と呼称したい。

(1)瘤状小突起のある一群(図1-4・6~12)瘤状小突起施文を特徴とする。4は平縁でA類にする。屈曲部に貼瘤帯がめぐらされ、上下には沈線で区画される。Ⅱa(注3)は無文を呈し、Ⅱには格子目状の沈線が施され、地文として刷毛目状の沈線を持つ様であるが明確ではない。6・7は同一個体と思われる。4乃至5単位の大波状口縁で、A類に属する。口縁に沿って2本の沈線がめぐり、1本目の沈線上に貼瘤が配される。Ⅱaは沈線による入組または弧線文の文様が施され、その内部は弧状に区画され、所々に貼瘤が付される。波状口縁に三角形の無文部を持つ。8は平縁で、B類に属する。貼瘤は「口縁部にめぐらされる帯縄文上に配され」、「縦長で刻目」を持つ瘤と、小粒で縦に刻目を持つ瘤が交互に配される。拓本で判断する限り、胴部は無文である。9は平縁で、A類に属する。口縁に沈線で区画された縄文帯めぐらし、刻目を持つ大粒の瘤(小突起の可能性も)が配される。Ⅱaに右傾の入組文が施され、文様中には沈線そして沈線上に小粒の瘤が付される。10も9に類似した資料であろう。11・12は同一個体と思われる。口縁に山形の突起が配され,A類に属する。口縁に3本の沈線がめぐらされ、口端に無文帯、その下に2本の縄文帯を有する。Ⅱaに左傾の多段化した入組文が施され、結合部分に三叉文の沈刻が見られる。縄文帯や入組内に刺突による粘土を盛り上げ瘤状に擬した2個1組の突起が配される。  

 後藤氏によると、これらはいずれも精製された粘土を利用し、焼成良好で器質がしまっているとのことである。

 (2)刺突列点文施文土器群(図1-13~18) この類は口縁端に刻目刺突帯がめぐらされ、量的にはあまり多くないという。13は平縁で、頂部の丸い小突起が2個対で配された2条の刺突帯を有する。14も平縁で口端・口頚部に無文帯を挟み2条の刺突帯を持ち、その下に帯状の文様を有する様であるが、拓本からは明確でない。15は口縁に山形突起を配し、器形はA類に属すると思われる。口縁部に2条の刺突帯めぐらさ、Ⅱa・Ⅱに沈線による文様が施される。16も平縁で口端・口頚部に刺突帯がめぐらされ口端は特に太い工具で刻まれ手いる。器形はA類と思われ、Ⅱaに弧線状の沈線を有する。17も平縁であるが、破片が小く文様の復元は困難である。おそらく口縁に3本の刺突帯、その下に刺突手法で充填した入組風の沈線、そして縄文帯が施され、入組状または帯状を呈すると思われル。A類の器形で、Ⅱaに2種類の文様帯を持つ可能性もある。18は平縁で、B類に属する。口端に刺突帯、口頚部文様帯に左傾の入組文(刺突手法の充填)を持ち,下限は刺突帯で区画される。体部には細い棒状工具による格子目状沈線が施される。

 後藤氏によると、この類はどちらかというと焼成はよくないとのことである。

 (3)刷毛目(櫛目)文土器(図1-4・18) 後藤氏による分類では2種の土器群が存在する.一つは刷毛目(櫛目)状の工具で器面整正のための不規則の施文されたもの。もう一つは細い棒状の工具で装飾的に胴部器面に施文したもの、前者は粗製土器で図示例が無いが、口縁直立の深鉢形が大部分である。後者には4・18が相当し、すでに述べた通りである。

 (4)縄文施文土器(図1-1) 図示された資料は1の見であるが、資料的に圧倒的に多いであろう。「平状の口縁で直立の深鉢形が一般的」で、1はLR単節縄文が横位に回転され、底部がやや張り出している他にRL単節縄文や羽状縄文の資料が存在するという。

 (5)無文土器群(図1-2・3) この類も精製のものとそうでないものに2分される。前者は全面研磨され光沢を帯び、器形は浅鉢、壷形,台付、皿形等の各種に渡る。3は器高6cm、口縁直径12.4cm、底部直径6cmの完形の浅鉢で、一箇所に把手を有する。後者は土器面を単に整正した,粗面のままの無文土器である。この類には口縁が肥厚し、厚みを呈するもの、口端・口唇上部が研磨されたものが多く含まれる。2は前後がいずれも明確でないが、口縁に緩やかな突起を持ち横線を2条配した台付土器である。

(6)入組文系の土器群(図1-5・19~41)この類は文様・形態・器面調整等から、後藤氏によって2つに細分されている。

第1群は「波状口縁で突起部が3分し、その部分が八字に研磨され、そこに三叉文が彫刻される、そして縄文帯があって下部に入組文があり結合部に三叉文があり、体部には一条の稜線などが施されたものである」。19・20は同一個体または非常に類似する資料である。双方とも胴部中位に屈曲を有するA類で、山形突起(三分)下部が八字状に研磨され、独立した三叉文が施される。Ⅱaとは1条の縄文帯で区画される。Ⅱaには右傾の入組文が配され、その結合部に円文とそれを囲む様に三叉文が沈刻される。21も類似資料である。山形突起はやや大形の突起と小形の突起が交互に配されるのが一般的であるが、この資料は小突起部に該当しようか。やはり八字状に研磨されるが、下部には三叉文が配される。23は口縁直下の沈線から山形突起に向かって,刺状の沈刻が施される。24は山形突起直下に玉抱三叉文が沈刻される。縄文帯は沈線に2分され、Ⅱaに左傾の入組文が配される。器形は22~24ともにA類であろう。25は低い山形突起を持ち、器形はB類であろう。口端に1条の縄文帯、その下に左傾の入組文が配されるが、その起点は入組結合部にある。結合部を囲み三叉状の沈刻が施される。26はA類に属する深鉢の胴部で、Ⅱa・Ⅱそれぞれに右傾の入組文を持つ,屈曲部には縄文帯そして1条の棒状工具による断続した点列が加えられる.27~29は波状口縁のB類に属する深鉢で、同一個体乃至類似資料である。口縁部には1条の縄文帯をめぐらし、口頚部文様帯に縄文で充填された入組文と、円文(中心に刺突)を囲む魚眼状三叉文が交互に配される。30は資料が小さく、器形、文様の復元は困難であるが、口縁部に1条の縄文帯、その下に入組文風の文様が施され、三叉文の沈刻が見られる。

 第2群 小波状口縁で直立の内湾せるもので、文様は口辺部に圧縮され、口辺部に沈刻の入組文が施され多もので深鉢形が多く、浅鉢、壷,台付、注口等多種の器形にわたる。5,31・33・34・36は波状口縁で、口頚部文様帯は1条の縄文帯で下限を区画され、玉抱き三叉文が沈刻され、上半部に縄文が施される。また下方の三叉文は区画沈線の延長として描出される。5は先端・末端とも三叉文を呈し,31・33は上方の三叉の末端が口縁に向かいゆるやか弧状を呈している。胴部に縄文が施文されている。32波状口縁で、口縁部は縄文帯がめぐり、口頚部文様帯は研磨され、玉抱き三叉文が沈刻され、下限には1条の縄文帯でめぐり、胴部は縄文が施される、35は資料が小破片で詳細はわからないが、口縁部に3条の沈線めぐり、胴部には縄文が施され様である。37は口頚部文様帯が研磨され口端は沈線で区画され玉抱き三叉文が沈刻され、下限は3条の沈線で2条の帯を描出し,下部に断続した点列が囲条される。胴部には縄文が施される。38~40波状口縁で、口端が研磨され、玉抱き三叉文が沈刻され、その下部に1条の縄文帯がめぐらされる。41は皿形乃至台付で、口頚部の下限は1条の沈線で区画され、斜位の魚眼状乃至玉抱き三叉文が沈刻されると思われる。以上出土土器を詳述したが、後藤氏はこれらの土器群を「入組文を主体文様として瘤状突起を配した一群」と「入組文を配した三叉文の施刻された一群」2大別し、前者を金剛寺第1類、後者を金剛寺第2類とし、前者は後期後半に後者は晩期初頭に位置付けた。さらに金剛寺第1類は瘤状突起の施文方法から「口縁部の縄文帯上に縦長の瘤状突起を施文したもの」(宮戸Ⅲa式)、「入組文施文しないボタン状の瘤状小突起の配されたもの、又突起でなく棒状施文具で刺突した突起に擬したものについても2個ずつ複数に配されれたもの」(宮戸Ⅲb式)に細分された。しかし後藤氏自身具体的資料として宮戸Ⅲa式として8、宮戸Ⅲb式として11・12を挙げたのみで、他の資料については明言をしていない。記述の内容から判断する限り、11・12を除く「瘤状突起のある一群」のほとんとが「宮戸Ⅲa式」に「刺突列点施文土器群」の大部分が「宮戸Ⅲb式」に該当するのではと筆者は考えている。

 金剛寺第2類は、後藤氏により晩期初頭の大洞B式相当の見解が示され、前述の様に2分されたが、その内第1群に分類された土器は形態・器面整正・施文方法等から当貝塚第1類土器の影響が強く,所謂大洞B式の範疇とは分離された一型式として、大洞B直前型式=宮戸Ⅳ式と提唱された。この土器群は宮戸島里浜台囲貝塚B・Cトレンチでも相当量出土し物議をかもしたというが(注4)),氏はその例として女川町浦宿貝塚の資料を示した(図2-42~45)。42・44・45は、突起が2分無乃至3分され、突起下部や入組結合部に三叉文が施される点、金剛寺第2類第1群に近似する(43は第2群の範疇に入ろう)。第2群土器は所謂大洞B式に位置付けられた。図示された資料には口端に縄文が施されるものが多く全てを山内清男氏の大洞B式に対比することは出来ないであろう。

 後藤氏の論考では、金剛寺第1類第2類がそれぞれ細分され、宮戸Ⅲa式、宮戸Ⅲb式、宮戸Ⅳ式,大洞B式という型式名が与えられ、宮戸Ⅲa式が安行Ⅰ式、宮戸Ⅲb式が安行2式並行に位置付けられた。当時、山内清男氏による亀ヶ岡式の9細分が明記される以前であったが(注5)、後藤氏によって宮戸Ⅳ式が大洞B式直前型式として晩期初頭に設定されたことは高く評価されようしかし、翌々年の氏の見解に変化が見られ、型式の内容が変更され、以下「宮戸Ⅳ式」は不当な位置付けがなされるのである。

 3 土器資料の検討

 東北地方の後期後半の編年研究は、1924(大正13)年の山内清男氏の福島県(新地)小川三貫地両貝塚の調査でその端が開かれたが、活発さを呈するのは、昭和30年代以降、伊東信雄氏による「金剛寺式」、後藤勝彦氏による「宮戸Ⅲ式」が提唱されてからであろう。両者ともそれぞれの立場で研究成果を示したが、より細かい検討が加えられのは前述した後藤氏の金剛寺貝塚の論考である。ここでは宮戸Ⅲa→宮戸Ⅲb式→宮戸Ⅳ式→大洞B式の変遷序列が示された。しかし、2年後の論文でその内容が大きく変更され。即ち後期中葉加曾利B並行型式とその過渡的な型式として西の浜式が追加され、従来の宮戸Ⅲb式が宮戸Ⅲa式の中に包括され、宮戸Ⅲb式が「磨消手法による入組文が盛行土器」として設定され、従来の晩期初頭に位置付けられた宮戸Ⅳ式がこの類に包括され後期末葉に変更された。したがって、西の浜式→宮戸Ⅲa式→宮戸Ⅲb式→大洞B式の序列に改められたのである。従来の型式名が踏襲され、一方ではその内容が変更された。これ等一連の動向について拙稿に譲るが、後藤氏の新見解はその後齋藤良治・要照両氏により追従され、層位的に検討が加えられた。しかし、従来の宮戸Ⅳ式は正確に理解されたとはいえず、混乱を招く結果となった(注6)。

 筆者は嘗て、仙台湾の学史上の検討を経て、後期後葉瘤付土器の4段階、晩期初頭大洞B式の3区分の編年表案を示した(高柳前掲)。筆者の編年案に当貝塚資料を対比させると6・7が瘤付土器第1段階、4・9・10が第Ⅱ段階、8・11~18が第Ⅲ段階、19~30が大洞B1(古)式、5・31~34・36が大洞B1(新)式、37~41が大洞B2式にそれぞれ該当する。1・2の明確な位置付けは困難であるが、3は大洞B2式相当しよう。後期終末瘤付土器第Ⅳ段階を除いて、全ての型式が存在する。以下、周辺遺跡との比較より年代序列に沿って当貝塚出土土器を検討し、また仙台湾の様相を明らかにしたい。

《瘤付土器第1段階》仙台湾では従来「西の浜式」(後藤1962)として瘤付土器の初現に位置付けされた一群で、6・7が該当する。「西の浜式」は後藤氏によると内側に肥厚した大波状口縁の深鉢にその特徴があるとされるが、6・7ともに大波状口縁を呈し、その定義に合致する。貼瘤手法が見られ、類似資料として田柄例(46)があげられる。両資料とも波状口縁直下に沈線による三角形区画の無文部を有する点で共通する。この系統は田柄例(47)の様にそれ以前の型式(加曾利B3式並行)辿ることが出来る。47は口縁に沿って施される2本の縄文帯の下段が波状口縁下で分岐することで三角形区画が描出され、下段帯が口端に向かいやや張り出し、弧状を呈する。一方、本段階の6・7・46は口端の施文帯の延長としてではなく、直線が加えられることにより三角形区画が表現されている、第1段階に前型式の系統を引き弧状を呈する一群と、新たに直線が加えられる一群の両例が存在するが、仙台湾周辺では、前者が卓越しているように思われる。両者とも分布は広く、岩手県北部・秋田県から福島・新潟県まで渉猟することが出来る(注7)。大波状口縁は本段階A類Ⅱおいて盛行するが、一方平口縁(突起あり)も多く存在することは、田柄貝塚等で確認されている。波状口縁は以降資料的に減少するものの、第Ⅲ段階まで受け継がれている。

《瘤付土器第Ⅱ段階》 第Ⅱ段階は貼瘤手法の盛行、入組文、弧線連結文に特徴があり、従来の「宮戸Ⅲa式」(後藤 1960)に相当される。4・9・10が本段階に位置付けられ、全てA類である。4はⅡaが無文、屈曲部に貼瘤帯、Ⅱに格子目状の沈線が施されるが、胴部中位が括れ、Ⅱaが無文を呈する例は関東地方では加曾利B式以来連続して見られ、特に安行1式では大塚達郎氏により「安行式西広型土器」と呼称されている(大塚1986)。仙台湾周辺では同一の様相を呈し、田柄例(49)・東足立例(50)が本段階,台囲例(54)が第Ⅲ段階、そして二月田(72)の様に晩期初頭まで連続として受け継げがれている。4のⅡに施される格子目状沈線も加曾利B式に多く認められ、強い伝統を引いている。西の浜例(52)の様にⅡ部分に施されるものもあれば、東足立例(51)の様にⅡaに施文されるものがある。仙台湾周辺では51・52の様に2本の並行沈線間に瘤状小突起を有す例が多く(突起間に有結沈線を持つ)、また地文として縄文有するものもある(加曾利B式に盛行)。9・10はⅡaに右傾の入組文を持ち、その中に沈線が加えられる。この沈線の系譜は第Ⅰ段階の入組文内部の弧状の区画乃至「タスキ状入組文」にもとめられ、この区画が痕跡として沈線で残ったのであろう。田柄例(48)は本段階に位置付けられるが、弧状の区画が残存している。9・10はこの系統下で理解される。田柄例(49)の入組内の縦位の沈線も同様に考えられる。また、この段階の文様の特徴に「弧線連結文」があげられる。残念ながら金剛寺貝塚資料には見出せないが、9の入組文はそれに近似して施されている。

 8は後藤氏が「縄文帯上に縦長の瘤を特徴とする安行Ⅰ式に並行する」との見解を示し、「宮戸Ⅲa式」として図示した唯一の資料である。断面図がなく拓本のみでは判断しかねないが、帯縄文の深鉢で縦長の瘤に横位の刻目が加えられる例は、安行2式に並行するのではと筆者考えている。次の段階が妥当であろう。

 《瘤付土器第Ⅲ段階》刺突手法の多用に特徴付けられる本段階は、従来の「宮戸Ⅲb式」(後藤 1960)に相当る。刺突を持つ一群が層位的に瘤状層突起を多用する一群に後出する例は齋藤良治氏の西の浜貝塚Rトレンチ(斎藤 1968)、手塚均氏等の田柄貝塚で確認されている。金剛寺貝塚では当初「宮戸Ⅲb式」として独立した一型式に取り扱われたが、後に「宮戸Ⅲa式」(後藤 1962)の中に含まれたことは前述した。以降仙台湾では「宮戸Ⅲa式」として位置付けられてきた。しかし、学史を紐解き、最近の資料を検討すると、層位的にも、型式的にも一段階を画しえるのではないかと判断される。本段階には8・11~18が該当し、これまで貼瘤が多用された口縁部、頚部付近に刺突帯がとってかわめぐらされ、貼瘤が減少し,施文部位も限られる傾向にある。

 13~18は口縁に刺突帯がめぐる資料である。16の様に太目の工具で粘土を盛り上げ貼瘤帯に擬する資料は、古い様相を具備している。金剛寺貝塚はほとんどが平縁で、13の様に頂部の丸い小突起が2個対で配されるのものが特徴的だが、前述の様に波状口縁を呈する資料も残存する。西の浜例(53)・二月田例(60)・台囲例(61)が相当し、突起形態、縦長の貼瘤、口縁下の三角形区画は安行2式に類似する。53や61は波状口縁直下に弧線が縦位に向かい合う様に配され、類似は福島県日向南遺跡に散見される。我孫子昭二氏が嘗て文様帯Ⅰaと称した部分に相当しよう(我孫子 1969)本段階にも弧線連結文は継承されるが、Ⅱaが2分されたり、弧線内が研磨されネガとポジが逆転したもの(61)が見られ、前段階とやや趣をにしている。

 11・12はⅡaに左傾の多段の入組文が施され、入組内に2個1組の刺突で粘土を盛り上げ瘤状にした文様を持つ。類似資料として台囲貝塚例(55)があげられよう。しかし11・12の入組部には三叉状の沈刻がみられ、新しい様相が窺える。後藤氏が「宮戸Ⅲb式」として図示した資料である。多段化した入組文に関連して、西の浜例(53)・二月田例(56)の様に縦位の稲妻状の磨消縄文も存在するが、仙台湾から山形県(谷定遺跡等)・福島県(一斗内遺跡等)に見ることが出来よう。

 前記の資料のほとんどとはA類でもⅡを持たない資料であったが、Ⅱを持つ資料も数的に少ないといえ存在する。台囲例(57)後続型式に盛行する文様帯の構成を持ち、口縁部に2個1組に縦長貼瘤(横位の刻み)、頚部にも2個1対の貼瘤が付される。貼瘤を持たない台囲例(63・64)とは、層位を異にして報告されている( 1968)。また田柄貝塚ではⅡaに刺突充填の入組文、Ⅱに縄文充填の入組文で構成される資料が報告されている(58)。報告者は気仙沼湾の地域性との指摘をおこなっているが(手塚等 1986)、次の段階に盛行する刻目と縄文手法の重畳関係を先取りしており、興味深い資料である。本段階でも新しい部類であろう。後期中葉以来の伝統的な文様帯構成(Ⅰ・Ⅱa・Ⅱ)の資料を系統的に捉えることが今後に残された大きな課題である。

 またB類は18等いくつかに該当するが、入組文・弧線文・刺突帯のもの等が存在する.我孫子氏のB1・B2・B3型式に対比できるが、入組文は刺突手法で充填されるが一般的である。田柄例(59)は幅の狭い入組文が施されているが、こういった入組文が後続型式の入組文(62)に単純につながって行くのであろうか、検討を要する。

 《瘤付土器第Ⅳ段階》後期最終末位置付けられる。本段階は瘤状突起を持つ資料が少なく、瘤付土器とするには妥当性を欠くと思われるが、便宜上瘤付土器第Ⅳ段階と称する。 

後藤氏の「宮戸Ⅲb式」(後藤 1962)に相当する。但し前述の通り金剛寺の図示資料に本段階は見当たらない。62~64が後藤氏により紹介された台囲貝塚出土資料である。氏は金剛寺貝塚出土の宮戸Ⅳ(19~30)を含めて宮戸Ⅲb式として捉え直した。しかし台囲例はいずれもノーマルな入組文は見当たらず、三叉文を特徴とする宮戸Ⅳ式とは型式学的に画されると筆者は考えている。本段階の大洞B1(古)式相当資料が層位を異にして出土した例は氏の台囲貝塚( 1968),小井川和夫の台囲貝塚Bトレンチの報告(小井川 1980)に猟渉される。本来別型式として取り扱うべきであろう。

 この段階ではA類の文様帯の重畳関係がⅠ・Ⅱa・Ⅱで構成され、従来主体を占めたⅡ欠く深鉢に取って代わる(注8)。口縁には縄文帯がめぐらされ、頂部に2・3分された山形突起が大小交互に配され。Ⅱa・Ⅱ共に右傾・左傾それぞれの入組文が施され、我孫子氏の指摘の如く、仙台湾の特徴をなしている(我孫子 前掲)。特に64はⅡa・Ⅱそれぞれ逆の傾斜を示している.気仙沼湾の田柄貝塚(65・66)ではほとんどが右傾に入組文で、仙台湾とはやや異なる様相を呈するが、同様の傾向は大洞B1(古)式のも認められる。

 B類も62の様に口縁形態・文様共にA類と同じく表現される。後期後半を特徴づけた貼瘤手法はほとんど姿を消しA類の屈曲部に見られる程度であるが(66)、屈曲部に断絶した点列が加えられ(63・65)、粘土を盛り上げ瘤状に擬したものが存在する。また仙台湾周辺ではⅡaの入組文内がヘラ状工具による刻目で充填され、胴部下半に縄文が施される資料が多々存在する(66)他地域にも見られるが、その萌芽は気仙沼湾の田柄例(58)の第Ⅲ段階に認められる。しかし前段階の棒状工具による刺突手法が、箆状工具の刻目手法に置換されたと安易に言えないであろう。この手法は次段階にも一部残存する。

 本段階は入組文の傾きの差異を除くと、形態・文様帯の構成等にある程度の規格性を有する。分布も広く散見できるが、特に関東地方に福島県に特徴的な平縁で、屈曲部にメガネ状の区画を有する深鉢が出土している(茨城県広畑貝塚等)。

《大洞B1(古)式》亀ヶ岡式土器の初現として晩期初頭に位置付けられる。後藤氏の宮戸Ⅳ式(後藤 1960)即ち金剛寺第2類第1群(19~30)が相当し、三叉文が文様の重要な鍵を握る段階といえる。台囲貝塚でノーマルな入組文の土器群と三叉文を主とする土器群が層位を異にして検出されたことは前述したが、器形・文様・文様帯の構成等先行型式を踏襲した要素を多分残している。しかしこれまで帯状を呈していたⅠは三叉文を基調とした文様が施され文様と化し、Ⅱa・Ⅱにおいても三叉文が発達、従来の入組文に変化をもたらしている。後期的要素が払拭され、晩期的要素が具備されつつあったといえよう。

 本型式は19・20の様に口縁突起下八字状に研磨され独立した三叉文が沈刻される資料に代表される。A類では口縁突起下に独立した三叉文を有する例の他に、口縁直下の沈線から山形突起に向かって刺状の沈刻が施されるもの(23)、突起直下に玉抱き三叉文が施されもの(24)が存在する。又田柄貝塚(67)の様に突起下に三叉文が沈刻されるものもある。これらの相違には口縁の縄文帯(刻目帯のことも)の構成がある程度かかわっている。本型式の口縁部文様帯は大きく分けて、3通りの構成を持っている。(1)口端に1条のそして無文帯を挟んでもう1条の縄文帯をもってⅡaとの区分をなしているもの。(2)無文帯を持たず沈線によって2条の縄文帯を描出るもの。(3)1条の縄文帯のみを有するもの。これ等は既に受け継がれている(注9)。(1)本型式において主導的立場にあり、突起直下が八字状に研磨され、独立した三叉文や下段縄文帯の区画から突起に向かい刺状に沈刻される例が多い。突起下が八字状に研磨されずに上段縄文帯の区画沈線から刺状に沈刻されるものもある。一方(2)42の様に沈線から突起に向かい刺状に沈線から刺状に沈刻されたものが多い。(3)は67の様に突起直下に三叉文が沈刻されたり、69の様に玉抱き三叉文が施される例が存在するが、後者の例は(1・2)にも見られる。又68・70様に(1・2)どちらとも決定しかねない資料も存在するが、これは小豆沢例にも共通する構成である。しかし口縁下の独立した三叉文の系統の判別は容易ではない。口縁下に三角形区画を有する例は瘤付土器第Ⅲ段階の二月田(60)や台囲例(61)に見出し得るが、後期最終末には継承されない。大塚達郎氏は「三叉文の系譜」を「滋賀里例→小豆沢例」という系列」の中で「安行式の伝統とその中での変化を継承している」という見解を示したが(大塚 1981)、氏の言うように三叉文を単純に東北地方起源に帰することは出来ないであろう。安行式との関連で検討しなければならない。

 本型式のⅡaには先行型式の系統を引く入組文が施され、入組結合部に三叉文が配され、安定した文様構成であった入組文に変化をもたらしている。19・20の様に入組結合部に円文を配し、それを中心に三叉文対称的に沈刻されるもの、27~30の様に入組文のモチーフヶ崩されたもの等が存在する一方、田柄例(69)の様にノーマルな入組文が施されるものがある。Ⅱaにおける三叉文の祖形は先行型式の入組結合部に看取できるが、本段階では三叉文がより発達し、これまでの客体的から主体的なあり方を示す様になる。この文様帯の三叉文はほとんど刺突・円文等の起点を中心に対称的に配され、亀ヶ岡式の特徴である点対称の原点を窺うことが出来る(高橋 1981)円文は玉抱き三叉文・魚眼状三叉文をともなうのが一般的であるが、この系統は入組文結合部に刺突乃至貼瘤にもとめることが出来る。27~29(B類と推察される)は平行化した入組文の内、結合部分が文様から切り離されることで、円文を中心とする魚眼状の三叉文が独立し、崩れた入組文と交互に配されたと筆者は理解している。この過程を示す好例は図示しなかったが台囲貝塚Bトレンチ等に窺(小井川 1980)、山内清男氏が大洞B1式として図示した資料にも類似例が存在する(注10)。本型式でも新しい部類である。田柄例(68)のⅡaに見られる円文と向かいあった弧線文が交互に配される例は青森県十腰内遺跡に散見される。三叉文を持たずとも円文に文様の指南としての役割を果たしているようである。

 Ⅱは簡素化の傾向にあり、26や67・69の様に1段の入組文,72の様に並行化した入組文の施された例が多い。また括れ部分に縄文帯や266871の様に断続した点列が加えられ。この点列は山内氏によって安行3a式の特徴と指摘されたが(山内 1941その系統は52等の貼瘤間の有結沈線に辿れるであろう。器高の低い器形の底部にはあげ底(67)や器台を持つもの(6971)が見られる。又胴部中位の括れが弱まりB類との区別が付かないものも存在する(70)。仙台湾では本型式を持って後期後半を特徴付けたA類の器形に終止符が打たれ、以降A類はほとんと姿を消し、B類が主体をしめることになる。

 B類には口縁部形態・文様帯の構成等後期最終末の特徴が踏襲される例が多い。口縁部には山形突起は配され、口端に1条の縄文帯を有し、突起下部は区画され無文を呈し、口頚部文様帯に入組文、下限を沈線で区画し胴部に縄文を施す例が多い。前型式との判別が困難な資料も存在する。口縁部文様帯に文様を持つ例が少ないのには、前述の如くその構成に関連していると思われる。口頚部の文様は文様帯の狭少化によるものか1段の入組文を呈するもの、又27~29の様にA類のⅡaに盛行する三叉文が施され、入組文のモチーフが崩されたものも存在する。

 仙台湾周辺の本型式を見渡すと異系統の要素、とりわけ関東地方の安行との関連を示す資料が認められる。たとえば田柄例(68)のⅡに施される上向きの連弧文は安行2式の胴部文様に見られ、晩期に継承されるが、68は連弧文の結合付近に独立した三叉文が沈刻され、安行式の影響のものと、東北的に変容した所産と思われる。又台囲例(70)の屈曲部直下にめぐらされた縄文帯も安行式の例に類似する東北地方では屈曲部や文様帯の区画と用られが、70の様に独立して施される例は少ない折哀的な資料である。平縁で屈曲部にメガネ状の区画を持つ二月田例(72)は福島県に類例がある。筆者は旧稿でⅡaの無文化は文様帯の狭少化に伴ものと理解を示したが、前述に如く後期中以来の伝統として理解されよう。この大洞B1(古)式と位置付けた資料は関東地方にも見出され、亀ヶ岡式の波及が認められる一方、また関東地方の影響も見逃すことは出来ない。

 山内清男氏の亀ヶ岡の9細分の内、本型式は大洞B1式に該当し、山内氏が「器形紋様共に東北地方のもの区別し難い程である」と評し,「安行3a式」に位置付けた東京小豆沢貝塚資料に近似する(山内 1941)。山内氏は三叉分が晩期の開幕を告げると論じた(山内 1964b)。後期貼瘤手法や刻目手法・入組文が衰退し代わって晩期的要素の三叉文が主体を占め、彫刻的手法で施されるようになる錯綜した段階である。後藤氏は宮戸Ⅳ式を晩期初頭として正当な位置付けをおこなっていた。後に後期末に変更されたことは遺憾である。

《大洞B1(新)式》筆者の当地域において試みた大洞B式の3細分の内、その中間に位置付けられる型式である。本型式は層位的に前型式と台囲貝塚Bトレンチ(小井川 前掲)、厳密性に欠けるが二月田貝塚(後藤 1972)で検出されている。また後続型式と区分された例は明確でない。層位的に先行型式と分離し得ても後続型式と果たして分離すべきかは多分に問題を残しているが、筆者は後期的な文様構成としてⅡcの成立を考える上で過渡的な文様構成をなす段階として本型式を設定したい。

 5・31~36が本型式に位置付けられる。全てB類文様が口頚部に集約され、玉抱き三叉文が施され、口端に縄文を施し、文様帯下限に1条の縄文帯をめぐらす点で共通する。口頚部文様帯の区画沈線が玉抱き三叉文を呈している。金剛寺貝塚の資料もこの系統で理解できるのではなかろうか。即ち口端に施された縄文は先行型式の縄文帯が痕跡として残ったものと看取できる。しかし器形の変遷から問題も残される。先行型式ではB類の口縁部文様帯はあまり発達を見ない。一方、本型式に施される口頚部文様は先行型式のA類の文様に系統の辿れるものが多い。器形疎のものがA類からB類へ置換されたのか、文様のみが転写されたものかは筆者の判断しかねる問題であるが、先行型式A類の屈曲が弱まる傾向をどう捉えるべきかにかかわっている。金剛寺資料の三叉文は先端末端共に絡むもの(5・32)末端が弧を描き先端に向かうもの(31・33)が存在する前者の例は西林例(76)等に見られる。また、後者は弧状を呈する点で二月田例(75)・台囲例(76)に類似する。そもそも75・76の弧線文は68等先行型式の突起間を連絡する八字状の区画沈線に系統が辿れる。やはり口端の縄文は縄文帯の名残であろう。本型式A類は僅かに台囲例(73)が指摘されるのみである。76と同一層位から出土した。既に後期以来のⅠ・Ⅱa・Ⅱの重畳関係は認められず、小形で器台を持ち大洞B2式の小形台付鉢(但しⅡa・Ⅱの重畳関係)に継承される(77)。Ⅱには68と同様の上向きの連弧文が配されるが、この文様は受け継がれない。

 本型式は口頚部の三叉文、とりわけ口端に縄文及び弧線文に特徴付けられる。類似資料は関東地方に散見され、特に口縁にめぐらされる弧線文はなんらかの関連が窺える。口端に縄文を有する例は岩手県貝鳥貝塚以北では確認されない。本型式は仙台湾周辺の東北地方南半に広がっており、北半では異なった様相を呈しているが、その検討は今後の課題である。型式名として大洞B1(新)式の名称を用いたが、寧ろ大洞B2式の細分として捉えるべきとの意見を窺った。筆者はここに位置付けた資料が山内氏の大洞B式の古典的定義「文様は縄文のない、滑沢のある面に加えられ(中略)上限はしばしば口端に露出している」(山内 1930)に合致しない点を考慮し、前記の名称を用いたのであるが、固執するものでないことを明記しておく。

《大洞B2式》研磨された口頚部文様に入組三叉文が施される本型式は、山内氏により設定された従来の大洞B式、亀ヶ岡9細分後の大洞B2式に相当する。口縁部は山形突起から退化と思われる小波状を呈し、縄文は施されず、文様帯は決まって2乃至3本の沈線で区画される。精製土器は一般に小形に傾き精緻なつくりとなる。

 38~40の口頚部に玉抱き三叉文が施され、下限には1条の縄文帯が囲繞される。後期以来の縄文帯が残存することから本型式でも古い段階であるが、一般に縄文が抜け2条の沈線がめぐらされる例が多い。その意味で3条の沈線がめぐらされる資料はより形骸化したものと理解される。東足立例(78)にも縄文帯がめぐらされているが、文様帯の区画が2条の沈線でなされており、特異な例として38~40より新しくとらえておきたい。37は口端に玉抱き三叉文、口頚部に弧線文を有する。口頚部の類似の文様は主に注口土器の頚部や77の様に屈曲する小形台付き鉢の口頚部文様帯(Ⅱa?)に認められる。しかしB類の口頚部に施されるのは稀で、福島県三貫地貝塚や新潟県石船戸遺跡に認められる。   

その系統は後期の弧線文に求められるのであろうか。間を繋ぐ資料が判然としない。

 口頚部の研磨そして文様の口端への露出から、本型式を持って後期的色彩が払拭され、晩期文様帯としてのⅡcが確立したとみることが出来る。山内氏はⅡcとⅡの重畳関係から亀ヶ岡式の変遷を明らかにした。その基盤が本型式に完成されたことになる。本型式は規格性が認められ、東北地方に広く分布する一方、関東地方等で先行型式にも増して強い波及が認められるのである。

 以上が概略的であるが、筆者の編年試案に金剛寺貝塚資料を対比させ、周辺遺跡との検討をおこなってた。図示した資料をもう一度整理すると、以下のようになる。

 瘤付土器第Ⅰ段階:6・7・46、瘤付土器第Ⅱ段階:4・9・104852、瘤付土器第Ⅲ段階:8・1~185361、後期最終末:62~66、

 大洞B1(古)式:193042444567~72、大洞B1(新)式:5・31~364373~76、大洞B2式:3・37~417778

 筆者の編年案は、層位的出土状況を考慮しながらも、文様・文様帯の構成・器形等の変遷を重視するものであった。その意味で机上での組み立てたあり方と謗りはまぬれない。ここで示した編年は後期後葉瘤付土器から晩期亀ヶ岡式土器への時間的変遷の中での、地域的なあり方の理解を仙台湾周辺に得ようと試みたものであった。大変大ざっぱな見通しでいまだ端緒についたばかりであるが、今後より細かい年代、地域性の把握に目を向けていかねばならない。筆者の偏った資料検索で真相を明らかにしたか問題も残るが、誤りがあれば、いれ稿をたて、改めて訂正したい。

以下略  注及び引用文献を略 

 3 土器資料の検討

 東北地方の後期後半の編年研究は、1924(大正13)年の山内清男氏の福島県(新地)小川三貫地両貝塚の調査でその端が開かれたが、活発さを呈するのは、昭和30年代以降、伊東信雄氏による「金剛寺式」、後藤勝彦氏による「宮戸Ⅲ式」が提唱されてからであろう。両者ともそれぞれの立場で研究成果を示したが、より細かい検討が加えられのは前述した後藤氏の金剛寺貝塚の論考である。ここでは宮戸Ⅲa→宮戸Ⅲb式→宮戸Ⅳ式→大洞B式の変遷序列が示された。しかし、2年後の論文でその内容が大きく変更され。即ち後期中葉加曾利B並行型式とその過渡的な型式として西の浜式が追加され、従来の宮戸Ⅲb式が宮戸Ⅲa式の中に包括され、宮戸Ⅲb式が「磨消手法による入組文が盛行土器」として設定され、従来の晩期初頭に位置付けられた宮戸Ⅳ式がこの類に包括され後期末葉に変更された。したがって、西の浜式→宮戸Ⅲa式→宮戸Ⅲb式→大洞B式の序列に改められたのである。従来の型式名が踏襲され、一方ではその内容が変更された。これ等一連の動向について拙稿に譲るが、後藤氏の新見解はその後齋藤良治・要照両氏により追従され、層位的に検討が加えられた。しかし、従来の宮戸Ⅳ式は正確に理解されたとはいえず、混乱を招く結果となった(注6)。

 筆者は嘗て、仙台湾の学史上の検討を経て、後期後葉瘤付土器の4段階、晩期初頭大洞B式の3区分の編年表案を示した(高柳前掲)。筆者の編年案に当貝塚資料を対比させると6・7が瘤付土器第1段階、4・9・10が第Ⅱ段階、8・11~18が第Ⅲ段階、19~30が大洞B1(古)式、5・31~34・36が大洞B1(新)式、37~41が大洞B2式にそれぞれ該当する。1・2の明確な位置付けは困難であるが、3は大洞B2式相当しよう。後期終末瘤付土器第Ⅳ段階を除いて、全ての型式が存在する。以下、周辺遺跡との比較より年代序列に沿って当貝塚出土土器を検討し、また仙台湾の様相を明らかにしたい。

《瘤付土器第1段階》仙台湾では従来「西の浜式」(後藤1962)として瘤付土器の初現に位置付けされた一群で、6・7が該当する。「西の浜式」は後藤氏によると内側に肥厚した大波状口縁の深鉢にその特徴があるとされるが、6・7ともに大波状口縁を呈し、その定義に合致する。貼瘤手法が見られ、類似資料として田柄例(46)があげられる。両資料とも波状口縁直下に沈線による三角形区画の無文部を有する点で共通する。この系統は田柄例(47)の様にそれ以前の型式(加曾利B3式並行)辿ることが出来る。47は口縁に沿って施される2本の縄文帯の下段が波状口縁下で分岐することで三角形区画が描出され、下段帯が口端に向かいやや張り出し、弧状を呈する。一方、本段階の6・7・46は口端の施文帯の延長としてではなく、直線が加えられることにより三角形区画が表現されている、第1段階に前型式の系統を引き弧状を呈する一群と、新たに直線が加えられる一群の両例が存在するが、仙台湾周辺では、前者が卓越しているように思われる。両者とも分布は広く、岩手県北部・秋田県から福島・新潟県まで渉猟することが出来る(注7)。大波状口縁は本段階A類Ⅱおいて盛行するが、一方平口縁(突起あり)も多く存在することは、田柄貝塚等で確認されている。波状口縁は以降資料的に減少するものの、第Ⅲ段階まで受け継がれている。

《瘤付土器第Ⅱ段階》 第Ⅱ段階は貼瘤手法の盛行、入組文、弧線連結文に特徴があり、従来の「宮戸Ⅲa式」(後藤 1960)に相当される。4・9・10が本段階に位置付けられ、全てA類である。4はⅡaが無文、屈曲部に貼瘤帯、Ⅱに格子目状の沈線が施されるが、胴部中位が括れ、Ⅱaが無文を呈する例は関東地方では加曾利B式以来連続して見られ、特に安行1式では大塚達郎氏により「安行式西広型土器」と呼称されている(大塚1986)。仙台湾周辺では同一の様相を呈し、田柄例(49)・東足立例(50)が本段階,台囲例(54)が第Ⅲ段階、そして二月田(72)の様に晩期初頭まで連続として受け継げがれている。4のⅡに施される格子目状沈線も加曾利B式に多く認められ、強い伝統を引いている。西の浜例(52)の様にⅡ部分に施されるものもあれば、東足立例(51)の様にⅡaに施文されるものがある。仙台湾周辺では51・52の様に2本の並行沈線間に瘤状小突起を有す例が多く(突起間に有結沈線を持つ)、また地文として縄文有するものもある(加曾利B式に盛行)。9・10はⅡaに右傾の入組文を持ち、その中に沈線が加えられる。この沈線の系譜は第Ⅰ段階の入組文内部の弧状の区画乃至「タスキ状入組文」にもとめられ、この区画が痕跡として沈線で残ったのであろう。田柄例(48)は本段階に位置付けられるが、弧状の区画が残存している。9・10はこの系統下で理解される。田柄例(49)の入組内の縦位の沈線も同様に考えられる。また、この段階の文様の特徴に「弧線連結文」があげられる。残念ながら金剛寺貝塚資料には見出せないが、9の入組文はそれに近似して施されている。

 8は後藤氏が「縄文帯上に縦長の瘤を特徴とする安行Ⅰ式に並行する」との見解を示し、「宮戸Ⅲa式」として図示した唯一の資料である。断面図がなく拓本のみでは判断しかねないが、帯縄文の深鉢で縦長の瘤に横位の刻目が加えられる例は、安行2式に並行するのではと筆者考えている。次の段階が妥当であろう。

 《瘤付土器第Ⅲ段階》刺突手法の多用に特徴付けられる本段階は、従来の「宮戸Ⅲb式」(後藤 1960)に相当る。刺突を持つ一群が層位的に瘤状層突起を多用する一群に後出する例は齋藤良治氏の西の浜貝塚Rトレンチ(斎藤 1968)、手塚均氏等の田柄貝塚で確認されている。金剛寺貝塚では当初「宮戸Ⅲb式」として独立した一型式に取り扱われたが、後に「宮戸Ⅲa式」(後藤 1962)の中に含まれたことは前述した。以降仙台湾では「宮戸Ⅲa式」として位置付けられてきた。しかし、学史を紐解き、最近の資料を検討すると、層位的にも、型式的にも一段階を画しえるのではないかと判断される。本段階には8・11~18が該当し、これまで貼瘤が多用された口縁部、頚部付近に刺突帯がとってかわめぐらされ、貼瘤が減少し,施文部位も限られる傾向にある。

 13~18は口縁に刺突帯がめぐる資料である。16の様に太目の工具で粘土を盛り上げ貼瘤帯に擬する資料は、古い様相を具備している。金剛寺貝塚はほとんどが平縁で、13の様に頂部の丸い小突起が2個対で配されるのものが特徴的だが、前述の様に波状口縁を呈する資料も残存する。西の浜例(53)・二月田例(60)・台囲例(61)が相当し、突起形態、縦長の貼瘤、口縁下の三角形区画は安行2式に類似する。53や61は波状口縁直下に弧線が縦位に向かい合う様に配され、類似は福島県日向南遺跡に散見される。我孫子昭二氏が嘗て文様帯Ⅰaと称した部分に相当しよう(我孫子 1969)本段階にも弧線連結文は継承されるが、Ⅱaが2分されたり、弧線内が研磨されネガとポジが逆転したもの(61)が見られ、前段階とやや趣をにしている。

 11・12はⅡaに左傾の多段の入組文が施され、入組内に2個1組の刺突で粘土を盛り上げ瘤状にした文様を持つ。類似資料として台囲貝塚例(55)があげられよう。しかし11・12の入組部には三叉状の沈刻がみられ、新しい様相が窺える。後藤氏が「宮戸Ⅲb式」として図示した資料である。多段化した入組文に関連して、西の浜例(53)・二月田例(56)の様に縦位の稲妻状の磨消縄文も存在するが、仙台湾から山形県(谷定遺跡等)・福島県(一斗内遺跡等)に見ることが出来よう。

 前記の資料のほとんどとはA類でもⅡを持たない資料であったが、Ⅱを持つ資料も数的に少ないといえ存在する。台囲例(57)後続型式に盛行する文様帯の構成を持ち、口縁部に2個1組に縦長貼瘤(横位の刻み)、頚部にも2個1対の貼瘤が付される。貼瘤を持たない台囲例(63・64)とは、層位を異にして報告されている( 1968)。また田柄貝塚ではⅡaに刺突充填の入組文、Ⅱに縄文充填の入組文で構成される資料が報告されている(58)。報告者は気仙沼湾の地域性との指摘をおこなっているが(手塚等 1986)、次の段階に盛行する刻目と縄文手法の重畳関係を先取りしており、興味深い資料である。本段階でも新しい部類であろう。後期中葉以来の伝統的な文様帯構成(Ⅰ・Ⅱa・Ⅱ)の資料を系統的に捉えることが今後に残された大きな課題である。

 またB類は18等いくつかに該当するが、入組文・弧線文・刺突帯のもの等が存在する.我孫子氏のB1・B2・B3型式に対比できるが、入組文は刺突手法で充填されるが一般的である。田柄例(59)は幅の狭い入組文が施されているが、こういった入組文が後続型式の入組文(62)に単純につながって行くのであろうか、検討を要する。

 《瘤付土器第Ⅳ段階》後期最終末位置付けられる。本段階は瘤状突起を持つ資料が少なく、瘤付土器とするには妥当性を欠くと思われるが、便宜上瘤付土器第Ⅳ段階と称する。 

後藤氏の「宮戸Ⅲb式」(後藤 1962)に相当する。但し前述の通り金剛寺の図示資料に本段階は見当たらない。62~64が後藤氏により紹介された台囲貝塚出土資料である。氏は金剛寺貝塚出土の宮戸Ⅳ(19~30)を含めて宮戸Ⅲb式として捉え直した。しかし台囲例はいずれもノーマルな入組文は見当たらず、三叉文を特徴とする宮戸Ⅳ式とは型式学的に画されると筆者は考えている。本段階の大洞B1(古)式相当資料が層位を異にして出土した例は氏の台囲貝塚( 1968),小井川和夫の台囲貝塚Bトレンチの報告(小井川 1980)に猟渉される。本来別型式として取り扱うべきであろう。

 この段階ではA類の文様帯の重畳関係がⅠ・Ⅱa・Ⅱで構成され、従来主体を占めたⅡ欠く深鉢に取って代わる(注8)。口縁には縄文帯がめぐらされ、頂部に2・3分された山形突起が大小交互に配され。Ⅱa・Ⅱ共に右傾・左傾それぞれの入組文が施され、我孫子氏の指摘の如く、仙台湾の特徴をなしている(我孫子 前掲)。特に64はⅡa・Ⅱそれぞれ逆の傾斜を示している.気仙沼湾の田柄貝塚(65・66)ではほとんどが右傾に入組文で、仙台湾とはやや異なる様相を呈するが、同様の傾向は大洞B1(古)式のも認められる。

 B類も62の様に口縁形態・文様共にA類と同じく表現される。後期後半を特徴づけた貼瘤手法はほとんど姿を消しA類の屈曲部に見られる程度であるが(66)、屈曲部に断絶した点列が加えられ(63・65)、粘土を盛り上げ瘤状に擬したものが存在する。また仙台湾周辺ではⅡaの入組文内がヘラ状工具による刻目で充填され、胴部下半に縄文が施される資料が多々存在する(66)他地域にも見られるが、その萌芽は気仙沼湾の田柄例(58)の第Ⅲ段階に認められる。しかし前段階の棒状工具による刺突手法が、箆状工具の刻目手法に置換されたと安易に言えないであろう。この手法は次段階にも一部残存する。

 本段階は入組文の傾きの差異を除くと、形態・文様帯の構成等にある程度の規格性を有する。分布も広く散見できるが、特に関東地方に福島県に特徴的な平縁で、屈曲部にメガネ状の区画を有する深鉢が出土している(茨城県広畑貝塚等)。

《大洞B1(古)式》亀ヶ岡式土器の初現として晩期初頭に位置付けられる。後藤氏の宮戸Ⅳ式(後藤 1960)即ち金剛寺第2類第1群(19~30)が相当し、三叉文が文様の重要な鍵を握る段階といえる。台囲貝塚でノーマルな入組文の土器群と三叉文を主とする土器群が層位を異にして検出されたことは前述したが、器形・文様・文様帯の構成等先行型式を踏襲した要素を多分残している。しかしこれまで帯状を呈していたⅠは三叉文を基調とした文様が施され文様と化し、Ⅱa・Ⅱにおいても三叉文が発達、従来の入組文に変化をもたらしている。後期的要素が払拭され、晩期的要素が具備されつつあったといえよう。

 本型式は19・20の様に口縁突起下八字状に研磨され独立した三叉文が沈刻される資料に代表される。A類では口縁突起下に独立した三叉文を有する例の他に、口縁直下の沈線から山形突起に向かって刺状の沈刻が施されるもの(23)、突起直下に玉抱き三叉文が施されもの(24)が存在する。又田柄貝塚(67)の様に突起下に三叉文が沈刻されるものもある。これらの相違には口縁の縄文帯(刻目帯のことも)の構成がある程度かかわっている。本型式の口縁部文様帯は大きく分けて、3通りの構成を持っている。(1)口端に1条のそして無文帯を挟んでもう1条の縄文帯をもってⅡaとの区分をなしているもの。(2)無文帯を持たず沈線によって2条の縄文帯を描出るもの。(3)1条の縄文帯のみを有するもの。これ等は既に受け継がれている(注9)。(1)本型式において主導的立場にあり、突起直下が八字状に研磨され、独立した三叉文や下段縄文帯の区画から突起に向かい刺状に沈刻される例が多い。突起下が八字状に研磨されずに上段縄文帯の区画沈線から刺状に沈刻されるものもある。一方(2)42の様に沈線から突起に向かい刺状に沈線から刺状に沈刻されたものが多い。(3)は67の様に突起直下に三叉文が沈刻されたり、69の様に玉抱き三叉文が施される例が存在するが、後者の例は(1・2)にも見られる。又68・70様に(1・2)どちらとも決定しかねない資料も存在するが、これは小豆沢例にも共通する構成である。しかし口縁下の独立した三叉文の系統の判別は容易ではない。口縁下に三角形区画を有する例は瘤付土器第Ⅲ段階の二月田(60)や台囲例(61)に見出し得るが、後期最終末には継承されない。大塚達郎氏は「三叉文の系譜」を「滋賀里例→小豆沢例」という系列」の中で「安行式の伝統とその中での変化を継承している」という見解を示したが(大塚 1981)、氏の言うように三叉文を単純に東北地方起源に帰することは出来ないであろう。安行式との関連で検討しなければならない。

 本型式のⅡaには先行型式の系統を引く入組文が施され、入組結合部に三叉文が配され、安定した文様構成であった入組文に変化をもたらしている。19・20の様に入組結合部に円文を配し、それを中心に三叉文対称的に沈刻されるもの、27~30の様に入組文のモチーフヶ崩されたもの等が存在する一方、田柄例(69)の様にノーマルな入組文が施されるものがある。Ⅱaにおける三叉文の祖形は先行型式の入組結合部に看取できるが、本段階では三叉文がより発達し、これまでの客体的から主体的なあり方を示す様になる。この文様帯の三叉文はほとんど刺突・円文等の起点を中心に対称的に配され、亀ヶ岡式の特徴である点対称の原点を窺うことが出来る(高橋 1981)円文は玉抱き三叉文・魚眼状三叉文をともなうのが一般的であるが、この系統は入組文結合部に刺突乃至貼瘤にもとめることが出来る。27~29(B類と推察される)は平行化した入組文の内、結合部分が文様から切り離されることで、円文を中心とする魚眼状の三叉文が独立し、崩れた入組文と交互に配されたと筆者は理解している。この過程を示す好例は図示しなかったが台囲貝塚Bトレンチ等に窺(小井川 1980)、山内清男氏が大洞B1式として図示した資料にも類似例が存在する(注10)。本型式でも新しい部類である。田柄例(68)のⅡaに見られる円文と向かいあった弧線文が交互に配される例は青森県十腰内遺跡に散見される。三叉文を持たずとも円文に文様の指南としての役割を果たしているようである。

 Ⅱは簡素化の傾向にあり、26や67・69の様に1段の入組文,72の様に並行化した入組文の施された例が多い。また括れ部分に縄文帯や266871の様に断続した点列が加えられ。この点列は山内氏によって安行3a式の特徴と指摘されたが(山内 1941その系統は52等の貼瘤間の有結沈線に辿れるであろう。器高の低い器形の底部にはあげ底(67)や器台を持つもの(6971)が見られる。又胴部中位の括れが弱まりB類との区別が付かないものも存在する(70)。仙台湾では本型式を持って後期後半を特徴付けたA類の器形に終止符が打たれ、以降A類はほとんと姿を消し、B類が主体をしめることになる。

 B類には口縁部形態・文様帯の構成等後期最終末の特徴が踏襲される例が多い。口縁部には山形突起は配され、口端に1条の縄文帯を有し、突起下部は区画され無文を呈し、口頚部文様帯に入組文、下限を沈線で区画し胴部に縄文を施す例が多い。前型式との判別が困難な資料も存在する。口縁部文様帯に文様を持つ例が少ないのには、前述の如くその構成に関連していると思われる。口頚部の文様は文様帯の狭少化によるものか1段の入組文を呈するもの、又27~29の様にA類のⅡaに盛行する三叉文が施され、入組文のモチーフが崩されたものも存在する。

 仙台湾周辺の本型式を見渡すと異系統の要素、とりわけ関東地方の安行との関連を示す資料が認められる。たとえば田柄例(68)のⅡに施される上向きの連弧文は安行2式の胴部文様に見られ、晩期に継承されるが、68は連弧文の結合付近に独立した三叉文が沈刻され、安行式の影響のものと、東北的に変容した所産と思われる。又台囲例(70)の屈曲部直下にめぐらされた縄文帯も安行式の例に類似する東北地方では屈曲部や文様帯の区画と用られが、70の様に独立して施される例は少ない折哀的な資料である。平縁で屈曲部にメガネ状の区画を持つ二月田例(72)は福島県に類例がある。筆者は旧稿でⅡaの無文化は文様帯の狭少化に伴ものと理解を示したが、前述に如く後期中以来の伝統として理解されよう。この大洞B1(古)式と位置付けた資料は関東地方にも見出され、亀ヶ岡式の波及が認められる一方、また関東地方の影響も見逃すことは出来ない。

 山内清男氏の亀ヶ岡の9細分の内、本型式は大洞B1式に該当し、山内氏が「器形紋様共に東北地方のもの区別し難い程である」と評し,「安行3a式」に位置付けた東京小豆沢貝塚資料に近似する(山内 1941)。山内氏は三叉分が晩期の開幕を告げると論じた(山内 1964b)。後期貼瘤手法や刻目手法・入組文が衰退し代わって晩期的要素の三叉文が主体を占め、彫刻的手法で施されるようになる錯綜した段階である。後藤氏は宮戸Ⅳ式を晩期初頭として正当な位置付けをおこなっていた。後に後期末に変更されたことは遺憾である。

《大洞B1(新)式》筆者の当地域において試みた大洞B式の3細分の内、その中間に位置付けられる型式である。本型式は層位的に前型式と台囲貝塚Bトレンチ(小井川 前掲)、厳密性に欠けるが二月田貝塚(後藤 1972)で検出されている。また後続型式と区分された例は明確でない。層位的に先行型式と分離し得ても後続型式と果たして分離すべきかは多分に問題を残しているが、筆者は後期的な文様構成としてⅡcの成立を考える上で過渡的な文様構成をなす段階として本型式を設定したい。

 5・31~36が本型式に位置付けられる。全てB類文様が口頚部に集約され、玉抱き三叉文が施され、口端に縄文を施し、文様帯下限に1条の縄文帯をめぐらす点で共通する。口頚部文様帯の区画沈線が玉抱き三叉文を呈している。金剛寺貝塚の資料もこの系統で理解できるのではなかろうか。即ち口端に施された縄文は先行型式の縄文帯が痕跡として残ったものと看取できる。しかし器形の変遷から問題も残される。先行型式ではB類の口縁部文様帯はあまり発達を見ない。一方、本型式に施される口頚部文様は先行型式のA類の文様に系統の辿れるものが多い。器形疎のものがA類からB類へ置換されたのか、文様のみが転写されたものかは筆者の判断しかねる問題であるが、先行型式A類の屈曲が弱まる傾向をどう捉えるべきかにかかわっている。金剛寺資料の三叉文は先端末端共に絡むもの(5・32)末端が弧を描き先端に向かうもの(31・33)が存在する前者の例は西林例(76)等に見られる。また、後者は弧状を呈する点で二月田例(75)・台囲例(76)に類似する。そもそも75・76の弧線文は68等先行型式の突起間を連絡する八字状の区画沈線に系統が辿れる。やはり口端の縄文は縄文帯の名残であろう。本型式A類は僅かに台囲例(73)が指摘されるのみである。76と同一層位から出土した。既に後期以来のⅠ・Ⅱa・Ⅱの重畳関係は認められず、小形で器台を持ち大洞B2式の小形台付鉢(但しⅡa・Ⅱの重畳関係)に継承される(77)。Ⅱには68と同様の上向きの連弧文が配されるが、この文様は受け継がれない。

 本型式は口頚部の三叉文、とりわけ口端に縄文及び弧線文に特徴付けられる。類似資料は関東地方に散見され、特に口縁にめぐらされる弧線文はなんらかの関連が窺える。口端に縄文を有する例は岩手県貝鳥貝塚以北では確認されない。本型式は仙台湾周辺の東北地方南半に広がっており、北半では異なった様相を呈しているが、その検討は今後の課題である。型式名として大洞B1(新)式の名称を用いたが、寧ろ大洞B2式の細分として捉えるべきとの意見を窺った。筆者はここに位置付けた資料が山内氏の大洞B式の古典的定義「文様は縄文のない、滑沢のある面に加えられ(中略)上限はしばしば口端に露出している」(山内 1930)に合致しない点を考慮し、前記の名称を用いたのであるが、固執するものでないことを明記しておく。

《大洞B2式》研磨された口頚部文様に入組三叉文が施される本型式は、山内氏により設定された従来の大洞B式、亀ヶ岡9細分後の大洞B2式に相当する。口縁部は山形突起から退化と思われる小波状を呈し、縄文は施されず、文様帯は決まって2乃至3本の沈線で区画される。精製土器は一般に小形に傾き精緻なつくりとなる。

 38~40の口頚部に玉抱き三叉文が施され、下限には1条の縄文帯が囲繞される。後期以来の縄文帯が残存することから本型式でも古い段階であるが、一般に縄文が抜け2条の沈線がめぐらされる例が多い。その意味で3条の沈線がめぐらされる資料はより形骸化したものと理解される。東足立例(78)にも縄文帯がめぐらされているが、文様帯の区画が2条の沈線でなされており、特異な例として38~40より新しくとらえておきたい。37は口端に玉抱き三叉文、口頚部に弧線文を有する。口頚部の類似の文様は主に注口土器の頚部や77の様に屈曲する小形台付き鉢の口頚部文様帯(Ⅱa?)に認められる。しかしB類の口頚部に施されるのは稀で、福島県三貫地貝塚や新潟県石船戸遺跡に認められる。   

その系統は後期の弧線文に求められるのであろうか。間を繋ぐ資料が判然としない。

 口頚部の研磨そして文様の口端への露出から、本型式を持って後期的色彩が払拭され、晩期文様帯としてのⅡcが確立したとみることが出来る。山内氏はⅡcとⅡの重畳関係から亀ヶ岡式の変遷を明らかにした。その基盤が本型式に完成されたことになる。本型式は規格性が認められ、東北地方に広く分布する一方、関東地方等で先行型式にも増して強い波及が認められるのである。

 以上が概略的であるが、筆者の編年試案に金剛寺貝塚資料を対比させ、周辺遺跡との検討をおこなってた。図示した資料をもう一度整理すると、以下のようになる。

 瘤付土器第Ⅰ段階:6・7・46、瘤付土器第Ⅱ段階:4・9・104852、瘤付土器第Ⅲ段階:8・1~185361、後期最終末:62~66、

 大洞B1(古)式:193042444567~72、大洞B1(新)式:5・31~364373~76、大洞B2式:3・37~417778

 筆者の編年案は、層位的出土状況を考慮しながらも、文様・文様帯の構成・器形等の変遷を重視するものであった。その意味で机上での組み立てたあり方と謗りはまぬれない。ここで示した編年は後期後葉瘤付土器から晩期亀ヶ岡式土器への時間的変遷の中での、地域的なあり方の理解を仙台湾周辺に得ようと試みたものであった。大変大ざっぱな見通しでいまだ端緒についたばかりであるが、今後より細かい年代、地域性の把握に目を向けていかねばならない。筆者の偏った資料検索で真相を明らかにしたか問題も残るが、誤りがあれば、いれ稿をたて、改めて訂正したい。

以下略  注及び引用文献を略 

 把握間違いがある。《瘤付土器第Ⅰ段階》西の浜式である。『仙台湾沿岸貝塚の基礎的研究』Ⅴ「西の浜貝塚R・S・Nトレンチ」 と『考古学雑誌』第48巻第1号に典型的な西の浜式の資料図示している。すくなくも図1の6・7は西の浜式ではなく、瘤付土器Ⅱ段階以降である。多数の小突起のついていることはない。確認してください

    第13章 1995 (平成7年) 須藤隆 『縄文時代晩期貝塚の研究2 中沢目貝塚Ⅱ』東北大学文学部考古学研究会

第Ⅰ章 調査の目的 第Ⅱ章 北上川下流の縄文時代貝塚 第Ⅲ章 中沢目貝塚の概要 第Ⅳ章 中沢目貝塚の調査経過 第Ⅴ章 貝層の堆積状況と層序 第Ⅵ章 出土遺物の分析 第Ⅶ章 考察  大冊のため抜粋する 


第Ⅴ章 貝層の堆積状況と層序 3 堆積層の概要

 第2~4次調査の概念図、平面図と共に断面図を第5図版に掲げた。また各層の観察表は付表1に掲載した。13区では、Ⅰa層から17b層間で、32枚の層が確認された。Ⅰa~g層と比較的小さな層が続くが、2層以下では比較的大きな堆積の層が多くなる。層の分布がいくつかのグループに分かれることが少ないために、層序概念図に見られる様に整然と各段階を辿ることが出来る。23b514層は、推定体積が50リットルを越える比較的大きな層である。混貝土層が多く、主体となる貝はオオタニシ,イシガイ,ヌマガイである。8層にヌマガイ、3b10層に灰、9a層に鱗のブロックが目に付く。13層には土器が面をなして出土した、炭化物は各層に含まれているが、7,14層に特に多いようである。13区の中央部から北西コーナーに広がる落ち込みは、第1次調査時から確認されていた撹乱坑である。

 H3区では、1層から13層まで、24枚の層が確認された。13区と対照的に大きな堆積を持つ層は少ない、3,7,10c30~40リットルの体積を持つ程度で、調査区中に広がる層が多い。層の種類も13区と異なり、混貝土層の他に、混土貝層,灰層、土層、粘土ブロックと多様である。貝はオオタニシ、イシガイ、ヌマガイが主体的となる。9c層の中央部で土器が一括して出土した。

H13区では、18層以下335層まで329枚の堆積層が確認された。18層が13区前面とH3区の東側半分に分布していたため、18層以下は層名を統一し、両区を合わせてH13区とした。18層以下では、大きな層とそうでない層との差異が際立っている。また、各堆積層が比較的小さく、分布が拡散するため、概念図に示したように、多くの層に上下関係が「段階」として捉えことが難しくなる。105層は推定体積が112リットルを超える非常に大きな層であり、105層を介して全ての層をその上下に位置付けることが出来る。18層以下82層前後までは混貝土層が基本であるが、83層から110層にかけては混土貝層の比率が高くなり、粘土、灰、鱗等のブロックも多く存在する。112層以下では227層付近まで、再び混貝土層が主体的になる。236層以下では混土貝層も多くなる。主体となる貝は、オオタニシ、イシガイ、ヌマガイである。18層以下ではアサリを集中的に出土する層が目立ち、127層のようにアサリ主体の層が存在する等、上層とは様相が変化している。以上、堆積層の概要について述べた。各層の詳細は、調査貝層一覧(付表1)に示した。

 

第Ⅵ章 出土遺物の分析 1 土器 

1)出土土器の概要 

 ここでの資料は第234次調査におけるH3区、13区から層位的に出土した一括資料である。しかし資料の検討中や遺構内容が充分に検討出来ないため、ここでは、H45区出土資料の一部をH3区、13区出土土器群の分析の参考資料として掲載利用した。 

 第1次調査の結果、合わせて46枚の堆積層から総重量68kgの土器が出土した、分析資料は684個体分に達した。その資料は「大洞BC(2)式土器」に相当する晩期2期のⅡ群土器と後期最終末の「宮戸Ⅲb式土器」に当たるⅤ群土器を主体としている。

 2次調査では第1次調査の調査終了層の下から掘り下げ、精査をすすめた。そして検出した層をH3区では1層から13層、1318層~27層までの名称を与えた。第2次調査では堆積層の総数は78枚に達した。

 3次調査では、継続調査を行い、28層~124層までの堆積層を精査した。さらに、4次調査では、125層~335層まで堆積層の精査をおこなった第14次の結果、堆積層の調査枚数は、第1層~335層まで387枚にのぼる。第4次調査を終了した時点でなお基底面に達していないが、調査貝層全体の厚さは厚いところで1.2mに達した。調査の方法は第2次調査から定量の土壌を採取し、篩での水洗いにし、微細な遺物の採取に切り替えた。

 

2)土器の出土状態 3)土器の分析方法 略

 

4)中沢目貝塚Ⅱ群土器の型式学的検討

 a Ⅱ群土器の概要 

 第2次調査資料のうち、13区の1~17a層、H3区の1~13層、さらにHI3区の18層から出土した土器群(273個体分)は、基本的に第1次調査出土資料の13区Ⅶ~XⅥ層、H3区Ⅱ~XⅡ層出土土器群(503個体分)とその型式内容が共通する。この土器型式は、既に第1次調査研究報告書で述べたように、山内清男の設定した「大洞BC2)式」、あるいは芹沢長介の摘出した「雨滝Ⅱ式」に相当し、「晩期2期」に位置付けられる土器群である。

 b 土器属性の抽出 c 器形の類型化 略

 

 d 器種類型

 A類 深 鉢 A1 晩期12期縄文土器に見られるもっとも基本的な器形の一つである。口縁部から底部まで顕著な屈曲を持たず、緩やかに内湾するか、あるいは直線的に立ち上がる深鉢である。口径に対する高さの比率は0.8以上で、1.4程度のものが見られる。復元された土器の口径は16~40cmで、かなりの幅があるが、20~30cmのものが多い。また、底部は8~12cmで、比較的安定した形態の土器である。

 この、器種類型は装飾・文様帯を持たず、口縁部から底部付近までの外面に縄文が施される粗製土器が多い。また、口縁部に山形突起、刻み目、波状装飾が施され、口縁部外面に文様帯が設けられ、箆描きの平行線、入組三叉文、羊歯状文が展開したり、あるいは箆磨きによる無文帯の巡る土器が見られる。この装飾方法の異なる二つの亜類型は、第1次調査資料の分析において抽出、設定されており、その類型基準と同様に、後者の装飾土器A1a類、前者の粗製土器をA1b類と呼称する。

この深鉢A1類は、晩期1a期、1b期、そして2期を通じて一貫して存在する。このA1類の器形、製作手法、調整・整形手法については、時期による大きな変化は認められない。しかし、縄文施文手法は、装飾手法、口縁部端面の形状、装飾など、細部の特徴に時期による変化が窺える。A2類 この類型は口縁部と体部との境に括れをもち、口縁部が軽く外反する。口径と高さの比率は、A1類と同様に0.8以上である。最大径は口縁部か体部の上位にある。そして口縁部は無文帯、あるいは文様帯が展開する。A2l類 A2類と共通する特徴を持つが、外反する長い口頚部を有する。体部は、倒卵形を呈する。A2l類ではやや浅く、最大径は口縁部に位置する。口頚部と体部上位に文様帯が展開する。第1次調査のH3区Ⅷ層から1点出土している。A3類この類型は口縁部と体部の境に括れを持つ。口頚部は比較的短く、緩やかに外湾する。体部上半が強く膨らむ。最大径は体部上位にある。最大径と器高との比率は、0.8以上であり口頚部から肩部にかけて文様帯が展開する。この器形の主要文様帯には「刻み目文」や「羊歯状文」が施される。この器形は晩期1b期になって成立した形態と見られる。1次調査H区Ⅴ、Ⅵ、Ⅷ、XⅠ層から5点の土器が出土している。A4類 これは、かるく外反する口縁部と長い頚部を有する深鉢で、口頚部と体部に形状で、4abc類に区分される。晩期2期の資料には、口頚部が長くゆるやかに外湾する深鉢4c類が11112層から2点、第12次調査資料中であわせて7点出土している。しかし、後期終末の深鉢に類似する4ab類は、中沢目貝塚出土の晩期1a期の資料には認められるが、中沢目貝塚出土の晩期1b2期の資料にはみられない。このことから、後期終末の装飾深鉢の形態は晩期1a期まで踏襲されるが、1b期では消滅したとみられる。

 B類 鉢・台付鉢 この類型には東北地方における晩期2期縄文土器の器種に中でもっとも多彩な変異が見られる。まっすぐに立ち上がる口縁、あるいは緩やかに内湾する口縁部をもつ1類、口縁部が外反し、体部との境に明瞭な括れをもつ2類、口頚部が緩やかに外湾する3、そして体部より長大な口頚部を持つ3lなどがある.B1類は体部が緩やかに内湾し、椀形を呈するのが特徴であるが、体部が直線的に伸びる形態(B1s類)もみられる。またB3l類にも口頚部が直線的にのびるもの(Bls類)がある。そしてB類の底部には、平底、小さな揚げ底,丸底などが見られが、低い台(h類)や装飾的な高台(p類)を有するものものなどある。このように鉢B類には多様な形態変異がみられる。さらに装飾にも多彩な文様構成、施文方法が展開する。B1類 B1類は定型化の著しい装飾鉢である。第2次調査資料では33点、第1,2次調査資料全体で84点が出土し、晩期のⅡ群土器で比較的高い出現頻度を示している。その形態は口縁部から底部まで緩やかに内湾する椀形である。口径15~20cm口径と高さの比率は、各地で出土しているこの類型の完形品を計測すると、10.50.75とかなりの変異幅が見られる。その形態変異は漸移的であるが、10.60.7のものが多い.先行する晩期1b期にはこの比率が10.7前後で比較的深い鉢が多く、晩期2期には10.6前後のやや浅い椀形が目に付く(第6図)。底部は小さく、平底、あるいは軽い揚げ底となる。Ⅱ群土器には口縁端面に盛んに刻み目や小粘土粒が貼付けされ、口縁部には幅の狭いⅠ文様帯がめぐる。文様帯の上下を1,2条の平行線で区画し、装飾として羊歯状文,「平行線間刻目帯」が施される。1b期には口縁部が小波状を呈し、口縁部のⅠ文様帯に入組三叉文や入組三叉文を基調とすた「祖形羊歯状文」が展開する。Bs類 B1類と類似した形態の鉢であるが、体部から口縁部へのひろがりが強く、その湾曲の度合いがB1類にくらべて弱い。器形の輪郭線は口縁部から体部にかけて直線的に伸びる。口径と器高の比率は10.5前後で、B1類に比して浅い。後期後半から晩期前半にかけて少量であるが一貫して認められる鉢である。全面を丁寧に箆磨きした無文土器が一般的である。B2類 器形はA2類を小形にした類型であり、A2類と類似した口頚部をもつ。口縁部と体部の境に明瞭な括れを持ち、口縁部は短く外反する。体部上位がやや強く膨らむ。最大径は口縁部か体部上位にある。しばしば低い台を持つ。口頚部と体部上位に文様帯が展開する。H35層(第2212)と1314層(第2715)からこの類型の土器が出土している。推定口径9cm程度の小形粗製土器である。口頚部がかるく磨かれるかナデが施される。B3類 口頚部は比較的短く、緩やかに外湾する。体部は内湾し、比較的深い椀形である。最大径と高さの比率は10.6前後である。最大径は口縁部にある。底部は丸底か小さな平底である。口頚部と体部全面に文様帯が展開する。1311層からこの類型が1点出土している。(第2529)。B3l類 この類型は晩期2期に東北各地に広く分布している。B3類と同様にゆるやかに外湾する口頚部をもつ。口頚部は体部寄り長大である。口頚部と体部の境に明瞭な段がみられる。体部は浅く軽いふくらみを持つ。最大径は口縁部にある。口径と高さの比率は10.5~10.75である。底部は丸底か小さなかるい揚底である。この鉢は、口頚部と体部の比率、口頚部開き、体部の形態に変異が見られる。また、口縁部と体部全面に文様帯が展開し、きわめて装飾的な鉢である。H417層出土資料(第22図版4)がこの類型である。第1次調査の13区Ⅹ、ⅩⅣ層、5層,H3区Ⅷ層から出土している。

C類 浅鉢・台付浅鉢・高杯 口径と器高の比率は10.5未満で0.2以上であり、器高が口径の3分の1前後の比較的浅い鉢形土器である。口頚部と体部の形状で12331類に区分される。底部には平底、丸底、低い台の付くもの(h類)、体部に匹敵ないしはそれをしのぐ高い台を持つ高杯(p類)がみられる。この器種は晩期1期以後、後期6期間まで各時期に認められる。C口縁部が軽く内湾する浅鉢である。椀形土器B1類と形態的に漸移性がある。然しB1類より浅く、口径と器高の比率は10.3前後を示すものが多い。Ⅱ群土器の口縁部の装飾として、直線的に広がる低い台を持つ。口縁部あるいは体部上位まで文様帯が展開する。北上川上,中流域において目につく器形である。中沢目貝塚では少なく、8点出土しているに過ぎない。C1h類 台付浅鉢である。口縁部から体部にかけて内湾しながら広がる。そして、直線的にひろがる低い台を持つ。口縁部あるいは体部上位まで文様帯が展開する。北上上、中流域において目に付く器形である。中沢目貝塚では少なく、8点出土しているに過ぎない。C1p 北上川下流域固有の高杯である。浅い鉢に装飾的な高台である。浅い鉢に装飾的な高台が付けられる。口縁部が明瞭に内屈し稜を形成するC1p類と、強く内湾し稜をもたないC1p2類とがある。

 Ⅱ群土器ではCp類が比較的出土量が多く、13区Ⅶ層~H1318層まで48点出土している。一方、Cp2類は13121315層など下層で4点出土している。C1p2類は比較的古い段階の高杯といえる。これ等の高杯の口縁部には入組三叉文が展開し、装飾は著しく定型化している。体部中位に2条の平行沈線がめぐり、体部の内外面は丁寧な箆磨きが施される。

 この高杯は、中沢目貝塚、長根貝塚、恵比須田遺跡,小沢,館貝塚,迫町倉崎貝塚、砂子崎貝塚、中神遺跡、南境貝塚など北上川下流、迫川流域の瑚沼域に分布する。北上川上流域、仙台湾地方、阿武隈川下流域などでは認められず、北上川下流域,迫川,鳴瀬川領域の限られた地域に分布する土器である。なお、主要な分布域外では北上川の支流衣川の左岸段丘に所在する胆沢郡衣川村東裏遺跡,陸奥湾に望む東津軽郡平内町槻ノ木遺跡においてこの高杯C1p類が1点ずつ出土している。いずれも入組三叉文が展開している。この土器は、その形態や胎土から北上川下流域から搬入土器と推定される。C2類 この類型は、口頚部が外反するか、頚部に明瞭な括れ、あるいは段が見られる。体部は浅く、内湾して立ち上がる。底部は平底か丸底、あるいは低い台を持つ。口頚部と体部状半に文様帯、無文帯が展開する。C3類 これはB3類と口頚部の形態が類似し、緩やかに外湾する。体部の開きの強いものと内湾きみのものとがある。1315c層、H358b9a層出土の鉢C3類接合資料(第22図版2)は、口径と高さの比率は10.48である。沼津貝塚出土資料には10.28のものが在る。その比率は10.5未満で0.2以上である。口頚部から体部上半にかけて文様帯が展開し、きわめて装飾的な浅鉢である。平底と丸底のものが出土している。H39b層、1315c層接合資料、1314層出土の№336(第2724)などがこの類型に属する。C3l類 この器形は緩やかに外湾する口頚部を持ち、口頚部の径が体部最大径とほぼ同じ程度の浅鉢である。口頚部の形態はB31類と類似している。体部は緩やかに内湾する。大きな丸底か平底を持つ。口頚部と体部上半に文様帯が展開し、装飾的である。

D類 皿 口径と高さの比率が、10.2未満の皿形土器である。D1類 口縁部から体部にかけて屈曲が無く、直線的にあるいはやや内湾気味に広がる皿である。晩期1b2期の皿形土器は比較的少ない。中沢目貝塚では装飾性の高い有文皿はほとんどみられない。

E類 壷 この器種には著しく多様な形態が見られる。口頚部の形態によって、①口頚部がくの字形に外反する類型、②口頚部に屈折点がなく、外湾する類型、③口頚部が屈折点から立ち上がり、緩やかに外湾する類型,④体部上位と頚部の境に段、口縁部と頚部に屈折点を持ち、口縁部は軽く内湾する類型,⑤体部上位の屈折点から頚部が立ち上がり、頚部と口縁部がくの字にh外反する類型、⑥⑤と類似した口頚部を持つが、口縁部が袋状に内湾する類型、⑦⑥と類似した口頚部を持つが、体部に最大径が30cmに及ぶ大型壷で、体部は球形を呈する類型、⑧長頚細頚で、球形の小型精製壷,⑨徳利形精製壷、などに類別できる。さらに、口頚部の太さによって、体部最大径と口頚部の太さの比率が10.4未満の細頚壷、10.4以上で0.6未満の壷、1:0.6以上の太頚壷の3類型に区分される。また、体部の高さと最大径の比率が0.6前後の扁平球形の壷、0.8前後の球胴壷、0.9前後の倒卵形、長胴の壷、1.0以上で下膨らみの徳利形土器などに区分される(第7図)。さらに器高にも幅があり、小型壷、15cm以上の中型壷、30cm以上の大型壷に区分できる。

 中沢目Ⅱ群土器では口頚部に形態と頚部の太さによってE11,12,13,21E92,9327の組み合わせが考えられるが、その多数な類型の壷の内9類型(E12,13,22,23,32,42,62,72,81)が抽出された。E12 直線的で短い口頚部と強く膨らむ球形の体部を持つ。HI323層出土の小型壷№425(第325)がこの類型に属する。E13 広口壷の1類型である。頚部は明確に括れる。口頚部は比較的短く太く、口縁部が外反する。小型壷である。体部は杏仁形か倒卵形を呈する。縄文施文の粗製壷が一般的である。1313層出土の№32(第274)この類型の口縁部破片と推定される。E22 比較的よく見られる壷である。14点出土している。口頚部は太く、緩やかに外湾気味に立ち上がる。口縁部は短く、軽く外反し、頚部との境に明瞭な屈曲は見られない。体部は卵形で最大径が中位に位置する。底部は平底である。文様帯をもつものは見られず、粗製壷である。無文のものも稀に出土する。E23 土器№295145がこの類型に属する。広口壷である。口縁部は短く、軽く外反し、頚部は比較的長く、緩やかに外湾する。体部の最大径は上位にある。頚部径と体部最大径はあまり差が無い。E32 口頚部は比較的長く太い。頚部は僅かに外湾するかほぼ直立する。口縁部も軽く外反になるかが、口頚部は明瞭に屈曲を持たない。体部は球形を呈する。杏仁形がやや長胴のもの見られる。最大径は体部中位にある。体部全面に縄文が施されるが、無文の場合も見られる。H37層出土の壷(第2218)がこれにあたる。E42類 器高20㎝を越す中型短頚壷、頚は外湾しつつ、内傾する。口縁部は短く、軽く外反する。体部は上位3分の1付近で強く膨らみ、倒卵形を呈する。H39b層出土資料(第22図版6)がこの類型に属する。この土器は体部最大径23.2cm、高さ推定25cm、口径9.4cmの比較的大きな粗製壷である。E62 広口壷で、袋状口縁を持つ、頚部は内傾し、体部は扁平球形を呈する。最大径は体部中位から幾分上位に位置する。底部は丸底、乃至平底である。丁寧に箆磨きを行い,朱で彩色する。E72 口縁部は袋状を呈し、軽く内湾して立ち上がる。頚部は内傾する。体部は球形を呈し、中位に最大径を持つ、頚部の付け根に突帯がめぐる(第2821)Ⅱ群土器では貼り付け突帯が見られるが、Ⅲ群土器では、内面に凹面を形成する突帯が一般的である。大型の装飾壷であるE62類に類似する。E81類 小型の長頚細頚壷である。口縁部は外反し、頚部は直立あるいは幾分内傾する。体部は下膨らみとなる。土器№223がこの類型に属する。体部には磨消縄文手法によるⅩ字文、羊歯状文などが展開し、装飾的な壷である。朱塗りのものがみられる。E9類 徳利形の壷形土器である。晩期2期に各地に盛行する。口縁部は軽く内湾するほかほぼ直線的に外びらきとなる。頚部は短く、ほぼ直立するかやや内傾する。口縁部は外反し、直線的にのびる軽く袋状を呈する。底部は平底か、丸底に近い平底である。体部に幅の広い文様帯が展開する、頚部が丁寧に磨研され、薄手の土器である。中沢目貝塚ではこの装飾壷の体部破片が出土している。

F類 注口土器 注口土器は第1次調査研究報告書において指摘したように袋状の口縁部と内傾する頚部をもつF1類と、袋状口縁をもたず、内傾する口頚部を持つF2類の二つの類型が見られる。晩期2期の注口土器は晩期1b期の注口土器に比べて最大径に対する最高の割合が減少し、幾分扁平な形態になる。F1類 口縁部が内湾して立ち上がり,袋状を呈する。頚部は内傾し、直線的に伸びる。体部は扁平球である。1b期の注口土器に比べると、概して頚部の傾きが大きく、また体部の膨らみが弱く、体部中位の接合部で強く折れ曲がる。頚部から体部上半にかけて文様帯が展開する。注口部は体部中位の屈曲部に接合される。2次調査の資料で注口土器の袋状口縁は抽出されておらず。この類型は確認できなかった。F2類 口縁部と頚部との屈曲は見られず、口頚部は直線的に内傾する。体部形状はF1類と共通し、扁平球を呈する。やはり1b期の注口土器に比べると頚部の傾きが強く、また体部の膨らみが弱い。体部中位の接合部の屈曲も強い。口頚部と体部上半の膨らみにそれぞれ文様帯が広がり、羊歯状文、Z字文、K字文、弧線文が展開する。注口部の位置もF1類と同様に体部の中位に在る。第2次調査資料の注口土器の主体である。

G類 香炉形土器 香炉形土器は極めて稀である。H3区9a10c1319層(清掃土)接合資料(1区17層)か10c層で晩期2期に属する。体部は浅く、緩やかに内湾し、広がり検討で帰属層は9a層(Ⅰ区17層)か10c層で晩期2期に属する。体部は浅く、緩やかに内湾し、広ら理の検討で帰属層は9a層(Ⅰ区17層)か10c層で晩期2期に属する。体部は浅く、緩やかなに内湾し、強く広がる。体の上位で1cm度の幅で内屈する。注口土器の体部の形態に似ているが、より扁平で浅い。屈曲部の上下に文様帯がめぐり、X字文が施されている。台は失われ、破損部を研いて再利用したとみられる。

 この他に採集品に完形土器が1点見られる(須藤編 1986)。体部は中位で強く張り出し、くの字に屈曲する。体部上半に軽く括れを持ち、その上に円錐形の頂部がのる。この頂部には2つの楕円形の大きな透かし孔と多数の小さな透かし孔と多数の小さな透かしと孔とがあけられる。また、その頂部には土偶の頭頂部の飾り突起と類似した装飾的な突起が飾られる。その形態と装飾の特徴から晩期2期の香炉形土器と考えられる。


 e 口縁部端面の形状 f 口縁部形態と口端部装飾 g 口縁部装飾の類型化 略


 h Ⅱ群土器の装飾・施文要素 口縁部、頚部、体部の文様帯にはさまざまな装飾が展開する。ここでは口縁部、頚部、体部上半、台部に展開する装飾意匠、装飾要素について類型化をこころみた。

a類 箆描横線・平行沈腺 口頚部文様帯には1~4条の箆描沈腺がめぐる。また体部、口縁部文様帯の区画文として1条の横線あるいは2条の平行線が用いられる(第11図)。 

b類 刻み目文帯 5mm程の間膈を持つ2条の平行線の間に縦位の短い刻み目が充填される。この刻み目文帯が1条のもの(b1類)と2条が対になるもの(b1類)とがみられる(同図)。深鉢A1A2類、鉢B1類、浅鉢C1類、注口土器F2類の口縁部文様帯に施される。

c類 三叉文・入組三叉文  c1類 三叉文 箆描きの沈腺の一端が二叉に分枝し、上下あるいは左右に伸びる単独の三叉文である。Ⅱ、Ⅲ群土器では入組三叉文、羊歯状文、Z字文、X字文、K字文、渦巻文など、多様な意匠の主要構成要素となっている。また、後期終末の土器に展開する入組文の咬合部の左右に、あるいは1a期に盛行する複雑な入組三叉文等に付加的要素として盛んに用いられる(同図)c2類 左下がりの入組三叉文 深鉢、鉢、浅鉢などの主要文様帯に展開する。二つの三叉文が中央で巻き込んで連繋し、左右に点対称に展開する。三叉部から伸びる沈腺は、円形あるいは楕円形の咬合部にそって弧状に伸びる。左右に直線的に伸びる沈腺は左下がりの傾斜を持つ。この左下がりの入組三叉文は半単位ずつ重なり合い、横方向に展開する。晩期前葉に盛行する入組三叉文c2類は、咬合部の構成で①~⑩類型の変異を示す(第13図)。Ⅱ群土器では高杯C1pの口縁部に入組三叉文c2①類が盛んに用いられる。c3 右下がりの入組三叉文 文様構成の基本はc2類と共通する。左右に伸びる沈線は水平に伸びる点が特徴である。この意匠の場合、横線の上下関係がc2類とは逆に右下がりになる。咬合部と三叉文の傾斜の伸び方はc2類と共通する。c2類と同様に咬合部の構成と付加的な要素によって10類型に上る変異が生ずる。しかしこの入組三叉文c3類はきわめて稀である。c4類 羊歯状文的入組三叉文 入組三叉文c3類と意匠構成が共通する。しかし左右に水平に伸びる上下の沈線間に34個の縦位の刻線が充填される。その結果として文様はd2類の咬み合わない羊歯状文に酷似した構成となる(同図)。この意匠は高杯C1p類の口縁部文様帯に認められる。c5 c2類の左右に伸びる沈線が隣接する単位の同様な沈線につながる。咬合部間の間隔が狭い。咬合部と咬合部の左右に上下に分岐した弧線が反転して延びる(同図)。さらに三叉部と三叉部の間にやや幅のひろく軽く彫り込むものがみられる(c5②類)。kの入組三叉文c5②類は、2期のC1p類の高台の付け根、裾部などに展開する。c6 c3類、c4類、c5類の文様構成と共通する。水平に延びる2本の沈線と三叉部からの弧線によって取り囲まれる部分が彫り込まれたり、えぐり抜かれる(第12図)。この文様も入組三叉文c5②類と同様にC1p類の高台の付け根、裾部に展開する。c7類 c6類の装飾意匠がさらに変形し、咬合部と三叉部がそれぞれ分離し,渦状文と鼓状文(あるいは方形文)とが交互に横に並列される。鼓状の文様は、彫り窪められるか抉り抜かれる(同図)。この文様は、やはり高杯C1p類の台の付け根、裾部に展開する。c8類 c2類と共通した入組三叉文の咬合部が楕円形あるいは円形文となる。そして左右の斜線の上下に伸びる三叉部に弧線で菱形文が加えられる。さらに咬合部の上に鼓線文が付加され、一段と複雑な文様構成となる。また文様部分が入念に箆磨きされ、浮文化する。この文様構成となる。また文様部が入念に箆磨きされた、浮文化する。この文様構成は「咬み合う羊歯状文」(d1類)の文様構成に近く、その祖型に位置付けることが出来る。晩期1b期に見られる。c9類 入組三叉文の楕円形咬合部から沈線が緩やかにカーブを描いて伸び、次の咬合部に連接する。そしてその咬合部をはさんで左右に三叉文が点対称に充填される。この類型は晩期1ab期に出現する。以上のように三叉文を基調とするc類は変化に富んでいる。このうち入組三叉文c2①類と 類がⅡ,Ⅲ群土器の文様構成の主体である。これ等の入組三叉文と咬合部が逆に巻き込み、右下がりの入組三叉文も文様構成としては考えられるが、本資料には見られない。また、他地域の1b2期資料にも現在ところ見当たらない。 

d類 羊歯状文・Z字文・K字文 所謂「羊歯状文」(杉山 1928、山内 1930a、中谷 1943,Z字文、K字文」(芹沢 1960)と呼ばれる意匠である。上下を平行沈線で区画した深鉢、鉢の第Ⅰ文様帯、壷の肩部のⅡ文様帯、注口土器の内傾する口頚部文様帯に展開する、Ⅱ群土器に盛行する。

 この意匠は、箆描きの入組三叉文を文様構成の基調とする。斜めに延びる入組三叉文を半単位ずつ重ね合わせ、その上下に刻み目やC字文、弧線で構成される菱形文などを充填して文様を構成する。その後、沈線文内とその間が丁寧に磨かれ、浮文化した、半内彫的な文様が構成される(第1214図)。

 文様の構成には若干の変異が見られる。また、口縁部装飾(B4~10C45D5類など)の箆描文と類似した意匠であり、強い対応関係を有し、これらと一体となって装飾文様を構成する。1 羊歯状文1類 1~3cm程の間隔をあけて2条の平行沈線の間に、左下がりの両端で巻き込み合う入組三叉文(c2類)を半単位ずつずらせて配し、文様の基調とする。三叉部から咬合部に沿って弧線が伸び、上下の横線に接し、されに隣接の入組三叉文の斜線に連なる。そして2本の斜線の上下には24個の横位の短刻線あるいは短弧線が加えられ,所謂「咬み合う羊歯状文」(芹沢 前掲)が構成される。沈線の縁や内側、咬合部の内、三叉部、上下の刻線は、丁寧に先端の幅の狭い箆で磨き込まれ、沈線で囲まれている部分が浮き彫りのように仕上げのため、施文手順は明確でない場合が多い。d2類 羊歯状文2類 2条の区画線の間に、右下がりの入組三叉文(c34類)を2段に僅かにずらせて配置する。そして三叉部から伸びる弧線を下段の入組三叉文の末端に連ねる。さらに水平に伸びる2本の沈線の上下に短い弧線を3~5個充填し、羊歯の葉のような文様を構成する。沈線で囲まれた部分は丁寧に磨かれ、浮文化する。その調整法はd1類と共通している。この羊歯状文は右下がりに展開し、「咬み合わない羊歯状文」(芹沢前掲)と呼ばれる。d5類 羊歯状文5 d1類の羊歯状文が直線化し、咬合部の楕円、円形の沈刻が失われ、隣接の直線的な羊歯状文が重なり合う構図になる。晩期2期の新しい段階に出現し、晩期3期の大洞C1式の古段階に一般化する。d4類 羊歯状文4類 杉山寿栄男によって「入組文の退化形式」と呼ばれた文様構成(杉山 前掲、文様図版38)である。上下に対称的に反転し合った弧線を配し、その弧線に囲まれた部分に縦位の刻線、あるいは短弧線を2~6個充填する。横に隣接する弧線と弧線の間に弧線による菱形文を加えて浮文を構成する。口縁部装飾のB67c4類などに見られる箆描文と共通する意匠構成である。この文様構成の弧線と刻線充填の要素は渦巻文g類にも組み込まれ、注口土器の頚部を飾る。d3類 Z字文・K字文 いわゆる「Z字文」、「K字文」と呼ばれる意匠である。意匠構成の面では特に両者を区別する必要は無いといえる。この意匠では左下がりの入組三叉文(c2類)を文様帯の中位に半単位ずつずらせて配列する。その咬合部を軽く彫り込む場合が少なくない。三叉部から弧線が上、下にS字状に伸びる。そして斜線の末端も三叉状に分岐するため、沈線で囲まれる浮文部分は羊歯状文にならず、やや複雑なZ字状の文様構成になる。文様上部のS字状に反転する沈線の反りが弱いとZ字文になり、反転がつよくなるとK字文となる。沈線部分の磨きは著しく入念であり、入組三叉文で囲まれた部分を隆帯状にもりあがらせている。このZ字文は雨滝遺跡において層位的変化が見られ、沼津遺跡出土資料においてもこのZ字文d3類に層位的な相違が見られ(須藤 1984),Z字文の変化が裏付けられている。この他に、d6d8類など特殊な羊歯状文、あるいは入組文が見られる。

e類 Ⅹ字文「Ⅹ字文」と呼ばれる箆描文にはさまざまな意匠構成の変異が見られる。その基本的な構成は、三叉文c1類の基本単位を点対称に配列するか、あるいは並列し、三叉部を上下から入念に彫り込み、沈線で囲まれた部分をⅩ字状浮文にしている。基本単位である三叉文が個々に独立し、入組文を構成しない場合と、入組文を構成し、咬合部を持つ場合とが見られる。三叉文の一端は強く巻き込む場合が多い。三叉部の箆描文の構成、付加的要素によって多様な変異が生ずる(第14図)。1b期に発達し、2期にも存続する。H39a10c層から出土した2期の香炉形土器(第22図版9)の体部と肩部文様帯にこのⅩ字文が展開している。

f類 唐草文風入組文 多様な意匠の見られる唐草文風の入組文である。入組三叉文を斜めに重ね、その末端、三叉部あるいは咬合部にさまざまな付加的要素が施される。また、三叉文の独立し、Ⅹ字文と共通した変異を見せる。主として高杯C1p類の脚部に施され、華麗な装飾となる。f1~4類を抽出した(第1415図)。

g類 渦巻文 三叉文c1類を基本単位として横線の先端を渦巻き状にし、横に連接ある意は並立させる。さらに、その上下に2,3個の刻みを充填した弧線文、あるいは菱形文を加え、華麗な意匠を構成する。付加要素の配置の仕方によってe類(Ⅹ字文)と共通した文様構成となる(第15図)。g1類 渦巻文1類 三叉文の基本単位が並立され、左下がりに連絡する。そのためにS字状の沈線が左下がりに横に配され、末端に渦巻状に連結する。S字文の上位に菱形文が展開し、下位にもこれと対応する位置に菱形文が独立して加えられる。さらに菱形文の間に弧線文と刻み目が充填される。横に並ぶ渦巻き文は、Ⅹ字文と共通した構成を見せる。g2類 渦巻文2類 g1類と類似する渦巻文であるが、基本要素の配置、構造に相違が見られる。右下がりの入組三叉文が並立的に配される。入組み部から逆時計周りに弧線が延びる。g1類と傾斜が逆であるが,渦巻きの方向は共通している.渦巻き文の尾が、上下で同一方向(左)に伸びて重なり合う。この渦巻き文は1単位ずつが独立して並列される。この基本単位に充填あるいは付加される要素は、g1類と共通した菱形文、刻み充填の弧線文である。この付加要素と渦巻部の巻き込み方によって文様構成の変異が生ずる。

 この意匠は鉢の体部文様Ⅱ見られ、所謂「Ⅹ字文」を構成する。注口土器に展開するこの文様は沈線間の間隔が狭く、巻き込みが深いため、渦状を呈するが、基本的には鉢のⅩ字文と共通した意匠であり、共通した施文手法をとることが窺える。

h2類 魚眼状三叉文 箆描きの円文を中央において三叉文c1類を左右点対称に配する。その先端は斜めに延びる。上下におよそ半単位ずつずらせて重ねられる。「魚眼状三叉文」と呼ばれるこの意匠は、後期終末に出現しており、後期終末の入組文の咬合部に三叉文の付加される文様構成から派生したと推定される。後期終末に魚眼状三叉文には、円文の中央に円形刺突文が加えられる(h1類)。H2類魚眼状三叉文は、晩期1a期に盛んに用いられる。そして1b期にも稀にみられ、三叉文が横に連なる構成の文様など変異類型が生ずる。2期は姿を消す。

i類 雲形文(第22図版4)地文に斜行縄文を施し、箆描きの入組三叉文あるいはその変異文様を基調要素とそして並列し、これに三叉文(c1類)や弧線文(C字文)を付加して文様を構成する。さらに器面がある程度生乾きの状態になってから、沈線の中や文様の一部、その間を箆で入念に磨きあげる。磨きが進むと縄文施文部分は浮文化する。この意匠は晩期1b期、2期の壷あるいは2期の鉢や浅鉢に展開する。この文様については藤沼邦彦の優れた分析がある(藤沼 1989)この意匠はe類などと共通する構成を持つ。 

k類 曲線文 地文に斜行縄文を施し、文様帯の中央に箆描きの入組三叉文を斜めに並列し、その咬合部や三叉部を箆で丁寧に磨く。磨消縄文手法が発達する。この基調文様の間に三叉文、弧線、弧線による菱形文を充填し、複雑曲線文を構成する。基本的にはeg類に磨消縄文手法が組み込まれた文様といえる。1a期、1b期、2期の壷や鉢の体部文様帯に展開する。装飾的な華麗な意匠である(第1415図)

M類 列点文 口頚部と体部の文様帯の区画に列点文が用いられる。1a期、1b期に発達し、2期には消滅する。後期終末の口頚部文様帯と体部文様帯の間の区画帯として盛行する結節隆帯、あるいは結節沈線、列点を伴う隆帯の系譜をひく。

 この他に今回分析した資料には異型式土器片が少量であるが含まれており、その意匠についても必要に応じて記述した。


 i 器面の調整手法 j 土器の厚さ k 成形技法について l 土器の胎土と付着物  略


5) 中沢目貝塚Ⅱ群土器の型式学的分析結果

a 層位的出土状況 既に触れたように、第2次調査では斜面上位のH3区において12abc層、3~5層、6abcd層、7層,8ab層,9abc層、10abc層、1113層の23枚の堆積層が確認されている。また、斜面の下位に位置する13区では、1abcdefg層、2abc層,3ab層、4~8層、9ab層、10~14層,15abcde層、16層,17ab層の32枚の層が精査された。なお、H3区の9a層が13区の17b層と同一層であることが調査の時点で確認されている。さらに、18層からは、H区とⅠ区の2つの発掘区にまたがって、18層、19層、20ab層、21abcde、f,,h,i層、22~25,26abc層、27層の21枚の堆積層が広がっており、両区を統一した層位の名称で調査し、出土土器の分析を進めた。

 第2次調査では、これ等の76枚の堆積層から総個体数414個体分の土器が出土している。HI3区の20a層から出土した42点が最も多く、HI319層の36点、1311層の34点、13層の30点、23層の24点がこれに次ぐ。層別出土数の平均は8点である。出土土器の型式内容を見るとHI3区の18層以上の堆積層では第1次調査資料と同一型形式の晩期2期に属するⅡ群土器が273個体分出土し、19層以下では「大洞B2式」に相当する1b期のⅢ群土器が141個体分出土している。

 第2次調査の76枚の堆積層には、①径50cmを越す堆積層から発掘区のほぼ全体に広がる層までの比較的大きな層、②相互の重なり合いの関係が明確であるが径50cm以下の小さな広がりの層、③相互に重なり合わず、複数が並存する小規模な層がみられる。このように堆積層から出土する土器群について、次のような手順をおこなった。

 はじめこれ等の堆積層の内、①の大きな広がりを持つ層と、これと層位的に上下関係が明確に捉えられる②小規模な層について、その層位関係に基づいて各種の出土土器群の分析を進め、量的な変化を検討した。特に出土土器数が平均値8点以上の層について層相互での増減関係を検討した。

 さらに、①の大きな広がりを持つ堆積層を基準とし、②、③の小規模層を合わせ、H31~13層、13区1~5,6~11,1213,14~18層の5群に区分し、それぞれ一括して捉えた資料についてその層位的変動を検討することとした。

 これ等の層位的資料を検討すると、それぞれの土器群の器形や文様意匠、施文手法など型式内容は複雑多岐である。しかし、一方でそれぞれの器種類型の形態や装飾は、著しく定型的な様相を示している。

b 第2次調査出土Ⅱ群土器の器種構成  3表に示したようになる。また第16図の土器組成変化にも示した。

c 中沢目貝塚Ⅱ群土器の器種構成の変遷  第6表 第19

d 中沢目貝塚Ⅱ群土器の装飾体系  略

e 中沢目貝塚出土Ⅱ群土器の特色 中沢目貝塚のⅡ群土器は、第1次調査、第2次調査資料のいずれにおいても基本的に共通した型式内容を示している。その器種類型、装飾、文様意匠の基本的構造は複雑ではあるが、きわめて定型的、斉一的である。異に装飾では基本的な意匠体系が確立している。文様構成の基調に1b期に成立した入組三叉文がなお存続しており、その基本文様に多様な装飾要素が加えられ、羊歯状文やZ字文など複雑な装飾が生みだされている。

 他方、H3区のⅡ層と13区のⅦ層からHI区18層までのⅡ群土器を層位的に見ると、土器組成、器形、装飾手法、意匠に微妙な変化が認められる。ことに土器組成の量的変動が目に付く。Ⅱ群土器の深鉢は口縁部が屈曲を持たずに立ち上がり、体部の内湾するA1類が50~70%で主体を占めるが、この深鉢には平坦口縁で、縄文の施された粗製深鉢A1b類と、口縁部に低い山形突起や細かな刻み目、3条前後の平行線などが施された装飾深鉢A1a類がみられる。そして装飾深鉢A1a類の出現頻度は下層で20%程度を示しているが、中層で10%前後に減少し、さらに上層になると再び20~30%に増加する傾向がある。この推移から2期の後半に深鉢の装飾化が進むと見られる。また装飾深鉢では口縁部端面に刻み目の無い低い山形突起を持ち、口縁部文様帯に34条の平行線のめぐる類型が目に付く。上層に進むにつれ、刻み目と装飾突起が発達し、精製深鉢に僅かな型式変化が認められる。 

 亀ヶ岡式土器は精巧な作りの装飾土器を特徴とする。Ⅱ群土器の装飾土器は、装飾鉢B1類が主体を占める。この器種類型はひろく東北地方の各地に見られ、晩期2期の土器型式の特徴的な器形となる。その口縁部文様帯には装飾的な「羊歯状文」が展開する。この文様意匠には左下がりの構成をとる「咬み合わない羊歯状文」と右下がりの「咬み合う羊歯状文」との2つの類型が見られる。そして下層では「咬み合わない羊歯状文」が比較的高い頻度を示し、上層では「咬み合う羊歯状文」の出現率が増加する傾向が窺える。そして最上層の羊歯状文は直線的な構想に変化する。

中沢目貝塚Ⅱ群土器の特徴的な装飾土器の一つに高杯C1p類があげられる。幅の狭い口縁部に文様帯が展開し、入組三叉文が施される。体部は丁寧に箆磨きされ、中位に2条の平行線がめぐる。脚部には透かし彫りと箆描文で華麗な唐草文風の装飾が展開する。そしてこの高杯は内湾する口縁部から内屈する口縁部に変化する。口縁部文様帯には一貫して入組三叉文が展開しており、2期の装飾土器に主要な装飾要素として羊歯状文d1245類と共に1b期に発達した入組三叉文c2類が併用されていることが確認された。羊歯状文は深鉢や鉢、壷、注口土器など各種の器種に展開し、入組三叉文が主に高杯に展開する。   

この2期の入組三叉文の意匠そのものには大きな変化と差異は認められない。

 Ⅱ群土器の装飾、施文手法にはいくつかの特徴が見られる。深鉢、鉢、壷では土器成形後,しばしばLRRL縄文原体を器面に縦に当て横方向に入念に回転し、整った縄文を施す。鉢、注口土器などの精製土器では口縁部装飾帯に刻み目や突起、粘土粒貼り付け、平行線、弧線文を施す。口縁部から体部上半にかけての主要文様帯では箆状の施文具で羊歯状文,Z字文、三叉文、渦巻き文などさまざまな意匠が施され、沈線内、沈線の区画内を箆状工具で入念に磨いている。また壷や鉢の体部文様帯には磨消縄文手法による雲形文やⅩ字文などの複雑な文様が盛んに展開する.この磨消し部分も入念に箆磨きが加えられている。この箆磨きは1b期のⅢ群土器にも見られるが、Ⅱ群土器の注口土器の体部下半、鉢B1類,B3類、高杯C1p類など体部下半、内面、底部に盛んに施される。この箆磨き手法は、Ⅱ群土器の特徴的な手法の一つであろう。3期になると衰退する。この施文、調整工具には木、角製の箆が考えられる。しかし、現在のところ中沢目貝塚ではこの器面調整具に結びつく遺物は確認されていない。

 この様にⅡ群土器では基本的な器面構成と意匠体系、施文、装飾、調整手法が確立しているが、その土器型式内部で器形と装飾が微妙に変化していることが層位的な資料内容によって指摘できる。


6)中沢目貝塚Ⅲ群土器の型式学的分析

a Ⅲ群土器の概要 2次調査では、H131920a20b2121b21e22232427層の10枚の堆積層から、少量の後期終末に入組文土器や晩期初頭のⅣ群土器などともに、Ⅱ群土器とは異なった型式の晩期土器群が出土した。この晩期土器群をⅢ群土器とした。この土器群は層位的に晩期2期のⅡ群土器に先行し、晩期1a期のⅣ群土器に後続する土器型式であり、その型式的特徴から山内清男の設定した大洞BB2)式(山内 1964)に相当する土器型式であると考えられる。 

 このⅢ群土器は、比較的ひろい広がりを持つ19層から36個体分、20a層では42個体分、23層では24個体分が出土し、土器包含率がもっとも高い層である22層では10個体分が出土しており、全体では26.7kg141個体分に達した。これ等の資料では、装飾の施された精製土器の出土量が少ないため、型式内容を定量化して明確に捉えることが出来なかったが、器種構成と装飾体系の基本的な構造の検討をこころみた。

 b 器種構成 Ⅲ群土器の器種類型は、Ⅱ群土器で分類された類型と基本的に共通する(第20図)。今回出土したⅢ群土器では、深鉢A1類とA4c類、小型深鉢A1s類、鉢B1類,B1s類、浅鉢C1類、台付浅鉢C1h類、高杯C1p3類、浅鉢C3類、皿D1類、壷E類と注口土器F2類の大別6類型と細別15類型が抽出された(第20図)。このうち、壷はいずれも小破片で形態が明確でないため、一括してE類として扱った。香炉形土器破片体部の一部が1点出土しているが、全体の形態は不明である。装飾深鉢A1s類は、装飾土器B1類をやや深めにした形態を持ち、類似した装飾が施される。 B1類は口縁部の湾曲が弱く、Ⅱ群土器の装飾鉢B1類に比べて口径に対する高さの比率が大きい。この装飾土器A1s類とB1類は、沼津貝塚出土第Ⅲアサリ層出土土器群(須藤 1984)、田柄貝塚Ⅷ群土器(藤沼他 1986)、摺萩遺跡第1遺物包含層の71a7069層出土資料(進藤他 1990)など大洞B2式に位置付けられる土器型式と共通した特徴をもつ。

 HI319層~27層にかけて出土したⅢ群土器は、口縁部、大型有文破片による個体数算定では、141個体分が出土している(第13表、第21図)。その土器組成は深鉢A1類が主体であり、Aa128.5%,A1b類が8560.3%、装飾小型深鉢A1s類が32.1%,口頚部が緩やかに外湾するA4c類が10.7%を占める。他の器種では浅鉢C1類が比較的多く、129.2%、B1s類が42.8%、壷E類が42.8%,装飾鉢B1221.4%をしめている。注口土器破片わずかに1点出土しているに過ぎない。

 各堆積層での出現頻度を見ると、出土量の最も多い深鉢A1類は、19層から26点(72.2%),20a層では26点(61.9%),23層から17点(70.8%)が出土し、61.9%から72.2%を占め、それぞれの層で比較的安定した組成率をしめしている。また、第2次調査のⅢ群土器全体では70.9%をしめ、Ⅱ群土器の深鉢A1類の61.668.8%より出現頻度が高くなっている。またⅡ群土器と比べると、装飾深鉢A1a類の組成率はやや低く、粗製深鉢A1b類の出現率が著しく高い。

 装飾深鉢A1a類には、口縁部端部に低い山形突起が施され、口縁部外面に下限を1条の沈線で区画した無文帯がめぐるものが多い。また、すでに指摘したようにⅢ群土器では全般的に装飾を持つ土器が少ない。小型装飾鉢A1s類が3点で比較的目につく方で装飾鉢B1類は19層と24層からそれぞれ1点ずつ出土しているにすぎない。これ等の小型装飾土器は、口縁部に510㎝間隔で押圧あるいは削り込みが加えられ、緩やかな小波状口縁を持つ。口縁部文様帯には入組三叉文が展開する。文様帯の下限には2条の平行線がめぐる。この装飾深鉢や装飾鉢は極めて精巧な作りの土器で、入念な箆磨きによって仕上げられている。

 また、この土器群ではA1s類やB1類のような装飾土器とは別に丁寧に磨かれた無文鉢B1sC1類が製作、使用されている.浅鉢C1類が8.5%を占める。いずれも小破片のため、その形状は明らかでない。しかし多様な形態変異が見られる。低い台付の浅鉢のC1h類も3点出土している。

 高杯C1p3類が最下層の27層から1点出土した。口縁部と台の破片から器形を復元した(第3224)。これまでに類例の見られない高杯である。この高杯は推定高11㎝、口径23㎝、脚高8㎝で、Ⅱ群土器の高杯C1pC1p2類と同じ程度の大きさをもつ。口縁部は内面に強く突出し、幅広い端面に文様帯が展開する。口縁部から体部にかけて直線的に強く開き、Ⅳ群土器に見られる台付鉢の口縁部や体部と共通した形態を持つ。台部の付け根で軽く膨らみ、脚柱部が緩やかにひろがる。さらに短い裾部で強く外開きになる。この脚部はⅡ群土器の高杯C1類の脚部と類似している。このように、この高杯はⅣ群土器の台付鉢とⅡ群土器の高杯C1p類の両方に通ずる形態を持っており、この地域における高杯の変遷を窺うことが出来る。

 壷形土器はわずかに2.8%をしめるにすぎない。出土例は少なく、またいずれも破片資料にため、器形の確定はできなかった。注口土器も少ない。頚部の立ち上がりが強く、大型の頚部破片が出土している。この破片は袋状口縁を持たない「2段作り」の注口土器F2類の口頚部と推定される。

 c Ⅲ群土器の装飾・施文要素 中沢目貝塚Ⅲ群土器は装飾をもつ土器が少なく、装飾施文手法、意匠のあり方を捉えにくい。Ⅲ群土器の装飾、施文手法を観察すると、羽状縄文や刻め目文帯b類、入組三叉文c類などⅡ群土器と類似した装飾・施文要素も認められるが、その装飾のあり方はⅡ群土器とはかなり異なっている。

 Ⅲ群土器の口縁部装飾には装飾鉢B1類、深鉢A1aA1s類の小波状口縁、整った低い山形突起、台付鉢B1h類の大型突起などが見られる。口縁部は、箆で5㎝から1㎝ほどの間隔で端面に押圧、削り込みが加えられ、低い波状口縁となっている。装飾鉢では口縁部文様帯に入組三叉文c58類(第1112図)などが展開する。

 山形突起は、頂部を1つもち、ゆるやかにカーブを描いて立ち上がるA類型と頂部の両側に丸い膨らみを持つB類型が見られる。前者は深鉢に盛んに見られ、後者は装飾鉢、台付浅鉢などに用いられる。

 深鉢A1a類の口縁部文様帯には、平行線、平行線間の刻み目文帯、入組三叉文c8類(第928)などが展開する。また、口縁部装飾にⅡ群土器の口縁部装飾D5類に当たる装飾要素も見られる。A1a類では口縁部に沈線で区画した無文帯がめぐる土器が目に付く。低い山形突起、あるいは小波状口縁を呈する深鉢は、晩期1a期のⅣ群土器に盛行するが、この時期になると小波状口縁に深鉢が一層発達する。この装飾深鉢が晩期1a期から1b期に受け継がれたと考えられる。このような深鉢A1a類の出現と盛行を晩期の時期区分のメルクマールとすることが出来る。

 精製鉢B1類と小型精製深鉢A1s類には口縁部装飾が展開する。口縁部端面を箆で浅く抉り込み、小波状口縁としている。この口縁部文様帯には、入組三叉文c5類が展開する。この入組三叉文c5類は水平に主軸の横線が伸び、入組三叉文c2c3類のように主軸が斜めに重なりあわず、主軸の両端に三叉部、咬合部が連なることになる。更に、この咬合部に円形の刺突文が加えられ、特徴的な入組三叉文を構成する場合もある。この横連鎖する入組三叉文c5類は、Ⅱ群土器には全くみられない意匠である。

 19層から出土した鉢B3類(第304)は短い口縁部が軽く外反し、体部に膨らみを持つ。口縁部文様帯に入組三叉文c5類が飾られ、Ⅱ群土器のB3類と異なった装飾体系が見られる。なお、この装飾鉢の頚部、体部の形態と装飾は不明である。この横方向に連なる入組三叉文c5類の内、中心に刺突の加えられる文様構成は、摺萩遺跡遺物包含層75層、 71b層出土深鉢,71a層出土鉢、深鉢、田柄貝塚Ⅱ2層などに見られる。また、渦状に強く巻き込む入組三叉文は、摺萩遺跡第1遺物包含層の67b層から出土しており、晩期1b期、大洞B2式の時期盛んに用いられる。宮戸島台囲貝塚では円形刺突文をはさんで左右対称的に三叉文が伸びる「玉抱き三叉文」が展開する装飾深鉢が出土しており、晩期1b期に属すると推定されている。このような文様構成c5類を基調としている。

高杯C1p3類の口縁部端面と口縁部外面にはⅩ字文e2類が横に飾られ、文様帯全体が見事に箆で磨き上げられている。口縁部と口縁部端面のⅩ字文は共通した構成の文様である。両端が強く巻き込む三叉文が基本単位となり、その左右に三叉文c1類が上下から付け加えられる。台の付け根には上向きΠ字状文、弧線文が交互にめぐる。弧線文に小さな円孔が穿たれる。台柱部には左下がりの入組三叉文が横に複数連繋する。咬合部は強く巻き込み、反転して連接する。三叉部は連接部を巻き込むように伸び、Ⅹ字文の構成g4類となる。Ⅹ字文や渦状文の祖形の箆描文といえる。この沈線文施文後に丁寧に箆磨きを加えている。脚裾部にはΠ字文と下向き鼓線文がめぐる。丁寧に磨き込まれ、やや浮文的な装飾となっているこのような浅い磨き込みは晩期1b期にしばしば見られる手法である。この高杯はその形態、文様、入念な磨きの手法、透かし彫りなどの特徴からⅡ群土器の高杯C1p2C1p類へと発展する器形といえる。

 20a層出土の注口土器F2類(第3032)の装飾を見ると、口頚部付け根に、上下を横線で区画された幅1~2㎝の縄文帯がめぐる。このような装飾は、沼津貝塚出土資料など北上川流域の注口土器にみられる。体部上位の膨らみの部分に弧線文が1単位施される。無文部は丁寧に磨かれている。この土器には後期終末の様相が強く残されている。

 Ⅲ群土器は、Ⅱ群土器以上に入念な箆磨きが施されている。特に小型深鉢As類、鉢B1類、高杯C1p3類、注口土器などの装飾土器は丁寧に磨かれている。

 d Ⅲ群土器の特色 このようにⅢ群土器は、資料が少ないために型式内容は必ずしも明確でない。しかしこの土器群は、粗製深鉢A1b類を主体に、低い山形突起と無文帯、23条の平行線がめぐる深鉢A1a類や入組三叉文C5類の施された小型深鉢A1s類、装飾鉢B1類、B3類,C1類、Ⅹ字文の施された高杯C1p3類、壷、注口土器など比較的多様な器種類型で構成され、その器種構成はⅡ群土器と類似した様相を示す。この土器群ではⅣ群土器にみられた後期的な器種の在り方は完全に失われている。

 しかし、装飾深鉢A1a類の装飾方法は、Ⅱ群土器のA1a類と異なり、Ⅳ群土器に出現した無文帯のめぐる深鉢A1a類を受け継いでいるまた装飾土器は、A1類を小型にしたA1s類が主体で、入組三叉文が主に施される。この装飾土器はⅡ群土器になると、より器高が浅く、口径の大きいB1類へと発展する。また、Ⅹ字文の展開する高杯C1p3類は、台部の形態がⅡ群土器の高杯C1p類に近似する。しかし、杯部の形態、装飾意匠共にⅣ群土器とⅡ群土器の中間的な様相を示している。

 このようにⅢ群土器は器形や装飾、製作手法でⅡ群土器とちがいはあるものの、器種構成ではⅡ群土器と相通ずるところがあり、密接な系統関係を持っている。

 このⅢ群土器は、既に触れたように田柄貝塚Ⅱ2層から出土したⅧ群土器、 摺萩遺跡第1遺物包含層70~67b層出土土器群と共通した特徴を持っている。その様な型式的特徴から山内清男が設定した大洞B式の新段階野「大洞B2式」に相当し、晩期1b期に属すると考えられる。このような器形と装飾を持つ土器群は、大洞B地点資料にも認められる。

 本資料では、19層に平行線間の刻み目文帯の深鉢が出土しているが、羊歯状文d類はまったく含まれていない。したがって中沢目貝塚では、晩期1b期に羊歯状文が既に出現していたか否かについては検証できなかった。今後、より豊富な資料を確保してこの土器群のあり方の裏づけをとりたい。


 7) 第2次調査出土土器について 2次調査では、「Ⅱ群土器」、「Ⅲ群土器」と呼称した晩期前半の2つの土器型式が層位的に出土した。Ⅱ群土器は亀ヶ岡式土器の型式変遷では、山内清男の設定した「大洞B1式」、「大洞B2式」に後続する土器型式で「大洞BCBC2)式」に当たり、晩期の第2期に位置付けされる。Ⅲ群土器は、山内が晩期縄文土器の編年を樹立した当初に「大洞B式」と呼び、後に「大洞B2式」とした晩期第1期の新段階(1b期)に位置付けされる土器群である。

 第2次調査では、Ⅱ群土器葉273個体分、Ⅲ群土器葉141個体分が分析の対象となった。これ等の大半が破片資料であるため、その器形全体を確認できたものは少ない。しかし、北上川下流域におけるこれまでの調査資料を参考に器形の推定と類別を行った。その結果、Ⅱ群土器とⅢ群土器のそれぞれの型式内容をかなりよく把握することが出来た。

 この2つの土器型式のうち、Ⅱ群土器については、第1次調査で出土した503個体分の資料とあわせて検討した結果、山内の設定した「大洞BC式」や「大洞BC2式」、芹沢の提起した「雨滝式」との関係を明らかにすることが出来、晩期前半の土器型式変遷を究明する上で貴重な資料となった。H3区では第1次調査で11枚、第2次調査で25枚、13区では第1次調査で10枚、第2次調査で38枚にのぼる包含層からⅡ群土器が出土し、層位的に器種構成や装飾の出現頻度など、土器型式の内容を検討することにができた。2回の調査でえられたⅡ群土器の器種構成、製作技術、装飾方法、意匠などの分析の結果、この土器群はきわめて斉一性の強い土器型式であることが明らかになった。そして晩期1期のⅢ群土器に後続し、晩期3期の大洞C1式に先行する層位的関係から、その編年的な位置付けが確定した。

 その器種構成を見ると、基本的に深鉢、鉢、浅鉢、高杯、皿、壷、注口土器,香炉形の7類型が認められる。更にそれぞれの器種の変異を検討すると、全体で28類型が抽出された。このうち、壷は7類型に達し、もっとも変異に富む。深鉢では後期終末に盛行した中位に段ないしは括れを持つ深鉢が消滅し、直上口縁に括れのない深鉢A類が盛行する。Ⅱ群土器では深鉢の形態変異は少ない。一方、装飾土器は鉢、浅鉢、高杯、壷、注口土器など多彩な形態が見られる。土器の器種構成が多様化する一方で、それぞれの器形、装飾の定型化、斉一性がすすむといえる。

 装飾深鉢A1a類では、第1次調査の13区Ⅶ層から出土したP40深鉢(須藤編1984、第16図版11)と第2次調査H9b層出土の資料(第22図版1)がⅡ群土器の代表的な装飾深鉢といえるP0深鉢の類型は、口縁部に低い山形突起を持ち、口縁端面に細かな刻み目あるいは弧線が加えられる。口縁部には狭い文様帯が巡り、多くの場合沈線が3条施される。山形突起にはこの沈線から三叉状の浅い掘り込み、あるいは縦刻線がのびる。この文様帯は軽く磨かれる。体部全面には精緻な羽状縄文あるいは斜行縄文が施される。H3区9b層出土の資料は、口縁部端面に刻み目を持たない。文様帯には3条の沈線が巡り、低い山形突起が施される。突起部分に先刻線が加えられる。

第1次調査では前者の類型の方で出現頻度が高く、第2次調査の1~18層では後者の深鉢が目に付く。山形突起を持つ口縁部の刻み目の出現頻度を見ると、1区Ⅷ層からⅩⅠ層、H区Ⅶ、Ⅷ層で高い頻度を示し、第2次調査の下層に進むにつれて減少しており、この傾向を裏付けている。また、この装飾深鉢A1a類は、1次調査の13区では29.5%、H3区では15.6%、第2次調査の13区で9.3%,19層以下で8.5%と推移しており、上層に進むにしたがって装飾深鉢がより盛んに使用されるようになったことを示している。亀ヶ岡式土器の装飾化が進んでいったことを示唆している。

 更に装飾鉢B1類は、きわめて精巧な作りの土器で、器形、装飾、調整手法いずれもきわめて定型的である。その器形は口頚部から体部Ⅱかけて緩やかに内湾し、口縁部でほぼ垂直に立ち上がる。底部は小さく、軽い揚げ底が多い。この鉢の口縁部に幅狭い文様帯がめぐる。文様帯の上限を1条、下限を2条の沈線で区画し、その中に羊歯状文が1段展開する。この装飾は複雑な意匠であるが、きわめて斉一的な構成(a1+d1+a2、a2+d1+a2、a1+d2+a2、a2+d2+a2a1d5a2)をとる。その文様構成には、左下がりの「咬み合う羊歯状文」(d1類)右下がりの「咬み合わない羊歯状文」(d2類)とが見られる。羊歯状文d2類がより下層で多く,d1類は上層で増加する傾向を見せる。更に、羊歯状文d1類は最上層では平行線化し,付加的要素である羊歯の葉に当たる刻み目の数が増加する。この平行線化した羊歯状文がd5類である。Ⅱ群土器では羊歯状文のd2類とd1類は並存しているが、下層ではd2類がd1類より高い頻度で見られる。13区15eH39a層出土の浅鉢C3類(第382)の口頚部にも咬み合わない羊歯状文d2類が展開している。d1類が次第に増加し,やがてd5類へと変化する傾向が窺える。

 更に口縁部には、端面の刻み目と口縁部上端の「弧線文」とで構成される「羊歯状文」と類似した装飾B4B5B6類が盛んに施される。この口縁部装飾と口縁部文様帯の装飾は一体化した装飾である。

 体部には羽状縄文が施される。この羽状縄文は、LRRL原体を交互に回転させて施されている。文様帯と内面、底部は極めて入念に箆磨きが加えられ全体が美しく仕上げられている。なお、きわめて稀ではあるがこの羊歯状文の展開する口縁部文様帯の下全面に体部文様が施される場合がある。その文様帯には壷の肩部文様帯などと同様に入組三叉文を基調とし、付加的要素が複雑に組み込まれたⅩ字文や曲線文が施される。その文様に磨消縄文手法が発達する。これ等の装飾鉢B1類はⅡ群土器において器形、装飾共にきわめてつよい画一性を示している。

 この装飾鉢B1類は、仙台湾に注ぐ吉田川の領域にある摺萩遺跡、迫川流域の館貝塚、倉崎貝塚、長根貝塚、松島湾沿岸の西の浜貝塚、北上川流域の沼津貝塚、富崎貝塚、中神遺跡、北上川中、上流域の東裏、手代森、前田、高梨、豊岡遺跡、三陸沿岸の田柄貝塚、大洞貝塚、馬淵川流域の曲田Ⅰ、蒔前台、泉山、八幡遺跡、新井田川流域の是川遺跡、米代川流域の拍子所貝塚、藤株遺跡、最上川流域の玉川遺跡、相馬・いわき海岸の三貫地貝塚、阿武隈山系の羽白C遺跡など東北地方に広く分布する。この強い斉一性を持つB1類が晩期2期の特徴的な器種といえる。

 このようにひろい地域に分布する類型が見られる一方で、「入組三叉文」が展開する高杯C1pp2類の様に、きわめて鮮明な地域色をもつ土器が出現する。第2次調査において、この高杯C1p類が、2期に主要な装飾土器の1つとし発達、定着することが確認されていた。更に、下層の1213層では、口縁部の内湾する高杯C1p2類が出土し、高杯の形態の微妙な変化が明らかになった。この入組三叉文の展開する高杯C1p類は、1次調査研究報告書で指摘したように、長根貝塚、恵比須田、倉崎貝塚、館貝塚、南境貝塚(石巻文化センター1989、図41)倉崎貝塚(阿部他 1990、第816)等からは、口縁部の内湾する高杯C1p2類が出土している。さらに、Ⅲ群土器においても、類似した脚部を持つ高杯が確認され 、晩期1b期の高杯から、2期の高杯の古段階のC1p2類、新段階のC1p類への系統的に推移することが指摘される。この高杯は2期に発達しており、入組三叉文が、2期になお基本的な装飾要素として盛んに用いられていたことが明確になった。

 なお、晩期2期の高杯C1p類葉、既に触れたように北上川中流域の胆沢郡衣川東裏遺跡、陸奥湾に望む東津軽郡平内町槻ノ木遺跡(市川他199254)から、それぞれ1点出土している。これ等の土器は、それぞれの地域で主体を占める台付鉢とは異なった特徴を持っており、北上川下流、迫川流域から搬入土器と考えられる。

 装飾鉢B3類、B31類、そして浅鉢C3類は、装飾、形態の変異が大きい。口頚部と体部に文様帯が展開し、ほぼ器全面に装飾の施される器種類型である。H区Ⅷ層出土のC3類(須藤編前掲、第18図版3)は、口縁部装飾帯に入組三叉文の変異装飾、頚部文様帯にZ字文と羊歯状文d1類、更に体部上半の文様帯に入組三叉文の変異類型c7類が施され、きわめて装飾的である。また、1区Ⅶ層C3類(同第16図版10)はZ字文が口頚部文様帯に展開する。H区ⅩⅠ層C3類(同第317)は、口縁部装飾帯にⅩ字文が展開し、無文の頚部文様帯がめぐり、体部には装飾が施される。第2次調査資料では1315eH39a層から出土した鉢C3類(第22図版2)の口縁部装飾帯に刻み目、頚部文様帯に羊歯状文d2類が展開する。この器種類型は変異が大きいが、類似した浅鉢、鉢がひろく東北各地で見られる。特に鉢B31類は2期の特徴的な器形である。

 壷には、装飾的な精製壷と縄文施文の粗製壷が製作されている。破片資料が多く、器形の推定が難しいが、その器形は変異に富んでいる。大型壷E7類の頚部破片が1316層から出土している。この壷の頚部の付け粘土を接合して突帯としている。この器形の壷は、岩手県高梨遺跡出土資料(須藤他1985)のように晩期1b期から発達し、大型で精巧な作りのものが見られる。しかし1b期のこの種の壷は、Ⅱ群土器の壷とは異なり、頚部付け根で袋状に膨らむ作りになっている。1b期に袋状頚部が2期になると貼り付け突帯に変化するものといえる。

 このように類似した形態、器種でも製作方法に時期的な変化が認められる。壷の装飾には羊歯状文と共に、入組三叉文を基調とした曲線文が展開する。そして磨消縄文手法が発達する。その意匠は晩期1b期の意匠を受け継ぎ、基本的に入組三叉文を基調とし、より多様な文様構成を生み出している。また、これ等の装飾壷には装飾的な朱ぬり土器が豊富である。

 注口土器は1b期の器形を受け、一層定型化する。袋状口縁を持つ3段作りのF1類と2段作りのF2類、2つの器形が発達する。他の形態は極めて稀である。いずれも体部と頚部の屈曲部のふくらみが弱くなり、全体に扁平化する。意匠には、2類型の羊歯状文、Z字文、渦状文が盛行し、丁寧に箆磨きが施される。そして、この2類型の注口土器は、広く東北地方全体で共通した様相を示す。

 香炉形土器は、採集資料に完形土器が知られているが(須藤編1986)、第1次調査でその頂部飾りと推定される土器破片が1点出土している。きわめて稀な土器であるが、晩期1b、23期にかけて系統的な推移を辿る。Ⅱ群土器の土器組成については、第1次調査13区出土の193個体分の資料、第1次調査H3区出土の310個体分の資料、第2次調査13区出土の225個体分の資料、H3区48個体分の資料を層位的に比較検討した結果、A類、 B1類、そしてC1p類の組成率に大きな相違は見られなかった。深鉢A1類の組成比率は、それぞれ57.364.865.870.8%と、57~71%を占める。また、装飾深鉢A1a類が、深鉢全体の10~30%を占めている。そして装飾深鉢の出現頻度は下層から上層に進むにつれ増加する。このように、1b期から2期にかけて深鉢の装飾化が著しくなると見られる。

 また、装飾土器のうち、鉢B1類はきわめて定型化しており、第2次調査のH3区で2.1%と極端に少ないが、2次の13区で8.8%1H3区で11.9%,13区で13.3%を占め、比較的安定した出現頻度を示している。この2期のB1類は、1b期の小型鉢A1s類とB1類とに系統付けられるが、1b期に比して口径が高さより大きく、体部の湾曲も強く、浅い椀形になる。1b期から2期にかけての小型の装飾深鉢から装飾鉢へと形態変化が指摘される。次に、高杯C1p類は2次調査のH3区では出土しておらず、第1次調査の13区出土資料で3.6%H3区で7.4%2次調査の13区で6.%を占め、4~7%の組成比率を示している。壷や注口土器についても、やはり2次調査のH3区出土資料を除くとほぼ共通する。高杯C1p類は、第1次調査の13区、H3区、2次調査13区の出現頻度を見ると、中層において増加する傾向がうかがえる。

 壷では、E22類が主体である。注口土器は4%程度で、安定した組成に成っている。注口土器は、26点出土し、そのうち、F1類が5点、F2類が6点確認されており、ほぼ同数出土している。第1次調査では、F1F2類が出土し、2次調査ではF2類が多く出土している。したがって、2段作りの注口土器が、2期の古い段階ではより高い組成率をしめていた可能性が指摘される。注口土器の装飾では、「羊歯状文」d1類、d2類、「Z字文」d3類が盛んに使用される。更に、下層では、「渦状文」g1類,g2類の施された注口土器が出土している。北上川流域の岩手県都南村手代森遺跡では、2期と推定される注口土器F1類が14F2類で10点出土している。東裏遺跡では、やはり1b期の注口土器と共に2期の渦状文g類の施文された注口土器が出土している。これらの渦状文の注口土器は極めてよく共通している。F12類の両方がみられる。

 次にⅢ群土器は、量的に少なく、その型式内容は十分に明らかにされていない。しかし、器種構成、装飾のあり方、そして層位的関係から、Ⅲ群土器は、Ⅱ群土器、Ⅳ群土器とは異なった土器型式であり、その中間に編年付けられる。この土器型式は、台囲貝塚1群土器(小井川1980)、田柄貝塚Ⅷ群土器、摺萩遺跡出土資料などと比較すると、晩期前半の大洞B2式に相当すると考えられる。

Ⅲ群土器の基本的器種構成は、Ⅱ群土器と類似する。ことに深鉢、装飾鉢、高杯、壷、注口土器では強い系統関係が窺える。しかし、口縁部、体部、底部の形態。口径と高さの比率、器形の細部に相違が見られる、それぞれに強い定型化が窺える。Ⅲ群土器の土器組成は、141個体分の破片資料によると、深鉢A1類が70.9%を占め、小型に深鉢A1s類が2.1%,口頚部が緩やかに湾曲して括れるA4c類が1点出土している。この深鉢A1類の出現率はⅡ群土器よりやや高いが、類似している。特にⅢ群土器の土器組成はH31~13層で類似した様相を示している。他方、装飾鉢はⅡ群土器より低い比率となっており、無文鉢C1類が目に付く。壷、注口土器の組成比は低い。鉢、浅鉢、高杯、壷、注口土器など装飾土器の器種構成に変化が認められる。更に、Ⅲ群土器の装飾は、今後の検討を必要とするものの、羊歯状文d1d2類が見られず、入組三叉文c5類とc1類,c2類、あるいはZ字文、Ⅹ字文、また、19層では刻み目文帯b1類が認められる。このような意匠構成は、大洞B2式に属すると考えられる。田柄貝塚のⅡ2層から出土したⅧ群土器には、やはり羊歯状文d1d2類はみられず(藤沼他1986)、同様な構成は、沼津貝塚の調査資料にも認められる。このように東北地方の中部北上川下流域、仙台湾、三陸海岸では、1b期の装飾は、入組三叉文とZ字文の類型が主体となっている。このように見てくると,Ⅱ群土器は器種構成、組成率、意匠体系、装飾手法、製作技術で強い斉一性を見せるが、上層で口縁部装飾などに見られるように、より精緻な装飾が発達する。また装飾も入組三叉文、羊歯状文が共に用いられ、多様な器種あるいは部位にこれ等の多様な文様が使いわけられ、複雑な装飾体系が展開する。そしてⅡ群土器内部で微妙な型式変化が見られる。下層のより古い段階が、山内の指摘する大洞BC1式に相当する土器群である可能性が考えられ、今後の検討課題といえる。次にⅢ群土器は大洞B2式にあたると考えられる。この土器群には羊歯状文d1d2類のいずれも検出できなかった。雨滝式と大洞B式との関係については東北大学考古学研究室が調査した玉山村前田遺跡、岩手県埋文センターの調査した岩手県安代町曲田1遺跡,八戸市教委の調査した八戸市八幡遺跡出土資料のように北上川上流域や馬淵川流域の遺跡で検証しなければならないが、雨滝式の後半については芹沢の指摘する事実が北上川下流域において証明されたと考える。大洞B式と雨滝式にかかわりについては、羊歯状文の構成が入組三叉文を基調としていることから、入組三叉文の多様性の中で羊歯状文が成立する可能性は強く、大洞B2式に咬み合わない羊歯状文が既に出現している可能性はきはめて高いと考えている。


 8)中沢目貝塚第3・4次調査出土土器の型式学的分析

a Ⅳ群土器 中沢目貝塚のHI3において、28層以下335層にいたる308枚の堆積層と、第3,4次調査終了面からは、438個体分の土器が出土した。このうちの405個体(92.5%)は、晩期最初頭(晩期1a期)に位置づけられる中沢目貝塚Ⅳ群土器である。この土器群は、第1次調査においてG3区Ⅹ層以下から出土した土器群の後続し、山内編年の「大洞B1式」(山内 1964)に相当すると考えられる。

 

b 土器属性の抽出 Ⅳ群土器のように、同一の土器型式として捉えられる一括性の高い資料が、300枚以上の堆積層から層位的に得られたことで、従来の土器型式に比べ、より短い時間の中で、土器製作技術の変遷を検討できる可能性が生じた。また、細分化された各堆積層を単位として、土器の破棄行為を検討することで、土器の製作から破棄がどのようなサイクルでおこなわれていたか、追求することも可能となってきた。

 この土器群の分析は、器種類型の設定、層位にもとづく土器組成の把握、という手順ですすめる。

 なお、分類に際しては、口縁部を有する資料と共に、器形、文様構成が明確に捉らえられる大破片を対称とした。定量化に際しては、接合、同一個体の認定作業を徹底しておこなった上で、基本的に口縁部を有する個体を算定した。


c 器種類型 H3区の28層以下から出土下した土器群(Ⅳ群土器)は、深鉢形土器(A類)、鉢形土器(B類)浅鉢形土器(C類)壷形土器(E類)、注口土器(F類)の5類型に大別できる。

 この5類型は、更に、いくつかの特徴的な器形に細分できる。深鉢はA1A2A5c3類型に、鉢はB1B1sB5c3類型に、壷はE1E22類型に、注口土器はF1F1sF2aF2bF35類型に細分された(第39図)。なお、本来Ⅳ群土器に組成すると考えられる皿形土器(D類)と香炉形土器(G類)はみられなかった。

 A類 深鉢形土器 口径に対する器高の比率が0.8より大きいものがこの類型にふくまれる。A1類 口縁部に屈曲が見られず、体部からほぼ直線的に立ち上がるか、きわめて緩やかに内湾する。体部下半は軽く内湾するが直線的に底部から立ち上がる。

 口縁部の推定残存率が15%以上で、口径を復元可能と感えられる資料は17個体分ある。推定される口径は最小10.4㎝、最大37.7㎝、平均21.9㎝で、1525㎝のものが多い(第40図)。口径30~35㎝を境として、それよりおおきいものと小さなものとが夫々まとまる可能性を指摘できる。A2類 短い口縁部簸は「く」の字に強く外反し、頚部に屈折点を有する。この資料に属する資料は1点出土している。A5c 口頚部はゆるやかに外反する。口頚部の屈曲の度合は、本土器群に先行する後期最終末段階の土器群(G区ⅩⅡ層以下出土Ⅴ群土器)比べ弱く、明瞭な屈折点は認められない。体部はかるく膨らみ、底部には低い台がつく場合が多い。

 B類 鉢形土器 口径に対する器高の比率が0.8%以下で0.5より大きいものがこの類型に含まられる。鉢はさらに器高が口径の0.6より大きいB1B5cと、それ以下のB1sとに細分される。B1類 口縁部に強い屈曲が見られず、体部からほぼ直線的に立ち上がるか、緩やかに内湾する。体部下半は軽く内湾しながら底部に続く。底部には多くの場合、低い台がつく。口径は最小8.2㎝、最大11.2㎝で、比較的変異幅は小さい。Bs 口縁部から体部下半まで緩やかに内湾する「椀」形の鉢形土器である。口径推定可能な資料2点あり、16.2㎝、16.6㎝といずれもB1類に比べ大きい。B5c 口頚部はゆるやかに屈曲し、体部から外傾、あるいはかるく外反する。体部はかるく膨らみを持ち、底部にはほとんどの場合低い台がつく。

 C類 浅鉢形土器 口径に対する器高の比率が0.5以下で0.3以上のものがこの類型に含まれる。Ⅳ群土器の浅鉢は全て、口縁部から体部にかけてゆるやかに内湾し、底部には台がつく(C1h類)。なお仙台平野における晩期1a期の土器には皿形を呈する、より浅い器形の土器が存在するが、本資料には認められない。口径を推定できる資料は4点あり、最小12.2㎝、最大20.7㎝、平均17.7㎝である。

 E類 壷形土器 壷は数量的に少なく、プロフィールを推定できる資料をかけているため、中沢目貝塚の位置する北上川下流域において普遍的と考えられる2類型を、宮城県七ヶ浜町沢上貝塚出土土器(後藤他 1971)に基づいて設定した。E1類 直立あるいは僅かに外傾する長目の口頚部を持ち,肩部は張る。体部の形状は明確でない。E2 口頚部は「く」の字に外反し、頚部に屈折点を有する。肩部はE1類に比べややなで気味である。

 F類 注口土器 F1 口縁部と頚部が未分化で、口頚部が長く内傾する器高の高い土器である。強く張る体部上半には明瞭な稜線は見られない。底部から体部下半にかけてやや急に立ち上がり、底部は不安定である。体部上半に付けられる注口部には、2つ対になった状突起の発達するものと、そうでないものの両者が認められる。本類は概して体部の最大径が30㎝を越すような大型の土器が多いが、中沢目貝塚には最大径が10㎝に満たない小型の土器が存在しており、前者とは区別してFs類とした。F2類 口頚部は肩部から強く屈折して立ち上がり、直線的に外傾する。体部は中央部が強く張り、つぶれた球形を呈する。本類は、口頚部がやや長めに外傾するF2a類と、短く外折するFb類に細分される。F2a類の注口部は周囲が若干高まりを有しており、F2b類は注口部の下に膨らみが見られる。いずれも底部は丸底である。F2b類の底部にはボタン状の低い粘土貼り付けが認められる。F3 口縁部と頚部が分化しており、肥厚する口縁部には、三叉文の文様が彫刻的に施される。短く直立する頚部に続く体部は、中央部が張り出すが,F2類に比べてつぶれ具合が弱くより球形に近い。体部中央の注口部に著しく発達した21対の突起がみとめられる。底部には、中央がくぼんだボタン状の突出が認められる。


d 口縁部の形状 口縁部の端面は、箆削り、ナデ、磨きなどの手法によって整形と仕上げが行われる。その断面形態は、口縁部装飾などとも相関しながらさまざまな変異を有する。Ⅱ、Ⅲ群土器の分類基準(第8図)と共通した基準を設けた。


e 口縁部形態と口縁部装飾 口縁部には平坦でまったく装飾を加えないものが少なくない。しかし大小の突起をつけ、更にその頂部に刻み目や刺突文を加えることで、口縁にアクセントを加えたものも存在する。また突起を配置する間隔を換えることにより、さまざまな変異を生み出している。中でも、本土器群に先行する宮戸Ⅲb式において盛行した、高い「山型突起」は形を変えさまざまに変化してⅣ群土器の口縁部を飾る。また一方で、山形突起は一段と低くなり、波状口縁が本土器群に多くみられるようである。

 口縁部の装飾は、大別6類型、細別12類型に分類される(第4142図)。

 Aa類 口縁部が平坦,素文である。B 類 25㎝程度の周期で口縁部が小波状を呈する.波の上下の幅35㎜程度で、凹部と凸部とが交互に繰り反される。B類は突起頂部の形態により次の2類型に細分される。a 突起頂部が丸みを帯びて調整され、緩やかな起伏となる。b 突起頂部に刻み目が1個加えられる。C類 平坦口縁に5㎝前後の間隔で幅23㎝、高さ35㎜の緩やかな突起が突く。C類はB類と同様、突起頂部の形状により次の2類型に細分される。a 突起頂部が丸みを帯びて調整され、緩やかな起伏となる。b 突起頂部に刻み目が1個加えられる。D類 平坦口縁に23㎝の間膈で、高さ12㎝の山形突起が配置される。D類は山形突起頂部の形状により5類型に細分される。a 山形突起頂部が平坦に調整される。b類 山形突起頂部刺突が加えられる。c 山形突起頂部に刻み目が1個加えられる。d 山形突起頂部の2箇所の刻み目が2個加えられる。e 山形突起頂部の2箇所の刻み目の間に、刺突が1個加えられる。D類は後期末葉に盛行した山形突起に比べ厚みが無く高さも低い。E類 平坦口縁に23㎝の間膈で、頂部に楕円形の張り出しを持つ、高さ12㎝の突起が配置される。E類は突起頂部の形状により次の2類型に細分される。a 突起頂部が平坦に調整される。b 突起頂部に刺突加えられる。F類 平坦口縁に平面形が楕円を呈する突起がつき、突起の両側の口縁に刻目を有する。


f 文様帯の装飾、施文要素 13㎜の沈線によってさまざまな文様が描かれる。箆描文には、文様帯区画線として用いられる文様(a,j類)と、主として口縁部文様帯に展開する文様(bd類)、同じく頚部、胴部文様帯Ⅱ展開する文様(ei類)がある(第43~46図)。 

 a類 平行沈線文 深鉢A類をはじめとし、あらゆる器種に口縁部文様帯に複数の平行沈線がそれのみで、あるいは他の要素と複合して用いられる。文様帯の上下区画線となる場合(山内 1964)も多く、Ⅳ群土器においても、口頚部が外反ないし外湾する深鉢A5c類、鉢B5c類の文様帯区画線として多用されている,A1類やB1類では、口縁部下に1条の沈線を施し、口縁と沈線にはさまれた部分を磨くことで、沈線以下の地文部と縄文部を区画している土器も見られる。

 b類 山形三叉文 一端が二またに分岐し、上方並びに左右に伸びる三叉文の一種である。この文様は、中沢目貝塚Ⅴ群土器に見られ、後期最終末の宮戸Ⅲb式新段階に出現し、東北地方晩期縄文土器の文様として晩期初頭から多用される。Ⅳ群土器の場合、山形三叉文が付加的な要素としてだけでなく、主文様として用いられている。山形三叉文には、2種の基本文様と、3類の変異類型が認められる。b1類 山形三叉文が1つ1つ独立して用いられる。多くの場合、深鉢A5c類の口縁部文様帯において、山形の突起下に配置される。b2類 山形三叉文のうち左右に伸びる沈線が連続する。平行沈線に変わってこの文様が文様帯区画線とし用いられる場合がある。b3類 b2類を基調とし、山形三叉文のうち上方に伸びた枝を、左右から短い弧線で囲む。この時期、深鉢A5c類や鉢B5c類の口縁部文様帯において、山形突起下に左右21対の短い弧線が配置される例は見られるが、山形三叉文と組み合うことは比較的稀である。b4類 b2類に円形刺突が加わり、山形三叉文のうち上方に伸びる枝が円形に刺突にからむ。b5類 山形三叉文のち上方にのびた枝と、短い弧線とが1つの円形刺突を囲む.b4類と同様,b2類の変異類型と考えられるが、咬合部に円形刺突の加わる入組三叉文と似た装飾効果を持つ。

 c類 短弧線+円孔 この文様の弧線は、dh類と異なり、短い半円形で、その上に加えられた円形刺突と共に突起下の口縁部文様帯に配置される。山形突起の下を短い弧線で区画する手法は、本土器群に先行する後期最終末宮戸Ⅲb式では一般的であるが、本類のような円形刺突と組み合うことは無い。本類は、その存在が比較的稀であり、宮戸Ⅲb式で盛行した、山形突起下の短弧線文に由来すると考えられる。

 d類 弧線文1類 口縁部文様帯において、上向きの弧線文が横方向に展開する。d類は基本類型であるd1類の他に、3種類の変異類型が認められ。d1類 上向きの弧線文、横方向に連続して配置される。本文様はA1類,B1類の口縁部に多用され、突起と同じ単位数を取る。弧線の末端が接して連弧状になる例や、多段の例は比較的まれである。弧線文の下には、文様帯を区画する2条の平行沈線が施される。口縁部と弧線文にはさまれた部分や平行沈線文間、あるいは弧線文と平行沈線にはさまれた部分のいずれかに縄文が施される。d2類 弧線文と弧線文との間に、山形三叉文の上方に伸びる枝が、貫入する形で配置される。この文様の下には、一般に文様帯区画線として、2条の平行沈線が施される。口縁部と弧線文に挟まれた部分や平行沈線間には縄文が認められる。d3類 山形三叉文と弧線文との配置関係は、基本的にd1類と共通するが、弧線文の一方の末端に円形刺突が加えられる。  d4類 d2類と同様な文様構成であるが、上向きの弧線文の上に魚眼状三叉文が施される。

 e類 入組文 e類は、後期最終末に盛行した入組文が退化変容して成立した文様で、さまざまな変容を有する。Ⅳ群土器の深鉢、鉢、浅鉢、注口土器等にひろく用いられている。e1類 入組文の咬合部に向かい合う形で、2個1対の独立した三叉文が彫りこまれる。この文様は、Ⅳ群土器に先行する後期最終末の宮戸Ⅲb式期に、括れを有する深鉢の頚部文様として成立している。宮戸Ⅲb式と比較した場合,入組文内部にのみ縄文が施される例が見られるなど、変容の程度が著しい。e2類 後期最終末に4本の沈線により構成されていた二段の入組文が、2本の向かいあう弧線の組み合わせに変化する。e1類に見られるような入組部は形成されない。弧線間には縄文が施され、縄文帯となる。e3類 e2類において文様単位を構成する2本の弧線夫々の末端の一方が二またに分岐し、三叉状を呈する。e2類同様、向かい合う弧線間には縄文が施され、縄文帯となる。e4類 ee3類において、2本の沈線の末端部に、弧状の箆描文が加わることで、いわゆる「大腿骨文」的な文様構成をとる。入組文内部には縄文が施される。e5類 横に連続する入組文の咬合部に円形刺突が加えられ、文様帯の上下を区画する山形三叉文b2類が、上下から咬合部の左右に配置される。入組文内部には縄文が施される。

 f類 弧線文2類 複数の弧線が組合った文様で、頚部、体部文様帯展開する。f1類 下方に開く半円状の弧線と、上方に開く弧線とが、重なり合って交互に配置される。弧線と文様帯区画線で囲まれた部分には縄文が施文される。f2類 魚眼状三叉文の周囲を囲み、扇形に複数弧線が展開する。弧線の配置はf1類に比較的類似する。魚眼状三叉文と弧線文が、このように形に組み合う文様は稀である。

 g類 魚眼状三叉文と入組文 入組文の構成が崩れ、魚眼状三叉文h1類が、入組部から独立した形で展開する。入組文はe3類と類似した構成で、二またに分枝した沈線の末端が著しく発達した結果、一方の枝が反転し、傾きを異にするe3類と類似した構成で二またに分枝した沈線の末端が著しく発達した結果、一方の枝が反転し、傾きを異にするe3類が上下に結びついた複雑な構成となる。

 h類 魚眼状三叉文 向かい合う21対の三叉文によって、円文挟まれる。所謂「魚眼状三叉文」である。本文様は、i類と並んで、Ⅳ群土器における浅鉢の主要文様である。 h1類 向かい合う三叉文の末端は一方は上方に、他方は下方に伸びる。全体の構成としては、魚眼状三叉文は右下がり、あるいは左下がりとなり、Ⅲ群土器に見られるように、三叉文の末端が水平方向に伸びた結果,横方向に連続することはない。h2類 h1類と同じ文様構成で、横にずれない展開していく魚眼状三叉文の間に、斜線が1条ずつ加わり、その一方の端が、円文に接する。

 i類 複雑な入組三叉文 2本以上の曲線の端が入り組むことによって生ずる文様で、咬合部を中心に配置される三叉文の形状などにより細分される。i1類 横に連続する山形三叉文の垂直方向の枝が、上下から伸び、入り組む。咬合部に生じた楕円が山形三叉文から切りはなされる場合がある。また交互部に楕円が配置され、魚眼状になる例も存在し、これ等が交互に配置される場合が多いi2類 横方向に間伸びた、「∽」状の曲線の末端が入り組み、咬合部を中心に、上下から2個1対に三叉文が配置される。i3類 上下から夫々2本の曲線が入り組み、咬合部に形成された楕円を中心に、4本の曲線と、2個1対の三叉文が配置される。

 j類 j類には、主にA5cB5c類の頚部と体部の文様帯を区画する箆描文をふくめた。 j1類 結節沈線。3条の平行沈線を施し、中央の沈線上に、1.53.0㎝程度の一定の間隔で瘤状の小突起を貼付する。瘤状小突起間に残された沈線部分、さらにそれらの上下の平行沈線に磨きを丁寧に加えている。是により、平行沈線間が隆起しているような装飾的効果が生じ、小突起を貼付した部分は、節状の高まりとなる。j2類 短沈線列の沈線間に瘤状の小突起を配置する。3条の平行沈線を施し、中央の沈線上に、1.53.0㎝程度の一定の間隔で瘤状の小突起を貼付する。瘤状小突起間に残った沈線部分を磨いて再調整する場合と、小突起を貼付した段階で終わる場合とがある。j3類 短沈線列。平行沈線間に横に短い沈線を施して、短沈線列を構成する。短沈線の施文前に、平行沈線間に縄文を施すものとしないものとがる。j4類 刺突列。平行沈線間に縄文を施した後、縄文の上に刺突を加え、刺突列とする。


g 中沢目貝塚Ⅳ群土器の装飾類型 中沢目貝塚HI328層以下出土土器に関して、文様帯の有無と文様帯以外の部分の装飾的手法に基づき,土器装飾について7類型を設定した。なお、装飾類型はまったくの器形に適用される。

 a類 体部上半に文様帯を有する。口頚部にも多く文様帯が形成されるが、無文となる場合もある。

 b類 口頚部にのみ文様帯が展開する。b類は体部の縄文の有無により細分される。b1類 体部には縄文が施される。b2類 体部は無文となる。

 c類 口縁から体部にかけてほぼ全面に縄文が施される。

 d類 口縁から体部Ⅱかけてほぼ全面無文とする。

 e類 ほぼ全面に縄文が施され、一部に無文帯が形成される。 

  f類 口縁から体部にかけてほぼ全面櫛歯状条線文が施される。

  y類 その他

 

 9)中沢目貝塚Ⅳ群土器の型式学的分析結果

 a 器種類型と装飾・施文手法の相関関係

 第3,4次調査で発掘されたⅣ群土器は小破片が多く、類型毎の出土点数も限られている。そのため幅ひろい文様帯をもつ器種類型については、その施文手法を充分に把握することはできなかった。しかし、A1-b類,A5c-a類,Bca,Cb類などいくつかの類型については、その装飾・施文手法の傾向を捉えることが可能とであった。これ等の器種類型を検討すると、特定の装飾・施文手法との間に強い結びつきが認められる。そのため、はじめに「飾られた器形」と「飾られない器形」の作りわけを検討する。

 すでに述べたように、Ⅳ群土器の装飾類型はay類の7類型に分類された。このうちもっとも装飾的類型はa類であり、b類がこれに次ぐ.cde、f類は装飾的とはいえないが、無文のd類全てを一概に非装飾的とすることはできない。

 A1―b類 A1類のうち16点(6.0%)は、口縁部に装飾が施される。口縁部の装飾では、BaBb類のように波状にする例が多い。特に、突起頂部が丸みを帯びて調整され、緩やかに起伏するBa類が主体を占めている。他には、平縁Aa類や平坦口縁に5㎝前後の間膈で緩やかに起伏するCa類も存在するが少数である。

 この口縁部文様帯には、箆描文b類(山形三叉文)、d類(弧線文1類)が展開する。山形三叉文には、b1、b2類が認められる。弧線文1類にはd1類に加え、弧線と山形三叉文が組み合うd2類が確認される。

 頚部文様帯e41、e5r類などの変容した入組文を施した土器が2個体分出土しているが、これ等の出土層位は267層と4次調査終了面であり、Ⅳ群土器の中でも古く位置付けられる可能性がある。

 この類型のうち、頚部以下が無文となる例A1-b2類)は確認できず、口頚部の文様帯以下は全て縄文が施されている。16点中、縄文の構成が明らかな個体は11点あり、全体的には斜縄文が多い。即ち、LR斜縄文が7点,RL斜縄文が1点、LR,RL縄文を交互に施文した羽状縄文は3点認められる。

 A1-c類 A1類のうち223点(83.5%)は、口縁から体部Ⅱかけて全面に縄文を施しており、箆描文は存在しない。223点あるA1-c類の中で、219点(98.2%)が平坦口縁である。他には、Ca類が2点、Dd類が1点、不明のものが1点確認できる。

 大部分が小破片のため、縄文の構成が判別できたものは223点中90点にとどまる。90点中異原体を交互に横回転して羽状縄文とする例が70点あり、羽状縄文の比率が高い。羽状縄文の中で、無節のL、R縄文を交互回転した土器は1点だけで、残りは全て単節のLR,RL縄文を用いている。LR,RL縄文用いた羽状縄文の中には、口縁直下の1段目をLR縄文、2段目をRL縄文とする例が25点、同じく1段目をRL縄文、2段目をLR縄文とする例が39点、他に1段目、2段目ともにRL縄文、3段目をLR縄文とする例が5

点認められた。A1-e類 A1類のなかで、口縁の1㎝程度のところに沈線を1条か2条か施し、この区画線から上、口縁部付近を無文とし、区画線から下、底部付近までを縄文とする。A1―e類は12点出土しているが、無文部に縄文が磨り消されずに残存している例が確認されることから、全面に縄文を施文した後に沈線を引き、無文部を作成していると考えられる。

 口縁部はBa、Bb類のように、波状口縁が7点と多く,Ca類が4点でこれに次ぐ。平坦口縁は1点のみである。

 縄文の構成が判明する土器7点あり、LR斜縄文が5点,RLLR羽状縄文が2点と、斜縄文の占める割合が高い。

 A2類 この型は、63層から1点出土した。この土器は平坦口縁で、口頚部無文とし、体部上半の文様帯に複雑な入組三叉文i2r類を施す。文様帯内にはLR縄文を充填する。

 A5c-a類 これは、確認できたものは全て体部上半に文様帯を有する。口縁部には、DbDc類の様な山形突起が施される例が5点と多く、ついで波状口縁の突起頂部に刻みを加えたBb類が4点存在する。平坦口縁は1点で、残る1点は口縁部の形状が不明であった。

 口縁部文様帯には、山形三叉文や弧線文1類が多用され、b2d1d2d4類が認められた。口縁部の装飾と口縁部文様帯の箆描文との間には、特定の結びつきは確認できない。

 頚部文様帯には、e1re21e41類などの各種入組文や複雑な入組三叉文i11類に、結節沈線j1類や短沈線列j3類が組み合った展開する。

 体部破片で判断する限り、体部上半にもe11e21e31類などの入組文や複雑な入組三叉文i2r類が施され、頚部文様帯と似た傾向を示す。

 頚部文様帯や体部文様帯に展開する入組文には縄文が充填されるが、LR縄文が圧倒的に多く,RL縄文は稀である。

 B1類 口頚部文様帯に箆描文を有する土器(B1-b類)は2点認められた(このうちの1点は体部文様帯を持ったB1―a類である可能性もある)。他には、口縁部直下の無文帯以下に縄文を施すB1e類が6点、全面に縄文施すBⅠ―c類が4点、全面を無文とするBⅠ―d類が4点、不明・その他4点が夫々確認される。

 口縁部の形状としては、平坦口縁が10点と最も多く、以下多いものから順に、波状口縁6点、波状突起を有するもの2点、山形突起を有するものが2点夫々認められる。全面が無文となるB1-d類の口縁部は,全て平坦である。

 B1―b類の口縁部文様帯には、箆描文b類(山形三叉文)が施され、b2類とb4類が夫々1点確認された。体部にはLR斜行縄文がもっとも多く認められ、磨いて無文とするものが是に次ぐ。

 Bs 16点確認された中で、14点は全面を無文とする(B1s-d類)これらBsd類の最終的な器面調整は磨きを基本とするが、ナデや削りも少数認められる。口縁部は平坦である。

 無文以外では、口縁部直下無文帯以下に縄文を施すB1s類が1点、体部に文様帯を持つと考えられる個体(Bsd類)が1点出土している。後者は体部以下を失っているが、頚部文様帯には箆描文h類(魚眼状三叉文)展開する。

 Bca類 12点出土したBc類は、すべて体部上半に文様を有するBca類と考えられる。口縁部形態を検討出来る資料は9点有る。これは小波状か、あるいは突起装飾を有しており、口縁部が平坦な例は確認できない。小波状口縁ではBaBbCa類が、突起装飾としてはDaDbEaEbF類が認められる。

 この類型に関しては、口縁部と頚部の文様の間に一定の結びつきが確認できる。口縁部に箆描文を施されない資料は2点有り、いずれも1条の沈線で口縁部と頚部を区画し、頚部文様帯に箆描文e類(入組文)を施す。口縁部に箆描文を施す資料は10点有り、口縁部文様帯に箆描文b類(山形三叉文)が、頚部文様帯にはh類(魚眼状三叉文),j類が展開する。口縁部文様帯の山形三叉文ではb1類が多く、他にb2b5類が確認できる。

 本来伝統的に、箆描文j類は頚部と体部の文様帯を区画する文様として、e類(入組文)と共に用いられるが、Ⅳ群土器の場合、j類が単独で頚部文様帯に施される点に特徴がる。また平行沈線により頚部文様帯を区画するものの、文様帯内に箆描文を施さない資料も存在する。

 浅鉢(C)類 39点出土した浅鉢を装飾類型別に検討すると、全面無文のCd類が16点ともっとも多く、口頚部にのみ文様帯をもつCb類が12点で是に次ぐ。体部に文様帯をもつCa類が1点で、残り5点は不明である。

 浅鉢の口縁部は平坦なものが34点と大多数を占める。口縁部が小波状となる類型では、Ca類が3点,Cb類が1点ある。出土点数が少ないこともあり、口縁部の形態と装飾類型との間に特定の結びつきは確認できない。

 口縁部に文様を有する資料は1点ある。この土器は口縁部に箆描文b3類を施し、1条の沈線を挟んで体部にg類を施す(第6211PL39111)。

 Cb類の頚部文様は全て魚眼状三叉文を用いており、箆描文h類が9点,f2類が1点認められる。また頚部文様帯にh類を施す資料の中で文様帯の上下両方を沈線区画する例は1点だけで、大多数は文様帯の下端のみを1条の沈線で区画している。浅鉢の体部文様には、g類の他に、複雑な入組三叉文i11類が1点存在する。

 壷(E) 8点の壷は全て平坦口縁である。口縁部は無文か、あるいは1条の沈線を施している。口縁部から体部まで残る資料は1点ある。体部破片では注口との区別が困難なことから、体部の装飾に付いては言及できない。

 注口土器(F注口土器は7点出土しているが、器形の変異が著しく、装飾との関係を求めることは難しい。口縁部は、F2類が平坦であるに対して,F3類には小波状(Cb類)や山形突起(Db類)が存在する。口縁部と頚部が分化するF3類では、口縁部にb2、d3、j1などの箆描文が展開するのに対して、口縁部と頚部の分化しないF1、F2類では口頚部よりも体部に箆描文i31g類などの装飾が加えられる。

 b 層位的出土状況 

「大別層」の設定 中沢目貝塚HI3区では、34次調査を通じて、28層~335層まで堆積層が確認されている。このうち層序概念図において、もっとも多くの堆積順序が捉えられる変遷軸を想定した場合、33層から329層まで106枚の堆積層に関して、102の段階に分けて、前後関係を論じることが可能となる。以下ではこの106枚の堆積層に基づいて、土器の型式変遷を層位的に検討する。1層当たり出土個体数は、最大でも21個体分(106層)であり、1層当たり平均して約2個体分出土しているに過ぎない。したがって、層位的な土器の型式変化を数量的に検討するには、個々の堆積層を分析の単位とすることは難しい。そこで何らかの基準を設けて各堆積層「大別層」にまとめ、それを単位として分析する必要がある。結論から言えば、34次調査で得られた土器は、少数の混入を除けば、全て晩期第1期古段階に位置付けられ、Ⅳ群土器として1型式にまとめられる。したがって、ここで設定する大別層は、同一型式内での変化を検討するための分析単位に過ぎない。このように、1層あたりの出土点数が極端に少なく、全体として同一型式と考えられる場合には、どこ層の段階で型式変化が起こったかではなく、微細な型式変化がどのような方向性を持ち、それから土器型式の交代にどのような関与するかが問題となる。

 大別層を設定するにあっては、いつたん土器の諸属性の層位的出現状況を検討するなかで画期をさがし、その画期をはさんで各大別層を設け方法と、各堆積層に含まれる土器の型式学的内容のいかんにかかわらず、それとは独立した別の基準(例えば、土器層位別出土量や土器接合関係など)による方法が考えられる。今回は、細かな型式変化の実態を把握するため、あらかじめ土器の型式学的内容に注目して大別層を設定した後、改めて大別層間で層位的変化を定量的に分析した。

 大別層を設定するために、土器の諸属性のうち、時間的な変化を鋭敏に反映することが予想され、なおかつ多くの資料から抽出することが可能な、器形、装飾類型、口縁部装飾類型の3属性を選び、それらの層位的出現状況を検討した。本来ならば、これらの3属性に口縁部、頚部、体部の各文様帯に施される文様を加えるべきである。しかし後述するように出土土器の大半が文様を持たないため、文様については大別層を設定した後、改めて層位毎の出現状況を検討することにする。

 33層から329層間で、先に示した層序概念図の「段階」に相当する堆積層において、器形、装飾類型、口縁部装飾類型に関して、夫々の類型がどのように出現状況にあるか、表に示した(第1416表)。

既に述べたように、資料数の問題から、各堆積層を単位として類型毎の出現頻度を検討することは難しい。したがって、ここでは器形、装飾類型、口縁部装飾類型について、各類型がどの層の段階で出現、消失するか、一つ一つ検討更に土器を多く出土した層に関しては、大別層を設定した場合、それらの層が各類型の出現頻度を大きく左右すると考えられることから、その層に含まれる土器の内容を相互に比較検討した。

 その結果、連続する堆積層の中に、土器が型式学的に変化したと認識できる段階が少なくとも2個所存在している可能性が考えられた。そこで層位的変化を検討して行く上で分析の単位となる大別層として、これ等2箇所の画期をはさんで、上層、中層、下層の3層を設定した。即ち、上層には33~82層が、中層には83~239層が、下層には243~329層がが、夫々相当する。

 ② 中沢目貝塚Ⅳ群土器の土器組成の変化 先に設定した上層、中層、下層の大別層を単位として、Ⅳ群土器の組成比率の変化を検討する(第47図)

 深鉢A1は、下層から中層にかけての変化が大きく、比率は高まる。 深鉢A5c類は、下層において1割弱を占めていたが、中層では極めて稀な存在となり、上層では全く姿を消している。 鉢B1類は、上層に向かい増加し、上層では1割強を示している。 鉢B5cは、下層及び中層では5%程度認められるが、上層では全く姿を消している。 鉢B1sは、中層おいて若干比率が小さくなるが、全体を通じて比較的安定した存在である

 浅鉢は、漸移的であるが、上層に向かいその比率低下していく。壷は、上層に向かい減少する傾向が認められるが、資料が少ないため、実態の反映不明。注口土器は、点数が少ないながらも、その比率は安定している。

 全体を通じて、深鉢、鉢共に、体部に括れを有する類型が減少する傾向が認められる。型式学的にみて、括れを持つ深鉢、鉢は、後期後葉の伝統を強く残した器形である。Ⅳ群土器は、そのような後期的な器形が消滅していく過渡的な段階に位置しているとはいえる。なお下層と中層とを比較し場合に、深鉢A5c類と鉢B5c類の比率が逆転している点に付いては、前者が後者に先立って消滅することを示していると考えられる。

 後述するように、炭化物の付着を観察した結果、多くが煮沸に用いられたことが確認された深鉢、鉢の比率は、漸移的であるが増加する。一方、同様の観察から、基本的に煮沸に用いられることが無かったことが確認された浅鉢、壷、注口土器の比率は、いずれも漸移的に減少している。このことはすくなくても土器を用いた食物の煮沸調理に関して、食生活様式がゆっくりと変化していったことを示していると考えられる。

 ③ 中沢目貝塚Ⅳ群土器の装飾、施文手法の変遷 土器を装飾類型毎に検討した結果、箆描文を有するab類両者の比率は、下層から中層にかけ半減することが明らかになった(第48図)。その一方で、無文土器d類や、縄文の上に無文帯を有するe類は、確実に増加する。このことからⅣ群土器全体としては、次第に装飾的な土器が減少することがわかる。

 次に、土器の装飾がどのような層位的変遷をするか、器種毎に検討する(第49~51図)。壷と注口土器は、資料数が少ないために分析の対象から除外した。

深鉢、鉢は、同じような傾向を示し、装飾的なab類の比率は、急激に低下する。深鉢、鉢共に、無文土器d類が、ab類の減少を補完する形で増加している。a類かb類か区別できないもの(ab類)を一旦考慮の外におい場合、確実に減少しているといえるのは、体部に文様をもつa類である。したがって無文土器の増加は、a類の減少と深くむすびついているといえよう。

浅鉢は、資料数が少なく、正確な傾向性を把握することは困難であるが、深鉢、鉢とは全く異なる変化が追える。即ち、浅鉢では、上層に向かって装飾的なab類の比率が高まる。以上の分析結果から、Ⅳ群土器は、飾られる対象となる土器が、深鉢、鉢から、浅鉢を始めとするそれ以外の器種に移行していく過渡的な段階に当たるといえる。Ⅳ群土器の晩期1a期に、深鉢を主に飾る対象としてきた伝統的な土器の装飾体系が大きく変容したと考えられる。次に、Ⅳ群土器の口縁部装飾の変化について、大別層を単位として検討する。(第52図)。

平坦口縁Aa類の比率は次第に高まる。後期後葉にその祖形が辿れる各層の山形突起DEF類は、下層では2割弱を占めているものの、量的にも、変異類型の数の点でも次第に衰退していき、上層では極めて稀な存在となる。同様に、山形突起の高さが低くなった形態のC類も減少し、上層では消滅している。波状口縁B類は、下層ではBb類が例外的に存在していたに過ぎないが、中層でBa類が出現し、上層にむかい比率が高まる。

 以上の分析結果から、Ⅳ群土器で、口縁部の平坦化が進行し、高い山形突起は低い波状口縁に変化することがわかる。また、特定の単位数を持っていた山形突起やC類の減少、消滅は、口縁部装飾と口縁部の文様とが深く結びついていた後期後葉の文様帯構成の崩壊を意味していると考えられる。

 口縁部文様帯に展開する文様の層位的変化に付いては、資料数の制約から、本来行うべき器形毎の検討が出来ない。そこで全ての土器を対象として分析を行った(第53図)。

 既に述べたように、Ⅳ群土器の口縁部文様帯には、平行沈線(Aa類)、各種の山形三叉文(b~5類),短弧線+円孔(c類)、弧線文1類(d1~D類)、結節沈線(j1類)が施文される。下層ではb類(b1、b2類)とd類(d2類)が用いられているが、中層においてd類の比率は低下し、上層では確認されない。また下層から中層への変化から、d類の中でもd2類が古く,d1類は比較的新しいと考えられるd1、d2類は、共に主として深鉢の口縁部文様であることから、d1類がd2類に入れ替わった可能性が高い.b1類は安定した比率を保って。いる.b1類琶、深鉢、鉢、壷の口縁部に共通して用いられることから、Ⅳ群土器の主要な文様と考えられる。下層では確認できなっかったa類は、上層に向かって増加する。

 以上の分析結果から、Ⅳ群土器の口縁部文様帯には、b1類の用に比較的安定した文様が存在する一方で、次第に装飾的な要素が失われていくことがわかる。この現象は、後期的な口縁部文様帯が消滅していく過程を考える上で大変興味深い。

 頚部文様帯に展開する文様の層位的変化についても、資料数の制約から、本来行うべき器形ごとの検討が出来ない。そこで全てに土器を対象として分析を行った(第54図)。

 既に述べたように、Ⅳ群土器の頚部文様帯には、平行線(a類)、入組文(e類)、魚眼状三叉文(h類),弧線文2類(f類)、複雑な入組三叉文、入組曲線文(i類)やj類が施される。

 下層で全体の4分の1の比率を占めていたe類(e1類)は、中層で激減し、上層では存在が確認できない。h類は、下層、中層を通じて全体の4分の1の比率を占めているが、上層には存在しない。是とは逆に、下層に存在しないi類の比率が、中層から上層にかけ高まる。a類は下層から上層にかけ次第に増加し、上層では全体の8割を占める。器形との関係では、Ⅳ群土器における深鉢の頚部文様にはa類と、e類だけが用おいられることから、e類の減少、消滅は、深鉢の頚部文様の衰退を意味している。このように頚部文様の分析からも、深鉢の装飾要素が次第に失われていく様相が窺える。


 10) 第34次調査出土土器について 34次調査では、HI3区28層以下において,Ⅳ群土器と呼称した晩期初頭の土器型式がえられた。Ⅳ群土器は、山内清男による東北地方晩期縄文土器編年大綱のなかでは「大洞B1式」に相当し、晩期第1期の古段階(晩期1a期)に位置付けられる。28層以下335層にいたる308枚の堆積層及び34次調査終了面から出土したⅣ群土器は、405個体分あり、晩期初頭の土器型式の推移を層位的に検討することができた。 

 Ⅳ群土器は基本的に、深鉢、鉢、浅鉢、壷、注口土器より構成され、是に香炉形土器が加わると考えられる。さらに、深鉢は、A1、A2,A5cの3類型に、鉢は、B1、B1s、B5cの3類型に壷は、E1、E2の2類型に、注口土器は、F1、F1s、F2a、F2b、F35類型に細別され、是に変異類型の認められなかった浅鉢を加え、全体で14類型が抽出された。注口土器は、7個体分(口縁部破片による算定)と出土点数が少ない割りに多くの変異類型を有しており、注口土器の多様性は、Ⅳ群土器の特徴として指摘できる。

 深鉢では、「括れを持たない深鉢」A1類が、279点中267点(95.6%)と圧倒的多数を占めている。後期後葉から末葉にかけて盛行した「括れのある深鉢」AC類は、僅か11個体分(3.9%)に過ぎない。本土器群に先行する、後期末葉宮戸Ⅲb式新段階が主体となる田柄貝塚南斜面Ⅳ層、Ⅲ-2層出土土器では、括れのある器形の土器が深鉢の大部分を占めており、中沢目貝塚Ⅳ群土器とは大きく様相を異にする。Ⅳ群土器の層位的検討でも下層ほど「括れのある深鉢」A5c類の比率は高く、上層に向かって減少し、82層より上層では存在が確認されない。

 またⅣ群土器の、括れのある深鉢A5c類は、全体的に括れの度合いが弱く、後期後葉の宮戸Ⅲa式や後期末葉の宮戸Ⅲb式における括れのある深鉢からは様相が変化している。後期後葉から末葉に括れのある深鉢では、口縁部文様帯、頚部文様帯、体部文様帯の存在が明確であり、装飾の中心となる頚部、体部の両文様帯には、基本的に各種入組文が展開する。それに対して、Ⅳ群土器の括れのある深鉢A5c類の中には、文様帯の構成が崩れ、口縁部文様帯と頚部文様帯が融合したような状態の土器や頚部文様帯が無文化した土器も存在する。後期後葉から末葉の括れのある深鉢では、口縁部は文様があまり発達せず、高い山形突起D類が特徴的であうるが、Ⅳ群土器の場合、山形三叉文や弧線文などの文様が多用されるが一方で、山形突起は衰退し、頂部に刻みを持った波状口縁Bb類が出現する。 

 深鉢の口縁部に施される山形三叉文の内、b1類は、鉢や壷の口縁部に用いられ、層位的にも下層から上層まで安定して存在している。頚部、体部の入組文は、構成が崩れ複雑化する。山内清男の文様帯系統論(山内 1964)に示されているように、口縁部装飾帯、頚部文様帯、体部文様帯の分化した、括れのある深鉢は、後期中葉に出現し、その頚部文様帯は東北地方において後期後葉に著しく発達する。Ⅳ群土器に僅かに存在する括れのある深鉢A5c類もそうした後期中葉以来の伝統的な精製深鉢の延長線上に位置づけられる。しかし是まで述べてきたように、器形、文様帯構成、文様装飾の点で、それは後期の土器からは大きく変容している。また、深鉢全体の中で占める比率も極端に低下しとり、残存現象として理解するべきであろう。

 267個体分出土した、括れを持たない深鉢A1類のうち、223個体分(83.5%)は、縄文のみを施す粗製深鉢である。粗製深鉢A1―c類のなかで、縄文の構成が判別できた資料の77.8%は羽状縄文であった。括れをもたない深鉢A1類の内、平行沈線文以外の箆描文を有する類型(A1―b類)は16個体分に過ぎない.更に最も装飾的な深鉢である。括れのある深鉢A5c類が激減、消滅することから、Ⅳ群土器の深鉢に関しては非装飾化(粗製化)が目立つ。層位的検討からも、上層に向かって粗製深鉢A1c類の比率が高まることが確かめられた。

 口頚部に平行沈線以外の文様を持つ深鉢A1―b類は、Ba、Bb類のような波状口縁が多い。深鉢A1b類の口縁部文様帯には、山形三叉文b1b2類、弧線文d1類、弧線文と山形三叉文の組み合うd2類が展開する。層位的検討からは、箆描文d1類は、d2類よりも新しく位置付けられる。深鉢A1-b類のなかで頚部文様帯を持つ土器は少なく、267層及び4次調査終了面から、e41類,e5r類を施文した資料が1点ずつ出土したに過ぎない。この2点はⅣ群土器の中では層位的には古く位置付けられる。

 括れをもたない深鉢A1類には、波状口縁下の無文帯を挟んで体部に縄文を施文する深鉢A1e類が12個体分存在する。同様の文様構成をとる土器は、鉢にも6個体分存在する。このような特徴を持った深鉢は、岩手県曲田Ⅰ遺跡(鈴木 1985)や前田遺跡(須藤 1992a、須藤他 1992)等、北上川最上流域の遺跡においても該期の粗製深鉢として定着しており、北上川流域にひろく分布が認められる。この特徴的の粗製深鉢は、田柄貝塚(藤沼他 1986)など南三陸沿岸部でも確認できるが、脊梁山脈の西側や,東側でも下北半島、津軽平野、馬淵川、新井田川流域などの東北北部、阿武隈川流域(中通り)、浜通り、会津地方などの東北南部では、搬入の可能性のある少数の例を除き、基本的に存在してない。また、このような特徴を持つ深鉢は、中沢目貝塚において、より上層から出土した晩期第1b期のⅢ群土器にも認められる。型式学的特徴の少ないこの深鉢は、その継続期間が比較的長く、晩期第1期の新古両段階にまたがって存在している可能性が高いが、中沢目貝塚Ⅴ群土器をはじめとして、後期末葉宮戸Ⅲb式では確認できない。このことは、前田遺跡1号竪穴住居跡の層位的出土状況からも裏づけられる。この粗製深鉢の存在は、Ⅳ群土器と宮戸Ⅲb式を分別する指標となるばかりでなく,「大洞B2式」に比定されるⅢ群土器とⅣ群土器との共通性を示すものとして重要である。

 鉢は、55個体分出土し、括れのある鉢B5c類が、12個体分が確認された.Bc類も、括れの有る深鉢A5c類と同様、文様帯構成、文様装飾の点で、後期の土器からは大きく変容している。B5c類の内、口縁部に箆描文の認められない資料(2点)では頚部に入組文が施される。このような口縁部文様帯と頚部文様帯との間にみられる一定の結びつきは、B5c類がⅣ群土器のなかで定型化した器種類型であることを示している。層位的にはA5c類と同様、下層、中層に存在し、82層より上層では確認できない。

 B5c類以外の鉢では、B1類(20個体分)とB1s類(16個体分)が存在する.B1

の口縁部は平坦口縁以外にも、波状口縁Ba、Bb類、波状突起CaCb類、山形突起DcEa類が有り多様であるが、平行沈線以外の箆描文としては、頚部文様帯に山形三叉文を施した資料が2点確認されたに過ぎない.Bs類は87.5%が無文であり、それらの口縁部は、全て平坦である。

 浅鉢は39個体分出土し、器形的には、いずれも体部に屈曲のない台付浅鉢と考えられる。頚部に魚眼状三叉文を施す黒色研磨の浅鉢は、9点存在する。頚部に魚眼状三叉文が展開する浅鉢のうち、文様帯の上下両方を沈線区画する資料は1点だけで、他は全て、文様帯の下端のみを1条b沈線で区画している。これ等は、器形、装飾、調整手法共に定型化しており、Ⅳ群土器の代表的な装飾浅鉢といえる。層位的には、下層から上層まであまり増減することなく存在し、質的な変化も認められない。この定型化した浅鉢は、東北地方のひろい範囲で認められるが主体的に分布するのは、北上川下流域、仙台平野、南三陸沿岸地域に限られ、その他の地域で散見される資料はこれ等の地域から搬入の可能性が高いものと考えられる。黒色研磨の浅鉢の台部に魚眼状三叉文を施す例も認められる。浅鉢では、無文のものが16点あり、浅鉢全体の41.0%を占める。

 壷は小破片が多く、器形、装飾共に詳しい検討を加えることは出来なかった。8個体分出土した壷は、すべて平坦口縁である、是なの口頚部は、無文か1条の沈線のみを施している。他の遺跡においても、該期の壷の資料は少ないが、それらを検討する限り、壷の装飾は体部上半に集中し、口頚部は無文のままか、平行沈線のみが施される場合が多い傾向にある。

 注口土器は、F1FsF2a、F2,F3類の5類型。口頚部認められるが内傾する、F1類は、胴部最大径が30㎝を越す大型の注口土器である。この器種類型は、仙台平野、南三陸沿岸地域において、その型式変遷を追うことが可能である。田柄貝塚や沼津貝塚の層位的資料によれば、F1類初現は、田柄貝塚Ⅳ群土器(宮戸Ⅲb式古段階)に、その終末は、晩期第1期段階の大洞B2式に求めることが可能である。東北地方の晩期縄文土器に置ける注口土器は晩期第1期新段階以降、3段作りのものと2段作りのものとが基本形として定着する。2段作りの注口の特徴は口頚部が内傾する点に有るが、このような特徴をもつ注口土器は晩期第1期古段階以前には、仙台平野周辺のF1類以外にない求めることが出来ない。後期後葉出現したF1類が、2段作りの注口土器の祖形となった可能性が高い。

 F2a類である244層出土の注口土器(第24図版5,PL179)は、胴部がやや扁平化し、注口部下の2個一対になった突起は痕跡的になっている。この注口土器は、山内清男が「文様帯系統論」の中で大洞B1式として説明した。無文の壷形を呈する注口土器に相当すると考えられる。Fb類である298層出土注口土器は、つぶれた胴部に魚眼状三叉文と構成の崩れた入組文の組み合わさった文様が展開する。注口部下は僅かに膨らんでおり、2個1対になった突起の痕跡を残している。この注口土器の底部に見られるボタン状の小さな作り出しには、後期的様相が残されている。体部に箆描文g類を施すF2b類は、定型化しており、青森県是川遺跡(保坂 1972)、石郷遺跡(村越他 1979)、岩手県曲田Ⅰ遺跡(鈴木 1985)、山形県神矢田遺跡(佐藤他 1972)、宮城県摺萩遺跡(進藤他 1990)福島県羽白C遺跡(鈴鹿他 1988)等、東北地方のひろい範囲に分布している。更にこのような型式学的特徴を持った注口土器は、茨城県上高津貝塚、寺沢遺跡、山王堂遺跡、小山台遺跡、栃木県高松御厨遺跡(前沢 1963)、埼玉県赤城遺跡(新屋他 1988)、千葉県吉見台遺跡(小田島他 1983)、東京都下沼部貝塚(我孫子他 1980)など霞ケ浦周辺を中心に関東地方のほぼ全域から出土しており、安行Ⅲa式を構成する土器となっている。

 口縁部と頚部が分化し、口縁部に立体的な装飾を持つF3類は、一般にF2類に比べ体部の張りが強く、注口部下に著しく発達した21対の状突起がつく場合が多い。こうした型式学的特徴から、F3類は、Ⅳ群土器に先行する後期末葉の宮戸Ⅲb式にさかのぼる可能性も否定できないが、211層出土の土器は、口縁部の文様により新しい様相が窺えるため、Ⅳ群土器に伴うと判断した。

 土器装飾の層位的検討では、箆描文を有する装飾的な土器(装飾類型ab類)が減少し、無文土器(装飾類型d類)や、地文の上に無文帯のみを有する土器(装飾類型e類)が上層に向かって確実に増加することが確認できた。このような現象を器種毎に検討した結果、深鉢、鉢では無文化の傾向が著しく、浅鉢は逆に上層に向かって装飾的な土器の増加していることが判明した。このことは、Ⅳ群土器では、「飾られる土器」が次第に深鉢、鉢から、浅鉢をはじめとする他の器種に移行する現象を表していると理解される。後期中葉に器種の分化が進行した以後も後期末葉まで、東北地方に縄文土器において、伝統的に深鉢が「飾られる土器」の主な対象であり続けたという点を考慮するとき、宮戸Ⅲb式からⅣ群土器への変化の重要性が理解される。装飾的な深鉢が減少し、「飾られる土器」の主体が深鉢以外の器種に移行するⅣ群土器は、まさに成立期の晩期縄文土器として位置付けられるよう。

 Ⅳ群土器の土器組成に付いては,34次調査出土土器全体で検討すると、深鉢65.9%、鉢13.9%、浅鉢9.6%、壷2.0%、注口土器1.7%、不明その他6.9%となり、深鉢と鉢を合わせると、全体のやく8割を占める高い比率を示す。上層(33~82層)、中層(83~239層)、下層(243~329層)にわけ、層位的な変化を検討した結果、深鉢と鉢を合わせた比率は、下層64.5%、中層83.9%、上層84.6%と次第に高まる傾向をみせた。

 器壁外面への炭化物の付着の検討では、深鉢の43.6%、鉢の25.5%に炭化物の付着が認めれ、他の器種には認められなかった。(第55図)。主要な煮沸形態であった深鉢、鉢の比率が上層に向かって高まることから、土器を用いた食物の煮沸、調理に関して、食生活様式の漸移的な変化を想定できる。

 深鉢の炭化物付着率,「括れを持たないもの」A1類が45.3%、「括れのある」Ac類が45.5%と、両者に違いはない。鉢でもB1類が35.0%、Bc33.3%と、「括れ」有無による炭化物付着率の違いはないが、小形で浅い椀形の鉢B1s類の炭化物付着率は、18.8%でやや低い、装飾と炭化物付着率の関係を、深鉢A1類を例に検討した結果、装飾の度合いは炭化物付着率と無関係であることが明らかとなった(第56図)。このことから、同じ器形の土器は、文様の有無に関係なく、煮沸関する限り同様の扱いを受けていた可能性が高い。

 

 11)中沢目貝塚出土の縄文晩期土器の胎土  以下略 

第Ⅶ章  考 察

Ⅰ 東北地方における晩期縄文土器の形成過程

1)晩期縄文土器の山内編年と「雨滝式」

東北地方の晩期縄文土器葉多様な器種で構成され、華麗な装飾と極めて精巧な作りを持ち、「亀ヶ岡式土器」として早くから注目されてきた。明治10年(1877年)、E.S.Morseによって大森貝塚の調査が行われ、日本における科学的先史学研究が開始されると、東北地方の先史遺跡、遺物に対しても強い関心が注がれるようになる。そして、明治22年(1889年)には、若林勝邦によって、東北地方における代表的な先史遺跡である亀ヶ岡遺跡の調査が行われるに至った(若林1889)。その後、佐藤伝蔵による亀ヶ岡遺跡の発掘調査(佐藤1896)、大野延太郎による秋田県麻生遺跡出土資料の紹介(大野1898)など、発掘調査や資料収集が盛んに行われ、「亀ヶ岡式土器」とそれに伴う物質文化に関する理解が徐々にその深まりを見せることとなった。

 大正7年(1918年)、松本彦七郎、早坂一郎、長谷部言人と共に宮城県宮戸島里浜貝塚において貝塚の層位的発掘調査を試み(早坂1919)松本1919bc)、さらに、岩手県陸前高田市獺沢貝塚、宮城県河南町宝ヶ峯遺跡(齋藤報恩会編1991)においても層位的調査を繰り返し実践した。これ等の調査の方法と成果は、日本先史学研究に大きな転機をもたれした。松本は、出土土器の分析にあって、古生物学的観点から土器の形態と装飾の相関を検討し、土器型式の相違を層位にもとづいて時間的な変化として捉え、縄文土器研究、ひいては縄文文化研究に新たな方向付けを与えた。この研究に触発され、大正14年(1925年)、山内清男と長谷部言人は、岩手県大船渡市大洞貝塚の発掘調査を行い(長谷部1925b)、その出土資料の分析によって亀ヶ岡式土器の編年研究を進めた。山内は、この貝塚から出土した土器群を4つの地点とそれぞれの地点での層位関係にもづいて「大洞B式」、「中間式(BC式)」、「大洞C1式」、「大洞C2式」、「大洞A式」、「大洞A‘式」の6型式に区分して、亀ヶ岡式土器の6期編年を提示した(山内1930a)。更に、山内はこの亀ヶ岡式土器編年を基準として晩期縄文土器全体の編年の確立を目指した(山内1932)。

 昭和39年(1964年)、山内は、東北地方各地で集成した「亀ヶ岡式土器」の膨大な資料を型式学的に検討し、従来の6区分を改め、9期の土器型式編年を提示した山内は、この新たな編年案において、昭和5年に設定した「大洞B式」を「大洞B2式」、「大洞BC式」を「大洞BC2式」、「大洞A式」を「大洞A1式」とした。更に是に「大洞B1式」、「大洞BC1式」、「大洞A2式」を加えた(山内1964挿図68)。

 山内は、この9型式の亀ヶ岡式土器のうち、最古段階の「大洞B式」の資料として、青森県上北郡百石町百石遺跡出土の装飾深鉢を示した。また、この型式の注口土器に触れ、その形態的特徴が壷と共通し、無文のものが多い点を指摘している。しかし、大洞B1式の器種構成、装飾体系など、土器型式全体のあり方について明確には触れていない。また、新たに設けられた「大洞BC1式」の内容も具体的に示していない。山内清男の亀ヶ岡式土器の編年観は、25年の研究の蓄積によって9型式の変遷を捉えるところまで深められたものではあるが、基準となる資料が提示されずに新たな土器型式が設定されたため、その後の亀ヶ岡式土器研究に若干の混乱を惹き起こす結果となった。東北地方の晩期縄文文化が成立、発展し、そして終焉に至る過程を明らかにするためには、山内によって提示された土器型式の内容を、それぞれ共伴関係の明確な具体的資料にもとづいて検討する基礎的研究が是非とも必要と考えられる。

 山内の縄文土器編年に関するそのような検証は、新たな山内編年案の提示に先立って関東地方の安行23a式や東北地方の晩期前葉の編年について試みられるようになる。昭和28年(1953年)、芹沢長介によって岩手県二戸市舌崎(雨滝)遺跡の調査が行われ、4枚、厚さ1m程の堆積層から、土偶、岩版、舟形土製品などとともに、膨大な量の晩期前葉の土器、石器が検出された。当初、芹沢は上層のⅡ、Ⅲ層からは、大洞BC式土器群が出土し、下層のⅣ、Ⅴ層からは、大洞B式とBC式の中間的な型式が出土しているとした(芹沢1963)。しかし、後に、芹沢は、これ等の包含層において「大洞B式」と「大洞BC式」の主要な装飾意匠である「入組三叉文」と「羊歯状文」を持つ土器群が共伴するという層位的所見から、山内の編年観に疑問を抱き、「大洞B式」から「大洞BC式」への2型式の変遷として捉えるのではなく、寧ろこれ等の装飾意匠が同時期に並行して使用され、夫々の装飾が型式変化するという土器型式変遷観を提示し、両者を一括して「雨滝式」とした(芹沢1960)。

 芹沢の問題提起は「亀ヶ岡式土器」の土器型式に関して、時間的な変化と共に、地域的な変異を充分に考慮、検討する必要のあることを示唆したものである。即ちこの「雨滝式と「大洞B式」や「大洞BC式」の関係、あるいわ「大洞B式」と「大洞BC式」との関係を究明するために、大洞貝塚の所在する三陸沿岸、雨滝遺跡の所在する馬淵川流域、あるいは「大洞BC式」の基準資料を出土した藤株遺跡の所在する米代川流域など、東北地方各地の晩期縄文土器の地域性とその変遷の検討を必要とすることが明らかになった。

 芹沢の指摘を受けて、その後、北上川下流域における宮城県築館町館貝塚出土資料についての林謙作による分析(林1976)、相原康二による岩手県衣川村東浦遺跡出土資料の検討(相原他1981)が行われた。結果として、これ等の研究は「雨滝式」の所在を重ねて強調している。しかし、いずれも明確な層位的裏づけに欠けており、確定的な検証には至らなかった。

 近年、東北地方各地で後期後半から晩期前半の大規模遺跡が盛んに調査されるようになった。その結果、竪穴住居跡の覆土や包含層などから出土した晩期前葉の良好な一括資料が著しく増加した。ことに、気仙沼市田柄貝塚、大和町摺萩遺跡、安代町曲田Ⅰ遺跡、八戸市八幡遺跡、是川遺跡、三戸郡三戸町泉山遺跡、平賀町石郷遺跡等における発掘調査で晩期前葉の型式変遷を解明する手がかりとなる豊富な資料がえられている。中沢目貝塚に於ける調査によって得られた500枚に上る堆積層から出土した後期終末のⅤ群土器、晩期前半のⅣ、Ⅲ、Ⅱ群土器の内容を明らかしたうえで、これ等他の地域の一括資料とその型式内容のを詳細に比較検討することによって、亀ヶ岡式土器野成立過程、その地域性を究明することが本研究の主たる目的の一つである。異に芹沢の提起した「雨滝式」、山内が設定した「大洞B1式」、「大洞B2式」、「大洞BC1式」、「大洞BC2式」についての検証を目指した。

 なお、ここでは晩期縄文土器の時期区分の大枠として山内が1930年の論文で示した大洞BBCC1C2AA’式の6期区分を前提とすることとした。したがって、東北地方全体での晩期の広義の時期区分に付いては、晩期1期、2期、3期、4期、5期、6期という時期区分を設けた。更に、晩期初頭の大洞B1式とB2式の時期については、それぞれ1期、2期と独立した時期に区分することが可能と考えられるが、ここでは、それぞれ晩期1期古段階(1a期)、晩期1期新段階(1b期)とした。「大洞BC1式」に付いては実態が不明なため、大洞BC12式を特に区分せず2期として扱った。

2)後期入組文土器群とその終焉

 亀ヶ岡式土器の成立基盤は、東北地方に広く分布する「入組文土器群」(後藤19621981、林1965)、あるいは「はり瘤土器」(芹沢1960)、「コブ付土器」山内1964)、「瘤付土器様式」(我孫子)196919801988)と呼ばれる後期後半から後期終末の縄文土器にある。亀ヶ岡式土器の成立過程を考えるにあたってこの「入組文土器群」あるいは「はりこぶ土器」と呼ばれる土器群について検討しておく必要があろう。

 中沢目貝塚から出土した資料のうち、第1次調査のG3区ⅩⅡ層からⅩⅦ層、第2次調査のG31層から11層、3次調査G312層から48層にかけて出土するⅤ群土器(須藤編1984)が「宮戸Ⅲb式」土器であり、G350層以下が「宮戸Ⅲa式」に当たる。「宮戸Ⅲb式」は、後藤勝彦によって宮戸島台囲貝塚出土土器を標式資料として設定されたもので、後期の「入組文土器群」の最終段階に位置づけされる(後藤前掲)。この「入組文」を主要装飾要素とする後期最終末の宮戸Ⅲb式土器は、北上川流域、仙台湾沿岸、阿武隈川下流域、北上山系、三陸沿岸など、東北地方中部に太平洋側に広く分布する。そしてその器種構成、器形、装飾、製作技術に強い斉一性が認められる。

 この宮戸Ⅲb式土器の良好な一括資料が、気仙沼市田柄貝塚において出土している(藤沼他1986)。この貝塚では1m40㎝に及ぶ貝層が形成され、後期中から晩期前葉の土器群が層位的に出土している。最下層の貝層下土層では、後期中葉の宝ヶ峯式土器が出土し、その上層の最下貝層Ⅳ層からは、西の浜式(田柄Ⅳ群)土器、更に、次のⅤ層から宮戸Ⅲa式(田柄Ⅴ群)土器、Ⅳ、Ⅲ層では後期最終末の「宮戸Ⅲb式土器」に当たる田柄貝塚Ⅳ、Ⅶ群土器が出土した。なお、Ⅲ層の上部から出土したⅦ群土器には僅かであるが、中沢目貝塚Ⅳ群土器に類似する晩期1a期の土器群が含まれている。

 これ等の資料の内、田柄貝塚Ⅳ群土器は、「入組文土器群」、「貼り瘤土器」の形成期の土器型式である。器種構成は、口頚部に境に括れを持つ深鉢を主体とし、それに括れのない深鉢を伴う。報告書の「器種類型の共伴関係表」(藤沼他前掲pp.4表)の出土器種集計資料に基づいて土器組成(第114図)を検討すると、Ⅵー3層において40点中、B1BⅡ、BⅤ類が20点見られ、括れを持つ深鉢(中沢目貝塚の深鉢A5c類)は全体の50%を占める。一方、括れのない深鉢A1類(報告書ではF類)が7点、17.5%出土している。深鉢の主体は括れを持つ類型であり、全て装飾が施され手入る。この他に浅鉢や壷、注口土器、そして多様な形態の鉢が見られる。装飾には弧線と縄文帯による「交差波状文」、粗大な「入組文」、「七宝繋文」など多様な意匠が展開する。そして、この装飾には盛んに貼瘤文が充填され、装飾効果を高めている。また、口縁部には厚みを持つ山形突起が付され、突起の頂部に刻み目が加えられる。この突起はやや大型のものと小型のもが対で飾られる。このような器種構成と装飾体系が入組文土器群の基本的なあり方となり、宮戸Ⅲa式、Ⅲb式に踏襲される。田柄貝塚のⅤ層から出土した田柄貝塚Ⅴ群土器では更に入組文が発達し、意匠の斉一性が確立する。括れを持つ深鉢A5c類は33.3~60.7%を占め、是に14%の括れのない深鉢A1類が共伴する。このように宮戸Ⅲa式期の土器組成では括れを持つ深鉢が一層高い出現率を見せる。そして、是に装飾鉢、浅鉢、壷、注口土器などが伴う。注口土器は壷と共通した形態をとり、多様に変異を見る。この「宮戸Ⅲa式」土器の装飾には、対向する弧線で区画された縄文帯による入組文、七宝繋文、様々な連繋文、そして平行線文などが盛行する。異に、階段状に弧線が展開する入組文が主要な意匠として発達する。この入組文では、上、下に対向する弧線が延び、2~5段に縄文帯が重層する文様構成が一般的となる。特に、この時期の入組文ではその結合部を短弧線で描く傾向が見られ、宮戸Ⅲb式の入組文とは施文方法に相違が窺える。Ⅴ群土器では、この重層入組文と口縁部に粘土瘤が多数貼付され、Ⅴ群土器の壷、鉢は、深鉢と異なり、体部文様帯に七宝繋文のように楕円文と弧線を組み合わせ意匠が発達する。口頚部文様帯には狭い間隔の横帯文が展開す、貼瘤文が盛行する。

 田柄貝塚のⅣ層から出土したⅥ群土器とⅢ層から出土したⅦ群土器は、基本的には共通した器種構成と意匠体系を持ち、いずれも宮戸Ⅲb式に属する。これ等の層では、括れを持つ装飾深鉢A5c類が54.0~86.3%と高い出現頻度を示す。これに25%前後の括れのない深鉢、鉢、台付鉢、台付浅鉢、壷、注口土器が伴う。注口土器と壷の形態はなお完全に分化しきっておらず、いずれも長い口頚部を有し、長胴、小底部を持つものが多い。

 また、台付土器が多くなり、高杯も目に付くようになる。この高杯の脚部には特徴的に透かし彫りが施される。中沢目貝塚H4区15層や台囲貝塚(小井川1980)などから、共通した特徴を持つ高杯、あるいはその脚部(第22図版3PL163)が出土しており、この型式の高杯が北上川下流域にひろくて定着したことが窺える。また、鉢、高杯、壷、注口土器には丁寧な箆磨きの無文土器が多くなる。

 宮戸Ⅲb式期の装飾を見ると、深鉢では文様帯の構成が著しく画一化する。口縁部装飾帯に通常6~8個の山形突起が施され、その頂部に押圧が加えられる。この突起の下に三叉文、弧線文が施される。田柄貝塚Ⅳ層から出土したⅥ群土器では頚部文様帯に高い頻度のⅦ群土器に展開する入組文とは様相が異なる。Ⅶ群土器の深鉢では、頚部文様帯と体部文様帯にそれぞれ2段階構成の入組文が4ないし6単位で展開する。頚部文様帯の入組文には縄文、あるいは狭い間膈の縦刻線が充填される。そして、体部文様帯に展開する入組文には縄文が施される。頚部文様帯の入組文結合部にはしばしば左右に三叉文が施され、その中央に円形刺突が加えられる。この文様構成と施文手法は先行型式からの強い伝統が窺える。この時期に装飾方法の画一化の傾向は頂点に達する。Ⅵ群、Ⅶ群土器では貼付粘土瘤が減少し、粘土瘤は入組文の結合部や頚部と体部の境に貼り付される程度になる。精製鉢、台付鉢、壷、注口土器には、概して丁寧な箆磨きの無文土器が多い。田柄貝塚Ⅲ層下部(CL4016層)から出土したⅦ群土器の台付鉢には「魚眼状三叉文」が見られる(前掲第56図5)。この意匠は、中心に円形刺突をおき、箆描円文がそれを囲み、その円文の左右に三叉文が対称的に配される。文様中に細密な縄文が充填され、4単位が展開する。口縁部端面が肥厚しており、後期的な様相を示す台付鉢である。

 このように、既に後期最終末に魚眼状三叉文が出現している(第1153)。この時期の魚眼状三叉文は、入組文の結合部に円形刺突をもつものと共通し、箆描円文の中心に円形刺突が施されるのを特徴とする(h1類型)。後述するように、次の晩期1a期の中沢目貝塚Ⅳ群土器において台付鉢や注口土器に魚眼状三叉文が一層発達する。しかし、その意匠は中心の円形刺突を失った魚眼状三叉文(同図671213)となる。

 田柄貝塚のⅢ層上部では、晩期1a期の中沢目貝塚Ⅳ群土器と共通する「複雑な渦巻文」を持つ精製土器がわずかではあるが出土している。この田柄貝塚Ⅶ群土器の段階において、後期入組文土器群はその終焉を迎える。そして、上層のⅡ層からは晩期1b期のⅧ群土器が豊富に出土している。

 このように田柄貝塚Ⅳ群土器からⅦ群土器にかけての土器型式変遷はきわめて漸移的、系統的である。これ等の系統性の強い土器型式群によって構成される「入組文土器群」の特徴は、次のように纏めることが出来る。

 後期後半の「入組文土器群」の器種構成、装飾、施文手法は、田柄貝塚で出土した4つの土器群、3つの土器型式に見られるように、著しく漸移的であり、強い系統性をうかがうことが出来る。

 ② 入組文土器群を構成する器種には、基本的に深鉢、鉢、台付鉢、壷、注口土器、香炉形土器が見られる。そして深鉢には口頚部と体部の境に括れ持つ類型と、括れのない類型が併存する。鉢、台付鉢には体部に屈曲ない無文土器が多く、装飾土器は少ない。注口土器と壷の形態は、なお未分化で変異に富んでいる。装飾は口頚部と体部上半に縄文帯で施される。この器種構成が入組文土器群に一貫して踏襲される。

 ③ これ等の器種類型のうち、頚部と体部の境に括れをもつ装飾深鉢が最も高い出現頻度を示す。この器種類型は後期中葉に宝ヶ峯式期の深鉢に由来し、後期後半に発達する。田柄貝塚では括れを持つ装飾深鉢の出現頻度が、Ⅳ群で50%、Ⅴ群で33~61%、Ⅵ群とⅦ群では54~86%見られ、時期が新しくなるにつれて増大する傾向が窺える。中沢目貝塚G3区(須藤編1984)では後期入組文土器群も括れのない粗製深鉢が僅かに見られるが、やはり土器組成の主体は括れを持つ装飾深鉢である。

 ④ 後期終末の装飾土器に展開する「入組文」は、入組文土器群の主要意匠である。この意匠は、田柄貝塚Ⅳ群土器の七宝繋文、交差波状文、入組文などの対向する緩やかな弧線で描かれた「沈線区画曲線文」(藤沼他1986)から派生した意匠といえる。西の浜貝塚のⅣ群土器に置ける入組文には、一定方向に伸びる意匠構成が確立しておらず、文様の連結部から弧線によって区画された横帯が複雑に展開する。しかし、次の田柄貝塚Ⅴ群土器では、定型化した入組文が成立する。Ⅴ群土器の入組文は、連結部が主として左下がりに展開するようになり、意匠の画一化が進む。またこの時期の入組文は幅が狭く、3段以上に重層する傾向が見られる。宮戸Ⅲb式期のⅦ群土器になると、2段構成の「入組文」が盛行する。そして、Ⅶ群土器では磨消縄文手法が発達し、文様要素とその組み合わせ、施文方法が著しい斉一性を確立する。

 ⑤ 深鉢の装飾は入組文が主体であるが、鉢、壷、高杯、台付鉢、注口土器には夫々弧線で描かれた「沈線区画曲線文」から派生した多数の装飾が展開する。一方、壷や鉢、注口土器などの精製土器は序々に無文化する傾向が窺える。

 ⑥ 貼瘤の手法はⅣ群土器に出現する。Ⅴ群、Ⅵ群土器で発達し、その全盛期を迎える。Ⅶ群土器では大型の貼瘤、特殊な貼瘤が見られるが、貼瘤の手法そのものは著しく衰退する。

 ⑦ 入組文土器群の装飾は、山内清男が指摘したように、口縁部装飾帯(Ⅰ装飾帯)、頚部文様帯(Ⅱa文様帯)、体部文様帯(Ⅱ文様帯)で構成され、それぞれに固有の意匠が展開し、相互に強い相関を保ち、定型的な装飾が発達する。この文様帯構成が後期終末の田柄貝塚Ⅶ群土器まで一貫して継承される。

 ⑧ 体部の縄文あるいは入組文に充填される縄文は、幅2㎝前後の帯状構成をとり、羽状縄文が主体となる。

 ⑨ 深鉢、鉢、台付鉢の口縁部は端部が肥厚する傾向が強い。

 3)晩期1a期の土器型式

a 中沢目貝塚Ⅳ群土器の編年的位置 東北地方の晩期縄文土器は、多量の粗製深鉢と精巧な作りの鉢、浅鉢、皿、壷、注口土器、高杯、香炉形土器など多数の精製土器によって構成される。そして、これらの器種の組み合わせと装飾体系は、時期、地域によって様々な変化、変異を見せながら、晩期全般を通じて一貫性のある変遷を辿る。ことに、鉢、台付浅鉢、壷、注口土器といった装飾的な器種に強い系統性が窺える。また、「入組三叉文」を基調とする多様な意匠、入念な箆磨きや磨消縄文手法など、様々な装飾手法と装飾要素が晩期を通じて受けつがれ、「亀ヶ岡式土器」と呼ばれる強い系統性のある土器型式群を生み出している。この亀ヶ岡式土器の最古型式を、山内は「大洞B式」と命名した。この土器型式に付いては、既に触れたように注口土器など一部の器種類型の特徴が指摘されているものの、その全体像は明らかにされていない。したがって、亀ヶ岡式土器の成立過程を解明するためには、まずこの最古段階の土器型式を詳細に検討する必要があろう。

 中沢目貝塚Ⅳ群土器は、亀ヶ岡式土器の形成過程を理解する上で極めて重要な資料である。この土器群は、「大洞B2式」に相当すると見られる中沢目貝塚Ⅲ群土器の包含層の下層から出土し、また、後期終末の「宮戸Ⅲb式土器」に当たるⅤ群土器の包含層の上層から出土している。この層位的関係から、この土器群を宮戸Ⅲb式に後続し、大洞B2式(晩期1b期)に先行する土器型式に位置づけることが出来る。そして、この土器群は、その内容を詳細に検討した結果、後期最終末からの伝統を強く受け継ぐ器形、装飾要素とともに、後期入組文土器に見られない異質の器形、装飾方法、意匠など新たな要素を多数抱えていることが明らかになった。この新たな要素は、次の晩期前葉の1b期の中沢目貝塚Ⅲ群土器、2期のⅡ群土器の器種構成、装飾体系へ踏襲され、その成立基盤となる。このように、中沢目貝塚Ⅳ群土器は、「後期入組文土器群」から「晩期縄文土器」への過渡的性格の強い土器型式といえる。

 そして、この中沢目貝塚Ⅳ群土器には、括れを持たない深鉢A1類、口頚部が緩やかに外湾する深鉢A5類、台付浅鉢Ch類、高杯C1p類、壷、注口土器、そして香炉形土器などが見られ、その土器組成は、後期終末の入組文土器群とは大きな相違を見せる。ことに装飾深鉢の組成率が著しく減少する点が特徴的であり、装飾深鉢A5類が著しく減少し、口頚部に括れや屈曲のない深鉢A1類が増大する。また、装飾深鉢A5類に変わって、量的には少ないが、口頚部に屈曲を持つ装飾鉢B5類が出現する。そして、この鉢が、かって我孫子昭二が指摘したように、晩期前葉の台付鉢へ推移していくと見られる(我孫子1969)。更に、その文様帯構成も変化し、後期の入組文土器群に見られた頚部文様帯と体部文様帯の対応関係が大きく崩れ、体部文様帯、頚部文様帯のいずれかが退化する。また、口縁部装飾帯と頚部文様帯が一体化する融合現象も生ずる。

精製土器にでは、壷、注口土器の器形と装飾方法に大きな変化が見られる。。注口土器には後期からの伝統的器形が存続する一方で、従来見られなかった扁平球形の体部を持つものや、晩期前葉の基本形態であるF1類、F2類と類似する器形が出現し、過渡期にふさわしく、多数の形態の注口土器が発達する。このように、1a期では後期に見られた器種構成が崩壊し、一部ではあるが晩期縄文土器の基本的な器形が出現することになる。

このⅣ群土器の土器組成は、晩期前葉から中葉にかけての様相と共通する。即ち第34次調査で精査した33層から329層にかけての全ての層で出土した404点の資料と、そのうちの33層から82層で出土下26点の資料、83層から239層にかけての155点の資料、240層から327層出土の31点の資料という4つのグループの資料について、夫々の土器組成を見ると、深鉢A167%68%72%45%を占め、高い出現率を示している。しかも粗製深鉢が大半を占める。この深鉢、粗製深鉢の組成比率は、晩期1b期の中沢目貝塚Ⅲ群土器、あるいは2期のⅡ群土器のA1類の組成比率と近似する。一方で、この土器組成は、田柄貝塚Ⅵ、Ⅶ群土器のような後期入組文土器群に見られる装飾深鉢A5類を主体とする組成比率と大きく異なる。このように、中沢目貝塚Ⅳ群土器の組成は後期入組文土器群とは異なり、装飾深鉢が著しく減少し、粗製深鉢が主体を占めることとなる。この変化は晩期的様相にへの変換である。

中沢目貝塚Ⅳ群土器の装飾体系は、後期終末の宮戸Ⅲb式期の文様帯構成、装飾意匠を踏襲するが、入組文土器群「入組文」を基調とする装飾体系が崩壊し、新たに変化を見せる。新たに装飾意匠として「入組文」の文様構成が変化した「複雑な入組三叉文」、「渦巻文」が出現し、多彩な変異類型が発達する。また、「魚眼状三叉文」がこの晩期1a期に一層発達する。この時期の魚眼状三叉文は、箆描きの円文を中心におき、三叉文をその左右にに対照的に配する構成が主体である。田柄貝塚Ⅶ群土器、沢上貝塚出土浅鉢(後藤他1971)に見られるような中央に刺突円文を持つ後期終末の魚眼状三叉文h1類は、中沢目貝塚Ⅳ群土器にはふくまれていない。

そして、後期終末から晩期1a期にかけての器形と装飾の対応関係、文様帯にも変化が生じる。後期の括れを持つ装飾深鉢の器形を受け継いだ晩期1a期の装飾深鉢A5類の場合、その変化が明瞭に現われる。口縁部装飾帯に山形突起が飾られ、この突起のしたに三叉文、「魚眼状三叉文」(h2類)、「玉抱き三叉文」、弧線文などが施され、やや複雑な文様構成(第115618)をとるようになる。口縁部装飾帯と頚部文様帯では装飾の複雑化が進む。一方、体部文様帯には入組文の崩れた文様、あるいは平行線、弧線文など、より単純な文様が展開し、後期終末の意匠構成、装飾方法を基盤としながら大きな変化をとげる。

以上のように、貝塚中沢目Ⅳ群土器の器種構成と装飾体系は、後期入組文土器群を基盤として変化を遂げ、新たな様相を確立する。そして、この土器群の器種構成と装飾体系が、Ⅲ群土器、田柄貝塚Ⅷ群土器などにみられるような晩期1b期の器種構成と入組三叉文を基調とする装飾体系をうみだすことになる。

 このような中沢目貝塚Ⅳ群土器と共通する土器型式は、宮城県鳴瀬町宮戸島台囲貝塚、七ヶ浜町沢上貝塚、二月田貝塚、松島町西の浜貝塚、石巻市沼津貝塚、女川町尾田峯貝塚、大和町摺萩遺跡、岩手県安代町曲田Ⅰ遺跡、玉山村前田遺跡、九戸町道地Ⅲ遺跡、青森県三戸町泉山遺跡、八戸市是川中居遺跡、平賀町石郷遺跡、弘前市十腰内遺跡、秋田県鷹巣町藤株遺跡、鹿角市玉内遺跡、遺跡福島県飯舘村羽白遺跡(竹島1979)、羽白C遺跡、日向南遺跡、新地町三貫地貝塚など、広く東北地方全域に分布する。異に、口頚部がゆるやかに外湾する深鉢や台付鉢、注口土器にはひろい範囲で共通性が窺える。更にこの深鉢、注口土器の分布は、那賀川水系を越え、茨城県那珂湊市大田房貝塚、土浦市上高津貝塚など、関東地方に波及する。東京都世田谷区小豆沢出土深鉢、茨城県稲敷郡東村福田貝塚出土人面付注口土器、千葉県銚子市余山貝塚出土注口土器などの安行3a式土器の標式資料(山内1941)が、この東北地方晩期1a期の土器型式と強い共通性をもつ。さらにその分布の南限は近畿地方の大津市滋賀里、橿原市橿原遺跡(須藤1992a図252)に達する。

 次に東北地方の晩期1a期の一括資料について夫々その特色の検討を試みたい。

b 台囲2群土器 台囲2群土器は、昭和30年に調査された宮戸島里浜貝塚台囲地区Bトレンチ第2貝層から出土した土器群である(小井川1980)。小井川は、第2貝層から出土した土器群のうち、口頚部のゆるやかに外湾する土器群のみを抽出し、2群土器とし、後期終末に位置付けた。更に、その上層の第1混土貝層や第1貝層から出土した土器群を1群土器とし、晩期初頭の土器型式とした。また、第2貝層から出土した括れのない装飾深鉢に付いては、是を混入とし、1群土器に帰属させた。しかし、中沢目貝塚Ⅳ群土器における型式理解からすれば、この第2貝層から出土した2類型の深鉢は、同一時期と捉えるのが妥当であろう。この第2貝層から出土下した土器群は1a期の基準資料となる。この台囲2群土器には、深鉢A1類(小井川に分類では深鉢B類)とともに、深鉢A5類(小井川分類では深鉢A類)、台付鉢が含まれる。他の器種類型に付いては不明である。括れを持つ深鉢A5類、(小井川分類では深鉢A類)、後期後半から終末にかけて盛行する装飾深鉢を踏襲した器形である。異にこの深鉢の口縁部装飾帯、頚部文様帯、体部文様帯は、後期終末の宮戸Ⅲb式の装飾深鉢の文様帯構成を受け継いでいる。しかし、展開する文様意匠には大きな変容が見られる。

 深鉢A5類には、平坦口縁のものと端部の肥厚しない大型の山形突起をもつものが見られる。後者には突起の緩やかな波形に沿って弧線文が描かれ、突起の前面中央に三叉文や入組三叉文が配される。そして、頚部文様帯にはしばしば後期の「入組文」から派生した複雑な入組三叉文が展開する。この装飾は、入組文 結合部が変化した円形の入組三叉文、入組文の横帯が変化した楕円状の入組三叉文とが交互に繰り返されて複雑な構成をとる。この文様帯は磨消縄文手法で仕上げられる。そして頚部文様帯と体部文様帯はしばしば縄文帯や結節突帯によって区画される。また、体部文様帯には後期の入組文が崩れて成立した意匠、あるいは楕円文や弧線文が展開する。この台囲2群土器の装飾深鉢の口頚部文様帯に展開する複雑な入組三叉文は、中沢目貝塚Ⅳ群土器の注口土器(第24図版6)などに見られる文様、施文手法と共通している。

深鉢A1類には、短い周期の波状口縁に入組三叉文や縄文帯が巡る類型、あるいは低い波状口縁で文様帯に結合部を失った入組文が1段巡る類型などが見られる。型式全体として装飾体系は非常に複雑な様相を帯びる。台付浅鉢は、大きな波状口縁を有し、三叉文や円形刺突文をもつ入組三叉文が施される。口縁部文様帯に複雑な入組三叉文が展開する。入組三叉文の結合部にはしばしば円形刺突文が施される。台付浅鉢や浅鉢には魚眼状三叉文(b類型)が盛んに展開する。

このように、台囲2群土器は、土器型式全体の様相は明らかでないが、深鉢や鉢には後期終末から晩期前葉への過渡的様相が強い。深鉢の口縁部が肥厚する点など後期的要素がやや強く残されているが、基本的に中沢目Ⅳ群土器と共通した特徴をもつことから、Ⅳ群土器と同時期に属すると判断される。

c 道地Ⅲ遺跡出土資料 昭和56年、岩手県埋蔵文化財線センターは、九戸村道地Ⅲ遺跡において、晩期1a期の良好な一括資料を発掘した。(種市他1983)。この遺跡は、北上山系の北部、新井田川水系最上流域の観月内川に望む左岸丘陵地にあり、中沢目貝塚から約200㎞北に位置する。検出された3棟の重複住居の内、最下層のFⅡ9号竪穴住居跡床面から18点の一括土器が出土した(第116図)。この土器群には、粗製深鉢A1類、口頚部が緩やかに外反する装飾台付鉢B類、鉢、台付浅鉢、注口土器F1類が含まれている。装飾台付鉢B5類(同図1)は、緩やかな波状口縁を呈し、頚部文様帯に右下がりの入組文が施される。この土器は、後述する前田遺跡出土装飾深鉢(第117図)と共通した特徴をもつ。

装飾台付浅鉢(第1662)は、沼津貝塚、中沢目貝塚出土の台付浅鉢(第24図版3PL174)と酷似した形態と文様帯構成を有し、入念に箆磨きが加えられる。口縁部には1個の大型突起と3個の低い山形突起が飾られ、その間に21対の小突起が加えられる。口縁部文様帯には、魚眼状三叉文(h2類)、あるいは入組三叉文の変異型が展開する。これ等の文様に弧線で囲まれた鼓形の文様が組み込まれる。入組三叉文と入組三叉文の間は斜線で仕切られ、4単位の文様が展開する。更に、口縁部内面にも入組三叉文c24類が巡る。内面の文様は3単位である。体部にはLR縄文が施される。この装飾台付浅鉢は、晩期1a期に属するが、その装飾意匠は晩期1b期に盛行する入組三叉文c2類に近似した意匠を併用している。

大きな袋状口縁を持つ注口土器F1類が2点出土している。1点は、外面を丁寧に磨き上げた黒色研磨土器(1163)である。口縁部は内湾し、長くゆるやかに膨らむ。体部はやや扁平で、中位に明瞭な稜を持つ。類似した注口土器は、是川遺跡出土資料(保坂1972注口土器18)にもにみられ、定形化している。晩期1b期の注口土器F2類に比べと、体部の中位により明瞭な稜を持つ点が特徴である。また、底部は丸みが強く、口縁部も大きく長い。他の1点は、大きな袋状口縁と短く内傾する頚部を持ち、丸みの強い底部を有する(同図4)。口縁部装飾帯に入組三叉文c21類と魚眼状三叉文が展開する。注口土器の付け根が軽く隆起し、三叉文が施される。この土器は1b期の注口土器と類似した意匠と装飾方法を持っており、晩期1b期の注口土器の祖形といえる。 

このように、道地Ⅲ遺跡のFⅡ9号竪穴住居跡床面から出土した一括土器群は、中沢目貝塚Ⅳ群土器や、後述する前田遺跡出土土器群と共通した特徴を抱えており、晩期1a期に位置づけることが出来る。しかも、晩期1b期に通ずる注口土器F1類や、入組三叉文が展開する台付浅鉢が共伴しており、晩期1b期との系統的な結びつきが窺える。この土器群は、東北地方北部に於ける晩期1a期縄文土器の重要な一括資料といえる。

 d 前田遺跡1号竪穴状住居跡3層出土土器群 平成1年から3年にかけて後期最終末から晩期初頭前葉に縄文土器を検出することができた(須藤1992a)。この遺跡は北上川の最上流域、北上山系の秀麗姫神山の西北麓に伸びる丘陵地に位置する。標高326mの丘陵を開析する浅い沢に望む斜面の傾斜変換線にそって後期終末から晩期中葉にかけての土坑群、竪穴住居跡、遺物包含層の広がりが確認されている。そのうち1号竪穴状居跡を入念に精査した結果、後期終末から晩期2期にかけての土器群が層位的に得られた。すなわち、径5m、深さ50㎝程の竪穴住居跡の床面から、後期終末「宮戸Ⅲb式」相当の土器群、その上の覆土3b3c層からは晩期1a期の土器群が出土し、さらに上層の2層からは、晩期1b期と2期の土器群が混在して多量に出土した。

このうち、1a期の土器群は、主に覆土下層の3b3c層に包含されており、共伴関係の明確な土器群である。その器種には深鉢A1類、A5類、鉢B5類、B1類、台付浅鉢Ch類、壷、注口土器が見られる。装飾深鉢は、器形、文様ともに後期入組文土器群のあり方をうけ次ぐが、一方で大きな変化が見られる。山形突起を持つものは著しく少ない、低く緩やかな波状口縁をもつ深鉢が主体を占める(第117図)。この深鉢は、頚部文様帯には入組文が施され、体部文様帯には結合部を欠いた入組文が展開する。この場合、入組文はより単純な意匠になっている。頚部、体部文様帯にはいずれも磨消縄文手法が見られ、入念な箆磨きが施される。この磨消縄文手法の入念な箆磨きは、晩期1b期と手法的に類似する。また、頚部文様帯の入組文には細刻線の充填手法は見られず、後期最終末の施文手法が崩壊したといえる。

注口土器は、短い口縁部、やや膨らみを持つ頚部、長い体部、きわめて小さな底部が見られる。無文土器が多く、やはりその器面は入念に磨かれている。器形は後期の特徴をよく受け付いている。深鉢A1類には縄文施文のみの粗製土器が多い。それとともに、小波状口縁で、口縁部に幅1~2㎝の無文帯が巡る深鉢A1類が出現する。この類型は、中沢目貝塚Ⅳ群土器にも主体的に見られ、北上川流域の広い地域で1a期に発達する器形である。

このように、北上川最上流域の前田遺跡から出土した晩期1a期土器群には、後期的様相が濃厚な装飾深鉢A5類、注口土器が見られる。一方、緩やかな波状口縁を持つ深鉢A1類は、晩期前葉の深鉢に共通した特徴を示している。また、粗製深鉢A1類が50%を占めており、土器組成は、装飾深鉢A5類が主体を占める後期のあり方から、粗製深鉢A1類が主体を占める晩期の土器組成へと大きく変貌していることが指摘できる。

e 石郷遺跡出土資料 台囲、田柄貝塚、前田、道地Ⅲ遺跡出土資料のように共伴関係の明確な晩期1a期の一括資料はきわめて少ない。多くの資料は、後期後半から晩期にかけての様々な土器が混在し、器種構成、製作技術、装飾手法、意匠など、土器型式のあり方を把握することが非常に困難である。青森県平賀町石郷遺跡出土資料は、晩期中葉にかけての土器型式が見られる(村越1979)。ことに晩期1a期、1b期の注口土器、台付浅鉢、台付鉢が比較的豊富に含まれており、津軽平野における晩期前葉の土器型式変遷を理解する上で重要な資料である。装飾深鉢をやや浅くした台付鉢B5類には、大きな山形突起とともなう、緩やかな波状口縁が見られる。口頚部は緩やかに外湾し、体部上半が軽く膨らみ、下半で強くすぼむ。この器形は、1a期から1b期にかけて見られるが、1b期になると、体部の屈曲が強くなる。また、台部の付けねがかるく膨らみをもつようになる。このように器形の細部が変化するとともに、装飾にも変化が見られる。1a期の装飾台付鉢は、是川遺跡や泉山、藤株、玉内遺跡など主に東北北部に分布する。

また、この遺跡で出土した1a期の注口土器には、①外反する口縁部と持ち小さな底部を、長胴の壷に注口のついた類型、②外反する口縁部と内湾する頚部を持つ3段作りの注口土器、③扁平球形で、体部上半に複雑な渦巻文、複雑な入組三叉文が施された類型などが見られる。このうち、①は後期終末の注口土器の伝統をよく踏襲している。②は1b期、2期に発達する器形であるが、この注口土器は、器高が高く、道地Ⅲ遺跡竪穴住居跡出土資料と類似する。③の扁平球形の注口土器は、中沢目貝塚311層出土注口土器(第35図版3PL17-7)と共通し、外反口縁を持ち、扁平球形の体部を有し、下部が強く膨らむ。また、底部は丸底であるが、軽く突出する。そして、この小さな突起した底部の中央に浅いくぼみが加えられる。また、注口部の付け根が軽く膨らむ。この注口土器の底部形態、注口部の21対の小突起などは、後期終末の注口土器の特徴を踏襲している。しかし、この注口土器には入組文土器群の意匠とは異なった箆描文が施され、体部上半の文様帯には「入組文」から派生した「複雑な入組文」と魚眼状三叉文(h2類)が複合した文様が展開する。また、磨消縄文手法が盛行し、器面は丁寧に磨かれる。

同様な型式的特徴を持つ注口土器が、沼津、台囲貝塚、摺萩遺跡、田柄貝塚、叺屋敷1b(小平他1983)、是川(保坂1972)、藤株遺跡(高橋他1991)羽白C遺跡(鈴鹿他1988)など東北地方各地の遺跡から出土しており、広い分布を見せる。しかもこれ等の注口土器の形態はつよい斉一性を示している。そして、その装飾には、①体部上半全体に文様帯が展開するもの、②体部状半に文様帯が2段巡るもの、③体部中位に幅の狭い文様帯が1段巡るものといった変異が見られる。更にその文様帯には入組三叉文、渦巻文、魚眼状三叉文(h2類)、入組三叉文など多様な意匠が展開する。

f 最古段階の亀ヶ岡式土器とその地域性 このように、東北地方の晩期1a期縄文土器は、中沢目貝塚Ⅳ群土器、台囲2群土器、沼津貝塚、二月田貝塚、摺萩遺跡出土資料など、北上川下流域・仙台湾沿岸地方に分布する1a期土器群と、前田遺跡1号竪穴住居跡3層出土資料、道地Ⅲ遺跡FⅡ9竪穴住居跡出土資料、曲田Ⅰ遺跡FⅢ019号竪穴住居出土資料など、北上川上流域・馬淵川・新井田川流域の1a期土器群、更に石郷遺跡、十腰内遺跡Ⅵ群土器、大森勝山、小森山東部遺跡、とともに、東北地方のひろい範囲で共通した様相が認められる。この時期の土器型式は後期入組文土器群に見られた地域圏を越え、より広い範囲で器形や装飾の斉一性を確立する。

この晩期1a期の土器群は、後期終末から晩期前葉への過渡的な性格の強い土器型式である。この土器型式では、中沢目貝塚Ⅳ群土器、台囲2群土器、道地Ⅲ遺跡FⅡ9号竪穴住居跡出土一括土器、前田遺跡1号竪穴住居3層出土資料などに見られるように、入組文土器群における括れを持つ装飾深鉢を基調とする器種構成、「入組文」を主体とする斉一性な装飾体系が崩壊し、深鉢A1類を主体とする器種構成、「複雑な入組三叉文を基調とする新たな装飾体系が形成され、大きな変革の様相が窺える。そして、この新たな器種構成と装飾体系、施文手法の分析を行った小井川和夫は、この土器群の器種構成装飾衣装に見られる後期的な様相に目をむけ、この土器群を後期終末に位置づけた。小井川の指摘するように、台囲2群土器に見られる装飾深鉢A5類、大型注口土器、あるいは壷などの器形には後期入組文土器群との共通性、系統性がなお強く窺える。しかし、既に触れたように、後期入組文土器群に見られた装飾深鉢は、その使用頻度が低下し、主体となる器種は深鉢A1類に交替する。また、入組文の意匠構成も変化し、後期的装飾体系が崩壊したと見られる。更に、この時期に新たに出現する要素は、いずれも後続する晩期1b期、更に2期縄文土器の器種、装飾大系に基本的に受けつがれるものである。このような過渡的特徴の内、晩期に結びつく諸特徴に目を向けると、この土器型式を晩期の最古段階に位置づけるのが妥当と考えられる。

東京大学総合研究資料館に保管されている長谷部言人と山内清男の調査した大洞貝塚B地点出土資料を検討すると、大洞B2式土器とともに中沢目貝塚Ⅳ群土器と共通する壷、深鉢破片が含まれている(須藤1992a)。これ等の大洞地点出土土器群の一部、更に山内によって大洞B1式として示された『日本原始美術』1の掲載資料が、大洞B式を理解する重要な手掛りである。この資料と比較すると、是まで抽出した後期から晩期への過渡的性格の強い晩期1a期の土器群は、山内の設定した「大洞B1式」に相当すると考えられる。

この東北地方晩期初頭の土器型式は、広い範囲で強い斉一性を確立するが、阿武隈川上流域や那賀川流域を越え、関東地方東部や北部に波及し、在地の晩期縄文土器に強い影響を及ぼす。更にこの時期の土器は、北陸や中部高地を越え、滋賀県、奈良県、大阪府など近畿地方まで及んでいる(須藤1994)。

山内は、大洞式に相当する関東地方の土器型式として「安行3a式」の存在を指摘し、標式資料として小豆沢の装飾深鉢(A5類、第11519)、調子市余山貝塚、茨城県稲敷郡東村福田貝塚出土の注口土器を掲げている(山内1941)。これ等の装飾深鉢と注口土器の型式的特徴は、東北地方の1a期の土器型式に一致する。

かってこの「安行3a式」について、早川智明が、安行2式と3a式の同時期説を提唱した(早川1965)。この問題提起に端を発し、この時期の調査研究が積極的に進められるようになった。註) そして、金子裕之は、茨城県広畑遺跡出土資料の分析によってこの「安行3a式土器」の実態を明らかにし(金子1979、)その位置づけをほぼ確定した。この安行3a式土器は、広畑貝塚では、Aトレンチで層位的に、Bトレンチでは一括して抽出され、この器種構成、これに共伴する「亀ヶ岡系」の土器群(金子前掲第21352254)が明確にされた。亀ヶ岡系土器には東北地方の晩期1a期土器群と共通した型式的特徴を有するものと1b期の土器型式に類似するものとが見られる。この層位的資料によって、東北地方の大洞B式期の土器型式と、関東地方の「安行3a式」の一部との並行関係を検証された。更に、この「安行3a式」に付いては、近年、東北地方の晩期1a期に平行する土器型式とともに、次章で触れる晩期1b期に平行する新段階の「安行3a式」が存在することが指摘されている(埼玉県考古学会1992)。今後、これ等の縄文土器の型式内容をより明確に把握することが、両地方の文化的、社会的な交流を究明するうえで重要と考える。


4)晩期1b期の土器型式

a 亀ヶ岡式土器の確立 晩期1b期には、先行する1a期に見られた入組文土器群の伝統的要素が略完全に払拭され、「亀ヶ岡式土器」と呼ばれる晩期前葉の基本的な器種構成や器形、装飾、調整手法、意匠体系が確立する。土器の形態を見ると、この時期に1a期の器種を基盤として夫々に著しく定型化した多様な器形が出現する。その内容は、中沢目貝塚Ⅲ群土器や田柄貝塚Ⅷ群土器(藤沼他1986)によく窺える。中沢目貝塚Ⅲ群土器では、粗製深鉢A1b類が主体となり、口縁部に無文帯の巡る装飾深鉢A1a類や入組三叉文が施される装飾小型深鉢A1s類、装飾鉢B1類、台付鉢B1h類、Ⅹ字文の展開する高杯C1p類、壷、注口土器といった精製土器が共伴し、複雑な器種構成が成立する。田柄貝塚Ⅷ群土器では、このような器種の他に入組三叉文の巡る装飾深鉢A1a類、深鉢A2類、鉢B2類、台付鉢B3b類、台付浅鉢Ch類、C31h類、浅鉢C3類、台付浅鉢C1h類など、精巧な作りの装飾土器が加わる。また、注口土器にはF1類とF2類の2つの類型が発達する。

この晩期1b期の土器組成は、中沢目貝塚Ⅲ群土器では、抽出できた資料142点の内、深鉢A1類が71.1%を占める。ことに粗製土器A1b類が多く、全体の60.6%に達する。鉢B類、浅鉢、皿はそれぞれ5,6,155,1.4%占め、浅鉢、台付浅鉢、高杯、壷、注口土器などの装飾土器は、比較的低い組成率にとどまるが、夫々の器形が著しい定型化をみせて入る。この晩期1b期における粗製深鉢の発達と精製土器の多様化は、後期入組文土器群との大きな相違点であり、1b期を含め、晩期前葉の特色ともいえる。

1b期には、1a期の渦巻文土器群、魚眼状三叉文そして入組文から派生した複雑で多彩な意匠にそって、「入組三叉文」を基調とする意匠が確立する。この入組三叉文は、単純な構成では有るが、微妙な変異を持ち、30種に上る類型が派生して入る(第13図)。また、この入組三叉文に付随的装飾要素が加わり、Z字文d3類やⅩ字文といった複雑で華麗な意匠を生み出す。異に入組三叉文の上下に短弧線やC字文がくわえらた文様c8類(第115ず28)がこの時期の主要な装飾意匠の一つとなる。この意匠は、Z字文d3類とも類似する。また、文様帯の区画線が欠けるなど若干の相違点が見られるものの、羊歯状文と基本的に共通した構成をとる。その類似性からこの文様を「羊歯状文の祖形」と捉えられることが可能である。

このように、1b期には、後期最終末から晩期1a期の過渡期な時期を経て後期的要素を略完全に失い、晩期的様相が確立する。そして、この器種構成や意匠、装飾手法、製作技術の基本構造が次の晩期2期の土器型式へと受け継がれ、その基盤を構成することになる。

このような中沢目貝塚Ⅲ群土器や田柄貝塚Ⅷ群土器と共通した特徴を持つ土器型式が、沼津貝塚、宮戸島台囲貝塚、摺萩遺跡の67b~72層、東裏遺跡、小田遺跡、大洞貝塚、館貝塚など、北上山系の中央部を東流する閉伊川流域以南の三陸海岸や北上山系、北上川中・下流域、仙台湾沿岸にかけての東北地方の中部太平洋側に広く分布する。この土器型式が山内清男は設定した「大洞B2式」に相当すると見られる。ことに田柄貝塚Ⅷ群土器は、大洞B地点出土土器群(須藤1992a1920)との共通性が強く、大洞B2式の型式を理解するうえで重要な基準資料といえる。

 田柄貝塚Ⅷ群土器は、田柄貝塚のⅡ―2層から出土した土器群で、層位的に一括性の確かめられた資料である(藤沼他前掲)。この土器群は、入組三叉文の施された土器が主体で、羊歯状文の祖形(c8類)や、Z字文(d3類)、平行線間刻目(b1類、b2類)の施された装飾鉢が共伴する。しかし、後続の中沢目貝塚Ⅱ群土器で盛行する羊歯状文(d1d2類)は見られない。田柄貝塚Ⅷ群土器と中沢目貝塚Ⅲ群土器とを比較すると、田柄貝塚Ⅷ群土器にはより多数な入組三叉文が用いられている。ことにc2、3類が目に付く。一方、中沢目貝塚Ⅲ群土器では入組三叉文c23類の施された土器が欠け、横に連接する入組三叉文c5類の施された鉢A1s類が目に付く。このように装飾の点では田柄貝塚Ⅷ群土器と微妙な相違が認められる。この相違は中沢目貝塚Ⅲ群土器と田柄貝塚Ⅷ群土器との1b期に置ける微妙な時間的ズレによると考えられ、田柄貝塚Ⅷ群土器が大洞B2式の典型と見られ、中沢目貝塚Ⅲ群土器がより古い様相を呈しているといえる。

 また、摺萩遺跡では67b層から72層にかけて1b期の土器群が出土している。このうち、7171a71b72層出土土器には、中沢目貝塚Ⅲ群土器と同様に、横に連接する入組三叉文c5類が目に付き、c23類は認められない、また、入組三叉文に磨消縄文手法や細刻線の充填押曳き手法が用いられた深鉢A1a類が出土している。後者に付いては、1a期の型式的特徴が認められ、中沢目貝塚においてⅣ群土器に共伴することから、古い様相が1b期までのこされていたものと判断される。一方、67b層から70層では、入組三叉文c2類の展開する小型深鉢A1s類、鉢B1類、台付浅鉢C1h類とが目に付く。このように下層の7172層出土土器は、1b期の土器型式としては古い様相を示し、中沢目貝塚Ⅲ群土器と共通した型式内容を抱えている。台囲貝塚1群土器(小井川1980)がこれと共通した様相を持つ資料である。一方、上層では田柄貝塚Ⅷ群土器に類似した土器が含まれており、1b期におけるより新しい様相を示している。中沢目貝塚、摺萩遺跡、台囲貝塚から出土した資料におけるこのような層位的関係から。1b期の大洞B2式土器を、1a期との類似性の強い古い段階の土器群と、より新しい段階の土器群と区分することが可能である。即ち、中沢目貝塚Ⅲ群土器と摺萩遺跡67~71層出土土器群は、1b期のより古い段階に属する。他方、田柄貝塚Ⅷ群土器、沼津貝塚第2アサリ層出土土器群(須藤1984)などは、晩期1b期のより新しい段階にあると見られる。このように1b期における型式変化に付いては、今後、その実態をより明確に把握する必要があろう。

なお、後期終末に盛行し、晩期1a期にも存続した口頚部が緩やかに外湾する装飾深鉢A5類は、1b期になると姿を消す。そしてこの装飾深鉢にそって、強く外反する口縁部を持つ装飾深鉢A2類やA3類、装飾鉢B2類、B3類が出現する。しかし、これ等の装飾土器の組成率は、後期入組文土器群の装飾深鉢に比べると著しく低下する。また、1b期には器形の大きな変化とともに、新たな装飾体系と製作技術の確立が見られる。小型深鉢A1s類やB1類などがこの時期に盛行する装飾土器である。異に、A1s類が1b期の主要な装飾土器となる。この類型は口径と高さの比率が11に近く、装飾深鉢A1類の小型土器といえる。この小型装飾土器A1s類が更に浅くなり、体部の湾曲の度合いの強くなった鉢がB1類である。

この1b期の装飾土器の意匠として、入組三叉文の変異類型や「羊歯状文の祖形」(c8類)、Z字文(d3類)、K字文、Ⅹ字文、C字文が用いられる。一方、羊歯状文d1類、d2類は、1b期の中沢目貝塚Ⅲ群土器、摺萩遺跡67~7172層出土土器群、田柄貝塚Ⅱー2層出土のⅧ群土器には認められない。この羊歯状文d1d2類は、2期なって装飾土器の主要な意匠となるが、中沢目貝塚Ⅱ群土器では、より下層から出土した土器群にd2類の出現頻度が高い。この2期における羊歯状文の層位的変化から、咬み合わない羊歯状文d2類が、羊歯状文d1類の祖形と見られるc8類とともに、既に1b期の新段階の文様帯を飾っていた可能性が指摘される。

このほかに1b期の装飾土器としては精巧な作りの台付鉢Bh類や高杯C1p類、台付浅鉢C1h類が出現する。台付鉢B3h類は、田柄貝塚Ⅱ―1層や東浦遺跡から出土している。この装飾土器は定型的で装飾的な台付土器である。口頚部がゆるやかに外湾し、つよく膨らむ比較的浅い体部を持ち、台の付け根に特徴的な膨らみを持つ。裾部には軽く外反する。口縁部には31対、あるいは21対の突起が8個程配され、口頚部と体部Ⅱ夫々入組三叉文「羊歯状文の祖形」c8類が盛んに用いられる。頚部と肩部の屈曲部には結節沈線が1条巡り、文様帯を区画する。この結節沈線、あるいは列点文は、後期入組文土器における貼り瘤を持つ区画線に系譜付けられる伝統的要素であり、1a期に成立し、この時期にも見られる。なお、この精巧な台付鉢B3h類は、曲田Ⅰ、前田、八幡、是川遺跡等で出土しており、東北北部に広く分布する。一方、中沢目貝塚では緩やかに内湾する杯部と太い脚部をもち、Ⅹ字文が展開する装飾的な高杯Cp類が出土している。このように高杯には強い地域性が見られる。摺萩遺跡では、67b層から、ゆるやかに外湾する口縁部に左下がりの入組三叉文(c2類)の展開する台付浅鉢C1p類が出土している。この高杯は、入組三叉文と入組三叉文の間に斜線がくわわっている。その意匠構成から、後期終末や1a期の魚眼状三叉文の展開する高杯に系統付けることが出来る。更にこの高杯は、2期の高杯C1p類への発展すると理解される。このように、北上川下流域において地域性の強い土器類型が成立する。

1b期の壷は多様である。そしてこの壷にはしばしばし渦巻文、Ⅹ字文など磨消縄文手法を伴う華麗な装飾が展開する。ことに装飾壷E7類は内湾する口縁部と内傾する頚部をもち、頚部の付け根が軽く膨らむのを特徴とする。この膨らみには、高杯や台付鉢の台部付け根の隆帯と共通した製作手法が窺える。高さ40㎝程あり、体部が球形を呈する大型装飾土器である。体部には磨消縄文手法を伴う複雑な渦巻文、入組三叉文が展開し、頚部付け根の隆帯には入組三叉文が巡る。

この時期の注口土器は、著しい定型化を示し、F1F2類の2つの類型が発達する。F1類は、田柄貝塚Ⅱー2層、摺萩遺跡72層出土資料などに見られるように、袋状口縁の膨らみが強く頚部は比較的太く短い。肩部は強く張り出すが、体部下半から底部は丸みを持って膨らむ。1a期の注口土器に比べたい体部の形がやや偏平である。また、肩部の湾曲が強くなる。注口土器の装飾は、入組三叉文やⅩ字文や口縁部正面や注口部の左右に飾られ、頚部には刺突列や、Ⅹ字文が展開する。肩部にも入組三叉文やC字文を基調とする箆描文が施されるが、1a期に比べるとより装飾的になる。後述するように、曲田Ⅰ、是川、蒔前台、八幡遺跡等から出土する東北北部、の注口土器F1類と強い共通を持ち、広い範囲で斉一性が確立する。一方、F2類は立ち上がりが強く、長い口頚部をもつ。肩部、体部下半から底部にかけての形態はF1類と通する。装飾は、正面にⅩ字文が1単位施されるものから、F1類と同様に口頚部全体にⅩ字文やZ字文、羊歯状文の祖形(c8類)が展開するものが見られる。やはり1a期の注口土器にくらべるとより装飾的になる。中沢目貝塚Ⅲ群土器では、20a層から注口土器1点が出土している。この土器は、F2類と推定される。

このように、東北地方中部では1b期の注口土器は2つの類型が著しい定型化を見せる。ことに、F1類はこの時期になるとF2類と略同じよう程度に盛行する。また注口土器の形態は、それじれ1a期より扁平か、装飾はより複雑なものになる。してこの2つの基本類型が後続する晩期2期に受け継がれる。

この晩期1b期は、晩期縄文土器の確立期といえる。多様では有るが、きわめて定型化した器種類型とその組み合わせが東北地方の略全域に発達する。ことに粗製深鉢A1類の発達は、晩期縄文土器の特色といえる。一方で鉢、皿、台付鉢、壷、注口土器、香炉形土器などさまざまな形態の装飾土器が発達する。装飾として多様な変異を持つ入組三叉文、Z字文K字文、「羊歯状文の祖形」とも呼べる装飾衣装(c8類)など、斉一性の強い箆描文と入念な箆磨きによる磨消縄文手法が発達する。おそらく縄文時代を通じて精巧で複雑な構成の土器が製作され、土器製作に強い社会的規制が確立した時期といえる。このように1b期の土器型式が、基本的に次の2期以後の晩期縄文土器に発展する。

b 東北北部の1b期土器型式 このような1b期の亀ヶ岡式土器にはどのような地域性が見られるのであろうか。東北北部では青森県八戸市是川、八幡、三戸郡三戸町泉山、南津軽郡平賀町石郷、岩手県岩手郡安代町曲田Ⅰ、二戸郡一戸町蒔前台、玉山村前田遺跡といった大規模遺跡が入念に調査され、この時期の豊富な資料が得られ、その地域の理解が深められている。そのうち、馬淵川水系の八戸市八幡遺跡出土資料(工藤他1987)、安代町曲田Ⅰ遺跡E011竪穴住居跡出土土器群と北上川水系にある前田遺跡1号竪穴住居跡出土土器群とを比較検討することが出来た。

曲田Ⅰ遺跡は、馬淵川水系最上流域の新田川左岸に広がる丘陵裾部にある。198081年に岩手県埋蔵文化財センターが調査を行った(鈴木他1985)。その結果、東西100m南北50m程の緩斜面に後期末から晩期中葉の竪穴住居跡がおよそ60棟検出された。後期終末の住居跡が2棟、晩期13棟、24棟、中葉の3期の住居跡が5棟確認されており、この集落は後期終末から晩期中葉にかけて営まれ、晩期前葉にも共発展を遂げたことが窺える。また、FⅢ116号、H012号、E011号竪穴住居跡などの住居跡から豊富な晩期前葉の縄文土器が出土した。ことに直径6m、深さ50㎝程のE011号竪穴住居跡では、多量の1b期縄文土器が出土している。161個体分の土器が報告書に掲載されているが、そのうち109点(67.7%)が入組三叉文を持つ土器である。一方、羊歯状文や刻め目帯の土器は49点(30.4%)にとどまる。入組三叉文c2類の展開する深鉢、台付鉢、浅鉢などの割合が極めて高く、1b期の縄文土器が主体になっていると推定される。また、注口土器にはF1類、F2類が見られる。2期と推定される注口土器(鈴木他前掲第50272274)も僅かに出土しているが、晩期1期に位置づけられるもの(同図268269273275)が主体となる。

この一括資料で注目されるのは、羊歯状文の大部分が咬み合わない羊歯状文(d2類)である点、更に、入組三叉文と羊歯状文が併用された鉢C21類が1点(同図208a)出土していることである。この浅鉢の頚部文様帯に、咬み合わない羊歯状文(d2類)が8単位、体部文様帯に入組三叉文c2類が10単位展開し、2つの意匠が同一個体の土器に併用される。この資料によって咬み合わない羊歯状文(d2類)入組三叉文c2①類と併存し、同時性を持つことが裏付けられた。入組三叉文c2類が2期まで存続することは中沢目貝塚Ⅱ群土器において証明されているが、このE011号竪穴住居跡出土の資料では、その共伴関係から、この鉢が1b期に属する可能性が極めて高いと見られる。この一括資料に極めて僅かであるが、2期と見られる土器も含まれていることから、この鉢B2類を含めて羊歯状文d2類の施された土器が、晩期2期のより古い段階の土器群(大洞BC1式相当)に属し、1b期の土器群と混在したものと見られか、あるいは1b期のより新しい段階に属する土器で、羊歯状文d2類が1b期まで遡ると見るべきか、なお確定しがたいとことである。個々では、羊歯状文d2類が2期に先行する1b期に既に出現していた可能性が高いということを指摘しておくにとどめたい。

八戸市八幡遺跡の遺物包含層出土の資料には、深鉢A1類、A2類あるいはA3類、鉢B12.3類、台付鉢B123h類、台付浅鉢誌c3h類、壷、注口土器F1F2類など多数の器種類型が見られる。装飾深鉢A1a類には入組三叉文c2①類が盛んに展開し、更にc2⑤類、c2⑧類、弧線文とc4類など、複雑な意匠構成が展開する。装飾鉢B23類、台付鉢B3h類葉、口縁部に3つのふくらみを持つ低い山形突起、21対の貼付粘土粒などが施され、きわめて装飾的に仕上げられる。口縁部文様帯には入組三叉文c1①、②、③類が展開する。頚部荷は、結節沈線、列点文、平行線間刻み目などが巡り、体部上半の文様帯には入組三叉文、Ⅹ字文、曲線文、大腿骨文風な文様などさまざまな意匠が展開する。また、羊歯状文d1類はほどんと見られず、咬み合わない羊歯状文d2類が僅かであるが口頚部の長い浅鉢C3類、注口土器F2類、鉢B1類などに施される。

注口土器は北上川下流と同様にF12類型が出土しているが、袋状口縁を持つF1類が目に付く。

口縁部は大きく膨らみ、頚部は太く、略垂直に立ち上がる。肩部の膨らみが強い点が特徴である。北上川下流のF1類の器形、装飾の要素と略共通するが、装飾要素の組み合わせなどこに地域的な相違が窺える。

このような型式内容から、この土器群は晩期1bきに位置づけることが出来る。また、八幡遺跡の調査では、包含層の上下の層位的関係に注意を払っているが、土器型式の内容には差が見られず、これ等の土器群の大半を1b期に位置づけることが出来る。

この土器群を曲田Ⅰ遺跡E011号竪穴住居出土土器群と比較すると、多くの点で共通した様相が認められるが、鉢B33h類などに出現頻度の相違が見られる。この2遺跡間の相違は、時間的なずれというより地域差である可能性が強い。

前田遺跡では、1号竪穴住居跡の覆土2層と1b層から1b期土器群が2期の土器群とともに多量に出土した。器種には深鉢A1類、装飾鉢A1s類、B1類、台付鉢B3h類、注口土器などが見られる。この資料では、装飾深鉢A1a類の口縁部文様帯に入組三叉文c2類が盛んに施される。また、Ⅱ層から羊歯状文d2類の展開する深鉢A1a類がわずかに出土している。

東北北部に分布する1b期土器群に器種構成、器形、装飾体系には、北上川下流域から三陸沿岸にかけての東北中部太平洋側地域に分布する大洞B2式土器との間に多くの共通点が見られる。ことに装飾鉢B1類、注口土器F1F2類、壷などは、両地域で強い共通性が窺える。一方、装飾深鉢A1a類の装飾方法や、台付鉢B1h類、台付浅鉢C1h類、高杯C1p類など器形と装飾に地域的な相違が強く現れている。そして、1a期に比べ、1b期には地域差が寄り鮮明になるといえる。

このように3遺跡の資料においていずれもその器種構成は、深鉢A1類、装飾鉢A1s類、B1B3類、台付鉢、台付浅鉢C1h類、壷、注口土器F1F2類を基調とし、装飾では多様な入組三叉文c2類を主体とし、羊歯状文の祖形c8類と僅かに羊歯状文d2類が共伴する。

このように土器型式のあり方は芹沢の設定した雨滝式土器のうち、より古い段階に位置づけることが出来る。芹沢は、昭和28年の調査では上層のⅠ層とⅡ層、Ⅲ層から大洞BC式が出土し、下層のⅣ層とⅤ層からは、大洞B式とBC式の中間的な土器型式が得られたと指摘している(芹沢1963)。この下層の土器群の実態は明らかでないが、その後、芹沢は『石器時代に日本』(1960)において、雨滝遺跡出土資料を一括し、「雨滝式期」として一時期の土器型式として捉えた。芹沢がこの雨滝式の基準資料とした資料は、雨滝遺跡から出土した10点ほどの土器である。これ等に資料には山内の設定した「大洞B1式」「大洞B2式」に相当する土器群や「大洞BC式」に相当する土器群が含まれている。芹沢は、この雨滝式の中で下層の土器群と上層の土器群でZ字文など意匠に型式変化があることを指摘している。雨滝式の古段階と新段階の具体的内容は明らかにされておらず、今後の解明を待たなければならないが、是までに触れた1b期土器群は、雨滝式の古段階に当たり、2期に土器型式が、雨滝式の新段階に相当すると考えられる。1b期には、入組三叉文とともに、出現頻度は低いものの、羊歯状文d2類と、羊歯状文d1類の祖形c8類がすでに出現していると見られる。更に、その器種構成と装飾体系は、晩期2期の土器型式へと漸移的に発展する。このように、晩期前葉の1b期から2期にかけて、土器の装飾体系は、この地方でも東北地方中部と同様に、羊歯状文と入組三叉文が平行して変化していくと見られる。しかし、今後雨滝遺跡出土資料の検討をも含め、この地域における層位的資料を確保して1b期から2期への型式変化の入念な分析が必要である。また、東北地方中部の「大洞B2式」と「大洞BC2式、大洞BC1式」、大洞BC2式」の検討もあわせて必要であろう。

5)晩期2期の土器型式 晩期2期になると、晩期1b期で成立した「亀ヶ岡式土器」の器種構成と装飾、技術体刑が漸移的な変化を遂げ、一層複雑な様相を生み出す。また、この2期は、1b期に引き続いて東北地方の晩期縄文土器の器種構成と技術体系がより安定した様相を確立する時期ということが出来る。2期の土器の類型はより多様化する。一方で夫々の器形の定型化が進む。また器種によって相違はあるものの、全般的に地域差がより鮮明になる。中沢目貝塚Ⅱ群土器では、装飾深鉢A1a類と高杯C1p類の地域色がことに明瞭になる。これらの器種類型は、主に北上川下流域に分布し、北上川上流域や馬淵川流域、岩木川流域などとは異なった様相を示す。しかし一方で、装飾鉢B1類やB31類、壷、注口土器などに見られるように、広い地域で共通性の強い器種類型が確立する。このような様相は次の3期になると一層明確になる。

中沢目貝塚野48枚に登る堆積層から出土したⅡ郡土器の器形と装飾・製作技術には、複雑ではあるが強い斉一性が認められる。このⅡ群土器では、深鉢、鉢、浅鉢、高杯、皿、壷、注口土器、香炉形土器など多様な器種が発達する。この器種構成は、晩期1b期の中沢目貝塚Ⅲ群土器と基本的に共通し、1b期から2期への強い系統性が窺える。そして、深鉢や鉢、高杯など主要な器種の組成率は各層で大きな変化が見られず、安定した様相を示す。ことに深鉢は、括れのないA1類が主体で、出土資料数776個体の内、64%、層別に見ると57~71%を占める。このような土器組成は晩期1a期や1b期の土器組成と大きな違いは見られず、晩期前葉に土器の使用方法と使用頻度、消費率に共通した様相が確立したことをうかがわせる。

中沢目貝塚にⅡ群土器の精製土器は、Ⅲ群土器より組成率が増大する。この精製土器には鉢、浅鉢、高杯、壷、注口土器など多様な器形みられる。異に壷が形態変化に富み、鉢が是に次ぐ、そして、鉢や高杯、注口土器では、定型化が進み、形態と装飾の斉一性が顕著になる。装飾鉢B1類の組成率は、2~13%、全体で10%前後占め、精製土器としては、かなり高い出現率を示す。高杯も数量は少ないが各層で4~7%の安定した出現頻度を示している。壷は比較的少なく、5%程度を占めるに過ぎない。中沢目貝塚では、この時期に注口土器の使用頻度が比較的高く、4%前後あり、壷と同じ程度の出現率を示している。

これらの精製土器の内、高杯はことに地域差が明確に現れている。中沢目貝塚Ⅱ群土器では、その形態にCp類、C1p22つの類型が見られる。下層では口縁部が緩やかに内湾するC1p2類が出土氏、上層では口縁部に稜を持つC1p類に変化する。この層位的な関係から、この形態の高杯が口縁部に微妙な型式変化を見せながら一貫して作られ続けたことが明らかにされた。そして幅の狭い口縁部文様帯には入組三叉文、体部の中位には2条の平行線が巡り、全面に入念な箆磨きが行われるとうい装飾手法の定型化が確立する。台の付け根に突帯が巡り、入組三叉文の変異類型と透かし孔が施される。台柱状部には入組三叉文が複雑に配され、文様葉相互に連結し、透かし孔が加えられ、華麗な唐草文のような装飾が展開する。このように極めて装飾的な高杯であり、その器形と文様構成に著しい定型化が確立する。

摺萩遺跡では、67b層から口縁部の緩やかに内湾した台付浅鉢C1h類、あるいは高杯C1p類の杯部が出土している(進藤他1990629)。この1b期に属する土器の口縁部には。右下がりの入組三叉文c2類と斜線1条が交互に4単位施され、体部下位に1条の沈線が巡る。この口縁部文様は沼津貝塚出土の1a期小型台付浅鉢の入組三叉文と類似する。器形は1a期の魚眼状三叉文や入組三叉文の巡る台付浅鉢や高杯、あるいは2期の入組三叉文の展開する高杯Cp類と強い共通性を持つ。このように2期の高杯は、1b期の高杯、更に遡って1a期の台付浅鉢や高杯に系譜付けられる器形であり、この地域独特の伝統的な装飾土器ということが出来る。

この高杯C1pC1p2類は、長根貝塚、恵比須田遺跡、館貝塚、中神遺跡、南境貝塚などから出土しており、主として北上川下流域と迫川領域の湖沼地帯にひろがる。その分布は、径60㎞程の比較的狭い範囲に限られている。このように、北上川下流域では晩期1a期、1b期、晩期2期の高杯に強い系統的推移が認められる。また、装飾深鉢A1a類と同様な狭い分布圏を示してい折、土器型式の地域色がより鮮明になる。一方、装飾鉢B1類や注口土器F1類、F2類は、東北地方北部と共通した器形と装飾がみられ、東北地方全体で強い共通性を示す。このように土器に分布圏、地域差はより複雑になり、器種や器形によって著しく異なった広がりを示すようになる。

2期の装飾体系は、中沢目貝塚Ⅱ群土器に見られるように、1b期の中沢目貝塚Ⅲ郡土器や田柄貝塚Ⅷ群土器と比較すると、一段と多様で複雑な意匠構成を示すようになる。このⅡ群土器の装飾では基本的に入組三叉文と羊歯状文、Z字文の3つの装飾要素が併存する。異に入組三叉文は、晩期1b期から2期に確実に踏襲され、高杯C1pC1p2類など特定の器種の特定の部位に限定的に用入られるよいうになる。中沢目貝塚Ⅱ群土器の分析によって、芹沢が「雨滝式」の設定に際して指摘したよいうに、山内が「大洞BC式」とした晩期2期土器群に確実に羊歯状文d1d2類と入組三叉文c2①類、c3467類が共伴することが確認された。更に、2期には器種と文様の対応関係がより画一化すること、また、入組三叉文ではc2①類が主体となり、c5類など1b期に盛んに見られた入組三叉文はこの時期には姿を消し、1b期と2期の間で漸移的な変化が伺えることなどが明らかにされた。

したがって、「入組三叉文」を、晩期1b期のみの型式標式に限定することは誤りである。晩期1a期に「魚眼状三叉文、「玉抱三叉文」などとともに成立し、この意匠が1b期から2期にかけて微妙な型式変化と使用頻度の変化を伴ながら、なお重要な装飾要素として使用され続けると理解すべきである。また、東北地方中部では沼津貝塚出土資料に見られるように、Z字文も1b期から2期にかけて存続する。このことも芹沢の指摘した雨滝式のあり方を裏付けている。

また、羊歯状文に付いては既に述べたように1b期に「咬み合わない羊歯状文」(d2類)が出現している可能性が高い。d1類に付いては、1b期にはほとんど見られず、Z字文や羊歯状文の祖形(c8類)が是に先行して盛行したと考えられる。八幡遺跡では、1b期土器群に羊歯状文d1類の展開する装飾鉢C21類が出土している。そして、2期になるとこれ等2つの類型が羊歯状文d1d2類へと発展し、盛行する。

「羊歯状文」は、Z字文とともに、沈線で区画され、入念に箆磨きされた浮文部分が意匠として捉えられるが、その文様構成の基調は、箆描沈線による入組三叉文である。是にC字文や弧線文、短刻線などの文様要素が加えられ、文様が構成される。この羊歯状文には、多数の変異が見られるが、意匠が左下がりに展開する「咬み合う羊歯状文」(d1類)と、右下がりで「咬みあわない羊歯状文」(d2類)が最も基本的な類型である。この2つの羊歯状文は、中沢目貝塚で層位的にその出現率が変化する。即ち、多くの堆積層でd1類、d2類にd5類がくわわり、羊歯状文の平行線化が進む。現在のところ、中沢目貝塚や田柄貝塚では1b期に羊歯状文d1d2類は確認されておらず羊歯状文が2期以前、1b期の当初まで遡るかかも否なかも明らかでない。しかし、入組三叉文に上下にC字文や弧線文、短刻線が加えられた「羊歯状文の祖形」(c8類)やZ字文が1b期に出現しており、是が羊歯状文d1類が成立する基盤となると考えられる。

一方、北上川上流域の前田遺跡、馬淵川流域の曲田Ⅰ遺跡、八幡遺跡出土資料では、既に指摘したように、「咬み合わない羊歯状文」(d2類)が1b期に出現していた可能性が高

い。ことに曲田Ⅰ遺跡E011竪穴住居跡出土土器群は1b期の土器が主体であるが、羊歯状文の土器を共伴している。その文様には「咬み合わない羊歯状文」が多くみられ、また、入組三叉文と羊歯状文d2類が同一個体に併用されている鉢C21類が出土している。頚部文様帯に咬み合わない羊歯状文d28単位、体部文様帯に入組三叉文c210単位が展開する。また、八幡遺跡の包含層から、羊歯状文d1類に酷似した入組三叉文の変異類型が展開する装飾鉢C21類(工藤他19871860)が1点出土してる。この土器の口縁部突起と頚部の結節沈線は1b期の装飾要素であり、この装飾鉢は1b期に属すると判断される。したがって、羊歯状文d1類の祖形は東北北部では晩期1b期に既に出現していた可能性が極めて高いと見られる。

このように、羊歯状文(d1d2類)はZ字文とともに鉢B1、B2、B3、浅鉢C2C3類、壷、注口土器F1、F2類など2期のさまざまな精製土器に施される。ことに鉢B1類の口縁部文様帯は極めて斉一化した装飾構成が確立する。鉢B1の場合、口縁部文様帯には、刻み目と弧線によって構成される羊歯状文的な口縁部装飾B類と沈線1条が巡り、口縁部文様帯には羊歯状文d12類が1段展開する。更に文様帯下限には2条か3条の平行線が

施される。この定型化した装飾をもつ鉢B1類は広く東北地方全域に分布するが、北陸地方の東部や関東地方北部、東部にも搬入され、夫々の地方の晩期縄文土器に強い影響を与える。

一方、装飾鉢A1類の口縁部装飾は、強い地域色を示す。中沢目貝塚Ⅱ群土器の装飾深鉢A1a類P40(須藤編19846図版11)は、この北上川下流域湖沼地帯の代表的な装飾深鉢である。この深鉢では口縁部に低い山形突起D類と細かな刻み目が施される。そして、口縁部文様帯には平行線が3条巡り、突起の下に三叉文が加えられる。この装飾深鉢A1類は、出土土器群の63%を占める。晩期1b期の入組三叉文が展開する深鉢とは装飾方法が異なり、夫々の時期、地域特有の装飾深鉢が成立することになる。

2期の壷には、破片資料が多く、器形に復元は難しいが、形態の変異に富んでいる。装飾土器と縄文のみを施した粗製壷が見られる。装飾には、入組三叉文を基調とする渦巻文やⅩ字文などの曲線文が発達し、磨消縄文手法が盛んに行われ、入念な作りとなる。朱塗り土器も豊富である。

注口土器は2期に一層定型化する。晩期1b期の注口土器を踏襲し、袋状口縁を持つ3

段作りのF1類と、2段作りのF2類の2つの器形が発達する。そして、この2類型には夫々広い地域で斉一性的な装飾が確立する。中沢目貝塚Ⅱ群土器ではF1、F2類が略同数出土するが、下層では袋状口縁を持たないF2類がより多く出土している。田柄貝塚Ⅱ―2層から出土した1b期のⅧ郡土器においても、資料は少ないが、F1類が3点出土しているのに対してF2類が7点見られ、F2類が卓越する傾向が窺える。このように1b期から2期にかけて、東北地方の中部で2段作りの注口土器F2類がより高い出現頻度を示している。この傾向は1a期にも認められる。

2期の注口土器の装飾には、羊歯状文d1類、d2類、Z字文d3類が見られる、更に、下層では渦巻文g1g類がしばしばF2類の頚部文様帯に展開し、その意匠構成は多様で複雑である。岩手県石鳥谷町手代森遺跡では2期に属すると推定される注口土器F1類が14F2類が10点出土しており、出現率に差異は見られなくなる。また、東裏遺跡ではやはり1b期の注口土器とともに、2期の渦巻文g1、2類の施された注口土器F2類が出土している。この注口土器は、中沢目貝塚出土資料と極めてよく共通しており、注口土器の地域色は比較的乏しく、鉢B1類などと同様に広い領域で共通性が認められる。

このように、晩期2期に北上川下流域、仙台湾沿岸、三陸海岸南部もかけて、斉一性の強い土器型式が成立する。中沢目貝塚Ⅱ群土器の型式内容と、長根、東浦、手代森、前田、曲田Ⅰ、泉山、雨滝、是川、藤株遺跡等、各地の晩期2期の遺跡から出土した資料を比較すると、北上川下流域、中流域、上流域等馬淵川流域、岩木川流域、米代川流域といった地域に微妙な地域色が成立し、その時期に土器型式の分泌圏が一層明確になる。このような地域色は、夫々の地域に於ける後期後半の入組文土器群の地域圏を基盤として、1a期、1b期を経て発展してきたものである。そして、晩期1b期の器種構成、装飾体系の基本構造を基盤として2期の土器型式が成立する。他方、夫々の地域で成立した要素が広く他地域に受容され、これ等の地域を越えて、共通した様相を生み出す。更にこれ等の土器型式の器種構成と装飾体系は、後続する晩期3期の大洞C1式へと受け継がれていく。

1a期から1b期への変化と比較すると、1b期から2期への推移は著しく漸移的であり、つよい系統性が認められる。後期終末の土器作りとその器種構成は、晩期初頭の1a期に大きく変貌する。この過渡的を経て、次の1b期には新たな技術体系と器種構成が確立する。そしてこの土器型式は、次の2期へと発展を遂げ、「亀ヶ岡式土器」が確立する。

この晩期2期の土器型式は、山内が設定した「大洞BC式」をその中に含んでいる。山内は大洞BC式を12式に細分する試みをこなったが、中沢目Ⅱ群土器では高杯C1p類と深鉢A1a類などに微妙な型式変化が見られる程度で、その器種構成と装飾体系は基本的に共通しており、明確に古、新段階に区分することの出来るほどの差は認められなかった。  

このような内容を持つ中沢目貝塚Ⅱ群土器葉、北上川最上流域・馬淵川流域に分布する「雨滝式」の新段階に当たる。曲田Ⅰ遺跡E011竪穴住居跡出土の1b期土器群や田柄貝塚から出土した1b期のⅧ群土器が雨滝式の古段階に当たると考えられる。

 

 6) ま と め

a 後期入組文土器群から亀ヶ岡式土器への型式変遷

中沢目貝塚から層位的に捉えたⅡ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ群土器の型式内容の検討によって、東北地方中部の北上川下流域の置ける後期後半から晩期前葉への土器型式の変遷が明らかにされた。このような型式推移の把握は、本研究の大きな成果といえる。

後期後半の入組文土器群は、装飾土器の占める比率が著しく高い、深鉢や鉢、台付鉢、高杯、壷、注口土器などあらゆる器種に盛んに装飾が施される。ことに、宮戸Ⅲab式期の深鉢には、箆描の入組文と貼瘤の装飾が目覚しい発達を遂げる。この入組文土器型式は、中沢目貝塚Ⅳ群土器の晩期1a期になると、大きな変化を見せる。この時期の変化は、次のような点が重要である。

① 土器組成が大きく変化する。即ち1a期になると、後期後半に高い頻度で見られた体部に括れをもつ装飾深鉢A5類が著しく減少する。一方、括れのない深鉢A1類が増大し、粗製深鉢が主体を占めるようになる。体部中央がゆるやかに括れる深鉢は僅かに存続するものの、口径に対して器高が小さくなり、寧ろ鉢形土器に近い器形となる。1a期の器種は、この括れない深鉢とともに鉢、皿、台付鉢あるいは高杯、壷、注口土器、香炉形土器などで構成される。その器種には、後期後半から受け継がれたものもすくなからず含まれて入る。しかし、新たな器形が出現し、土器使用傾向に大きな変化が生ずる。後期後半では、粗製深鉢gが50%前後にとどまり、装飾深鉢が多く、土器組成の40~50%を占める。是に対して、晩期1a期になると、粗製深鉢が60~70%を占める様になり、その組成率きわめて高いものとなる。

② 1a期の装飾深鉢出は、後期に盛行した山形突起は見られなくなり、やや幅広な大型突起に変化する。また、山形突起の単位数も変化し、後期では468個が一般的であるが、晩期1a期デハ是が崩れ、57個など、奇数個のものも目に付くようになる。1a期の深鉢の口縁部装飾の主体は、箆押圧、刻み目による低い小波状口縁である。また、鉢、浅鉢、台付鉢などでは、大型の突起を1個飾るモノガ見られ、正面性のある装飾土器が出現する。

③ 後期後半の土器は、口縁部が肥厚する傾向が強い。しかし、1a期になると、土器の口縁部端部が肥厚する傾向は見られなくなる。この後期から晩期への変化はきわめて特徴的である。

④ 後期後半の装飾深鉢には入組文が発達する。1a期になると装飾深鉢A4類、A1類鉢B4類などにこの系統の文様が用いられるが、その入組文の意匠構成は大きく崩れる。そして、大きく変化した入組文や渦巻文などが複雑に結びつき、新たな意匠が発達する。後期的意匠体系の崩壊である。

⑤ 1a期に入組三叉文、玉抱き三叉文、魚眼状三叉文、渦巻文といった新たな意匠が発達する。こられの意匠は、後期の入組文を基盤とする意匠体系とは異なり、晩期の意匠体系の基盤が成立する。後期から晩期への過渡的意匠体系の成立といえる。

⑥ 後期終末の宮戸Ⅲb式期の装飾深鉢に盛行する細刻線充填手法は、1a期ではほとんど見られなくなる。

⑦ 1a期では、装飾深鉢の口縁部に展開する複雑な箆描文に縄文が充填され、入念な箆磨きが施される。この徹底した箆磨き手法は、後期入組文土器と異なっており、晩期前葉の磨消縄文手法に通ずる手法である。

⑧ 後期後半に、装飾深鉢の口頚部と体部の括れ部名は23条の平行線あるいは列点文が施され、その上に一定の間隔で粘土粒が貼りつけられる。この文様帯区画文は1a期になると瘤が消え、短刻線列あるいは列点文の加わる低い隆帯になる。この列点文は、晩期1b、2期まで踏襲される。

⑨ 縄文の施文方法に変化が見られる。後期後半の縄文幅12㎝の縄文がやや間隔を置いて帯状に施される。この帯状縄文の手法は1a期には略姿を消す。1a期に縄文は、東北北部では斜行縄文が盛行し、中部では羽状縄文が盛んになる。

⑩ 注口土器には、後期終末と異なった器形が新たに出現し、広く関東地方まで分布する。注口部付け根の低い突起、小さく突出する底部など、その形態には後期からの強い伝統が窺える。体部文様帯には渦巻文、変形入組文、魚眼状三叉文など新しい意匠が展開する。過渡的な様相の強い器種といえる。このように1a期の土器型式は、器形、装飾とも似後期から晩期への過渡的な様相を抱えている。

後期的様相が大きく崩れ、後続する晩期1b期(大洞B2式期)、2期に発達する器種、器形、入組三叉文を基調とする意匠、施文手法、異に磨消手法が発達し、晩期的傾向が芽生え、新たな様相を確立する。このような質的変化に目を向けると、この1a期は、晩期土器型式の萌芽期、形成期であり、この時期は「亀ヶ岡式土器」の成立期と捉えられることが出来る。

過渡的な晩期1a期を経て晩期1b期になると、「亀ヶ岡式土器」の器種構成と装飾体系、技術が確立する。この時期には、次のような様相が見られる。

① 晩期1b期には、粗製深鉢とともに、多様な形態の鉢、浅鉢、皿、台付鉢、高杯、片口土器、多様な壷、定型化の著しい注口土器、香炉形土器、稀に蓋など多彩な器種が発達し、晩期の基本的な器種構成が確立する。

② 深鉢で括れのない粗製深鉢が主体を占めるようになる。粗製の煮沸形態と装飾的な土器の区別が一層明確になる。精製土器の器形は多様化し、定型化する。

③ 土器組成では、装飾のない深鉢A1b類が60%を超し、土器組成の主体となる。この粗製深鉢は器面に残された加熱痕、付着炭化物などの使用痕跡跡から、主として煮沸のための土器と見られる。壷には、装飾的な類型が目に付くが、縄文施文のみのもの、無文のものも少なくない。他方、鉢、浅鉢、台付鉢、高杯、注口土器は極めて装飾的な様相を見せる。

④ 装飾意匠では、体部に展開するⅩ字文、Z字文、曲線文など、いずれの文様も入組三叉文や三叉文がその基軸となる。この基調文様にC字文、弧線文、刻み目 などの副次的要素が加えられ、華麗な装飾が展開する。そして、この基調文様である入組三叉文、晩期4期の大洞C2式期まで確実に受け継がれる(藤沼1989)。

晩期2期になると、1b期の器種構成、装飾体系、製作技術端きわめて漸移的に発展し、新たな土器型式が成立する。その土器型式の特徴は次のような内容を持つ。

① 器種構成は、1b期と共通するが、鉢、浅鉢、皿、壷など、精製土器がより多様化し、複雑になる。器種構成の基本的なあり方は、以後、晩期中葉まで漸移的な変化をかさねながら踏襲されていく。

② 土器組成は、粗製土器が6割前後を占め、安定した様相を示す。1b期から装飾土器の組成比が大きくなる。注口土器の組成比率も5%程度まで増大する。

③ 羊歯状文の展開する鉢B1類が発達し、広い領域で共通した様相を確立する。

④ 地域的の明確な器種類型として、装飾深鉢A1a類、高杯Cp類などが北上川下流域で発達する。

⑤ 多様な羊歯状文d1d2類、Z字文d3類やK字文が意匠体系の主体を占める。羊歯状文d2類が下層で増大する。

⑥ 入組三叉文、高杯C1p類のような限られた器種であるが、口縁部文様帯などに展開しており、2期にも存続する。

このように、東北地方の晩期初頭から前葉の縄文土器は、多様な機能を持つさまざまな器形によって構成される。また、中沢目貝塚出土Ⅳ群、Ⅲ群、Ⅱ群土器に見られるように、この時期の土器組成比率は略安定した様相を示し、共通した土器群の使用方法が確立する。このような器種構成の多様性と安定した土器組成のあり方は坪井清足が指摘するように、晩期縄文社会に於ける複雑に様式化された生活様式の確立(坪井1962)を示唆している。ことに、定型化した注口土器、あるいは、精製壷、装飾鉢は斉一性が見られ、南北300㎞を越す広大な範囲でその分布領域が確立する。複雑、華麗な装飾を持つ「亀ヶ岡式土器」は、このようない一貫した系統性を保ちながら推移する土器型式群である。

b 今 後 の 課 題  中沢目貝塚出土土器群についてさまざまな検討を加えてきた。その結果、晩期初頭から中葉にかけての土器型式の系統的な変遷と地域性の形成を明らかにすることが出来た。しかし、検討すべき課題が少なくない。ことに晩期1b期、即ち大洞B2式期の型式変遷と地域色に付いては中沢目貝塚Ⅲ群土器の資料ではなお相違や共通性の見られる資料についてその相互の関係、即ち1b期における土器型式推移の解明が残された重要な課題の一つである。

また、中沢目貝塚Ⅱ群土器において指摘された2期における型式変化、山内の設定した「大洞BC2式」との関係、Ⅱ群土器とⅢ群土器の間での型式変遷を明らかにするために、2期の古段階の層位的資料の確保が必要である。

一方、東北地方北部に於ける土器型式の変遷と地域性についても今後の検討を必要とする。雨滝式の設定の根底ある羊歯状文と入組三叉文の共存関係については、中沢目貝塚Ⅱ群土器の検討によって2期に付いてはその妥当性が確認された。しかし、1b期に付いては、羊歯状文d2類がどの程度盛行したのか、明確にされていない。東北地方北部に於ける1b期、2期の土器型式の実体を明確に把握することが残された課題である。

 

2 成立期亀ヶ岡式土器と安行式土器

1)山内清男による晩期縄文土器編年研究と安行式土器

山内清男による安行式土器の研究は、亀ヶ岡式土器との脈絡の中で進められる。両者の共伴関係に注意が払われてきた(山内1930a)。その背景には、当時、亀ヶ岡式土器の出土が比較的多く知られていた関東地方において、亀ヶ岡式土器と在地の土器型式、即ち安行式土器との併行関係を確定し、さらに安行式土器を媒介として中部、東海以西の土器と亀ヶ岡式土器との編年関係を追求しようとする意図があった。

1932年の「縄紋土器型式の大別と細別」では、東北地方が「陸奥」と「陸前」に分けられ、晩期縄文土器として、「陸奥」には亀ヶ岡式を、「陸前」には大洞諸型式を置いている。この編年表では、「大洞B式」は、関東地方の「安行23式」に併行する「陸前」地方の晩期初頭の土器型式であり、東北全域を代表する土器型式としての扱いは受けていない。

このように当初から、山内による東北地方晩期縄文土器の編年研究には地域性に対する配慮が見られた。しかし、山内は「亀ヶ岡式」の細分の可能性を示したものの、その後、大洞諸型式に対する東北北部の土器型式を設定することはなかった。他方、広域の土器編年研究が進展する中で、山内の大洞諸型式は次第に東北地方全域に拡大して適用されていった。

今日、膨大な資料の蓄積がなされ、東北地方晩期縄文土器の地域性が次第に明らかにされつつある。ここでは、標式遺跡の大洞貝塚や中沢目貝塚のある東北中部太平洋側の地域に限って「大洞B式」の名称を用いることにする。

中沢目貝塚では、H328層以下から出土した晩期1a期に属する良好な資料によって仙北湖沼地帯に分布する大洞B式に付いては、「大洞B式直前」(山内1930a)と「安行23式」(山内1937)と「安行23式」(山内1937)の設定以来の、安行3a式との関係が問題とされてきた。

ここでは安行3a式とその前後の資料を取り上げ、東北地方南部の土器と共通する要素に着目し、それにもとづいて、東北地方中部、仙台湾周辺の土器型式との併行関係(第49表)を論じることとしたい。更に、この時期、東北、関東の両地域の土器にどのような共通点、相違点があるのかを明らかにし、安行3a式の型式構造の特徴を論じることとする。

2)安行2式新段階(宮戸Ⅲb式新段階併行) 安行2式新段階に属する良好な一括資料としては、埼玉県蓮田市雅楽谷遺跡SK5(橋本他1991)土坑と鴻巣市中山谷遺跡台遺物集中地点(細田他1991)出土土器群がある。いずれも、東北南部の土器との関係で理解すべき資料であり、東北地方との併行関係を考える上で重要である。

雅楽谷遺跡SK5 K5土坑出土の一括資料は、同遺跡SK26土坑出土の資料と比較すると、より古い様相を示しており、安行2式の範疇で理解すべきである。

波状口縁深鉢(第1201)では、口縁部文様帯の三角状区画とそれに接する横走帯が、刻め目帯から縄文帯に変化している。しかし、突起は4単位、体部の文様は8単位であり、安行2式の伝統的な単位数(鈴木1970)を保持している。また、頚部の横走帯が縄文に変化しているものの、口縁部の三角状区画と融合することなく、依然として独立して存在ししている点も、本資料を安行2式に位置づけるべき根拠の一つとして指摘される。

高台付の鉢(第1204)では、口縁部の三角状区画と頚部の横走帯に刻み目を残しており、刻み目が基本的名は残らないとされる安行3a式の範疇からは悦脱する。突起の単位数は、深鉢と同数、4単位である。鉢を伏せた形状を呈し、円孔のう穿たれた高台部は特徴的であり、『日本先史土器図譜Ⅶ』69の千葉県余山貝塚出土の高台付き鉢に類似する。余山貝塚野高台付き鉢は、山内清男により安行2式に比定されている。

台付浅鉢(第1207)の頚部文様帯に見られる文様、仙台湾周辺の「宮戸Ⅲb式」新段階と併行する時期に東北地方南部において深鉢の文様として盛行する。その搬入例と考えられる資料は、茨城県広畑貝塚Aトレンチの6層(安行2式主体)から出土している(金子1979)。この文様の祖形は、瘤付土器の置ける精製深鉢の括れ部に多用される結節沈線にあると考えられる。東北南部では後期最終末に、括れ部に施されていた結節沈線が発展変化し、括れ部だけでなく、平縁深鉢の頚部文様帯の主文様として展開する場合が認められる。この変化の背景に、安行1式以来姥山Ⅱ式に至るまで、安行式において平縁深鉢の主要文様となっている「枠状文」(金子前掲)の影響を考える必要が有る。雅楽谷SK5土坑出土の浅鉢の場合、頚部文様は8単位、胴部の下向きの弧線文は12単位であり、ともに伝統的な単位数である4単位を基本としている。

注口土器(第1208)は、口縁部の装飾、注口部の形状など、その型式学的特徴が『日本先史土器図譜Ⅶ』68に示された茨城県福田貝塚出土の注口土器に類似する。山内は図譜の解説において福田貝塚の注口土器を安行2式とし、是に類似する資料が東北地方の「亀ヶ岡式直前型式」に認められるとした。「亀ヶ岡式直前型式」は「大洞B直前」と同様と考えられる。「大洞B式直前」の型式は、『所謂亀ヶ岡式土器の分布と縄紋式土器の終末』の中で説明されている。それによれば、「大洞B式直前」型式には、後の大洞B1式に相当するものの他に、それに先行する土器群をも含んでいると考えられる。福田貝塚の注口土器の底部は、ボタン状に突き出た不安定な形を呈している。このような底部を持った注口土器は、東北地方では「宮戸Ⅲb式」に多く見られ、両地域間における土器製作の技術交流の厳密さをうかがわせる。 

雅楽谷遺跡SK5土坑出土土器に用いられている縄文原体は、東北南部との関係で理解すべきとした台付浅鉢、弧線文を施した台の付かない浅鉢、注口土器ではLR縄文であり、波状口縁深鉢、波状口縁高台付鉢ではRL縄文が認められる。

中山谷遺跡第2遺跡遺物集中地点 中山谷遺跡の第2遺物集中地点からは、ほぼ全体の形のわかる2点の深鉢が出土している。

1点は、頚部に弧線文を上下背中合わせに施し、ブタ鼻状の瘤を貼り付する。弧線文と弧線文との間には縦に蛇行する沈線が配置される。この蛇行沈線に付いては、安行2式、瘤付土器の弧線連結文を受容する際に、弧線連結文の中で本来、縦位に連続して垂下するはずの鼓線が、在地化の結果、蛇行沈線に置き換わったと理解がなされている(新屋1991)。関東地方で受容された弧線連結文、一部、安行3a式にも用いられる場合があるが、この資料は、安行2式として理解すべきであると考える。

他の1点は、括れを持つ平縁深鉢で、頚部と体部の文様帯に入組文系の文様が展開する。頚部の右傾する入組文は整然とした二段構成をとるものの、体部の入組文の構成には乱れが認められる。入組文内部、口縁部と括れ部の縄文帯には、LR縄文が施される。本例のように、体部に括れをもち、頚部と体部に縄文を。充填した入組文の展開する平縁深鉢は、東北南部で発達する。関東地方では、茨城県小場遺跡(沼田1986)、柳沢大田房貝塚(藤本1977)、小堤貝塚(井上他1987)、広畑貝塚(金子前掲)など那珂川流域や霞ヶ浦周辺、埼玉県奈良瀬戸遺跡(川崎他1969)、石神貝塚(小田他1975)、小深作遺跡(三田村1990)などの大宮台地周辺、群馬県保美濃山遺跡(梅沢1988)、谷地遺跡(寺内他1988)などの北関東東西部から比較的多く出土している。東北南部では、福島県寺脇貝塚からこの類型の土器が多く出土している(馬目他1966)。この類型の分布北限は仙台湾周辺であり、宮城県二月田貝塚第3トレンチ4層(後藤他1972)などで確認できる。二月田貝塚第3トレンチ4層出土土器には、宮戸Ⅲb式新段階と晩期1a期の資料が含まれて入る。こうした平縁深鉢の分布の中心に当たる東北南部では、福島県三春町西方前遺跡48号埋設土器(中田1993)が、この類型の深鉢を含む良好な一括資料である。48号埋設土器葉、深鉢と注口土器を合わせ口にして斜めにす据えており、両者の一括性はきわめて高い。深鉢は平縁で括れを持ち、頚部と体部の文様帯に入組文系の文様を施しており、中山谷遺跡第2遺物集中出土の資料と同じ類型である。注口土器は、球形の体部に21対の小突起の発達する注口部が付き、ボタン状に突出した不安定な底部を持つ。この資料については、形態や口縁部の装飾、屈曲部の処理などに、仙台湾周辺の宮戸Ⅲb式新段階の注口土器との強い共通性が窺える。宮戸Ⅲb式の新段階に位置づけられる。田柄貝塚CM4120層に類例が見られる。

 3)安行3a式古段階(大洞B1式併行) 安行3a式古段階に属する良好な一括資料としては、埼玉県蓮田市雅楽谷遺跡SK26土坑(橋本他1991)、川口市馬場小室山遺跡19号土坑(青木他1984)、茨城県竜ヶ崎市北方貝塚5260号竪穴状遺稿出土資料(高木他1985)が挙げられる。

雅楽谷遺跡SK26 この資料には、東北南部の土器との関係で理解すべき個体が含まれており、東北地方との編年関係を検討することが出来る。

この資料に見られる波状口縁深鉢(第1211)では、安行2式では本例分離していた、口縁部装飾の三角状区画とそれに接する横走帯が融合し、三角状区画帯には縄文が施される。また突起は3単位、体部の文様は7単位であり、安行2式の4あるいは8単位を基本とするあり方とは異なっている。また、SK5土坑出土の資料が直線的に外傾する口頚部をもつのに対して、本資料の口頚部は緩やかに内湾し、器形の上でも新しい様相を呈する。体部に括れを持たない平縁深鉢(第1182)では、口頚部に左傾する入組文が展開する。このような入組文は東北南部の後期最終末に盛行する文様であるが、東北南部や仙台湾周辺では、このような括れを持たない平縁深鉢の頚部に入組文を施文する例は、ほとんど認められない。この土器を編年的、系統的に位置づけることは難しいが、文様の単位数が6単位であり、入組文の構成にもやや乱れが見られる点などから、安行3a式古段階に属するものと考えられる。 

浅鉢(第1213)は、頚部文様帯に魚眼状三叉文に類似した文様を1単位、入組文の崩れた「大腿骨文」状の文様を4単位施文する。この文様構成は、中沢目貝塚H13311層出土の注口土器の体部文様(第24図版6)に類似する。両資料ともに魚眼状三叉文に部分に、文様帯上端の区画線から三叉状の張り出しが認められ、雅楽谷遺跡資料では上方に、中沢目貝塚出土注口土器では下方に伸びる。「大腿骨文」的入組文は、後期後葉に盛行した入組文の構成が崩壊する過程で出現し、東北地方晩期1a期の資料に認められる。中沢目貝塚H13172層、岩手県前田遺跡1号竪穴住居跡埋土3b3c層から出土した、深鉢A5c類の頚部文様帯に「大腿骨文」的な入組文が展開する。本資料と中沢目貝塚Ⅳ群土器、前田遺跡Ⅸ群土器(須藤1992a・須藤他1992)の併行関係を証明する様相として重要である。雅楽谷SK26土坑出土の浅鉢には、魚眼状三叉状文の弧線文の間に横方向の刻め目をもった縦長の貼付されている。東北地方でも、魚眼状三叉文に円文部分を瘤に置き換える例はある、しかし、雅楽谷遺跡出土資料の場合、瘤が縦長に横方向の刻みを持つことから、東北系の文様に対して安行式での変容が生じていることがわかる。

注口土器(第1213)は、全体の形状はSK5土坑の注口土器に類似する。しかし両者の口縁部突起装飾を比較した場合、SK5土坑出土例が214単位で、安行2式の伝統的単位数を保持しているのに対して、SK26土坑に注口土器葉6単位に変化している。

SK26土坑に用いられている原体は、東北地方との関係で理解すべき台付浅鉢、平縁深鉢ではLR縄文であり、波状口縁深鉢、注口土器にはRL縄文が認められる。

馬場小室山遺跡19号土坑 体部に括れを持たない波状口縁の深鉢が有る。この形態の深鉢は、安行3a式以後盛行すると考えられるが、その初源は安行2式に遡り、茨城県広畑貝塚Bトレンチ(金子前掲)で安行2式の例が確認できる。馬場小室山遺跡出土資料と共通する部分が多く、安行2式との過渡的様相を示している。

平縁の深鉢は口頚部に「枠状文」を施す。枠状文の間に21対の縦長の瘤が貼付され、瘤の下には「山形三叉文(第43b1類)が配置されている。山形三叉文は、宮戸Ⅲb式の新段階に併行する後期最終末に、東北地方のほぼ全域において、深鉢の口縁部文様帯で山形突起の下に生じた文様である。東北地方において、山形三叉文が最も盛行するのは晩期1a期であり、大洞B1式に比定される中沢目貝塚Ⅳ群土器では主要な文様の一つとなっている。関東地方では、大洞B1式に併行する段階、即ち安行3a式古段階に山形三叉文が用いられるようになる。東北地方では晩期1b期以後、山形三叉文は主要な文様としての地位を失い、口縁部の装飾などにかえていくが、関東地方では、安行3a式新段階にも引き続き主要な文様として存続する。、

浅鉢の台部と考えられる資料には、入組部に独立した三叉文の彫りこみを伴う、横に連続する入組文が施文されている。横に連続して展開する入組文は、後期最終末に東北地方南部の入組文土器群に認められ、関東地方では安行3a式古段階以後、晩期安行式の主要な文様の一つとして定着する。山内清男が『日本先史土器図譜Ⅹ』において安行3a式として呈示した。小豆沢遺跡出土の深鉢の体部文様帯には、横に連続する入組文が展開する(第11519)。中沢目貝塚H13区では、最下層の4次調査終了面から、口頚部に横に連続する入組文を施した深鉢(第23図版1)が出土している。この資料では入組部に独立した三叉状の彫りこみは見られず、上下の文様帯区画線から三叉状の張り出しが入組部に向かって伸びている。また、馬場小室山遺跡出土資料では入組部に円形の透かしがあるが、中沢目貝塚例では同じ位置に刺突文が施されている。

北方貝塚5260号竪穴遺構 両竪穴状遺稿から、粘土帯を屈曲部に貼り付け、突帯化した屈曲部の表面を押捺する特徴的な浅鉢が出土しており、その位置づけが問題となる。

52号竪穴状遺構の浅鉢は、口縁部に突起を持ち、口頚部に枠状文と三叉文の文様を施す。三叉状の文様は、縄文の上に施されており、入組三叉文ほか斜行沈線が交互に展開する。斜行沈線と入組三叉文の組み合わせは、入組文の崩壊過程で生ずる意匠であり、東北地方中部では晩期1a期の大洞B1式に存在する。

60号竪穴状遺構の浅鉢は平縁であり、口頚部に魚眼状三叉文風の文様を、体部には弧線文を、それぞれ施す。この形態の浅鉢としては、安行3a式として山内清男が取り上げた茨城県福田貝塚の土器(『日本先史土器図譜Ⅹ』93)がある福田貝塚出土資料は山内が、頚部文様帯に縄文上に見られる入組三叉文を指して「大洞B式風の沈線」と呼び、体部文様帯の弧線文を指して「東北的でない」とした経緯がある。北方貝塚60号竪穴状遺構、福田貝塚出土資料をはじめとして、この形態の浅鉢には、口頚部に三叉文を施し、体部文様帯には弧線文を施すものが多く存在する。近年、橋本勉は、安行3a式の弧線文系土器を指摘として中部、関西地方との編年関係を論じた。その中で橋本は、福田貝塚例を取り上げ、体部の弧線文を東海以西の弧線文土器群との関連で理解すべきであるとの見解を示した(橋本1992)。従来この形態の浅鉢の系統的変遷が論じられたことはなく、一般に安行3a式に特徴的な器種とだけ認識されている。福田貝塚例は、「大洞B式風」との説明がなされていることからわかるように、山内によって、大洞B2式に併行する安行3a式(本論の安行3a式新段階)と認識されていたと考えられる。後述するように、安行3a式新段階の一括資料に見られるこの類型の浅鉢には、安行3b式に盛行する「釣針形沈線紋」(鷹野1988)の祖形と見られる文様を口頚部に施す例も存在する。したがって、この類型の浅鉢が、安行3a式の新古両段階に存在することは確実であり、その中での変遷を捉えられることは可能性である。しかし、その祖形となる浅鉢を安行2式の中に見出すことは困難である。しいて安行2式の中にその祖形を求めるとすれば、形態の点から見て、安行2式の注口土器が挙げられる。安行2式の浅鉢を祖形としていないのであれば、この安行3a式に盛行する浅鉢の文様のうち主要なものが外来的な文様で占められ、安行2式の浅鉢の文様が引継がれなかったことの説明が付く。この特徴的な浅鉢は、安行3a式成立の複雑な過程を解明する上で重要な資料である。

4)安行3a式段階(大洞B2式併行) 安行3a式新段階に属する良好な一括資料としては、千葉県成田市八代玉作遺跡015住居跡(天野1981)、埼玉県深谷市新屋敷東遺跡5号住居跡(新屋他1992)、川口市馬場小室山遺跡38号住居跡(青木他1990)、51号土坑(青木他1982)、群馬県桐生市千網谷戸遺跡石塚Ⅲa層出土資料(伊藤他1987)が挙げられる。 

八代玉作遺跡015住居跡 波状口縁深鉢は、いずれも扁平化した突起を持ち、口縁部の三角状区画と横走帯が融合している。

深鉢には、器形、文様とともに、山内が安行3a式として示した東京都下沼部貝塚出土深鉢に類似した土器が認められる。

屈曲部に突帯を持つ浅鉢では、複雑な入組三叉文や安行3b式に盛行する「釣針形沈線文」の祖形となる文様が体部上半に展開する。

角底の鉢形土器には、姥山Ⅱ式の菱形文の祖形が見られる。姥山Ⅱ式では、菱形と菱形のつなぎめに一般に「円圏文」(鈴木1963)が施されるが、本資料ではブタ鼻状の瘤が貼付けされ、より古い様相を示している。

新屋敷東遺跡5号住居跡 波状口縁深鉢の口縁部には、突起と突起を結ぶ弧線の下に、山形の三叉文と入組三叉文が交互に配されている。体部文様帯には、入組文の退化型式である咬合部を欠いた入組文と、それを挟む三叉文が配されている。形態的には、山内が安行3a式とした下沼部貝塚出土の深鉢に類似する。また、頚部文様帯に縄文帯が見られる点でも両者は共通する。

二段に屈曲を有する特徴的な深鉢は、後述する馬場小室山遺跡38号住居跡出土の一括資料にも認められ、安行3a式新段階に属することが確実な器種である。この類型の深鉢は安行3b式期にも引き継がれ、高井東遺跡7号住居跡(田部井他1975)に安行3b式の例が、広畑貝塚Aトレンチ(金子前掲)に姥山Ⅱ式の例が存在するが、安行3a式古段階には、その祖形をみだすことが出来ない。これ等二段の屈曲をもった精製深鉢は、東北南部以西に広く分布する。「外傾頚部縄文帯型」(村田1993)の深鉢との関連が考えられ、屈曲部の製作方法に関しては、関東地方でも模倣される機会の多かった、大洞B2式の壷、注口土器からの影響がかんがえられよう。新屋敷東遺跡出土資料は、頚部と体部の文様帯に横に連続する入組文が展開する。この資料が示すとおうり、安行3a式新段階の横位連続入組文は、古段階とことなり、入組部における三叉状の咬合が強調され、より安行3b式に近い構成をとる。安行3b式の横位連続入組文似付いては、北関東西部及び埼玉県東部に分布の中心があり、南関東にはほとんどないとの指摘(鷹野前掲)があるが、安行3a式新段階についても同様の傾向が認められる。

折り返し口縁に無文粗製土器は、体部外面に成形時に粘土紐輪積み痕を残しており、その型式学的特徴から、千網谷戸遺跡石塚Ⅲa層出土資料に多数認められるような、北関東における安行3a式新段階の粗製深鉢として位置づけられる。

馬場小室山遺跡38号住居跡 波状口縁深鉢の口頚部には、三角状区画に変わって、「釣針形沈線紋」を鋏む形で向かい合う三叉文が展開する。「釣針形沈線紋」が単独で多用されるのは安行3b式であるが、本例が示しているように、安行3a式新段階にその祖形が認められる。

二段の屈曲を有する深鉢は、その文様構成、文様意匠が、宮城県田柄貝塚南斜面Ⅱ層出土土器は、大洞B2式に比定される晩期1b期の良好な一括資料であり、これ等の資料は、安行3a式新段階と大洞B2式との併行関係を証明するものといえる。

口頚部が短く外反する浅鉢の体部文様帯には、二段の屈曲を有する深鉢と同様に、咬合部に刺突を有する入組三叉文に連続して展開する。横に連続する入組三叉文は東北地方では晩期1b期に、仙台湾周辺部において、大洞B2式の深鉢、鉢、浅鉢の最も主要な文様として盛行する。

馬場小室山遺跡51号土坑 本土坑から出土した土器は、安行3a式新段階を主体とし、より後出の土器を若干含んでいる。

波状口縁深鉢(第12212)は頚部文様帯を失っており、同様の型式学的特徴をゆする深鉢が八代玉作遺跡015住居跡にも存在する。

12218の鉢形土器は、形態、意匠ともに、『日本先史土器図譜Ⅹ』94に示された千葉県岩井貝塚出土資料に極めて類似する。岩井貝塚出土資料に付いては、図譜において山内が安行3a式として扱い、また体部の弧線文を指して「東北的でない」としている。

注口土器(第12219)は明らかに大洞B2式の注口土器を模倣したものであるが、体部の最大径部分に明確な稜線が認められない。また頚部の縄文帯や体部の文様にも在地の要素が認められる。

千網谷戸遺跡石塚Ⅲa層 千網谷戸遺跡の石塚Ⅲa層から出土した土器は、安行3a式新段階の資料を主体としており、北関東西部の地域的特色をよく示している。

精製深鉢では、「外傾頚部縄文帯型」のものが目立つ。波状口縁深鉢では、体部の括れる形態のものは少なく、口縁部の三角状区画は退化して沈線化したものが多い。波状口縁深鉢では、沈線化した口縁部の三角状区画が弧線文に変容している。深鉢の文様としては、咬合部に刺突をもち横につながる入組三叉文、横位連続入組文、弧線文などが多用されており、後期安行式以後の伝統を持つ安行式固有の文様意匠は、波状口縁深鉢にわずかに残るのみである。横位連続入組文は、すでに述べたように、安行2式新段階で東北南部の入組文系深鉢を受け入れて以後、北関東、大宮台地を中心に安行式の文様要素の一つとして盛んに用意される。横に連なる入組三叉文は、入組三叉文の地域的な変異形態であり、晩期1b期、仙台湾周辺において、深鉢、鉢の主要な文様として多用される。

浅鉢には、広口壷に近い形態のも、屈曲部に突帯を持ち、口頚部の短く外反する皿形のものなどが認められる。この資料の中に多く存在する、口頚部の短く外折する浅鉢には、弧線文と山形三叉文の組み合わさった文様の他、横方向に展開する入組三叉文、横位連続入組文が展開する。弧線文と山形三叉文の組み合わせは、本来、深鉢の口縁部において成立する意匠である。この文様は、東北地方では晩期1a期の深鉢に盛んに用いられ、晩期1b期以後は激減する。また東北地方では、口縁部以外の文様帯で使われるのは極めて稀である。関東地方では、この文様が、安行3a式新段階になっても引き続き盛行し、深鉢以外の器形で、また口縁部以外の文様帯に展開する。

注口土器は、いずれも東北地方晩期1b期の注口土器を模倣してものである。口頚部の分化する三段作りの注口土器を模して者は、大洞B2式の注口土器と比較した場合、口縁部が直線的であり、袋状とはいえない。

小型の深鉢は、形態、文様帯の構成ともに比較的忠実に大洞B2式の土器を模倣しているが、剣菱状の末端を持つ入組三叉文は咬み合うことなく結合している。

以上、安行3a式を中心に、各時期の一括資料する中で、東北地方の土器型式との関係を論じた。その結果、山内清男の設定した安行3a式は、二段回に細分され、古段階は大洞B1式と、新段階は大洞B2式と、夫々併行関係にあることがあきらかとなった。

なお、馬場小室山遺跡の38号住居跡では、滋賀里Ⅱ式(加藤他1973)の型式学的特徴を持つ浅鉢が安行3a式新段階の土器と共伴している。また、石神貝塚からは、滋賀里Ⅱ式と大洞B1式の両方の影響を受けたと考えられる浅鉢が出土している(小田他1975、第16144)。即ち、この浅鉢は椀形で、体部に魚眼状三叉文と複雑な入組文の組み合った文様を持ち、その上下を刻め目帯で区画している。これ等の資料は、滋賀里Ⅱ式が、安行3a式の新古両段階、さらに大洞B1式、大洞B2式の両型式に併行する可能性を示していると考えられる。今後、さらに慎重な検討を重ね、併行関係の確定に努める必要がある。

5)安行3a式の型式構造 次の上記の編年案に基づき、安行3a式を構成するいくつかの器種を、東北地方晩期初頭の土器の関係で取り上げ、その型式構造を論じる。

装飾深鉢 東北地方晩期縄文土器と晩期安行式土器とを比較すると、安行式土器群では括れを持った伝統的な波状口縁深鉢が晩期中葉まで存続し、それが飾られる土器の主体であり続ける点を、その特徴として指摘できる。

後期中葉の加曾利B3式期に、北海道を含む東日本の広い範囲に大波状口縁の深鉢が分布し、この土器が母体となって、後期後葉の入組文土器において、体部の括れる深鉢が飾られる土器の主体となる。頚部と体部の文様帯に入組文の展開する、この装飾深鉢は、後期最終末に到るまで系統的な変遷を遂げ、常に高い組成比率を占めている。しかし晩期初頭、大洞B1式に位置づけられる中沢目貝塚Ⅳ群土器が示すように、晩期1a期にはごく僅かに残存する程度で、大部分は小型化し、台付鉢に転化する。伝統的な装飾深鉢が保持されると言う点で、晩期安行式土器は、亀ヶ岡式土器に比べ後期様相をより強く残している、といえる。

加曾利B3式の大波状口縁深鉢という共通の母体をもつ、安行式の波状口縁深鉢と入組文土器群の括れを有する装飾深鉢では、その変遷過程にいくつかの共通点をみだすことができる。

1に、単位数の問題が挙げられる。かつて山内清男は縄文土器の口縁部突起装飾について、後期後半の土器では瘤や突起装飾が土器装飾の基軸となることを指摘した。その中で山内、後期後半の土器では瘤が土器の全周を4分割あるいは8分割する形で均等に配置されることが多い点を指摘した上で、さらに口縁部の突起、把手、側面の横突起もまた一定の配置をもつとした。安行式土器の波状口縁深鉢に関しては、突起の単位数が、安行12式の4単位から、安行3a式では、45678といった数に変化するとの指摘がある(鈴木1970)。東北地方においても、宮戸Ⅲa、Ⅲb式の装飾深鉢の突起、文様4あるいは8単位を基本としていたのに対して、晩期1a期の大洞B1式では、5単位のものが目に付くようになる。

2に、細い刻み目を加える刻線充填手法の問題が挙げられる。安行2式の波状口縁深鉢では、三角状区画文や平行沈線に刻み目が盛んに充填される。安行3a式では、刻み目はほとんど姿を消し、ほぼ縄文だけに統一される。東北地方でも、宮戸ⅢB式新段階の装飾深鉢では、頚部文様帯の入組文や平行沈線間に刻み目を充填したものが多数存在するが、この刻目手法は、大洞B1式では基本的に認められなくなる。

伝統的な波状口縁深鉢以外の、安行3a式の装飾深鉢としては、「外傾頚部縄文帯型」(村田前掲)の深鉢が注目される。この類型の深鉢は、東北地方では、晩期1b期以降、南部の地域に多く認められ、仙台湾周辺部以北では極めて稀である。関東地方で出土する。いわゆる「東北系」の深鉢には、この類型の深鉢が多く認められる。

浅 鉢 安行3a式の主要な浅鉢としては、屈曲部の突帯を持つ椀形の土器、口頚部の短く外反する皿形の土器、広口壷に近い形態の土器などが挙げられる。これ等は、広口壷に近い形態の土器を除いて、安行2式の注口土器が基本と成って成立した可能性が高いが、文様は異なる。即ち、この類型の浅鉢は、一般的に口頚部に各種の三叉文、体部上半に弧線文を施すが、ともに後期安行式の文様の名からは成立しない異系統の文様である。口径部の短く外反する形態のものは、形、文様ともに、東北地方中部以南の晩期1b期の浅鉢との関係が深い、台付鉢は、器形、文様ともに安行1式以前からの系統を追える一方、後期安行式の中で浅鉢は、極めた稀な存在である。安行2式から3a式にかけて浅鉢の比率が高まるとの指摘が(金子前掲)是は安行3a式古段階以降、他地域の浅鉢を取り込み、在地化させた結果といえる。

注口土器 安行3a式古段階には後期安行式からの伝統を引く鉢形の注口土器に加え、口頚部が短く外反し、扁平球形の体部を持った類型が存在する。後者の体部上半には、後期終末の入組文から派生する、複雑な入組文、魚眼状三叉文が展開する。この斉一性の高い注口土器は晩期初頭、東北地方や関東地方の広い範囲に分布し、東北地方中部の仙台湾周辺では大洞B1式古段階の土器に組成する。このような型式学的特徴を有する注口土器は、器形、文様ともに東北地方の後期終末の入組文土器にその祖形を見出すことができる。

安行3a式新段階には、鉢形をした安行式に固有の注口土器はほとんど姿を消し、変わって東北地方の注口土器を模倣したものが主体をしめるようになる。形態の上では、大洞B2式同様、袋状口縁を持つ3段作りの注口土器と、口頚部の内傾する2段作りの注口土器、2つの類型が存在するが、どちらの形態のものも大洞B2式に比べ、体部最大径部分の屈曲が弱く、明瞭な稜線が形成されない傾向がある。文様の上では、大洞B2式の3段作りの注口土器では、椀形の口縁部には平行沈線以外の文様が余り用いられないのに対して、関東地方で出土する資料の多くは、口縁部に横に連続する入組三叉文を持つ。また体部文様帯には縄文の充填される文様が展開する例がほとんどで、大洞B2式の文様を忠実に模倣する例は稀である。この時期以後、安行式に組成する注口土器は、「大洞系」の土器によって占められるが、安行3a式新段階に限って言えば、大洞B2式の注口土器そのものが直接搬入されるケースはきわめて稀で、大部分の模倣土器の場合でも、体部などに安行3式独自の変容が認められる。


3 東北地方縄文時代晩期の石器の諸問題 以下略

 

    第14章 2002(平成14年)関根達人 「沢上貝塚出土晩期縄文土器の再検討」『宮城考古学 』第4号

1 はじめに 各地で後期から晩期にかけての縄文土器の変遷が明らかになり、土器型式相互の併行関係が捉えられるようになってきた、そなかで、東日本では、後期末から晩期初頭の段階に、個々の土器型式の分布圏の枠を超え、より広い範囲の土器の文様に共通性が見られることが近年指摘されている。筆者は、各地の土器群に含まれる異系統土器の存在から、「ホライズン(共時的広域斉一性)」とも呼ばれるこの現象は、後期末から晩期初頭にかけ、列島の東半分で、地域間の交流関係が活発化した結果生じたと考えている。

東北地方における後晩期縄文土器編年研究は、東北中部、仙台湾から南三陸沿岸の貝塚の層位的調査成果によるところが大きい。1951年に始まる宮戸遺跡調査会(会長古田良一博士)による宮城県桃生郡鳴瀬町里浜貝塚の調査、当時、立ち遅れていた後期縄文土器の編年研究を主たる目的として進められ、加藤孝、後藤勝彦、斉藤良治、(小井川和夫)、槙要照の各氏等により「宮戸編年」が整備されていった(後藤1956,1957,1960,1962、斉藤19601968、槙1968.宮戸島遺跡調査会・塩竃市史編纂委員会による里浜貝塚の一連の調査終了後も、後藤勝彦氏は、宮城郡七ヶ浜町沢上貝塚(後藤・丹治・槙1971)、同町二月田貝塚(後藤197072)の調査を行い。関東地方の土器編年に対比させながら、引き続き仙台湾周辺における後期から晩期への土器変遷を追求した。概期の土器の研究史について触れた高柳(小林)圭一氏の論考(高柳1988a、小林1999)を見れば判るように、沢上貝塚出土土器は,台囲貝塚、二月田貝塚、金剛寺貝塚の各出土資料と共に、東北中部仙台湾周辺における後期末・晩期初頭の縄文土器変遷を論じる上で、重要な位置を占めてきた。

 この地域では、その後、気仙沼市田柄貝塚(藤沼他1984)遠田郡田尻町中沢目貝塚(須藤ほか19841995)、黒川郡大和町摺萩遺跡(柳沢1994)等、良好な層位関係にある遺跡の調査で得られた当該期の資料が詳細に検討されている。そうした資料の検討により、須藤隆氏や筆者は、仙台湾周辺での晩期初頭の土器(中沢目貝塚Ⅳ群土器)の型式内容を明らかにし、瘤付土器からの変遷や安行式との関係について論じた(須藤1984,1992須藤・関根1992、須藤ほか1995)。しかし、中沢目貝塚においては、Ⅳ群土器に後続する「大洞B2式」期(晩期1b期)の土器(Ⅲ群土器)は少なく、反対に、田柄貝塚では、「大洞B2式期」期(晩期1b期)相当すると見られる土器(田柄貝塚Ⅷ群土器)はある程度まとまって出土している一方、中沢目貝塚Ⅳ群土器にあたる晩期初頭の土器が欠落する。晩期Ⅰa期から晩期Ⅰb期への土器の変遷を一つの遺跡で層位的に十分検討することは、資料の増加した今日でもなお容易ではない。

一方、近年、多くの研究者が「後期後葉から晩期前葉にわたる各地域の土器型式が、各地域の独自の伝統・極めて広い範囲にわたる相互の影響、その二つの要因の相互作用の産物である」(林1994)との認識を共有するようになり、所謂「異系統土器」に視点当てた研究が活発化した。そうした研究の流れの中でも「安行式」との関係を論じた大塚達朗氏により沢上貝塚出土土器がとりあげられた(大塚1994・1995)。

沢上貝塚出土土器は、関東北の後期末から晩期初頭の土器を語る上で重要な位置を占めるにもかかわらず、検討する際の基礎となるべき資料報告が必ずしも十分とはいえない状況である。すなわち、後藤勝彦氏らによって公表された沢上貝塚出土土器(後藤・丹治・槙1971)は1965年の発掘調査資料と調査以前に採集された資料が混在している上、数点の資料を除き、報文から個々の土器の出土した調査区や層位を検討できない。七ヶ浜町歴史資料館に保管されている資料を実見したところ、報文に示された土器は1965年調査出土土器のごく一部であること、接合作業が必ずしも十分行われていないこと、註記に基づき土器の出土状況が検討可能であることなどわかった。筆者は、沢上貝塚出土資料の重要性に鑑み、資料の全体像の把握と、層位的出土状況の検討を目的として、同貝塚出土土器の再整理を行い、今回、その内容を紹介することとした。

2 1965年の調査の概要 沢上貝塚は宮城県宮城郡七ヶ浜町代ヶ崎浜字沢上に所在する。松島湾に突き出た七ヶ浜半島の北端、松島四大観に数えられる多聞山の南側に位置し、代ヶ崎谷地に面した丘陵の先端に立地している。本貝塚の北側は、沢を挟んでアサリやカキと共に晩期後半の製塩土器が分布し、峯貝塚と呼ばれている。沢上貝塚では、台地先端の北斜面(A地点)と南東斜面(B地点)の2ヵ所で貝層が確認されている。沢上貝塚の発掘調査は196581315日の3日間、A地点の貝層の中心部と思われる場所から西側にかけ、A・B・C3ヵ所トレンチを設けて行われた(註)Bトレンチは盗掘による撹乱部にあたり、AC2ヵ所のトレンチで成果があげられた。

 Aトレンチでは、東西1m、南北2.8mの範囲が調査され、上からⅠ層(表土)、Ⅱ層(第1貝層)、Ⅲ層(貝層下の炭化物層),Ⅳ層(2貝層),Ⅴ層(混貝土層)Ⅵ層(黄色土層)に細分されている(第1・第2図)。土器の注記に見られる日付と層位との関係から、Ⅰ層とⅡ層は13日に、Ⅳ層以下は14日に、Ⅲ層は13日と14日の両日にまたがって調査されたと見られる。土器の注記には、出土層位を示すのに、Ⅰ~Ⅳのローマ数字と「貝層上」・「貝層中」・「貝層下」の2種類の表現が使われている。調査担当者した後藤勝彦氏からのご教示と、日付と層位との関係の検討から「貝層上」はⅡ層に相当し、「貝層下」はⅢ層に相当することがわかった「貝層中」については、13日分はⅡ層に相当し、14日分はⅡ層~Ⅳ層のものが混在することが判明したが、「貝層中」と注記された大部分の資料は日付を欠けていたため、明確に13日分と判明するもの以外、ⅡⅣ層出土として扱わざるを得なかった。実際、Ⅱ~Ⅳ層と注記された資料が多数存在していることから、Ⅲ層(炭化物層)が介在しない箇所では、貝層をⅡ層とⅣ層の上下2枚に分けきれなかった部分があるものと思われる。

Cトレンチが、1m四方の範囲が調査され、上からⅠ層(表土)、Ⅱ層(灰色土層)、Ⅲ層(1貝層)、Ⅳ層(炭化物を含む土層)Ⅴ層(炭化物を含む混貝土層)、Ⅵ層(黄色土層)に細分されている。土器は主にⅡ層とⅣ層から出土している。

なお、今回整理した資料の中に、2b2c3b3c5cといったアラビア数字とアルファベットの組みあう註記が見られたが、それらについては註記の意味する所がわからなかったため、区・層位不明として扱い、図中に註記の内容を示した(第16図)。 

3 出土土器の概要 出土土器を区毎・層位毎に分けて、第316図に提示した。以下、区毎に土器の型式と層位との関係をていく。

A区出土土器3~12図)A区では、Ⅱ層下部からⅢ層にかけ土器が集中して出土している。本来、下部貝層(Ⅳ層)自体に含まれる土器は少ないが、前述のとおり、Ⅲ層(炭化物層)が部分的にしか分布せず、上下の貝層の遺物の帰属が曖昧になった結果、ⅡⅣ層と記された遺物が多数存在する。Ⅱ層上面から出土した遺物(第3423)には、晩期3期「大洞C1式」の浅鉢(第34)から後期末葉「宮戸Ⅲb式」の深鉢(第31617)まで、幅広い年代の遺物が認められる。層位的に安定した遺物のまとまりを示すのは、Ⅱ層以下である。

【Ⅱ層出土土器】(第4図)晩期Ⅰb期の土器(18)を主体とし、晩期Ⅰa期の土器(911)がこれに次ぐ、1213は「宮戸Ⅲb式古段階」の資料であり、下層からの混入品である。晩期Ⅰb期の土器では、「入組三叉文」を有す土器(2)よりも、中央の円孔を中心として三叉文や曲線文が対照的に配置される。各種の「玉抱き三叉文」を施文した土器(135)が目立つ。4は、右下がりの三叉文の末端が巻くことで円が形成されており、晩期Ⅰa期に盛行する所謂「魚眼状三叉文」とは異なる構成を取る。67は、黒色研磨の壷であり、8は同じく注口土器である。8の注口土器は体部を大きく欠損しているが肩部は強く張り出しており、体部が扁平化した晩期Ⅰb期の注口土器の特徴を示している。

【Ⅲ層出土土器】5図・6図)後期最終末「宮戸Ⅲb式新段階」の土器(第615~16)が2点混入している以外、晩期Ⅰa期の土器が主体を占める。装飾深鉢は、体部に括れを持たないもの(第512、第614)と、体部に括れを有し口頚部が外側に開くもの(第6512)とが相半ばする。注目されるのは小波状を呈する口縁部の下1㎝程度の所に1条の沈線を施文し、この区画線から上、口縁部付近を無文に、区画線から下、底部付近までを縄文とする土器の存在である(第53)。このような土器は、中沢目貝塚Ⅳ群土器にも多数認められ、北上川流域に於ける晩期Ⅰa期からⅠb期の土器を構成する重要な要素と考えられる(須藤・関根1992、須藤他1995)。この種の土器は、まさに山内清男がⅡc文様帯と呼ぶ「晩期」的な文様帯がこの時期、すなわち晩期Ⅰa期に成立したことを象徴的に示している。第614は破片資料であり、壷か注口土器かの判断が難しい。体部はやや扁平化しているものの、後期的な様相を強く残している。第624は、向かい合う弧状の櫛歯状条線を垂下させた粗製深鉢の体部小破片である。全体像は不明だが、このような特徴を有する土器は、仙台湾周辺では、瘤付土器の前半期(「西の浜式」)から(「宮戸Ⅲa期」)に多く(関根1993)、その後はほとんど見られない。しかし阿武隈川流域では、櫛歯状条線文土器が晩期前葉まで粗製土器のかなりの部分を占め続ける。櫛歯状条線の構成は、晩期前葉にはジクザクに垂下するものが主流となるが、向かい合せの弧状を呈する物も共存するようである。(例えば、福島県三春町西方前遺跡2次調査SK09出土土器:仲田199394)。

【Ⅱ層―Ⅳ層出土土器】(第79図、第10121)晩期Ⅰa期に属する土器が圧倒的に多い(第7225、第8127)。下層より混入したと考えられる後期の土器(第82837))は若干含まれるが、晩期Ⅰb期の土器は1点だけしか確認されない(第71)。小波状口縁直下に無文帯を有する深鉢・鉢(第91~10)がややまとまった量出土しているが、同じく小波状口縁を呈し、外面全体に縄文が施文される深鉢(第915)と共に晩期Ⅰa期に属すると考えられる。縄文のみ粗製深鉢では、LRRL原体を交互に横方向に回転させた羽状縄文が多い。

【Ⅳ層出土土器】(第102227、第121) 完形の台付浅鉢(第12図1)は、全体がよく研磨され、「」字状に広がるやや高めの台を有する。仙台湾周辺では、後期末の段階に高い台の付く黒色研磨の浅鉢が盛行する。この資料は、それら後期末に盛行する台付浅鉢の延長線上に位置しながらも、口縁部が他の晩期Ⅰa期の土器同様、小波状を呈する点や、台部が直立ではなく「ハ」字状にやや広がりを持つ点などに新しい様相が看取される。第102223は晩期Ⅰa期に、同24は後期末「宮戸Ⅲb式新段階」に、同25は「宮戸Ⅲb式古段階」に比定できよう。

【Ⅴ層出土土器】(第11図) 「宮戸Ⅲb式古段階」の土器(第113032)が少量混入する以外、晩期Ⅰa期の土器で占められる。基本的な様相は、Ⅲ層で主体を占める土器と共通しており、両者の間に時間的差異は特に見出せない。

【Ⅵ層出土土器】(第1226) Ⅵ層出土の土器は、有文浅鉢1点のほか、無文土器の口縁部小破片3点、壷か注口土器の口頚部破片1点と少ない。有文浅鉢(第122)は、入組帯縄文の構成が完全に崩れ、本来入組部に発生した魚眼状三叉文が、入組文の名残をとどめる左傾の縄文帯に挟まれる形で展開する。この浅鉢から見て、Ⅵ層の形成時期も晩期Ⅰa期と判断される。

C区出土土器 (第1314図) 

【Ⅱ層出土土器】(第13図) 晩期3期「大洞C1式」(17)、晩期2期(913)、晩期Ⅰb期(14~1)「宮戸Ⅲb式新段階」(23)、「同古段階」(22)のように、新旧様々な土器が含まれる。後述する様に、本層の下位に位置するⅣ層では、本層に見られない晩期Ⅰa期の土器がまとまっていることから、Ⅱ層の形成時期は、晩期Ⅰb期以降と考えられる。2223の後期の土器は混入品であろう。

【Ⅳ層出土土器】(第1415) 括れを有し口頚部がやや外側に開く装飾深鉢2点と、縄文のみを施文する粗製の深鉢3点が出土している。装飾深鉢の特徴から、これらは晩期Ⅰa期に属するものと考えられる。

③出土区不明の土器(第1516図) 前述のように、出土区不明の土器には、注記のないものと、アラビア数字とアルファベット小文字の組み記が見られたが、記の意味する所がわからなかったため、区・層位不明として扱ったものとがある。土器は、AC区同様に、晩期Ⅰa期中心としながら、「宮戸Ⅲb式古段階」(第151718)から「大洞C1式」(第1613)までの年代幅を有している。 

4 沢上貝塚における晩期初頭の縄文土器

 これまで見てきたように、沢上貝塚では、Aトレンチにおいて、Ⅱ層とⅢ層以下とで主体となる土器の様相が異なり、晩期初頭の土器を層位的に捉えられる可能性が高いことがわかった。AトレンチⅢ層以下で主体を占める土器と、CトレンチⅣ層から出土した土器は、いずれも中沢目貝塚Ⅳ層土器と強い共通性を持っており、仙台湾周辺における晩期Ⅰa期の土器群と考えられる。一方AトレンチのⅡ層で主体を占める土器群は、より新しい様相を呈しており、晩期Ⅰb期に位置付けられるものと思われる。ここで、これら2つの土器群について、他の層から出土している資料も加えて、改めてその型式内容を検討する。 

①沢上貝塚における晩期Ⅰb期土器 (第17図)

 AトレンチのⅡ層で主体を占めるが、晩期Ⅰa期の資料に比べて量的な不足は否めない。装飾深鉢は、屈曲が見られず、口縁部は体部からほぼ直線的に立ち上がるが、極めて緩やかに内湾するものが多い。装飾深鉢では、他に、口縁部が短く「く」の字状に外折する土器が1点認められた(16)。口縁部は平坦ないし小波状を呈し、直下の文様帯には、横方向に連続する玉抱き三叉文が多用される(15)。玉抱き三叉文以外では、入組三叉文(7816)や山形三叉文(910)も用いられる。山形三叉文は、個々の文様が独立しているもの(9)と、横に連続するもの(10)があるが、晩期Ⅰa期と異なり文様帯の軸が狭く、弧線文と組み合うものは見られない。11は、下方に開く弧線文と二重の円弧文が組み合わさった意匠が展開する。東北地方ではあまり例をない意匠である点に加え、文様帯の下を区画する界線がられず、体部が無文となる可能性が高いことなどから「安行3a式(新段階)」との関係を考慮する必要があるかもしれない。

粗製深鉢の口縁は、端部まで器壁の厚さに著しい変化はなく、端面は、磨きあるいはナデによってやや丸みを帯びるかもしくは平坦に仕上げられる。外面は施文される縄文は、LRL原体を交互に横方向に回転させた羽状縄文が多いが、LR斜行縄文もられる。鉢は、晩期Ⅰa期の括れを有す装飾深鉢が小型化し、台付鉢に転化したタイプの土器(1718)と、椀形を呈する鉢(19)の両者が存在する。18の台付鉢は、伝統的な文様帯構成が崩れ、横に連鎖する三叉文が上下の文様帯界線の役割を兼ねた構成へと変化している。19の鉢に見られる文様は、一見したところ魚眼状三叉文に近い感じがするが、魚眼部にあたる円文は、三叉状に伸びる枝のうち最も長い沈線の末端がまくことで表現されており晩期Ⅰa期に盛行する魚眼状三叉文とは異なる。

 仙台湾周辺域に於ける晩期Ⅰb期としては、中沢目貝塚Ⅲ群土器のほか、気仙沼市田柄貝塚第Ⅷ群土器(藤沼ほか前掲)、鳴瀬町里浜台囲貝塚Bトレンチ第群土器(小井川1980)などがある。すでに、中沢目貝塚の調査研究報告のなかで須藤隆氏は、仙台湾周辺部の晩期Ⅰb期の土器が「大洞B式」の典型的と見られる田柄貝塚第Ⅷ群土器と、中沢目貝塚Ⅲ群土器・台囲貝塚Bトレンチ第群土器の新旧2グループに細別される可能性を指摘している。前者は入組文三叉文の施された土器を主体とし、羊歯状文の祖形となる文様や平行線間刻目など新しい様相が観取される、後者は、横に連続する入組三叉文が特徴で、文様帯内の一部に縄文が残る場合もあることや、晩期Ⅰa期の装飾深鉢からの転化した。括れを有する台付鉢を伴う点などに、古い様相が窺える。沢上貝塚出土の晩期Ⅰb期の土器は、後者のグル-プに属し、晩期Ⅰb期の中でも前半期に相当すると考えられる。

②沢上貝塚における晩期Ⅰa期の土器 (第18図)

 AトレンチのⅢ層~Ⅳ層とCトレンチのⅣ層から出土土器の多くが、晩期Ⅰa期に属し、沢上貝塚出土土器の中核をなす。

 装飾深鉢は砲弾形のもの(113)と、体部と頚部との間に弱い括れを有し、口頚部が外傾する後期以来の伝統的な形態のものと(1427)とがある。口縁部の形態・装飾は、前者が小波状ないし、平坦口縁に緩やかな低突起が付くものにほぼ限定されるのに対して、後者は平坦突起から高い山形突起を持つものが多い。これらの突起には、頂部に2ないし3所刻みが加えられたり、先端が鯱尾状にひろがるのも少なくない。

 砲弾状を呈する深鉢の口縁部文様帯は、主文様帯+縄文帯(無文帯)で構成されるもの(124711)、縄文帯+主文様帯+縄文帯からなるもの(1213)、主文様帯のみのもの(35副文様帯+縄文帯+主文様帯+縄文帯といった多段化した複雑な構成を取るもの(6)など様々で、後期から晩期への過渡的状況が窺える。

後期的な装飾深鉢の器形を引き継いだ、括れを有する深鉢・鉢の場合、口縁部、頚部、体部の文様帯からなる基本的な構成が崩れ、口縁部文様帯あるいは頚部文様帯を喪失した土器(332635)が現れる。括れを有する深鉢の中で平坦口縁の土器は、「宮戸Ⅲb式新段階」に非常に稀であり、むしろ阿武隈川流域から浜通り地方に後期終末の装飾深鉢の主体をなす土器である。162427のような深鉢は、仙台湾周辺の晩期初頭の土器が形成される過程で、東北南部の土器の影響を少なからず受けたことを物語っている。

深鉢には、各種の魚眼状三叉文、「大腿骨」状の入組文、複数の曲線と三叉文からなる複雑な入組三叉文とった、入組帯状文が解体する過程で生じた様々の文様とともに、口縁部の文様帯に特徴的な、上向きの連続する弧線文やそれと山形三叉文が組み合う文様、さらには、東北南部あるいは関東の「安行式」との関係の深い横に連続する入組文(大塚達朗氏の「文様帯区画内横連続繋入組紋」)など、多様な文様が認められる。

山形三叉文は、「宮戸Ⅲb式新段階」出現し、主として山形突起の下や入組帯状文の隙間に副次的な文様として配置されが、晩期Ⅰa期には単独で、あるいは連続する弧線文と組み合うなどして、口縁部の文様帯を飾る文様としての地位を確立する。晩期Ⅰb期以降、口縁部文様帯の幅が狭くなるにつれ、山形三叉文は小さな三角形状の彫り込みとして東北地方晩期縄文土器の口縁部装飾のなかに生き続ける。

注目すべきは、61114(頚部文様帯)の上部にられる、山形三叉文が横に連続し、文様帯界線と融合する文様である。大塚氏も指摘するように、所謂橿原式文様のなかにもみいだすことができ、後期末・晩期初頭の広域的編年を考える上で、重要なメルクマールとなる。ただし、筆者は、「宮戸Ⅲb式新段階」に現れるこの文様は、東北地方のコブ付土器に特徴的な、文様帯の上下の界線に挟まれた入組帯状文が受容する過程で、切り離された入組帯状文の末端が文様帯界線と結合することによって生じたと考えており、「橿原式文様・滋賀里段階」からの影響・模倣関係で、東北地方の後期末の土器に「棘状あるいは角状の沈刻文」が生成したとの大塚氏の主張(大塚1995)には賛同できない。

浅鉢の文様は、各種の魚眼状三叉文が主体を占め(383941)、壷や注口土器では、複数の曲線と三叉文からなる複雑な入組三叉文が目立つ(4448)。

粗製深鉢の口縁は、端部まで器壁の厚さに著しい変化はなく、端面は、磨きあるいはナデによってやや丸みを帯びるかもしくは平坦に仕上げられる(2932)。平縁のもの以外に、装飾深鉢と同じく緩やかな小波状口縁の土器(28)外面に施文される縄文LRRL原体を交互に横方向に回転された羽状縄文が多いが、LR斜行縄文もられる。

以上のような特徴を有する土器は、中沢目貝塚Ⅳ群土器(須藤ほか1995)と同一型式と考えられ、最近の資料では、仙台市王ノ壇遺跡Ⅰ区SX102落ち込み(小川・高橋2000)に良好な一括資料を見出すことができる。ただし、前に東北南部と土器の関係を指摘した、平坦口縁で括れを有する装飾深鉢は、中沢目貝塚Ⅳ群土器には見出せず、より東北南部に近い沢上貝塚、王ノ壇遺跡の地域性が現れている。また、王ノ壇遺跡Ⅰ区SX102落ち込み出土土器は、緩やかな小波状口縁の土器を含まないことから、晩期Ⅰa期の中でもさらに古手の部分に限定できる可能性がある。

5 むすびにかえて 沢上貝塚では、晩期Ⅰa期から晩期Ⅰb期の土器の変遷を層位的に検討することができた。AトレンチのⅡ層で主体を占める土器は、晩期Ⅰb期の中でも古い部分に限定されることがわかり、須藤隆氏よって可能性が示されていた晩期Ⅰb期の土器の細分を追認した。AトレンチⅢ層以下及びCトレンチⅣ層で主体を占める晩期Ⅰa期の土器は、量的にも豊富な内容を持ち、今後,中沢目貝塚Ⅳ群土器と共に、晩期の土器の基準資料となるであろう。本資料には、関西以東の広域土器編年を考える上でも、重要な資料が含まれている。沢上貝塚の調査を担当された後藤勝彦氏は、出土土器の再整理に快く同意して下さったうえ、調査時の図面や写真などの記録類を提供していただいた、東北大学の須藤隆先生には、中沢目貝塚出土土器の整理・報告以来概期の土器の問題に関して様々なご指導を頂いている。七ヶ浜町歴史民俗資料館の川村正氏には、同館に保管されている沢上貝塚出土土器の調査に関して世話になった。また、土器を資料化するにあたっては、大谷基、森康江、早瀬亮介の各氏協力があった。末尾ではありますが、これらの方々に感謝申し上げるとともに、本資料が晩期縄文土器研究の進展の一助なることを願うものである。

 

(註)後藤勝彦らによる報文(後藤・丹治・槙1971)では、調査は昭和41818日~20日の3日間おこなわれたとなっているが、土器の注記や図面に残された他日付から、昭和40813日~15日が正しいことがわかった

 

引用文献

大塚達朗 1994 「広域編年に関する安行式研究からの提言」『縄文晩期前葉~中葉の広域編年』 pp.3641

大塚達朗 1995 「橿原式紋様論」『東京大学文学部考古学研究室紀要』13号  pp.79166

小川淳一・高橋綾子 2000『仙台市王ノ壇遺跡』仙台市文化財調査報告書第249集

小井川和夫 1980 「宮戸島台囲貝塚出土の縄文時代後期末・晩期初頭の土器」『宮城史学』7号 pp.9~21

小林圭一 1999 「Ⅱ. 列島に於ける縄文土器型式編年研究の成果と展望(Ⅰ)」縄文時代第10号  pp.149177

後藤勝彦 1956 「宮城県宮戸島里浜台囲塚の研究」『宮城県の地理と歴史』1 pp.191~201

後藤勝彦 1957「陸前宮戸島里浜台囲貝塚の土器編年について」『塩竈市教育委員会教育論文』第二集 pp.16

後藤勝彦 1960 「宮城県名取市金剛寺貝塚出土の土器編年について」『宮城県の地理と歴史』2 pp.109122

後藤勝彦 1962 「陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器について」『考古学雑誌』48-1 pp.37~48

後藤勝彦 1970 「宮城県七ヶ浜町二月田貝塚(Ⅰ)」『貝輪』6 塩女子高等学校社会部

後藤勝彦 1972 「宮城県七ヶ浜町二月田貝塚(Ⅱ)」『貝輪』7 塩釜女子高等学校社会部

後藤勝彦・丹治英一・槙要照「宮城県七ヶ浜町沢上貝塚の調査」『仙台湾』創刊号 pp.1~15

斉藤良治 1960 「宮城県鳴瀬町宮戸台囲貝塚の研究」『宮城県の地理と歴史』 pp.54~67

斉藤良治 1968 「陸前地方縄文文化後期後半の土器型式について」『仙台湾周辺の考古学的研究』pp.54~67

須藤隆 1984 「北上川流域に於ける晩期前葉の縄文土器」『考古学雑誌』69 -3 pp.1~51

須藤隆 1992 「東北地方における晩期縄文土器の成立過程」『東北文化論のための先史学歴史学論集』加藤稔先生還暦記念会編 pp.655708

須藤隆・関根達人 1992「亀ヶ岡式土器の成立過程についてー岩手県玉山村前田遺跡23次調査―」『日本考古学協会第58会総会研究発表要旨』 pp.3840

須藤隆ほか 1984 「中沢目貝塚―縄文晩期貝塚の研究―」東北大学文学部考古学研究会

須藤隆ほか 1995 「縄文晩期貝塚の研究2 中沢目貝塚の研究2 中沢目貝塚Ⅱ」東北大学文学部考古学研究会

関根達人 1993 「西の浜式とその周辺」『歴史』第81輯  pp.6589 東北史学会

高柳圭一 1988a 「仙台湾周辺の縄文時代後期後葉から晩期初頭にかけての編年動向」『古代』第85号 pp.1~40 早稲田大学考古学会

高柳圭一 1988b 「宮城県金剛寺貝塚の再検討」『村上徹君追悼論文集』 pp.5571

仲田茂司 1993 西方前遺跡Ⅳ三春町文化財調査報告書第 17

仲田茂司 1994 西方前遺跡の縄文土器 三春考古学研究会

林謙作  1994 「回顧と展望―広域編年19931995」『縄晩期前葉~中葉の広域編年』 pp.~9

藤沼邦彦ほか1984 「田柄貝塚1」宮城県文化財調査報告書 第111

槙要照  1968 「陸前宮戸島における縄文後期末遺物の研究台囲出土の土器についての一考察ー」『仙台湾周辺の考古学的研究』pp. 6882

柳沢和明ほか 1994遺跡宮城県文化財調査報告書 第132集  

    第15章 2004(平成15年)後藤勝彦・小井川和夫『富崎貝塚-北上川中流域の淡水産貝塚の研究―』石越町文化財調査報告書第1集

1      遺跡の位置 富崎貝塚は宮城県登米郡石越町中沢富崎地内にある。石越町は宮城県の最北端、北は夏川を経て、岩手県花泉町に接し、西はJR東北本線に接して栗原郡若柳町、東は南流する夏川を経て中田町、南は広大な田園が開け、迫川を経て迫町に接する。

遺跡は石越丘陵の東端、南流する夏川流域からV字状に奥まった最深部の丘陵地に発達した貝塚である。JR東北本線石越駅からほぼ東、丘陵を経て直線距離で約2.5キロの位置にある。

 富崎貝塚から南方は、現在宮城県の穀倉地帯で低丘陵が連なり、耕地が開けている。その間に伊豆沼、長沼等湖沼地帯が開ける。古くはこの周辺は湿地地帯であった。遺跡の分布を見ると、低丘陵部分に遺跡が点在する。富崎貝塚を含めてこの地域の遺跡群は、仙台湾貝塚群の中でも、大きく北上川流域貝塚群と区分され、オオタニシ、イシガイ、ヌマガイを中心とした主淡貝塚が中心の地域である。町内田上、黒山貝塚を含め、伊豆沼・内沼周辺では志波姫町に敷味・原貝塚、築館町に嘉倉・横須賀、砂子崎貝塚が存在する。

また、長沼周辺には特に多く、糠塚・倉崎・堤花・地狼・山ノ内表・大多古・川戸沼・八ツ森・観音寺・上の台の遺跡が存在する(註1)。これらの貝塚は、面積が狭く開田等によって破壊され、消滅した貝塚もある。迫町の遺跡から南、南方町には青島貝塚や平貝貝塚がある。特に、青島貝塚は町史編纂のため2年にわたり調査がなされ、多数の埋葬人骨が発見され、中でも特殊な埋葬形態の人骨が発見して話題にになった貝塚である(註2)。遺跡周辺は湖沼地帯で広い湿地帯が広がり、当時の人々の生活場としては、豊かな環境であったと考えられる。迫川流域の南方、箆岳丘陵の北端にも貝塚は分布する。しかし、淡水貝塚でもその内容は変わり、桶谷町長根貝塚のようにシジミ主体の貝塚である。

さて、石越町の北については、富崎貝塚の夏川対岸、岩手県花泉町に貝鳥貝塚と白浜貝塚があり、同じ流域の富崎貝塚を含めると三貝塚は、文化的によく似た内容を持ち、同じ時期に集落を構えた時期もあった。古い時期から集落を営み、遺跡の規模が大きい、貝鳥貝塚を中心的存在でなかったかと考えられている(註3)。

(註1)a 後藤勝彦「登米郡長沼付近の貝塚群について」『地域社会(北方村誌別刷)』1953

b 東北歴史資料館 『宮城県の貝塚』東北歴史資料館資料集 25 1989

c 興野義一 「迫川流域の石器時代文化」『仙台郷土研究』183号 1958 

(註2) 南方町 「宮城県登米郡南方町青島貝塚発掘調査報告-内陸淡水産貝塚の研究-」南方町誌資料編・第一部 1975

(註3)草間・金子『貝鳥貝塚-第4次調査報告』岩手県花泉町教育委員会・岩手県文化財愛護協会 1971

3 調査の概要 富崎貝塚は伊豆沼、長沼周辺、迫川流域の湿地帯に面する主淡貝塚の一つである。淡水産貝塚の性格を明らかにすること。出土遺物は縄文時代後期中頃から晩期初頭であり、この時期の編年関係を明らかにすることを目標にした。

調査は富崎地区の南斜面に、桑が植えられている畦間に、幅約1.4mの調査区を南からABCDEの5地区設定して調査を開始した(図2)。各調査区とも数層の貝層が認められたが、上層は殆ど撹乱層であり、過去に畦間に追肥が施された形跡や盗掘の撹乱さえ見られた。包含層は南側のA地区でもっとも厚く、E地区で貝塚の端に当たるのか薄いことが判明し、貝塚は南西に傾斜していた。包含層としては事前調査をしたA地区が一番条件がよかった場所であった。

Aトレンチ 幅1.4m、長さ2mで1区の設定である。上層大部分撹乱層、層は南西に傾斜。図3のような薄い貝層が3層である(図3

Bトレンチ 幅1.2m、長さ6m、3区でⅦ~Ⅸ区とした。貝層は南西方向に傾斜。貝層がやや厚い3層が東西壁に、ほぼ北側に堆積が厚い(図4)。 

Cトレンチ 1.2m、長さ2.2mと2mのⅥ区とⅧの2箇所を設定。Ⅵ区はほぼ畦幅の撹乱層8層まで、僅かに東西壁に層が確認。Ⅷ区は貝塚の南側に当り、堆積層は薄い。 

Dトレンチ 幅約1m、長さ6m、Ⅴ、Ⅵ、Ⅶの3区を設定。Cトレと同じように、畦幅に撹乱層が9層まで、東壁は5層の貝層まで撹乱、西壁は1層から5層まで、また、7層までの大きな撹乱が3箇所、東西壁に層が確認される(図5)。

Eトレンチ 幅1.2m、長さ10mのⅠ~Ⅴ区の調査区を設定。貝塚の北側に近く、堆積層は薄く、少ない。

 調査区の状態は以上であるが、貝層はオオタニシ、ヌマガイ、イシガイ等の淡水産貝類で、破砕状態の堆積である。したがって、分層調査が難しく困難であった。しかし、4出土遺物の土器項目で、調査区の多く撹乱を受け、出土状況の点でも層位的所見が示されるのは、Bトレンチで、その大要が把握された程度である。 

Bトレンチ層位図

 1層 表土

 2層 褐色混貝土層(柔らかい、オオタニシ多い部分あり)

 3層 褐色土層(薄く、北壁なし、遺物なし)

 4層 貝層(オオタニシ主体、Ⅷ区混土貝層的)

 5層 褐色混土貝層(やわらかく、魚骨含む)

 6層 貝層(オオタニシ、イシガイ、ヌマガイ)

 7層 混貝土層(木炭多く、暗褐色、柔らかい)

 8層 貝層(オオタニシ、イシガイ、ヌマガイ、Ⅸ区混土貝層的)

4 出土遺物 この項目で土器を小井川とこれ以外の遺物を後藤が担当とした。

1)土器

 出土土器はいずれも縄文土器で、後期後半から晩期前半ものが主体である。しかし、既に述べたが、調査区の多くは撹乱を受け、大半は破片資料である。また、層位的所見が得られた調査区もほとんどなく、1970年のBトレンチにおいて大要が把握された程度である。

以下、まずBトレンチ出土土器について述べ、次に他の調査区出土土器について一括して概要を紹介する。

なお資料は、Bトレンチでは文様構成の推定が可能なものはできる限り提示することとし、他について主に口縁部資料とした。所属時期の特定が困難な地文のみのもの及び無文のものは一部を除き省略した。

Bトレンチ出土土器】 Bトレンチは台地裾部に東西に設定された1×6mの調査区である。調査区内では表土(1層)下に29層の8枚の層が確認された。各層は西方へ緩く傾斜しており、傾斜の下方にあたるⅦ区での表土を除く層厚は80㎝であるが、上方のⅨ区では表土下は直ぐ第8層になっている.全体に出土土器の量は少ない。

出土土器を層毎に図15に示した。概観すると、第7層を境として上部の26層と下部の89層とでは様相を異にしていることが見て取れる。なお、各層にはより以前に属する土器の混入と見られるものがあるが、それらについても図右側に区別して示した。

(1)26層出土土器 (図682376)所謂三叉文によって特徴づけられる土器群である。深鉢、鉢、浅鉢、皿形土器などがある。

〔深鉢形土器〕いずれも口縁部から湾曲しながら底部に至る単純な器形で、口縁は小波状口縁であることがほとんである。口縁部に一定幅の研磨・磨消帯が巡り、以下には縄文が施される。口縁部磨消帯がそのままの状態のもの(4748496364)と、文様が施されたものとがある。文様の施文はこの磨消帯内に限定されており、研磨・磨消されたままの場合であっても一種の文様帯と見てよいようであろう。

文様となる三叉状文には、入組三叉文、玉抱き三叉文、魚眼状三叉文と、入組文の延長上にあるともいえるような入組・魚眼状に中間的なものがある。前三者は沈線の目で描かれる(30316162)。後者は地文と組み合った形で磨消文的手法が描かれる。地文が縄文の例(46)もあるが、細長の刻目が施されているものが大半である。(2329425459)。刻目は、先端の薄い箆状工具を土器面に縦に当て、横方に連続的に移動しながら押捺したものである。(”箆刻目“と仮称する)。なお、この刻目は文様帯中においての地文的なもので、器全体として地文は胴部以下に施される縄文である。相対的な比較では、前三者の文様が施される土器は小形のものが多く、後者では大形のものであることが多い。

6層の40は頂部が二分する低い突起をもつものである。磨消帯が突起に対して三角形に突き出す文様と思われる。口縁部が他の小波状口縁とは異なる状態であるが、文様帯が口縁部に集約されていることなどから土器群の内に含まれものと考えたい。土器中での前出的なものであろうか。

〔鉢形土器〕口縁部に研磨・磨消帯があり以下は縄文施文のもの(343568)と、全面研磨されるもの(33434469)がある。34は、残存する沈線の状況から見て、魚眼状ないし入組・魚眼の中間的な三叉文が施されると推定されるものである。35は小波状口縁の波頂部に向かうように三叉文が施されるものとおもわれる。68は沈線のみのものであろう。全面研磨のものは、いずれも頚部に屈曲を持つ器形で、胴部に文様が施されるもの(4344)、沈線がめぐるもの(33)、無文のもの(69)がある。

39は、口縁部が内傾し幅広い頚部へと続き強く屈曲して外張りする胴部にいたる特殊な器形で、底部には円形の凸部が4個配される。口縁部には玉抱三叉文が、胴部には渦文などの沈線文様が施文されている。

〔浅鉢・皿形土器〕全面が磨かれたものが多い。口縁部に魚眼状三叉文が施されるものが目につき(366566)、口縁部はそれぞれ平縁、小波状、小突起が付されるものである。51は小型の器形のものでほぼ全面に文様が施される。67は頚部に屈曲する器形で胴上部に入組三叉文が施され、以下は縄文施文である。

他に壷形土器(373875)、注口土器(7374)があるが破片のため詳細は不明である。60は大形の口縁部突起である。器形は不明であるが文様は箆刻目を地文とするもので、深鉢形土器のそれと共通する。

3250は小形土器である。胴部に三叉状文が施されている。

27層出土土器(図87784)いくつかの段階の土器が混在していると思われるが、量的に少なく、ここでは個別にその様相を述べることにする。

77は大形の壷形土器である。口頚部には円文を中心に弧線文系の文様が、胴部には入組文が施される。円文部・入組文結節部にはそれぞれ三叉文の彫去が加えられている。79は頚部で締まり胴部が張り出す深鉢形土器である。口頚部・胴上部に入組文が施されている。78も同様のものであろう。口頚部の入組文などを埋める刺突手法による刻目(“刺突刻目”と仮称する)に特徴がある。80は口縁部に大小の山形突起が配される鉢形土器である。大きな山形突起に対応して、頂部が二分する円形突起が付されている。8283は瘤状小突起が付されるもので、壷形土器、注口土器である。8184は口縁部に縄文帯が巡らされる壷形、浅鉢形土器である。

389層出土土器(図81085149) 瘤状小突起が多用される文様に特徴付けられる土器群である。深鉢、鉢、浅鉢、皿、壷形土器等がる、なお、8586は文様的に見て後出のものと考えられる。

 〔深鉢形土器〕87104) 器形の推定できるものでは、頚部で締まり胴部が張り出すものが多い。口縁部は平縁で、頂部が深く二分された突起がつくものが多い(879394など)。95は大波状口縁のものである。施される文様は入組文に近いもの(98)もあるが、多くは弧線文と見られるもので、その各所に瘤状小突起が付されている。文様部の地文には縄文(9899)、細い条線(889197100101)の外に、文様内容を磨き残した言わば素文状態のもの(87)もある。10310.4は格子状沈線が描かれた胴部資料である。なお、105も同様に格子状沈線が施された台部である。深鉢または浅鉢形土器につくものであろう。  

96は外全面に縄文が施され、口縁に突起が付されたもので、やや湾曲しながら底部へ至る単純深鉢形のもと思われる。

〔鉢形土器〕(106112) 器形がうかがわれるのは106のみである。頚部下端に屈曲を持つ。口縁部に縄文帯が巡らされ、胴部に弧線文様が描かれる。他に107112については、口縁部の傾きや形状から鉢形としたが、いずれも小破片であり、詳細は不明である。

〔浅鉢・皿形土器〕113135143) 外傾する口縁部からほぼ直線的に底部に至るものが多いが、器中位に屈曲を持つもの(117135)もある。143のように台が付くものもある。文様は、瘤状小突起が主体のもの(116)、瘤状小突起が平行沈線や縄文帯と組み合うもの(113115117118143)、瘤状小突起が文様中に施されるもの(135)、弧線文様が主体となるもの(119133134)など多様である。

〔壷形土器〕137140144) 器全体が知られる資料がないが、内傾する頚部から球形に張る胴部に移行し、口縁は外傾して開くものが多いと見られる。頚部に、平行沈線に瘤状小突起が組み合う文様が施されるもの(138140144)、弧線文に瘤状小突起が組み合うもの(139)がある。他に注口土器(141142)、台付きの小形土器(136)がある。

以上のように、Bトレンチ出土土器は層位的に三つの段階に区分される。それぞれの段階及び扱い保留した土器については、その年代を検討することとする。

 26層土器は三叉文の施文に特徴があり、深鉢、鉢、浅鉢、皿形土器のいずれも共通する文様が見られる。三叉状文のない深鉢形土器(47496364)であっても、共に小波状口縁で、口縁部に磨消帯が巡るという共通する要素が認められることは既に述べた。浅鉢形土器68も同様である。こららの土器群は、従来の編年に照らして晩期初頭大洞B式(山内;1930)に位置づけられる。

 89層土器は瘤状小突起の多様という特徴などから後期末葉の宮戸Ⅲa式(後藤:1962)に位置づけられよう。

 7層土器は89層の間、すなわち宮戸Ⅲa式と大洞B式の間の土器ということになる。現在、この時期には宮戸Ⅲa式に後続する“刺突刻目”施文の土器群と、更に後続する入組文文様系の土器群という大きく二つの段階が存在することがしられており、気仙沼市田柄貝塚などにおいてその層位的な変遷も確認されている(宮城県教育委員会:1986)。

7層出土の土器に、“刺突刻目”土器群にあたるのが明らかのものは7879である。また、77は特徴的な器形に壷形土器で、胴上部に入組文が施文されている。鳴瀬町里浜台囲貝塚Bトレンチ(小井川:1980)などに出土例があり、入組文文様系土器群の組成をなすものである。80の鉢形土器については帰属段階を推定する要素に乏しいが、口縁突起下にに付される円形の突起が89層土器の瘤状小突起に比べて丁寧な調整を加えたものであることなどから、“刺突刻目”土器群に属するものと考えておきたい。8283は瘤状小突起が付されたもので89層土器に共通する。8184については、口縁部に縄文帯を巡らす106との類似性から89層段階のものと考えたい。

以上のことから7層には、宮戸Ⅲa式、“刺突刻目”土器群、入組文文様土器群の三段階の土器が含まれていると考えられる。層の形成時期は最も新しい入組文文様系土器群段階ということになろう。

次に各層で混入として区別した土器についてみる。

2層-416層-70は入組文文様系土器群に属する。頚部でしまり胴部が外張りする深鉢形土器である。口縁部に肥厚する大きな山形突起が配され、頚部に横長楕円形の彫去を主体とした文様が口頚部・胴上部に入組文文様が施されるものであろう。6層-7688586も同様である。6層-71は、“刺突刻目”土器群に、6層-72は宮戸Ⅲa式に属するものと考えられる。5層-52の壷形土器については明確ではないが、宮戸Ⅲa式段階ないしそれ以前のものとおもわれる。4層-458層-1201329層-145146は、弧線文や弧状の縄文帯などによって文様が構成されるもので、宮戸Ⅲa式より前出のものであろう。  

5層-539層-147は中期末葉の土器である。

 同様に1層(表土)出土土器(図1122)についてみる。

2310、三叉状文様など26層土器との共通点がみられるもので、大洞B式期のものであろう。1については大洞B式期より後出のものとみられる。4は、小片のために明確でないが、大洞B式またはそれ以前のものと思われる。1113は入組文文様系土器群に、14は“刺突刻目”土器群に含まれるものと考えられる。152189層土器に共通しており、宮戸Ⅲa式のものであろう。22は後期中葉の土器である。

山内清男1930:「所謂亀ヶ岡式土器の分布と終末」『考古学』13

後藤勝彦1962 「陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器について-陸前地方後期縄文文化の編年的研究―」『考古学雑誌』481

宮城県教育委員会1986「田柄貝塚」

小井川和夫1980「宮戸島台囲貝塚出土の縄文後期末・晩期初頭の土器」『宮城史学』7

【他の調査区からの出土土器】

文様的特徴によって区分した。

1 (図11148165) 口縁部などに彫去刻目帯が巡らされものである。“彫去刻目”は、平行沈線間を刻んだ後更に調整を加えてあたかも彫去したかかのように仕上げされたもので、先に述べた“刺突刻目”、“箆刻目”と区別するためにこのように仮称した。

深鉢・鉢形土器(148160、)浅鉢形土器(161164)、壷形土器(165)がある。単純な深鉢・鉢形が多いが、肩部で張り出し頚部が内曲して口縁部にいたる器形のもの(159160)もある。161は胴部に磨消縄文文様が描かれている。壷形では肩部に刻目帯が巡らされている。

2 (図11166171) 口縁部上端に彫刻的な装飾が施されもので、いずれも浅鉢形土器である。口縁部に数状の沈線が巡らされもの(166167169)、彫去刻目帯が巡らされるもの(168171)、外面に磨消縄文文様が描かれるもの(170)などがある。また口縁内側にも刻目帯がめぐらされるもの(168169171)もある。

3類 (1112172202) 口縁部に数状の沈線が巡らされるものである。深鉢・鉢形土器である。口縁部が刻まれるもの(172190)と小波状気味なるもの(191202)とがある。

4類 (図12203217) 口縁部に研磨された無文帯が設定されるものである。いずれも深鉢・鉢形土器で、口縁部が小波状のもの(203213)と平縁のもの(214217)とがある。

5類 (図1213216266) 羊歯状文が施されたものである。深鉢・鉢形土器、浅鉢形土器、壷形土器、注口土器などがある。深鉢・鉢形(218232)では口縁部のみに文様帯をめぐらすものが多い(218228231232)。230は胴部にも施されている。また229は頚部で屈曲する器形で肩部以下に文様が施される。壷形(233235)にも、全容は不明であるが肩部以下の胴部にも文様が施されるものと縄文施文のものとがある。236238は浅鉢形であるが小破片のため詳細は明らかでない。239241は壷もしくは注口土器であろう。 242243は香炉形土器の可能性がある。注口土器(244255)は頚部から内傾し肩部が強く屈曲して張り出す器形で、頚部・肩部に文様が施される。245のように頚部からそのまま内傾して口縁部にいたるものの他に、239241の口縁部片を考慮すると、口縁部が大きく開く器形のものも考えられる。

他に、台部破片が比較的多い(256266)浅鉢形などに付くものであろう。脚部に透かしと組み合った形で渦文など描かれ、羊歯状文は裾部に施されている。

6 (図1417) 三叉状文が施されるものである。施文状況や文様の形によって類別される。

a口縁部に巡らされた数条の沈線間を刻むように入組・魚眼状の中間的な三叉文が施さられる(267296)。いずれも深鉢形土器である。口縁上端が刻まれるものや小突起が配されたものが多い。

b口縁部研磨帯に沈線によって文様が描かれる(297338)。

深鉢・鉢形土器、浅鉢・皿型土器がある。深鉢・鉢形のもの(297338)では平縁が多い。また、全面が磨かれ内湾しながらそのまま口縁部に至る器形が多く、口縁部が外反するもの(333)、短く直立するもの(334337)もある。頚部で屈曲し外傾するもの338では、口縁部と共に胴部にも文様が施されている。

c刻目・縄文と組み合う形の文様が描かれる(339370)。小波状口縁の深鉢形土器が多い。刻目はいずれも”箆刻目“である。縄文と組み合う339では文様帯内の縄文原体は胴部のそれとは異なっている。文様は、入組・魚眼状の中間的なものが一段描かれことが多いが、他の文様とも併用されて多段に描かれているものもある(362)。また366は頂部が二分する低い突起に向かって三角形に三叉状文が施されている。369370は小形の浅鉢・

皿形土器である。

d三叉状文に弧文・渦文などが組み合った一体化した文様が描かれる(371396)。深鉢・ 鉢形土器(371373)、浅鉢・皿形土器(374379)、壷形土器(380381)、注口土器(382391)などがある。392は香炉形の可能性がある。深鉢・鉢形では文様帯は口縁部に限られるが、他はほぼ前面に文様が施されことが多いと見られる。393396は台部である。

e口縁部の突起や波頂部と組み合う形で描かれる(397405)。397402では山形突起や其れに対応する部位に上方から突き出すような三叉文が描かれている。頚部で締まり、胴部が外張りする深鉢形土器と思われる。403404は口縁部から屈曲なく底部に至る単純深鉢形と見られ、頂部が二分する低い波頂部に同時に描かれている。405は小形の浅鉢形土器である。

7 (図1718406424) 入組文を主なモチ-フとする文様が施されるもので、文様部を埋める地文的な要素が縄文のもの(406413)と、“箆刻目”のもの(414424)がある。いずれも口縁部に山形突起が配され、頂部が二分、三分されるものもある。頚部で締まり胴部が張り出す深鉢形土器が多い。頚部に横長楕円形の彫去を主体とする文様がめぐらされる。421423に見るように、”箆刻目“は口頚部の文様に施され、胴部文様帯の地文は縄文である。また、入組文の結節部や弧線文の接点部に三叉文が施されるものもある(413423)。424は単純深鉢形で、入組文は施されないが”箆刻目”や口縁突起の状況がらみてこの類に含まれるものであろう。

8 (図18425442) 刺突手法による刻目が特徴となるものである。頚部でしまり深鉢形土器(425435440441)と、単純深鉢形土器(438439442)とがある。前者が多い。口縁部は平縁のものとそれに突起が配されるものがあるが、突起は7類のものに比べて小さく低い。施される文様は入組文文様の他に弧線文文様(433435)がある。“刺突刻目”は口縁上端の他、それらの文様中を埋めたり、文様帯の上下を画す平行沈線間に施されたりしている。頚部の屈曲部にめぐらされているもの(425441)もある。ただし440441の胴部破片資料から見て、7類の“箆刻目”と同様、胴部文様には施されないようである。また、文様結節部などの要所に瘤状小突起が付されているもの(430432434)もある。

9類 (図1920443504) 瘤状小突起が多用されるものである。深鉢形土器、鉢形土器、浅鉢・皿形土器、壷形土器等がある。瘤状小突起は周囲を撫で付けた程度の粗い調整で尖ったような状態のものが多い。

深鉢形(443452456461)には460461のように傾部でしまり胴部が張り出す器形のものがあることが知られるが、他は破片のために全体形をうかがうことは困難である。文様は入組文に近いもの(456)もあるが、多くは弧線文文様である。文様部の地文には縄文(447など)、細い条線(444446448)があり、ほかに再調整を行なわない状態のもの(443445456)もある。

453455は鉢形で、平行線文文様のもの(453455)と弧線文文様のもの(454)である。

浅鉢・皿形(462487)はいずれも平縁である。口縁部に沈線と組み合う形の小突起が一ないし二段巡らされもの(462473)、二段の間に弧線文文様が描かれもの(474476)、磨消縄文手法による広い文様帯が配されるもの(477485・487)、器中位に文様帯がはいされるもの(486)など、施される文様やその状況は多様である。487は四角形の皿形で円筒形の台が付く。

壷形(488502)では、頚部が内傾し球状の胴部となる器形(499501)が多いと思われる.外傾する口縁部破片(488497)の多くがそれに組み合うものであろう。全面が磨かれ、平行沈線と小突起による文様が描かれる。498は口縁部が短く立つもので縄文が地文として用いられている。502は筒形の器形で、口縁部に橋状突起を持つ隆帯が巡らされ、胴中部に弧線文文様が描かれる。

503は注口土器、504は香炉形土器である。

10 (図2123505557)) 弧線文や、弧状の縄文帯で文様が構成されるものである。更に区分されるべきものと考えられるが、類別のための要素を明瞭に抽出することができないため、一括して扱った。

弧線文文様のもの(505523)には、深鉢・鉢形土器、浅鉢形土器、壷形土器などがある。

〔深鉢形〕(505516519)は頚部でしまり胴部が外張りする器形で、大波状口縁をなすもの(505506508512514515)と、平縁のもの(507513516)がある。波状口縁の頂部には肥厚する所謂親指状の大形突起が配され、頂部間にも小形の突起が配される。平縁の507513も同様の突起が配されるものと見られる。文様は、口縁に沿って弧線が連続されるもの(514)、上向・下向弧線が対に描かれるもの(516)、入組文の祖型と見られるような弧線文のもの(505513515など)などである。また、文様内に縄文がほどこされた磨消縄文手法の物と、沈線だけの場合とがある。〔鉢形〕と思われる517518は微隆起線によって弧線文が描かれている。〔浅鉢形〕(520522523)の文様も深鉢形と共通する点が多い。小形の浅鉢形(520)では突起も配されている。521は〔注口〕土器で口縁に突起が配され、胴部に弧線文が描かれる。524は磨消縄文手法の弧線文文様が描かれる〔壷形土器〕である。弧状の縄文帯による文様のもの(525557)には、深鉢形土器、浅鉢形土器、壷形土器等が見られる。〔深鉢形〕(525540)は、頚部でしまり胴部が張る器形のものが多いと思われ、口縁が平縁のもの(525529532)と、波状のもの(530531535)がある。いずれも口縁に低い突起が配される物がある。540は単純深鉢形である。〔浅鉢形〕(541549) はいずれも平縁のものである。〔壷形〕(550556)は、 口頚部の状況は明らかでないが、胴部は球形に膨らむ器形である。ただ、壷形と深鉢形胴部はよく似ており区別の難しいものがある。それぞれの器形には大柄な文様が描かれその全容の知れるものはないが、部分的に縄文帯が襷状に組むもの(526551555)、入組文的に描かれるもの(525537541550)など共通する所が多い。また、縄文原体の回転方向を違えて羽状に施文する手法もそれぞれに見られ、全体として近似しているといえる。注口土器の557の文様も同様である。

 他に特徴が個別的で是までの類別に区分するのが困難なものがある。(図19558564)。

558は頚部でしまる鉢形土器で、口縁部に幅広の低い山形突起を配され、胴上部に弧線文様が描かれる。文様結節部には瘤状小突起が付されている。559は口縁部に低い山形突起が連続して配される浅鉢形土器で、胴部に4条からなる沈線帯が2段描かれる。560は台付の浅鉢形土器で、口縁部に小突起や沈線で飾られた山形突起が配され、胴部には橋状突起を持つ隆帯が巡らされている。561は口縁部に横長楕円形の彫去文様が巡らされる浅鉢形土器である。562は壷形土器と思われる。全面が磨かれ、口縁部に肥厚する山形突起が配されている。また口縁に沿って隆帯が付されている。563は口縁部が開き胴部で膨らむ鉢形土器で、胴部に縄文を地文とした魚眼状三叉文に近い文様が描かれるものと思われる。564は所謂工字状文が描かれる浅鉢形土器である。

 識別された土器群は、これまでの編年研究の成果などに照らして、概ね次のように位置付けことができるであろう。

1及び2は大洞C1式に属するものである。

3については、明瞭な文様特徴を欠くが、小波状気味であったり刻まれていたりする口縁部の状況から見て、晩期前半期に属すると考えられる。

4Bトレンチ26層から出土したものと同様であり、大洞B式に属する。

5は羊歯状文施文という特徴から、大洞BC式を中心とする時期のものと考えられる。

6は三叉文施文の土器群であり、大洞B式を中心とする時期と考えられる。ただし既に述べたように、三叉状文の施文状況や文様の形に数種類があり、中には大洞B式の範囲から外れると面われる土器もある。そのことを含め、後に本遺跡における大洞B式のあり方について検討することとする。

7は入組文文様系土器群である。

8は“刺突刻目”土器群である。

9Bトレンチ89層土器と同様で、宮戸Ⅲa式に属する。

10は後期中葉に宮戸Ⅱa、Ⅱb式(後藤:前掲)と宮戸Ⅲa式の間を埋める土器群であろうと考えられる。この段階の土器群については、西の浜式という名が冠されている(後藤:前掲)が、資料数が少なくその内容はまだ十分把握されていない。また、宮戸Ⅱ式についてもなお細分される可能性もあり、現在、この段階の土器群の様相についても不明な点が多い。本遺跡の資料も、より以上の検討を進めるための根拠を持つものではなく、ここでは大まかな位置付けを行うのに留める。

類別を行わなかった土器(図24)では、558については低い山形突起や、調整が加えられた瘤状小突起が文様の要所に限って付されていることなどから“刺突刻目”土器段階のものと考えられる。559は年代推定の要素に乏しいが、口縁部の形状から見て“刺突刻目”土器群段階に位置付けておく。561は横長楕円形彫去文様という特徴から、入組文文様系土器段階のものと見られる。560562も肥厚・加飾される山形突起の形状から見て同段階のものと思われる。563については文様の全容が不明のため明瞭で無いが、Bトレンチ7層-77の壷形土器の文様との類似性がうかがわれることから、入組文文様系土器群段階に位置付けておきたい。564は晩期後半の大洞C2式ないし大洞A式土器である。 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

出土土器の概略を紹介した。その内で、量的に比較的まとまっているのは三叉状が施された6類の土器群である。それらについて、Bトレンチ26層における共伴関係などを基本にしながら、そのまとまりを検討することとする。

先に述べたように、Bトレンチ26層土器は大洞B式に属すと考えられる。26層土器を類別によって整理すると、6(b)3034366266686(c)2329424654606(d)3839434451)であり、それに4類(47496364)も組み合う.。ただし、6(d)については、Bトレンチ資料が小片である事もあって内容に乏しく、類別された6(d)の全てが組み合うとする確証は無い。6(a)については、Bトレンチでは、2層-31が類似例とも言えるが、明瞭な資料は無い。しかし、田柄貝塚(県教委:前掲)では大洞B式を構成する事が報告されており、本来組み合う物と考えてよいもものであろう。ただし、この類の横線化した文様は更に後続する型式にも引き継がれている可能性はある。文様の横線化が顕著な6(b)浅鉢形土器334337も同様の可能性がある。6(e)には、口縁部に大きな山形突起を配するものと、頂部が二分する低い波状突起を配するものとがある。前者は、口縁部形態は7類共通するものである。三叉状文が施されているが、田柄貝塚では入組文文様系段階(田柄貝塚第Ⅶ群土器)で三叉状文のものとそうでない同種の土器の共伴が報告されており、本遺跡の7類にも三叉状文施文ものがある(413423)ことから、これらは7類段階に位置付けられるものと考えられる。後者はBトレンチ2層に類似例がある(35)。但し、小波状ではあるが頂部が二分することや403404のように肥厚傾向もみられることから、Bトレンチ2層-40と同様、大洞B式の中での前出的なものととらえておきたい。他に、3類の内で小波状口縁の197202も、鉢形土器であるが6層-68との類似性が窺われ、組み合う可能性あると思われる。 

以上のことから、本遺跡の大洞B式土器は、類別された土器に限ってみれば、4類、6(c)6(b)の大部分、3類・6(a)6(d)6(e)の一部よって構成されると考えられる。ところで、6(c)に用いられる“箆刻目”技法は7類の入組文文様系土器群段階から見られるものである。この技法が大洞B式段階の深鉢形土器まで継続される事は、既に近接する岩手県貝鳥貝塚の報告(花泉町教委:1971)でしられている(挿図)が、地域を違えた松島湾周辺ではほとんど類例が無い。その後、該期の資料が比較的まとまって報告された田柄貝塚出土土器に含まれておらず、大和町摺萩遺跡(宮城県教育委員会:1990)でも一例のみと出土量は限られている(挿図)。今後の類例の増加を待つ必要もあるが、6類(c)土器群の分布域が、本遺跡を含む限られている地域性を検討する上で興味深い資料であると思われる。(小井川和夫)

岩手県花泉町教育委員会1971:「貝鳥貝塚」

 宮城県教育委員会1990:「摺萩遺跡」

2      土製品(図25) 不明土製品、形態が様々で、その用途が特定できないもの。小形土製品 1は柱状、2は柱状で砲弾形、3は傘状で上部に索孔がある。4は柱状、上下ともに内側に湾曲のもの、5は小形台付土器、67は土偶片、現存は2点のみ。810は土錘、1114は環状耳飾。

3      石製品(図2627) 剥片石器、110は石匙、11は石匙を再利用して、石錘、12~18は石錐、1933は石鏃、棒状、下部に突起、抉りもつもの各種あり。3435は剥片の不定形石器、36は人形石器で長さ3.1cmは幅1.92cmであり、CトレⅧ-2層出土、非常に珍しいものである。棒状石器14は石斧、56石棒、78は有孔石器、9は火打石、10軽石、11砥石、12凹石。

      骨角製品(図2829

           刺突具 1367は、頭部に幅広き長い包丁の形態。458は通称ノ字刺突具であり、基部にアスファルトが付着したもの、9、両側に鈎のある刺突具である。1013は単純形刺突具で、特に13の基部にアスファルト付着、骨製である。14151724は小形で俗に骨鏃である。基部にアスファルト付着、2528は根挟形で上部に石鏃、牙鏃等を装着して使用するもの、同じく基部にアスファルトが付着、16は明らかでないが抉りがあり、アスファルト付着しているので、刺突具として使用。2930は破損しているが尖頭器である。

     装身具の仲間 13は髪飾りである。46は完形品で、あるいは刺突具と考えられる。715、上部欠損のもの、刺突具と面われる。9は鳥骨製、13はアスファルト付着、1618は下端部欠損のもこれらも刺突具になるか。19は鹿角製の垂飾具である。2021は熊、狼等の指骨を利用した装飾品特に20は全面朱彩で上部に貫通孔、21は指骨裏に刻みのあるもの、22は鳥骨を利用した装身具、23用途不明、朱彩、24キツネの下顎骨利用の垂飾品、2個の索孔がある。

5      貝牙製品(図30)装身貝類116、腕輪(貝輪)である。12、オオツタノハ製、2は2個の索孔がある。39、ベンケイガイ製、7、左側に1孔。10、ハマグリ製、1116、サルボウ製、1734、腹足綱(巻貝)のユキノカサの殻頂を切り取って、垂飾品としたもの、172812個はBトレⅦ・Ⅷ区出土のもの、3542、東北歴史資料館調査の里浜貝塚で最初に注目された。土器の器面の削りやミガキ調整に使用されたものと推定されたものと同類のもの、スレ貝である。4344、イノシシの牙製垂飾品、43には索孔がある。

6     自然遺物 本貝塚は古生物専門の早稲田大学の金子浩昌氏の参加ご指導によって、かなりの分析がなされた。軟体動物腹足綱13種、斧足綱23種、掘足綱1種、陸産貝1種、脊椎動物魚綱8種、両性綱1種、鳥綱13種、哺乳綱13種、773種の動物遺体が確認された。

 BDEトレンチでもサンプリングなされ、各資料にフナ、ギギ、ウナギの小魚骨が多く含むまれ、図31のフナの鰓蓋骨は高さ約5㎝、幅5㎝以上の大形のもので、サンプリングのフナ等は5㎝前後の小形魚も食料源として活用されていた事を示す。また、貝塚周辺に生息していた陸産貝の微小の巻貝、キセルガイ、ホソオカチョウジガイがまとまってみられる。これらは草木類の葉や落葉の下や樹間に生息するもので、食用貝とは本質的に異なる過程で入り込んだものである。貝塚周辺の環境や層の堆積過程を示すと考えられている。層の長期間地表面にさらされている場合に、陸産貝増加するという指摘もあり、また、層形成の破棄や中断、廃棄場所の移動の場合に陸産貝は増加するといわれている。里浜貝塚でも各層に多量の陸産貝の出土がありいろんな問題を抱えている。(註1)しかし、貝塚周辺は多少の樹木が生え、貝層に落葉が積もる状況であったと考えている。

 軟体動物の貝類については、主体は淡水産貝のオオタニシ等が中心である。調査の概要で説明したが、破砕状態の堆積であり、松島湾貝塚のように完形の貝の出土は少ない。サンプリング遺物の計測を実施した。C―Ⅳ―3(混貝土層)で殻長4㎝、殻径3㎝を越える資料は僅か8個体、C―Ⅳ―6(貝層)で46の計測、Ⅳ―3と同じもの7個体であり、大部分は稚貝である。イシガイ、ヌマガイも同じように完形品が少ない。海産貝が出土しているが、数量は僅かであり、製品として垂飾品等に利用されるものである。ツタノハは南海産のもので装身具として、タカラガイ等と共に盛んに利用されている。ユキノカサ、マツバガイ等殻頂を切り取って、整形したものと、Bトレからまとまって出土したことに注目したい。

 脊椎動物の魚綱は淡水魚が中心である。スズキ、サメについてはこの地方に持ち込まれたと理解される。フナ等については、伊豆沼、長沼の湖沼地帯の湿地帯に生息するもので、漁撈用具(刺突具)あるが、大形のフナ図31のフナ鰓蓋骨、高さ、幅共に5㎝を越えるものはいないが、サンプリング内の5㎝前後の小形フナは、刺突漁法よりも網漁法がなされていた(註2)。淡水領域での漁法として網漁法を考えなければならない。

 同じく、鳥類はガン・カモ科が中心である。ハクチョウ上腕骨8個、頸骨1個の9個体が確認されている。ヒシクイの遺存骨が多く、上腕骨(RL68、鳥口骨(RL28、頸骨(RL11、橈骨(RL9、肩甲骨(RL10、尺骨(RL23、鎖骨8、第3指骨(RL3となっている。ガンについても上腕骨が特徴的に検出されており、R24個である。カモについては、特に、金子氏の指導のもと上腕骨等を基に細分が実施され、大中型マガモタイプ、ヨシガモタイプ、中小型ヒトリガモタイプ、トモエガモタイプ、コガモタイプ等の細分がなされたのが、大きい成果である。ガン・カモ類は湖沼地帯に飛来する一群である。現在も伊豆沼・長沼の湖沼地帯は日本でも有名である。また、ガン・カモ科は季節的に飛来する一群で、秋から春である。この期間が狩猟期であった。ワシタカ科は特に、指骨で垂飾品として利用されている。内陸性キジの多いのも迫川流域貝塚群の特徴である(註3)。

 哺乳類では他の貝塚と同じように、中形獣のイノシシ、シカの遺骸が多く目立つ。イノシシ頭骨(上顎・下顎)、上腕骨、大腿骨、橈骨、腓骨、肩甲骨、寛骨、距骨等各種の部位骨格が出土している。調査の整理分類、分析が整っており、報告書作成のための再整理は非常にやりやすかった。

 個体調査のため下顎骨上顎骨の歯の萌出を検討した。下顎骨はAトレ5個体、Bトレ5個体、Cトレ1個体、Dトレ1個体、Eトレ6個体の18個体である。上顎骨はBトレ9個体、Cトレ1個体、Dトレ1個体、Eトレ6個体の14個体とばらつきがある(表1)。下顎骨と上顎骨で乳歯のもの、М3未萌出の幼体が捕獲されており、大部分は成獣である。

 シカ 頭骨(上顎。下顎)、イノシシと同じように、上腕骨、大腿骨、橈骨、脛骨、中足骨、肩甲骨、寛骨、第1頸椎、第2頸椎、距骨等各種の部位骨格が出土した。

下顎骨、上顎骨の歯の萌出を検討した。下顎骨はAトレ2個体、Bトレ7個体、Cトレ2個体、Dトレ3個体、Eトレ1個体の15個体であり、上顎骨はAトレ1個体、Bトレ6個体の7個体のみである(表2)。シカも乳歯のもの、М3未萌出の幼体が8個体とやや多い。他は成獣である。小形獣のウサギの25個体は多く、次いでタヌキ12個体、イヌ12個体、イタチ3個体、ネズミ、キツネ、ムササビ、テンの出土がある。海獣類のイルカ、クジラは当地方に他から持ち込まれたものである。特に、イヌについてはABトレで一体分の遺体が埋葬された状態で検出されている。イヌは早くから家犬、狩猟犬として飼いならされ使用されていたことを物語っている。

E-Ⅱ-6の埋葬犬(図32)は、大形犬でしかも、上顎、下顎歯が磨耗の進んでおり老犬である。長期間人間と共に狩猟活動に活躍していたのである。

E-Ⅳ-6からキツネ一体分の遺体(図33)の出土がある。非常に珍しい状態である。大きさは下顎骨R10.11㎝、L12.1㎝、上腕骨R11.5㎝、L11.4㎝、大腿骨R12.0㎝、L12.1㎝である。事前調査時の遺物にキツネ下顎骨Lの垂飾品がある。

両生類にカエルの大腿骨、指骨がある。ヒキガエルの寛骨の出土があり、食用にしたのかもしれない。

ヒト 57㎝の小大腿骨の散乱状態の出土である。調査中に胎児骨の出土の多いのに注目され、この時代の出産、育児の厳しさを知った。A-Ⅱ-4から幼児骨一体分、B-Ⅳ-8下から現高16㎝の下半部の内側にU字状に欠いた中に、胎児骨入れて埋葬された土器の発見がある(図3435)。

  (註1)1985 東北歴史資料館『里浜貝塚Ⅴ』東北歴史資料館資料集15 

  (註2)1975 南方町『宮城県登米群南方町青島貝塚発掘調査報告―内陸淡水産貝塚の研究』南方町誌資料編第一部

  (註3)前掲書(註2)同じ

5 出土遺物の考察 

(1)出土土器について-土器編年-

 本貝塚の出土土器は、縄文土器で後期後半から晩期前半が主体である。担当者も述べているが、調査区の多くが過去の追肥等の撹乱もあって、土器の大半は破片である。また、撹乱により層位的所見の得られた調査区はなく、僅かにBトレンチにおいて、その大要が把握された程度であるという。Bトレンチは8層が確認され、7層を境に上層の26層と下層の89層で遺物の様相に変化が見られる。

 2~6層出土土器は、三叉状文施文の土器群である。深鉢群、鉢形、浅鉢形、皿形土器がある(図678)。三叉状文には、入組三叉文、玉抱三叉文、魚眼状三叉文と入組文の延長上にある入組・魚眼状の中間的なものとがある。前者は沈線のみで描かれる。後者は地文と組み合って、磨消縄文的手法で描かれる。地文の縄文、細長い刻目(箆刻目)が施されたものが大半である。これらは晩期初頭大洞B式にあたる。

 7層出土土器は、出土量が少ない。何段階かの土器が混在する。宮戸Ⅲa式と大洞B式の間の土器ということになる。この時期は気仙沼市田柄貝塚の調査(註1)によって、宮戸Ⅲa式に後続する刺突刻目土器群と、更に後続する入組文文様系土器群の二つの段階の存在が明らかにされている(図8)。

 8・9層出土土器は、瘤状小突起が多用される土器群である。深鉢形、鉢形、浅鉢形、皿形、壷形土器等がある(図8910)。これらは後期後葉の宮戸Ⅲa式にあたる。

〔Bトレ以外の調査区出土土器〕文様特徴によって1類~10類に分類、ここまでの編年研究の成果で位置付けた。

1類~2類 大洞C1式     3類 晩期前半期

4類 大洞B式        5類 大洞BC式  

6類 大洞B式        7類 入組文文様系土器群

8類 刺突刻目土器群     9類 宮戸Ⅲa式 

10類 宮戸Ⅱa、Ⅱb式と宮戸Ⅲaの間を埋める土器群 

このように、Bトレンチの層位的所見と、類別した土器群の編年的位置付けから、23の問題が提起されている。それは、後期中葉の宮戸Ⅱa、ⅡbとⅢaを埋める土器群の再検討と宮戸Ⅱ式の細分される可能性も指摘されている。また、7類・8類の土器群位置付けもある。それに、大洞B式の文様構成で、6cの箆刻目技法は、7類の入組文文様系土器群段階から、大洞B式段階の深鉢形土器まで継続される。6c土器群の分布域が本遺跡を含む、限られた地域の可能性が考えられることである。調査の結果、撹乱が多く予想していたような成果が挙げられなかったこと残念であるが、そのような不利な状態の中で、以上のように〔まとめ〕られた担当者に感謝したい。

(2)自然遺物からの考察 自然遺物は773種が確認された。これらの検出された動物遺体の種類と量から、当時の集落を支えた経済活動が、かなり活発になされたと想定される。

 山野、湖沼、湿地帯に棲む中小哺乳動物、飛来するガン、カモ科の鳥類に対する狩猟活動。 河川、湖沼に棲む淡水魚対象の漁撈活動。③ オオタニシ、ヌマガイ、イシガイ等の淡水産貝類の貝類採捕活動である。これらの経済活動は日常的なものと、季節的なものと巧みに組み合って展開されたと考えられる。

特に、淡水魚を対象とした漁撈活動では、フナが目立ち大形の個体と多数の小形個体がある。魚骨層を形成場所もあり、本貝塚から刺突具が比較的多く出土している。日常的な活動の他に、一時的に多量の捕獲の罠漁や網漁法等が実施されたと考えられる。 

 中小哺乳動物と飛来するガン、カモ科の鳥類狩猟活動についてである。ガン、カモ科の骨の堆積層は、渡り鳥が飛来する時期に堆積したものと考えて、季節的に飛来するハクチョウ等のガン、カモ科は、11月から3月頃に捕獲され、猟期は冬季ではないかと提唱されていた(註1)。しかし、幾つかの問題があった。堆積層についての解釈、遺存体の処理の問題、ガン、カモ科の遺体が特定の層のみ、また、全く出土しない層は富崎・青島貝塚では、認められなかったという事実もある。そこでと富崎貝塚の自然遺物整理者が、猟期を考えるために別な方法を示した。シカ、イノシシの顎骨の永久歯の萌出及び磨耗によって、捕獲された時期の年齢を算出して、それから狩猟を推定する方法が示された(註2)。

イノシシは12月~2月が交尾期、妊娠期間中約130日で、4月~6月頃に38頭を出産する。また、シカも交尾期が9月~11月上旬で、約250日の妊娠期間経て、翌年56月末に1頭を生む。生長過程をイノシシの現生標本の歯の萌出過程を調査し(註3)、シカも現生シカの歯の萌出過程を調査した資料(註4)を参考にし、それに、それぞれ貝塚標本と調整して、年齢別歯の萌出段階を作成した。それが、表3と図36である。その結果、イノシシではⅢ-3~Ⅳ―2段階が多く(表1参照)、生後1830月に相当し、5月に生まれたとすると、捕獲時期は11月中旬となる。シカもⅣ―2が多く、Ⅳ―1段階が続く (表2参照)、これらも生後約1921月に当たり、出産最盛期の5月下旬から6月中旬に生まれたと仮定すると、捕獲時期は12月下旬から翌年3月中旬と推定される。

乳歯を持つ幼体、イノシシではⅡ―2~Ⅱ―3の段階も、同じく10月頃から11月頃と推定され、イノシシ、シカ共に、冬季を中心に初秋から早春が狩猟期であるという。

 このように、縄文人の季節的活動の研究が、動物遺体の観察・分析によってすすめられる。本遺跡の資料がこの研究に初めて利用された事、また、自然遺物整理者、自然遺物指導者の努力に敬意を表するものである。

埋葬人骨は他遺跡と比較して多くない。特に、散乱状の胎児骨、幼児骨の出土が異常な状態として注目された。生活環境の悪さか、出産、育児の厳しさを示すものであろう。

B―Ⅳ―8下から土器底部を利用し、片側U字状に打ち欠いた中に、胎児骨を入れ埋葬された遺構があり、特記される。

自然遺物でツタノハ、ハマグリなどの海産貝は、イルカ、クジラ等の海産魚や海獣はこの地域に持ち込まれたもので、遠く、北上川下流域の海岸地帯から運びこまれたもので、交易が考えられる資料である。

(註11970林謙作『宮城県浅部貝塚出土のシカ、イノシシ遺体』物質文化研究15

(註21974遊佐五郎『狩猟活動の季節性について―シカ、イノシシの遺存骨による猟期の推定―』宮城史学3

(註31980大秦司則之『遺跡出土ニホンジカの下顎骨による性別、年査定法』考古学と自然科学13

(註4)林・西田・望月・瀬田『日本イノシシの歯牙による年齢と性の判定』日本獣医学雑誌39



6 おわりに 調査が終了し、しかも、報告書作成にいたった経過から、現時点まで遅延した事調査担当者の大いなる責任である。調査成果を要約すると、

(1)本貝塚はオオタニシ、イシガイ。ヌマガイ等を主体とする、主淡貝塚で北上川中流域の貝塚に属し、特に、迫川領域群の貝塚である。貝層が薄く、オオタニシの破砕貝の堆積を特徴とする。主淡貝塚の調査は、青島貝塚と2回の経験である。

(2)貝塚の時期は、多くは破片であるが、出土土器から縄文後期宮戸Ⅲa式周辺から、縄文晩期大洞C1式までである。撹乱が多く、残念ながら層位的に大要が把握されたのはBトレンチの調査区だけである。

(3)出土遺物は多くない、土製品で用途不明の遺物3点、土偶2点、漁撈用具の土錘が3点、表採と試掘時の環状耳飾り程度である。石製品では一般的な剥片石器、棒状石器が出土している、(図2526参照)。特記することは、剥片石器の人形石器はめずらしいもので、棒状石器の有孔石製品があり、垂飾品である。骨角製品の出土はやや多い。また、装身具で頭部に彫刻や朱彩の物も存在する。数は少ないが、鹿骨製の特殊な垂飾品、熊等の指骨に彫刻や朱彩された垂飾具があり、当時の社会生活を考える資料もある。貝牙製品では、房総半島以南の暖海に生息するツタノハやハマグリ、サルボウを利用した装飾品、腕輪(貝輪)。ユキノカサ、マツバカイ等の殻頂をきりとって、整形した垂飾品が注目される。

(4)自然遺物については、軟体動物腹足綱13種、斧足綱23種、掘足綱1種、陸産貝1種、脊椎動物魚綱8種、両生綱1種、鳥綱13種、哺乳綱13種、計773種類の動物遺体を確認し、分析を実施したことである。

 貝層はオオタニシの破砕貝が中心である。各層のブロックサンプリングの整理によって、陸産貝の微小の巻貝、キセルガイ、ホソオカチョウジがまとまって検出された。これらは食用貝とは本質的に異なる過程で入り込んだものであり、貝塚周辺の環境や層の堆積過程を示すと考えられている。

 魚類は淡水魚が中心である。特に、フナの量が多く、大形のフナの鰓蓋骨(図30参照)が相当量あり、其れに、5cm前後の小形フナも相当量捕獲されており、道具の使い分けか、漁法の違いが考えられ、魚骨層の堆積もあり網漁法が想定される。

また、ツタノハ、ハマグリ等の装身具材料、その他の海産貝、其れに、クジラ、イルカ、サメ等の海産の魚類は、北上川下流地域の海岸地帯から持ち込まれたものであり、遠隔の地との交易がなされたと考えられる。

(5)多数の動物遺体の種類、捕獲量から集落を中心とした経済活動が、かなり活発に有機的に組み合って展開されたと考えられる。淡水魚を対象にした漁労活動、淡水産貝の貝類採捕活動、加えて、湖沼、湿地地帯に棲むシカ・イノシシ等の中小哺乳動物、季節的に飛来するガン・カモ科の狩猟活動は、出土した遺体の量から、大きなウェイトを占めていたと考えられる。

 特に、季節的に飛来するガン・カモ科は、飛来した時期の11月から3月に捕獲されたとして、狩猟時期を冬季ではないかと考えられた。堆積層の解釈等の問題が在り、猟期を別な方法で考える、新しい方法に本貝塚のイノシシ、シカの顎骨の永久歯の萌出及び磨耗によって、捕獲された時期の年齢を算出して、それから猟期を推定する方法が試みられた。それによって、イノシシは12月下旬から翌年3月中旬、シカは10月中旬から翌年5月頃と推定され、イノシシ、シカ共に、冬期を中心に初秋から早春が狩猟時期とされた。このように、新しい研究に本貝塚の資料が活用され、縄文人の季節的活動の研究が、動物遺体の観察、分析によって推進されたこと、画期的成果である。

    第16章  1993(平成5年)関根達人「「西ノ浜式」とその周辺」 『歴史』第81輯 東北史学会

はじめに 東北地方における晩期縄文土器、即ち、亀ヶ岡式土器が遠く関西地方からも出土する事は、古くから知られるところであった。この点に注目した山内の晩期縄文土器に関する広域編年研究は、列島的規模での石器時代終末以来の同時性を証明するものとして、今日もなお高く評価される。近年、関西地方において、亀ヶ岡式土器の母体となった後期後葉の瘤付土器の出土例が増え、注目されるようになってきた。山内の広域編年の有効性は、亀ヶ岡式土器自体の編年、すなわち、大洞編年に支えられたものであった。然るに、瘤付土器に関しては、既に十腰内、宮戸、新地の編年研究が存在するものの、各々型式名が先行し、その実態や相互の関係が明らかになっているとは言い難い。後期縄文土器の広域編年研究には、瘤付土器編年の確立が必要と考える。本論では、その成立に当たる西ノ浜式期の土器を取り上げる。



 1 研究史と問題の所在 「西ノ浜式」は1962年、宮戸島里浜台囲貝塚(昭和27年調査)出土資料に基づき、仙台湾周辺部の後期縄文土器の編年作業が進められるなかで、後藤勝彦によって設定された(1)。この報告中で後藤は、従来「宮戸Ⅱb式」に含めていた一群の土器「第3類土器」(=西ノ浜式))は「深鉢に大きな特徴がみられ」とした。後藤の記述によれば、西ノ浜式の装飾深鉢の特徴は、以下の様に要約される。

① 器形は、大波状か山形の口縁部で、外反し、頚部で締まる。この点は本土器群に先行する宮戸Ⅱb式と共通し、その伝統を受け継いでいる。

 波状口縁の頂上に親指状の突起があり、この突起間に刻目により頂部が二分された小突起がいくつか配置される特徴がある。

 宮戸Ⅱb式において波状口縁深鉢の口縁部・頚部にみられた刻目帯に代わり、西ノ浜式では1条の沈線を加えた縄文帯が主体的である。

④ 口縁端や磨消縄文による縄文帯の交叉する部分、及び縄文帯内部に、小さな瘤状の小突起が配されることがある。

⑤ 波状口縁深鉢の口縁部は、殆ど内側に肥厚している。

 波状口縁深鉢にみられる入組文内部には、「刷毛目様のもの」や、「宮戸Ⅱb式」に多くみられた「縦位の羽状縄文」がみられる。

後藤によれば、上記のような型式学的特徴を持った土器は、台囲貝塚Gトレンチ(昭和31年調査)や、西ノ浜貝塚N・S・R地区(昭和3435年調査)において、「瘤付き土器の下層より出土」している。また、昭和27年の台囲貝塚調査では、少数ながらも、「安行Ⅰ式」併行の「第1層土器」のなかからと、「加曾利BⅠ・Ⅱ式」併行の「第2層土器」の上層部分から検出されたという。

関東地方との併行関係については、西ノ浜式に類似する土器として宮城県丸森町清水遺跡A地点の土器(2)を挙げ、これらが『世界陶器全集Ⅰ』(『世界陶磁全集Ⅰ』の誤り)Fig533の茨城県上高津貝塚出土の深鉢に類似する点を指摘した上で、「曽谷式」併行とした。このように西ノ浜式は、深鉢の型式学的特徴や層位的出土事例などから、加曾利B2式、同B3式に併行する宮戸Ⅱb式に後出し、安行Ⅰ式併行の宮戸Ⅲa式に先行する、仙台湾周辺地域における曽谷式併行の土器、との位置づけがなされていた。しかし、型式設定者である後藤自身も指摘しているとおり、後藤によって提示された西ノ浜式(第1図)は、器形が深鉢だけに限られ、伴出する「粗製土器」も不明であるなど、土器型式として不備もみとめられた。




後藤とともに、仙台湾周辺地域の貝塚遺跡の調査に基づき、後期縄文土器編年研究を進めていた斉藤良治は、西ノ浜貝塚Rトレンチ出土の土器の報告を行こう中で、西ノ浜式について触れている3)。斉藤によれば、西ノ浜式に相当する「第1類土器」は、第1貝層・第2混土層より出土しているが、同じ層から「第2類土器」(=宮戸Ⅲа式)も出土しており、両者は層位的に区別しえないとう言う。後藤は西ノ浜式の設定以降、タイプサイトである宮城県西ノ浜貝塚の出土土器を公表したが(4)、町史編纂に関係しての事であり、西ノ浜式という型式名は用いられていない。

一方、後藤・斉藤らの地域に密着した研究にやや遅れて今井富士雄・磯埼正彦により「十腰内編年」(5)が、安孫子昭二より「新地編年」(6)が、それぞれ発表された後藤が「東北地方」担当した『縄文土器大成3後期』(7)では、編年名称として十腰内編年・新地編年が採用されており、西ノ浜式をはじめとする、後藤の宮戸編年は使われていない。この中で後藤は、安孫子の瘤付土器研究を紹介し、瘤付土器の第Ⅰ段階(新地1式)が、十腰内Ⅳ群・西ノ浜式に相当するとの理解を示している。しかし十腰内編年も新地編年も、型式学的操作ばかりが先行し、各型式の内容があまりにも不明確である。殊に新地編年に関しては、山内清男の念願であったタイプサイトである新地小川貝塚の資料の公表が今日もなお極めて断片的なこともあり、新地14式は専ら、安孫子の瘤付土器Ⅰ~Ⅳ段階案に依拠している感が強い。安孫子の瘤付土器編年案も、「机上」で深鉢の変遷を追ったものであり、編年案発表から20年以上経た今日もなお、器種構成の解明はおろか、良好な一括資料を用いた検証も充分なされているとはいいがたい8。そうした現状にあって、いたずらに「十腰内〇群」・「新地〇式」の型式名称を振りかざし、西ノ浜式との併行関係を論じても、あまり生産的な議論にはならないであろう。現状では十腰内Ⅳ群と新地1式の区別すら定かとはいえない。従って本論では、特に必要な場合を除き、十腰内Ⅳ群・新地1式の名称を用いることなく議論を進める。

はじめに、西ノ浜式を考える上で1つの基準資料となる、田柄貝塚Ⅳ群土器の型式内容を検討する。次に、地域毎に該期の良好な一括資料を選び出し、その型式内容を明らかにしていくなかで、地域性について言及する。

地域としては(1)南三陸海岸地帯から仙台平野、(2)阿武隈川中流域、(3)馬淵川・新井田川流域を選んだ。比較する視点としては、a器形組成、b、文様・装飾技法、c、粗製深鉢を重視した。


2 一括資料の検討 

21 田柄貝塚Ⅳ群土器 西ノ浜式が設定された当時は、類似資料として、台囲・西の浜両貝塚以外には、僅かに丸森町清水遺跡A地点が知られるに過ぎなかった。しかし、その後の調査の進展から該期の資料も増加し、西ノ浜式の実態が明らかになりつつある。とりわけ後期後葉の資料を層位的に検出した、宮城県気仙沼市田柄貝塚の調査は重要視される9)。田柄貝塚では、第Ⅳ層(最下部貝層)で主体的に出土したとされるⅣ群土器が西ノ浜式に相当すると考えられる。報告書の基礎データに基づいて、第ⅣにおいてⅣ群土器が占める割合を算定すると、44.6%103個体中48個体)にすぎない。第Ⅶ層には後期中葉のⅢ群土器35.0%(同36個体)、宮戸Ⅲa式相当のⅤ群土器10.7 %(同11個体)と、Ⅳ群土器に前後する土器群も多く含まれている。このような出土状況を検討する限りでは、Ⅴ群土器とはともかく、Ⅲ群土器との層位的上下関係は明確とはいえない。

次に田柄貝塚Ⅳ群土器の型式内容を見てみる(第2図)。深鉢は、器形で2類型に大別される。1つは、口頚部が開いて外傾もしくは内湾気味に立ち上がり、頚部で括れ、胴部は僅かに張り出すか膨らみを持つ器形(報告書B類)である。(図218)。他方は、胴部から口縁部まで括れことなく立ち上がる器形(同F類)で口縁部は外傾あるいは直立気味になる(図2914)。前者は、西ノ浜式設定時に、先行する宮戸Ⅱb式の伝統を受け次いで、同型式に特徴的とされた器形である。この深鉢は、文様帯の配置により細分される。報告書でBⅠ類とされたものは、口縁部装飾帯、頚部文様帯・胴部文様帯を持つ(図2126)。同じくBⅡ類は、口縁部装飾帯・胴部文様帯を持つが、頚部には文様帯には文様帯は形成されない(図2 の347)。口縁部の平面形態としては、平縁・平縁+突起・大波状口縁・大波状口縁+突起が認められる。頚部文様帯を持つBⅠ類には、これら全ての口縁部平面形態が認められるが、頚部文様帯を欠くBⅡ類には平口縁が圧倒的に多く、他には平口縁+突起が小数見られるに過ぎない。後藤が西ノ浜式に特徴的としたのは、大波状口縁+突起であるが、後藤が西ノ浜式として提示した、台囲貝塚出土土器(第3類土器)には全ての類型が認められる(第1図)。なお後藤によって提示された台囲貝塚の資料は、小破片のため文様帯構成全体を伺うことは困難であるが、確実にBⅡ類と判断できるものは見当たらない。

深鉢の文様としては、口縁部装飾帯に縄文帯、或いは13条の沈線を加えた縄文帯が認められる。縄文に代わって、地文に櫛歯状条線が用いられる場合もある。大波状口縁のものや、平口縁でも地文に櫛歯状条線が用いられるものの口縁部装飾帯には、沈線をまたぐ形で瘤が貼付される。頚部文様帯には、櫛歯状条線帯の他に、入組帯状文と弧線が組み合わさった文様が多く見られる。胴部文様帯には、入組帯状文、入組帯状文+弧線・襷掛け状入組文が用いられる。文様帯内での瘤の使用は、ほぼ入組部・連結部に限られる。胴部文様帯、頚部文様帯とも、文様区画内部にはLR縄文を充填するものがもっとも多いが、櫛歯状条線を充填するものも少なくない.この他にBⅡ類の平坦口縁を持つ土器に、区画内で異原体を横回転し、羽状構成にするものが認められるが、その存在は第Ⅶ層でも下部のⅦ―2層に限られるようである。箆描文を持たない「粗製土器」としては、縄文だけを施文するものが多く、櫛歯状工具を用いて垂下する曲線を描く文様を施文した深鉢は、僅かに1点出土したに過ぎない。鉢は、頚部でくびれて口頚部が外傾するものと、括れことなく外傾するものがある。出土点数はが少なく、全体の構成が伺える資料はない。 浅鉢・皿は、全体に構成が伺える資料が2点出土している(図21617)。うち1点は、台を持った小形の皿で、内外面に縄文を施文する他は文様を持たない。他の1点は直線的外傾する浅鉢で、地文以外の文様を持つ。文様はRL縄文を地文として、平口縁直下の口縁部装飾帯に等間隔に瘤を配し、頚部文様帯、胴部文様帯には、それぞれ、格子状沈線、蛇行沈線文を施文する。壷・注口は、口頚部が長いタイプ(報告書A類)と短いタイプ(同B類)に大別される。このうち後者は、口頚部(口縁端部及び括れ部を含む)に刻目帯を有し、胴部の弧線区画文内部にも、羽状縄文が認められるなど、Ⅲ群土器と共通する古い様相が認められる、また、B類は層位的にも、第Ⅳ層でも下部のⅣ―2層に限られるようである。したがって、壷B類がⅣ群土器に伴わない可能性が考えられよう。A類には、口頚部の分化するものとしないものがあり、いずれも胴部文様帯には、弧線区画の入組文が多く施文される。同には瘤の配置されるものも多く、4または8個が文様単位の区画として用いられる。

 香炉形土器は、全体像の知れる資料が1点出土している。(図221)。無頸平縁の香炉土器であり、底部を欠いているが台が付くものと思われる。文様帯は胴部上半に形成され、連弧文によって文様帯の下端が区画される。4単位の瘤状突起並びに、三角形・円形の透かしによって文様構成される。文様帯内にはRL縄文が充填されている。

 2-2 南三陸海岸地帯から仙台平野 タイプサイトである西ノ浜貝塚や台囲貝塚を含む地域である。先に述べた宮城県気仙沼市田柄貝塚以外良好な一括資料が乏しく、仙台平野の南に隣接する、阿武隈川下流の清水遺跡を含めた地域を対象とする。

[西ノ浜貝塚] 宮城県宮城郡松島町 タイプサイトである本貝塚の資料が、近年、型式設定者である後藤勝彦により明らかにされた10。西ノ浜式に該当する資料は、N・R・Sトレンチより出土している。

 a、器形全体がわかる資料が乏しい。器形が伺える資料で見る限り、器形に関しては、田柄貝塚Ⅳ群土器と相違は認められない。

 b、括れのある深鉢では、頚部文様帯に文様を施文する土器が殆どで、田柄貝塚に多く見られた頚部に文様帯が無文になる土器は、極めて稀である。文様は、田柄貝塚同様、全ての器形で入組文と弧線文が組み合わさった文様が多様される。また、後続する宮戸Ⅲа式において盛行する多段化した弧線連結文の祖型が、括れを有する深鉢の頚部に文様帯に出現している(第3図の1)。この土器の胴部文様帯はLR縄文を地文とし、その上に斜格子状の沈線文が施文される。斜格子文も弧線連結文同様、後続する宮戸Ⅲa式において盛んに用いられるようになる。したがって、第3図の1に示した土器は、西ノ浜式でも新しい様相を示すと考えられるが、瘤状突起の貼付は、口縁部装飾帯以外には認められない。なお、瘤状の突起は、全ての器種において認められる。

c、層位関係が不明なため、西ノ浜式の粗製深鉢の実態は、必ずしも明らかにしえないが、無文土器に加え、田柄貝塚では極めて客体的であった、櫛歯状条線文の深鉢が比較的多く認められる。田柄貝塚の例では、櫛歯状条線文は、口縁部付近では横位方向に、それ以下では縦位に蛇行した施文されている。西ノ浜貝塚出土は、口縁部付近は田柄貝塚の例のように横位方向に施文するものの、胴部には第3図の2に示した用に、孤状に対向させるものが多数見られる。この粗製深鉢は、齋藤良治による西ノ浜貝塚Rトレンチ出土土器の検討では、第2群土器(宮戸Ⅲа式)に組成する土器として理解されている11。しかし、斉藤自身指摘している様に、Rトレンチにおいては、第1群土器(西ノ浜式)も第2群土器(宮戸Ⅲа式)、も第1貝層・第2混土層から出土しており、両者は層位的に分離できなかったという。したがって、西ノ浜貝塚Rトレンチの層位を根処に、このタイプの粗製土器を宮戸Ⅲа式とすることは難しい。これと同様に櫛歯状条線文を用いた粗製深鉢を含み、粗の編年的位置付けを考える上で重要な一括資料としては、宮城県伊具郡丸森町清水遺跡А地点出土土器12並びに福島県西白河群西郷村牛窪遺跡埋設土器群13が挙げられる。前者は、後に詳述するように、西ノ浜式の一括資料であり、後者は宮戸Ⅲа式期の良好な資料である。この2つの良好な一括資料から判断する限り、問題となる粗製深鉢は、西ノ浜式・宮戸Ⅲа式の両型式に組成するものと考えるのが妥当であろう。型式学的特徴の比較的少ないこのような粗製深鉢が、精製深鉢の文様変遷の原理に支配されること無く存在し続けるとしても、特に問題にはならないであろう。なお、櫛歯状条線文は、文様帯内にも充填された場合がある。


[清水遺跡А地点] 宮城県伊具郡丸森町  土器は、「地表より約1m下」の「僅か数cm厚さの泥炭化した地層」から「押しつぶれたような状態で出土した」と言う。志間により12点の土器が紹介された(第4図)。こうち明らかに異型式と思われる土器は、第4図の8に示した深鉢ただ1点だけであり、一括性は比較的高いものと思われる。   

а、 深鉢と注口土器が提示されている。深鉢の口縁部平面か形態として、3単位の波状口縁・平縁・平縁+大小突起のみで、田柄貝塚・西ノ浜貝塚に多く見られ、後藤勝彦が西ノ浜式の特徴として上げた、「波状口縁の頂上に親指状の突起があり、この突起間に刻目により頂部が二分された少突起が配される」形のものは認められない。また、波状口縁の派頂部も緩やかで、田柄・西ノ浜両貝塚の土器とはやや様相を異にする。注口土器には3つの形態が認められる。

 b文様としては、入組帯状文・鍵状入組文・襷掛け状入組文等各種の入組文が用いられる。田柄貝塚西ノ浜貝塚で多く見られた。入組文に弧線文がくみあわさった文様は確認できない。文様帯内に地文として縄文・櫛歯状条線文の両者が充填されるが、縄文は斜行するもののみで、羽状構成をとるものは見当たらない。瘤状突起は、深鉢・注口のいずれにも認められる。

 c粗製深鉢は、櫛歯状条線文を用いて施文されている。構成としては、斜格子状になるものと、状に対向するものが認められ、西ノ浜貝塚の様相に近い。 

 2-3 阿武隈川中流域 従来、新地1式の名称で説明される事の多かった、東北南部における該期の土器は様相を、西ノ浜式との比較において論じるために、この地域を取り上げた。本来なら新地小川貝塚の位置する浜通り海岸地方の遺跡を取り上げるべきであるが、この地方は、三貫地貝塚に豊富な資料がある14一方で、層位的に良好な資料に乏しい.今回は、阿武隈川中流域を対象として、東北南部の様相を検討する。

 [日向南遺跡]15福島県相馬郡飯館村  日向南遺跡では西ノ浜式に先行する加曾利B3式併行段階の土器としてSI43出土土器が、西ノ浜式併行段階土器としてSK135出土土器が、それぞれ良好な資料である、このうち、SI43から2点に壷形土器が出土している。2点とも文様帯内には羽状構成の縄文を施文する。内1点は、頚部に多段の刻目帯を有し、胴部文様帯の弧線連結部には瘤の貼付が認められる。こらの土器に類似する資料は田柄貝塚Ⅲ群土器等で認められ、関東地方の加曾利B3式に併行する土器群として位置づけられる。本例は、我孫子昭二が指摘するように、瘤の出現が、加曾利B3式期の壷・注口土器にあることを示すものである。次にSI43出土資料に後続する土器群として、SK135出土土器をとり挙げる。

 а、 器形全体の様相が伺える資料としては、2点の深鉢と1点の壷である。深鉢の1点は括れを有するもので、波頂部に親指状突起を持った大波状口縁を呈している。

 b、大波状口縁を呈する深鉢の口縁部装飾帯は、縄文帯であり、地文の上に瘤が貼付される。頚部文様帯には、入組文と弧線文が組み合わさって施文される。壷の胴部文様帯には、多条沈線により4単位の襷掛け状入組文が描かれ、その上に瘤を貼付する。

 cSK135から出土した粗製深鉢は、斜行縄文を全面に施文した1点だけである。

包含層からは、櫛歯状条線文を用いた粗製深鉢も出土している。櫛歯状条線文の文様構成は、西ノ浜貝塚で多く見られる類型に加え、全て横方向へ施文するものも認められるが、包含層からは他の時期の土器も多く出土しており、両者の編年関係を論じることは難しい。

 [羽白C遺跡]14)  福島県相馬郡飯館村 S1617出土土器が、西ノ浜式段階の土器として良好な一括資料である。

а、くびれを有する深鉢の口縁部平面形態としては、平縁+突起・大波状口縁+突起が認められる.SI17では、短く外反する口頚部を持った鉢形土器が見られる。

b文様としては、孤線連結文、襷掛け状入組文が見られ。弧線連結文は、櫛歯状条線文によって描かれている。

c粗製深鉢には、縄文あるいは櫛歯状条線文が用いられ、縄文には斜行・羽状の両方の構成が認められる。櫛歯状条線文は、縦位に蛇行するものと、孤状に対向するものの両者が認められる。


2-4 馬淵川・新井田川流域 従来十腰内Ⅳ群の名称で説明される事が多かった。東北地方北部における該期の土器の様相を、西ノ浜式との比較において論じるために、この地域を取り上げた。東北北部でも岩手・青森両県にまたがるこの地域は、近年富に資料の増加が著しく、該期の様相を把握しやすい。住居跡を単位として一括資料の検討を行った結果、本地域では西ノ浜式に併行すると考えられる土器群を新旧2段階に分別できることがわかった。

[風張(1)遺跡](17)  青森県八戸市 古段階の資料として、B26グリット8号住居跡床面出土土器 E26グリット15号・ G22グリット35号・2C56グリット33号住居跡出土土器が、新段階の資料としては、E27グリット5号住居跡埋土2層出土土器・ I21グリット34号住居跡出土土器が、それぞれ良好な一括資料である。同遺跡からは、上記以外にも該期土器が多量に出土している。また、同じ八戸市田面木平(1)遺跡では、46号・60号・61号の各住居跡から、古段階に属する良好な一括資料が出土しており、それらを参考に土器型式の内容をあきらかにしたい。

а、古段階・新段階共に、装飾深鉢には、大波状口縁のものと平縁+突起のものとがみられる。大波状口縁の波底部には突起が付く場合が多いが、古段階では突起が付かないものも見られ、付く場合でも、シンプルなものに限られる。平縁に付く突起に関しても、新段階のものは古段階に比べ、形態的にも複雑化し、使われる数も多くなら傾向がある。こうした傾向は、注口土器に関しても当てはまる。 浅鉢は、古段階では、椀形のものと、それより浅い直線的に開き、高台の付く形態のものが見られる。 壷は、古段階には、長い口頚部が直立する小型壷と、口頚部が緩やかに外傾するなで肩の中型壷が見られる。新段階には、小型壷に加え、口頚部が外傾し肩の張る大型壷が存在する。 注口土器は、主要なものとしては、口頚部の内傾するけいたいのものと、同じく外傾もしくは直立するものとに大別される。このうち前者は、後期中葉に盛行した器形を踏襲しており、古段階に限られるようである。注口土器の他の形態としては、頚部に膨らみを持つ三段作りの背の高いタイプのものも認められる。

b括れを持つ深鉢・鉢には、新古両段階を通じて、頚部文様を持つものと持たないものの両者が存在する。また、くびれを持つ深鉢のなかには、口縁部が平坦で、口頚部に縄文帯のみのを施文するものも存在する。古段階では、襷掛け状入組文を基調とした文様が、壷・注口の胴部文様帯に多用され、深鉢・浅鉢にも展開する場合がある。他に、深鉢の頚部文様帯には、「く」の字状の入組文、胴部文様帯には「く」の字状の入組文や、幅の広い入組帯状文等が認められる。新段階には、これらの文様が引き続き用いられる一方多段化する弧線連結文の祖型となる文様も深鉢・注口に多く使われようになる。瘤の貼付けは、古段階では、主として注口土器・単孔土器を対象に行われる。古段階において波状口縁の深鉢に瘤を用いた例も少数ながら認められるが、貼付けは、口縁部装飾帯と胴部の括れ部に限られ、その数は口縁部形状に規制され、5単位を基本とする。新段階では、平縁に突起を持つ深鉢・鉢にも瘤が用いられるようになり頚部文様帯への使用例も、少数ながら確認される。その他、特徴的な装飾手法としては、ミミズ腫れ状微隆起線文による施文が挙げられる。風張(1)遺跡の出土土器の場合、ミミズ腫れ状の微隆起線文が用いられるのは注口土器に限られる。D22グリット2号住居跡出土の3段作り注口土器は、頚部文様帯に弧線連結文、胴部文様帯に襷掛け状入組文をミミズ腫れ状の微隆起線文で描いており、文様に相違はあるものの、我孫子昭二が「瘤付き土器様式第Ⅰ様式」の標準資料として取り上げ、「新地1式」に比定する新地小川貝塚の例(19)に近似する。

 c新古両段階とも、粗製深鉢は、全て縄文を全面に施文しており、櫛歯状条線文を用いた土器は存在しない。縄文の構成は、斜行するものが多く、羽状のものは少ない。

[馬場瀬遺跡](20) 青森県三戸郡南郷村 1号・14号竪穴ならびに3・7・10・13・15号竪穴住居跡から良好な一括資料が出土している(第5図)。上記の遺構から出土した土器群は、極めて型式学的にまとまりの良いもので、全て古段階に属する。以下でその型式学的特徴を検討する。

a、文様帯を有する深鉢・鉢は、括れを持つものに多い。深鉢の口縁部平面形態としては、大波状口縁になるものは破片資料で見ても少なく、平縁に低い突起が付くものが圧倒的に多い。高台の付く浅鉢が比較的多く認められる点は、本土器群の特徴と言える。台部の形状には、直線的に開くものと、膨らみを有するものの二者が認められる。前者は杯部も直線的に外傾し、後者は杯部に屈折点が見られる。 壷・注口には、口頚部の分化しているものと、していないものの両者が見られるが、小型壷が多く、口頚部が緩やかに外傾する。なで肩の中型壷が少量存在するだけで、大型壷は認められない。

b文様としては、深鉢・鉢・注口共に襷掛け状入組文が多用される他、縄文帯を施文下だけのものも多く見られる。文様帯内に充填される縄文が、羽状構成をとる場合も比較的本時群の特徴に挙がられる。さらに第5図19に示した注口土器の胴部下半に見られるように、異原体を縦方向に回転して羽状構成とする、古い様相も認められる。本土器群の最大の特徴の1つは、瘤の貼付が注口土器以外には認められない点にある。注口土器では、例外なく、注口部を含め4箇所、胴部最大頚部に瘤状突起の貼付が行われる。全ての種で無文土器が多い点も、本土器群の特徴に挙げられる

、本土器群に組成する粗製深鉢は、全て縄文を全面に施文しており、櫛歯状条線文を多い、全ての器種で無文土器が多い点も、

用いた土器は存在しない。縄文、斜行のものが多く、羽状のものは少ない。


[大日向Ⅱ遺跡]21)  岩手県九戸郡軽米町 古段階に属する資料としては、Ⅰ・Ⅱ―3住居跡出土土器が挙げられる。また、HⅠ―4住居跡床面・e層埋土下位、 HⅠ―5住居跡並びにⅠⅠ―2住居跡からは、新段階に属する良好な一括資料が出土している(第6図)。大日向遺跡では、まとまった資料のある新段階の様相を述べてみたい。

a文様を持った深鉢では、括れのあるものと無いものの両者が見られる。これらの口縁部片面形態としては、大波状口縁+突起が見られる。このうち平縁のものは括れを有するが、口頚部の長さが他のものに比べ短い。鉢には括れの無いものとあるものの両者があり、このうち後者は、口頚部が短く「く」の字状に外折するものと、長く外傾するものと分別される。また、高台のつく深鉢・鉢も一定量存在しており特徴的である。壷は、小型のものに加え、大型のものも見られる。注口は、壷の器形に注口部が付くタイプに加え、括れを持った台付鉢に注口部が付くものが認められる。同様の台付鉢状の注口土器は、同じく新段階に比定される。岩手県九戸郡野田村根井貝塚1号竪穴住居跡床面出土の一括資料(22)のなかにも認められる。

b括れを持った深鉢は全て、口縁部装飾帯に縄文を施文する。口縁部装飾帯には縄文の上や、文様帯区画沈線上に、瘤を貼付する例も比較的多く認められる。括れを持った深鉢のうち平縁のものは、頚部文様帯が無文とる。平縁のもの以外は、頚部文様帯に入組帯状文・弧線文・平行沈線文を施文する。第62に示した深鉢では、頚部文様帯に多段化した弧線連結文、胴部文様帯に襷掛け状入組文が見られる。この深鉢は、頚部文様帯に展開する多段化した弧線連結文の完成した様相を示し、連結部に瘤の貼付付けが見られる等、宮戸Ⅲa式とも関連する新しい様相が伺える。しかし、口縁部装飾のあり方は、本例が西ノ浜式に併行する土器であることを示しており、胴部文様帯の文様も、それを支持するものである。壷・注口土器の胴部文様帯には共に、入組帯状文を基調としたモチーフが多く展開するが、2点ある台付鉢状の注口土器の内1点には、根井貝塚の例と同様に、横位に連続した対向弧線文が施文されている。文様帯内に充填される縄文は、深鉢・鉢では斜行構成を取っているが、壷・注口では羽状構成になるものも見られる。

c粗製深鉢は、全て縄文を全面に施文しており、櫛歯状条線文を用いた土器は存在しない。縄文も構成は、斜行・羽状の両者が相なかばする。

[馬場野Ⅱ遺跡]23)  岩手県九戸郡軽米町 KV02住居跡・МⅣ―04住居跡から、新段階の良好な一括資料が出土している。本遺跡からは、この他にも古新両段階の土器が多量に出土しているが、ここでは上記の住居跡資料を中心に、新段階の様相についてのべることにする。

a括れを有する深鉢の口縁部平面形態には、大波状口縁+大小突起・平縁+突起が見られる。括れを有する深鉢は、更に口頚部が短く直立気味のものと、口頚部が長く直線的に外傾するものに細分される。壷は、小型のものが主体を占める.大型壷では、口頚部が分化せず、内傾するもの(「ドーム」形)が見られる(МⅣ―04住居跡)。この形態の壷(注口)は、仙台湾周辺部を中心に、宮戸Ⅲa式以降、後期後葉にかけて盛行する形態であり、本例は、その初現が該期に求められる可能性のあることを示している。注口土器には、口頚部が分化しているもの・口頚部が分化せず外傾するものの両者が存在する。

b括れを有する深鉢には、頚部文様帯を持つものと持たないものの二者が存在する。これらには全て、口縁部装飾帯に地文として縄文が認められ、更に瘤を貼付したものや、沈線と瘤を加えたものも多く認められる。頚部・胴部両文様帯に展開する文様は、複雑な構成を取るのが多いが、基本的には、弧線を組み合わせてモチーフを描き、縄文を充填している。文様帯内に充填される縄文には、羽状構成を取るものも比較的多く存在する.鉢・注口土器の文様も、基本的に弧線を組み合わせてモチーフを描き、縄文を充填したものである。全ての器種で、瘤の使用が確認された。

c、粗製深鉢は、全て縄文を全面に施文しており、櫛歯状条線文を用いた土器は存在しない。縄文の構成は、斜行が多く、羽状を呈するものは少ない。

[君成田Ⅳ遺跡]24)  岩手県九戸郡軽米町 54住居跡床面ならびに、C61―1・55-1住居跡から新段階の良好な一括資料が出土している。

a文様を持った深鉢では、括れのあるものと無いものの両者が見られる。これらの口縁部平面形態としては、大波状口縁+突起・平縁+突起が認められる、鉢は、いずれも括れを持たないものが出土している。他には、口頚部の内傾する小形壷や単孔土器等が見られる。

b各器形とも基本的に入組文を基調としているが、壷(注口)では弧線連結文も見られる。入組文には、襷掛け状入組文、入組帯状文が認められる。鉢以外の器種で、瘤の使用が確認される。

c、粗製深鉢は全て縄文を全面に施文しており、櫛歯状条線文を用いた土器は存在しない。縄文の構成は、斜行・羽状の両者が相半ばする。

3 編年と地域性

 西ノ浜式、及び其れに併行する資料に関し、地域別、遺跡別、遺構別に出土土器群の検討を行ってきた。その結果、該期の土器型式に関して、次に呈示する編年案が考えられた(第1表)。編年表では、仙台湾周辺での土器型式の変遷に基づき時期区分を行い、是に各地の一括資料を当てはめ、瘤付土器の編年の概略を示した。

1に示した編年案に基づき、地域毎に西ノ浜式及び其れに併行する土器群の様相をまとめる。

日向南遺跡・羽白C遺跡・清水遺跡A地点及び西ノ浜貝塚等の仙台湾周辺地域における該期の土器は、器形・文様・粗製土器のあり方などの点において、高い共通性が認められる、馬淵川・新井田上流域に位置する遺跡と比較し場合、これらの遺跡では、次の点に土器型式の特徴が見られる。

 括れのある深鉢・鉢の頚部には、文様帯が見られる。頚部が無文のもや、頚部全面に地文として縄文が施文されるものはほとんど存在しない。また、頚部文様帯には各種入組文・弧線文が施文され、縄文帯のみが施文される例は極めて少ない。

2 鉢・浅鉢は、量的に少なく、器形の変異もあり顕著でない。

3 注口土器は、壷形のものに限られ、台付鉢に注口部が付く形態のものは見られない。

 文様帯内に、縄文の代わりに櫛歯状条線文を充填する土器や、櫛歯状条線文によって文様を描く土器が存在する。

 粗製深鉢には、全面に縄文を施文するものの他に、櫛歯状条線文を施文土器が多くみ

られる、櫛歯状条線文は、口縁部付近では横位方向に施文され、胴部では蛇行しなるも

と、弧状に向かい合いながら垂下するものの二者が存在する。


今回取り上げた一括資料及び関連資料から判断して、仙台平野と阿武隈川中流域とでは、土器型式の内容に顕著な相違点は認められない。両地域とも、上記の特徴を持った西ノ浜式の分布圏に収まる。従来、阿武隈川中流域における該期の土器型式名としては、型式内容の不明確なままに、新地1式の名称がもちいられる場合が多かった。新地式の名称に関しては、古く山内清男の意図したところであるが、晩年、山内は不本意ながらも、その名称には固執しないと述べている(45)。本論では、仙台平野における西ノ浜式との共通性を重視して、阿武隈川中流域における該期の土器群に対しても、より型式内容の明確な西の浜式の名称を用いる事にした。南三陸沿岸部に位置する田柄貝塚の第Ⅳ土器は、基本的に西ノ浜に近い型式内容をもっているが、深鉢等に関して、次に述べる馬淵川・新井田川上流域の様相も一部含んだ構成である。

馬淵川・新井田川流域に於ける、該期の住居跡一括資料を検討した結果、本地域では西ノ浜式併行の土器が、新旧2段階に細分される見通しがついた。

 編年表の中で[馬場瀬段階]と仮称した古段階の土器群では、先行する加曾利B3式併行の土器群が盛行した。異原体を縦方向に回転して羽状構成とする縄文の施文技法が、ごく僅かであるが、残存している。従来、羽状縄文の施文手法に関しては、十腰内Ⅲ群土器と同Ⅳ群土器を分別する際の重要な指標とされてきたが、馬場瀬段階に古い施文手法が認められる点は注目される。

古段階では、注口・単孔土器を中心に瘤の貼り付けが行われ、深鉢では、ほぼ大波状口縁のくびれる形態のもの限って、口縁部装飾帯とくびれ部の文様帯に、5を単位として瘤が認められる場合がある。風張1遺跡G-22グリット第35号住居跡出土の古段階一括資料の中には、大波状口縁の深鉢で、口縁部とくびれ部の刻目帯に、それぞれ5個所、瘤を貼り付けた土器が存在する。口縁部の刻目帯は、後期中葉の5単位大波状口縁深鉢に多く見られる装飾であり、この土器が新段階にまで下らないことを示している。本例は、瘤の使われる器種を考慮に入れずに、瘤の有無だけを持って時期決定の指標とすることの危険性を示すものである。また、古段階とした資料では、基本的に鉢・浅鉢には瘤が見られない。以上の点を考慮に入れたうえで、再度、馬場瀬1遺跡第3類土器を検討する。馬場瀬1遺跡第3類土器は、注口以外に瘤の使用が認められない点が強調されてきた。しかし、同土器群には、古段階にあって、注口土器と共に瘤の使われる大波状口縁の括れ深鉢が、そもそも少ないことが判る。従って、注口土器以外の器種で瘤の使用が認められないとの理由で、馬場瀬1遺跡第3類土器を風張1遺跡 G22グリット第35号住居出土土器より古く位置付けることはできない。両者には共通する土器も存在しており、いずれも古段階(馬場瀬段階)に置かれるべきである。

 新段階では、多くの器種で瘤が使われようになる。古段階とは異なり、注口土器・単孔土器以外でも、文様帯内で、モチーフの入組部・連結部に瘤が使われるようになる。

古段階の文様としては、襷掛け状入組文、幅広の入組帯状文が多用される。新段階では、これらの文様に加えて、多段化する弧線連結文の祖型が用いられるようになる。

以上のように、馬淵川・新井田川流域では、西ノ浜式に併行すると考えられる土器が、新旧2段階に細分された。先に明らかにした西ノ浜式との比較では、文様意匠に関して特に強い共通性が認められる一方で、次のような点に、それとは異なる地域的特質を指摘できる。

1、括れのある深鉢・鉢の中には、頚部が無文であったり、地文(縄文)が施文されていたりして、頚部文様帯を持たないものが存在する。また、頚部文様帯を持つ場合でも、縄文帯のみを施文し、平行沈線文以外の箆描文が展開しない場合がある。

2、鉢・浅鉢の比率が高く、器形の変異が大きい。新旧両段階と共に、高台を持った鉢形土器が存在している。

3、新段階では、注口土器は、壷と共通する器形のものの他に、台付鉢に注口部が付く形態のものが存在する。

4、新旧両段階共に、文様帯内に縄文の代わりに櫛歯状条線文を充填する土器や、櫛歯状条線文によって文様モチーフを描く土器は見られない。

5、粗製深鉢は、全面に縄文を施文するものに限られ、櫛歯状条線文を施文する土器は、新旧を問わず存在しない。

以上のような地域的特質を持った土器群は、西ノ浜式の概念では理解されないものと考える。新旧両段階に属する土器群とも、編年的には西ノ浜式に併行する位置に置かれるが、土器型式としては、西の浜式とは区別されべきである。冒頭にも述べてように、従来、馬淵川・新井田川上流地域における該期の土器群は、十腰内Ⅳ群の名称で説明されてきたが、十腰内遺跡の報告の中で呈示された土器から判断する限り、十腰内Ⅳ群土器は、馬場瀬遺跡МⅣ02住居跡出土土器に近い型式内容を持っている。これらは、明らかに東北南半の西ノ浜式より古く位置付けられる。

十腰内編年の再検討を行った岡田康博は、馬場瀬1遺跡第Ⅲ群土器を、十腰内Ⅳ群土器と位置づけている(46)。しかし、岡田自身も指摘しているとおり、西ノ浜式と十腰内Ⅳ群とは併行しない。一方で、先に示したように、馬場瀬1遺跡第Ⅲ群土器の内容は、西ノ浜式の一部に併行する。今後、東北南半の資料が蓄積され、北部同様、西ノ浜式が細分されことがある場合でも、馬場瀬1遺跡第Ⅲ群土器が、その古い部分に相当する事は、後藤勝彦により初めて西ノ浜式として呈示された台囲貝塚第3類土器(第1図)の中に、それと同様の土器が含まれていることからして動かしがたい。したがって、西ノ浜式と十腰内Ⅳ群は併行しないとする一方で、馬場瀬1遺跡第Ⅲ群土器を十腰内Ⅳ群土器とする岡田の主張には賛同できない。

一方、十腰内Ⅴ群土器は、西ノ浜式および宮戸Ⅲa式の両段階に併行する土器を含んだ内容であり、馬淵川・新井田川流域における西ノ浜式併行の土器群を示す名称としてはふさわしくない。新段階に関しては、さらに良好な資料が蓄積された後、名称を与えたい。


結 語  本論では、瘤付土器の編年を整備する第一歩として、西ノ浜式をとりあげた。その結果、仙台湾周辺から阿武隈川中流域にかけて、西ノ浜式と考えられる土器群が広く分布する事がわかった。また、西ノ浜式と併行する時期、馬淵川・新井田川流域では、西ノ浜式とは異なる内容を持った土器群が存在し、それは新旧2段階に細分されることが明らかになった。

今回は編年的序列を重視したため、量的少ない一括資料を対象に検討を試みた。そのため、定量的な分析を行うことができなかった。今後は、定量的な分析を充分取り入れ、西ノ浜式の細分を含め、瘤付土器の変遷過程を明らかにする必要がある。また、いわき海岸地域や津軽・下北地方等のより広範な地域に資料を求め、それらの地域に分布する瘤付土器群の内容から、関東地方、北海道との広域編年を考えていきたい。


謝辞、注 参考文献・引用文献 略



    第17章  1974(昭和49年)「縄文後期宮戸Ⅰb式周辺の吟味―南境貝塚出土の土器をもととしてー」『東北の考古・歴史論集』平重道先生還暦記念論文集

1 まえがき

陸前地方縄文文化後期の編年研究は昭和28年頃までは空白で関東地方での型式名を用いており、併行型式があったが未命名であった。その後、伊東信雄教授によって宮城県史の古代史(註1)で始めて、南境式・宝ヶ峯式・金剛寺式の型式名が使用された。そして、それぞれがまた数型式に細分されることを示唆したが、その内容については示されていない。

昭和30年代になって宮戸島遺跡調査会がつくられて宮戸島貝塚の里浜、台囲(風越)、袖窪囲、梨木囲の発掘調査が進められ、その成果については東北学院大学教授加藤孝氏(註2a)、筆者らによって報告されている(註2bcde。特に、後期については宮戸各式が設定されたが、まだ十分なものでなく、松島町西の浜貝塚調査で新しく西の浜式(註3)や袖窪地区出土の土器を標準として、林謙作氏によって後期初頭の型式に袖窪式(註4なるものが追加された。

こうして、一応、陸前地方の後期の編年型式が出揃った感があったが、そこにはいくつかの問題点を抱えていた。

それは、第1に縄文中期末から後期初頭への発展をどのようにとらえるか。それは大木10式の細分との係り合いで大きな問題があった。それに、第2にわれわれが宮戸Ⅰb式と仮称したものから宮戸Ⅱ式への発展がまだスムーズに理解されない点があったこと。第3は後期中葉及び末葉において複雑な要素を持ち細分される可能性や、十分にその内容が理解されない点など多数あげることができる。こうした中で、瘤付土器の発生と終末という観点から、それと深鉢形の器形と施文様帯の変遷から縄文後期中葉から終末の編年が提唱された(註5)。特に、日本の考古学Ⅱ縄文時代の東北で、後期の編年説明、編年表に宮戸型式が使用されたことは結構なことであったが、このことが後期編年研究に混乱を生ぜしめたことはたしかであった。このような状態で陸前地方の後期縄文文化の研究はいろいろの事情から停滞し前進はみられなかった。

昭和40年代になって、福島県小名浜周辺での縄文後期の研究が進められ、その成果が次々と示され(註6、特に、関東との対比など新しい知見が提起された。

続いて、北上川上流地域、淡水産貝塚である岩手県貝鳥貝塚の報告が刊行されて、新しい報告書(註7のあり方を示されるとともに、縄文後期の内容が明確に示され、新しい知見などが提起された。

筆者にとっては、昭和41年から昭和43年にかけては貝塚の緊急調査であけくれた時期である。それは、北上川改修工事と絡んでの開田で昭和41年から43年にかけて五次にわたって、石巻市から河北町に広がる南境貝塚の調査が実施され、中期末大木9式後期末葉から宮戸Ⅲ式及び晩期大洞C式まで層位的に遺物が採集され、大木10式の細分や宮戸Ⅰb式の細分が層位的に可能になったことも認められた(註8。また、昭和4041年と松島町西の浜貝塚が調査されて、これも縄文中期末葉から後期の中葉への遺物が採集され、この調査でも宮戸Ⅰb式に後続するものの存在が認められた(註9

しかしながら、この二つの調査で厖大な遺物を抱え込むこととなり、その整理もおもうように進んでいない。その全容を報告することはまだ相当な日時を要する。したがって、今回は宮戸Ⅰb式の周辺にかぎって、それも昭和41年の南境貝塚第一次調査の成果と、それに、整理途上ではあるが昭和43年の第4次調査の7トレンチ、56トレンチの関係層位の成果をふまえて吟味したいと思う。したがって、これは、研究者に対しての速報的な意味を兼ねながら、一つの予察的な面について論及したい。

特に宮戸島貝塚の出土遺物から始めて南境貝塚の遺物によって後期初頭の編年の問題を論及した始めての論文である。

(註1)伊東信雄「宮城県古代史」宮城県史1  昭32

(註2a)加藤 孝「考古学上よりみたる塩竃市周辺の遺跡」塩竈市史Ⅲ 別編Ⅰ

        (b)後藤勝彦「陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器について」考古学雑誌48-1 昭36

        (c)齋藤良治「宮城県鳴瀬町宮戸台囲貝塚の研究」宮城県の地理と歴史2 昭34

      齋藤良治「陸前地方縄文文化後期後半の土器編年について―宮戸台囲貝塚及び西の浜貝塚出土の土器を中心にとして」仙台湾周辺の考古学的研究 昭43

       (d)槙 要照「陸前宮戸島における縄文後期末の遺物の研究―台囲出土の土器についての考察」 仙台湾周辺の考古学的研究 昭43

        (e)芳賀良光「宮城県宮戸島貝塚梨木囲遺跡の研究」仙台湾周辺の考古学的研究 昭43

(註3)後藤勝彦「陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器について」 考古学雑誌48-1

(註4)林 謙作「縄文文化の発展と地域性―東北」日本の考古学Ⅱ 昭40

(註5)安孫子昭二「東北地方における縄文後期後半の土器様式―所謂「コブ付土器」編年」石器時代9

(註6)渡辺一雄他「寺脇貝塚」昭41

    馬目順一「綱取貝塚第4地点発見の堀之内Ⅰ式土器の考察」小名浜―小名浜沿岸の遺跡調査報告集

    金子浩昌他「綱取C地点貝塚の発掘」

(註7)草間俊一・金子浩昌「貝鳥貝塚―第4次調査報告書」昭46

(註8)後藤勝彦「宮城県桃生郡河北町南境貝塚第4次緊急調査概報」宮城県文化財報告書20 昭44

(註9)後藤勝彦「西の浜貝塚緊急発掘調査概報」宮城県文化財報告書13 昭43


2 南境貝塚第1次調査の概要 

1次調査は昭和41827日から831日までを予定して調査をしたが、終了せず9月中の土・日曜日で追加調査を実施して終了した。

 調査地点は石巻市から飯野川町へ通ずる県道に近い部分で、貝塚では河北町側の北斜面の西端部にあり、北上川改修工事に伴って土取りされ、それに伴って開田を計画したもので、ブルド-ザーで土取りされ、道路側は完全に破壊され、やっと北斜面の部分の幅約10mが残っているのみであった。この残された北斜面に2m幅のトレンチ、A・Bを設けて調査を実施した。

Aトレンチは4つの層位を確認した。また貝層も2層あることが判明した。堆積関係は第1層の表土があって、この下に薄い第1貝層の第2層が約30㎝ばかり堆積する。遺物の出土は多くない。この下に魚骨を含む約18㎝から10㎝の間層、所謂、第3層があって、その下にアサリを主体とする第2貝層が堆積する。これを第4層と呼んだ。この第4層は厚い所で約50㎝を越えるところさえある。そしてこの下部は黒色土層へと続くのである。 

Bトレンチは基本的にはAトレンチと同じような堆積関係にある。しかし、Bトレンチは貝層が混土貝層を含めて3層あること、それに、第1貝層の上部に薄い貝層が10㎝ばかり堆積することと、第2貝層下の黒褐色土層に約8㎝ばかり焼土層が堆積している点に違いが見られるだけである。


3 南境貝塚第4次調査の概要 

昭和42年の第2次調査からグリットを設定して調査を実施することになった。西側(道路側)から123・・・南から(郡境)ABC・・・とした。2m四方のグリットを設定した。昭和43年の第4次調査は34567トレンチの区域が調査された。この調査区域全域及び全堆積を説明する必要はないと考える.したがって、堆積関係を主として検討した7トレンチと、これに関連して隣接した56トレンチで後期初頭に関連のある層まで説明しておきたい。

7トレンチ 幅約2m、南北27mのトレンチである。貝層はJUまでの間で、特に後期に関係する範囲はほぼPUまでである。この層位関係については、次のような◆模式図となる。

56トレンチ はば4mである。後期関係はPSのグリット範囲である。ほぼ7トレンチの堆積と同じようであるが、これも層位の模式図を再録しておきたい。以上が7トレ、56トレの調査時における層位関係である。(◆模式図7トレ・56トレが入る)


4 土器の分類と特徴 南境貝塚第1次調査の出土土器は、僅かの点数を除いては、縄文後期初頭に属するものであり一括として把握することができる。また、層位的には時代的差を持つ遺物、新しい遺物は堀之内Ⅰ式併行が若干存在する。第4次調査分についてもこの第1次調査出土の土器の特徴から関連層位及び遺物にあたった。その結果、出土土器の器形、口縁部様態、文様構成、施文位置、施文法などによって分類され、かつ細分される。しかしながら、南境貝塚出土の後期初頭の縄文土器全体を操作してのことでなく、第1次調査分を主体としていること、そして、この第1次調査分は文様構成全体を復元する個体数が少ないことで危険性もあるが、大筋では間違いのないものと信ずる。また、南境貝塚の後期縄文土器の内容を示しておくことも、研究者に対しては便こそあれ、無駄ではないと考えるのである。

 

1群土器(第1図) 口唇部になんら手法を施さない単純な器形の一群である。大多数の土器はこの仲間に入るが、特に、古い要素として口頚部に隆線のめぐらされているものを分類した。

1 口縁部に幅広い素文帯を持ち、その下部に一条の隆線がめぐらされる。この隆線には斜めに刻目がなされたもの、(第1図1~4、6、7、16)、連鎖状浮線文状になっているもの(第1910)、口縁部が内湾したもの(第113)また口縁部が外反しかし第1図1、2、5、16のように大形の山形や、橋状突起などがあり、数個つくものであろう。第113は同じ個体である。胎土は良好でなく、大つぶの砂粒を含み焼しまりがない、橋状突起の下端に施文された2個の刺突痕を中心に、下部に倒卵形の磨り消しが展開される。おそらく、この2個の刺突痕は次の第2群土器の各種に見られる。突起中や突起下の貫通孔、連続文、S字文に発展していくのであろう。

 第2 これは第1類と基本的には同じであるが大きな違いは隆線に刻目がないことであり、隆線が二重になっているもの(第115)、波状口縁も見られること(第11113)だけである。隆線下の文様展開も第1類と同じである。


2群土器(第21~7、1011)区画され、S字、連鎖Sこのグループは第1群土器と同じように口縁部に何ら手法を施さない単純な仲間であるが、沈線文を主体として文様が区画されS字、連鎖S字が中心に施文され、口縁に必ず研磨された素文帯もつものであり、深鉢形が主体であるが、器形や口縁部周辺の文様や突起帯でいくつかに細分される。

 第3 口縁がやや内反りし、突起を持つ、突起部は厚みを持って外反する。突起部下に貫通孔を持つのが特徴であり(第214)、突起部裏面に太い力強い円文の凹部をもつものもある(第223)。 文様は、この突起及び貫通する一孔を中心に円文、S字文が下垂する。そして、この突起を中心に両側に三角形の区画が形成されるのが基本である(第22)。

223のように突起下部の下垂装飾の両側に磨消されるのも、その特徴であるが、その磨消手法は非常に粗雑で地文の縄文や撚糸文が研磨されずに残っている部分がある。胎土はやや良好であるが、砂粒を含むものもある。口縁部表裏は横に箆で丹念に研磨されている。

 第4類 突起のあることは第3類と同じであるが、貫通孔がない。(第259、第31)。その代わり、S字文が突起下部に施文されて、これを中心として、第3類のような文様が展開する。この突起の裏面にも円文が施されている。また、突起の右肩に刻みを持たせた突起(第2469)が特徴である。第31だけは左肩に刻みを持つ、このような突起持つ土器の裏面には必ず円文が施文されることは34類とも共通するものである。

しかし、突起部の円文を中心に文様を展開するもの(第323)もあり、やや簡略化したものと見ることができよう。

 第5 突起が退化して波状突起となるもので(第21011)、ただ、この波状突起にS字文が配されて、同じように、この突起のS字から34類同じ文様が沈線で区画されて展開するものである。突起裏面には円文が消滅するのも特徴であろう。研磨手法も粗雑で第3類と同じである。

 また、沈線地文の力強さがやや失われたものもあり、S字連鎖文が胴部に展開するものもある。(第3511

 第6 口縁は波状であり、波状の頂点部には円文、貫通孔、S字文ではなく、単なる棒状工具によって刺突を施し凹部にしたものに変化し、それもこの凹部の施文位置は口縁部にめぐらされた一本の沈線より上部になく、沈線と並ぶか、沈線下に施文される、(第31215、第424911)のであり、また、例外として、第41のように上部に凹部を二個配されたものである。しかし、このような凹部はこれからの土器に盛んに利用される。第315のように、口縁を画する沈線さえ施文されないものさえある。

また、この類型には小形の連鎖でなく、大形の連鎖が下垂し、その結束部にリボン状の文様の配されたものがある(第457)。これらは破片であるため全体の文様構成は不明であるが、第467から考えて、特に連鎖文の外側の沈線が口縁を巡っている一本の沈線に対する角度がなくなり垂線に近くなっていることは、第5412から考えて文様が底部へ下垂発展し、文様区画帯として、第411のように区画されることはないと考えられる。   

したがって、この第6類は体部文様帯を持つものと、そうでないものとに分類され、後者が多くなるようで、文様発展から考えて後出のものと思う。

 第7 第3群土器に近似したものである。ただ、口縁部が単純だけである。口縁外反し小突起があって、口頚部に一条の沈線めぐらして体部文様と区画をなしている。大きな特徴はこの小突起から体部文様を区画する沈線に、一本の沈線、重線、弧線が配されて連結されていることで、体部文様が連結場所に円文があって、これから大形の連鎖文等が施文される。(第523)。

もちろん、口縁が内湾した器形がある(第73)。しかし、体部文様は基本的には前述の土器文様施文と同じであるが、連鎖文でなく、口縁部と連結する二本の沈線が口頚部にめぐらされた沈線と交叉する部分に小さい円文があって、ここから、二本の沈線となって底部近くまで施文され、この両側に弧線が配され、この弧線と垂直に下垂する沈線間を粗雑に磨消しているものである。これは、前述のものよりやや後出のものである。

 第8 このグループは平縁に近い波状を呈しており、口縁部円文を中心に八字状に粗雑な弧線による磨消帯が体部に施されるものである(第561012)。出土層位も上層部の第1貝層(第2層)を中心に出土している。第5類、第6類の退化類型であり、今での類型では新しい仲間として認知することができる。

 第9 これは、関東での堀之内Ⅰ式に併行する土器群である(第51316、第66、~10、第712)。出土層位も南境貝塚第1次調査では、上層の第1貝層上、第1貝層中であり、第7類型以前より完全に区分される。特徴は二乃至三本の沈線を基本として、口縁部の波状突起部の刻目(第516、第6610、第7図1、2)や円文の退化と考えられる円文の押しつぶされた楕円文(第51415)や連弧文の中心に直線、孤線などで底部近くまで文様が施されるものである。

この第9類には第3群土器の口縁部が逆「く」字状になっている器形のものがセットとして組み合されことを注意しておこう。また、これを別に分類しておくので注意(第814?、第949)。

 第10 連続S字文、あるいはジクザク文の施文されたものである。資料としては全体から見て僅かである(第5145、第61)。口縁部に無文帯を形成することは第8類型以前の土器群と共通した特徴を持っており、この無文帯は丹念に研磨し、第54のように左右の弧線で区画され、磨消した部分に連続S字文を施文したもの、また、頚部にめぐらされた一条の沈線上の凹部から連続S字文が施され、その下部の様態から、第55共に蕨手文の変形されたものと見なすことができる。このように、蕨手文の発生を暗示する資料ということができよう。

 第11 口縁部に一本の沈線がめぐらされて、口縁部の無文帯と体部を区画するもので、体部は縄文が施文されているもので、第一次調査でも上層部より出土したものである。特に、第63は層位的には上層にあたる。口縁部の波状部に凹部施文したもの(第613)がある。 第64は縄文でなく刷毛目文的なものである。

 第12 この土器群は南境貝塚第4次調査で注目された一群である。7トレ、56トレで3層~5層間で特徴的に出土した。層位的にも様式的に他の類型よりは一番新しいものである。器形は口縁部の外反したものか、内湾か直立した深鉢形であるが、器形の分化が目立ち、壷形、甕形、片口土器、蓋等と各種見られる。特に、文様については、今までの類型は口縁部の素文帯(無文帯)及び幅の狭い文様帯を除いては、文様は縦位に展開するものが基本であるが、この第12類は横位に沈線や磨消によって文様が展開するものである(第745)。

 第13 縄文及び撚糸文施文の土器群である。器形は深鉢形であって、口縁部形態が直立か内湾するものと、口縁が外反し、頚部で緩やかに屈折するものとに分かれる。口唇部土面が平坦に整形されているものがあるが、どちらかというと、口縁部先端が薄くなって、丸く整形されているのが大部分である。また、口縁が外反している器形では口唇部土面が外側に傾斜している土器が見られる(第11261416)。また、内側がそがれたような形態を示すのも見られる(第1137)。大部分は平縁であるが、小突起を持つもの(第10813、第11145)もあり、小波状口縁らしきものも見られる(第1014)。

縄文の施文は単節のものが大多数を占めるが、RLLRともに存在している。また、無節もある(第1114)。しかし、施文で圧倒的に多いのは撚糸文施文である。それも、縦位の地文であり、部分的には横位施文があるが、縦位施文が圧倒的である。

大きな特徴は口縁部が内反する土器も、外反する土器も口縁部が箆の横なでによる研磨帯を持つことであろう。胎土も良質のものと、やや粗雑なものとがある。大形の土器ほど砂粒等を含み粗雑のようである。

3群土器(89図) 

 このグループは口縁部が「く」字状に湾曲し、口縁部が複雑な様態を示すものである。

14 これは、口縁部に無文帯を持つのが大きな特徴である(第81610)。それも貫通した環状の突起を持つも(第83610)の平縁のもの、波状ものとある。第86のように 頚部での屈折が強いのは稀であり、また、この土器ほど胎土が良質で精選され、土器研磨も他にみられないほど丁寧である。第810は特に土器表面の研磨は粗雑である。

また、この第14類は口縁部の突起部から口頚部に刻目を施した隆線や沈線で縦位に連絡してあるものが特徴であり、第2群土器の第7類に文様構成で近似したところがある。特に、第812は口唇部や頚部の横帯の二本の沈線文は第68、第71の口縁部の横帯の文様に近似しており、共通性を示している。

15 口唇部に溝を有することは、第14類と類似するが、頚部に屈折のない、円筒状の深鉢形を呈するものである。

 文様はやや太めの沈刻線と磨消縄文等によって構成される。この類型も第14類と同じ用に、環状の突起、橋状把手や握りこぶし状の突起がある。(第8789111214、第912)。この土器群は胎土が非常に良質なもの(第81114、第913)、やや粗い砂粒の含んだ(第878)に区別することができる。残念なところ土器が破片であるため全体の文様のわかるものはない。

16 類型的には第15類と同じであり、文様が口縁部で「く」字状に屈折して下部に、沈線が二乃至四本を基本として、直線、弧線で文様が展開するものであるが、第2群土器の第9類の仲間と組成が同じもので(第949)、関東での堀之内Ⅰ式に併行するものである。地文は縄文や撚糸文が施文されており、単節縄文にしてRLLRとも存在している。磨消技術は丁寧とはいわれない。胎土は良質である。

この第16類は第2群土器の第9類と組合せになることを念を押しておく。


5 考察と吟味 

以上のように南境貝塚第1次調査、第4次調査を主として、南境貝塚出土の土器を第3群に分類し、問題がまだあるが、第16類型に類別することができた。各群は時代差というより装飾文及び器形的分類を示すが、しかしながら、類型間には時代的差を示すものもある。(◆表各群の類型の統括表が入る)

ところで、以上の各群各類型に分類し説明し、種々の特徴を持つ土器群は、今までの編年では縄文後期初頭の南境式、筆者等の宮戸Ⅰb式と把握される。この位置については問題がないが、昭和41年以来調査した南境貝塚の調査の段階でも同じように理解されていた。しかし、昭和44年・45年と登米郡南方町青島貝塚の二次にわたる調査で、後期初頭の遺物も多数採集し、今までにない文様構成が物議をかもしたし、南境貝塚調査整理の段階でも後期初頭の土器群が細分される問題を含めて論議された。南境貝塚出土の土器群は層位及び文様発展から考えて、各類型に分類された土器群が次のように統括される。

それは、第1群土器・第2群土器で第1類から第6類まで確実に包含される一群である。これをA群土器としよう。これらは、南境貝塚第1次調査では第3層から第4層にかけて主体的に出土したもので、第1次調査の主体をなす土器群である。また、第4次調査の7トレ、56トレでは第8層が不確実であるが第910層主体とする土器群である。これらは縄文後期初頭に位置づけられることは間違いない。

しかし、器形や文様から考えて、おそらく第1類から第6類の時期に入ると考えられるが、文様の発展や発生から考えると、やや後出か同時と考えられるのに第10類、第11類がある。なかでも、やや後出と考えられるのが第11類であり、特に第6図3は一括土器として上層部より出土している。

また、この仲間の第1類、第2類にしても、口頚部の隆帯にしてもやや古い要素を持つ土器として把握しなければならない。南境貝塚第4次調査の第11層、第12層出土の土器群の要素を多分にもったものである。第113は中でも古い要素を持っている。橋状把手、把手下部の二つの刺突による凹穴などは古い要素として考えねばならず、分類しなければならないかもしれないが、前時期の古い要素を持ったものとして、この仲間にいれておく、将来、南境貝塚に遺物の整理の進行やその他遺跡の成果によって将来分離されることは確実である。

このA群土器の時期について報告例は少ない。岩手県貝鳥貝塚の報告(註10があり、貝鳥貝塚第Ⅱ群土器第1類、第2類がこれにあたる。特徴は曲線的な磨消撚糸文・磨消縄文によって、S字状文などを中心に縦の楕円形文様帯を構成している。撚糸文の多用、器形に縄文中期的伝統を示しながらも、沈線文による磨消手法の発達と隆線文の退化、波状口縁の器形などは後期的色彩の多いものとして、後期初頭に位置付けられるもので、広義の門前式・宮戸Ⅰb式に含まれるものとしており、宮戸Ⅰb式の細分にまで言及している。このA群土器は全く同じものといって良い。そして、層位的にも区分されており、宮戸Ⅰb式の内容を明確にして、今までの宮戸Ⅰb式から細分分離することが妥当である。大木10式から後期への発展に大きな断続があった最近まで、まだ、多少問題がのこるにしても、大木10式からの文様や口縁部無文帯などの発展から考えて、より明確に発展を理解することができる。

また、関東地方の後期初頭称名寺式文化については、様々な論議のあるところであるが、この称名寺土器文化(註11は那珂川流域(註12から太平洋沿岸のいわき、小名浜周辺(註13まで均一的に広がりを持つが、いままで阿武隈川流域から以北では、明確で無かったが、このA群土器は貝鳥第Ⅱ群土器第2類と共に、磨消手法等から考えて関東地方称名寺式土器に併行する時期と位置付けた方が妥当である。勿論、小名浜周辺の後期初頭土器と比較して見ても相当の相違のあることも事実である。

このA群土器の類例は貝鳥貝塚の外に水沢市五千刈遺跡、石巻市沼津貝塚(註14、東松島市宮戸島貝塚等に確実に出土している。内陸部では北上市にその類例があり(註15、太平洋沿岸を含めて、岩手県の中頃まで分布するようである。

次は、確実なに前述土器群より上層部に出土するもので、第7類、第8類、第9類、第10類、第14類、第15類、第16類が含まれる土器群で、ここではB群土器と分類することにする。

この一群は南境貝塚第1次調査で、第2層から僅かに出土している。また、第4次調査での7トレではほぼ第6層、第7層を主体としており、56トレでも第5層下層、第6層、第7層にかけて出土しているもので層位的に区分されるようである。

装飾文様、器形から考えて、前述のA群土器の縦に構成される楕円形文様帯(第411)から発展したものとして、この断円形文様帯が崩れて、区画帯がなくなり、底部近くまで文様が流れてしまう(第5図4、12)という一般的特徴を持つようになる。また、口縁部が外反する器形でも、口縁部と頚部間の無文帯を連絡する重線、刻目の施文された稜線、口縁突起や、口縁部が「く」字状に屈折した器形に施文される。沈線二乃至四本の直線、弧線文で構成される文様は関東地方での堀之内Ⅰ式(註16に多用される手法の一つであり、堀之内Ⅰ式に併行することは確実である。宮戸Ⅰb式は、このB群土器を指し、西の浜貝塚第3類土器がこれにあたる。

これらB群土器を出土する遺跡は小名浜周辺から仙台湾周辺へと拡大している。

このB群土器に統括した中でも問題はある。それは、一応、第10類をこの仲間としたが、この類型の基本的な施文文様は、連続S字文、ジクザク文である。この手法を持った土器が第11類に存在する。口頚部一本の沈線をめぐらし、この沈線から口縁端までを研磨しているもので、それに、口縁の小突起を配していて、その下部に連続S字文の施文されるもので、A群土器でもやや、後出のものとして位置づけた。それと、第10類はS字文と共に、よく観察するとこの連続S字文と右側の弧線を組み合せると、蕨手文への展開を見ることができるし、確かに第54を観察するとそのように構成されている事を観取することができる。

このような文様の発展から考えると、第3類、第4類は突起下に施文された円文、S字文が下垂するものであり、連続S字文、蕨手文への発生がこの辺にあると考えてもよさそうである。このことは、綱取貝塚C地点出土の中に称名寺式併行のような土器群(註17と共に、連続S字文の施文土器がみられることから、B類土器の第10類の施文技法をやや前出のものと理解してもよいと考えられる。

要するに、B群土器の内容を考える時、前述のA群土器からの伝統を強く受けた一群、これは、いうなれば大木式系列のもで、東北的な要素をもったものと、それに、A群土器と別個の系列、すなわち、関東地方後期初頭堀之内Ⅰ式の伝統を強く受けたものを包含することになり、仙台湾周辺と東北南半の小名浜周辺との交流が考えられる。

それは、A群土器に関して論及すればよかったかもしれないが、B群土器の広がりで説明した方より効果的であると考えた。B群土器の問題、特に、A群土器の伝統を受けた系列の土器群=大木式系列・東北的なものから遡求すると、A群土器の分布範囲は広義の門前式(註18等を含めて、北は岩手県の中頃から南は現在宮城県中頃までで、所謂、北上川流域から松島湾沿岸、そして、三陸沿岸の範囲であって、案外、狭い範囲と想定される。岩手県側については二・三の報告から垣間見るに過ぎないが、宮城県南については、蔵王町二屋敷遺跡をはじめ後期初頭の遺跡は多数発見されている。これらの遺跡から出土した土器を観察した限りにおいて、南境貝塚、貝鳥貝塚出土のA群土器やB群土器の一部とは相当な開きが観取される。

それは、口縁部文様帯は波状口縁の頂点と頚部隆線と結ぶ渦巻文、C字状隆起線文を中心とした土器群であって、隆起線の内側に沈線が施されているために、2本の隆起線を思わしめるものが多いことで、綱取貝塚C地点や同じく第四地点に近似(註19したものが多いことである。このことは、従来、陸前地方でも北上川流域、松島湾沿岸、阿武隈川流域の三ブロックに分けて地域的な差異を論及した意見(註20もあり、白石市周辺は白石川の流域であって、阿武隈川流域の文化圏に包含される。そこで、小名浜周辺のそのような技術、伝統が海岸沿いに北上し、それが、阿武隈川の河川沿いに内陸部に伝えられたものと理解される。

したがって、縄文後期初頭において宮城県側=阿武隈川流域=と松島湾岸より以北、すなわち北上川流域とで相当の地域的な違いがあったことが確実に示されるのである。

勿論、昭和44年調査の青島貝塚Bトレからも、1点、口縁部にC字状の隆起線文が施された土器が出土して問題になったが、それは、阿武隈川流域との交流材料として理解されよう。

また、縄文中期大木10式のなかの西の浜貝塚第4層土器(註21のような内容を持つものは、北上盆地までその類例があるが、福島県側に入るとそういう内容を持つものが欠けているという。この様なことも、後期初頭へと引き続き継承さており、その境はA群土器の分布範囲とほぼ同じと見られるのである。こう考察してくると広義の仙台湾=松島湾も含めて、北上川流域中心=には縄文中期からの伝統的な文化圏があって、これが、縄文後期初頭まで継承され、それが、B群土器時期=堀之内Ⅰ式期になって、関東的な堀之内Ⅰ式の文化内容が強く影響し、それが、北上して北上川流域に受容されていくのである。

しかし、その後においては第12類を中心としてC群土器の時期となる。この土器群は南境貝塚第4次調査の7トレの第4層、第5層、56トレの第3層、第4層、第5層の一部にわたって出土したもので、昭和43年第4次調査で宮戸Ⅰb式に後続する土器群として、層位的に検出され、縄文後期の中葉への発展(註22を考える上に、好材料を提供し話題をまいたのである。

主たる特徴は、A・B群土器の文様が縦位施文構成されるのに、このC群土器は文様構成が横位に展開することが基本的な特徴である。器形もA・B群土器より変化に富み、壷形土器、片口付土器、蓋等器形の分化が著しいのが特徴である。文様の系列からいえば東北北半十腰内Ⅰ式(註23、大湯式の影響がやや強いと見られる。しかし、東北北半の伝統の影響はB群土器の口縁部装飾帯や口頚部装飾帯のように細長い、沈線による区画帯がめぐらされるなどはその影響と見ることができよう。これらは、特に、層位的にいっても、B群土器と混在している層位が調査時に確認されており、これが、整理段階で確実に確認されれば、東北北半との関連に関する種々の新しい問題が提起されよう。

C群土器併行の土器群は石巻市沼津貝塚(註24、宮戸島貝塚(註25、松島町西の浜貝塚(註26)、岩手県貝鳥貝塚(註27、山形県内にも壷形土器の類例(註28が見られる。しかし、資料がまだ少なくその全貌を完全に掌握したわけではないが、関東地方での堀之内Ⅱ式に併行するものとして位置づけたい。このC群土器を介在させることによって、今まで宮戸Ⅰb式からⅡ式の展開が非常に無理なく理解されるようになったのであり、ここにも宮戸Ⅰb式から分離すべきものとして改めて提起したい。また、南境式という型式名はこの土器群に冠されるものと思う。このように、観察してくると東北全般が一つの共通した文化圏として理解されるのは、宮戸Ⅱ式以降、所謂、平行沈線文、S字状沈刻文、連続刻目した隆帯や入組文を主とした磨消手法が盛行してからということになろう。関東から北海道までが一つの斉一性を持つ文化内容として理解されるのである。

(註10)草間俊一・金子浩昌[貝鳥貝塚―第4次調査報告―]昭46

(註11)吉田 格[神奈川県横浜市称名寺貝塚]武蔵野郷土館調査報告書1 昭35

    金子浩昌他[館山市鉈切洞窟の考古学的調査]早稲田大学考古学研究室報告6 昭34

(註12)佐藤次男[茨城県大洗町吹上遺跡第一貝塚出土の称名寺式土器について]茨城考古学1 昭43

(註13)金子浩昌他[綱取C地点貝塚の発掘]小名浜―小名浜沿岸遺跡調査報告集 昭43

(註14)沼津貝塚は東北大学文学部考古学研究室によって調査されたが、報告書はまだないが、A群土器に併行するが、それとも刺突痕のあるものでやや、古いものかもしれない。

    藤沼邦彦氏の教示によってその内容の一部を知ることができた。

(註15)北上市史刊行会『北上市史1』原始・古代1

(註16)安孫子昭二他[神明貝塚]庄和町文化財調査報告書2 昭45

    清水潤三[堀之内貝塚シー1、シーⅡ地点発掘報告]

    西村正衛他[堀之内貝塚リ、ハ、ヱ地点発掘報告]人類学雑誌655 昭32 

(註17)前掲書(註613)に同じ

(註18)吉田義昭[門前貝塚]郷土資料館報告 昭35

(註19)前掲書(註17)に同じ

(註20)加藤 孝[阿武隈北上両河岸段丘並びに松島湾沿岸諸島に於ける貝塚分布戸その編年]昭27

(註21)前掲書(註9)に同じ

(註22)後藤勝彦「東北地方後期縄文文化と日吉遺跡」函館市日吉遺跡発掘調査報告書 昭46

     前掲書(註8)に同じ

(註23)今井富士雄・磯崎正彦[十腰内遺跡]岩木山麓古代遺跡発掘調査報告書―岩木山 昭42

(註24)毛利考古館所蔵の遺物に見られる、

(註25)宮戸島袖窪地区の人骨周辺よりも西より、ほぼ東西に設定したグリットから出土している。

(註26)前掲書(註9)に同じ

(註27)前掲書(註7)に同じ

(註28)[山形県史―考古学資料―]


6 あとがき 

南境貝塚出土遺物について、一部分であるが研究者への速報的な意味を含めて紹介したが、前段でもおことわりしてある通り、南境貝塚出土全体の遺物分析を完全に踏まえての、論及ではない。これをやるためには、これから相当の年月を必要とする現状である。また、周辺関連遺跡、遺物資料の比較検討も十分に行われているわけではない。従って予察的な面を出ない所がある。今後の整理や研究成果にまたなければならないところである。しかし、一応今までの宮戸Ⅰb式は細分されるようであり、このことについては大筋では間違いが無いが、改めてそれでは宮戸Ⅰb式の位置づけを明確ににしなければならないし、中期末大木10式の細分とからんで後期初頭の編年を再確認しなければならない。それに、宮戸Ⅰa式を昭和44年に南境貝塚調査の段階で大木10式を含むものとして、一応縄文中期にいれるものとして、その型式名をさしひかえたが、中期末の細分に絡んで後期初頭の編年的位置づけとして、改めて考えなければならないと考えており、宮戸Ⅰb式からⅡ式への発展の中で、南境貝塚の遺物を見る限りにおいて、一型式の挿入を考えねばならず、南境式という型式が一番妥当と考えている。それに、その編年型式の地域的な広がりや、他地域との関係を有機的に把握してゆくように進めなければならない。

    第18章 2004 (平成16年)小井川和夫 「里浜貝塚風越地点出土土器の検討」『 東北歴史博物館研究紀要 』5 東北歴史博物館

1 はじめに 宮城県鳴瀬町宮戸島に所在する里浜貝塚は、東西約840m、南北約200mという広大な範囲に展開する縄文時代の貝塚で、松島湾岸における代表的な貝塚の一つとして全国的に良く知られている。遺跡内には縄文時代前期初頭から晩期にかけての貝層が各所に点在し、その数は10地点以上を数える。風越地点は遺跡の西端部の台地にある。かつては台囲貝塚と呼ばれ、昭和20年代後半から30年年代前半にかけては、縄文時代後期の土器編年確立を目的とした発掘調査が数回実施された。その概要のいくつかは明らかにされており、出土土器は特に後期後半の土器編年の上で重要な資料として位置付けられている。 

本稿で扱う資料は、東北歴史資料館が平成3年に実施した発掘調査によって貝層部分から出土した土器である。同館では昭和54年から「仙台湾周辺の貝塚群の調査研究」事業として縄文時代における生業活動の実態解明に取り組み、西畑地点、西畑北地点、台囲頂部地点、梨木東地点の発掘調査・資料の分析を行ったが、風越地点の調査もその一環として実施された。調査の内容・分析結果については報告書として明らかにされている(東北歴史資料館:1997)。土器についても、後期後葉から晩期末葉への三グループ4段階の変遷が確認されている。今回の検討結果も大筋では前記内容に包括されるものであるが、接合状況に基づいて改めて土器の帰属層序の確認をおこなった結果、土器群の変遷を層位的により明確にとらえられることができた。

 松島湾岸地域における該期の土器編年の大要は既に組み立てられているが、細部、特に編年作業は主に貝塚出土資料を用いてなされており出土土器量が必ずしも多くはないことから、各段階共に土器組成の把握に不十分なところがある。その点では風越地点出土土器も量的に恵まれているわけではないが、層位的な裏付けをもつものであり該期土器編年を補強することができる資料であると考えられる。

2 風越地点出土土器 風越地点の調査は、想定される貝層分布範囲の中央やや南西よりに当初3×3mのグリットを南北に連続して3個配置して実施された。ところが、中央区が昭和33年調査区等と重複したため、南北両区を若干拡張し、それぞれをМ区・N区として調査が行われた。従って、М・Nと連続した区名であるが両者は4mほど離れており、その間での層の連続性はない(第1図)。堆積層は、М区で83層、N区221層に細分された。各層の層位、堆積状況、層位関係などについては報告書を参照されたい。また、貝層の分布範囲を知るためにOPの小調査区が設定された。この内P区では貝層の存在が確認されたが、確認のみに止め以下掘り下げは行わなかった。

(1)M区出土土器(26図)出土土器を上層から概ね層順に示したが、出土土器の無い層や小破片のために提示しなかった層もある。土器の特徴によっていくつかに区分することができる。なお各層にはより先行する段階に属すと考えられる土器も混入しているが、それらについても図右側に区別して示した。

a735層の土器 晩期初めに多く見られる壷もしくは注口土器(1013)や、以下の(b)に共通する深鉢形土器(7812)等が混在する。土器の量が少ないこともあって群としての特徴をとらえることができない。後に、他群と比較しながら検討することとする。

b3858層の土器 この群は20404367などといった共通する特徴を持つもの深鉢形土器によってそのまとまりをとらえることができる。口縁部が外傾・外反し、頚部でしまリ、再び胴部が脹り出して底部へ至る器形である(深鉢形A類)。口縁部には肥厚する大小の山形突起が配され、頂部は二、三分されるほか、円文が付されたり(35)、円形に彫去される(67)等の装飾が加えられる。頚部には横長楕円形の彫去や、それに瘤状の突起・隆起が組み合う形の文様が巡らされる。口頚部および胴上部には基本的に入組文文様が描かれる。入組文内が縄文施文の場合とヘラ状工具で押引した細い刻目(”ヘラ刻目“と仮称)で充填される場合があるが、刻目が胴上部の入組文に施されることはないようである。入組文結節部に三叉状の彫去が加えられもの(202636など)があり、さらに独立した形で三叉文が施されるもの(43胴上部)もある。また、三叉文には口縁部突起に対応して突起頂部に突き出すように施されもの(16566971)がある。

 深鉢形土器には別に口縁部直立しそのまま湾曲しながら底部に至る器形(深鉢形土器B類)がある。37は、文様帯は口縁部近くに限られるが、入組文文様であり、また口縁部突起の状況もA類と共通している。同じくB類と思われる70では、頂部が窪んで二分する突起に沿って弧状に沈線が描かれている。他に壷形土器、浅鉢形土器などがある。大形の壷形土器は、口縁部が内傾し頚部以下が球形に外張りして底部に至る特徴の器形である(253044455768)。文様が施される3044ではいずれも頚部に横長楕円形の彫去を主体とした文様が巡らされ、胴部には44では円形の突起を中心とする入組文と小突起を中心とする弧線文が組み合った形で、30では弧線文系の文様が描かれる。また、30では突起とそれを囲む円文を挟んで魚眼状文のように三叉文が配置されている。小形の壷形土器(74)は、小破片のため全体形は不明であるが、口縁部に深鉢形土器と同様の山形突起が配されている。

浅鉢形土器の場合も口縁部に山形突起を配したり(3138395163)、同様の隆帯を器中位に巡らし他もの(314252)が多い。また、台の付くものが多い。文様は、魚眼状三叉文(31)、三角形の三叉文(38)、入組文結節部を挟むような三叉文(51)など、三叉状文を基本としたもので、口縁部突起の位置に対応して描かれる。41は、平縁で魚眼状三叉文が施されるものである。小形の浅鉢形土器(23)、鉢形土器(27)も、口縁部や文様の状況はこれまで述べたものと共通している。

c5979層の土器 刺突手法による刻目(“刺突刻目”と仮称)の施文を特徴とする土器群である。ただし、79層-119は“ヘラ刻目”で埋められた入組文が描かれ、頚部に横長楕円形も彫去と瘤状の高まりによる文様が巡らされるもので、その特徴から見て前記の(b)の土器群に含まれものである。この土器は424755層出土土器片と、79層出土土器片が接合していることから、帰属層位を79層に位置付けているが、79層の土器片については、整理作業時における注記の誤りであると考えられる。これらの層から出土している“刺突刻目”の土器は深鉢、鉢形土器が主である。量的には少ない。頚部がしまるA類(9395121124)と、口縁から屈曲少なく底部に至る類(8991126)がある。その別が明確でない小片もあるが、口縁部の傾きからみて、8596102A類、94101103104118B類と思われる。文様は、A類では口頚部に施されるもの(95124)と胴上部に施される(8991126)があり、B類では器上部に施される(8993121)。 

 刻目には口縁部上端を刻むものの他、口縁直下に巡らされるものが多い。また、A類では頚部(9395122など)、B類では器中位(8991など)と口頚部文様帯を画する位置に巡らされるものが多い。A類の胴部片とみられる88では、胴上部文様帯の上下を画す位置にも巡らされている。文様中を埋めるように刻目が用いられているものも多い(8991など)。

 ABとも口頚部に施される文様は弧線文文様を基本とすると思われるが、中には入組文的な文様(89126)もある。例数が少ないが、A類胴上部文様では特にその傾向が見られる(8893121)。また文様の要所部分に瘤状小突起が付されたものもある。

 126のように口縁部に突起が配されるものがある。半円形と頂部が二分する山形突起が交互に配され、半円形のものにも沈線が加えられているが、(b)の土器群に比べて小さく加飾性も少ない。深鉢形の120、浅鉢形の127に配されている突起も近似したものであると見られる。他に壷形土器(90)がある。

d8081層の土器 瘤状小突起の施文を特徴とする土器群である。これらの層の土器群の中にも、おそらく整理作業時の混乱によると思われる土器群である。80層―136は深鉢形A類の土器で、口縁部に大小の山形突起が配され口頚部に磨消縄文手法の文様が施される。文様は円文・弧線文文様で、三叉状文も加えられている。入組文文様ではないが三叉状文を持つ事や、口縁部突起の形状などから見て、(b)土器群にふくまれるものであろう。この土器の大半が40454647層出土土器片からなるが、80層出土の一片が接合している。80層の土器片は誤記によるものであろう。

瘤状小突起施文の土器は、最下層に近いということも影響してか出土量は少ない。137は大波状口縁の深鉢形A類の土器で、口頚部に文様が施される。文様は、沈線によって、口縁に沿って弧状に、頚部に横位に区画帯が配され、また頚部中位には平行区画帯の間に鍵手法の区画文が描かれる。区画外は磨かれているが、区画内は特に調整が加えられず、いわば素文の状態のままに残されており、その中に瘤状小突起が付されている。壷形土器の頚部である140も文様の描かれ方は同様である。138139147149は深鉢形土器であるが、破片のために詳しい器形・文様など明確でない。区画内は縄文で埋められている。なお、149および浅鉢形土器150は瘤状小突起はないが、出土層にもとづいてこの群に含めた。

各層に含まれる混入と考えられる土器については、これまで述べた各土器群の様相や従来の編年観に照らして以下のように位置付けられよう。

a735における614は“刺突刻目”土器群に当たる。11については、明確な特徴がないが、“刺突刻目”、また瘤状小突起土器群に含まれるものであろう。

b3858では、54556578808184が“刺突刻目”土器群に当たる。また、66767779は瘤状小突起土器群にあたる。24586483は瘤状小突起群より先行すると考えられるものである。82については特徴が明確でなく位置付けを行うことができない。

c5979では、98100105107109117128135が瘤状小突起土器群に当たる。9297108は、それに先行と考えられる土器群である。

d8081141153はいずれも瘤状小突起土器群に先行すると考えられるものである。146の壷形土器は、小突起が多用されるものであるが、縄文原体の方向を変えて羽状縄文状に施文する手法が141などと共通する事から、先行するものとみた。

 

(2)N区出土土器(第711図)

a321層の土器 深鉢形土器(154155)、浅鉢形土器(156157)があるが土器量は極めて少ない。M(a)の土器群に対応すると思われるものであり、後にまとめて検討する。

b29106層の土器 M区(b)の土器に対応する。

 深鉢形土器A類(158163168170176177180184185189193200201205207)、壷形土器(165175194203204210)、浅鉢形土器(164169171172183186188208209)、小型浅鉢形土器(202)がある。173174はおそらく浅鉢形に付くと思われる台部である。いずれもM区の土器群と同様の特徴を持っているとみてよい。

 177の入組文結節部に小突起が付される例は、M区で認められなかったが、口縁部突起や三叉状の彫去の状況は共通する要素である。また169のような浅鉢形土器は、器形的にはM区での出土例はないが、頚部に巡らされる横長楕円形の彫去と瘤状の高まりの組み合わせは深鉢形A類や大形の壷形土器の頚部などに施される文様と同様のものである。M区では例が少なかった小形の壷形土器(194203)についても、深鉢形土器・浅鉢形土器等と同様の加飾された口縁部突起が配されたものが組成をなしていることが知られる。

c107191層の土器 “刺突刻目”施文土器群である。M区(c)の土器群に対応する。M区に比べると量的に恵まれている。深鉢形土器A類には口頚部全面に文様が施されるものと、頚部だけのものとがある。前者は文様帯の上下が“刺突刻目”帯で画されており、さらに文様帯が一段のもの(223242など)と中間に巡らされた刻目帯で画され上下二段になるもの(240271)とがある。破片のため明確ではないが218220224225243244248なども一段の文様帯のものであろう。入組文に近いもの(271)や入組文のもの(241)もある。入組文文様が胴上部に描かれもの(233272273)もある。なお、240は胴上部に明確な文様はないが、下限を沈線で画された磨消帯が巡らされている。

 頚部だけに文様が施されるもの(221222239250)はいずれも刻目帯で、大きな瘤状突起と組み合うもの(222)、頂部が二分する突起と組み合うもの(239)、X字状の貼付隆起と組み合うもの(221)がある。このような刻目帯は前者の242243とも共通する。

 深鉢形土器B類は器上部に文様が施されており、刻目帯のもの(216)と、上下を刻目帯で画された弧線文文様のもの(231)とがある。

深鉢形A類、B類ともに口縁部に突起が配されるものがある。突起は216のように三角形状のものがあるが、多くは半円形のもので、連続して配されるもの(240)と、23個を1単位として配されると思われるもの(223225231242251271)がある。242では頂部が二分する突起と交互に、271では大小の突起が交互に配されている。

 また、頚部の刻目帯と組み合うものの他に、文様の要所部に瘤状小突起が付されたもの(216218220)がある。

他に浅鉢形土器がある(217238245247274)。238274は、いずれも口縁部が刻まれるもので、238では口縁下の磨消帯を画す位置にも刻目帯が巡らされている。217は刻目が施されていないが、口縁部突起や器面に付される瘤状突起の形状は深鉢形土器のそれと共通している。なお、232も浅鉢形土器に付くと思われる台部で、透かしで飾られている。

d193214層の土器 瘤状小突起施文の土器群である。 M区(d)の土器群に対応する。ただし、197層―278は(c)土器群の特徴である“刺突刻目”が施されたものである。整理作業時の混乱によってまぎれ込んだものであろう。深鉢形土器、壷形土器、浅鉢形土器等がある。

深鉢形土器にはA類、B類があるが、小片のためいずれとも決めかねたものもある(276)。A類には口頚部全面に文様が施されるもの(277280290293295297299)と、頚部だけのもの(281284285)とがある。破片のため明確でないが、296300なども前者であろう。施される文様は、弧線文(290291295297)、平行線文(299)、入組文的に見られるもの(293)などで、文様帯の上下に当たる口縁部・頚部や、文様中に瘤状小突起が多用される。後者では平行沈線と小突起が組み合って施されるもの(281284)と、小突起だけが付されるもの(285)とがある。

壷形土器(301)・浅鉢形土器(302)は、いずれも平行沈線と小突起による文様が施されれている。また288は鉢形とみられる土器で、胴部に細沈線で鋸歯状文が描かれ、文様の上限を画す口縁下の平行線に小突起が付されている。

各層での混入と見られる土器については以下のように位置付けられよう。

b29106層では、166167181195199212214215が“刺突刻目”土器群に、182196198211が瘤状小突起土器群にあたる。また213は瘤状小突起群に先行するものであると思われる。

c107191層では、227234237254255257265267268270275は瘤状小突起群にあたり、228230252253256266269はそれに先行するものであると思われる。

d193214層では、282283289294298303313のいずれもが瘤状小突起土器群に先行すると思われるものである。



(3)土器群の内容

 先に述べたように、N区とM区の土器は出土層としての連続性はないものの、その特徴から見て層群毎にそれぞれ相関するものであると考えられる。各群の中には一括の土器群としてのまとまりをもたないものもあるが、編年的にその内容をみることとする。再掲にあったては、各層での混入と見られる土器とともに、出土層不明のものや表土層出土およびOP区出土土器も加えた(314326)。

Ⅰ群(第12図)

 各層から混入という形で出土した。瘤状小突起土器群に先行すると考えられる土器群である。大波状口縁のもの(309310など)、肥厚したいわゆる親指状突起が配されたもの(143289など)、細隆起線文による文様が施されるもの(303)などがあり、いくつかの段階のものが含まれていると考えられる。しかし、出土量は少なく、また層的な根拠を持つものでもないことから、ここでは後期中葉から後葉にかけての土器として一括しておくに止める。


Ⅱ群(第13図)

 M(d)・N区8(d)にあたるもので、瘤状小突起が多用される文様が施される土器群である。瘤状小突起は側面が数方向からなでつけられ先端が尖った形のものが多い。

 深鉢形・壷形・浅鉢形土器などがある。深鉢形土器には大ぶりの波状口縁のもの(137116260270)もあるが、平縁のものが多くを占める。A類とB-類の器形があり、器形を推定できるものでは前者が多い。

 A類には口頚部の全面に文様が施されるものと、頚部にのみ瘤状突起(285)や沈線文様と瘤状小突起が施されるもの(235284)とがある。口頚部に施される文様は弧線文文様(112290291295など)が多い。別に、平行線文様(113299など)もあり、137のように平行線文間に鍵手状の区画文が描かれたものもある。また、入組文的にみられるもの(293など)もあるが、290の例もあり小破片からで推定が難しい。文様区画の内部は縄文で埋められる場合と、とくに再調整が加えられずいわば素文に状態のままの場合とがある。そして区画内部を中心として瘤状小突起が付されている。

 B類では文様は器上部に施されるが、A類と同様に弧線文文様(279286)や、平行線文様(114)が主体となると思われる。なお114は胴部に細沈線による粗い格子状文がほどこされている。100130228も口縁部から屈曲なく底部へ至る器形であるが、器高・口径共に小さい鉢形のものと思われる。弧線文様のもの(100)、114と同様のもの(130)、細沈線の鋸歯文のもの(288)で、いずれにも瘤状小突起が付されている。

 壷形土器(135301140182)はいずれも破片で全体形状の知られるものはないが、文様の特徴は深鉢形土器のそれと共通しているとみてよいであろう。

浅鉢形土器も量がすくなくその内容が明確ではないが、弧線文・平行線に瘤状小突起が組み合った文様が施されたものなどである。106は瘤状小突起がないが弧線文文様のものであることから群に含めた。

 このⅡ群は、宮戸Ⅲa(後藤:1959)に相当する土器群であると考えられる。    


Ⅲ群(第14図)

M(c)・N区(c)にあたる。“刺突刻目”が施される土器群である。

 深鉢形・壷形・浅鉢形土器がある。深鉢形土器は、一部波状口縁のもの(85102)もあるが、平縁が大半でそれに口縁突起が配されるものが、比較的多い。突起は低い半円状、三角形状で更に沈線で飾られるもの(126)もあるが数は少ない。配置の状況は、連続的に配されれるの(216240など)一定間隔毎のもの(314)、23個単位のもの(214223など)、異なる形状の突起が交互に配されもの(126242271など)など多様である。

 Aでは、口頚部に文様が施されものが主であるとみられるが、胴上部にも及ぶもの(8893121233272273)もあり、240では下限を沈線で画されたミガキ帯が巡らされている。他にⅡ群と同様に頚部にのみ文様が施されもの(222239など)がある。B126231など)では器上部に文様が施される。

 描かれる文様は弧線文文様が基本になっているが、入組文に近いもの(12693胴上部)や、入組文のもの(233241273)も認められる。刻目は文様帯の上下を画す位置―口縁下とA類では頚部―に巡らされることが多く、240271では二段の文様帯の区切りとしても巡らされている、口縁を刻むように施されたり(101104など)、文様区画を埋めるように施されているもの(126215など)もある。また、瘤状小突起が付されているものも比較的多い。ただし、それらはⅡ群とは状況を異にしており、弧線の結節点など文様の要所部分に付されることが多い。また、頂部が二分されたり、23個が1単位で施されたりするなど、より装飾性が増されているとも見ることができる。突起に対する調整も丁寧で、頂部は平滑に仕上げられているものが多い。

 壷形土器は小片が一点あるだけであり(90)、内容は明らかでない。

浅鉢形土器もさほど多くはないが、刻目や口縁突起・瘤状小突起の状況は深鉢形土器と共通したものである。

Ⅲ群はかつて宮戸Ⅲb(後藤:1959)とされたものにあたると考えられる。その後後藤氏によって宮戸Ⅲa式に含められた(後藤:1961)。一方、齋藤良治氏は松島町西ノ浜貝塚Rトレンチなどで層位的な出土状況を確認し宮戸Ⅲa式に後続するものとしたが、資料が不十分であることから型式としての位置付けは行わなかった(齋藤:1968)。なお、後に気仙沼市田柄貝塚でも層位的に区分されている(宮城県教育委員会:1986


Ⅳ群(15図)

 M(b)・N区(b)にあたる。深鉢形・壷形・浅鉢形土器などがある。施される文様はそれぞれに様相を違えているが、最も量の多い深鉢形土器はほぼ入組文で施されており、この点を強調すれば“入組文文様系土器群”と称することができよう。

 深鉢形土器にはA類・B類があり、A類が多くを占める。いずれも口縁部に山形突起が配されている。突起は肥厚し、頂部が23分されたり円形に彫去されるなどの装飾が加えられたもので、大小の突起が交互に配されることが多い。

 Aは文様が口頚部から胴上部にかけて施されている。頚部には瘤状の小突起や高まりと横長楕円形の彫去がくみあった文様が巡らされることが多い(43185など)。他に縄文帯が巡らされるものもある(158190など)、口頚部、胴上部に施される文様は基本的に入組文である。入組文は右下がりの状態のものが多いが、左下さがりのもの(56201)もあり、40のように両者が併用されているものもある。入組文区画内が縄文で埋められるものと、‟ヘラ刻目”で埋められるものとがある。箆刻目は口頚部の入組文文様帯の上下や口縁下などにも巡らされるが、胴上部文様に施されることはない。また、三叉状の彫去がくわえられるもの(2040など)であるが、結節部から離れた独立した三叉状文のものもある(43胴上部)。別に、口縁突起の頂部に向かって突き出すように彫去が施されるものがある(5669など)。43では突起部に直接ではないが、対応する位置に施されている。

 136は口頚部に円文と弧線文からなる文様帯が巡らされものである。円文と弧線文との間隙部に三叉文が施され、また口縁部突起の状況が他の深鉢形土器と共通していることなどから、入組文文様ではないが、この群に含まれるものとしてよいであろう。なお、弧線文文様は190胴上部にも認められる。

 B37316)では文様施文は器上部に限られるとみられるが、文様の様相はA類と同様である。70B類と見られる。小破片であり全容は不明であるが、低い突起が配された口縁に沿って弧状に沈線が描かれている。他の深鉢形土器と様相を違えているようにも見られるが、口縁に沿う弧線は43にも認められ、また器形は異なるが小形鉢形土器の27とも共通しているものと思われる。

 壷形土器には大形のものと小形のものがある。

大形のものは、内傾する口頚部と球形に張る胴部の特徴的な器形である。施文文様の明らかな3044では頚部に深鉢形A類と同様の横長楕円形の彫去を主体とし文様が巡らされている。胴部の文様は弧線文文様が主になっているが、44では入組文も組み合わせられ、30では三叉文も施されている。175では口頚部に三叉状の彫去が加えられた入組文文様が施されている。他に頚部に磨消帯を巡らしただけで全面に縄文がほどこされたものも57など数点例出土している(M区―254568)。

 小形のものはいずれにも破片で全体形は明らかでないが、口縁部破片(74194203)は深鉢形土器と同様の肥厚・加飾された山形突起が配されるものであり、胴部破片(165)・口頚部破片(210)は三叉文が施されたものである。

 浅鉢形土器も口縁部に深鉢形土器と同様の突起が配されるもが多い(38など)。小形浅鉢形土器(23202)も同様である。また、器中位に同様の隆帯が巡らされるものもある(31・42)。口縁部突起に三叉文や三叉状の彫去が施されるもの(38172178187)も深鉢形土器に例がある。さらに31のように魚眼状三叉文の文様帯が巡らされるものもある。平縁ではあるが同様に文様帯が巡らされる41も、31の例や出土層位からみてこの群に含まれるものとしてよい。他に、横長楕円形の彫去を主体とする文様が巡らされもの(169)もある。

 このⅣ群が、Ⅲ群に後続するものであることは層位的に明らかである。その点ではかつて設定された宮戸Ⅳ式(後藤:1960)期にあたることになる。宮戸Ⅳ式は、同時に大洞B直前型式と位置付けられており、その設定にあたっては、三叉状文あるいは三叉状の彫去がみられることが大きく関わっていると推定される。

 しかし、風越地点のⅣ群にはそれらが付加されたものとそうでないものとがみられる。また、深鉢形が入組文主体、大形の壷形土器が弧線文主体、浅鉢形土器が三叉状文主体という器形ごとの施文文様の違いの傾向もうかがわれる。一方、肥厚・加飾された口縁部突起が深鉢形・小形の壷形・浅鉢形土器に、横長楕円形の彫去が深鉢形・大形の壷形土器などで共通している。そして層位的には、それら各種が組み合う形で土器群を構成していると理解され、その内容はかつての宮戸Ⅳ式に相当する土器を含め、より広範なものであると考えられる。


Ⅴ群(第16図)

 M(a)・N区(a)にあたる。先に述べたように出土量が少ないこともあって、その様相は明らかでない。Ⅳ群に相当すると考えられる土器と、晩期初頭に属するとみられる土器がある。

 7812154はⅣ群に相当すると考えられる。深鉢形土器A類で口縁部突起や頚部の文様などに特徴が表れている。深鉢形土器B類の15も、文様帯が口縁部に集約されているが、頂部が二分する山形突起が配されておりⅣ群のものとみられる。小形鉢形土器の2についても、入組文的な文様から見てⅣ群に相当すると思われる。また、浅鉢形土器156、壷形土器5も頂部二分の山形突起が配されており、Ⅳ群に含まれるものであろう。

 波状口縁で口縁部に磨消帯が巡らされる深鉢形土器3491618は晩期初頭・大洞B式に属するものと見られる。16では口縁部が肥厚しているが、91718と共に同一層から出土しており、一括してよいものであろう。同じく波状口縁の深鉢形土器155も、磨消帯の位置は異なるが、同種のものと思われる。鉢形土器の1も、緩い波状口縁で魚眼状三叉文からなると思われる文様帯が巡らされており、大洞B式のものと考えられる。13は注口土器の口頚部である可能性が高いものであり、該種の器形は大洞B式期に類例が多い。壷形土器の口縁部とみられる10についても、横長の列点を巡らす文様はⅣ群の大形壷30に認められるものの、このうに内湾して開く口縁部を持つ壷形土器は大洞B式期など晩期前葉にみられる器形である。

 浅鉢形土器157、壷形土器19については、小破片であることもあり、Ⅳ群期あるいは晩期初頭のいずれとも推定し得る特徴を見いだすことができない。

以上のように、この群にはⅣ群期の土器と大洞B式期の土器が含まれている。このことからM(a)・N(a)層群の形成時期は大洞B式期であり、Ⅳ群土器は混入したものと解釈できる。したがって、土器群としてのⅤ群は、混入とみられるⅣ群土器を除外して設定するべきであるが、先にみたように大洞B式に属すると考えられる土器の内容は断片的であり、また帰属時期の点で曖昧な部分が残るものもある。このため、このⅤ群については土器群としての位置付けは行わず、個別にその様相を紹介するに止めることとする。

Ⅵ群(第17図)

 表土やO区、P区などから出土した大洞B式期と考えられる土器である。深鉢、鉢形土器(317322)はいずれも小波状口縁のものと思われ、さらに2個一対の小突起が配されるものと思われ、更に2個一対の小突起が配されるもの(318321)もある。多くは口縁部に入組・魚眼状の中間的三叉文からなる文様帯が巡らされている。318では小突起下部の半円状の弧線と組み合って三叉文が描かれている。なお、この土器にはヘラ刻目帯が巡らされている。浅鉢形土器の325も口縁部に小突起が配され入組・魚眼状の中間的な三叉文が描かれている。323324は、器形は異なるが、共に半円形の弧線を中心に三叉文が描かれている。326は壷形土器の口縁部である。

これらの土器は共伴関係にあるものではない。ここでは、風越地点に該期のこの種の土器が存在することを確認しておく意図で提示した。なお、斜面下位にあたる貝層の存在が確認されたP区の出土が比較的多いこという点を考慮すれば、P区に該期に相当する包含層が形成されている可能性も想定される。

 以上のように、風越地点の土器は縄文後期中葉から晩期初頭・大洞B式までのものからなっている。そして、群の内容が不明確なⅠ・Ⅴ・Ⅵ群は別として、後期後葉ではⅡ群、Ⅲ群、Ⅳ群の三段階の土器群の変遷が層位的に確かめられたといえる。土器群の特徴でみれば、瘤状小突起群→“刺突刻目”土器群→入組文文様系土器群ということになる。

 既に述べたように、これら3つの土器群は宮戸編年の設定時以来、その位置付けを巡って扱いが変動した。台囲貝塚Cトレンチ・西ノ浜貝塚の層位的出土状況をもとに編年の確立が意図されたこともあった(齋藤:1968)が、資料が少なかったこともあり不十分のままであった。だが、その後、気仙沼市田柄貝塚で該期の土器群がⅤ群→Ⅵ群→Ⅶ群という形で層位的に提示された(宮城県教育委員会:1986)。そして、風越地点の内容は、田柄貝塚のそれと基本的に同様である。このように、田柄貝塚および風越地点という離れた地点で同様の内容が確認されたことによって、仙台湾沿岸地域における変遷過程が大筋でほぼ検証されたとみてよいのであろう。

 ただし、例えば風越地点で注口土器やⅢ群における壷形土器の欠落など土器組成の内容把握に不十分な点があり、こうしたことは田柄貝塚にもあてはまる。また、風越Ⅲ群が弧線文文様主体であるのに対し、対応する田柄貝塚Ⅵ群が入組文主体であるなど、地域性に関わると考えられる相違も見いだされる。今後、その内容についてさらに補強、検討を行う必要があろう。


3 Ⅳ群段階の土器につて

 風越地点の後期後葉の土器群の内容は既に見た通りである。ただし、その内容Ⅳ群については、縄文晩期の土器との関わりの中で、異なった解釈がなされているものも含まれていると思われる。

 既に述べたように、風越地点は台囲貝塚とも呼ばれ、数回の調査が行われている。その内容が明らかにされている三つのトレンチ、および七ヶ浜町二月田貝塚出土土器について風越Ⅳ群土器と比較しながら、この地点における該期の土器の状況を検討してみる。

 

(1)昭和30年台囲貝塚Bトレンチ(小井川:1980Bトレンチは風越地点N区から約100m離れた調査区である(第1図)。

 Bトレンチでは表土を除き8枚の堆積層が確認された。かつて筆者は深鉢形土器を主な対象として扱い、出土層位と特徴から出土土器を4群に分けて検討した(第18図)。

 第四群土器は、「瘤状小突起を持つ土器群と、瘤の退化形態と見られる刺突文を有する土器群」であり、風越地点Ⅱ・Ⅲ群にあたる.第一群土器は低い小波状口縁の深鉢形土器B類が主体で、三叉文が文様の主モチーフとなるものである。報文では明記しなかったが、晩期初頭・大洞B式とみられるものである。

このことから、層位的な点からも、両群の間の第三群・第二群土器が風越地点Ⅳ群に相当するといえる。

第三群・第二群土器は、いずれも深鉢形土器はA類が主体で、口縁部に頂部が二、三分する突起が付されることが多い。三群ではそれが肥厚する傾向が認められるが、二群では顕著ではない。文様は、三群入組文が主なモチーフであり、二群は入組文が主であるがそれに三叉文が付される。ただ文様の変化は、三叉文が支配的になる第一群までも含めて多分に漸移的である。というのがその概要である。なお、二群-1314の土器については、報文でも述べたが、特徴が一群と同一であり、発掘または整理作業の過程で、一群土器が紛れ込んだものである可能性が高い。

 そして報文では、二群から一群へ移行する過程で、深鉢形A類が二群-17、一群-1011にみられように小形化し、また、二群―16に見られるように文様が簡素化された形でB類に転換し、大形の単純な深鉢形土器と小形の精製土器の組み合わせへとセット関係の分解・整理の現象がみられることを重視し、この変化を持って後期・晩期の別とした。つまり第二群を後期最終末、第一群を晩期初頭とした。

 このBトレンチ三群・二群に相当する形で更に二分されることになる。しかし、既に述べたように、風越Ⅳ群はまとまりのある土器群として捉えられるものであり、その概要は次のようである。

 深鉢形土器にはA類とB類があり、A類が多くを占める。いずれも口縁部に肥厚する山形突起が配される。文様は、僅かに弧線文文様がみられるが、入組文文様が主体で、その結節部などに三叉文の彫去が加えられたリ、独立した三叉文が施されるものもある。三叉文には口縁突起部分やそれに対応する位置に施されるものもある。壷形土器には大形のものと小形のものがある。大形のものは、入組文文様のもの(風越―175)もあるが、弧線文文様が主でそれに三叉文が付加されるものもある。小形のものは、口縁部に山形突起が配されるもので、それに三叉文が施されるものもある。浅鉢形土器も山形突起が配されるものが多く、同様の隆帯が器上部に巡らされるものもある。文様は突起部分の三叉文の他に、口縁部に巡らされ魚眼状文などがある。深鉢形、大形壷形、浅鉢形それぞれで、入組文・弧線文・三叉文の文様的な様相に相違があるが、層位的な出土状況からみて一括されるものであり、その違いは器形ごとの施文文様相違と解される。

 こうした風越Ⅳ群土器のあり方をもとにBトレンチ土器をみると、Bトレンチ第三群の大形壷形土器(台B2627)は風越Ⅳ群と同様のものである。浅鉢形土器(台B―2829)についても、28が地文と組み合うという違いは認められるが、共通するものとみてよい。第二群の深鉢形土器についても、例えば三群―23ほどは顕著ではないが、1519では口縁突起は明らかに肥厚しており、1819の文様も弧線文的文様に三叉文が付加されたものである。また二群―20、三群―25は共に、口縁部に磨消帯が巡らされ頂部が二分する口縁突起が配された同類のものである。

 このような点からみると、Bトレンチ第三・二群土器は本来一体のものとして理解すべきものであったと考えられる。その分別は、出土土器量が少ないこと、特に三群の深鉢形土器の内容の欠落による様相把握の不十分さが原因したと思われる。

 たしかに第二群には、16のように、頚部に若干のくびれがあるものの器形的には深鉢形B類に近く、波状突起の丈の高い波状口縁であるなど第一群との中間的な要素がみられるものがある。また、玉抱き三叉文(二群―16)やそれに近い文様(二群―17)が施されるなど晩期土器への移行過程を伺わせる見られるものがある。しかし、風越地点におけるⅣ群土器の各層毎の出土状況からみて、Ⅳ群土器中から更に一群の土器を分離・抽出する事は困難である。Bトレンチ第三・二群は、風越Ⅳ群とも一括して、この地点における後期終末の土器群の様相を示していると考えられる。

 

(2)昭和30年台囲貝塚Cトレンチ(齋藤:19601968Cトレンチは、風越地点N区とBトレンチとの中間にあたる調査区である(第1図)。第1貝層以下第3混土層間での土器が、下層から第3類、第4類、第5類の3つに分けられている(第19図)。

3類は、刺突文帯を有することを特徴とする土器群であり、風越Ⅲ群に相当する。

第4類には、口縁部に山形の突起が配されたものがあり、入組文の間に三叉文の文様が彫刻的に施されている土器等に特徴がある。風越Ⅳ群の中に共通するものが含まれている。

5類は、小波状口縁で三叉文が発達したもので、晩期大洞B式に位置付けられている。

このようなCトレンチの状況は、きわめて資料数が少なく、特に4類では入組文施文の土器がみられないことなどもあって不明瞭な点が多く、土器群の変遷内容は風越地点の内容と大筋としては一致していると理解される。

 

(3)昭和33年台囲貝塚Lトレンチ(槙:1968

 Lトレンチは、その形状は不明であるが風越地点N区と一部重複した調査区である(第1図。旧調査区内に、33Lトレンチであることを示す紙片が残されていた)。

 表土以下第3混土層間での土器が3つに分けられている(第20図)。

 第3層土器は、疣状小突起を有する土器と列点刺突文を有する土器などからなっている。前者には、多くは風越Ⅱ群に相当し、その前段階のものもわずか含まれている。後者は風越三群にあたるものである。

 第2層土器は、口縁に肥厚・頂部が23分する大小の山形突起を配され、縄文や‟ヘラ刻目“でうめられた入組文が施文された深鉢形土器もある。このような特徴の土器は風越Ⅳ群に含まれているものと共通している。

 第1層土器はさらに、(1)魚眼状入組文を有する土器(台L―1171920222427(2)小波状口縁を有する土器(台L―2523)、(3)三叉文を有する土器(台L―61618)に区分されている。この内、(1)と(2)は大洞B式に位置付けられている。(3)については、大洞B式併行のものと、それに先行するかとも考えられものの二者があるとされている。

 このような第1層土器のあり方は、他の調査区とは状況を異にしている。特に(3)の土器の多くは、風越M・N区ではⅣ群に含まれると考えられるものであり、台B、台Cトレンチでも大洞B式とは層準を違えて出土している。

 この相違の理由は、おそらく、Lトレンチ第1層土器群とされるそれぞれの土器の帰属層位に関わりがあると思われる。第1層土器は、表土・第1貝層・第1混土上層から出土下からなっている。また、第2層土器は、第1混土層下部・第2貝層・第2混土層から出土したものである。つまり、第1層土器には表土出土の土器に加えて、第1混土層出土土器が分離されてその一部が含まれている。ただし、それぞれの土器の出土層が明らかでなく、また第1混土層出土土器の分離が層位的な違いによるものか、様式的な差異に基づくものなのかも明らかでないことから、より以上の検討は行わない。

 

(4)二月田貝塚(宮城県塩釜女子高等学校社会部)19701972

 里浜貝塚と松島湾をはさんで対岸の七ヶ浜町二月田貝塚でも、該期の土器の出土が知られている。二月田貝塚の調査は2ヶ年・2次わたって行われ、第2次調査の3トレンチにおいて層位的な出土状況が報告されている。

 3トレンチでは表土以下が4つの層に大別されている(第2345層)。

2層の土器は、工字形文が施された土器などで、大洞A式に属するものであるとされる。

 第5層の土器の提示はないが、第一次調査出土土器の分類による第3類・第4類が出土していると記述されている。第3類は貼瘤状の小突起が器面に施文された一群、第4類は刻目を帯状に施文した一群(第21図下段)で、それぞれ風越Ⅱ群、Ⅲ群にあたるものである。

 第34層出土については、報文の類別とは別に、層毎に配列して第21図に示した。

 第4層の土器には、深鉢形・鉢形・浅鉢形・壷形土器などがある。

 深鉢形土器(6088)はA類とB類があり、口縁に頂部が23分、肥厚した山形突起が配されるものが多い。平縁のものでも肥厚傾向がみられる。文様の明らかなものは少ないが、入組文文様のもの(626768など)が多いと思われ、弧線文的な文様(6061)もみられる。また、その結節部や口縁突起部分などに三叉文や三叉状の彫去が施されるものもある。他にヘラ刻目手法を持つ入組文文様の土器(第6類、第22図)も出土していると言う。報文では出土層位が明示されていないが、出土土器分類別・層位別数量表(1971報告書15ページ)によれば第6類は第4層から主体的に出土してことが知られる。

 浅鉢形土器(9395)は三叉文を主とする文様が施されており、深鉢形土器と同様の肥厚する山形突起が配されるもの(95)もある。

蓋形土器?(97)も口縁に頂部が刻まれた突起が配されたものである。

 鉢形土器(8992)、壷形土器(96)は、弧線文的な文様が施されるもので、三叉状文も付加されている。

このような第4類土器の状況は、類例がないため比較できない鉢形・壷形土器があるものの、風越Ⅳ群のあり方と基本的には共通していると考えられる。なお、蓋形土器についても類例はないが口縁突起の様相は風越―23202などに近似している。

 第3層の土器には、深鉢形・鉢形・浅鉢形・壷形土器などがあるが、破片のためその別が明確でないものもある。

 深鉢形土器はいずれもB類で、口縁が小波状をなし口縁部に文様が集約されるものがほとんどであり、それらは、弧線と玉抱三叉文が組み合うもの(34など)、その弧線の接点部に三叉文が加えられるもの(1など)、弧線と三叉状文が組み合うもの(67など)、弧線の接点部に向かって三叉文的に棘状文が配されるもの(89など)、魚眼状三叉文のもの(5)など多様である。また、口縁部無文帯に文様が施されるものがあり、そらには、波頂部に対応して三叉文が施されるもの(1314)、弧線と三叉文が組み合うもの(12)がある。なお12は胴部にも玉抱三叉文による文様帯も巡らされている。さらに無文帯のままのもの(1525)もある。

 鉢形土器も多くは小波状口縁で、口縁部に文様帯が巡らされるものである(26424748)。文様は魚眼状三叉文(2629など)や玉抱三叉文(27など)などで、口縁部無文帯に施されているものが多い。他に、47は弧線と三叉文的な棘状文が組み合う文様で縄文が併用されている。また、48は頚部がくびれる器形で口縁部に文様が施されている。屈曲する沈線を挟んで三叉文が配され文様で、沈線によって飾られた口縁部突起とともに第3層土器の中では異なった様相がみられる。

 浅鉢形土器(4346)は魚眼状三叉文などが施されているもので、43のように装飾性の高い口縁突起が配されたものもある。

 壷形土器(49)は渦文と三叉文が組み合う文様が施されている。

なお、5059は下層土器の混入と考えられるものである。50は肥厚した口縁突起が配されたる深鉢形土器A類で、その特徴は第4層土器に共通し、胴部文様も第4層―60に近似している。5153も口縁突起の特徴が第4層土器と同様である。5457の鉢形土器については明確でないが、第4層―8990に類似していることから混入したものと解釈した。5859はいわゆる瘤付土器段階での共存例が多い。

 このような第3層土器の状況から見ると、特に深鉢・鉢形土器の中に、台囲Bトレンチ一群土器と共通する文様の特徴を持つものが多く認められる。即ち、縄文が併用される弧線・玉抱三叉文文様のもの(二月田―34など、台B―12)、口縁部磨消帯に波頂部に対応して三叉文が施されるもの(二月田―1314、台B―4)、口縁部磨消帯に魚眼状・玉抱三叉文が施されるもの(二月田―15262729など、台B―5・6・7)、口縁磨消帯が無文のままのもの(二月田―1525、台B―9)である。また、文様の類似ではないが、装飾性の高い小形精製土器(二月田―4348、台B―1011)が伴うという土器群のあり方にも共通する点がある。

 口縁部文様として弧線と三叉文または三叉文的棘状文が組み合うもの(611)も鉢形土器に近似するもの(台B―8)があるが、深鉢形では例はない。これらの土器については、第4層にも近似した土器が見られる(二月田―8184)。このことから第4層から混入の可能性も考えられる。だが、第3層土器が波状口縁であるに対し、第4層土器は波頂部が窪んでおり、83ように三分されるものもある。若干の差異であるがこうした相違がみとめられことから、両層の土器はそれぞれの層の土器群の構成に含まれるものと思われる。

 なお、このような波状ないし低い山形突起の間を弧線で繋ぐ文様の土器は、七ヶ浜町沢上貝塚(後藤・丹治・槙1971、関根:2002)や名取市金剛寺貝塚(後藤:1960)に類例があり、里浜貝塚でも台囲Lトレンチ(台L―8)、風越M区(風越―70)から出土している。風越Ⅳ群段階で主体となる深鉢形土器の肥厚・大形の山形突起に比較する後出的様相であるようにもみられるが、風越M区ではⅣ群土器を構成する3858層出土土器の中で下部の55層から出土していることから、深鉢形土器に置ける文様の型の一つであり、組成に含まれるものであると理解しておきたい。

 このように二月田貝塚の第34層は層毎にまとまりもつ土器群としてとらえられ、第4層土器は風越Ⅳ群に、第3層土器は台囲Bトレンチ第一群に併行するものと考えられる.「出土土器分類別・層位別数量表」によれば、羊歯状文土器・雲形文土器が第3層から、工字形文土器は第34層から出土しているなど層位的な混乱が若干存在することが推定されが、第34群土器の内容と変遷状況に違和感はない。

 

 以上みたように風越Ⅳ群土器は、出土土器の多少はあるものの、同一地点である台囲貝塚はもちろん二月田貝塚にも類例が認められ、一括して縄文後期終末段階の土器群として位置付けられる。そして小波状口縁の深鉢形土器B類を主体とする大洞B式(台囲貝塚Bトレンチ第一群・二月田貝塚第3層土器)に移行する。各所で述べた中間的特徴を持つ土器や、浅鉢形土器に見られる魚眼状三叉文などのように大洞B式期にも共通する文様の存在はその移行が連続的なものであることを示していると考えられる。

4 おわりに

 当該期の土器編年は、資料が蓄積されてきたということもあって、近年東北地方各地で研究が進められている。そうした中で、地域による様相の違いの存在が認識され、さらにその相互間の交流・影響のあり方を把握する必要も生じてきている。

 本稿は、里浜貝塚風越地点における土器群変遷状況の再提示を目的としたものである。その過程で、後期終末のⅣ段階の土器について台囲貝塚・二月田貝塚出土土器とも合せてその様相を検討した。いうまでもなくこの段階の土器群は後続する晩期・亀ヶ岡式土器との関わりを考える時、研究上の重要な要点の一つである。その点では、その内容をある程度は群としてとらえることができたと思われる。むろん、例えば注口土器の欠落など、なお不十分な部分が残されておりさらに補強を加える必要がある。本稿で提示した土器群の内容・変遷の状況は、あくまでも松島湾岸の限られた一地点の様相を示すものではあるが、層位的な裏付けのある内容であり、地域間の検討を行う場合などにおいての定点資料として意味をもつものであると考えている。

 【引用・参考文献】

  後藤勝彦(1956)「宮城県宮戸島里浜台囲貝塚の研究」『宮城県の地理と歴史』1

  後藤勝彦(1960)「宮城県名取市高館金剛寺海津出土縄文式土器野研究」『宮城県の地理と歴史』2

  齋藤良治(1960)「宮城県鳴瀬町宮戸台囲貝塚の研究―昭和30年度Cトレンチ『宮城県の地理と歴史』2

  後藤勝彦(1962)「陸前宮戸島里浜台囲貝塚出土の土器について―陸前地方後期縄文文化の編年研究―」『考古学雑誌』48-1

  槙 要照(1968)「陸前宮戸島に於ける縄文後期末遺物の研究―台囲出土の土器についての一考察」『宮城県の地理と歴史』3

  齋藤良治(1968)「陸前地方縄文文化後期後半の土器編年について―宮戸台囲貝塚および西ノ浜貝塚出土の土器を中心として」『宮城県の地理と歴史』3

  宮城県塩釜女子高等学校社会部(1970)「宮城県七ヶ浜町吉田浜二月田貝塚発掘調査豊国」『貝輪』6

  宮城県塩釜女子高等学校社会部(1972)「」宮城県七ヶ浜町二月田貝塚第二次調査報告『貝輪』7

  後藤・丹治・槙(1971)「宮城県七ヶ浜町沢上貝塚の調査」『仙台湾』1

  小井川和夫(1980)「宮戸島台囲貝塚出土の縄文後期末・晩期初頭の土器」『宮城史学』7  

  宮城県教育委員会(1986)「田柄貝塚」『宮城県文化財調査報告書』111

  高柳圭一(1988)「仙台湾周辺の縄文後期後葉から晩期初頭にかけての編年動向」『古代』85

  高柳圭一(1988)「宮城県金剛寺貝塚再検討」『村上戸徹君追悼論文集』

  林 謙作編(1994)「縄紋晩期前葉―中葉の広域編年」『平成4年度科学研究費補助(総合A)研究成果報告書』

  東北歴史資料館(1997)「里浜貝塚Ⅹ―宮城県鳴瀬町宮戸島里浜貝塚風越地点の調査―」『東北歴史資料館資料集』43

関根達人(2002)「沢上貝塚出土晩期縄文土器の再検討」『宮城考古学』4


    第19章 2004(平成16年)後藤勝彦 「南境貝塚調査の層位的成果Ⅰ―7トレンチの場合― 陸前地方縄文中期から後期の編年学的研究―」『宮城考古学』6 宮城県考古学会

 

1 はじめに                      

陸前地方は縄文土器の編年学的研究が、松本彦七郎博士によって、大正から松島湾内の里浜貝塚で実施される。日本最初の層位学的方法により、十数層の層序に分層し、土器編年がなされた土地で、縄文土器編年学研究の草分けの歴史的地域である(松本1919)。昭和になって、山内清男、斎藤忠、伊東信雄氏等の先学によって、仙台湾所在の貝塚調査を通して、編年研究が進められてきた(註1)。加藤孝氏の「宮城県上川名貝塚の研究」(加藤1951)を契機に、考古学ブームも手伝って、研究熱が高まり、名取市金剛寺貝塚の調査(後藤1960)は山内博士の直接の指導を受けた調査であった。

その後、東北大学教育学部教育教養部歴史研究室学生の考古学実習のため、里浜貝塚を巡検したことが契機になり、それに、塩竈市史編纂もからみ、貝塚調査が計画され、昭和26年から37年まで10年間調査が実施された。この間に市史編纂事業から古田良一氏を会長とした宮戸島遺跡調査会に発展する。調査の前段階は、主に宮戸台囲地区の調査であった。時期は後期初頭から晩期中葉頃である。後に里地区、梨ノ木地区、袖窪地区に拡大する。

当時、山内博士の縄文土器全国編年表に、陸前地方の後期については、残念ながら相当する土器群の存在を示しながら、型式名が設定されていなかった。従って、常に関東編年型式が使用されており、筆者等の後期土器の理解は、関東編年の「堀之内・加曾利B・曽谷・安行」の型式であった。縄文後期については、陸前地方は空白地域であった。

昭和27年に調査した台囲地区の成果を最初にまとめたのが、昭和31年の「宮戸島里浜台囲貝塚の研究」(後藤1956)である。層位によって第一層・第二層・第三層土器に分類して、それぞれを関東後期の諸型式の安行Ⅰ式・加曾利BⅠ・Ⅱ式・堀之内式に相当するものとし、陸前地方縄文後期の諸型式の手がかりが得られたとした。このように、陸前地方の後期編年研究が始まるのである。その後、層位による区分に、型式的な特徴によって、宮戸Ⅰa・Ⅰb式、宮戸Ⅱa・Ⅱb式、宮戸Ⅲa・Ⅲb式の編年序列(後藤1957)を示した。

昭和32年『宮城県史1』の古代史で伊東信雄博士により始めて、後期土器に「南境式」・「宝ヶ峯式」・「金剛寺式」の型式名が示された。しかも、それぞれがまた数型式の細分されることを示唆したが、その内容については、最後まで示されなかった。昭和56年刊行の『宮城県史34考古資料』でも、各型式の内容は幅広く、数型式を含むものであった。後期編年については、空白をなんとか埋めたいという願いのみであった。宮戸島貝塚の調査成果は、加藤孝・齋藤良治・後藤によって進められ、特に、後期前半は後藤、後期後半は齋藤が分担した。昭和3435年に松島町西の浜貝塚の調査が実施され、新しい知見があり、それを加味して整理したのが昭和37年の論考で、基本的に宮戸Ⅰ式から宮戸Ⅱ式、西の浜式、宮戸Ⅲ式を経て、大洞B式と発展することを示した(後藤1962)。

ところで、宮戸島の調査が実施されてまもなく、伊東博士による陸奥国分寺跡の調査が開始され、8月の1ヶ月まるまる調査に参加となる。したがって、貝塚調査は7月末までに終了しなければならなかった。続いて、多賀城廃寺跡の調査が継続され同じ体制が続くのである。そのため、貝塚調査の遺物整理が停滞し、その上、土器編年研究も停滞した。そこで、昭和38年から多賀城調査から撤退するのである。それに塩釜二中から塩釜女子高校への転勤により、ここからフリーな調査が始まるのである。

この10年間近い古代遺跡調査は参加したことが、なんだったかと考えると、東北大学教育学部の貝塚研究の停滞以外のなにものでもなかったことである。したがって、筆者の土器研究は著作目録を開いて見ても、昭和37年の研究で停滞しそれからの前進がなかった。

その後、寺脇・小名浜・貝鳥貝塚の報告書が刊行され、安孫子昭二・林謙作氏等の活躍もあって、東北の後期編年研究が進められるのである。加藤先生と宮戸島の刊行を企画したこともあったが整理が進んでなく沙汰止みとなった。加藤先生の企画書が棚の奥にあると思う。

やがて、仙台湾新産業都市指定に伴って、伊東先生会長の「遺跡緊急調査委員会」が組織され、その委員に組み込まれて、松島町西の浜貝塚(昭和4142)、石巻市南境貝塚(河北町北境、昭和4143)の緊急調査を抱え込むことになる。南境貝塚については、伊東先生の「毛利・遠藤さんの古戦場だよ」の一言で、緊急調査に従事して、縄文中期末から後期・晩期の厖大な遺物を抱え、自宅も遺物に埋もれた時期もあり、困惑した頃である。県文化財保護課も見かねて、勤務校の塩釜女子校敷地にプレハブ一棟を建て、我が家の遺物が収納された。後に赴任した校長に本校地内で校長の管理下に無い建物があると、皮肉られたこともある。

また、昭和42年には、国土開発縦貫自動車道建設法によって、東北自動車道遺跡緊急調査対策委員会が発足して、委員に組織され、調査に協力する。昭和506月、校内人事も一段落した年度途中で、県からのお呼びがあり、資料館の人事に絡んで、県文化財課課長の人事で、筆者やむなく教職を降りて、文化財保護行政、特に、自動車道、新幹線関係の職務に就くことになり、在野での自由な研究から離れることになる。

この時期は、自動車道調査が県南から本格的になり、白石市菅生田遺跡・蔵王町二屋敷遺跡から、縄文中期末から後期前葉の土器群が多量に出土、土器編年が進められる。昭和50年に入って、仙台市大野田六反田遺跡(田中他1981)の調査があって、ここでも中期末から後期前葉の土器群がまとまって出土する。これらの調査成果は、東北自動車道調査報告書Ⅶ『菅生田遺跡』(宮城県教育委員会1982)・同報告書Ⅸ『二屋敷遺跡』(宮城県教育委員会1984)で詳細な資料が報告され、中期末から後期前葉について東北南半の編年が試みられるのである。特に、菅生田遺跡の報文で、丹羽茂氏によって、後藤編年は東北全体の編年としては通用せず、しかも、報告・論文毎に型式内容が断りなしに変更されていると、痛烈に批判がなされる。もちろん、昭和30年代の研究であり、手探りの状態で、しかも昭和30年代後半で、後期の編年研究が停滞したままであった事情を理解していたかどうか不明である。この時期は川内学派潰しの時期にあたる。

後期の編年研究が一番遅れている大きな問題は、県文化財保護課を含めて、後期の編年研究において、昭和32年の『宮城県史1』及び『宮城県史34』(昭和56年)の「南境式」「宝ヶ峯式」「金剛寺式」の内容不定な型式を使用することになったことである。宮城県史34の解説で「土器型式の分類、型式名は研究者によって、異なった名称が使用され(中略)必ずしも確定、統一されていなかったが、本書では県内で最も一般に用いられている次のような編年を使用した。後期 南境(宮戸Ⅰb)・宝ヶ峯(宮戸Ⅱab)金剛寺(宮戸Ⅲab)と示したという。

また、宮城県史34の縄文時代の解説者藤沼邦彦氏も、「後期は土器編年が最も遅れた時期で、古代史での南境式・宝ヶ峯式・金剛寺式の三型式に大別されたのみである。その後、後藤勝彦を中心としてその細別が押し進められたが、その内容についての受け取り方に食違いが生じている。そのため、本巻では『宮城県史1』の型式にしたがった」という。以来、宮城県内後期編年は現在も宮城県史1型式名に宮戸編年型式名を並列したままである。学問研究は日進月歩のはず、しかも、県史1から数えて40年以上、県史34から数えて20数年間、変化無く今も続いているのである。丹羽・田中両氏も、それぞれ綿密な資料研究をし、新しい成果を示したが、新しい提案がなく、そこまでで終わっている。新しい成果を上げた気仙沼市田柄貝塚の調査を示した藤沼氏からも新提案がなかった。何故『宮城県史1』を越えられないのか不思議である。学閥か。先学の功績を讃えることは大切なことである。それとも、県史の段階に安住して研究を放棄したのか、それは到底考えられないことである。

現実、県史34で藤沼氏は「後期の土器編年が最も遅れている時期」の発言し、この頃、昭和54年県文化財保護課の調査、気仙沼市田柄貝塚(宮城県教育委員会1986)がある。主体が縄文後期中葉から晩期前葉の土器群が層位的に検出されて成果を挙げ、層位的にも型式的にも新しい事実を把握したはずである。ここでも、編年研究が他の時期に比して遅れが目立つ時期だといっている。

筆者はこの間、文化財行政、教育機関東北歴史資料館、研究機関多賀城跡調査研究所を経て、また、学校教育に戻る。しかも、学校管理者としての立場であったため、昭和40年代に調査採集した遺物の整理は遅々として進まなかった。また、東北新幹線調査が終末を迎え、埋蔵文化財の収蔵と整理室の確保に迫られ、宮城町愛子に確保する。塩釜女子高等学校のプレハブも土器の重みで底が抜ける。筆者宅に保管の遺物も、県の助力で整理が進められ、愛子の収蔵場所に整理箱1,200箱が収納される。その後、愛子に納めた遺物が一時所在不明となったが、最後に別棟に移動され、しかも、粗末に扱われ、遺物を取り出すこともできないほど積まれ、押し込まれていた。

平成2年に定年退職となるため、このままでは愛子の遺物が整理できないため、それに、宮城教育大学学長大塚先生から、大学に収蔵されている遺物で、大学調査以外の遺物は関係市町村に返還するようにとの指示があり、松島町菅原氏の助力で松島第一小学校の一棟に、遺物保管と整理室を確保した。1,200箱の遺物は4台のトラックで愛子整理室から運び出され、整理体制が整ったのである。

松島整理室での西の浜貝塚遺物の整理を実施して10年が過ぎ松島西の浜貝塚、貝殻塚貝塚の報告書を完成した。ここに一つの区切りとして、続いて南境貝塚整理の成果を開示するものである。残念ながら筆者一人の整理であり、たいした整理が進んでいない。全体の成果を提示するには、450年もかかりそうである。また齢75歳も過ぎ、先もあと僅かである。未刊で、約30年前の古い調査であるが、現在までの整理成果を土器中心に提示した。約30mに及ぶ連綿と続く堆積の層位的成果を示し、県史以来の異常な状態から、前進することを願ってのことである。若き学徒の奮起を期待したい。

 

2 貝塚調査の経過 

3 貝塚の位置 

4 7トレンチの貝層堆積 7トレンチ壁面実測図・7トレンチ堆積模式図。以上は『仙台湾沿岸貝塚の基礎的研究』Ⅱを参照して下さい。

5 各層出土土器の特徴

 「7トレンチ整理後の模式図」の各層の出土土器の時期、簡略な特徴を、それに図版を明記した。また、編集者に南境貝塚の報告書のこの項目をできるだけ簡略にして欲しいという要請もあり、27m、深さ2m近いトレンチなのでどのようになるか不安であるがやってみる。説明不足は図版で識者が判断してほしいと考えた。


【第12層下】[図36参照] 第1層は表土、撹乱を含む黒土層であり、晩期大洞C1式主体である。この状態は第2層下まで同様である。図3の始めに古い土器群、図5に新しい大洞A式、また、その他の要素の土器を掲示した。主体は大洞C1式である。

調査中V~W区に入った周辺で大洞A式に関する記録があり、W区から北側にその時期の処点があったとする記録である。

 深鉢形、鉢形の1群土器は第1(図3521)、2(図32534)分類される.浅鉢の2群土器も第1(図44856)、2(図44247)、3(図457636566)に細分される。壷形土器の3群土器は(図56771)体部に縄文、特に、羽状縄文が施文されるが、全面無文も存在する.粗製土器の4群土器第1、羽状縄文施文で結束が多く、縄文1段に幅が広く、平均約4㎝である。特に、2層下に一括土器がまとまって出土している。また、2は斜行縄文施文である。

 5群土器は、製塩土器群である。薄手で口縁直立かやや内反の器形で、口縁先端部が薄く削がれたものである。口縁部周辺は指頭で整形した痕跡がある。特徴は器表面に凹凸があり疎面で、剥離痕跡や輪積痕跡が顕著である。器内面は整形ヨコで平滑な整形で良好な壁面である。器形は深鉢形が基本である。底部は小平底で底径約5㎝程である。また、剥離痕や破砕痕にスケール(析出物)の付着が見られる。

 製塩土器の出土は第1層から第2層下までで、各層によって広がりが異なる。作業内容によるかかわりからと思う。底部は平底、上げ底風のものが僅かに存在する。無文底が圧倒的で、網代底、葉文底数点のみ、底径は13㎝除いて、58㎝に集中し、やや小形である。

【第3層】[図7参照] この層は後期の遺物が多い。第2層下にも後期遺物の混在があった。第2層下、第3層は貝塚の北端の儘(斜面)の部分である。過去の諸先輩の古戦場とも考えられる。小破片が多い。この層から後期前葉で問題になる土器群が出土し、第4層の主体の土器群に連なる。この層の主体は遺物の量から、宮戸Ⅱ式の第2群土器である。

 1群土器 第1は口縁外反、波状口縁で帯縄文入組文が施文、縄文帯の結束部に凹穴(盲孔)の施文されたものである。2は第1類と組みになる粗製土器群である。口縁外反、口縁縄文、頚部無文でこの下部に撚糸圧痕文が巡らされる。蓋も存在する。

 この層の主体となる2群土器、第1類(図7-1~5)は、大突起を持つもので、突起上面は円形、楕円形で凹部となる。小破片で全体器形は明らかでない。2、大波状口縁、山形突起状で、口縁端と頚部に刻目帯を巡らす。口頚部が無文帯となり、頚部刻目帯から平行沈線にS字状文の配されたもの、また、磨消手法により入組状の文様が展開するものである(図7712)。

 3群土器は宮戸Ⅲa式の瘤状小突起土器、僅かである。4群土器は宮戸Ⅲb式、5群土器は晩期大洞B式にあたる。6群土器は晩期大洞C1式。7群土器は粗製土器群で、羽状縄文土器群で結束痕を持たない、RL・LRの縄文を交互に施文するもので、施文幅が狭く2cm前後である。縄文間に無文帯さえある土器群である。後期に属する(図73539)。底部は無文が減少して、網代底、葉文底が多数を占める。網代底の底径が1216㎝と大きいことである。

【第45層】[図89参照] この層の主体は、第31群土器である。第3層の宮戸Ⅱ・Ⅲ式、晩期大洞BC1式が僅か混入している。

 新しい土器群の出土で物議をかもした第45層の土器群は2類に分類される。

 1類 口縁波状で外反する鉢形土器が基本である。文様は口縁部に縄文帯が施文され、12本の沈線が口縁に平行に巡らされる。この下部に磨消手法と帯縄文によって、入組状や鈎形状の幾何学文様がヨコ位に展開する.しかも、帯縄文結束部に凹穴(盲孔)が配される。この文様帯は頚部下から胴部周辺で、沈線で区画された縄文帯や磨消帯が巡らされて、文様帯が区画される(図8126、図94849)。

 2 上記に伴う粗製土器群と考える一群。口縁外反し、口縁縄文帯と口縁無文で、頚部無文帯とされるもの。口端及び口縁無文帯下に、撚糸圧痕文が施文されたもの、また、口縁外反は同じで、口縁部無文だけの簡略化したものも存在する(図927475051

 また、器形口縁外反した深鉢、甕形で、口頚部文様帯を形成するやや古い一群がある。第68層の主体の土器群である。また、縄文、刷毛目文施文する粗製土器群もある。 

 第5層ではタテに23本の沈線主体の土器が存在する(多条沈線文?)。物議を醸した土器群より古いと考えている底部 平底で無文、網代底、葉文底があり、網代・葉文底が70%以上を占める。底径は517㎝まで存在し、網代・葉文底は大形で10㎝を越えるものが多い。

【第68層】[図1011参照] やや古い土器群で宮戸Ⅰb式までを埋める層と考えている。この層の土器群は3分類される。

1群土器 第1、口頚部文様帯を構成せる一群、口縁外反し口端に縄文帯、沈線、撚糸文を巡らし、その下部無文帯で頚部に沈線、撚糸文を配して区画し、口頚部文様帯を形成する(図10117)。

 第2 口頚部文様帯を形成しない一群、口縁やや内反、緩やかな波状の鉢形である。

口端に狭い無文帯、その下部に沈線で区画する(区画文?)。この下の口頚部に円文、重孤文、隅丸長方形文が配される。頚部から胴部には、23本単位の沈線で放射状の施文されるものである(図101832、図114143)。図1030のように宮戸Ⅰb式に近い遺物も存在する。

 3 タテ3本の沈線を基本に、頚部から重孤文、同心円文、S字、弧状、渦巻文が充填される一群である(多条沈線文)。資料が少ないが、口縁外反の器形、口縁部文様帯を形成する土器群もあるようだ(図11344044)。

 第2群土器として、粗製土器の一群がある。撚糸文施文の土器群が多い。蓋形土器2点の出土がある。第6層は上・中・下の3層に区分、第7層は4層に区分して調査がなされ、今まで資料が散見していたが、後期前葉の土器群を数段階確認されたことは一つの成果である。底部 平底で無文、網代、葉文底とも存在する。網代底は相変わらず12㎝以上の大形である。

【第911層】[図1213参照] この9層で出土土器が大きく変化して、所謂、宮戸Ⅰb式に相当する層となる。

 1群土器 器形、文様によって3分類される。1AB2分類される。

A 口縁 やや内反し波状や突起を持つ深鉢形である。口縁無文帯下に沈線で区画し、口縁波状頂部下の円刻文中心に、頚部から胴部に、沈線と磨消手法によって、連鎖文を内包した倒卵形状の大きな文様が展開する土器群である。頚部から展開する倒卵形状文様は、ヨコに数単位配置されて完結し、文様は底部まで展開しないものである(図121469、図131719)。

B 器形、口縁様態、口縁部無文帯下に沈線区画は同じである。ただし、施文起点となる波状頂部の円文が、細長い柳葉形となり、放射状に施文する倒卵形状の文様は頚部沈線に対して鋭角となり、区画なしで底部近くまで文様が展開するものである(図125)。また、口縁部下の沈線から、タテ2本の沈線が施文され、粗雑な磨消がなされ、この間に綾絡文が下垂し、蕨状文が施文され、底部近くまで展開する(図13101315・(蕨文1112)。

ABに共通することは、波状頂部の円文は内側にもある。また、突起状の上面に凹部があり、右肩に抉り(刻目)のあるものもある。

2 口縁外反、突起を配し、広い口頚部文様帯を形成、その下部沈線からS字綾絡文、蕨手状文、ジクザク文が底部近くまで施文される土器群である(図128、図13111216)。特に、突起部に貫通孔を持つもので、この突起部が厚みを持ち上面が楕円形、太い溝状の凹部を形成する。また、突起部の円刻文は内側にも施文される。更に注目されることは、貫通孔に上下に突起による凹部を配し、その間、貫通孔沿いに太い沈線で弧状結んだ文様が配される。現在この資料のみであるが、この文様モチーフは宮城県南から福島県磐城地方に展開する、後期初頭の綱取Ⅰ式の口縁部文様である(図128。)。第1類と同じく、突起部右肩に抉り(刻目)を持つ土器もある(図128)。

2群土器 口縁外反、緩やかな波状及び突起配した甕形土器である。波状、突起部に貫通孔、円文が施文され、口端、頚部に沈線、刻目された隆起帯を巡らす。しかも、口端と頚部に、刻目された隆起帯や沈線で、連絡した文様帯を構成する。図1423は下部沈線入組文であるが、2428は残念ながらその下部は沈線文が見えるが明らかでない(図142330)。刻目された隆起帯の土器群に、突起部内側に円刻文、2個の刺突文があり、また、波状両肩に刻目がある(図142427)。沈線施文の土器群も同じく、突起部の円刻文が内側にも同様刻目施文されたもの、上面に刻目されたものもある。この一部は、頚部の隆起、沈線からS字や円文を中心に、沈線と磨消手法によって文様が展開される。

3群土器 第11層の第2群土器である。第11層の主体は第9層の宮戸Ⅰb式である。堆積が厚く、3層に分層したが、遺物の収納に問題があり、分類できなかった。したがって、層位的に区分できなかった、古い要素を持つ隆起線、ボタン状凹部(突起)が、かなり混入する。この土器群を第3群土器とした。しかも、第12層の主体の土器群となる(図153450

4群土器 粗製土器の一部と、縄文、刷毛目文、撚糸文であるが、撚糸文施文が圧倒的に多い。

底部 第9層は平底で無文、網代、葉文底がある。網代と葉文底が80%を越す量であり、底径は816㎝の範囲である。過半数が10㎝以上である。第11層では無文、網代底のみで、網代底が70%と多い。底径も59142㎝の間で、約70%が1013㎝に集中する。

1213層】[図16参照] 第12層で土器群に変化が見られ、第1011層で多少検出されていた、隆起線を主とする土器群で、ボタン状凹部(突起)、隆起線上に連鎖状に2個の刻目(凹部)が施文される土器群となる。宮戸Ⅰb式より古いものである。

1群土器 口縁や内反、「く」字状に内折する深鉢形、甕形であり、波状、突起状の口縁である。文様は基本的に隆起線であり、口縁部無文下に、隆起線を巡らして口縁部を区画する。この区画隆起線と波状、突起部頂部・口端間に、鰭状、S字状、凹部(突起)が配される。ここを中心に隆起線と磨消手法によって、放射状や方形状に胴部文様が展開する。しかも、隆起線にボタン状凹部(突起)や2個連続の刻目が施文される独特の土器群である。(図1611219212224)。

特に、胴部文様が底部近くまでタテに展開するもの(124)、胴部周辺で区画されるもの(161922)がある。

2群土器 口縁外反する器形である。文様は沈線文を基本とし、口縁無文帯を沈線で区画する。波状、突起状、沈線上に凹部(盲孔)を中心に、沈線と磨消手法によって、放射状、倒卵形状、C字状の文様が施文される。文様に凹部(盲孔)が施文されるのが特徴である。第11層の第2群土器(説明では第3群土器)図15343638404349に相当するものと考えている。8トレンチ第9層に近似した資料がある。

 底部 平底で無文、網代底が多数を占める。底径も前層と同じように913㎝に集中する。

13層の調査では、3層に分離できたとあるが、遺物では分離できなかった。概報での模式図で、第11層中層から第12層までが、△△と記し新しい土器群を示した。しかし、第13層にも、第12層の△△の土器群が混在する。それは、第4次調査と追加調査の第5次調査の、層位確認に相違があり、遺物収納にも問題があり、そのために、ボタン状突起施文の土器群が混入する原因にもなった。

【第1415層】[1721参照] 第14層主体土器は、第13層から検出された大木10式に当たる。第15層は、特に、大木9式からの中間的な土器群の出土で注目された。

大木10式は器形、施文文様によって数類に分類される。

1群土器 第1A 口縁逆「く」字状に内折した器形で、深鉢形、(甕形)である。口縁に環状突起、小突起を配し注口部を持つものもある。口縁部無文帯の下に隆起線を巡らして区画し、口頚部下に隆起線と沈線で、磨消手法を駆使して放射状の文様が展開される(図17158

1B 口縁「く」字状に内折した器形、口縁に環状突起、橋状把手、小突起、波状の形態、ただ、頚部下に隆起線と刺突列点を配した隆起線で逆L字状、玉抱きの逆L字状の磨消文様を持つ、方形区画がヨコに数単位(4単位推定)が配置される。このヨコ文様帯は、口頚部からやや胴部に入った所で、隆起線、刺突列点を配した隆起帯で区画されて、文様は下に展開しない(図1779、図1818)。

 第1C 口縁逆「く」字状に内折した器形、小突起を持ち、口縁無文帯下に刺突列点を配した隆起線で区画され、胴部に文様が施文されない一群である(図192632)。

 第2A 口縁外反し平縁の深鉢形が基本である。口縁部無文で下に隆起線、沈線を巡らして区画する。それから、隆起線で方形の区画がヨコに配列される。第1Bの施文と同じく、方形区画内に沈線と磨消によって、逆L字状の文様が施文されるものである、タテ隆起線下に2個の刻目のあるもの、ヨコ区画の下にも隆起線巡らして文様帯を区画する。紋様は頚部下から胴部上半付近までで、下に伸びない(図192125)。

2B 第1Cと同じ、平縁で口縁部無文下に沈線、刺突列点を配した隆起線だけで、文様が胴部に施文されない一群である(図193233)。

3 沈線文を主とする土器群で平縁、波状口縁、小突起を持つ一群である。口縁無文帯で、鰭状の隆起を口縁端等に配し、口縁下に沈線で区画し、下に方形区画帯等に磨消手法により、逆L字状文、円文等が施文されるものである(図1810131820)。

2群土器 第15層中心に出土、大木9式からの中間的な土器群である(アルファベット文)。器形、施文文様で分類される。

1A 口縁外反の深鉢形、口縁部に区画なく無文、太い沈線と磨消手法により、大形のUC・逆U字状文の文様が施文される一群である。これらは、頚部でやや締まり、胴部で張り出す器形となる(図214751)。

1B 文様施文が第1Aと同じである。口縁内反した器形のものである(図215353)。

3群土器 粗製土器の一群である。口縁外反で小突起を持つものがあるが、基本的には平縁である。口縁(端)が無文のものがあるが、無文部分が狭いのが特徴的である。撚糸文施文の土器が多いようである。

底部 平底で網代、葉文底が大部分占める。底径も6 .115.5㎝の範囲である。過半数が10㎝前後である。ただし、第15層では無文底が大部分で、網代底は僅か10%である。底径も810㎝範囲に集中する。網代底は底径が大きく10㎝以上である。

【第1617(破砕貝混入黒土層)】[図2225参照] 第16層は本貝塚最下層の厚い貝層である。間層があって上下に区分されるが、遺物では残念ながら区分できなかった。   

貝層の主体土器は大木9式である。貝塚全体から大木8b式そのもの、大木8b式に近い遺物群の検出があり、本層にも大木8b式に近い遺物群が出土しているが、層位的に区分できなかった。

 第17層は7トレンチJKLMのみに分布する。中期の土器とともに、小破片の繊維土器群が出土、本貝塚の最古の土器群である。別稿を予定しているので割愛する。

 1群土器 大木8b式に近い土器群である。口縁外反か口縁内湾のキャリパー形、破片が多いが、口縁部文様帯を持つ器形が予想される。口頚部に3本のヨコ沈線から、23本を基本にした弧線、渦巻文などを蔓状に沈線文様が展開されるものである(図255276

 2群土器 大木9式である。口縁内湾し、口縁部文様帯を構成するもので、口縁部周辺の様態により分類される。

 1 口縁部文様帯下、頚部から無文となり区画される一群である。この第1類が第2群土器の基本的な様相である。口縁部無文帯は隆起線による渦巻と、刻目を内蔵した充填文様で構成される(図221246、図243436)。

2 口縁部文様帯からすぐに頚部文様が施文される。沈線でタテに懸垂文が展開するものである(図223)。

3 口縁無文で口端と頚部を渦巻隆起線で連結し、頚部に隆起線を巡らして、口頚部を区画し、この隆起線から渦巻を中心に、タテに隆起線による懸垂文が展開するものである(図22-8、10)。 

3群土器 第1 口縁部が「く」字状に外反するもので、大形の把手、突起を持ち、この把手・突起から磨消された断面山形状の隆起線により、渦巻を中心に幅の広いU字状の文様が、シンメトリーに口頚部に配置される。胴部にも同じ隆起線手法により施文される土器群である。下部文様は渦巻から、∩字状の懸垂文がタテに施文される(図231820、図2437)。 

2 口縁部内反し、波状山形状の口縁で、口端に幅広い無文帯を巡らし、隆帯で区画する。その下部に隆帯による懸垂文が配されものである(図221517)。

4群土器 沈線による文様施文の一群である。器形、文様によって分類される。

1A 口縁部無文で外反する器形のもの、波状、平縁がある。口縁に区画帯がなく直ぐに沈線で〇文、∩文が磨消手法と組み合わされて施文される一群である。(図232733、図244145

1B 口縁内反することだけが異なる土器群であり、文様施文は第1Aとおなじである(図2446

2A 口縁部無文帯で口縁外反する器形である。波状口縁が多く、平縁もある。無文帯下に13本の沈線、太い沈線を巡らして区画し、下に沈線で渦巻、円文、∩字文の懸垂文が、磨消手法と組み合って施文される土器群である(図232124、図24-3940)。

2B 口縁部内反するもので文様施文が第2Aと同じである(図2325)。

 第5群土器 第15層の第2群土器にあたる。大木9式から大木10式へのものと考えている土器群である。図2152を参照。

 6群土器 粗製土器の一群である。特記すべきは、撚糸文施文土器は皆無である。

 底部 平底であるが。やや上げ底風のものが多少存在する。無文底がほとんどで、網代底が1点のみである。底径511㎝に集中し、特に、8㎝前後が中心である。

【第18層(黒土層)】この層の土器群は、第16層の土器群と同じである。第1群土器から第4群土器がある。ただし、第5群土器はない。

6 出土土器の考察

整理が終了していないので、全体の考察は出来ない。永久に出来ないと思う。今回は7トレンチ出土の土器を、現在考えられる編年型式から、新しい分離分類される層の遺物を中心に、現在の知見で考察を深めることにする。

7トレンチの堆積は、第17層の縄文早期末から前期初頭の時期後に、貝塚上での生活活動が中断される。かなりの時期を経て、縄文中期中頃大木8b式に近い頃に、生活活動が再開され、貝塚上での生活活動が連綿と継続されて、第5層まで貝層堆積が続く、第4層以降は縄文晩期中頃から後半で、新たな製塩生産が開始される。大洞C1式からA式に当たる。  

7トレンチは縄文中期中頃大木8b式周辺から、縄文晩期大洞C式周辺間で、中断なく堆積された層と考えられる。

① 17層から第16層の土器群は、主体は大木9式である。しかし、層位的に明確に出来なかったが、古い要素を持つ大木8b式そのものか、それに近い土器群の検出があった。    

古い調査だが、塩竃市桂島貝塚が浦戸第二小学校の校舎新築のため、昭和38年に学校校庭の南側の新地点が調査され、約100個の大木8b式の完形土器を採集した。この土器が大木8b式なのかの物議を醸した。この土器写真を持参して成城(山内博士)詣でをした時である。博士は写真を見て「下手な8bだね」との一言が思い出される、この土器による混乱があったことを記憶している。このような大木8b式に近い土器群は、7トレンチだけでなく、568トレンチでまとまって検出されている。その後、自動車道調査の勝負沢遺跡で、これに近い土器群の検出がある。大木8b式に近い土器群が分離できるのかとも考えている。

② また、第1716層の大木9式土器群にも、数段階の土器群が存在する。第16層の第2群土器の3類、第3群土器を2類、第4群土器を4類、第5群土器を合わせ10類に分類した。大木8b式に近い第1群土器、口縁部キャリパー形の第2群土器、大形突起を持つ第3群土器、波状から平縁で沈線による懸垂文施文の第4群土器への流れがある。特に、第5群土器の大形のUC字状が太い沈線で施文される一群については、編年的位置に苦慮したが、現時点で大木9式の懸垂文の変化と捉え、大木第10式へ繋ぐ中間的土器と考え、分離される可能性があることを示した。

 第1514層の第1群土器は、大木10式である。大木10式は2分説、4分説と種々の意見があるが筆者不勉強でわからないが、しかし、出土土器の器形、施文文様によって数段階の土器群が存在する。

15層には大木9式から大木10式への中間的なものと考えている土器群、第2群土器の存在がある。第16層では第5群土器である。器形、施文文様にて分類される。

口縁外反の深鉢形、口縁部区画なく無文、太い沈線と磨消手法により、大形のUC・逆U字状文の文様が施文される一群である。これは、頚部でやや締まり、胴部で張り出す器形となる。所謂アルファベット文である。柳沢氏によって提唱されたものである。編年系列から考えて、大木9式から大木10式への過渡的型式である。これを経て、第1群土器 第1AB 口縁逆「く」字状に内折した器形の深鉢形、口縁に環状突起、橋状把手、小突起を配し注口部を持つもの、口縁部無文帯の下に隆起線を巡らして区画し、口頚部下に隆起線と沈線で、磨消手法を駆使して放射状・玉抱き文様が展開される。続いて、第1Bの頚部下に隆起線と刺突列点を配した隆起線で逆L字状、玉抱きの逆L字状の磨消文様を持つ方形区画が配置される土器群となり、続いて、第2Aの小突起、平縁で頚部文様帯に、磨消手法による逆L字状文を持つ方形区画が配され、方形区画のタテ隆起線下部に2個の刻目が施文される。第3類を経過して第1C、第2類Bのように口縁周辺に施文が集中し、更に簡略化された一群となる。

 第1312層の土器群は、隆起線にボタン状凹部(突起)施文される土器群である。大木10式と違った磨消手法が多用され、ボタン状凹部(突起)と2個の連鎖刻目の施文、後期的要素が強いものである。南境貝塚調査で△△と表示した土器群であり、大木10式から分離される門前式相当である。8トレンチ9層に更に良好な資料がある。

 第12層の第2群土器が注目される。特に。沈線文による施文であるが、口縁突起下に、ボタン状凹部(突起)配され、これより文様が始まる。文様内に凹部(盲孔)が特徴的に施文され、図161718に近似したものである。宮戸Ⅰb式に極めて近い土器群である。前段階のボタン状凹部(突起)ととらえられやや古式のものかと考えている。8トレンチ9層にまとまった資料がある。

 ⑥ 11層から9層は、沈線文を主体とする宮戸Ⅰb式の土器群である。特に、第1群土器1Aは深鉢形土器で連鎖文を内包した倒卵形の大きな文様が展開する土器群である。第2群土器の甕形土器は、甕形土器群で頚部に隆起帯に刻目施文の土器群、1Bは放射状に施文する細長い柳葉状となり、倒卵形状の文様は頚部沈線に対して鋭角となる。また、綾絡文が下垂するもの、第2類、S字綾絡文、蕨手文、ジクザク文が下垂するものもある。器形の違いと施文に多少の違いがあるが、同時期のものである。

 ⑦ 9層の土器群以降、第4層土器群までは、新しい土器群で、断片的に承知していたが、後期前葉の土器群として数段階の複雑な変遷をたどる。

 第76層中心の土器群は、第7層は4層、第6層は3層に区分して調査が実施されて、結果は第1群土器が3区分される。第1類は口縁部外反の深鉢形、口頚部文様帯を形成する一群。第2類は口縁直立かやや内反の鉢形土器で、口縁部に長方形(楕円形)の施文があり、幅広い口頚部文様帯を形成しないものである。第3類は口縁外反・直立の深鉢形土器で、タテ3本の沈線を基本に施文される土器群である。現時点で次の第4層土器との関係で、第1類から第2類へと考えている。第3類の系列は不明である。出土層位から第1~第2よりやや古いと考えている。     

 ⑧ 4層中心に出土する第1群土器、第12類は、調査時から話題・問題になった土器群である。今までにない文様から系列を特定するのに苦慮し、北の影響を受けた十腰内系列かと、密かに考えていた土器群である。

 山内博士が古く(1929昭和4年)の編年表に大木10=「境1」、大洞PreB3=「境2」として、関東編年の「堀之内2式」に併行させたものである。博士は南境貝塚の調査を実施していないので、毛利コレクションの遺物を見た後のことであろう。コレクションには、第4層出土と同じ時期の遺物、壷形、鉢形、蓋形土器等の多数の遺物が収蔵されている。調査によって57トレンチの貝塚北斜面周辺のようである。

 このように、第4層出土の土器群は、鈴木克彦氏の助言もあり、新しく分離分類されることになった。古く筆者によって「南境式」の型式名を付したことがあった。宮戸Ⅰb式以降を埋める後期前葉の土器群が、数段階確認されたことは大きな成果であった。

 ⑨ 第3層の土器群は宮戸Ⅱ式ab、Ⅲ式から大洞B式直前型式、大洞B式である。

 ⑩ 2層下~第1層までは、大洞C1式である。特記すべきは、大洞C1式期の製塩土器の出土がある。貝層が堆積されなくなった時期、台地先端部の北斜面で、製塩生産が開始されていることである。

  

7 まとめ 参考文献 略


以上、『宮城考古学』6の投稿論文を一部改稿。

    第20章  2005(平成17年)後藤勝彦 「南境貝塚調査の層位的成果Ⅱ―8トレンチの場合―陸前地方縄文時代中期から後期の編年学的研究―」『宮城史学』24 宮城歴史教育研究会

    第21章  2008(平成20年)後藤勝彦『 宮城県松島町西の浜貝塚調査報告(昭和41年度)―陸前地方縄文文化の編年学研究』松島町文化財調査報告書第1集

    第22章1986(昭和61年)藤沼邦彦ほか『 田柄貝塚 Ⅰ 遺構・土器編』宮城県文化財調査報告書第111集

    第23章2008(平成20年) 小林圭一 「縄文時代晩期初頭に関する一断想-山形県高瀬山遺跡出土土器の検討を通してー 」『先史考古学研究』第11号 阿佐ヶ谷先史学研究会 

    第24章2014(平成25年)後藤勝彦 「南境貝塚調査の層位的成果Ⅲ―5・6トレンチの場合―陸前地方縄文時代中期から後期の編年学的研究」『宮城史学』33 宮城歴史教育研究会

    第25章2015(平成26年)後藤勝彦 「南境貝塚調査の層位的成果Ⅲ―5・6トレンチ場合 (再提示): 陸前地方縄文時代中期から後期の編年学的研究」『宮城史学』34 宮城歴史教育研究会

    第26章2010(平成22年)小林圭一『 学位論文 亀ケ岡式土器成立期の研究―東北地方における縄文時代晩期前葉の土器型式』早稲田大学 総合研究機構 先史考古学研究所

    Ⅰ 南境貝塚7トレ編年関係の整理

    Ⅱ 南境貝塚8トレンチ編年関係の整理

    Ⅲ 南境貝塚5・6トレの編年の整理

    Ⅳ 南境貝塚5・6トレの再提示の編年整理