『希望論』: あとがき

この国の希望を考えるというとき、ずっと気にかかっていた言葉がある。「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。」一九七〇年七月、三島由紀夫が自決する直前に書き付けた言葉である。

この三島の予言はみごとに当たっていた。そう多くの人が考えるだろう。たしかに、表向きはそうである。だが、私は全くそう思わない。それはどういうことか。日本社会の「裏面」を見ればよいからだ。それは政治や経済といった「昼の世界」に対し、社会的に陽の目を浴びることのない「夜の世界」としての、日本のサブカルチャーやインターネット環境である。この十数年、そこでは異様なまでの生成・進化が絶え間なく起こってきた。そこには今まで誰も発想しなかったような、多様で数奇なアイデアとクリエイティビティがある。熱意がある。しばしばその領域はひきこもりのオタクたちが集まる「タコツボ」だと批判されるが、「タコツボ」に棲み分けるからこそ、そこでは異様な進化と洗練が起こるのだ。

私はそこに三島が見なかった日本社会の姿を見る。それは有機的で、力に満ちた、カオティックな、玉虫色の、多様な、実験精神を恐れることのない、自由と生成のフロンティアである。私はこの日本にこそ希望を見る。とはいえそれは、あくまで日本社会の片隅、つまりは文化や娯楽といった「周辺領域」であるに過ぎない。だからそこでいくら活発な進化なり発展なりが起こっていたとしても、社会構造はピクリとも変わらない。しかし、いま政治や経済といった「表の世界」がこれほどまでに終わっているこの国において、ほかに何の希望があるというのだろう? 革命は周縁から起こる。いまこそ、日本の情報/文化空間が培ってきた無数のイノベーションをもってして、現実の諸制度に揺さぶりをかける日が来ているのだ。

もちろん、この本でその希望の内実を十全に説明しきったとは思っていない。私たちは政治や経済の専門家でもないし、その具体的な提言となると、稚拙さも目につくものだろう。そこには忸怩たる思いもある。今後もしゅくしゅくと勉強を続けるしかないという思いを強くしている。また、AKB48をめぐっては震災後、幾度となく議論を交わしてきたが、いまのままでは中途半端なものになると考え、本文からは全面的に削っている。これについては遠くない時期に、あらためて論考・著作を用意するつもりである。

最後に謝辞を。まず、東浩紀氏へ。本書の出発点は、二〇〇九年一月、東京工業大学世界文明センターで開催されたシンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」であった。同シンポジウムでは東氏が司会をされ、宇野・濱野の両名が基調報告を行った。しかし、このときの私たちの議論はとても拙いものであり、その反省を受けて言葉を積み重ねてきたのが本書である。何より、サブカルチャーと情報環境を思想/批評の対象にする本書の存在は、東氏が切り拓いてきた「思考の場所」なくしてありえない。あらためて、深く感謝したい。

次に、編集を担当したNHK出版の井本光俊氏と五十嵐広美氏にお礼申し上げる。

最後に、宇野常寛氏へ。宇野氏の強靭な知的体力には、いつも感服させられてばかりだ。日頃から視野も関心領域も狭い私を、いつもあちこちへリードしてくれたのは、他ならぬ宇野氏である。この贈与は必ず返さねばならない。そんな宇野氏には、この言葉を贈ろうと思う。

「俺のマジは、お前のためにある!」

二〇一二年一月四日 初台にて 濱野智史