寄稿:NHKブックス別巻 『思想地図 vol.2』 特集・ジェネレーション | 東 浩紀, 北田 暁大 (Amazon)
刊行:2008年12月
脱稿:2008年11月
※ここでの掲載版は本記事とは若干異なる著者修正稿です。(2017/03/19)
ミシェル・フーコーは、『言葉と物』をホルヘ・ルイス・ボルヘスの引用から始めている(★1)。それは「シナのある百科事典」という書物に記された、次のような動物の分類である。
(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳呑み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k)駱駝の毛のごく細の毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)いましがた壺をこわしたもの、(n)とおくから蝿のように見えるもの。
この分類表《ルビ:タブロー》は、私達に「これが分類と呼べるのか」という印象を与える。項目(h)に至っては、その自己言及性からメタレベルの混乱まで引き起こしており、とても分類の用を果たしているとは思われない。フーコーは、これを「混在郷」《ルビ:エテロトピー》と呼んだ。
これに対し、次のリストはどうだろうか。
アイドルマスター、歌ってみた、おっさんホイホイ、キラッ☆、これはひどい、その他、ニヤニヤ動画、ぬこぬこ動画、もっと評価されるべき、ゆっくりしていってね!!!、ボカロオリジナルを歌ってみた、腹筋ブレイカー、作業妨害用BGM、作業用BGM、作者は病気シリーズ、公式が病気シリーズ、吹いたら負け、愛すべき馬鹿、才能の無駄遣い、混ぜるな危険、混ぜるな自然、演奏してみた
これは二〇〇八年現在、「ニコニコ動画」という日本最大の動画共有サービスのコンテンツに付与されている主要なタグ(分類用キーワード)をいくつか抜き出したものである(★2)。おそらく本誌読者の多くにとって、右の分類表が何かを分類しているようにはとても見えないことだろう。それはメタレベルの混乱こそ起こしていないものの、「シナの百科事典」を思わせるに十分なカオスぶりではないだろうか。本論では、以上のような分類表《ルビ:タブロー》を有したニコニコ動画に着目することで、近年の情報社会における「創造性」――筆者はこれを後ほどすぐに「生成力」と呼ぶ概念に限定するが――の問題について考察を加えてみたい。
近年、とりわけ二〇〇〇年代に入ってから、「創造性(creativity)」に関する議論が盛んに行われている。たとえばその代表例として、憲法学者ローレンス・レッシグの「クリエイティブ・コモンズ(Creative Commons)」や、都市社会学者リチャード・フロリダの「クリエイティブ・クラス(Creative Class)」などの活動・論考が挙げられる(★3)。まず本論では、これらの議論が「作者」ではなく「環境」に焦点を当てている点を指摘しておきたい。
それはどういうことだろうか。ごく簡単に確認しておけば、かつて創造性という概念は、主に心理学(教育心理学)や精神分析(病跡学)の領域で中心的に論じられてきた(★4)。そこでは、他よりも秀でたオリジナルな作品を創造する能力は、凡人ではなく天才(あるいは狂人)に宿るものとされ、「天才的能力を教育によって育むことは可能なのか」あるいは「どのような精神状態が独創性を発揮するのか」といった問題が扱われていた。つまり、(やや再帰的な表現だが)オリジナリティの源泉(origin of originality)は、個人の「内面」や「精神」にあるとされてきたのである。
これに対し、近年の創造性をめぐる議論は大きく着眼を異にしている。たとえばレッシグであれば、コピーワンスやコピーコントロールCD(CCCD)といったDRM(デジタル著作権管理)技術の強化が、自由な作品の参照・引用を阻害し、創造性を弱めると警鐘を鳴らしている。そこには、法制度や技術環境の変化が創造性に与える影響が危惧されているのである。またその一方でレッシグは、こうした規制強化の動きに対抗するべく、ネットワーク上における自由な著作物の相互利用を円滑化するための仕組みとして、「クリエイティブ・コモンズ・ライセンス」を提唱するに至っている。またフロリダであれば、創造階級たちの集まる「クリエイティブ・シティ」の基礎条件の一つとして、多様な価値観やライフスタイルを許容する「寛容性(tolerance)」の高さを挙げている。このように、レッシグであれば「コモンズ」、フロリダであれば「都市」と、それぞれが「環境」に焦点を当てた上で創造性について論じているのである。
さらに注釈を続ければ、とりわけ二〇世紀後半の文学理論や現代思想においては、フーコーやロラン・バルトによって、「作者」という存在の自明性が問われたのは周知のとおりである。とはいうものの、当然ながらレッシグやフロリダといった論者たちは、「作者の死」「作者という制度の解体」といったポストモダニストたちと同様の主張を展開しているわけではない。あくまで彼らは、複数の作者たちのコーディネーションを通じて、いわば「集合的な創造性」を高めることに関心を示しており、それゆえに作者たちが集まる「環境」に着目しているのである。
*
さて、レッシグやフロリダに限らず、情報社会における新たな創造性を強調する議論に対しては、しばしば多くの批判が向けられてきた。その主張を一言で要約すれば、「そのようなものは創造(性)の名には値しない」という点に尽きている。批判者たちは口を揃えてこのように主張する。「新しい情報環境の出現は創造性を高めるというが、実際に現れた作者/作品の質は低いではないか」と。この種の批判は、新環境から任意の作品や作者を取り出し、旧環境のそれと比較するだけで成立するため――すなわち「発言コスト」が低いため――頻出しやすい。
しかし、この種の批判に正面から応答することは難しい。その理由を、ここではいわゆる「作品(コンテンツ)」と呼ばれる財の性質に着目して、次のように整理しておくことにしよう。そもそもの問題として、「作品」の評価基準は、「道具財」がその機能性や有用性によって《客観的》に評価されるのとは対照的に、《主観的》なものになりやすい。これはつまり、映画の良し悪しをめぐっては論争になりやすいが、トンカチの良し悪しをめぐっては論争になりにくいという、ごく素朴な経験的事実を意味している。
このような整理は余りにも単純であると感じる読者も多いことだろう。美の「普遍性」をめぐる哲学的議論の蓄積や、「批評」と呼ばれる営為の積み重ねがあることを、筆者は承知していないわけではない。しかしここでは、そのような議論に立ち入るのではなく、「主観的」になりがちなコンテンツの評価基準を、なるべく「客観的」(普遍的)なものにするためにこそ、既存の「権威的」な諸制度は確立されてきたということを確認しておけば十分だ。これはつまり、そもそもどのような作品が優れ、劣っているのかを評価する基準そのものが、つねにすでに「環境」の側から与えられているということを意味している。よって「作品」の質をめぐる議論は、その発話者がどのような「環境」に属するかによって、端的にすれ違うほかない。だとするならば、情報環境という比較的新しい「環境」における創造性を論じるにあたっては、できる限り、作品の質をめぐる議論を切り離し、「環境」の水準に議論を限定しておくことが望ましいと筆者は考える。
そこで以下では、こうした「作者」ではなく「環境」に帰属される創造性のことを、米国の法学者ジョナサン・ジットレインの言葉を借りて、「生成力(generativity)」と呼んで便宜的に区別しておくことにしよう(★5)。「生成力」とは、インターネットやPCといった情報環境の「プラットフォーム」としての性能を総称したもので、具体的には、その上にアプリケーションなどの創作物を自由に開発・追加できる「オープン性(openness)」や、その創作物が自由に参照可能な「共有地(commons)」としての性質が挙げられている(これらは先述したレッシグの議論をほぼ継承したものになっている★6)。ジットレインによれば、こうしたインターネットが有する「生成力」は、スパム広告やコンピュータ・ウィルスの蔓延といった問題を誘引するがゆえに、近年のインターネット接続機能を有したデジタル製品――たとえば「iPod」「iPhone」などのモバイル機器や、「PlayStation3」「XBox 360」「Wii」といったゲーム機器――はクローズドなアーキテクチャを採用する傾向にあると警鐘を鳴らしている。ここではその議論の詳細は扱うことはしないが、以下で本論が扱う「創造性」の問題は、ひとまずこのジットレインがいうところの「生成力」と同様の水準に向けられる。すなわち、コンテンツが生み出され、流通される「環境」の設計《ルビ:デザイン》に着目するのが、本論の狙いである。
「生成力」は果たしてどのような環境に宿るのか。果たしてどうすれば「生成力」を強めることができるのか。これらの問いに取り組むにあたって、以下でケーススタディの題材として取り上げたいのが、「YouTube」と「ニコニコ動画」である。
YouTubeについては、おそらく説明は不要であろう。それは全世界で数千万人から数億人にも及ぶ利用者を集める、世界最大規模の動画共有サービスとして知られている。一方のニコニコ動画は、二〇〇六年末に日本のニワンゴ社が運営を開始したサービスで、当初はYouTubeの動画コンテンツに、文字によるコメントを直接かぶせて投稿・表示することができる――動画を視聴しながら文字コミュニケーション=チャットを行うことができる――サービスとして開始された。二〇〇八年一〇月現在、サービス開始から約二年を経て、アカウント登録者数は約一千万、一日の利用者数も約二百万に到達しており、日本のウェブサービスのなかでも稀に見る急成長を遂げている。同サービスは現在世界三カ国語(独・西・台)に対応しているが、利用者の中心は日本在住者であり、国内最大規模の動画共有サービスとして知られている(★7)。
なぜこの二つを比較するのかといえば、両者はほぼ同時期に出現した動画共有サービスであるにも関わらず(正確にはニコニコ動画のほうが1年遅れ)、そこでのコンテンツの創造形態に大きな違いが見られるからだ。その形式的差異について、筆者は別の場所で、「N次創作」と協働的創作形態《ルビ:コラボレーション》の有無として指摘したことがある(★8)。以下で簡単に説明しておこう。
いわゆる「二次創作」とは、メディア・コンテンツ企業が制作・配信している一次創作物《ルビ:オリジナル》を元に、その構成要素《ルビ:モジュール》を援用しながらユーザー側が二次的なコンテンツを制作する行為を指す。ここでその形式的な特徴に着目するならば、「二次創作」においては、オリジナルのコンテンツを根として、そこから複数の派生コンテンツぶら下がるが、あくまで作品間の派生関係(ノード間の繋がり)は「一次ホップ」(一段階)に留まっている。
これに対して「N次創作」とは、「一次創作物が二次創作物の構成要素となり、その二次創作物が三次創作物の構成要素になり…(以下同様)」というように、ニコニコ動画上の作品間に、「N次ホップ」の派生関係が形成される現象を指している。たとえばニコニコ動画上の有名な事例として、二〇〇七年頃から、仮想の歌手にボーカルを歌わせることができる人工音声合成ソフトウェアの「初音ミク」や、3Dのキャラクターたちが楽曲に合わせてダンスを踊る「アイドルマスター」などを「素材」とした大量のコンテンツが制作され、ニコニコ動画上で少なからぬ注目を集めてきたが、その特徴は派生関係の「N次」性にある。
その様相をヴィジュアライズしたものとして、情報工学研究者の濱崎雅弘らが作成したネットワーク図を見てみよう(図1)(★9)。このグラフの中心には、「初音ミク」のオリジナル系楽曲(ユーザーが自ら作詞・作曲し、初音ミクにボーカルを歌わせた作品)のなかでも、最も代表的で再生数の多い作品として知られる「【初音ミク】みくみくにしてあげる【してやんよ】」が位置している(二〇〇八年一〇月現在、再生回数はニコニコ動画の歴代作品のなかでも最大の五〇〇万を超えている)(図2)。この作品は、二〇〇七年九月の公開直後から大きく注目を集め、この楽曲を元とした二次創作作品が大量に制作されることとなった。たとえばそれは、この楽曲のボーカルを「人間」が歌うものであったり(これらのジャンルはニコニコ動画上で「歌ってみた」などと呼ばれる)、この楽曲用の「PV」、つまり手描きのアニメーションや3DCGなどの映像作品を付けたものであったり(「描いてみた」)、その映像中のキャラが踊る振り付けを付けて人間が踊ってみるものだったり(「踊ってみた」)、楽曲をギターやピアノなどで演奏するものであったり(「演奏してみた」)と、実に多種多様に渡っている。ちなみに上のネットワーク図は、動画の投稿者が作品の説明として「オリジナルはこちら:sm1097445(ニコニコ動画上における同作品のID)」などと元作品へのリンクを貼る慣習に基づいて、作品間のリンク構造を抽出することで作成されたものである。
図1. 初音ミク作品の派生関係を示したグラフ
図2. 【初音ミク】みくみくにしてあげる【してやんよ】
さて、ここまでは、作品間の派生関係が一次ホップに留まっているという点で、(ネットワークの中心=原点に位置する作品が、企業の提供する商業向けコンテンツかどうかの違いはあるものの)いわゆる「二次創作」と呼ばれてきたものとネットワーク構造的には違いはない。繰り返しになるが、「N次創作」の特徴は、こうして制作された二次創作物を素材として、さらなる派生作品が制作されていく点にある。たとえば、初音ミクと人間が歌ったものをステレオ音声の左/右チャネルで比較する「比較してみた」と呼ばれる作品。あるいは複数の「歌ってみた」作品を合成することで、仮想の「合唱」を制作する作品。さらには「歌ってみた」と「演奏してみた」の映像・音声を合成することで、仮想の「バンド演奏」を制作する作品。また、初音ミク関連の映像作品を集めて、独自の集計基準(再生数・コメント数・マイリスト追加数)に基づいて作成された「ランキング番組」。さらには、初音ミクに限らず、ニコニコ動画上で好評を博した楽曲を集めて、アレンジを加えた通称「組曲」(メドレー)と呼ばれる作品や、作品中に登場するキャラクターたちをオールスター的に集めて製作される「MADムービー」(★10)など、その派生関係は実に多種多様である。――こうした「比較」「集計」「合成」といった操作的プロセスによって特徴付けられるニコニコ動画上の共同/協働的な創造活動は、単なるオリジナルの派生作品を制作する「二次創作」に留まらない、「N次創作」と呼ぶにふさわしい様相を呈しているのだ。
また、ニコニコ動画上の「N次創作」現象は、決して同サイト上のごく一部の領域で行われているわけではない。そのことを傍証する事実を挙げておこう。これは周知のことだが、二〇〇八年三月から、ニコニコ動画上にアップロードされたテレビ局保有の映像コンテンツは、運営側によって自主的に削除されることになった(運営側は、新規投稿された映像コンテンツについても常時チェック体制を敷いており、そこでもテレビ映像は即座に削除されている)。つまり同サイトは、YouTubeなどがいまでもその役割を果たしている、「テレビなどの商用コンテンツが不正にアップロードされる無法地帯」としての役割をすでに大きく失っている。しかし、それでもニコニコ動画に訪れる多くのユーザーたちを惹きつけているのは(★11)、まさに「N次創作」によって次々と生成されている無数のコンテンツ群なのである。
以上の説明をもとに、いったんここで「創造力」と「生成力」に関する概念整理を行っておくことにしよう(表1)。まず、それぞれの力が宿る先は、「創造力」であれば「作者」に、「生成力」であれば「環境」にあると区別される。そしてそれぞれに主に期待される機能は、前者であれば「独創性(オリジナリティ)」に、後者であれば、より多く派生作品をマルチホップに渡って生み出す「ハブ」となること、すなわちネットワーク分析の用語を使っていいかえれば、ノードとノードのショートカットとしての役割果たす度合い、「媒介中心性」の高さにあると考えられる。ここでそのグラフ構造を描写するならば、前者は「ツリー」を思わせる「ぶら下がり型」のネットワーク図、後者は「リゾーム」を思わせるN次状に広がるネットワーク図になるだろう(★12)。「独創性」の高い作品は、時間的に先行する作品群とネットワークを張ることはないが(ここで「ネットワーク」と呼んでいるのは、あくまで先行作品を「素材」として用いるかどうかの関係を指しており、いわゆる「影響関係」の意味では用いていない点に注意してほしい)、しばしば後追い的な派生作品《ルビ:パクリ》を数多く生み出す。よって上方から下方に向かって時間軸を引くならば、その頂点=源流に「独創性」の高い作品が位置付けられ、そこから下に向かって多くの派生作品がぶら下がる。その一方、「生成力」の高い「ハブ」的な作品は、リゾーム的に広がる「N次創作」のネットワークのなかで、周囲の作品(ノード)とのマルチホップ的な派生関係を有している点に特徴がある。――おおよそこのようにまとめることができる。
表1. 「創造力」と「生成力」
さて、ここで議論を再び本線に差し戻すことにしよう。そもそも筆者は、YouTubeとニコニコ動画を比較するというプランを提示していたのだった。そこで本論が注意を促したいのは、ここで「N次創作」と呼んだ現象が、YouTube上ではほとんど見られることがないという事実である(※2017年の著者本人注:2008年末時点の目線で、である)。その違いは、なぜ着目に値するのか。YouTubeは、しばしばウェブがあまねく普及した現代において、「プロシューマー(生産-消費者)」(アルビン・トフラー)たちの創造力が大いに発揮される、「CGM(Consumer-Generated Media:消費者生成メディア)」の代表的存在として語られている。確かにそこでは、多くのユーザーたちが制作したコンテンツが投稿され、フリーでアクセス可能な状態には置かれている。しかしそこでは、ユーザー同士が互いのコンテンツを創作のための「コモンズ」として共有し、コラボレーション的に作品を制作していくという振る舞いはほとんど見られることはない。もちろんYouTube上でも、ある人気を集めた作品が一次創作物となって、不特定多数のユーザーがその作品にインスパイアされた作品を創作するという事例がないわけではないのだが(★13)、その派生関係は先ほどの言葉を使えば「一次ホップ(ぶらさがり型)」に留まっており、「N次ホップ」に渡る派生・連鎖関係が広がっていくことはない。
だとするならば、ここで一つの問いが立てられる:なぜYouTubeではなくニコニコ動画において「N次創作」現象が見られるのだろうか? もちろんこの問いについては、さまざまな要因があると思われるが、なかでも最も有力な解答としては、「海外では、日本に比べて、オタク文化・同人創作文化がそれほど強くは根付いていない」というものが考えられる。
実際、こうしたニコニコ動画上の創作/消費活動は、かつて東浩紀が『動物化するポストモダン』のなかで論じた、「データベース消費」の延長線上にあることは明らかである(★14)。東によれば、九〇年代後半以降の日本のオタク系文化の特徴は、表層的には二次創作によって生み出された(オリジナルとコピーの中間形態たる)「シミュラークル」の層、深層的には個々のオタク系作品の構成要素であるキャラクター/設定/萌え要素の雑多な集積である「データベース」の層という「二層構造」にある。オタクたちは、もはや作品に込められた「物語」よりも、「データベース」の層から適切な素材を抽出し、その適切な組み合わせを行うことで、「シミュラークル」(二次創作物)を生み出すことに強い関心を抱いている。ニコニコ動画上の「N次創作」現象は、まさにそこが「シミュラークル」の創造される環境でもあり、「データベース」の集積される環境でもあることを如実に示しており、その意味でいえば、ニコニコ動画が日本という場所に出現したことは、実に自然な流れのようにも思われる。
しかし、「N次創作」の発生要因を、日本という地理的特性に帰属させることは、決して誤りではないものの、「生成力」の要因を探るという本論の目的からは不十分な解答である。なぜならYouTubeは、そもそもニコニコ動画が普及する以前から、(英語版しか存在しないウェブサービスとしては極めて異例なことに)日本のユーザーも数百万人単位でアクセスしていたことが知られていたからだ(★15)。だとするならば、YouTubeをプラットフォームとした「N次創作」現象が、ニコニコ動画の出現よりも先に花開いていたとしても不思議ではない。しかし、現実はそうではなかった。だとするならば、ここで私達は、「N次創作」の原因を日米の文化差ではなく、YouTubeとニコニコ動画という二つの環境設計(アーキテクチャ・デザイン)の差異に見出すべきだと思われる。
それは果たして何か。以下で本論が取り組む課題は、この問いに絞り込まれる。
筆者は別の場所で、すでにこの問いに対する仮説検討を行っているのだが(★16)、ここでは紙幅も限られているため、考察を一点に絞ろう。それは「タグ(Tag)」と呼ばれる仕組みに関するものである。タグとは、とりわけ二〇〇〇年代中盤以降に出現した「Web 2.0」と呼ばれるウェブサービスの多くに実装された、新しいメタデータの管理方式のことである。その存在を一躍有名にしたのは、「ソーシャル・ブックマーク・サービス」と呼ばれる「del.icio.us(デリシャス)」や「はてなブックマーク」だが、現在では、先述したYouTube(★17)やニコニコ動画以外にも、「Flickr」や「Google Bookmark」など、広範なサービスに実装されている。
本論で筆者が着目したいのは、YouTube(あるいはその他多くのウェブサービス)とニコニコ動画では、タグの仕様が大きく異なっているという点である。その結論を先取りすれば、ニコニコ動画特有のメタデータのシステムが、冒頭で挙げた例のように、その分類表をカオスなものとしており、それこそがニコニコ動画上における「N次創作」現象を誘発しているのではないかということ。これが筆者の仮説である。
その考察を進めるうえで大いに参考になるのが、批評家の福嶋亮大の論考である(★18)。福嶋は、筆者が「N次創作」と呼んだようなニコニコ動画上の現象を、レヴィ=ストロースやロラン・バルトたちがかつて論じた「神話」概念を通じて考察している。複数の作品を「N次」的に連結・合成していくニコニコ動画上のクリエイターたちの所作は、「神話素(mytheme)」を手当たり次第にデータベースから選び出しては、比較・結合・改変といったアルゴリズム的操作を加えていくことで、無数の「神話」を紡ぎだす「ブリコラージュ」に相当する。さらに福嶋が注意を促しているのは、「現代においては、たんに神話素をデータベースで一元的に管理するのではなく、ある現実の事物を神話素に変える《ルビ:、、、、、、》こと、もしくは既存の神話素を強化して、より神話を生みやすい体質に変えること、こういう上位の働きに特化したものが出始めている」という点である。この「神話素」を豊かにする働きを、福嶋は「演算子(operator)」と呼んでいる。
以上の福嶋の論考を、YouTubeとニコニコ動画の「生成力」の比較分析にそのまま当てはめてみることができるだろう。なぜYouTubeでは「N次創作」が起きないのか。それは「演算子」が相対的に不足しているからであり、逆にニコニコ動画で「N次創作」が活発化したのは、なんらかの形で「演算子」が強く働いているからだと考えられる。さらにこの推察は、先述したレッシグやジットレインらの議論を、批判的に検討するための視点を提供してくれるように思われる。レッシグやジットレインの考えでは、ネットワークにおける「生成力」の鍵は、「オープン性」や「コモンズ」といった特徴にあるとされていた(だからこそレッシグは、その特性を高めるためにクリエイティブ・コモンズの提案を行った)。しかし、改めて繰り返せば、YouTubeのように、ただ動画がネットワーク上で大量に共有されている――レッシグの言葉を使えば「コモンズ」として存在する――だけでは、少なくとも日本における「N次創作」を誘発するのには十分ではなかった(むしろニコニコ動画では、「N次創作」現象の活発化を受けて、それを後追いする形で《ルビ:、、、、、、、》「ニコニ・コモンズ」というライセンス・システムが提供されている)。つまり、コンテンツが多様に存在しているだけでは「生成力」は喚起されることはなく、その多様なコンテンツの間の「相互作用」を促す触媒的な仕組み、すなわち「演算子」が必要とされたのではないか。そのとき重要な役割を果たすのが、以下で紹介するタグであると考えられる。
*
そこで以下では、ニコニコ動画特有のタグの仕組みについて見る前に、「ソーシャル・ブックマーク・サービス」(以下SBS)の仕組みに沿って、一般的なタグの特徴を説明していくことにしよう。そのサービスのコンセプトは、通常のウェブブラウザに搭載されている「ブックマーク」(Internet Explorerでは「お気に入り(Favorites)」と呼ばれている)の機能を、複数ユーザーで共有するというものである。ソーシャル・ブックマークの利用者は、任意のウェブページをブックマークする際、そのページの特徴を表すキーワードを自由に(基本的にはいくつでも)付与することができる。このキーワードが「タグ(認識票)」と呼ばれるものに相当する(図3)。
図3. 「タグ」の例(点線部が記事に付与されたタグ。画面は「はてなブックマーク」から引用)
いま筆者は「自由に」と述べたが、これは事前にサービス側やコンテンツ提供側など、第三者があらかじめ構築している「分類体系」に従う必要がないということを意味している。これは「分類する」という作業の特性を考えれば、いささか奇妙である。なぜなら、通常、複数の人間で複数のコンテンツを「共有」するためには、ある統一された分類構造に従って、コンテンツを整理していくのが通例だからだ。これはアリストテレスの階層構造論に始まり、リンネの生物分類学からデューイの図書十進分類法に至る、情報の整理法一般に共通する「伝統」だったということができる。
しかし、タグはその「伝統」に従うことはない。SBSのユーザーは、各人が思い思いにタグを付与することが許される。たとえば「麻生太郎が総理大臣に就任した」というウェブ上のニュース記事があったとき、あるユーザーは「政治」というタグを、また別のユーザーは(麻生太郎その人が『ローゼン・メイデン』というマンガ作品を好んでいるという属性に着目して)「ローゼン閣下」というタグを付与することができる。
こうして各ユーザーが自由に付与したタグは、他の情報へのリンクとしての役割も果たすことになる(通常、ウェブサービス上のタグは、「政治」といった形でハイパーリンクの形で表示されており、これをクリックすることで、別のユーザーが自分と同じ「政治」というタグを付けた記事の一覧へとアクセスすることができる)。また、SBSを利用する他のユーザーたちが、果たしてどのようなタグを使って情報を整理しているのかを俯瞰するための仕組みとして、「タグクラウド(Tag Cloud)」と呼ばれるインターフェイスが存在する(図4)。これは「より多くのユーザーが利用しているタグほど、その表示サイズが拡大され、文字色の濃度が上がる」という比較的シンプルな集計アルゴリズムによって、階層構造を持たないタグの一覧を、視覚的に俯瞰可能にするものである。
図4. 「del.icio.us」の「タグクラウド」(Tag Cloud)
このように、タグという仕組みの特徴は、あらかじめ定められた「タクソノミー=分類表《ルビ:、》」は存在しないかわりに、複数のユーザーが付与した「タグ=分類票《ルビ:、》」の集積結果を通じて、事後的かつ動的に分類体系が浮かび上がる点にある、と表現することができるだろう。こうしたタグの性質を、情報アーキテクトのトーマス・ヴァンダー・ウォルは、いわゆる従来型の「分類法」を意味する「タクソノミー(taxonomy)」に対比させる形で、「フォークソノミー(folksonomy)」すなわち「民俗の分類法」と名づけたことで広く知られている(★19)。その両者は次のように対比される。前者においては、トップダウン式に分類体系が与えられる。これに対して後者では、人々が自由にタグを割り振ることで、ボトムアップ式に分類体系が浮かび上がる、というように。
「タクソノミー」から「フォークソノミー」へ。この造語には、「ネットワークこそが真の自由や民主主義を体現する」という、米国のハッカー/サイバーリバタリアンたちがとりわけ好んで用いてきたロジックが反映されているのだが、ここではまた別の読解の道筋を辿ってみることにしよう。そこで参照してみたいのが、デビッド・ワインバーガーの『インターネットはいかに知の秩序を変えるか?』(原題:Everything Is Miscellaneous)である(★20)。このなかでワインバーガーは、タグをはじめとする新たなメタデータの管理方式が出現したことを、人類史における整理法の「第三段階」にあたると表現している。
それはどういうことだろうか。ワインバーガーによれば、整理法の三段階図式は次のように整理される。まず「第一段階」とは、たとえば「フォークをキッチンの引き出しにしまう」というように、整理の対象となる存在を、物理空間上にそのまま配置する状態を指す。次に「第二段階」とは、整理の対象を、特定の体系に従って整理し、そこにアクセスするための見取り図となるべく「メタデータ」を用意する状態を指す。その一例として挙げられているのが、「図書館」(整理の対象=モノ)と「図書検索カード」(整理法=メタデータ)の関係である。
ただし、この整理の「第二段階」には、不可避の制約が存在する。それは物理空間の限界である。たとえば図書カードは、一般に紙という物理的媒体にプリントされる。そのため、図書カードに記載できる情報は限られてしまう。また、仮に膨大なメタデータを紙に記載することができたとしても、整理の対象となる「書籍」や「資料」は、「図書館」や「書架」という建築構造の制約を受けるため、自由気ままに所在させるわけにはいかない。図書館に入り、図書カードの検索を行い、書籍の請求番号をメモに取り、その数字を頼りに所定の棚へ向かう。こうした一連の「メタデータからモノへ」と至るルートを確保するためには、なんらかの秩序体系に縛り付ける形で、モノを整然と配置させておく必要があるということだ。そのため私達は、デューイが百年以上前につくりだした図書十進分類法に不備があることを知りつつも、その分類体系を大々的に変更することもできないまま現在に至っている。
これに対し、整理の「第三段階」においては、分類する側の「タグ=メタデータ」と、分類される側の「データ=コンテンツ」とが、ともに情報空間上に存在することになる。そこでは、物理的な制約を受けることがない。先述したとおり、SBSでは、一つの記事(コンテンツ)に複数のタグを付与することが可能であり、それぞれのタグをクリックするたびに、そのタグと紐づけられたコンテンツ一覧が生成される。比喩的にいえば、これは魔法使いが図書館中のあちこちに存在する書籍を、魔法一つでたちまち目の前に呼び寄せるようなものだ。いいかえれば、情報空間上では、ある任意のタグを割り振られた記事の一覧を動的に並べるための「整理空間」を適宜生成することができるということを意味している。
私達は、タグの出現を待つまで、しばらくこの「第三段階」のメリットに気づかないでいた。そのことを理解するには、タグの登場以前に用いられてきた、「カテゴリ」「フォルダ」「ディレクトリ」といった分類法と比較すればよい。たとえばOS上である一つの「ファイル」を作成すると、(複製するかあるいはショートカットを張らない限り)それはコンピュータ上に仮想的に構築された一つの「フォルダ」に配置されることになる。この振る舞いは、文書(紙メディア)をブリーフケースやキャビネットに保管する挙動を再現したものだ。物理空間上においては、紙媒体という物理的な「存在」は、(ブリーフケースにせよキャビネットにせよ)分類体系上の一つの「場所」にしか収まることができないが、OSのファイルシステムは、わざわざその物理空間上の制約を、情報空間上で再現したものとなっていた。すなわち、それは「第二段階」の模倣に留まっていたのである。
しかし、繰り返せば「第三段階」ではそのような制約に従う必要はない。タグをはじめとする新たなメタデータの管理方式は、ギリシャ以来受け継がれてきた「階層構造」という分類法《ルビ:タクソノミー》から知(情報)を解放し、すべては「種々雑多(miscellaneous)」になるだろう。こうワインバーガーは宣言するのだ。もちろん、ワインバーガー自身も言及しているように、こうした主張はかつてのポストモダン思想を思わせるものであり、その内容は決して目新しいものではないともいえる。フリードリヒ・A・キットラーによる、あのメディア論的なフーコー読解を想起するならば(★21)、「書き込みのシステム」の変化が「エピステーメー」の変容をもたらすといえるだろうが、いずれにせよこのテーマは本論の枠を大きく超えるものであり、以下では詳論しない。
ここで本論に戻ろう。いま一度繰り返せば、ワインバーガーは情報空間の出現によって、ハイアラキカルな知の秩序は崩壊し、すべては無秩序になると主張する。しかし筆者の考えでは、情報空間の出現以前と以後を、秩序/無秩序によって二分するだけではいささか不十分である。むしろ筆者が関心を抱くのは、一見すると「無秩序」に見える、こうした新たな知のあり方は、情報空間の設計次第でどのように変化するのかにある。フリードリヒ・フォン・A・ハイエクの言葉を借りるならば、アーキテクチャの設計によって、いかにして第三段階における「知の自生的秩序《ルビ:、、、、、》」は変化するのか。次節では、この問いに答えるべく、いよいよニコニコ動画のタグのアーキテクチャについて分析することとしよう。
ニコニコ動画のタグの仕組みは、SBSやYouTubeのタグとは異なる特徴を持っているということ(図5)。その特徴を一言でいえば、従来型のフォークソノミーが「累積」型の仕組みだったのに対し、ニコニコ動画は「淘汰」型であると表現することができる。
それはどういうことだろうか。まず、ニコニコ動画のタグの仕組みは、《各人が自由にタグをいくつでも付与することができる》という仕様にはなっていない。ニコニコ動画では、確かにユーザー側が自由にコンテンツに対してタグを付与することができるのだが、その数は各動画ごとに「最大一〇個まで」という制約《ルビ:、、》がかけられている。また、すでに付与されているタグは、基本的に誰でも自由に削除することが可能である。そのため、自分が気に入らないタグがあれば、すでに付与されたタグを削除し、新たに自分が作成したタグを付与することができる(★22)。ただしニコニコ動画では、動画の投稿者にのみ、五個のタグまで「ロック」する権限が与えられており、ロックされたタグを自由に削除することはできない。
図5. ニコニコ動画とタグ一覧の表示エリア(拡大図)
タグ登録数に制約《ルビ:、、》が存在しているということ。これはいささか奇妙な事態に思われるかもしれない。先に紹介したワインバーガーの考えでは、第三段階の情報整理法であるタグの特徴は、物理空間の制約を取り払う点に、つまり事実上無限に《ルビ:、、、》タグを付与できる点にあったとされていたからだ。にもかかわらず、ニコニコ動画が有限の制約を設けているのはなぜなのか? それはこの制約の存在によって、ニコニコ動画のタグが《自然に》――より正確には《人為的かつ自然に》と表現すべきだが――「優れたものが生き残っていく」という「淘汰」を起こすためであると、情報工学者の伊藤聖修らは指摘している(★23)。
その内実をより詳しく見ていくため、以下では、ニコニコ動画のタグ欄上でしばしば発生する、「タグ戦争」あるいは「タグ編集合戦」などと俗に言われる現象を取り上げることにしよう。この現象は、一〇個しか用意されていないタグの生存権をめぐって、複数のユーザーたちがタグの入力と削除を応酬しあう状態を指している。そこでは、「常時複数のユーザーがタグ編集画面を開き(図6)、互いに急スピードでタグを入力・投稿しては、別のユーザーが投稿したタグを消していき、自分のタグが消去されれば、また他のユーザーのタグを消して自分のタグを再入力する」というプロセスが繰り返されている。
図6. ニコニコ動画のタグ編集画面(★はロックされたタグを示す)
これに類似した現象として、オンライン百科事典「Wikipedia」上で頻繁に発生している「編集合戦」が挙げられるだろう。誰もが自由に記事を入力・編集・削除できるWikipediaでは、ある項目に関する記述内容をめぐって意見の対立が生じることで、記事の入力をする側と削除をする側の間で「いたちごっこ」の状態に陥ることが知られている。
ニコニコ動画のタグ戦争は、まさにこのWikipediaの編集合戦と似たような構図の下で生じる。筆者の観察によれば、よく見られるのは次のようなパターンである。たとえば、あるアニメ作品を元にした「MADムービー」(ユーザーがアニメ作品の映像を元素材として二次創作された動画)が存在したとする。そしてその動画には、複数の女性キャラクターA、B、Cが登場するとしよう。するとこれら各キャラクターのファンたちは、その動画のタグ欄を、自分たちが支持するキャラクターに対するタグで埋め尽くすことを志向する。たとえばそれぞれの陣営は、「Aは俺の嫁」「Bは俺の嫁」「Cは俺の嫁」といったファン心理を示すタグによって、その動画のタグ欄を埋め尽くそうとするのだ(「俺の嫁」とは、ウェブ上で頻繁に用いられる、ファン心理を表明する際のジャーゴンである)。こうした動画の解釈権をめぐるタグ戦争は、一度始まると、各ユーザーが編集作業を中断するまで延々と続けられていくことになる。本論の冒頭で引用した、ニコニコ動画の、一見すると分類用キーワードとしての呈をなさない異様なタグの数々は、こうしたタグ戦争を経て生み出されてきたものである。
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なぜタグ戦争は起きるのか。それには、タグの入力数制限以外に、別の理由があると思われる。それはニコニコ動画のタグという「書き込みのシステム」が、いわゆる「チャット」のように、すなわち「文字を介した同期的コミュニケーション」を誘発するようなアーキテクチャとして設計されているというものだ。
それはこういうことである。まずニコニコ動画では、誰もがタグを削除することができると説明したが、これは同時に、削除ボタンをクリックした瞬間、タグの一覧表示がリフレッシュされるという挙動を伴う仕様になっている(あるいは、何かタグを新たに追加することによっても、タグの一覧はリフレッシュされる)。これはいわゆる「原始的」なチャットのアーキテクチャに極めて近い。当然のことだが、通常のチャットと呼ばれる仕組みにおいては、チャットの相手側が文字を入力したほぼ瞬間に、受信側の画面に文字が表示される。一般的なウェブブラウザ上では、「JavaScript」などのブラウザに内蔵されたプログラム言語によってこの挙動は実現される。しかし、技術的に貧弱である携帯電話のウェブブラウザでは、このようなブラウザ画面の動的更新を行うための仕組みを有していない。そのためチャットの参加者は、常に「更新」ボタンをクリックするか、なんらかのメッセージを投稿するなどして、ウェブサーバ側になんらかの命令を与え、画面の更新を行う必要がある。
繰り返せば、ニコニコ動画のタグのアーキテクチャは、ちょうどこの貧弱なウェブブラウザ上で実現される、「原始的」なチャットシステムに近い。それゆえタグ戦争に参加するということ(自らタグを入力し、誰かのタグを消去するということ)は、同じくタグ戦争に参加する他のユーザーとの、同期的なコミュニケーションを行う状態に突入することになる。筆者の観察では、こうした現象はほぼ毎日、どこかの動画で、時には数時間・数日間にも及んで発生している(その現象を確認するには、ニコニコ動画のランキング上位の動画にアクセスし、タグの【編集】ボタンを何度かクリックし、タグの一覧が目まぐるしく変化する様を確認すればよい)。実際、タグ戦争の最中には、「そろそろ疲れたので落ちます」「乙《ルビ:おつ》ですー(「お疲れ様です」を意味するネット上特有の表現)」といった、ごく普通のチャット的な会話までもが、タグとして入力されることもしばしばである。また、ニコニコ動画のタグがしばしば「単語」の単位ではなく「文章」の形態を取ることが多いのは(たとえば「演奏」ではなく「演奏してみた」という文章風の表現が好まれる)、こうしたチャット的なインターフェイスによって、会話的な文章が多く入力されるためだと考えられる。
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いささか解説が長くなったが、本節では、ニコニコ動画のタグという「書き込みのシステム」が、いわば「自然淘汰(Natural Selection)」ならぬ「人工淘汰(Artificial Selection)」を誘発するものとして設計されていることを明らかにしてきた(★25)。すでに見てきたように、その設計上の特徴は、「最大一〇個まで」と定められたタグの入力制限と、「原始的なチャット」を模したアーキテクチャにあった。ニコニコ動画のユーザーたちは、しばしばその一〇個の生存枠をめぐってタグ戦争を繰り広げ、その結果としてタグは微弱な変形と淘汰を繰り替えしていく。
こうした現象をもたらすニコニコ動画のタグのシステムを、前節で紹介した「フォークソノミー(folksonomy:民俗分類)」と対比させて、「流転」を意味する「flux」を冠した、「フラクソノミー(fluxonomy:流転分類)」という言葉で表現することができるだろう。すなわち、従来型のフォークソノミーにおいては、複数のユーザーたちが付与するタグを累積《ルビ:、、》させることで、「タグクラウド」のような分類表を浮かび上がらせていたのに対し、ニコニコ動画のタグは、無数のタグたちの生成流転《ルビ:フルクサス》のプロセスを通じて、冒頭に挙げたようなカオスな分類表を生み出しているのである。
しかし、ニコニコ動画の「フラクソノミー」は、単に「優れたもの」が生き残っていくという「淘汰」のメカニズムをもたらすだけではないと筆者は考えている。それはどういうことか。いま少しその分析を続けることにしよう。
ここで重要になるのが、ニコニコ動画のタグ戦争は、その参加者以外には知覚されることはないという点である。先に筆者は、ニコニコ動画のタグは「チャット」のように設計されていると説明したが、それはあくまで「原始的」なものであると説明した。そこでは、たとえば削除ボタンをクリックするなどの操作を行わない限り、タグの一覧は自動的に更新されることはない。また、各ユーザーに表示されるタグの一覧は、ニコニコ動画のサーバにアクセスした瞬間、そのときデータベース上に格納されているタグがロードされ、動画再生画面の上に表示される。その一覧は、タグの編集に関するなんらかの操作を行わない限り、固定したまま一切変化することはない。この仕様が決定的に重要である。
たとえば、タグ戦争に一〇人のユーザーが参加しており、一分間の間に、各ユーザーが常に自らが考案した一〇個のタグを(他のユーザーが入れるタグを消去しながら)入力し続けている状態にあると想定しよう。するとニコニコ動画のタグを格納するデータベース上には、一分間に一〇〇個のタグが入れ替わり立ち代り存在することになる。しかし、ニコニコ動画上で普通に動画を視聴しているユーザーは、この猛スピードで生成点滅を繰り返しているタグのfluxに気づくことはない。なぜなら、先に説明した仕様のとおり、動画を再生しているだけであれば、動画再生画面の上部に表示されているタグの一覧はリアルタイム(動的)に更新されることはなく、ページアクセス時にロードされた一〇個のタグでフィックスされたままだからだ。
こういいかえてみることもできるだろう。筆者は別の場所で、ニコニコ動画の(動画再生画面にオーバーレイして流れる)コメントの性質を「擬似同期」と表現したことがあるが、これに対してニコニコ動画のタグは「瞬間同期」と呼ぶことができる。そしてニコニコ動画の「コメント=擬似同期」と「タグ=瞬間同期」の間には、それぞれ同一の画面上にありながら、全く異なる性質の時間が流れているのである(★26)。
ニコニコ動画上には、いわば「時間の溝」が存在する。そして、それは次のような効果をもたらす。「フラクソノミー」は、単にメタデータを「淘汰」させるだけではなく「拡散」させる。なぜなら、タグ戦争が加速すればするほど、各ユーザーに表示されるタグの一覧は、同一の動画を見ているにも関わらず《ルビ:、、、、、、、、、、、、、、、》、ばらばらのものになっていくからだ。つまり、ある動画を視聴するユーザーAと、その数秒後に同一の動画にアクセスしたユーザーBとでは、異なるタグの一覧が画面上に表示されるのである。
ここで起きている事態を、量子力学における「コペンハーゲン解釈」を比喩的に用いることで、次のように表現することができるだろう(図7)。一分間に一〇〇個のタグが生成流転している状態は、「確率雲」の状態に喩えられる。そしてユーザーがニコニコ動画にアクセスした瞬間、そのときデータベースに格納されていた(一瞬の生存権を獲得していた)タグの一覧がロードされる。これは「観測」に相当する。そしてニコニコ動画上のタグは、この「観測」によってその存在を「収束」させられる。以上のメカニズムを通じて、ニコニコ動画のタグ戦争は、そのfluxが加速すればするほど、コンテンツの視聴者たちに対して異なるメタデータをばら撒いていく。この事態に、また別の量子力学的な表現を与えるならば、ニコニコ動画のタグ戦争は、メタデータの拡散を通じてユーザーたちを「多世界解釈」に導くのである。
図7. タグ戦争の量子力学的効果
さらにここでは、認知科学的にその効果のほどを確認することもできるだろう。もし仮に、ある動画に対して一〇〇個のタグ=解釈項が存在していたとする。しかし、その一〇〇個の集合が一度にユーザーに与えられたとしても、認知科学における「マジックナンバー7±2」ではないが、その解釈の多様性を直ちに処理することはできないだろう。しかしニコニコ動画は、ユーザーごとに最大一〇個というタグ表示数の制限を設けることで、この「認知限界」の問題をクリアしているとみなすことができる。
ニコニコ動画のタグ戦争。それは刹那的で、児戯的な言葉のゲームに過ぎない。そこはなんらかの「合意」に達することもない、あまりにも不毛で殺伐とした言葉のアリーナにしか見えないことだろう。しかし、ニコニコ動画のタグのアーキテクチャは、そのタグを量子力学的に戯れさせることによって、人々を自動的に多様な作品の分類と解釈へといざなう。タグはハイパーリンクに自動的に変換され、ユーザーはそれをクリックすることで、同じタグを付与された動画群に即座にアクセスすることができる。しかもこうしたメタデータの拡散プロセスは、基本的にタグ戦争に参加しない限り、ユーザーたちに知覚されることはない。マルクスの有名な表現を借りるならば、個々のユーザーたちは、個体としてはその解釈の《多様性》を知る《ルビ:、、》ことはなくとも、群体として《多様な》解釈を行う《、、》のだ。筆者はここまで、レッシグの「アーキテクチャ」という用語(=環境設計を通じて、人々の行動を無意識のうちに操作する規制法)を用いてきたが、上のプロセスもまた、その設計によってもたらされているのである(★27)。
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以上で、ニコニコ動画の「生成力」をめぐる分析はひとまず終了したことになる。その道のりを簡単に振り返っておくことにしよう。まず本論では、YouTubeとニコニコ動画の二つを比較し、「N次創作」と筆者が呼ぶ現象の形式的特徴に着目した。そして次に、YouTubeとニコニコ動画では、「タグ」と呼ばれるメタデータの仕組みが大きく異なる点に注目し、その詳細な分析を行った。そこで明らかになったのは、ニコニコ動画におけるタグの「書き込みのシステム」は、筆者が「フラクソノミー」と呼んだような、タグの「淘汰」と「拡散」を促すアーキテクチャとして設計されているということだった。その設計上の効果によって、ニコニコ動画は、冒頭に挙げたような多様でカオスなコンテンツの分類表を生み出し、それは「演算子」(福嶋亮大)としての役割を果たすことで、創造環境の「生成力」を高めている――作品間の「つながり」を備給している――と考えられる。以上が本論の結論である。
ここで一つだけインプリケーションを導き出しておくならば、ニコニコ動画においては、一般的なデータ(作品)とメタデータ(分類)の関係が逆転している点がとりわけ重要であろう。通常、メタデータは、多様なデータの複雑性を縮減するためのものである以上、分類の対象となるデータよりも、その「多様性」は少なくなる(ここでは、純粋にそれぞれの「数」で計測すればよい)。しかしニコニコ動画では、一つの作品あたり一〇個までのタグが入るというその仕様上、メタデータの側のほうが「多様性」を有することになる。しかもそのタグの数々は、上に見たような「淘汰」と「拡散」のメカニズムを通じて、常に生成変化を繰り返しているのだ。ニコニコ動画のタグは、もはや単なる動画の「分類」という役割を越えて、多様なコンテンツの「コモンズ」を媒介する、「触媒」としての機能を持つに至っている。おそらくこのことは、今後の情報社会におけるメタデータ=分類法=知の秩序を考察する上で、極めて重要な一ケースとなると思われる。
さて、私達はすでにニコニコ動画の「生成力」をめぐる分析を終えている。だが本論を締めくくるにあたって、ここまでの考察を踏まえた上で、「創造力」と「生成力」と筆者が便宜的に区別した概念を、いま再び統合的に検討する試みを展開してみたい。前者は作者に、後者は環境に着目することで区別されていたが、筆者の考えでは、ある一つの機能に着目することで、その両者の区別を取り払うことができるように思われる。
それはどういうことだろうか。ここで再び参照したいのが、冒頭でも触れたフーコーである。フーコーは、「作者とは何か?」と題された著名な講演録(★28)のなかで、作者性を次のように捉えていた。それは「ある言説をその産出者へと自然発生的に帰属せしめること」ではなく、いくつかの特殊で複雑な機能――「作者名」「所有関係」「帰属関係」「作者の位置」の四つを挙げている――を通じて、「複数の自己、分類を異にする個人が占有しにやってくることのできる複数の立場=主体を同時に成立させることができる」ものとして捉えていた。
たとえば本論の主題である「創造性」に引き付けるならば、社会生物学者エドワード・O・ウィルソンの次のような言葉もまた、フーコーのいう「作者性」の一機能とみなすことができるだろう。「天才とは、大勢の人間の集合体であり、それを後から簡単に思い出すために、そこに何人かの名前をつけたものである」(★29)。いうなれば私達は、「認知限界」の縮減手段として「作者性」というソフトウェアを用いている、というように。
しかし、「作者性」がもたらすアプリケーションはもちろんそれだけではない。さらにフーコーは、マルクスやフロイトといった作者名が人文学にもたらす機能について、次のように指摘している。たとえばフロイトの『科学的心理学草稿』のようなテクストがあったとき、「ただそのアクセントのつけ方や重心を移動させること」といった些細な修正が「再発見」されたとしよう。たとえそれがどれだけ些細なものであったとしても、それはフロイトの「精神分析」をめぐる「理論的な場」を大きく書き換える可能性をもたらす。これに対し、ガリレオ、ニュートン、カントールらの未知のテクストが「再発見」されたとしても、それはせいぜい私達の「歴史的認識」を変えるに留まり、物理学や数学の「理論」そのものの大幅な変更を迫ることはない。以上の比較を通じて、フーコーは人文学における作者性の機能を、その言説の創始者が生み出した「テクスト類、概念、仮説に対する、若干数の差異を可能ならしめ」るものとして分析している。
ここでフーコーが述べている「作者性」の機能を、東浩紀がソール・A・クリプキの読解を通じて取り出した、固有名の「訂正可能性」に相当するものとして理解することができる(★30)。クリプキによれば、固有名は「確定記述」の束に還元することはできない。たとえば「アリストテレス」という固有名は、「アレクサンダー大王を教えた師」などの諸性質の束に縮約することはできない。なぜなら「アリストテレスは実はアレクザンダーを教えなかった」という新事実が判明したとしても、私達は引き続きその名前を使うことができるからだ。「確定記述」の束に還元することができない以上、固有名には常にある剰余が宿っている。これをクリプキは「固定指示子」と呼んだ。固定指示子は、「あの人がアリストレスだ」という命名行為(baptism)によって与えられ、「言語共同体」を通じて連綿と伝達されてきたとクリプキは想定する。これに対し東は、こうしたクリプキの議論における神秘的性格を批判し、固有名には「固定指示子」という剰余が宿っているのではなく、固有名によって「訂正する可能性」が伝達されてきたのだと読み替える。だからこそ私達は「アリストテレス」という固有名を手がかりにして、「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えなかった」という事後的な訂正が可能になる。
ただしフーコーは、一般的な固有名と、作者の固有名とでは、それぞれが宿している「訂正可能性」の範囲と機能は、まったくの同一ではないとも指摘している。フーコーは次の三つの例を挙げて比較している。1)「シェイクスピアは今日人びとが訪れるあの家で生まれなかった」という事実が判明した場合。これはその作者性を訂正するには至らない。2)「もしだれかが、シェイクスピアは彼の作と看做されている『ソネット集』をじつは書きはしなかった」という事実が判明した場合。これは少なからずその作者性に変質をもたらす。3)「シェイクスピアはベーコンの『オルガノン』を書いた」こと、つまりはシェイクスピア=ベーコンその人であることが判明した場合。その作者性は全面的に書き換えられる。
このような「訂正可能性」のスペクトルを踏まえた上で、フーコーは作者性を、作者その人の属性記述を訂正するものではなく、その作者性が発揮する「分類機能」に関するものとして規定する。作者の固有名は、「若干数のテクストを集め直すこと、限定すること、いくつかのテクストを除去すること、あるテクスト群を他のテクスト群に対立せしめることを可能にする。その上、それはそして集められたテクストを相互間に関係づける。」そしてその上で私達は、フロイトやマルクスといった「言説創始者」の固有名を通じて、諸テクスト群の関係性の「別様のあり方」を想像ないしは創造することができる。つまりフーコーの論じる「作者性」とは、ある任意の「盤《ルビ:ターブル》=表《ルビ:タブロー》」の上にのせられた諸テクストを操作するための「演算子」として把握されているのである。
以上の議論を踏まえるならば、私達は次のような――いささか大胆過ぎると思われるかもしれないが――仮説を導くことができるだろう。「作者性」の機能が、ある作品をどこに配置し、何と比較するのか、その分類表《ルビ:タブロー》上におけるポジションを訂正する「演算子」としての性質に認められるとするならば、いまや私達の社会は、その意味での「訂正可能性」を伝達するための仕組みとして、「作者性」とは異なるソフトウェアを立ち上げつつあるのではないだろうか。すでに見てきたように、ニコニコ動画のタグは、「N次創作」のネットワークにおいて、作品と作品をリンクによって結びつけ、時にはそれらを合成したり、比較したりするための分類表《タブロー》として機能する。そしてニコニコ動画の「フラクソノミー」は、群体としてのユーザーたちに解釈の多様性をばら撒いていく。その働きに促されて、ニコニコ動画上の「N次創作者」たちは、個々の作品の「別様でもありうる姿」を実現するべく、日夜変換の操作を加えることで作品を生成していく。そこでは、作者の固有名ではなく、タグという「確定記述」の束《ルビ:、》――いまや私達は「確定記述」の網《ルビ:、》(ネットワーク)、あるいは雲《ルビ:、》(クラウド)と表現すべきだろう――こそが「訂正可能性」を流通させているのである。
*
それでは、ニコニコ動画における、いわゆる一般的な意味での「作者」の存在は、どのような位置価を有しているのだろうか。この点についても簡単に触れておこう。興味深いことに、ニコニコ動画に作品を投稿する「作者」たちの固有名の多くが、受け手側によって「命名」されているのである。そもそもニコニコ動画に作品を投稿する者たちは、自分から名前を名乗らないことも珍しくない(またニコニコ動画では、デフォルトで投稿者名が表示される仕様にはなっていない)。これに対して、ニコニコ動画のユーザーたちは、たとえば《投稿された動画中に「ガゼル」の絵が描かれているので、以後その作者を「ガゼル」と名づける》といった具合に、しばしば動画の投稿者たちに名前を与える。さらにその命名儀式(baptism)の場として、タグが使われることも珍しくはない。そこでは、《まずユーザー側がタグに複数の作者名の候補を入力しておき、投稿者は「タグロック」を通じて、どの名前で呼ばれたいのかを意思表示する》といった光景がしばしば見られるのである。すなわちニコニコ動画においては、「作者名」すらもタグの一要素として生成され、流通しているのだ。
改めて確認しよう。「固有名」とは、その名指された対象に関する「確定記述」の束ではなく、むしろその記述を「訂正する可能性」を束ねたものとして機能する。しかし、いまやニコニコ動画においては、固有名の元に束ねられていた「訂正可能性」は、固有名というコンテナーを飛び出し、「フラクソノミー」という人工的に構築された環境上で淘汰と拡散を繰りひろげている。確かに、ここには旧来的な意味での固有名の働きは失われている。しかし、「訂正可能性」の伝達と流通という点において、それはフーコーが作者という制度に認めた諸機能と、どれほど異なるというのだろうか。むしろそれは、姿かたちこそ違えど、「作者性」の「機能的等価物(functional equivalent)」とみなすことができるのではないか。
以上の考察を踏まえるならば、私達はフーコーの「作者とは何か?」を締めくくる次のような言葉を、次のように受け止めることができる。
作者――または私が機能としての作者というかたちでこれまで叙述しようと努めてきたもの――それは、おそらくは、機能としての主体の可能な限定特殊化のいろいろなタイプのひとつでしかないのです。可能な、と言いましたが、ぜひとも必要な、と言ったほうがいいのでしょうか。現に起った歴史的なさまざまな変容を見てみると、機能としての作者がその形態、その複雑性において、それどころかその存在においても不変のままでいるのは必要不可欠のことではない。およそまったくちがうように思われます。機能としての作者が現れることなしにもろもろの言説が流通し、受けとられるようなある文化を想い描くことができます。あらゆる言説がそこでは、その身分規定、形態、価値のいかんを問わず、それらに対して向けられる取扱い方いかんを問わず、囁きの匿名性のうちに繰りひろげられるでありましょう。
いまや私達は、フーコーが「機能としての作者が現れることなしにもろもろの言説が流通し、受けとられるようなある文化」と呼んだものを、ニコニコ動画を通じて、極めて具体的に想い描くことができるはずだ。さらに続けてフーコーはこういっている。
《現実にはだれが語ったのか? それは本当にこの人であって他のだれでもないのか? いかなる真正性をもって、いかなる独創をもってか? また、この人はその言説のなかで自分の深奥から何を表現したというのか?》――そういうあれほど長いあいだむし返されてきた問いは、もはや聞こえてくることはないでしょう。そのかわりに、《この言説の存在様態はいかなるものか? それはどこから取られてきたのか、それはどのようにして流通できるのか、まただれがそれを自分のものとして所有できるのか? ありうるかもしれぬ主体のためにそこに用意されている位置とはいかなるものであるのか? だれが主体のこれらの多様な機能を満たすことができるのか?》――そういう別の問いが聞こえてくることでしょう。そしてこれらの問いすべての背後から聞こえてくるものは、おそらくはただひとつ、無関心を示すざわめきだけでありましょう、――《だれが話そうとかまわないではないか》。
フーコーが挙げる「存在様態」や「流通形態」に関する諸々の問いについて、すでに私達は、「N次創作」や「フラクソノミー」といった形で、極めて具体的な分析を加えてきた。その内容をもはやここで繰り返す必要はないだろう。ただし、フーコーが最後に引用するベケットの言葉に対しては、ただちに一点留保を付け加えておくべきかもしれない。そこから聞こえてくるのは、《だれが話そうとかまわないではないか》という無関心ではなく、《いかにしてそのような環境は設計できるというのか》という強い関心に他ならない、と。