Sociology of Winny:

Possibility of "WeNEET"

2006

アスペクト社刊行「Winny ファイル共有のトリセツ」(仮) 向け寄稿原稿

to 金子勇氏へ, R.I.P. 永遠に。

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「Winnyの社会学――脱社会的存在を排除しない設計思想」

濱野智史

2006年1月28日に、Winny開発者である金子勇氏を交えて、「Winnyの技術と倫理」と題したシンポジウム(P2Pインフラストラクチャ研究会第1回)が開催されました。主催・場所は東京・六本木の国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(以下、GLOCOM)。共催はLSE(NPO法人ソフトウェア開発者連盟)で、金子氏への募金活動を行った Freekaneko.com の発展した団体です。会場には100名以上の聴衆が詰め掛けました。

研究会は二部構成です。前半は金子氏より、昨年出版された著書『Winnyの技術』の自作解題が行わました(※のちにGLOCOM頒布の同人誌『智場』に濱野が講演報告の形で寄稿)。そして後半は「Winnyの倫理を問う」というテーマでパネルディスカッションが行われました。パネリストは、独立行政法人産業技術総合研究所の高木浩光氏、吉備国際大学の大谷卓史氏、そしてGLOCOM研究員である山根信二氏と、筆者の4名です。司会はGLOCOMの東浩紀氏。東氏は2003年よりised@glocom(情報社会の倫理と設計についての学際的研究 http://www.glocom.jp/ised/ )という研究会を精力的に展開してきました(ちなみに筆者は議事録作成スタッフを務めていました)。そして今回の「Winnyの技術と倫理」では、技術的な話題も倫理的な話題もひっくるめた「そもそも論」を展開する、isedのスタンスを踏襲したものになっています。


■要約

以下本稿では、筆者の発表(原題「Winnyその可能性の中心――脱社会性についての試論」)について紹介したいと思います。筆者は社会学の見地から、Winnyというソフトウェアに埋め込まれる欲望や文化を「読み込む」という作業を行いました。そのキーワードは「脱社会性」です。これは90年代後半に社会学者の宮台真司が用いた言葉で、本来は「キレる少年」などといわれる少年犯罪者たちを示す特徴ですが、オウムやコギャル、そして現在ならばひきこもりからニートまで、「現実社会から降りてしまっている」存在を広く名指すための概念です。これがなぜWinnyのようなファイル共有ソフトと関係するのでしょうか? それはWinnyというアーキテクチャが、「くれくれ厨」のような脱社会的存在を、いつのまにかネットワーク全体に取り組んで貢献させてしまうような、きわめて見事な社会秩序を実現しているからです。このようなWinnyをめぐる議論は、先述したisedにおいて東氏が論じたものです。筆者はそこでの議論を敷衍しつつ、この脱社会的存在たちのユートピアを実現した点にWinnyの可能性の中心があると考えます。それでは以下本題に入ります。

■交換から共有へ:WinMXの時代

Winnyの技術において、もっとも独創的だったのは「キャッシュ」の仕組みです。開発者である金子氏は、Winnyの達成は匿名性と効率性を両立することにあったといいます。このWinnyが実装したキャッシュという仕組みは、単なる技術的イノベーションにとどまらず、これまでのファイル共有ソフトの文化を大きく変えるものでした。一般に「ファイル交換」から「ファイル共有」への移行と呼ばれるものです。

それではまず、ファイル交換型の代表格とされるWinMXから見ていきましょう(図1)。まずユーザーが欲しいファイル名を検索したあと、そのファイルを持っている相手にIM(インスタントメッセージ)で「このファイルください」と申し出ます。するとそのIMを受けた側は、交渉を持ちかけてきた側のファイルリストを見た上で、「じゃあこのファイルと交換ね」という返事をしてきます。これで交渉成立。いざファイルの交換を開始するという順番を踏むわけです。

この仕組みのポイントは、わらしべ長者のようにファイルを落としていかないと、合理的にファイルを集めていくことはできないという点です。WinMXの世界でファイルをどんどん落とすためには、いろいろなユーザーとコミュニケーションを交わし、どんどん「交渉力のある」強いカードを集めて、相手にとって魅力的であろうファイルリストを構築する必要があります。カードゲームの比喩を使えば、「デッキを組む」必要があるわけです。

■P2Pをめぐる「コモンズの悲劇」という問題

そしてこのファイル交換交渉においては、自分だけはファイルを落としたいという「くれくれ厨」、あるいは「DOM(Download Only Member)」は許されません。なぜならDOMにファイルを分け与えたところで、自分のアップロードの通信帯域を使い切ってしまうだけだからです。WinMXが普及を始めた2001年ごろは、まだブロードバンドもそれほど普及しておらず、しかもADSLもアップロードのほうが遅いという特性を持っていました。

こんな笑い話があります。当時もっとも忌み嫌われていたのは、相手のほうが先にファイルのダウンロードが完了してしまい、こちらがまだダウンロード途中なのに相手がアップロードの接続を切ってしまう行為でした。これをやられてしまって、思わずIMを通じて「この泥棒!」と罵倒する風景もあったとか。おいおい、そもそもP2P使っている時点でみんな泥棒じゃないかよ、という話でしょう(笑)。

しかし、少なくとも日本では、くれくれ厨(ダウンだけをしたいと考える輩)は、きわめて合理的な存在です。日本の著作権法では、著作権者に断りなく、ネットワーク上でダウンロードできる状態にすることは、刑法上の罪になります。ということで、とにかく捕まりたくなければ「送信はしないで受信だけする」に徹するのがもっとも合理的にならざるをえません。つまり自分からファイルはアップしないが、ダウンだけはするということです。

とはいえ誰もがくれくれ厨房になりたいとばかりいっていたら、何もファイルは流通しません。みんながみんなタダノリしたい(フリーライドしたい)というのでは、実際にはなんらファイルは交換されなくなってしまうでしょう。社会学ではこういった問題のことを「コモンズ(共有地)の悲劇」といいます。たとえば地球の石油資源のように、「無限にあると思っていたので、誰もがガンガン利己的に振舞っていたら、いつのまにか資源全体が枯渇してしまう」という問題のことです。P2Pファイル共有の世界にも、このコモンズの悲劇と同じ問題が存在しているのです。

そこでWinMXの世界では、この問題に対する解決策として、ファイルを実際に交換する前にコミュニケーションを交わし、フリーライダーを排除するという慣習をつくりました。比喩的にいえば、ブツの交換をする前にきっちり名刺を交換するようなものです。

■交換から共有へ:Winnyの時代

もちろん、こうした名刺交換の作業をうざったいと思うユーザーは少なくありませんでした。だいたいこの仕組みだと、WinMXを立ち上げている間はおちおちと眠れやしません。そこで、こうした作業を自動化するような支援ソフトも存在していました。

そこでポストWinMXとして生まれたWinnyは(これは有名ですが、WinMXの“MX”を一文字ずつ後ろにずらして名づけられたのがWin“ny”です)、このユーザー間のコミュニケーション(名刺交換)を一切排除しています(図2)。その仕組みはこうです。まずユーザーは欲しいファイル名を検索します。そしてお目当てのファイルが見つかったら、あとはそれをクリックして待つだけです。そのファイルを持っているユーザーに、「これと交換でいいですか?」などと尋ねる必要は一切ないのです。

そしてWinnyがコモンズの悲劇を解決するために導入したのは、WinMXのように名刺を交換するのではなく、「キャッシュ」という仕組みだったわけです。WinMXはユーザー間でファイルを転送するだけですが、Winnyではファイルが流通すればするほど、ユーザーのハードディスクにそのファイルが蓄積されます。ダウンロードの終わった人間にとってそのキャッシュはもう不要なファイルですが、第三者がダウンロードする際のプールとして使われる。つまりWinnyを使うことで、ユーザーたちはいつのまにか分散したストレージ(ファイルの共有地)を構築することになっている。要するに、キャッシュはいつのまにか「コモンズの悲劇」を解決する仕組みといえます。

しかしこうした悲劇を解決する仕組みは、ユーザーにとっては特に自覚されることはありません。Winnyは、煩雑な名刺交換の作業も必要なく、ただファイル名を入れるだけで自動的にダウンロードしてくれる。ここには「ふざけんな泥棒!」といってキレてくる隣人はいない。誰もがくれくれ厨の気分で気楽に利用できるわけです。

■コミットメントをさせないシステム

しかし、このまさに「くれくれ厨の気分にさせる」ところが問題だと看破したのが、冒頭で紹介したパネラーでもある高木浩光氏です。高木氏は2004年のはてなダイアリーで、このWinnyのキャッシュの仕組みを、「良心に蓋をさせ、邪な心を解き放つ」ものとして批判しました(「高木浩光@茨城県つくば市の日記」跡地2004年6月8日:http://d.hatena.ne.jp/HiromitsuTakagi/20040608#p1 )。

どういうことか。Winnyというのは、ただ利用しているだけであれば、上記のようなキャッシュという仕組みに気づくことはありません。ただファイル名を入れて検索し、ダウンロードをしているだけだと思うわけです。しかし実際には、キャッシュという仕組みを媒介して、第三者へのアップロードを行っています。つまり違法行為に加担しているのです。これはつまり、罪を犯していると意識させずに、潜在的・無意識のうちに犯罪行為に加担させてしまっている。高木氏の言葉を使えば、悪いことに手は染めたくないという「良心に蓋」をし、こっそり自分だけダウンロードだけしたいという「邪な心を解き放」っているわけです。

そして高木氏は、Winnyが2ちゃんねるの文化を継承しているのは、この点に集約されているといいます。Winnyというのは、くれくれ厨やDOMのようなフリーライダー的存在が許容される(かのような)空間です。高木氏は、これを「自分は侵害行為に加担したくないという倫理観(あるいは安全意識)を持ちながら、自身の欲望は達成しておきたいという考え方」と表現します。そしてこの精神こそ、ほとんどがROM(Read Only Member)で匿名的存在という「2ちゃんねる的精神」をみごとに反映しているというわけです。

かように高木氏の主張の中心は、Winny(の開発者)が非倫理的なのは、その利用者に「自覚的な選択」をさせないという点にあるというものです。いいかえれば、ユーザーは責任を持った主体として、自覚的にソフトウェアを利用すべきというわけです。これを「コミットメント」を必要とする立場としておきましょう。

■コミットメントの有無

高木氏はこのように、Winnyを「コミットメントさせないもの」として批判しました。しかしこれは裏を返せば、Winnyが優秀だったのは、ユーザーを「コミットメントなき貢献」へと誘導する点にあるといえます。すなわちWinnyがP2Pネットワークとして成立したのは(=P2Pにおけるコモンズの悲劇を解決したのは)、さきほども述べたように、いつのまにかネットワーク全体へと貢献する仕組みが入っていたからです。

またキャッシュの存在は意識されないと高木氏は指摘しましたが、ヘビーユーザーであればその存在と機能は周知のものでしょう。Winnyでも、とにかく捕まりたくないというユーザー向けに、キャッシュを消すためのツールや、アップロードをゼロにするパッチが独自に開発されていました。それに対して金子氏は、キャッシュというファイルを簡単には消去させないように、キャッシュする量が多ければ多いほど、どんどんファイルが落ちやすくなるという重み付けを実装しています。このポジティブ・フィードバックによって、システムに自覚的なユーザーにはキャッシュを保持するインセンティブを与えられるわけです。

ここでWinMXのような交換型との比較を思い出してください。WinMXの社会というのは、人間的なコミュニケーションによってくれくれ厨を排除し、その裏側で「神」へと人々を動機付けるものでした。津田大介氏の『だからWinMXはやめられない』(インプレス、2003年)では、ある初心者WinMXユーザーが、ユーザーたちとのコミュニケーションによってどんどんスキルアップし、しまいには動画のエンコード職人に弟子入りして、美麗な動画ファイルを作成する匠の技術を会得し、ついには神と呼ばれている人々たちのグループに仲間入りする、という感動の物語が描かれています。もちろんすべての人々が神を目指すわけではありませんが、神とくれくれ厨という階級分化は明確に存在したことは確かです。そしてこの世界では、「神になりたい」という上昇物語にコミットすればするほど、どんどん見返りを得ることができる。神に近づけば近づくほど、人々は自分を崇め承認してくれるようになるわけです。

ちなみにWarez(ワレズ)のヘビーユーザーほど口にする言葉に、「(これだけファイルを落としても、)別に見ないんだけどね」というものがあります。もはや最終段階になると、自分がそのファイルを本当に求めているかどうかはどうでもよくなって、この神になりたいというゲームが自己目的化してしまうわけです。このように、WinMXの社会というのは、「神になりたい」というコミットメント(自覚的選択)ありきの社会性といえます。

しかしWinnyのキャッシュという仕組みは、もはやユーザー同士が言葉のコミュニケーションを交わすことは一切ありません。ただ待っているだけでファイルがほしい。そのフリーライダー的で動物的な欲求を拾い上げることで、ユーザーたちは無意識のうちに協調関係をつくっている。そこでは、神とくれくれ厨の区別はありません。Winnyの世界は神になるべしという上昇物語を用意しないし、神を目指せというコミットメントを要求しないわけです。もちろんWinnyの世界にも、「キャッシュ消し厨」という言葉があるように、すぐにキャッシュを消すフリーライダーは侮蔑され、大量のキャッシュを公開するユーザーは神とされます。しかし、そのキャッシュを大量に保有する神は、ただ「ファイルがより落ちやすくなる」という恩恵を受けるだけであって、皆に誉め称えられるわけではないのです。

■脱社会性

ここでいったんまとめると、WinMXはユーザーに「神になりたい」というコミットメントを要求するシステムであり、WInnyは「コミットメントなき貢献」を実装したシステムということがいえます。そしてこの後者の「コミットメントを求めない」という特徴を、「脱社会性」という言葉に読み替えてみたいと思います。

社会学者の宮台真司氏は、酒鬼薔薇聖斗や「キレる若者」といった90年代後半の少年犯罪について、彼らは「脱社会的存在」であると分析しました。これは少年犯罪というものが、もはや社会への抵抗(反抗)ではなくなっている、つまりヤンキーや不良のようなものではなくなっているということです。よく知られるように、ヤンキーのような反社会的・反体制的・反学校的な輩というのは、もうひとつの社会空間をきっちりと構築しています。上下関係が厳しかったり、戒律がやけにあったりする。だからヤンキーあがりのほうが、いい先生になったり、地元の祭を仕切ったり、実は社会性が高いという話になるわけです(笑)。しかし昨今の少年犯罪を見ると、そうした社会性が見事に欠如している。確かに酒鬼薔薇も声明文で「学校への反逆」といった言葉を使っているのですが、彼らはもはや社会的なコミュニケーションから承認を得ることを期待しておらず、単に暴力から得る強度だけを志向している。つまり、彼らはこの世界から突き抜けてしまっているというわけです。

さらに、こうした脱社会的存在は少年犯罪に限らず大量に存在していると宮台氏は分析していました。たとえばコギャルやオウムといった存在がそうです。たとえば当時、オウムの幹部にはなぜエリート出身が多いのかといわれました。この疑問に対する宮台氏の解答は、90年代後半以降、もはや大学に入ってエリートになるといった上昇物語がなんら輝きを持たなくなってしまったことにあるといいます。それでも「社会に貢献したい」「世界を改変したい」と考える人々こそが、オウムの麻原のような存在にコミットしてしまったというわけです。そこで当時宮台氏は、こうした脱社会的存在が反社会的存在(オウムをばら撒くテロリスト)に転落してしまう危険性に対し、書名をそのまま使えば『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房、1995年)という処方箋を掲げていました。いいかえれば、「脱社会的存在のまま生きろ」というわけです。

このように、脱社会性という概念のポイントは、「神になりたい」「上昇したい」「コミュニケーションで承認を得たい」といったコミットメントが抜け落ちてしまっている点にあります。そしてこの脱社会的要素こそ、Winnyの世界に見事に当てはまるといえます。

社会性・反社会性・脱社会性というこの三つの概念を使って、ここでいったん議論を整理しましょう。Winnyというのは、一般的に必要とされる社会性(ユーザー間コミュニケーション)は必要としない。かといって、高木氏が批判したように、それは超法規的で反社会的な欲望をユーザーに自覚させることもない。こうした脱社会的なユーザーたちの志向を束ねつつ、キャッシュという仕組みを媒介させることで、いつのまにか数百万規模の「社会」を形成する。こうした逆説的な事態を生み出したのがWinnyというわけです。

■社会的最適化:脱社会的存在(ウィニート)に最適化されたWinny

90年代後半に生まれた脱社会性というものが、ソフトウェアの世界にまで反映されているのはなぜか。これを「社会的最適化」という概念で捉えることができます。そもそもインターネットもそうですが、P2Pなどの技術的な原型は、必ず海外(主に米国)から入ってきます。NapsterもWinMX、あるいはブログもSNSもそうです。しかしこうしたアプリケーションが日本社会に入ってきてしばらくすると、オルタナティブなかたちへと「翻訳」されます。これは単にソフトウェアのインターフェイスが「日本語化」されるのではなくて、社会的な価値観や慣習や文化といったものにあわせて最適化すると考えられるわけです。これはブログ(の特にトラックバックの仕組み)がはてなダイアリーのキーワードリンクになり、英米で生まれたSNSが、mixiのマイミク日記(アクセスコントロール機能のついたブログ)なるというかたちで起きています。こうした現象を、いわゆる工学的な最適化とは特に区別して、「社会的最適化」と呼んでおきましょう。

それでは、Winnyにはどのような社会的最適化が施されているのか。もはや言うまでもなく、脱社会性に最適化されているわけです。isedで東浩紀氏は、Winnyとニートを足した「ウィニート」という言葉でこれを説明します。「いまの僕たちの社会は、とにかくみながフリーライダーになりたい、つまり脱社会的存在でありたいが、しかし社会全体はまわってもらいたい、という都合のいい欲望を抱えているわけです。(中略)おそらく、いま多くの人々がひそかに期待しているのは、リアル・ワールドまでもがWinny化していくことだと思うんです。『自分は何もリスクは冒したくない、働きたくもない、でもなんとなくコンビニに行けばメシは手に入る、あとは家で寝ていれば何とかなる』というような(笑)」(ised@glocom - 倫理研第1回:共同討議 第3部(2)「脱社会的存在」としてのウィニート:http://ised.glocom.jp/ised/00101030)

「リアル・ワールドまでもがWinny化していくこと」。思わず、うなずいた方もいるのではないでしょうか(笑)。いうまでもありませんが、Winnyというソフトウェアは、キーワードを入れるだけ他人と会話もせず、自宅でひきこもってコンテンツ消費だけをするという生活にまさに最適化しています。mixiが実に大変に社交的で交換日記的な空間とすれば、孤独でひきこもり的なシステムがWinnyというわけです。事実、Winnyは一切コンテンツに関するメタコミュニケーションを生みません。2ちゃんねるのダウンロード板をみても、ハッシュのコピペがひたすら行われるだけで、ほぼ批評コミュニケーションは皆無といっていい。そこでは互いのユーザーの関心には一切関心を持たれることはありません。

それに対して、mixiやiTunesやWinMXといったアプリケーションでは、先に用いた比喩を使えば、お互いの「デッキ」を互いに見せ合うように設計されています。本棚やCDラックのコレクションを見せ合うことで、「お、こんなファイル持っているんだ、通だね~」「お、わかる~」といった顕示的なコミュニケーションをすることに適しているわけです。そして「この人が持っているんだから、いいファイルに違いない」といった属人的な関心が生まれ、だからこそアフィリエイトのような広告モデルも成立する。しかし、Winnyにはそうしたユーザー同士の人間的関心は生まれないのです。

根拠はありませんが、Winnyとmixiでは、どうもユーザー層が被っていない感じがしませんか。これは単に印象論にすぎませんが、「ソーシャルウェアは社会的に最適化されている=文化や慣習が反映されている」と考えると、印象論は案外に本質的でもあるというわけです。

■脱社会的存在を包摂する社会デザイン

さて、ちょっと待てと思う方もいるでしょう。少年犯罪しかり、Winnyしかり、端的に社会の側からみれば、脱社会的存在は反社会的存在でしかありません。Winnyがいくら脱社会的存在たちの楽園を形成したといっても、そこで流通しているファイルは端的に現実社会からいわば密輸入されたもので、これは反社会的行為といわざるをえない。(ただし反社会的といっても、いまの著作権の仕組みが、正統なる法の正義にかなっているかどうか疑わしいと見る議論も多いのは事実です。そちらも別途重要な議論ですが、ここではさておき、)私はWinnyというアーキテクチャが実現した、脱社会的存在(フリーライダー)を排除せず、いつのまにか貢献のネットワークに取り込んでしまう仕組みに、可能性の中心を読み込みたいんですね。これは実際に開発者の金子氏がそのように考えていたかどうかという話ではなく、そう読み替えることができるという議論です。

確かにWinnyというのは、本人たちは脱社会的な意識を持って利用しているけれども、現実には犯罪行為に加担しあっているわけで、全体的には反社会的です。しかしそうではなくて、意識的には脱社会的なまま、全体的には社会的というような社会秩序は可能ではないか。つまり、Winnyの反社会性と脱社会性は区別して議論すべきというのが私の立場です。これはいいかえれば、Winnyの実装した「コミットメントなき貢献」というガバナンスの仕組みを、P2Pやそれ以外のアーキテクチャの上で、どのように進化させられるのかを考えたいということです。

これは今後アーキテクチャによって社会秩序を設計するとき、重要な思想を提示しています。人々は互いに無関心でもいい。人々は自分のローカルな関心しか抱かない。それでも、互いに共存するような社会をどう実現すればよいのか。こういった問題を考えるとき、Winnyの脱社会的存在を包摂する設計思想は、きわめて重要なものといえます。

「コミットメントを求めないなんて、そんなものは社会とは呼ばない」と考える方もいるでしょう。その考えを敷衍させれば、脱社会的存在、つまり社会へのコミットメントを持たない存在は切り捨てられるほかありません。これはなにもネットの話ではなく、日本社会をこれからどうするのかという問題に等しい。ニートやひきこもり、あるいは外国人といった、コミットメントの薄い存在たちを切り捨てるべきなのか。それとも彼らを包摂した社会を構築するべきか。私の立場は無論後者であり、こうした存在を切り捨てないことこそが、情報社会を設計する際の倫理とすべきと考えています。このように、Winnyについて考えるということは、こうした射程の深い問題に接続しうるのです。