スポーツ心理学の部屋 -読むメンタルトレーニング-

スポーツをしていて,なかなかやる気が出ないという悩みを持っている人は多いと思います.また,試合になるとプレッシャーを感じたり,あがってしまったりして力を出し切れないという悩みを持つ人も多いと思います.いったいそれはなぜでしょう?どうしたらやる気を出すことが出来るでしょうか?どうしたら試合で力を出すことができるでしょうか?この「スポーツ心理学の部屋」では,あなたのそんな悩みの解決の助けになるちょっとしたヒントを提供していきたいと思います.

メンタルフィットネス

試合の時に実力を出せないで悩んでいる人はたくさんいます.時々私もどうしたら試合の時あがらずにすむのでしょうか,どうしたら実力を出せるのでしょうか?と聞かれます.

 この答えに対して,私はいつもこう答えるようにしています.「問題は試合の時の心理状態ではない.試合に対する心理的な準備状態(メンタルフィットネス)が問題なのだ」と.

 どんなスポーツ選手でも,フィジカル面では,自分の実力を上げるために試合までに継続してトレーニングを行います.また試合前には,トレーニングの質や量を落として試合で最大限の力を出せるように調整を行います.そのようなフィジカル面の準備,すなわちフィジカルフィットネスが出来てこそ,ベストの力が発揮できるのです.トレーニングが十分に消化できなかったり,試合前の調整で風邪をひいてしまったら,よい成績は望めないのです.

 全く同じことがメンタル面でも言えます.メンタル面での準備(メンタルフィットネス)ができていないのに,試合の時になってどんなに「リラクセーション,リラクセーション」と唱えてもリラックスすることは出来ないでしょうし,人という字を手に三回書いて飲み込んでも,あがらないでいられるわけではないでしょう.試合に対するメンタルフィットネスが出来ていれば,試合であがることもないでしょうし,その時の実力を出し切れるのだろうと思うのです.

 私は,このメンタルフィットネスの正体が「適応的な動機づけの質を持つこと」ではないかと考えています.動機づけ(モチベーション)が高い=やる気があるということはスポーツでよい成績を上げる上で,これまでも重視されてきたことですが,私は,試合での実力発揮には,単に動機づけの高さだけではなく,動機づけの質も大きく関わっていると考えています.試合で実力を発揮できる選手は,非常に適応的な質の動機づけを持っています.逆に適切な性質の動機づけを持っていない場合,高いやる気がむしろ「気負い」につながってしまって,成績を低下させるように働いてしまうことも多いのです.

 私の専門は動機づけの研究なのですが,最近の動機づけ研究は,かつてのように動機づけの高さばかりを問題にするのではなく,動機づけの性質の違いが課題の成績や課題中の不安に大きく関わっていることを多く明らかにしています.同時にスポーツでの研究も進んでおり,その選手の持っているやる気の質の違いによって競技成績や感じる競技不安が変わってくることが明らかにされています.以下では,どのような性質のやる気を持つことが求められるのかをできるだけ具体的に示していきたいと思います.

やる気を出すには勇気がいる

やる気を出すには勇気がいる

アトキンソンの達成動機づけ理論

 あなたには何か目標がありますか?こうしたい,こうなりたい,何かをやりとげたい.そんな望みが有りますか?多くの人は何らかの目標を持っています.テストでいい点を取りたい,希望の大学へ入学したい.スポーツでも良いです.レギュラーになりたい,甲子園へ行きたい,インターハイへ出たい...マクレランドやアトキンソンはこのような人の何かをやりとげたいという気持ちを達成動機と名付けました.そして人は自分なりの目標を達成するために行動を起こし,行動を続けるのだと考えました.

 目標を全く持たない人はまれでしょう.むしろ多くの人は目標はわかっているのにやる気が出ない,行動や努力をすることができないと感じているはずです.そしてそのような状態が続くうちに目標を捨ててしまい,目標が無くなってしまうのです.

アトキンソンはこの努力したいのに努力できない,達成したい目標があるのに行動できないという気持ちを,彼の達成動機づけ理論で見事に明らかにしました.

彼は,私たちが実際に行なう目標を達成しようとする行動は,「成功したい」という気持ちを表す成功達成への接近と,「失敗したくない,失敗したらいやだ」という気持ちを表す失敗回避という,方向が逆向きの二つのベクトル(やじるし)のたしあわせによって表せると言いました(図1A~C).

例えば図1Aですと,成功したいという気持ちだけが働いていますから,その気持ちはそのまま目標を達成しようとする行動につながります.ところが図1Bでは,成功したいという気持ちはあるのですが,失敗したくない,失敗したらいやだという気持ちがマイナスに働き,その分だけ行動はさしひかえられてしまいます.また図1Cでは,目標を達成したいという気持ちはあるのですが失敗回避の気持ちが強すぎて,全く行動は行なわれないことになってしまいます.外から見ると図1Cのような人は全くやる気が無いように見えることでしょう.

 アトキンソンの前までの動機づけ理論は動物や人間はえさとかお金とか他者の賞賛など何か報酬が無ければ行動しないのだ,いわば人間にせよ動物にせよもともとなまけものなのだという説でした.アトキンソンはそんな説に対して反論し,人間はもともと成長したいという気持ち(成長動機)を持っており,それが目標を達成しようとする気持ちをもたらしているのだけれど,それは失敗したくないという気持ちに妨げられてストレートに行動には表れず,見た目なまけものに見えてしまうのだと考えたわけです.

 ところでこの行動を妨げる,失敗したらどうしよう,失敗したらいやだという気持ちはいったいなぜ起るのでしょう?これは自我防衛つまりは自分の心を守るためなのです.失敗して自分が価値の無い人間,人より劣った人間だと思いたくないがためなのです.失敗して傷つくのは自分なのです.だから実際に失敗してしまう前に,行動をしないことで失敗を避け自分を守るのです.

 自分を守ることは必要なことです.自殺の可能性が高いと言われているうつ病の人は自分を守ることがうまくできません.例えば私たちが何か失敗した時,今回は運が悪かったんだとか,他人に責任転嫁をしたりして自分を適度に守ります.ところがうつ病の人はそれができません.すべて自分の責任と考えてしまって自分の価値をおとしめてしまうのです.自分の価値をおとしめず守ることは私たちが生きていくために絶対に必要なことです.ですが失敗を恐れて行動をしなければ,目標を達成することも人が本来持っている成長の力を発揮することもできないでしょう.私たちが自分を賭けて行動を起こすには自分を傷つけることを恐れず断崖絶壁を飛び越えるような気持ちが必要なのです.やる気を出すには勇気がいるのです.

チャレンジ精神をむしばむ失敗回避の気持ち

 あなたはどんな時に失敗したらいやだ,失敗したらどうしようという気持ちが強くなりますか?どんな時に,やる気を出そうと思っても出せないと感じますか.

 失敗回避の気持ちは,あなたの属しているチームの雰囲気やチーム内であなたが置かれている立場によって大きく変わってきます.

「前の球団にいた時は、代打に出ると、どんなことをしてでも結果を出さなくちゃいけない、と追いこまれて打席に立った。打てないと案の定、しかられた。よし、やってやるぞ、という気持ちにはなれなかった。今は、自分はチームの中で信頼されていると感じる。自信を持って、思い切りプレーできる」

 これはある野球選手のコメントです.彼が置かれていた立場は典型的に失敗回避が強くなってしまう状況だったのです.

 失敗回避が強くなってしまう最も大きな要因は,他者から厳しく評価されることです.また強く期待されるときにもやはり失敗回避が強くなる可能性があります.このとき,あなたの競技能力が期待に答えられるほど十分に高い場合や良い成績を上げられている場合には,周りからの期待はあなたのやる気を後押ししてくれるエネルギーとなります.しかしながら,あなたの競技能力があまり高くない場合や良い成績を上げられていない場合,周囲の期待が高すぎる場合には,他者からの評価や期待は,あなたへのプレッシャーとなり,失敗したらどうしようという気持ちを高めることになります.

 成功達成の欲求は,目標にチャレンジしようという気持ちをあなたに与えてくれます.しかしながら,失敗回避の気持ちが強くなると,成功達成の欲求によって持とうとしていたチャレンジ精神は萎えてしまい,自分を守ろうと言う気持ちが強くなってしまい,思い切ったプレイができなくなります.それは結局あなたを追い詰め,あなた自身を傷つけてしまうのです.

 前述の彼は,結局トレードで球団を出され,移籍先で新たなチャレンジ精神を発揮できる場所を与えられ,印象的な活躍をします.彼の名前は,北川博敏.劇的な代打逆転サヨナラ満塁ホームランで優勝を決めたあの男です.

 誰が一番金メダルを取りたいのか?

 優れたスポーツ選手の言葉には,そこらの心理学者よりも,経験に基づいた深い意味を感じさせるものです.「誰が一番金メダルを取りたいのか?」,これはシドニー五輪前に柔道の金メダリスト古賀稔彦が語っていた言葉です.ご存知のとおり,古賀稔彦はソウルで金メダル確実と言われながら,3回戦敗退に終わったものの,その後バルセロナでは大会直前の怪我を乗り越えて金メダルを獲得した選手です.

  彼はこう言います.「メダルを期待されるような選手では,金メダルを取って欲しいという周囲からの期待はものすごいものがある.そんなプレッシャーに打ち勝つためには,周囲の誰の気持ちよりも自分が金メダルを取りたいんだという気持ちが強くないといけない.自分の金メダルを取りたいという気持ちが誰よりも強いときにはじめて,周りからの期待は自分のエネルギーになる」と.

 あなたの周りにはあなたの活躍を期待する人たちがいます.コーチはあなたの活躍を期待し,友人やOBもあなたが強くなることを望んでいます.それは善意に基づいた行為なのですが,時にそれはあなたの自律性を奪い,スポーツの意味を見失わせます.

 しかし,厳しい練習も多くの犠牲も,それらはみなあなたが自分の目標を達成するために払ってきた代償なのです.それらの行動があなたに力を与えてくれます.目標を達成したい気持ちが一番強いのは,他の誰でもない,あなた自身のはずなのです.

 目標と目的の違い -モチベーションを保つのは目標ではなく,目的である-

 あなたはどんな目標を持っていますか?あなたが高校生であれば,インターハイや甲子園に出場して,良い成績を上げることが目標になっているだろうと思います.大学生であればインカレでしょうか?もっと競技レベルが高ければ,世界選手権やオリンピックを目標にしているかもしれません.

 明確な目標を持つことはモチベーションを高く保つのに必要なことです.(達成動機づけ理論でも,自分なりの目標に向かおうとする欲求が達成行動の原動力になると定式化しています.)しかしながら,私はこれまで,明確な目標を持っているにも関わらず,それが行動につながらず悩みを抱える選手を多く見てきました.かく言う私もその一人でした.達成したい目標はあるのに,やる気が出ない,練習を持続できないという悩みを抱えていました.

 高校時代は,インターハイを目指していました.インターハイや甲子園はそのスポーツをやる者だったら誰もが目指す目標であり,私にとってもこれほど明確な目標はありませんでした.しかしながらその明確な目標も私にとってエネルギーにはなりませんでした.なぜなら,私の競技レベルはとてもインターハイに出場できるようなものではなかったからです.後少し頑張ればインターハイというレベルでしたら,きっと明確な目標も力になったかもしれません.でも,レベルの低い私にとっては,インターハイに出場するために練習をするという行為はなんの意味も目的も感じられないことだったのです.

その後,私は大学に入り,少しずつ自分のスポーツをする「目的」を捉え直し,自分なりの目的と目標を持つことになります.その話はまた別の機会にしましょう.ともあれ,

 私達はなんの目的も感じられない行動を行いつづけることは困難です.たとえ明確な目標を持っていたとしても,その目標にたどり着くための行為(練習)に目的や意味を感じられなかったとしたら,目標に近づくことすらできないでしょう.目標と目的とは違います.私達が本当にやる気をもってスポーツに取り組むときに重要なのは,スポーツをするにあたっての目標ではなく,スポーツをする目的なのです.

 「あなたはなぜ競技を続けているのですか?」

学習性無力感 -無気力は学習される-

 セリグマンという心理学者がこんな実験をしています.2群の犬に電気ショックを与えます(1967年の論文です.今だと動物虐待で訴えられるかもしれません).どちらの犬もハンモックのような装置で固定されています.1群の犬は,頭の横に板があって,頭でその板をうまく押すと電気ショックを止めることができます.もう1群の犬は,何をしても電気ショックは止められず,必ず一定時間の電気ショックを受けなければいけません.

 このような実験を繰り返しますと,電気ショックを止められる犬は,何回かの失敗を経て次第に板を押せば電気ショックが止まることを理解し,電気ショックが来るとすぐに板を押すようになります.板を押せば電気ショックが止まるということを「学習」したのです.

 これに対して,電気ショックを止められない方の犬は,なぜか次第に身動きをしなくなり,電気ショックを逃れようとする行動をしなくなります.この犬は別に学習しなかったわけではありません.むしろこの犬もしっかり「学習」しているのです.すなわち,この犬は何をしても電気ショックは止められないこと,言い換えると「何をしても無駄だ」ということを学習してしまったのです.「無気力は学習される」のです.

セリグマンはこの課題に引き続いて,もうひとつの課題を行いました.犬たちはハンモックから下ろされて,今度は回避訓練箱という部屋に入れられます.部屋は犬の肩の高さの障壁で2つに仕切られていて,一方の部屋の床からは電気ショックが与えられます.犬はこの電気ショックの与えられる部屋にいるのですが,電気ショックがきたときに,障壁を乗り越えて隣の部屋にいけば電気ショックを受けずにすみます.電気ショックの来る直前には電気ショックの合図として部屋のランプがつきます.

 この課題に対して,先ほど頭で壁を押すことで電気ショックを避けられていた犬は,しばらくこの課題を経験した後,ランプが電気ショックの合図だということを「学習」して,隣に飛び移ることができます.ところが,先ほどの課題で電気ショックから逃れられなかった犬は,この課題ができません.電気ショックの来る床に座り込んで,甘んじて電気ショックを受けつづけるのです.

 この犬は,先ほどの課題で「何をしても無駄」ということを学習してしまっていました.そして次の課題が先ほどの課題とは異なった課題にも関わらず,「何をしても無駄だ」と思い込んでいるために,本当ならできるはずの課題もできないのです.つまり無気力は伝染するのです.そしてそれによってできるはずのこともできなくなってしまうのです.


 学習性無力感は,学校において「落ちこぼれ」ている子どもたちの心を非常にうまく説明すると言われているのですが,このことはスポーツ選手においても同様です.スポーツ選手では「落ちこぼれ」というよりは,度重なる怪我や長いスランプなどでやる気を失っている人の気持ちにこの「学習性無力感」があります.彼らは長い苦闘を経て,何をしても無駄だと思い込んでいる人が多いのです.私は,スポーツ選手にインタビューをすることが多いのですが,確かに無気力になってしまうのも仕方ないなと思うほど,怪我やスランプに長く悩んでいる選手もいます.しかしながら,学習性無力感の枠に絡み取られて,「何をしても無駄だ」と思っていたら,「できるはずのこともできなくなってしまう」のです.視点を変えれば,きっとまだできること,そして効果のあることはあるのです.学習性無力感の枠組みから抜け出すためには,陳腐な言葉なのですが,

「決してあきらめない」ことが大事なのです.

スポーツ選手 2つの時期の心理的ピーク

スポーツ選手 2つの時期の心理的ピーク

みなさんは岩崎恭子選手を覚えているでしょうか.14歳でバルセロナオリンピックで金メダルを取り,「今まで生きてきた中で一番幸せです」の名言を残した少女です.彼女がシドニーオリンピックの前に(その時は既に引退をしていました)ラジオに出演しており,自分が一番うれしかったことについて話していました.私は当然のごとく,バルセロナの金メダルについて話すだろうと考えていました.しかしながら彼女が本当に一番うれしかったのは,私の予想に反して,アトランタオリンピックに出場できた(結果は予選落ち)ことだと言うのです.彼女はこう続けました.

 バルセロナの金は,無我夢中でただ泳ぐことで得たメダルだった.もちろん今でもうれしい.でもアトランタへの出場は,バルセロナの後見失っていた自分の姿を取り戻し,「自分で本当に出たい」と目指した目標だった.そしてそれを自分が成し遂げることができたということが一番うれしかった,と.

 私はスポーツ選手には2つの「心理的ピーク」があると考えています.ここでの心理的ピークとはスポーツに取り組むにあたって理想的な心的状態を持てる時期のことです.

第1のピークは,おおよそ中学生から高校生頃までにあたり,甲子園やインターハイ,オリンピックなど,誰もが認める,定められた目標になんの疑問も持たず進めるときです.身体的にも成長の時期にあり,成績の向上も目覚しく,それによってモチベーションも高く保たれます.また伸び盛りですから,追われる立場ではなく追い上げる立場に立つことになりますから,自然とチャレンジ精神を持つことができます.女子選手や水泳などピーク年齢の比較的若いスポーツなどでは,岩崎選手のようにこの時期にすでに世界の頂点を極めることもままあります.第1のピークは状況とタイミングがうまくかみ合えば自然と訪れる心理的ピークと言っていいでしょう.

 第2のピークが起こる時期には,ちょうど大学生頃からそれ以降になります.この頃はちょうどアイデンティティ探求の時期と重なりますが,スポーツ選手としても自分らしさが求められる時期です.この時期までにエリート選手であれば,甲子園に出場したり,IHで優勝したりするなど,ある程度の成功を収めているでしょう.それは第1のピークの「遺産」と言ってもいいでしょう.それは年齢的に限定した成功であり,限定が解除されても,例えば「ある年」のIH優勝者という守らなければいけない立場が残ってしまい,それがプレッシャーになってしまいます(IH優勝者は毎年いるわけですから・・・,蛇足ながら阪神のドラフト1位も同じ立場かもしれません(苦笑)).そのため第1のピークでもてたような自然に起こるチャレンジ精神を持つことも難しくなります.私がかつてインタビューをした選手は,IHで入賞をするような選手だったのだが,インタビューで「あー,IHで入賞なんかしなきゃ良かった」とさえ語ったものです.

 第2のピークの時期には,第1のピークにあるような急激な身体的成長があるわけではなく,比較的緩慢な成長が続く時期になり,練習の成果が見えにくい時期でもあります.さらには自分の能力や目指す目標の限界というものが見えてくる時期でもあります.もちろん,自分で限界を決めてしまうから能力を伸ばすことができなくなるのであり,自分の限界など決めつけてはいけないということもあるのですが,だからといって,小さな子どもが夢は野球選手と自分の能力を考えずに言えるような時期でもないのです.

 この時期には,たとえ定められた目標でも自分なりの「意味」が求められます.なぜその目標を目指すのか,なぜ他の多くのことを犠牲にしてその目標を目指すのか,自分はなぜスポーツをしているのかといったある意味実存的な疑問に対して,自分なりの答えが必要になるのです.

 自分なりにこの意味を見出すことができた選手は,己の目指す目標を着実に達成するための行動を行うことが可能になります.また躓いたときにも迷ったり,落ち込んだりすることなく,自らの行動をコントロールすることが可能になります.オリンピック陸上短距離で60年ぶりの入賞を成し遂げた高野進選手の例がまさにそれを示しています.

 「一番ストレートに自分を表現する手段,それが陸上なのだということに気がついてから,彼の走るテーマは決まってきた.それ以降は肉体的なスランプがあっても,まったく動揺することがなくなったという.『走ることによって自己表現をする』という目的が定まったおかげで,自分を見失うことがなくなったからだ(山崎まどか「メンタルタフネス読本,p.170」〈朝日新聞社〉).

 高野進選手の例が示すとおり,第2のピークは自ら探しあてるものなのです.スポーツする意味は,他者に与えられるのではなく,自分で創造するものなのです.

 このような第2のピークを得ることができて,さらにそれが肉体的なピークと重なったとき,そのスポーツ選手は生涯において最高となるようなパフォーマンスを見せることが可能になります.スポーツ選手が肉体的なピークを示す年齢までに,この第2の心理的ピークを準備することは高いパフォーマンスを得るためには非常に重要なことです.

 ですが,第2のピークの意味はそれだけではありません.その意味は何よりも誰から言われることもなく,自分のためにスポーツをしているのだという「自己決定感」と「スポーツをしてきたことの本当の喜び」を感じることができるということなのです.岩崎選手が感じたのはまさにこの喜びなのでしょう.金メダルを取ったからというわけではなく,何と幸せなスポーツ選手なのだろうと思います.

指導力の土台は選手時代に作る

 夫人の脱税事件によって辞任に追い込まれてしまいましたが,前阪神監督の野村克也氏の言葉にはスポーツ心理学的に見ても含蓄のあるものが多いと感じます.彼が新しくコーチになった佐藤義則投手コーチをこんなふうに論評しています.

 (佐藤コーチは)44歳まで(現役を)やっていたのかな.彼はいろんな苦労をしてきて・・・.選手にも言うんだけど,指導力っていうのはある程度,土台は選手時代に作っているはずなんですよ.コーチになってから指導力つけようといっても,そりゃ多少はつきますけど基礎になるのは選手時代の経験が元になって指導するわけだから.選手時代に試行錯誤とか創意工夫とか,いろんなことに悩んで,こうしてみよう,ああしてみようとやって良い成績を残した人が良いコーチになる.選手時代に何の苦労もせずに親にもらった天性だけでやってる人は『名選手必ずしも名監督にならない』.

(11月8日skyA 猛虎キャンプリポート)

 教育心理学には「自己教育力」という言葉がありますが,私は,スポーツにおいて良い選手になろうと思ったら「自己指導力」が必要だと思います.ベテラン選手になると,狙った試合でよい成績を上げられることが多いのは(若い選手のように驚くほどの飛躍があることは少ないのですが),自らの体調や実力を正確に把握して,体調を上げて試合にピークを持っていくことがうまいからなのではないかと思います.

 近年はどんなスポーツでも成績のピークの高年齢化が進んでいます.水泳しかり,陸上競技しかり,メジャーリーグしかり(日本のプロ野球はどちらかというと反例の方が多いのですが).例えば,今年メジャーリーグのHR記録を作ったバリー・ボンズは36歳です.世界新で水泳オリンピック3冠のデブルーインは29歳,三段跳びの世界記録保持者,シドニー金メダルのジョナサン・エドワーズは36歳です.彼らの好成績,高記録の要因は,おそらくトレーニング科学の発展によって,肉体的な衰えを遅らせることが可能になったことが大きいと思われますが,私は単にそれだけではないと考えています.

 おそらくこれまでスポーツ選手が心理的なピークを得ることができるようになるときには,既に肉体的なピークを過ぎていたのでしょう.それが肉体的ピークをトレーニングによって遅らせることができるようになり,心理的なピークと肉体的ピークを合わせることが可能になったのでしょう.でなければこれまでならとっくに引退しているだろう年齢において「新記録」を出せることはないのです.

 自己指導力は長い経験を持つことになるベテランであれば少しずつ身に着けることができる力でしょうが,また様々な試行錯誤や経験や思索を通してより早期に持つことも可能ではないかと思います.私の研究では,スランプのときの試行錯誤はスポーツ選手を大きく成長させることが分かっています.心と身体を最高の状態にして戦うためには,正しいか学的トレーニングを知ることで肉体的ピークを保つこと,そして自己指導力を身に付けることによって心理的ピークの早期化を目指すことが必要なのではないかと思います.

やる気を出すコツ -根性出し惜しみの法則-

 スポーツニュースなどを見ると,超一流選手がハードなトレーニングをしている姿が映し出されます.先日もニュースステーションでスケートの岡崎朋美選手のトレーニングが放送され,そのトレーニングのハードさをキャスター氏(ご存知久米宏氏)が,こんな言葉とともに大げさに感嘆していました.「なんであんなハードなトレーニングができるんでしょうね?まるで修行僧ですね・・・」

 でもスポーツ選手であるあなたは勘違いしてはいけません.自分がハードなトレーニングをするためにはもっと頑張らないといけないとは思ってはいけないのです.なぜなら,

一流選手は頑張っていないからです.

 一流選手は実は頑張ってはいないのです.もちろん,普通の人であればとてもできないようなハードなトレーニングをしています.でもそんなハードなトレーニングを,一流選手は頑張らなくとも,高いモチベーションを持ってできているのです.

 ちょっと汚いけれど,(ハードなトレーニングをするための)やる気は「うんこ」みたいなものです.頑張っても出ないものは出ないのです.そして,頑張りすぎると「キレ」たりします(笑).バーンアウトやドロップアウトしてしまった選手には多く,がむしゃらに頑張って結果が出ず,「キレて」無気力になってしまうというプロセスが存在します.「キレ」ないために,うんこもやる気もどちらも頑張らず自然と出るような心構え・生活作り・環境作りが大事なのです.

 「根性」は出しつづけてはいけないのです.根性は本当に出さなければいけないときだけ出すものなのです.私自身このことを,かつて(がんばってやる気を出そうとして)無気力になってしまった自己への反省を込めて「根性出し惜しみの法則」と名付けて,実践しています.

 ちなみに頑張って出すやる気,自然と出るやる気の性質の違いは,達成動機づけの性質の違いとして心理学的にも問題にされています.このことはまた別項で説明しようと思います.

ライバルのいる喜び

  先日(1月17日)に行われた都道府県対抗男子駅伝でのことです.第1区7kmの高校生区間は,ハイペースで引っ張る福岡と中盤から追い上げてきた岐阜との一騎打ちになりました.ラスト1kmから逃げる岐阜に対して必死に粘った福岡でしたが,わずかにとどかず区間2位でタスキ渡しを終えました.その後のほんのわずかの出来事です.

 タスキ渡しを終えた福岡の選手が,先にゴールしていた岐阜の選手のところに走り終えたそのままの勢いで駆け寄り,「ハイタッチ」したのです.もちろん,野球でしばしば見られるハイタッチのように二人は味方同士ではありませんから,はじめからそんなことをしようとは考えていなかったでしょう.実際,その動作は自然で,福岡の選手がゴールしてふと目に入った岐阜の選手に自然と手を上げ,それにすかさず岐阜の選手が応じたように見えました.

 私はその瞬間にスポーツで得られるものすべてが凝縮されているように思いました.自分の走りができた満足感,上位でタスキを渡すという自分の役割を果たせた安ど感,ライバル同士良いレースができたという充実感と,そして連帯感.そう,ゴールしたまさにその瞬間,二人は敵同士から,同じ戦いを戦い抜いた仲間へと変わったのです.だからこそ,ごく自然にハイタッチという動作になったのでしょう.「ちくしょう,強いな.でも今度は負けないぜ」.その後,きっとこんな会話が打ち解けた二人の間に交わされただろうと思います.

 動機づけ研究の著名な研究者であるワイナーは,高い達成行動を保つために,人との関係の中で生み出されるやる気が重要であると言っています.ライバルとの連帯感は,それ自体喜びであると同時に,高いやる気をもたらしてくれるものなのです.

目標設定のメリットとデメリット

 スポーツ選手でメンタルトレーニングに興味を持っている人はきっと多いことでしょう.思うように成績が上がらない人,試合で実力発揮が十分できないと思っている人,きつい練習にストレスを感じている人など,心理面の強化をしたい人はきっと多いと思います.では,メンタルトレーニングをしたいと思ったとき,いったいどこから手をつけたらよいのでしょう?

 近くに指導者がいれば,その人に指導を受けるのもよいでしょう.日本スポーツ心理学会では,スポーツメンタルトレーニング指導士の資格認定をはじめていますから,そのような資格を持った人にアドバイスを受けるのもよいでしょう.

 しかしながら,近くに指導者がいない場合,とりあえず自己流でも心理面を強化したいという場合はどうしたらいいでしょうか?メンタルトレーニングでは,リラクセーショントレーニングやイメージトレーニングなどがありますが,これらはやはりある程度の技術が必要で,指導者なしではなかなかうまくいかないものです.

  私はメンタルトレーニングにおいて一番大事なのは,目標設定だと思います.多くのメンタルトレーニングプログラムではほとんど目標設定のプログラムが入っていますが,これが個人で行うメンタルトレーニングで一番初めに手をつけるべきものではないかと思います.

 ただし目標設定には,やる気をもたらしてくれるメリットと,逆にやる気を失わせてしまうデメリットがあります.

明確な目標設定のメリット

 明確な目標設定があれば,普段の練習にもやる気を持つことができますし(それによってよい成績を上げるための身体の土台を作ることができる),ピーキング(試合に向けて体調をベストに持っていくこと)も可能になります.多くのスポーツ選手を見ると,体調をピークに持っていけるのはどうも年2回程度ではないかと私は思うのですが,明確な目標設定を持っていない選手は,すべての試合でベストを尽くそうとして,結局大事な試合にピークをあわせられず,実力が発揮できないと嘆いていることが多いのです.

明確な目標設定のデメリット

 目標設定は,スポーツ選手にやる気をもたらしてくれる重要なファクターなのですが,それには落とし穴もあることを認識することが大事です.それが分不相応,つまり自分の実力とあまりにかけ離れた目標である場合は,その目標はやる気をもたらしてくれず,むしろやる気を妨げるように働くかもしれないということです.例えば私は県の下部大会レベルでしたが,インターハイ出場という目標は私にやる気をもたらしてくれませんでした.またかつて私がインタビューしたやる気を失ってしまっているスポーツ選手も,狙う試合といった目標はあるにもかかわらず,それに向けた努力ができず,逆に目標がプレッシャーとなってやる気を失っていることが多かったのです.

目標設定のデメリットを緩和するために

 目標設定では,大事な試合を決めるだけでなく,その目標を達成するための下位目標を設定することも大切です.目標は当然自分にとってある程度高いものになりますから,簡単にはたどり着かない山頂のようなものです.いきなり山頂にたどり着くことはできませんから,たどり着くまでの下位目標を設定しておくことが大事なのです.

 目指す試合に向けてトレーニングが順調でなかったり,体調が上がっていかないときには,下位目標の柔軟な変更も必要になります.順調であれば次第に近くなる山頂が目標となってやる気もあがりますが,体調が上がらないときには,山頂への道のりは急な絶壁になりますから,目標達成がプレッシャーとなります.そういうときには,下位目標を今日の練習をなんとかこなすとか,かつてのマラソン選手が行っていたように次の電柱まで走る,などのように日々達成を感じられるものにするとよいでしょう.やはり重要なのは,日々の鍛錬なのですから.

目標設定で本当に大事なこと

 目標設定において本当に大事なのは,それが日々の練習のやる気をもたらしてくれるかどうかです.あたりまえのようかもしれませんが,明確な目標(オリンピック,インターハイ,甲子園etc)にとらわれ過ぎて,やる気を失ってしまっている人は多いのです.自分の目標が現時点の自分にやる気をもたらしてくれているのか,もう一度考え直して見る必要があるでしょう.そしてそれがやる気を失わせるものであったら,柔軟に目標設定を変えるべきでしょう.間違ってはいけないのは,そうやって目標を変えることは,

決して目標をあきらめると言うことではないということです.

本当に大事なのは,目標がやる気をもたらしてくれることであり,単に高い目標をもつことではないのです.

 リセットしたときの強さ

 プロ野球でカムバック賞を取った三人の投手について話したいと思います.阪神の遠山投手,成本投手,近鉄の盛田投手です.彼らに共通するのは,図太い,失敗を恐れない気持ちであり,スポーツをする喜びを感じていることです.

 いったいなぜ彼らにはそれが可能なのでしょう.(個人的には阪神ファンなので,他の阪神の選手にも見習わせたいのですが・・・)

 彼らに共通するのは,故障やケガなどで自由契約になって,野球を行うことができなくなるかもしれないという立場に置かれたことです.盛田投手にいたっては脳腫瘍による死の恐怖さえも味わったかもしれません.

 かつて私がスポーツ選手としての転機を調査したときにも非常に印象的な記述がありました.

 「スランプや人間関係の悩みですべてがイヤになり,競技をやめようと思った.必死に自分だけあがいている気持ちがして,今度は開き直った.それによって今までとは違い,1本1本,1日1日を大切にするようになった.いままで競技をなんとなく続けていたが,友人が事故で足を切断したことで,自分が五体満足であることの大切さ,喜びを感じることができた.つまり泳ぐことが,あの幼いときのように楽しいと感じることができるようになったのである.今は初心の心をもって泳ぐこともできて,かなり集中力もあるはずである」

 彼らが経験したのは,一種の臨死体験なのです.それはいわば「選手生命の臨死体験」です.それによって彼らは(スポーツ選手として)生きている喜び,体を動かせることの喜びを感じ,失敗を恐れる気持ちや練習を嫌う気持ちを吹き飛ばしてしまっているのです.

 それは,ちょうど子どもが体を動かすときのような(どうして子供はいつも走っているんだろう・・・),小学生や中学生のころ,ただうまくなりたいためにスポーツをしていたころの気持ちと同じではないかと思います.

 彼らはある意味,生まれ変わっているのです.それまでの実績や栄光などのスポーツ選手としての履歴をリセットすることによって,新たな喜び(子供のころ感じていた)を感じているのです.

 それまでの実績は,スポーツ選手にとってのアイデンティティであって,自信ややる気をもたらす素なのですが,時にそれはスポーツ選手のやる気を失わせる呪縛ともなってしまうのです.

「捨ててこそ浮かぶ瀬もあり最上川」という言葉もあります.過去の栄光のプレッシャーに苦しんでいる人.昔のような結果が出ないと悩んでいる人.あなたも過去の好成績をリセットして,生まれ変わってみませんか?子供だったころに戻ってみませんか?

 歯を磨くように,お風呂に入るようにトレーニングに取り組む

 表題は,私が考える「根性出し惜しみの法則」すなわち「やる気を出さなくてもハードなトレーニングをするコツ」のひとつです.

 私はスポーツ選手が競技に取り組むためには,「競技をどう『生活』と『人生』の中に位置付けるか,が重要だと思っています.ここでは「競技をどう生活に位置付けるか」について書きたいと思います.

 「競技をどう生活に位置付けるか」というのは,毎日の生活の中にいかに規則正しくトレーニングを位置付けるかです.不規則な時間でのトレーニングや日によってムラのあるトレーニングは十分な効果をもたらしません.規則正しく計画されたメリハリのある(ムラではなく)トレーニングによって体調がアップし,目指す試合に力を発揮できるようになるのです.

 「そんなことを言ってもチームの練習時間は決まっているし!」という人がいるかもしれません.いやむしろそういう人の方が多いでしょう.もちろんそのような人はその練習に参加すれば,規則正しい時間にトレーニングできるかもしれません.しかしながら,大事なのは規則正しい時間にトレーニングをすることではありません.本当に大事なのは決まった練習時間にトレーニングしよう,という気持ちを自然にもてるかどうかなのです.

 たとえ決まった時間にトレーニングをしようと,「あー今日も朝練か,起きるのしんどいな~」とか「最近ぜんぜん遊んでいないわ,練習サボって遊びに行きたいわ」などいつも思っていたら,トレーニングにも身が入りませんし,そんなことを考えてトレーニングをしていたら,いつかトレーニングがイヤになってしまうことは確実です.かといって,毎日トレーニング前にやる気を振り絞ってハードなトレーニングをしていたら,いつか「やる気がキレて」,燃え尽き症候群になってしまうことでしょう.

 トレーニングの時間に,できるだけ自然にやる気を出すことが大事なのです.いや,「さあやるぞ」とも思わず,自然にトレーニングに入っていけることが必要なのです.例えば,私たちは毎日歯を磨いたり,お風呂に入ったりします.そのとき,「さあやる気を出して歯を磨くぞ」とか「気合を入れてお風呂に入るぞ」なんて思ったりしないでしょう.なぜなら,それらは生活の一部として位置付けられているからなのです.

 歯を磨いたり,お風呂に入ったりするようにトレーニングに取り組む

これがやる気を出さずにハードなトレーニングに取り組むコツなのです.

ちなみにこれが本当の意味でできるようになるためには,「競技を『人生』の中にどう位置付けるか」が問題になるのですが,これは項を変えて書きたいと思います.

 果てなく続くストーリー

 クラブをやめたいと言って来る学生が時々います.多くの者は,記録や技術が伸びないとか,かつてより弱くなってしまった,ということを訴え,もうやっても仕方がないから,と言います.彼らはそれまで持っていた目標を達成できなくなり,競技を続ける「意味」を見失ってしまっているのです.

  彼らがやめたい気持ちになるのも良くわかります.私自身,度重なるケガと体調不良で全くやる気を失ってしまった経験があるからです.私たちは,意味や目的・目標を失ってしまった行動を続けることは非常に難しいのです.


デカスリート(10種競技)MnbさんのHPに「2880時間」という文章があります.これは彼が大学4年間で練習に費やした時間だそうです.彼はこのように言います.


練習は約3時間.一週間に直すと15時間,一ヶ月で60時間,一年で720時間,大学4年間のうち2880時間もの間を競技に費やしている.睡眠を除いた,大学での実働時間の約8分の1を競技につぎ込んでいるのだ.それだけの時間をつぎ込む必要のあるものに情熱がないのであれば,すぐにでも他にあたったほうがいだろう.そのほうが間違いなく自分のためになる.


 実際どんな人でも,2880時間の意味のない行動などとても続けていくことができないでしょう.いや続けていくことは非人間的ですらあるだろうと思います.彼らに必要なのは,新しい「競技を続ける意味」なのです.


 そこで,やめたいと言って来た人に対して,私はいつも「しばらくやめるのは待ってみて.自分にとって『競技を続ける意味』を考えてみて」と言うことにしています.


 おそらく彼らにとって,それまでの競技を続ける意味は,人より良い成績を上げるためだったり,ある大会で勝つことだったり,浅い意味しかもたないものだったはずです.もちろんその意味自体は全く否定すべきことではありません.ただ,それらの意味が満たされなくなり,競技を続ける力にならなくなっている今や,より深い意味が求められているのです.それは単にある大会で勝つこととか,良い記録を出すとかではなく,自分の人生における競技の意味を考えることです.言い換えれば,自分の人生の中での競技の位置付けを考えることです.


 近年,生涯発達心理学や社会学のライフヒストリー研究において,人生を物語としてとらえる考え方が広がっています.人は,自分自身や自分の人生を物語としてとらえ,その筋にしたがって行動し,生きるというのです.


人生の中での競技の位置付けを考えるということは,今スポーツをしていることが,これから果てしなく続く人生という物語の中でどんな意味を持つのかを考えるということです.


 アルベールビルオリンピックのスケルトンの越選手は,自分のオリンピックを振り返って,「生涯の思い出(lifelong memory)になりました」というコメントを残しました.このコメントの意味は,単なる8位入賞というオリンピックの結果の思い出ということではなく,彼が続けてきたスケルトンという競技の,人生における位置付けであろうと思います.


 もちろん,簡単には競技をする意味は見出せないかもしれません.それまで持ってきた競技の意味ではやっていけなくなって,やめたくなっているのですから.しかしながら,視点を変えて人生というより長いスパンで競技する意味をゆっくりと考えたなら,単に良い成績を上げることだけではない,単に一番になるだけでない,もっと深い意味を見出せるはずです.そしてそこに意味を見出すことが,スポーツ選手としての成長であり,スポーツを続けることによる人間としての成長なのです.つまり,


やめたいと思うときこそ,スポーツ選手として,人間として成長する機会なのです.

付け刃(つけやいば)は面白い

 「付け刃は面白い.」

 これは私があるスポーツ選手にインタビューしたときに彼が語った言葉です.


 彼は試合で全く緊張したり,不安になったりしないと言いました.私は,


「そんなこと言っても,いつでもベストコンディションで試合を迎えられるわけではないよね.十分なトレーニングができていないときなんかは不安になるんじゃない?」と聞いてみました.


それに対して彼は,「いやそのときでも別に不安は感じませんね.そのときの自分の体調でどのくらいできるか,それが楽しみなんですよ.付け刃は面白いんですよ」と答えたのです.


 私はいたく感心してしまいました.スポーツ選手はそれぞれ高い目標や理想を持っているものですが,それらは動機づけの基になると同時に,理想と現実が遠くかけ離れているときには,大きな不安の基にもなってしまいます.そのような不安をなくすためには,


理想という未来に向けた視点を持ちつつ,「now and here」すなわち「今ここ」を大事にすること


が必要なのですが,それを彼自身の言葉で実現していたことに感心したのです.


 彼はその後,インカレで優勝を成し遂げていますが,それは彼の動じない現在に向けた視点のおかげではなかったかと思うのです

無垢への回帰

昨日TVで,ジュビロ磐田の藤田俊哉選手がインタビューを受けていました.前日に代表候補の紅白戦があり,そのプレイの話や,(おそらく)当落線上ぎりぎりの立場にいる自分の立場について思うことなどが語れていたのですが,そのインタビューの中で非常に印象的だったのが,彼が何度も言い方を変えて

「サッカーは楽しいです」「やってて楽しいですね」「それは子どものころから変わりませんね」

という意味のことを言っていたことです.そのインタビューでは奥さんも出てきていたのですが(関係ないですが,美人でした),彼女も,「もちろんワールドカップにも出られたらいいですけど,ワールドカップでもリーグ戦でも,

1年間ケガをせず,楽しくサッカーを続けてもらえたらいいです」

と言っていました.

 藤田選手は前回のワールドカップでも代表候補になったのですが,結局選ばれず,今回も同じような立場にあり,いろいろと考えることはあったはずです(「うらやましい」という言葉をインタビューでは使っていました.これもいい言葉です).しかしながら,彼がJリーグという常に結果を求められるプレッシャーの中でハードなプレーをこなし,4年たって再び代表候補になるまで実力を保っているのは,彼が常に「サッカーは楽しい」という気持ちをもっているからではないかと思うのです.


 藤田選手はもうベテランと言ってもいい年齢(30歳)です.私はたくさんのスポーツ選手を見てきて,ベテランになるとプレーする気持ちの中に「単にすることが楽しい」といった童心に返る特徴があることに気づいています.


バルセロナオリンピック陸上400mで,31歳で8位入賞を果たした高野進選手は,肉体的なピークを過ぎているという年齢的なプレッシャーに対して,「でも自分は全然,精神的な老いというのは感じなかった.自分はどこまでいけるんだろう,というワクワクした感じがあった」(山崎まどか「メンタルタフネス読本,p.170」〈朝日新聞社〉)と述べています.こういう気持ちは子どもや中学生位の年齢の時には簡単にもてる気持ちなのですが,そのような気持ちは,時に高いモチベーションを保っているベテランにも見られるのです.


 高橋尚子選手のコーチである小出監督がマラソンを「かけっこ」と言い,「かけっこは楽しいなあ」「Qちゃん(高橋選手の愛称.入部歓迎会のときに,おばけのQ太郎のかぶりものの芸をしたことからついたと言われています)はかけっこが大好きなんだよ」と独特の口調でいうのも,子どもの頃の新鮮な気持ちを忘れさせないためではないかと思うのです.


 私にも子どもがいますが,小さい子は本当に楽しそうに「かけっこ」をします.作者を忘れてしまいましたが,「私たちはいつから子どもみたいに走らなくなっちゃったんだろう」と大人になったさびしさを書いた人もいました.


 高い目標に向かう気持ちも,人よりも秀でたいという欲も,絶対に勝つという強い気持ちも,強くなるためには絶対に必要なことですが,

時には体を動かすだけで楽しかった無垢な子どもの頃の気持ちに戻ることも,

厳しいトレーニングを続けていくための,そしてスポーツ選手として生きていくための

エネルギーの源ではないか,と思います.

気づくということ

 かつて私がスポーツ選手の「危機」について調べたときのことです.その調査では,ケガやスランプ,実力が発揮できないなど,スポーツ選手がしばしば抱える様々な悩みを経験したかどうかを調べ,さらにその経験によってスポーツ選手としての自分の考え方が変わったかどうか,変わったとしたらどのように変わったかを調べたのですが,そこで非常に対照的なことを書いていた2人の選手がいました.

 ひとりは,「試合で緊張してしまって,なかなか自分の実力が出せない」という悩みを抱えていた選手でしたが,あるとき,「勝ち負けにこだわることなく,自分の実力を出せばいいんだ」ということに気づいて,それからあまり緊張しなくなり,試合でも力を出せるようになった,ということを書いていました.そうやって考えることで危機を乗り越えたわけです.

 もうひとりの選手は,自分の経験した危機として,陸上のインターハイの最終予選の地区大会で,7位!で敗れたことを挙げていました(ご承知の方も多いと思いますが,インターハイは地区予選の6位までの選手が参加できるのです).その経験を通して,彼は「それまでは試合で自分の力が出し切ればいい,他の人は関係ない」と思っていたが,それからは「勝たなければ意味がない,何が何でも勝とうとする執念が大切なんだ」と思うようになり,そう考えることで「一段と競技に取り組むようになった」ということを書いていたのです.


私はこの2つの記述を読んで頭を抱えてしまいました.いったいどっちやねん!?「勝つと思うな,思わば負けよ~♪」なのか?「勝つという気持ちが一番強いものが勝つ!」のか?と.


 このことについては3~4年も悩んだでしょうか?でも次第に分かってきたのは,それぞれの選手には,それぞれそのような心理になる必然性があり,大事なのは自分にとって何が大事なのかに気づくことだということでした.

 「勝ち負けにこだわらない」と考えた選手は,「勝ち負けにこだわりすぎて,自分のプレイに集中できず,実力が出せていない」ことに気づくことによって,自分が実力を出すためには,「勝ち負けにはこだわらない」ということが大事だということを学んだのです.


逆に「何が何でも勝とうとする執念が大事なんだ」と考えた選手は,「自分のベストの力を出せればいい」ということが甘えにつながっていたことに気づいたのでしょう.そしてそれに気づくことによって,自らの力を最大限に発揮するためには「勝利への執念」が大事だということを学んだのです.


結局,どのような心のありようになるのかは問題ではないのです.人によって,勝つために,実力を発揮するための心理状態は異なるのです.大事なのは,一人ひとりの選手が現在の自分にとって何がベストの心理状態であるのかに気づくことなのです.そしてそういう


気づきを重ねることで,スポーツ選手は100%の力を出せるように成長していくのです.

燃え尽き症候群 -何が燃え尽きてしまったのか?-

-すべてのトップ選手へ-

知り合いの大学スポーツの監督さんに聞いた話です.彼の見ているチームでは,スポーツ推薦で選手を取るときに,トップを取った選手やよりも,県で2位や3位など,もう少しでトップを取れなかったチームの,才能のありそうな選手を取るのだそうです.トップを取れなかった選手は大学に入ってから良く伸びるのだそうです.それに対して,トップを取ってしまった選手は,大学に入ってからあまり伸びないのだそうです.いわく,「彼らは燃え尽きてしまっているのだ」そうです.

 

 心理学的な観点から正確に言えば,彼らはまだ燃え尽きているわけではありません.心理学では,バーンアウト症候群(燃え尽き症候群)という概念がありますが,これはスポーツ選手や看護婦や教師などヒューマンサービスの仕事に携わる人が,懸命な努力にもかかわらず,度重なる失敗や報われない結果が続くことによって肉体的・精神的に疲弊し,無気力になってしまったり,ドロップアウトしてしまったりすることを指します.彼ら(トップを取った選手たち)は,大学に入った時点ではむしろ成功者であり,努力が報われた人たちなわけで,その意味で,燃え尽き症候群にはあてはまらないのです.


おそらく監督さんは,トップを取った選手がしばしば大学に入ってから気力を失ってしまいがちなこと,そのために伸びないことが多いことを経験的に知っていて,そこからトップの選手は入部してくるときにすでに「燃え尽きてしまっているのだ」と言ったのでしょう.


私は監督さんの言葉を聞いて,これまで自分自身が見聞きした経験とも合致していたこともあり,妙に納得してしまったのですが,後でふと「彼らはいったい何が燃え尽きてしまっているのだろう?」と考えることになりました.


 この答えを考えるにあたって少しわき道にそれたいと思います.心理学では伝統的に「自己論」の研究というものが行われてきました.自己論とはつまりは「自己とは何か?」ということを問題にする学問です.そこで近年,優勢になってきた考え方が「自己とは物語である」という考え方です.私たちは,自分自身や自分のこれまでの人生を自分を主人公にした物語のような形で認識し,そしてその物語の筋に従うように行動し,生きるのです.例えば,チェッカーズの「ギザギザハートの子守唄」という歌は,こんなフレーズではじまります.


「ちっちゃなころから悪がきで,15で不良と呼ばれたよ.ナイフみたいにとがっては,触るものみな傷つけた」


これは「物語自己」の典型と言えます.彼は自分のことをこのフレーズのように物語り,そしてこのフレーズのように行動し,生きているのです(彼が変わらない限り).


人は自分を主人公にして様々な「物語を生きています」.その人がどのような物語を生きるかによって,行動へのエネルギーも変わってきます.ある選手は,高校時代にトップを取れなかったことを悔いて,大学こそトップを取るんだという成長の物語を生きています.ある者は,高校でトップを取って,大学でもトップを取ろうとしますが,なかなか結果が出ず,昔は強かったけれど・・・といった衰退の物語を生きています.


物語自己の観点から考えると,トップを取った選手が「燃え尽きている」のは,選手にエネルギーを与えてくれる物語のネタ(筋書き)なのです.これまでトップを取ったことのない選手は,ごく自然に自らを成長させて,トップを取る物語を生きることができ,その物語を生きることによってトップを目指すための行動のエネルギーを得ます.たとえいくつかの試合で失敗したとしても,それらは最終的にトップに立つための途中の筋書きとして認識することができ,それ自体トップに向かうためのエネルギーとなる出来事となるのです.それに対して,すでにトップを取ってしまった選手は,再びトップに立つ,もしくはより高い目標を成し遂げるという非常に限られた物語を生きるしかなくなってしまっています.そのような物語が達成できればいいのですが,筋書き通りいかない場合(結果が出ない場合)には,容易にトップから転落してしまったという物語になってしまうのです.つまり,一度トップに立った選手には,(意識しない限り)非常に限られた物語の形しか生きることができないために,それが燃え尽き症候群の原因となってしまうのです.


しかしながら,です.


 物語自己という考え方が優勢になってきたのには,物語としての自己が変わりうる性質を持つからです.物語自己という考え方が早く取り入れられたのは,臨床心理学(特に家族療法)の分野です.物語として自己を捉えることで,問題を抱えた人とは問題のある物語を生きている人であり,「カウンセリングとは,その人の問題のある自己物語をカウンセリングを通して語り直すことによって,その人がよりよく生きられる物語を作っていくことだ」という,カウンセリングの概念化と治療目標の具体化が可能だったからです.


 確かにトップを取った人の物語の筋書きは限られています.彼にエネルギーを与えてくれる物語のネタ(筋書きのバージョン)は,何も考えなければ,再びトップを取る物語しかないでしょう.しかしながら,実はエネルギーを与えてくれる物語には,再びトップを取る物語「しかない」わけではありません.例えば,再起不能に近いようなケガから復活する物語を生きる選手もいます.かつてのような力は発揮できなくとも,現在の自分の力で精一杯プレイすることに喜びを感じる選手もいます.引退する前に最後の花道を飾ろうとする選手もいます.


 トップに立った選手が新たな物語を作るのは非常に困難な心的作業に違いありません.だからこそ多くの選手がドロップアウトしてしまうのです.しかしながら,私たちは運命のように決められた物語しか生きられないわけではありません.私たちは自分の人生の物語を創造することができるのです.トップに立った選手は,より高いレベルでのプレイを求められると同時に,より深い人生の物語の創造活動を求められている心理的なチャレンジャーなのです.


だから,おりてはいけないのです.あきらめてはいけないのです.燃え尽きてしまいそうな物語の筋書きを新たに燃やす物語を創造するのです.これはすべてのトップ選手へのメッセージです.

メンタルトレーニングは万能ではない

 いまさら言うのも当然過ぎるかもしれませんが,私がこの読むメンタルトレーニングを書いているのは,「スポーツ選手の競技成績はメンタル的側面に大きく左右される」と思っているからです.例えば,ハードなトレーニングをするためには,十分なやる気としっかりとした目標設定が必要になるでしょうし,試合で実力を出すためには,不安や緊張のコントロールやリラクセーションの技術が必要になるでしょう.また,ケガや故障をした時の不安などをコントロールするのも重要なメンタル的側面の技能です.これがしっかりできないとバーンアウトやドロップアウトにつながってしまうのです.

 

 これらのことに異論を唱える人はおそらくほとんどいないでしょう.多くのスポーツ選手は自分の競技力を上げるために,メンタル面での強化が必要だと考えているだろうと思います.


 しかしながら私は,

過度にメンタル面に「原因」を求めることは非常に危険である

と思っています.


 私は,かつて高校時代にいわゆるバーンアウトのような状態に陥ったときがありました.私は陸上競技の長距離だったのですが,練習しても試合で結果が出ず,へたをするとどんどん遅くなるほどの状態になり,当然練習に対してやる気が出ず,日常生活にも支障が出るくらい心理的にも非常に落ち込んで,「なんで自分はこんなにやる気が無いんだろう?人間的にダメなんじゃないのか?」など思い悩んだことがあったのです.実は,それがきっかけとなって,心理学の道に進んだのですが・・・・




結局,貧血だったのです.


 長距離選手がよく陥る症状で,赤血球数が減少して,酸素が十分に筋肉に運べず,競技力の大幅減少が起こるのです.たちの悪いことに,貧血では脳にも十分な酸素が行かなくなりますから(脳は非常に多くの酸素を必要とする器官です),やる気の減退や鬱に近い症状まで出てしまうのです.私は貧血の「結果」のやる気減退を,競技力減少の「原因」と考えてしまっていたのです.そしてそのために結局その問題を解決できなかったのです(私の高校時代のベスト記録はすべて高校1年のものでした).


 成績不振や不調の原因が,生理学的なものなのか,心理的なものなのかを正しく認識しなければ,どんなに「メンタルトレーニング」をしても意味が無いですし,むしろ逆効果になってしまうでしょう.なぜなら,正しく原因を把握しなければ,どんなに解決に努力しても結果が出ないのですから,(学習性無力感で示されるように)よりやる気を失ってしまう事態に陥ってしまうのです(私の上記の例がまさにそうでした).


 心理学の専門家としては,自分が専門とするメンタル面から選手を助けたいという気持ちも強いのですが,過度にメンタル面を強調したくもありません.メンタルトレーニングは万能ではないのです.心理学の専門家だからこそ,メンタルトレーニングで出来ることと出来ないことの区別は明確にしていきたいと思っています.


 選手としても,メンタルトレーニングに過度に期待することなく,冷静かつ科学的に自分の問題(の原因)を認識し,身体的・心理的に適切な対処を行うことこそ,本当に必要なメンタル面での姿勢だと思います.

勇気ある撤退 -知識こそ力である-

 逆説的な話になりますが,私はメンタル面の強化のためには,心理学的な知識ももちろんですが,生理学的な知識が大いに必要だと思っています.


 強くなるためには,ハードなトレーニングをコンスタントに続ける必要がありますが,トップレベルになればなるほど,ハードなトレーニングにはオーバートレーニングやケガ,故障などの危険性が伴います.強くなるためのトレーニングとして最適なのは,ケガや故障をしないぎりぎりの高いレベルでのハードトレーニングなのです.陸上長距離のトレーニング理論として著名なアーサー・リディアードは,このことを「鍛えよ,だが無理をするな」と的確に表現しています.


 実はハードなトレーニングをする事自体は難しくありません.難しいのは,ハードトレーニングを続けることなのです.私のかつて所属していたクラブでは,「発作練」という言葉がありました(笑).思い立ったようにハードなトレーニングをして,体調を崩したり,故障をしたりして,結局長く続かないことから,こんな呼び方がなされたのです.


 ハードなトレーニングを続けるためには,実は休養が重要な意味を持ちます.オーバートレーニングの兆候を見逃さず,練習量をコントロールし,休むべき時に休むことで,自分が出来るぎりぎりの高いレベルのトレーニングを保つことができるのです.


 しかしながら,この休むことがまた難しい(だからハードトレーニングを続けるのが難しい)のです.休むためには,もっとハードなトレーニングをしなければ強くならないのではといった疑問や休んで体力が落ちるんではないかという不安に打ち勝つ勇気が必要なのです.そして,その休む勇気を持つために,生理学的な知識が大きな助けになるのです.


 例えば,肉離れの完治には約40日が必要と言われます(向井,月間陸上2002年4月号,講談社).それだけの期間,休むには非常な勇気がいるでしょう.また例えば,オーバートレーニングには体重の減少,不眠,鬱(にともなうやる気の低下)など特有の症状があります.これらのことについて知識を持っていない場合,休む不安に駆られてトレーニングを早く再開させてしまい肉離れの再発を繰り返したり,オーバートレーニングに陥って結果的にハードなトレーニングを続けられなくなったり,さらにはオーバートレーニングによる心理的な落ち込みを繰り返すことにより,バーンアウト(燃え尽き症候群)によって競技を止めてしまうことさえありうるでしょう.


 生理学的な知識を持つことによって,不安に駆られたトレーニングをせずにすみ,適切な時に適切な休み方ができるようになります.休むことは,ハードなトレーニングを続け,練習のための練習でなく,実を得る(良い成績を得る)ための「勇気ある撤退」であり,そのためには,休む不安をコントロールする生理学的な知識が必要なのです.つまり,生理学的な知識が心理学的な不安をコントロールするのに役に立つのです.


 蛇足ながら,その知識は単なる学問的な知識ではなく,自分の身体の経験に裏打ちされたものである必要があります.つまり,生理学的な知識を消化して,自分の身体と心についての知識になっている必要があるのです.知識は自分を知るための武器でもあるのです.

なぜ試合で不安になる?

 かつて私が,やる気(専門的には達成動機といいます)と競技不安(試合で不安になってしまい実力が発揮できないこと)との関係を調べたときのことです.これまでの多くの研究では,競技能力の高い人はやる気も高く,競技不安も低いという結果が見られていたのですが(当たり前ですよね),この調査では,それとは微妙に異なる興味深い結果が見られたのです.すなわち,

自分の競技能力が低いと思っている選手では,やる気が高いほうが競技不安が高いのに対して,

競技能力があると思っている選手では,やる気が低いほうが競技不安が高いという結果が見られたのです.


 競技能力が低い人の不安は,いわばやる気の表れです.目標を達成したい,勝ちたいという気持ちがあれば,緊張して不安になるのも当然なのです.自信を持てばいいんだよ,と言われても,例えば競技歴が浅いなど能力的にまだ十分でない場合には,「自信を持て」と言うのも無理な相談でしょう.むしろ,今の自分の能力なら緊張するのが当然,不安になるのが当然と「開き直って」受け止めるべきものでしょう.


 逆に能力の高い人で,やる気が出ず,緊張してしまう人の場合です.これは競技不安の問題ではなく,むしろ動機づけの問題です.この場合には,やる気が無い→試合に対する練習・準備が十分でない→その結果不安・緊張が高まる,という図式になっていると思われます.ここで考えるべきことは,どうやって競技不安を減少させるかではなく,どうやって動機づけを回復させるかでしょう.

 能力が高いにも関わらず,やる気を失って競技不安を高めている人は,推測するに,かつて良い成績を上げていたが,様々な原因,例えば故障やケガ,目標の喪失などで,やる気と成績を低下させている者ではないかと思われます.自分は能力が高いはず,ということがプレッシャーとなって不安を高め,結果的に(現在持っている)実力発揮すらできなくなっているのです.


 競技不安は,能力の高い人も低い人も,「過去」や「理想」といった,「今の自分」とはかけ離れたところを見すぎていることから起こっています.競い技能力の低い者は,「目標」を達成したいという気持ちが強すぎて不安になっていますし,競技能力の高い者は,「過去」におさめてきたような良い成績が挙げられないのではないかということで不安になっています.


 確かに高い目標を持つことだったり,これまでの成功に基づいたプライドを持つことだったりは,競技に対する姿勢としてとても大切なことではあるのですが,それにとらわれすぎて「今の自分」を見失ってはだめだと思います.


 (かつて良い成績であった)過去や(自分がこうなりたいと思っている)理想にとらわれることなく,「今」の自分をしっかり見つめることで,不安を感じることなく,チャレンジ精神を発揮して,自分の「今」持っている実力を発揮することができるのです.


スタートラインはいつも「今の自分」なのです

終末をどのように迎えるか(QOAL)

昨年,陸上女子の二瓶秀子選手(現職の小学校教員であり,大学院生であり,妻である,という30歳の選手です)は,現役を引退すると決めてから,100mの日本新記録11秒36を打ち立てました.


彼女は,「せっかく記録を出せたのだからもっとがんばったら?」という質問に対して,「最後だからがんばれた」とコメントしています.


でも,いったいなぜ最後だからがんばれたのでしょう?


私たちは普段,様々な迷いを持ちながらトレーニングをしています.このトレーニングでいいのか,もっと効率的なトレーニングがあるのではないかとか,こんなに一生懸命トレーニングして結果が出なかったらどうしようとか,スポーツのほかにもっと自分のやるべきことがないのかとか,トレーニングやだな,遊びたいなとか・・・


これはスポーツ選手に限らず,勉強でも仕事でも誰もが感じていることだろうと思います.


でも,選手生活も最後に近づくと,そんな迷っているひまはなくなります.一日一日がかけがえの無い日々であり,勝ち負けを超えて,自らの競技生命をどのように終えるか(どのように有終の美を飾るか)が関心事となるのです.


QOL(Quality of Life)という言葉があります.生命の質,人生の質といった意味を持つ言葉で,しばしば終末医療や老人介護の時に問題にされます.不治のガンなどに冒され,死に臨んで,人は自らの人生の質,もっと重く言い換えるなら人間の尊厳,を保ったままで死にたいと望んでいるのであり,たとえ余命が短くなろうとも,その望みを医療関係者は可能な限りかなえるべきだという考え方です.


スポーツ選手にとって引退は死に値するものです.スポーツ選手は引退にあたって,自らの残りの競技人生の質(Quality Of Athlete Life,QOAL,私の勝手な造語です・・・)を高めようとするのであり,それが勝ち負けを超えてベストを尽くそうという集中力につながり,しばしば有終の結果につながるのだと思います.


競技人生は短いものです.一流選手を除き,多くの選手は競技生活をせいぜい大学位までしか送れないでしょう.極端な言い方をすれば,大学生になれば,すでに選手としての死は間近に迫っているのです.しかしながら,多くの選手はそれに気づきません.気づかないフリをしているのかもしれません.


ですが,それに気づいたなら,もう迷っている時間はないことが分かるはずです.残りの競技人生の質を高め,自らの競技人生の有終を飾るために何をすべきなのか,考えるべき時なのです.


いかに良く死ぬかということを考えることが,質の高い人生を生きることにつながるのと同様に,いかに競技生活を終えるかということが,あなたの競技生活を充実したものにするのです.


じゃあ,30歳をとうに過ぎたのに,競技を続けているお前はなんなんだ!?,とつっこまれるかもしれません.

私はゾンビですから,もう死にません・・・

勝利イメージの罠(本当のプラス思考とは?)

 プラス思考の重要性は,スポーツ分野に限らずよく言われていることです.もし負けたらどうしようとか,失敗したらどうしようなどのマイナス思考を持ってしまうと,気持ちが萎縮して,実力が十分に発揮できなくなってしまうのです.


 そのようなことから,メンタルトレーニングのプログラムでは,マイナスイメージを払拭するために,自分が勝利する姿をイメージして,といった働きかけをするものも多く見られます.常に勝つことをイメージすることによってプラス思考を心がけるのです.この自己の勝利イメージは,体調が良いときや,相手よりもフィジカルに優位な時,その自分の優位性をマイナス思考で失わせないために,十分な効果を持っていると思っています.


しかしながら,あなたは,そんないつも勝利のイメージをリアリティをもってイメージできるでしょうか?


例えば,故障の時はどうでしょうか?例えば,試合が近づいても体調がまったく上がらない時はどうでしょう?また,例えば狙っている試合に勝つための実力が客観的に見てない時はどうでしょう?


もちろん,そんな時こそ勝利のイメージを描いて,マイナス思考を払拭すべきなのかもしれません.


しかしながら,自分の現状を無視して勝利イメージに囚われてしまうと,そこからかけ離れた自分を認められなくなってしまうのではないでしょうか.


自己受容という言葉があります.カウンセリングの世界では常識といってもいいほど有名な言葉です.


自己受容とは,欠点や弱点なども含めて今の自分をありのままを認めること,「このままの自分でいいんだ」と思えることであり,心の問題を抱えた人にカウンセリングを行う際に,ひとつの目標となる心のあり方と考えられています.


自己受容の「このままの自分でいいんだ」という表現は,何か向上心のかけらも見られないように思えますが,そうではありません.


人は,理想と現実があまりにかけ離れていたり,不合理に完璧な自分を目指してしまったりすると,今の自分を認められず,劣等感だったり,自己嫌悪感だったり,いわゆるマイナス思考に陥ってしまい,前に進むエネルギーを持てないものです.


人は,今の自分の現状をありのまま認めること(自己受容)によって,柔軟に前向きに進んでいけるエネルギーを得ることができるのです.


本当のプラス思考は,遠くかけ離れた勝利イメージだけを頑固に持ちつづけることではなく,今自分がどんな状態にあろうとも,それを認め(自己受容),そこをスタートラインにして前向きに進んでいくことなのです.(もちろん,今が良い状態にあれば,そこから強く前向きにも進めるはずです).

大事なのは自己受容に基づいた柔軟性のあるプラス思考であり,勝利イメージに囚われた固定的なプラス志向ではないのです.

スポーツ選手としての心理的成熟理論構築の試み

京都大学教育学部紀要,No.42,P.188-198,1996


本稿は,スポーツ選手としての心理的成熟理論を構築することをめざしている(注1)。筆者は,スポーツ選手が,スポーツ選手としてどのようなプロセスで,どのような心理的発達を遂げるのかを明らかにしたいという希望を持っている。スポーツ選手としての心理的成熟理論は,スポーツにともなう人格変容を明らかにするのみならず,心理的競技能力の開発のためのスポーツカウンセリングやメンタルトレーニングの土台となりうる可能性を持っている。この理論は,これまでのスポーツ心理学の研究の問題点を払拭するとともに,スポーツの新しい価値を問い直すことのできる理論となりうると筆者は考えている。


注1) スポーツ選手としての心理成熟理論は,本研究の中では,スポーツ選手を競技スポーツに参加している選手に限定しており,競争が全く伴わないリクレーショナルスポーツや体力作りのためのスポーツに参加している者は理論の適用外である。だが,筆者は,スポーツ選手としての心理的成熟理論は,本来,自己を成長させようとする意図を持ってスポーツに参加している者全てに適用可能であると思っており,機会があればその適用範囲を拡大したいという意図を持っている。


1.これまでのスポーツ心理学の問題点

近年,スポーツにおいては,競技成績に心理的な要因が大きな影響力を持っているという考えが一般的になり,メンタルトレーニングやイメージトレーニングの必要性が叫ばれている。そのような要請に応えるべく,スポーツ心理学者達は,動機づけ(やる気)の測定やメンタルトレーニング手法の開発などに代表される様々な研究を行っている。だが,筆者から見ると,多くの研究はしばしば平板かつ断片的であり,はたしてどれほど現場の実践に耐えうるか疑問を感じることが多い。これまでのスポーツ心理学の研究で得られているのといえば,競技成績の高い者はやる気や勝利志向性が高いとか,競技歴が長い者はやる気が高いなど当たり前のことばかりで,とても実践には役に立たない結果が多い。筆者は,スポーツ心理学における多くの研究の実践での有効性の無さには2つの原因があると考えている。その一つは,スポーツ心理学における理論の多くが一般心理学からの応用であるため,スポーツ心理学独自の理論が欠如しているという事である。一般の心理学理論を借りてくる事に問題があるのではない。優れた理論であればおそらくスポーツ分野においても様々な現象をうまく説明できるに違いない。それが問題なのは,スポーツ心理学が独自の理論を持たない事によって,研究におけるメタ理論(佐伯,1986)が欠如することである。メタ理論とは,多くの研究の結果をつなぐ,より一般的な仮説や理論であり,研究者が世界を解釈する際に使う,「人間とはこういうものだ」とか,「発達とはこういうものだ」といったかなり広い仮説である。メタ理論の欠如は,個々の研究を断片的なものにすると同時に,研究の深まりをも失わせ,実践に対する応用カの無さを引き起こす(佐伯,1986)。筆者は,実りあるスポーツ心理学の研究をするには,スポーツ心理学が独自の理論を持つことにより,「スポーツをする目的とは」「スポーツとは」「理想の選手とは」などのメタ理論を明確にしなくてはならないと考える。そのような明確なメタ理論を持っことによって,スポーツ選手が向かう理想を示さなくてはならない。もう一つの原因は,スポーツ心理学の研究にはしばしば発達的な視点が欠けていると言うことである。これは特に動機づけの研究にいえることで,多くの研究は動機づけを測定することに終始し(これはたぶんに動機づけが心理的競技能力として考えられており,その能力の測定に重点がおかれているからと思われる),動機づけがどのように育っていくのか,スポーツ経験に従ってどのように変化するのかなど,発達的な視点を持って理論を展開している研究はほとんど見られない(もちろん,年齢による動機づけの比較はしばしば行われているが,どのように動機づけが変化するのか明確な理論に基づいた研究はほとんどない)。発達的な視点の欠如は,プロセスの軽視につながり,研究の価値を半減させる。「やる気を出すためにはどうしたらいいのか」という問に答えるためには,やる気がどのように育つのかというプロセスの明示が必要である。本研究では,このような問題意識に基づき,スポーツに独自の心理的発達理論を構築することをめざしている。それは,スポーツ選手の動機づけの発達理論であり,人格発達理論であり,心理的競技能力の発達理論である。以下では,このような理論構築を試みようと思ったきっかけや他の研究との関連性,そして実際の理論とその意義について考察を行っていきたいと思う。


2.発想の着眼点

筆者は,多くの一流選手や,筆者の関係するクラプでのやる気の高い選手の一部に,非常に理想的な心理状態でスポーツを行っている者がいると感じてきた。理想的な心理状態とは,試合時に限ったものではなく,普段の練習やスポーツ以外の生活でもそう感じられるもので,自然にスポーツに参加しているというような状態である。それは競技レベルとかなりの程度相関するものの,必ずしも競技レベルが高い者全てがそうではないようであるし,また競技レベルが低くとも,理想的な心理状態にあると見受けられる者もいた。また,オリンピックに出場するような選手でも(というよりたぶんオリンピックに出場するという立場のため),非常に危うい心理状態(例えば,非常に高いプレッシャー,不安など)にある者や,逆に日本中が金メダルを期待する様な選手でも非常に理想的な心理状態(例えば,低い不安,チャレンジ精神,競技を楽しむ気持ち)にある者がいると感じていた。もちろん,理想的な心理状態は,やる気が高い状態だとも言えるのだが,やる気は高いが,無理してがんばっているという感じの者もおり,必ずしもやる気が高いだけではないようであった。強いてやる気という言葉を使って言うなら,佐伯(1978)のいう「クールなやる気」や宮本(1981)の言う「静かで,慎重なやる気」とも言うべき心理状態である。筆者は,この漠然とした理想の心理状態が実際にどのような状態なのか明らかにしたいと思った。また,彼らがなぜそのような心理状態を持てるのかを明らかにしたいと思った。なぜなら,それこそが現在のスポーツ心理学に欠けている,「理想のスポーツ選手とは」「人間にとってスポーツをする目的とは」「スポーツとは」という根源的な問に答える事であり,心理的競技能力を明示し,そのトレーニングを行うための土台となると思ったからである。

 理想的な心理状態の明確化は,金メダルや順位などの客観的なパフォーマンス(成績)から独立した(だがしかし,理想的な心理状態はその人の持つ能力の最大限を発揮させる力を持つ),新しい価値(実は誰もが気づいている価値)を明確に提示するという意味も持っている。オリンピックで金メダルを取ることは,スポーツ選手のほとんど誰もが一度は望む(可能であるかどうかは別にして)理想であろう。オリンピックで金メダルを取る選手は,その意味で一つの理想の選手像である。だが,もちろん,オリンピックで金メダルを取ることだけがスポーツの価値の全てではない。筆者にとって,理想的な心理状態を持ってスポーツを行うことは,金メダルを取ることに匹敵する一つの価値であり,そのような理想的な心理状態を持っている選手こそが理想の選手像なのである。さて,この理想の心理状態を考えるにあたって,筆者は,そのような状態がいわゆる「ベテラン」にしばしば見られるという印象を持った。例えば,オリンピックで転んで「こけちゃいました」の名言を残した谷口浩美や,優勝候補で惨敗し,次のオリンピックで銅メダルを取った黒岩彰,オリンピック400mのファイナリストの高野進,大関から落ちた小錦などである。彼らはみな高いチャレンジ精神と低い不安,そして高いレベルで競技を楽しむ気持ちを持っているようであった。筆者は,理想的な心理状態がベテランに見られることから,それがスポーツを続けていくにつれて次第に育ってきたものではないかと考えた。もうひとつ,理想の心理状態を考えるヒントとして,筆者は,いわゆる人間性心理学(humanistic psychology)の人格発達理論,具体的には,A1lport,G.W.やMas1ow,A.H.,Rogers,C.などの人格発達理論に注目した。特に,Maslowのいう自己実現をした者の特徴(Maslow,1962)やAllportのいう成熟の基準(Allport,1961),Rogersの十全に機能する人問(fully functioning person)の特徴(Rogers,1963)は,筆者の考える理想の心理状態にかなりの程度あてはまっており,理想の心理状態がスポーツ選手のスポーツ選手としての人格発達(動機づけの発達)によってもたらされるという思いをより強くした。筆者は,これらのことから,理想の心理状態とは,スポーツ選手としての心理的成熟の結果もたらされた適応的な心理状態であるという確信を持ち,スポーツ選手としての心理的成熟がどのようなもので,どのように成熟するのかを明らかにする理論,すなわち,スポーツ選手としての心理的成熟理論を構築しようと思ったのである


3.スポーツ選手としての心理的成熟理論構築の手続き

スポーツ選手としての心理的成熟理論の構築にあたって,はじめに2つの基本的仮説を設定した。一つは,スポーツ選手としての心理的成熟は,参加動機の適応的発達の結果であるということであり,もう一つは,スポーツ選手としての心理的成熟は,参加動機に対する危機によって促進されるということである。参加動機とは,一般的に言えば,スポーツに参加している理由,スポーツを続けている理由と考えることができる。スポーツ選手は,スポーツヘの参加動機がなければ(弱ければ),スポーツ選手ではなくなるのであるから,参加動機はスポーツ選手の存在理由と言ってさえいいだろう。筆者は,参加動機が,スポーツ選手にとって,彼の行動,心理を左右する非常に重要なものであり,それはスポーツに対するやる気や失敗に対する耐性,成績に対する満足度など様々な心理的要因を左右する中核的心理的概念であると考える。スポーツ選手は,様々な参加動機によってスポーツを行っている。それらの参加動機は続けていくのにつれて変化していくに違いない。例えば,これまでトップになることだけをめざしてきた選手が,どうやってもトップになれない場合,参加動機を全く変えずにスポーツを続けることは困難である。また技術や能力を向上させることをめざしていた選手がひどいスランプに陥った場合には,彼はそのままでは自らがスポーツに参加している動機を満たすことができない。彼らがスポーツ選手として存在し続けるためには,何らかの参加動機の転換が必要である。また,このような参加動機を妨げるような出来事がたとえなかったとしても,スポーツを続けることは,しばしばスポーツ以外の生活の多くを犠牲にして成り立っており,そのような犠牲を払っている以上,長く続けていくにあたって,自分はなぜスポーツを続けるのか,続ける価値があるのか,犠牲に見合う十分な報酬が得られているのかについて,参加動機の見直しが行われるに違いない。このような参加動機の見直しが正しく行われたとしたら,そのスポーツ選手は,より適応的な参加動機を持ち,より適応的な心理状態を得ることができるであろう。心理的成熟が参加動機の成熟的発達であるという仮説は,心理的成熟とはスポーツ選手の存在の根幹たる参加動機が適応的に変化することであり,適応的な変化は,参加動機の見直しによってもたらされるということを意味している。また,もう一つの基本的仮説,すなわち心理的成熟が参加動機に対する危機によって促進されるという仮説は,参加動機が適応的に発達するには,その見直しが必要であり,そのきっかけとなるのが,参加動機が妨げられる時,すなわち参加動機に対する危機の時であるということを意味している。スポーツ選手の参加動機に対する危機は,Erikson,E.M.の自我同一性危機に類似している。自我同一性危機とは,青年期においておこるとされる危機であり,それまでの自分を統合して,自分は何者であるのか,何者であり得るのかといった問いに解決を迫るような事態である(Erikson,1958)。参加動機に対する危機は,Eriksonの自我同一性の危機と同様に,スポーツ選手に対して,自分がなぜスポーツを行っているのか,自分がどんなスポーツ選手であるのかを考えさせるであろう。参加動機に対する危機は,そのままの参加動機に執着する限り,ドロップアウトやバーンアウトの原因になりうる。だが,参加動機に対する危機は,スポーツからのドロップアウトやバーンアウトの危機であると同時に,より適応的な心理状態でスポーツを行うチャンスでもある。未成熟な参加動機について内省を進め,より確固とした,適応的な参加動機を作り直す機会でもあるのである。危機がより適応的な心理的成熟をもたらすという考え方は,ドロップアウトやバーンアウトの研究に対してよりポジティブな視点を提供するであろう。これら2つの基本的仮説は,心理的成熟が,より適応的な参加動機を再構築することであり,危機がそのきっかけになることを示している。次節では,この基本的仮説を基に,スポーツ選手としての心理的成熟理論について,より詳細に述べていきたい。


4.スポーツ選手としての心理的成熟とそのプロセスのモデル化

ここでは前節で述べた基本的仮説に基づいて,スポーツ選手としての心理的成熟理論をより具体化するモデルを作成した。Fig.1は,このスポーツ選手としての心理的成熟モデルを図示したものである。以下,この図に基づいて,スポーツ選手の心理的成熟理論について説明していく。



Fig.1の左端に示したのは,スポーツヘの参加動機である。まずそれぞれの動機について簡単に説明しよう。「身体」動機は,体を動かすのが好きなため,体を鍛えたいためにスポーツに参加するような場合の動機である。「向上」動機は,自分の技能や能力を向上させるためにスポーツに参加するような場合の動機である。「達成」動機は,一番になるため,良い成績を上げるため,また一番になったり良い成績を上げることで社会に認められるためにスポーツを行っている場合の動機である。「親和」動機は,スポーツによってできた友人関係を維持したり,新しい友人関係を作るためにスポーツを行っている場合の動機である。「目標」動機は,自分の立てた目標を達成するためにスポーツを行っている場合の動機である。これらの参加動機の設定にあたっては,Passer(1982)やGill(1983)の見いだした参加動機を参考にしたけれども,ここで設定した参加動機によって,スポーツヘの参加動機がすべて説明されるわけではない。例えば,実際のスポーツヘの参加動機の中には,人に誘われてとか,やめるとみんなに迷惑がかかるからなどの比較的消極的な参加動機も存在することが明らかになっている(例えば,丹羽,1979;山本,1990)。確かに,そのような動機がスポーツヘの参加に影響を与えていることは事実であろうが,そのような消極的な動機は,どのように変化しようと心理的成熟はもたらさず,むしろ心理的成熟によって消えていくものであると筆者は考える。ここで設定した参加動機は,スポーツ選手として成長する原動力として働くものであり,Maslowの仮定したような成長動機(Maslow,1962)として働くものである。だが,もちろん,これらの参加動機は常に成長動機として働くわけではない。しばしばそれらの動機は様々な危機によって妨げられる。「身体」動機は,けがや故障によって容易に妨げられるし,スランプは長期に渡って「向上」動機を妨げる。友人やコーチとのトラブルは,「親和」動機を著しく減少させる。このような様々な危機によって,参加動機の成長動機としての効果はしばしば低められる。Fig.1の中央左には,それぞれの参加動機に対応する危機の例が示されている。これらの危機は,これまで持っていた参加動機の変革を迫るきっかけとなりうる。例えば,高校の時には学校で一番の実力をもっていた選手が,優れた選手の集まる大学にスカウトされたとする。そこでは,しばしば自分と同等の実力や自分よりも能力の高い選手が存在する。もし,彼が,自分が最も優れているということを自分の拠り所,つまり最も強い参加動機として持っていたとしたら,彼にとって大学での状況は,「達成」動機に変革を迫る危機的状況である。また,勉強や職業との両立の悩みや日常生活でのトラブルは,スポーツを続けられるような生活環境を乱すことによって,スポーツ選手に自分は果たしてこのままスポーツを続けるのがいいのか,はたしてスポーツを続ける価値があるのかを考えさせ,「目的」動機を危機に陥らせる。危機は,参加動機を適応的に変化させるきっかけとなり,スポーツ選手としての心理的成熟を促進するものであるが,実際には,危機によってドロップアウトしてしまう者の方がずっと多いかもしれない。ベテランに心理的成熟が見られるのは,ある程度そのような淘汰の結果ではあろう。だが,彼らは偶然に生き残ったのではない。また,何も考えずに続けられてきたわけではない。彼らがなぜスポーツを続けられるのか,心理的成熟に至るまでにどのような心理の変化があったのか,その理由が明らかにされねばならないし,また明らかしようとするのがこの研究なのである。なお,危機の程度は,危機に対応する参加動機を重視していればいるほど,よりシビアになるだろう。「達成」動機の高い者,すなわち他者からの評価をより求める者は,そのような評価が得られなくなったときに,最も強い危機を経験する。「向上」動機を強く持っている者は,他者からの評価がそれほど無くともスポーツ選手としてやっていけるが,自分の記録の停滞が長く続いた場合は,彼にとってスポーツ選手としての存在を脅かす危機となりうる。危機を解決するにあたって,より厳しい練習を目分に課す事は,それ自体では,心理的成熟に効果をもたらさないと思われる。もちろん,「身体」動機や「向上」動機,「達成」動機などの危機の解決,そしてそれに伴う心理的成熟のためには,肉体的,生理的に危機から脱して,自分なりに満足する結果を出すことが必要である。そうでなければ,危機の解決は,ただのあきらめになってしまう。だが,危機を無視して,また危機に対抗するために無自覚に練習することは,心理的成熟を進めることにはならない。なぜなら,それによって危機が解決されたとしても,自覚的な参如動機の見直しが無ければ,参加動機は適応的に変化しないからである。心理的成熟は,危機を経験すれば得られるというものではもちろんないし,また危機が解決されれば,そのまま得られるというものでもない。つまり,故障やけがが直れば,友人とのトラブルが解決すれば,心理的成熟がすぐにもたらされるというわけではない。心理的成熟のためには,次に同様の危機があった場合に,それが参加動機に対する危機とならないように,参加動機が質的に変化しなくてはならないのである。「達成」動機にしても,「向上」動機にしても,これらの動機は高ければ適応的で良い成績をもたらしうるわけではなく(もちろん高いことは必要だが),その質も問題なのである。たとえ「達成」動機が非常に高くても,それが容易に危機によって妨げられては,良い成績は得られない。高い達成のためには,「達成」動機は高く,かつ危機によって妨げられない安定した性質を有していなくてはならない。心理的成熟は,参加動機が質的に変化することによって,それらが常に成長動機として正しく働くようになった適応的な状態である。だから,心理的成熟の持つ特徴は,そのように質的に変化した参加動機の持っ特徴を記述することによって明確になるであろうし,それらの特徴の妥当性は,その特徴を持つことによって,参加動機に対する危機がもはや危機にならないことで確認されるであろう。Fig.1には,心理的成熟の特徴とそれに派生するいくつかの心理的な特徴が示してある。これらの特徴は,危機を克服できるように参加動機が適応的に変化したものである。「心身一体感」は,「身体」動機が,その危機を克服するために適応的に変化したものである。「身体」動機が妨げられるのは,主にけがや故障の時である。そして,それが特に顕著なのは,けがや故障がいつ直るのか分からない,という場合である。もし,自分の体を十分知ることができ,故障やけがの程度が自分でモニターできるようになったとしたら,少々の故障やけがでは「身体」動機は妨げられなくなるだろう。「心身一体感」は,このように目分の身体に対する気付きを獲得して,それによって心が焦らなくなった(身体が動カ)ないのを無理矢理動かそうとして,こんなはずじゃないと考えるようなことが無くなった)状態である。「心身一体感」は,筆者が理想的な心理状態の一つの特徴だと考えるリラクセーションをもたらすであろう。「課題中心性(task-involvement)」とは,Maslowが自己実現をした者の特徴として取り上げた概念で,近年では,達成動機における目標志向(goal orientation)の研究においても問題になっている。目標志向の研究では,達成動機には,課題中心性と自我中心性(ego-involvement)という2つの動機づけの志向性があり,それらの志向性の違いが行動や感情に様々な影響を与えることを明らかにしている(例えば,Dweck,1986;Nicholls,1989)。「課題中心性」は,自己の技能や能力の向上をめざし,努力をする事に有能感を感じる傾向であり,過程を重視し,行った努力に対して大きな価値をおく。対して「自我中心性」とは,他の人よりも優れた成績を上げること,他者に認められるような成績を上げることに有能感を感じる傾向である。「課題中心性」は,「向上」動機や「達成」動機の危機を克服するために必要な心理的成熟の特徴である。「向上」動機にしても,「達成」動機にしても,それらの動機がめざすのは,基本的には結果であり,記録が向上すること,技能が向上すること,良い成績を上げること,トップになることである。「向上」動機,「達成」動機は,目己の向上や良い成績が得られている場合は良いが,ひとたび,スランプなどで結果が得られなくなった時には,それらの動機はほとんど働かなくなってしまう。「課題中心性」は,過程を重視し,行った努力を価値あるものと考えることで,必ずしも結果が得られないときでもスポーツ選手に十分な満足を与えることができる。杉浦(1995)では,「課題中心性」が,練習のやる気や競技に対する満足度を高めることを明らかにしている。「課題中心性」は,チャレンジ精神や失敗を恐れない気持ち,低い不安などの理想的,適応的な心理状態をもたらすであろう。「自律性」とは,自らの行動を自らが律しているということであり,スポーツを行っていることがあくまで自分の意志であるという確固たる信念である。「自律性」は,「親和」動機や「達成」動機の危機を克服するための特徴である。例えば,周囲の期待が高く,それに答えよう,答えなくてはならない,と思うような気持ちが強くなりすぎると,自律的な「達成」動機が妨げられ,周囲の期待に応えるという他律的な「達成」動機がスポーツを続ける理由になってしまう可能性がある。このような他律性は,良い成績を取るという結果だけに意識を向けてしまい,努力を苦痛なものにする。また,何のために目分がスポーツを行っているかの意味を失わせ,スポーツをする事の価値を失わせる(これは「目標」動機の危機でもある)。また,スポーツ選手は,多くスポーツ集団に属しており,集団での画一的な練習や,練習に対する仲問やコーチとの対立は,自律性を妨げ,他律性を感じさせる原因となりうる。心理的成熟の特徴としての「自律性」は,「達成」動機や「親和」動機が成長動機として働くための,すなわち,目標はあくまで自分で決めているという気持ちを持ち,友人,コーチなどとのより成熟した人間関係を築くための,様々な他律性に負けないより強固な自律性なのである。「自律性」は,競技能力が高く,周囲から期待される者の方が,そのような期待を受けない者に比べて,より強いことが必要であろう。例えば,急に好成績を上げてオリンピックに出場が決まった選手や,インターハイで好成績を上げ,スポーツ推薦で大学に入った者などは,自らの自律性を強化しなければ,周囲の期待という他律性につぶれてしまう可能性もあるだろう。おそらく,「自律性」を育てるためには,「目的の明確化」が最も有効であるに違いない。筆者は,心理的成熟の特徴の巾でもこの「目的の明確化」と後述する「自己受容」が特に重要であると考えている。Fig.1では,これらの重要性を示すため,他の特徴に比べてより大きく示している。「目的の明確化」とは,自分がなぜ,何のためにスポーツを行っているか,その目的が明確化することである。「目的の明確化」に対応する「目的」動機は,参加動機の中で,最も重要なものである。なぜなら,なぜスポーツを行っているのかという,すべての参加動機を統合する最終的な問いだからである。スポーツをする「目的の明確化」は,他の「向上」動機や「達成」動機,「親和」動機の危機をも克服する強い動機となるであろう。ただし,「目的の明確化」は,「目標の明確化」とは違う。「目的の明確化」は,「目標の明確化」よりもずっと進んだものである。確かに,明確な目標を持つことは,高い動機づけや良い成績のためのひとつの必要条件であり,例えば,オリンピックをめざすという明確な目標は,高い動機づけと実際により高い成績(オリンピックに出られるかは別にして)をもたらすであろう。しかしながら,心理的成熟の特徴である「目的の明確化」は,明確な目標を持つだけでは不十分である。なぜ自分はオリンピックをめざすのか,何のためにオリンピックをめざして他の多くを犠牲にしてスポーツを続けるのか,その目標の意味(目標の意味イコール目的である)が明らかになることが必要なのである。目標の意味が明確化すれば,その目標が達成できなかったとき,また逆に目標が達成された時に,スポーツを行う目的が喪失することが無いであろう。「自己受容(self-acceptance)」は,人格発達の特に重要な特徴である。Maslow(1962)にしても,Allport(1961)にしても,Rogers(1963)にしても,自己受容,現実受容,他者受容は,自己実現や成熟の特徴として考えられている。これらの人格発達理論と同様に,スポーツ選手としての心理的成熟においても,「目己受容」は,特に重要な特徴である。ここでの「自己受容」とは,スポーツ選手としての[分や,現在の自分の能力,成績などを肯定的に受け入れることである。「自己受容」は,他の心理的成熟の特徴の根本となるといってもいいかもしれない。Fig.1における「自己受容」の位置はそのことを示している。「自己受容」を得ることは,「目的の明確化」と併せて,スポーツ選手がどのような危機に対しても対応できるような心理的成熟を得ることであり,スポーツ選手としての心理的成熟の最終目標といえる。ただし,「自己受容」は,現在の結果に満足してしまっているという意味では絶対にない。「自己受容」とは,自分の現在の状態,現在の成績に安住することではなく,自分や自分の回りの現実を正しく認めること,自分を正しく知ることであり,それによって,不安や失敗の恐れを感じることなく,スポーツ選手として心理的,そして肉体的に成長することができるのである。心理的成熟とは,これらの特徴を中心として,それに派生する特徴も含んだ適応的な心理状態である。Fig.1では,それは大きな丸で囲まれた部分によって表される。5つの特徴は,相互に関係しあっており,ある特徴を危機の解決と参加動機の適応的転換によって得ることができたときには,別の特徴も高まる可能性がある。心理的成熟は,スポーツ選手がたどり着くべき最も適応した心理状態であり,その意味で,スポーツ選手としての発達課題ということができる。だが,それはゴール地点ではなく,むしろスタートである。スポーツ選手としての心理的成熟は,優れたスポーツ選手としてさらに心理的,肉体的に発達していくための心理的土台なのであり,その意味で心理的競技能力といえるのである。筆者は,このような心理的成熟が,競技レベルに関わらず,誰でも持ち得るし,また持つべきであると思う。だが,もちろん,それはすべての者が持てるわけではない。無自覚にスポーツを続けていくだけでは,たとえどんな高い競技レベルを持とうが,極端に言えばオリンピックで優勝しようが心理的成熟は得られない。スポーツにおいては,それが基本的に身体的活動であるために,スポーツ選手は,しばしば自らの心理的な側面について無自覚になりがちである。また,コーチは,彼から見れば確かに選手は未熟なのであろうが,選手の自立や主体性を助けるよりも,目先の結果を求めがちである。コーチも選手も,心理的な要因が競技成績を大きく左右すること,そのための心理的トレーニングを行う必要があると知っていながら,選手は自分にとって,コーチは選手にとって,重要な問題に目をつむり,小手先のリラクセーショントレーニングやイメージトレーニングを行っているにすぎない。このことはスポーツ心理学の研究者にすら見られる傾向である。だが,心理的トレーニングとして本当に必要なのは,そのような小手先の,対症療法的なものではない。本当に必要なのは,自らがスポーツを続けている意味を自覚し,問い直すことなのである。スポーツカウンセリングやメンタルトレーニングは,スポーツ選手が自分自身を省みるための,そしてそれによって確固たる適応的な参加動機を持っための手助けとなるべきであろう。心理的成熟は,本来的にたどり着くことのできる目標である。ただ,それはやはり一足飛びにたどり着けるわけではなく,スポーツ選手として不断に自らを省みることによって,少しずつ(あるいは長い準備期間を経て突然に)発達していくものである。筆者は,このことゆえに,スポーツ選手としての心理的成熟理論をスポーツ心理学における動機づけの発達理論,人格発達理論として位置づけたのであり,それによって,心理的トレーニング(筆者から言えば心理的成熟に向かうこと)が,身体的トレーニングと同様に,系統的で長期的視点に立った不断の努力が必要であることを主張するのである。


5.おわりに

本研究は,スポーツ選手としての心理的成熟理論の構築を目的として,その理論的考察を行ってきた。本研究で行った理論的考察は,これまで欠如していたスポーツ心理学独自の理論を構築することをめざすにあたっては不可欠なことであり,たとえ実証的なデータに基づいていなくとも,その目的を果たすにあたって,それ自体十分に価値のあることである。だが,理論的考察を重視するからといって,スポーツ選手としての心理的成熟理論が実証を指向していないわけではない。本研究のみでは,その理論には,まだまだ問題点や修正点が数多く残されている。本稿で行ったのは,理論のラフなスケッチにすぎず,その理論は,参加動機の設定や危機による具体的な考え方の変化,心理的成熟の内容や心理的成熟と他の心理的変数(不安ややる気,集中力など)との関係など,今後,実証的な研究を重ねることによってより洗練されていくべきであろう。ただ,そのように多くの問題点をはらみながらも,本稿において,具体的に理論構築を通して,スポーツ心理学独自の理論が必要であること,スポーツ心理学に発達的視点が必要であることを主張できたことは筆者にとって非常に重要である。今後,スポーツ選手やコーチ,さらにはスポーツ心理学の研究者達が同様の視点を持って実践,研究を行うことを切に期待したいと思う。


文献

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Dweck,C.S. 1986 Motivational processes affecting learning. American Psychologist,41,1040-1048.

Erikson.E.H. 1959 Identity and the lifecycle. Psychological Issues,No.1,Monograph1. (小此木啓吾訳 1973 自我同一性 誠信書房)

Gill,D.L.,Gross,J.B.,&Huddleston,S.1983 Participation motivation in youth sports. International Journal of Sport Psychology,14,1-14.

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宮本美沙子 1981 やる気の心理学 創元社

Nicholls,J.G.1989 The competitive ethos and democratic education. London : Harvard University Press.

丹羽勧昭・村松洋子 1979 女子大生のスポーツ参加の動機に関する因子分析的研究. 体育学研究,24,25-38.

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佐伯胖 1986 認知科学の方法 東京大学出版会.

杉浦健 1995 陸上競技における目標志向と練習のやる気の関係について 第46回日本体育学会発表論文集,222.

山本教人 1990 大学運動部への参加動機に関する正選手と補欠選手の比較 体育学研究,35,109-119.

言葉は力を持つ

「南極でもグランドキャニオンでも,そこにバッターボックスがあれば俺は立つ!」


これは現在(H14年4月),阪神タイガースで活躍中のホワイト選手が入団テストで語った言葉です.これを聞いた星野監督がその「ハングリー精神」をかって,最終的に合格を決めたと言われています.


彼がこのような言葉を語れるようになるまでには,きっと多くの葛藤があったことが推測できます.彼は今年阪神に入団するまで,アメリカ大リーグから,3A,メキシコリーグ,韓国リーグなど,12年間で13チームを渡り歩いてきたそうです.まさに毎年が野球が出来るか出来ないかの瀬戸際であったわけです.冒頭の言葉は,このような状況に常に直面してきた彼の正直な気持ちを表したものでしょう.


彼は打撃にしても守備にしても非常に思い切ったプレイを行うのですが,それも当然でしょう.彼にとっては野球ができるだけで幸せなのですから.


私たちは普通,勝ち負けにこだわったり,失敗するのを恐れたりして,なかなかこういう気持ちになれないのですが,長い間ケガから復帰したり,長いスランプから立ち直った時には,こういう「競技ができるだけで幸せ」の気持ちになれるのです.このことはすでにリセットしたときの強さ無垢への回帰でも示したとおりです.


さて,冒頭の言葉はホワイト選手が自分をアピールするために語った言葉なのですが,同時に彼自身にとって(また私たちにとっても),初心に返ること,チャレンジ精神を忘れないことの大切さを常に意識させてくれる言葉になっています.


スポーツ選手の中には言葉を重視しない人もいるようですが(本当に一流のプレイはなかなか言葉で説明できないところがあるということも一因でしょうが),競技人生の雌伏の中から得られた言葉には説得力があり,私たちに前向きに進む力を与えてくれます.


あなたも競技人生の中であなたにとって力を与えてくれる言葉を見つけ出してほしいと思います.

勝ち負けよりも大切なこと

 はじめにこれを読んでいる人に聞いてみたいと思います.

あなたの競技生活において勝ち負けよりも大切なことはありますか?

 もちろん誰でも競技をする以上,勝つことが大事なことは当然だと思います.勝つことを目指すのをやめてしまったら,それはもう「競技」とは言えないかもしれません.それを分かった上で,あえて上記の質問を問いかけたいと思います.




 今年から阪神タイガースの選手のヘルメットに「あしなが育英会」のステッカーが貼られているのを見たことがあるでしょうか?星野監督が「日本でも大リーグのようなボランティア活動は必要.勝った,負けただけでなく,何らかの社会貢献をしたかった」と球団と選手会に働きかけて,実現したことだそうです.

 その効果は絶大で,関西では募金額が昨年の1.4倍に達しているのですが,私はその効果が実は選手自身にも及んでいるのではないかと思っているのです.別に阪神が好調だからという訳ではなく,スポーツ選手の社会貢献には,スポーツ選手自身に力を与える効果があると思うのです.


 勝ち負けをその第一義にする競技スポーツというのは,究極的には非常にエゴイスティックなものだと思います.厳しいトレーニングに耐えられるのも,他の誰のためでもなく,自分のためだと思ってこそなのです.やらされていると思ってしまったらきっとやっていけないでしょう.実際そういう気持ちになってドロップアウトしてしまう選手も多くいるのです.

 ところがこのことは逆に言えば,頼れるものは自分だけということです.「たかがスポーツ,されどスポーツ」という言葉がありますが,競技スポーツをする者にとっては,常に(特に,勝てなくなったり,スランプになった時などに)競技が「たかがスポーツ」のみにとどまってしまい,ドロップアウトしてしまう危険性にも直面しているのです.

 

 スポーツ選手の社会貢献は,究極的には自分のためである競技を,より深い意味を持った活動に変えてくれます.星野監督の言葉を借りるなら,社会貢献は,競技を「勝った,負けただけで」価値が左右される活動から,より深い意味を持った活動に変えてくれるのです.もちろんそのことによって競技における勝つことの意味や価値は減少するわけではなく,また同時に勝ち負けだけで競技者としての自分の価値が左右されなくなるのです.そのような気持ちは勝ち負けに対する過剰な不安を払拭し,失敗を恐れる気持ちを減少させてくれるでしょう.


 ここで言いたいのは,すべからくスポーツ選手はみな社会貢献をすべきであるということではありません.ここで言いたいのは,競技が勝ち負けを超えたより深い意味を持つ活動に変わることによって,競技に対してよりチャレンジ精神を持って取り組めるようになるということであり,そのひとつの例が社会貢献だということなのです.ある選手はそれが神への信仰であったりしますし(レースに買った選手やHRを打った選手が神に感謝をささげる姿はよく目にするでしょう),子どもができて大きく変わるプロ選手もいます.


 そこで冒頭の質問になるのです.ここではもう一度聞いてみたいと思います.


  あなたの競技生活において勝ち負けよりも大切なことはなんですか?

哲学を持っていますか?

この読むメントレですが,メンタル「トレーニング」と言いながら,精神論のような,哲学論のような様相を呈してきてしまっています.今回は言い訳も兼ねて,それがどうしてなのかについて話したいと思います.


 私は,強い選手や精神的に安定している選手は,自分なりの「哲学」を持っていると思っています.それは勝つ経験で身につけたものだったり,逆に挫折経験から見出したものだったりするのですが,いずれにせよ彼らの哲学には,経験に基づいた説得力があり,それが精神的強さと競技に向うエネルギー(やる気)を生みだしています.


 それぞれの選手によって彼らの持つ哲学のあり方は異なります.例えば,ある人は,「自分には勝利への執念が必要」だと言います.それは彼が予選6位まで出場できるインターハイの予選で7位で負けたという経験を持っているからです.またある人は,「自分にはクールな競技への取り組みが必要」と言います.それは彼がこれまでプレッシャーで自分の力を十分に発揮できなかったからであり,その克服のためにクールな気持ちが有効であることを知ったからです.


 私はメンタルトレーニングにおいて,どのような心理的状態がベストなのかは,一人ひとり方向性が違うと考えています.また個人の中でも,その時の必然性によって,クールな気持ち,あるいは逆に熱い気持ちといった,正反対のことが求められると思います.それまでの競技経験や心理状態のあり方によって次に何がベストであるかが変わるのです.


 メンタルトレーニングにおいては,何かひとつ正しい方向性があるわけではないと思います.「自分を知る」ことが大事なのは,自分がどこに向かうべきなのかは自分のそれまでのあり方から必然的に見えてくるものだからです.ここでは,(一人ひとり異なった)自分が目指すべきものを「哲学」と呼んでいるのです.読むメントレが哲学論の様相を呈してしまうのは,結局一人ひとりの(「人生哲学」という言葉があるように,)「競技人生哲学」が異なるからなのです.


「あなたの競技人生における哲学は何ですか?」


(いつも問いかけで終わると言うのもワンパターンなのですが・・・でもこれは,結局答えは一人ひとりの中にあるということを表しているのです.)

問いは画一的でも答えは多様

 近年,メンタルトレーニングをプログラム化しようとする動きがあります.日本スポーツ心理学会では,メンタルトレーニング指導士などの資格認定をするようになっています.

 実は私自身は,メンタルトレーニングのプログラム化に違和感を感じていました.反感と言ってもいいかもしれません.つまり,画一的なプログラムで果たしてメンタルトレーニングが可能なのか?ということです.世界選手権の女子マラソン銀メダリストの山下佐知子選手は,自身の経験からプログラム化されたメンタルトレーニングは役に立たなかった,個別のカウンセリングでなければメンタル面の強化やサポートは不可能ではないか,と語っており,私もその考えに共感していました.ただ,たとえ競技レベルが高かったとしても,メンタル面で十分でない選手は多いと感じており,プログラム化によって多くの人にメンタルトレーニングを提供することができるメリットもあると思っていました.


 私がなぜメンタルトレーニングのプログラム化に違和感を感じていたかというと,一流のスポーツ選手

や一流でなくともメンタル的に非常に良い状態にある選手のメンタル面のあり方があまり多様にだったからです.ある決まった目標があるのなら,画一的なプログラムでも良いのでしょうが,そんな多様な心理状態を目指すためには,一人ひとりオーダーメイドのメンタルトレーニングが必要であり,画一的なプログラムではだめだと思っていたのです.


 それがこの読むメントレを書き出してから,だんだんと自分の中で整理ができてきて,メンタルトレーニングのプログラム化に十分な意味があることが分かってきたように思います.


 メンタルトレーニングのプログラムには,ちょうどこの読むメントレでしている「あなたは何のためにスポーツをしているのですか?」とか「あなたの目指す目標は何ですか?」「何があなたの喜びですか?」などのいくつかの「問い」があります.これらは目標設定とか,動機づけの明確化と言われ,スポーツ選手として明確な答えを持っていなくてはならない問と考えられます.それらの「問い」は確かに画一的なのですが,その答えは一人ひとり異なり,自分にとって最も効果的な答えが存在します.


つまり,問は画一的でも答えは多様なのです.そのためにメンタル的に良い状態にいる選手の特徴がそれぞれ異なるのでしょう.


これを読んでいるスポーツ選手でもこれからメンタルトレーニングを受ける機会が多くなるだろうと思います.その時,決められたプログラムに違和感を感じるかもしれませんが,本当に大事なのは,そこから自分なりの答えを見つけることです.


結局メンタルトレーニングで一番大事なのは,自分を知り,自分の答えを見つけること


なのです.

藤田太陽のフォークボール

 先日,阪神タイガースの藤田太陽投手がプロ初勝利を上げました.ヒーローインタビューを受けている映像の中に,非常に印象的なことがありました.プロ初勝利ということで,藤田投手はウイニングボールを持ってインタビューを受けていたのですが,そのボールを持っている手の握りがフォークボールの握りだったのです.

 この日のピッチングは,カーブやスライダーそして,カウントを取るフォークとウイニングショットのフォークという変化球を効果的に使った,山田捕手の完璧なリードに支えられたものでした.


 かつて彼は160kmを投げたいと言っていたことがあります.またジュニアオールスターでの登板をすべて直球で通したこともありました.それは自分の限りない才能を頼みにした行動であり,またすべての投手にとっての夢(速球のみでバッターを打ち取ること)を追うことでもあったでしょう.


 そんなかつての彼の考えから見ると,今回のピッチングは「逃げのピッチング」と映っているかもしれません.しかしながら,彼はフォークボールに活路を見出し,勝った.そして「自分の新たな可能性を知った」のです.


 人は誰でも自分に無限の可能性を見ていたいものです.自分には限られた能力しかないのだと認めることは苦痛なことですし,そう考えることによって競技をあきらめてしまう者も多いのです.しかしながら,自分を知らず,今の自分を直視しないまま,可能性をやみくもに追うことは,今の自分の良さを殺し,今の自分に出来ることに目を閉じさせてしまうのです.そしてそれは結局自分の可能性をふさいでしまっていることになるのです.


 藤田投手が見せたヒーローインタビューでの「フォークの握り」は,彼が自分の弱さを認め,その弱さを前向きにとらえ,前に歩みだした決意の表れであるように思えます.

人生という物語(life story)の創造のプロセスとしての転機


近畿大学教職教育部 教育論叢13巻1号掲載


はじめに:本論の目的

 私たちが自分のこれまでのあり方を振り返るとき,多くの人は自分の人生にいくつかの「転機」があったことに気づくだろう.例えば,大学浪人の一年間,例えば,悩んでいたときの友人のちょっとした励ましの一言,例えば,尊敬できる人との出会いなど,様々なきっかけによって,私たちは自分が大きく変わってきたことを認識できるに違いない.

 転機は時に脱皮にたとえられる.ちょうど蝶が幼虫からさなぎになり,殻を破って成蝶になるように,私たちは,いくつかの転機の経験を通して,古い自己を脱ぎ捨てて新しい自己を作り上げるのである.そういう意味で転機は,私たちの自己変容や自己形成に重要な役割を果たしていると言える.しかしながら,これまで転機による自己変容や自己形成のプロセスを理論的に明らかにしようとした研究・書物は,意外と少なかった.比喩的に言うなら,脱皮によって人が成長することは知られていたが,脱皮のメカニズムは示されていなかったのである.

 転機についての書物が少ないのではない.試みにインターネットなどで書物の文献検索を「転機」をキーワードにして行ってみると良いだろう.多くの「人生の転機」に関する書物が見つけられるに違いない.だが,その多くは様々な人の転機をインタビューしたものであったり,伝記のようなストーリーとして構成したものであり,転機を自己変容の重要な要因として理論的に扱ったものはごく限られる.

 このような問題意識に基づいて,本論では,転機を自己変容や自己形成をもたらすものとしてとらえ,転機においていかなる心のプロセスが働いているのか,そして,それが私たちの自己変容・自己形成にどのようにつながっているのかを明らかにしていこうと思う.

 すでに述べたとおり,人生の転機についてのインタビューや伝記物語は数多くある.転機のプロセスを明らかにするために,それらをすべて集計して分類・分析するという方法も考えられるが,それらは資料として同等に扱うにはかなりのばらつきがあり(インタビューあり,伝記有り,書き下ろしエッセー有り),また多くの資料を一般化しようとするあまり,単なる分類で終わってしまう可能性がある.

 そのために,本論では転機を自己変容・自己形成と関連するものとして理論的に扱ったいくつかの文献について比較検討を行い,それによって転機のプロセスを明らかにしていきたいと思う.ここで取り上げるのは,トランジション(transition)のプロセスについて扱ったブリッジズ(1980),ブリッジズの影響を受けてトランジションへの対処方法を示したブラマー(1991),精神科医の立場から,カウンセリングにおける人の変化のプロセスを示した高橋(1992),社会学のライフコース研究の観点から転機のタイポロジーを示した大久保(1995),そして,森田療法における転機について示した鈴木(1964)である.これらの文献を選択した理由は,これらの文献が転機のプロセスについて一般化・理論化を試みているからであり,さらには,そこにいくつかの興味深い共通点が見られるからである.以下では,これらの文献を中心にして,転機のプロセスが一体どのようなものであるのか,それがどのように自己変容・自己形成と関わるのかを明らかにしていきたい.


前提:転機とはプロセスである


 本論は,転機のプロセスについて明らかにした各文献を比較検討していくが,すでにそのこと自体,転機はプロセスであるという前提に基づいている.実際,大久保は「転機はある一時点における単発の出来事ではなく,一連の出来事から成る過程である(p.157)」と明確に述べているし,ブラマーも,「転機の過程・段階モデル(p.46)」において,転機をいくつかのクリティカルポイントの存在する一連のプロセスとして考えている.またブリッジズも,「すべての転機に共通する,内的で潜在的なプロセス(p.12)」を明らかにしようとしており,転機を明白にプロセスと考えていることが分かる.

 転機のきっかけは様々である.神経症や心の悩みなど,心理的な治療が必要なことであることもあれば,失業や転職,離婚,大病などといった人生上の危機であることもある.また,結婚や子供の誕生,昇進などといった一見,幸せな出来事であることもあれば,卒業や就職,一人暮らしなどといった人生の中での必ず訪れる出来事であることもある.それらの出来事は突発的に起こることもあれば,予定された出来事であることもある.だが,多くの場合,それらの出来事のみが転機として認識されるのではない.転機の出来事の前後には,変わる必然性を形作るいくつかの出来事,いくつかの心理的プロセスがあって,それらすべてが転機のプロセスを形作っていくのである.

 興味深いのは,転機のきっかけとなる出来事が,現象的にはそれぞれかなり異なっているにもかかわらず,そこに比較的共通な転機のプロセスと転機によって変わる特徴が考えられることである.そのことは,転機が私たちの自己変容や自己形成を担う重要な一側面として機能していることを強く示唆するのであり,それを示すことが本論の目的である.


転機のプロセス:1.始まり


転機の条件:変わりたいと思うこと

 まず転機のプロセスの始まりがどのように捉えられているのかを見よう.

 ブリッジズは,「すべての転機は,何かの終わりから始まる.私たちは新しいものを手に入れる前に,古いものから離れなければならない(p.20)」,「『終わり』は何かがうまくいかなくなるときから始まる(p.144).」,と述べる.そして,転機のプロセスの始まりには,自然な「終わり」の四側面,すなわち離脱,アイデンティティの喪失,覚醒,方向感覚の喪失があることを示している.

 「終わり」においては,それまでの慣れた生活からの離脱を余儀なくされる.そこで,我々はそれまでのあり方が通用しなくなったことに気づき(覚醒),深刻なアイデンティティ喪失と方向感覚の喪失(将来の展望の無さや行動の方向性の無さなど)を経験するのである.

 ブラマーは,転機の始まりを,「それまで存在していた安定性および連続性が壊されるとき(p.10)」と考えている.それは既存の生活様式の「崩壊期」であり,喪失の時期である.ブラマーは,転機の過程・段階モデルにおいて,転機のプロセスに伴う感情的変化を問題にしており,転機の始まりに伴ってどのような感情的変化が起こるのかを詳しく示している.


 突然で衝撃的な転機の初めての出会いに対する典型的な反応は,ショック,言葉の喪失,パニック,恐怖であって,この後に麻痺感,あるいは虚脱感,孤立感,絶望感が続きます.この麻痺状態にある場合は,何の感情も湧かない場合があります(p.48).


 その後に恐怖,怒り,寂しさ,恐れといった感情表現が続きます.これらの感情は安堵,時には幸福感と交互に起こります(p.56).


この段階で嘆き悲しんでいる人は悲観的な見方しかできず,将来に対してもさらに不幸な展望を示します.「例えば,私はもうおしまいだ.私は決してこの敗北から立ち直ることはないでしょう.将来のことを考えると,パニックに陥ります」といった表現が多いのです(p.56).


 ブラマーから分かるのは,人は転機のプロセスにおいて,特定の感情の連鎖を経験するということだ.転機の始まりのプロセスでは,人は安定性や連続性の喪失の経験によって,絶望感や孤立感,虚脱感(「何をやっても意味がない」)といった不快な感情を喚起することになる.そして,このような不快な感情は,自然の防衛反応によって沈静化され,後の(人が変わるために重要な意味を持つ)「空白の期間」につながるきっかけともなっていく.

 大久保は,転機を3つのタイプに分けている.ひとつは,戦争のような突然の生活構造の剥奪によって始まる「外発型」であり,2つ目は,自分の送っている生活に対する違和感が次第に大きくなり,それが構造的ストレスとなって,きっかけを経て転機を生じさせる「内発型」,そして3つ目が制度上の出来事によって既存の生活構造が終焉する「制度型」である.これら3つの転機は,それぞれのきっかけは異なるにせよ,いずれもそれまでの生活構造が失われたり,うまくいかなくなったりする時に転機のプロセスが始まっている.

 ブリッジズ,ブラマー,大久保に共通するのは,いずれも転機の始まりが,何かが終わり,新しい何かが始まろうとしている時だということである.それは,そのままの自分のあり方,そのままの生活構造,そのままの世界の見方ではうまくいかなくなっている,もしくはそのままではこれから新しい生活をうまくやっていけない時である.そのような状態において,我々は新しい生活になんとか適応するべく,自分を変えていこうと動機づけられるのであり,それが転機の一連のプロセスにつながっていくのである.

 これに対して,高橋や鈴木は,転機の始まりを明確にしていない.だが,そもそも精神科医である高橋の所にやってくること,もしくは森田療法を受けに来ること自体が,何かがうまくいかなくなっていて,新しい何かを求めている状態だと言える.そう考えると,高橋や鈴木における転機のプロセスの始まりも,何かがうまくいかなくなるとき,自分を変えたいと思っているときと考えられる.

 杉浦(2001b)は,大学生を対象に転機の経験を調べた.そして,転機を経験したことがないという者は,自分のことを「マイペース」だと捉えることが多いことを明らかにした.このことは間接的に,転機のプロセスには「変わりたいという動機づけ」が必要なことを示唆する.マイペースな者は,危機に対しても強く変わりたいと思わず,マイペースで危機に対するだろうと考えられるからである.

 下山(1997)は,スチューデントアパシーの治療の難しさとして,スチューデントアパシーの者は,無気力の状況に親和的で,変わろうとする意図が少ないことを理由に挙げている.また森田療法でも,非自発的入院では,治癒率が低いという(鈴木,p.189).転機が訪れる条件は,本人が変わりたいと思うことなのであろう.


転機は危機のみにあらず

 ところで,ここまで本論で取り上げた転機は,主に危機に遭遇したときの転機である.このように危機を転機ととらえる見方は多い.しかしながら,必ずしも転機は危機だけではない.特に危機がなくとも,人は自分を変えていき,それを自分の転機ととらえることもある.例えば,杉浦(2001a)の調べた大学生の転機の中には,尊敬できる人に会って自分が変わったという記述が多かった.人生の転機に関する書物でも,人との出会い,師となる者との出会いは,人が変わるきっかけとしてしばしば語られる.この場合には,「尊敬できる人に会った→あんな風になりたい→努力→変わる→会ったことが転機として認識される」という一連の心の働きがあると思われる.また例えば,「ある本を読んで医者になりたいと思った→努力→医者になった→本を読んだことが転機」というプロセスもありうる.これらの例から考えると,必ずしも転機は危機の時だけではないと思われる.危機の時は変わらざるを得ない,もしくは強く変わりたいと思うから転機になるのであって,重要なのはやはり「変わりたいと思うこと」なのだと思われる.


変わりたいと思ったときに変わりはじめる

 ところでこの「変わりたいと思うこと」が変わる条件になるという現象は,生涯発達の理論に重要な影響を与える.それは生涯発達において,主観的な思いが重要な役割を果たしていると言うことである.つまり,自分が成長したいと思うことが成長の重要な要因であるということだ.なお,このことは杉浦(2001a)に詳しく説明されている.高橋は「私たちが心の底で自分を変えたいと思ったとき,私たちは変わり始める(p.238)」と述べるが,それは単なる啓蒙書の励ましの文句ではなく,自己変容の現象を的確に表しているのである.


転機のプロセス:2.空白の期間


 何かがうまくいかなくなったときに転機が始まる.何かがうまくいかなくなったとき,変わりたいという動機づけが喚起され,それが転機のプロセスを次に進めていく.だがもちろん変わりたいと思っても,すぐに変われるわけではないようだ.各論が示す転機のプロセスにおいて,もっとも興味深い共通性は,転機の始まりの後には何らかの空白もしくは無為の時期があるということである.詳しくは後述するが,この空白の期間は,人が変わるにあたって非常に重要な役割を果たしている.

 ブリッジズはこの時期を,「ニュートラルゾーン」,「名づけられていない場所」,「この世の空白の場所」などと言い,「多くの人々は,ニュートラルゾーンに入ると,本質的な空虚感を体験する.昔の現実は色あせ,もはやなにも確かな感じがしなくなる(p.155)」と述べる.それは,「終わりのプロセスの自然な結果(p.156)」である.ニュートラルゾーンは,転機の始まりとしての「終わり」における「離脱・覚醒・方向感覚・アイデンティティの喪失」から連なる心の働きであり,また新しい生活構造を見出すためのモラトリアム期間になっている.

 ブラマーは,転機が始まり,周期的な感情を経験した後,「感情を最小限に抑えた段階」,さらにはそれに引き続いて「うつの段階」が訪れると言う.さらに,そのような状態になるのは,私たちの自然な心理的防衛が機能を発揮して,喪失や別離などの経験をできる限り小さいものにしようとするためだと述べる.


 第三のクリティカル・ポイントでは,私たちの自然な心理学的防衛が十分その機能を発揮します.この防衛の姿勢は,喪失または別離という経験を,できる限り小さなものにしようとするものです(p.60).


 自尊心がなくなるにつれて,うつに伴う感情が増大してきます.(中略)何かをしようとする意欲が衰えて,不眠や食欲不振がひどくなって,誰がいようと,何がなされようと,依然として気分は沈んだままです(p.69).


 このクリティカル・ポイントでのうつ的感情の解釈や,うつに対する反応における個人差には関係なく,ほとんどすべての人々が「疎外感」,つまり,身の回りの出来事や現実から引き離されたような感じを経験したと報告しています.ふつう楽しいこととされている行為の中にさえ,彼らは楽しみを見出せません.もはや趣味に心惹かれるとか,関心を奪われるといったこともなくなってしまいます(p.71).


 大久保は,転機の3つのタイプのうち,外発型に空白の期間に相当する「アノミー状態」のプロセスがあると述べる.外発型では,「生活構造の剥奪→アノミー状態→レディネス状態→契機→新しい生活構造の構築」のプロセスをたどる.


 内的必然性のない,しかも急激な生活構造の解体は,個人をアノミー状態に陥れる.それは既存の生活構造がすでに失われたにもかかわらず,それに変わるべき新しい生活構造の構築に未だ着手できずにいる状態である.もっともそういう状態にあっても個人は日々の生活を送ってはいるのだから,それなりの生活構造は存在しているはずだという見方もできよう.ただし,その場合の生活構造は蝉の抜け殻のように空虚なものでしかない(p.158).


 高橋は,この無の時期を古い解釈を捨て,新しい解釈を生み出すまでの過渡期ととらえている.


 人が新しい解釈を見つけ出し,自分と自分の周囲を変え始めるまでには,人は古い解釈の中で悩み,もがき,苦しむ時を過ごさねばならない.古い解釈ではどうしても自分の直面している問題を解決できないことを知り,ある種の絶望の中で,こころは新しい解釈を生み出すのである(p.75).


 空白の期間の意味を考えるにあたって最も興味深いのは,鈴木の示した森田療法における転機である.よく知られたことだが,森田療法では,ちょうど転機のプロセスに表れるような空白の期間をあえて療法の中に設けている.森田療法の入院療法では,全くの気晴らしを禁止した7日間の「絶対臥褥」の時期と,数ヶ月の作業(「一見無価値の作業(p.169)」)の期間をおくのである.この時期は,治療に大きな効果を持つと考えられている.

 このような空白の期間の中で,人は変わるきっかけを何らかの形でつかみ取っていくようである.


転機のプロセス:3.空白期間における屈曲点


 転機の始まりの後に訪れる空白の時間は,これからの方向性も将来の展望も見られない時期であり,そのために絶望感や虚無感に苦しめられる時期である.ところが,この空白期間もある程度時がたつと,ある時から,前向きなエネルギーが湧いてくる時期が訪れるようである.前向きといっても,まっすぐ前を向いて,まっしぐらに進んでいくというよりも,とりあえず下を向いていた顔を上げてみよう,もしくは立ち上がって第一歩を踏み出してみようというような,ささやかな前向きさである.

 例えばブラマーは,人は空白の時間を癒しの時間として過ごすことによって,自然に積極的,楽観的な態度が湧いてくると言う.


 通常,このうつの段階からより積極的で楽観的な態度への移行は,癒しの過程の一部として自然に行われます(p.38)


 (空白地帯の)経験のひとつの解釈として,私たちはある程度の時間,つまりじっくり考えて,自分自身をいやすための何かを試みるための空白の時間が必要です.過去から抜け出て,未来への新たな可能性をつかむための時間が必要です.

 空白地帯の経験は私たちを当惑させます.何か「しなければならない」という意識が芽生えてきます.何かをしていなければならないと感じます.何もしないでただ時間をやり過ごすという発想は,絶えず何か生産的な仕事に関わってきた人たちには理解しがたいものです(p.71).


 大久保は,転機の一タイプである外発型において,アノミー状態が,あるときから新しい生活構造の構築に対するレディネス状態に変わるとしている.このレディネス状態において,人は変わるきっかけを無意識に探し,選び取り,変わっていく.


 アノミー状態がある程度沈静化すると,個人は新しい生活構造の構築に対してレディネスの状態に置かれる.それは自己の周囲にアンテナを張り巡らせて,新しい生活構造の構築への契機となるべき出来事を無意識のうちに探し求めている状態である(p.158).


屈曲点としての絶望

 時には,前向きなエネルギーは,空白期間における絶対的な「絶望」によってもたらされることもある.空白の時間においては,行動の方向性や将来への展望が失われるため,しばしば「絶望」が感じられる.ところが,この絶望感の中のある時点において,絶望に奇妙な安堵感が混じる時がある.高橋は,ある種の絶望の中で人が新しい解釈を生み出していくことを示している.


 人が新しい解釈を見つけ出し,自分と自分の周囲を変え始めるまでには,人は古い解釈の中で悩み,もがき,苦しむ時を過ごさねばならない.古い解釈ではどうしても自分の直面している問題を解決できないことを知り,ある種の絶望の中で,こころは新しい解釈を生み出すのである.新しい解釈は,古い解釈の中で「熟成され」,絶望という現実の検証に耐えて生まれてきたものである(p.75).


 人生のさまざまな場面で,古い解釈が行き詰まったとき,絶望がおとずれる.しかし,人が絶望することができたとき,新しい解釈が生まれ始める(p.108).


 「自分のことがわからなくなりました」という言葉も人が変わるときに特徴的である.これは方向感覚の喪失を訴えている言葉である.なぜ,自分がわからなくなったのか,それは,新しい自分が古い解釈の枠組みを超えて動き出しているのに,それを昔のままの解釈で理解しようとしているからである.

 古い解釈が役に立たなくなった.しかし,新しい解釈がまだ自覚されないとき,人はいまだ言葉にならない新しい動きに身を任せ,「自分を放っておく」ことにするのである.(p.44)


ブラマーも,


 この段階で嘆き悲しんでいる人は悲観的な見方しかできず,将来に対してもさらに不幸な展望を示します.(中略).時には,第二段階の終わりの情緒的経験は,最悪の事態は終わったという,静かな自信のひとつとなる場合もあります.(中略).いま「自分は不幸のどん底にいる」と思ったちょうどその時に,勇気や希望といった力もまた動き出します(p.56)


と述べている.

 さらに鈴木も,


 転機には,本人の主観において絶体絶命に落ち込んだと直感することが大きな動機となるものらしい(p.179).


 絶体絶命の時はこの人と思う人に自分をうちまかせる態度がおこり,「かくあるべし」という当為をはなれ,自力をはなれて,自然に心の転回を惹起しやすい.森田療法の場合の「出会い」「機縁の熟しためぐりあい」とはこのようなどん底に落ちた場合であろう(p.180).


と述べ,絶望のどん底において心的転回が起こりやすいことを示している.

 ブリッジズが,「ニュートラルゾーンの最初の活動あるいは機能は『降服』である(p.157)」と述べるのも興味深い.ブリッジズは,「人は空虚感に屈服し,それから逃れようとじたばたすることをやめなければならない(p157)」という.いわば,空白の期間において,絶望感に身を任せないといけないと言っているのである.

 これら空白期間における絶望についての考え方は,どの書も非常に似通っている.ここでの絶望とは,「もはやこれまで」と行動をあきらめることである.人が何かから逃れようとするのは,まだ逃れられるかもしれない,という希望があるからである.その希望をすべて捨て去ったときが「絶望」の時期であり,その時に不思議な安堵感が生まれるのである.

 これとは逆に希望を持ったことが不幸をもたらした例がある.フランクル(1947)の「夜と霧」において,ある者が収容所からの開放の夢を見た.彼は,その夢を希望のよりどころとしていた.しかしながら彼は,まさに解放されると夢に見た日の翌日,病気が重くなり,死んでしまったのである.彼の絶望は,ここでの絶望とは異なっている.彼の絶望にはまだ希望があったのである.

 筆者がかつて調べた転機の報告においては,この転換点はしばしば「開き直り」という言葉で表現されていた.それまでなんとか苦しい状況を変えようと努力したけれども変わらない,そのような無力感につながりそうな行動の後,ふとある時,開き直って,物事を別の視点から見られるようになるである.

 このようなすべての努力をあきらめた安堵感の中で,人は自己を客観視するようになるようだ.高橋はそれを,「自己を客観視できる能力」と言っている.ただし,それは単なる自己意識ではないと思われる.自己に注意が固定・固着されるのではなく,見るともなく自己を見るような状況である.それは公的自己意識のような,こうあるべきだという当為を離れて,自己を観察する視点である.このような視点で自己を見ることで,高橋の言うような「新しい解釈」が見出されるのだと思われる.


空白の期間の意味

 人は,空白の期間において,絶望に代表されるような屈曲点を経て,変わる方向へと動いていく.そのように変わる方向に動くにあたって,空白の期間は非常に大きな役割を果たしている.ここでは空白の期間が,人が変わるに当たって果たしている役割について考えていこう.この空白の期間には,3つの役割があると思われる.

 ひとつは,何もしないということによって,次第に何かをしなくてはという意識が起こってくるということである.普段目的的に生きている私たちにとって,危機によって起こった空白の期間は,このままではダメだ,変わりたいという動機づけを喚起させるのである.


 空白地帯の経験は私たちを当惑させます.何か「しなければならない」という意識が芽生えてきます.何かをしていなければならないと感じます.何もしないでただ時間をやり過ごすという発想は,絶えず何か生産的な仕事に関わってきた人たちには理解しがたいものです(ブラマー,p.71).

 ここで興味深いのは,空白の期間によって私たちに「何かしなければならない」という意欲が湧いてくるのは,私たちが空白の期間を非生産的で無駄な時間と考えているためだということである.言い換えるなら,私たちが「空白の期間には意味がない」と考えているからこそ,空白の期間に意味があるのである.これはまさに「無用の用」である.

 ふたつめは,変わるためには時間が必要であるということである.高橋が「新しい解釈は,古い解釈の中で熟成され(傍点筆者),絶望という現実の検証に耐えて生まれてきたものである(p.75)」という表現も,人が新しい解釈を生み出して変わるためには,時間が必要であることを表現している.

 大久保は,生活構造の終焉の後,何らかのきっかけを経て変わることを示したが,そのような変わるきっかけとなる出来事が訪れるまでには,やはり時間がかかるのである.杉浦(2001a)は,転機は物語の性質を持っていると述べたが,転機の物語が完成するためには,自分が変わるきっかけになるようなプロットを待つ時間が必要なのである.空白の期間は,そのような出来事が起こるまで,もしくは新しい心の解釈ができるまでの待つ時間・準備期間になっているのである.

 3つ目は,空白の期間が,新しい生活構造,新しい解釈,新しい方向性を生み出すと言うことである.私たちは,動機づけや目的意識をしっかり持たなくては,行動の方向性もエネルギーも十分に得ることができない.動機づけや目的意識は,私たちに明確な行動の方向性とエネルギーを与えてくれる原動力であると同時に,行動の方向性を固定するドミナントストーリー(White & Epston,1990)であり,変わろうとするときにそれを阻む足枷でもある.もし人生をライフコースと考えたとしたら,動機づけや目的意識があるということは,目の前に道が見える状況である.もちろん問題が無ければそのまま歩いていってもいい.だが,これまで歩いてきた道の方向性に問題が出てきているのに,道が前に伸びていると,ついその道を行ってしまいがちになる.しかし方向性の異なる道を行っても,物事は解決には近づかないし,いつかはそのズレ・違和感が耐えられないものになる.そのズレに気づいたときが,いわば転機のプロセスの始まりとしての「終わり」である.

 これに対して,空白の期間は,ライフコースの道が見えない状態である.この状態では,もちろん将来に対する展望も見られず,絶望感にかられることもある.しかしながら,それはこれまでの方向性とは全く異なった道を探し出せる可能性を秘めた状態でもある.空白の期間だからこそ,新しい生活構造,新しい解釈のブレークスルーが起こるのである.


転機のプロセス:4.変わるとき,変わる瞬間


 さきほど空白期間においては,前向きになる屈曲点があると述べた.そのささやかな前向きさは,私たちが何らかの変わるきっかけを見い出す無意識のエネルギーになっている.私たちは,無意識に(時には意識的に)変わるきっかけを探しているのだ.

 大久保によると,人は新しい生活構造の構築のためのレディネス状態におかれることによって,転機のきっかけを無意識的に探し求めるという.変わるきっかけは,「そこにある」というよりは,無意識だが,能動的に探されるのである.


 こうしたアノミー状態がある程度沈静化すると,個人は新しい生活構造の構築に対してレディネスの状態に置かれる.それは自己の周囲にアンテナを張り巡らせて,新しい生活構造への契機となるべき出来事を無意識のうちに探し求めている状態である(p.158).


 時には,高橋が挙げた例のように,空白期間における屈曲点自体が変わるきっかけとなることもある.その際には,必ずしも前向きな変わりたいという気持ちがなくても変わることができるようだ.高橋は,事故で足を切断し,絶望していた人が,6月の朝の光に「不覚にも」美しいと感じ,変わっていった例を挙げている.


「思い返してみると,朝の光をみて『あ,きれいだな』という言葉が浮かびかけたとき,私は自分のこころに裏切られたような気持ちを味わったのです.なんだかおかしな話だけれど…….不覚にも,たかが朝の光をきれいだなんて,ね.」

(中略)それまで,自分の不遇を嘆き,絶望だけに塗り込められて,その後の長い人生を送るのだと,清水さん自身は思っていた.ところが,こころのほうは勝手に病院の窓から差し込む朝の光などという,毎日見慣れているはずのシーンに感応して動いてしまった.

 この日を境に,いやこの瞬間を境にして清水さんのこころの病気は飛躍的に快方に向かった(p.87).


人生の創造の現場としての変わる瞬間

 この高橋の例もまさにそうなのだが,人生の転機を示した自伝やインタビュー資料には,しばしば転機における「変わる瞬間」が示される.この「変わる瞬間」はしばしば意識状態が低下しているようなときに起こることが多いようだ.


例えばブリッジズは,次のように述べている.


(転機の)最初のヒントは,「観念」,「印象」,「イメージ」として出現することが多かった.その体験をひと言で表現することはできないが,何かの情景や活動のイメージが生まれ,それに心が惹かれるという状態だった.そのようなイメージが生じていても,それに気づいていないということもよくある.それはぼんやりとした白日夢のように,意識できるぎりぎりのレベルの体験なのである(p179)


 高橋が示した,朝の光に感動した人も,まだ目が醒めやらぬときに転機が起こっているし,大久保の示した文芸評論家の佐古純一郎の例でも,「独り山の中で寝ころんでそれ(聖書)を読むともなくながめる毎日を送っていた(p.158)」ときに変化が起こる.鈴木も森田療法において,臥褥の期間や作業による「三昧(あることに集中して,忘我の状態になること)」の状態に変容が起こりやすいと述べている.

 またベストセラーになった『五体不満足』における乙武氏の転機は,夜中,寝付けず,ぼーっと生きる意味について考えていた時に起こっている(乙武,1998).

 このような変わる瞬間は,科学上の発見の瞬間とよく似ている.例えば,入浴中にアルキメデスの法則を発見し,「ユーレカ(我発見せり)」と叫んだアルキメデスや夢で自分の尾を口にくわえた蛇を見たことからベンゼンの輪を発見したケクレと同じことが転機のプロセスにおいて起こっているのである. そういう意味で,転機での変わる瞬間というのは,新しい人生の発見であり,人生の創造であると言えるのではないだろうか.科学上の発見においては,そのことについて無意識的に考え続けていることによってひらめきがわくと言われる(中山,1979)が,転機での変わる瞬間も同じ特徴を持っているのである.

 ブリッジズは,変容のプロセスは,本質的には死と再生のプロセスだと述べる.そして,エリアーデの言を借り,「(原始的・伝統的文化では,)カオス(混乱)への象徴的な回帰は新たな創造のために不可欠である(p.157)」と述べている.転機のプロセスは,人生という創造活動の現場なのである.


転機のプロセス:5.転機の語り


 ただしこれは,変わる瞬間に転機が訪れるというわけではない.大久保は次のように述べる.

 

 「転機はある一時点における単発の出来事ではなく,一連の出来事から成る過程」である.またすべての転機は回想的である.それは常に「今にして思えば」という注釈付きで語られる.このことは転機として語られる出来事が当時は必ずしも重要な出来事として認識されていたとは限らない(p156).


 大久保の場合,分析の資料が「私の転機」と題されたコラムであったこともあり,すべての転機,そしてその変わり目はすべて回想的である.またブリッジズも,「実際の始まりは,それとなくあまり印象に残らない形で生じる(p.177)」,「外界での新しい『始まり』が明白になり,それが急速に進むような場合でも,それに見合う内的な変化や着手はゆっくりとしか起こらないのである(p.195)」というように,変化の始まりを回想的なものととらえている.前述高橋の変わる瞬間の例も,「いまにして思えば,…」と語り出されている.

 確かに変わる瞬間はあるのかもしれない.しかし,本当に変わったと確信するためには,変わったことが確認されるための時間や,それを確認する心の中の作業が必要なのである.杉浦(2001a)は,転機が物語の性質を持っていると述べた.変わる瞬間が転機として結実するためには,それを転機の中心になる重要なプロットとして位置づけた「転機の物語」が創造されていくことが必要なのだ.そして,転機の物語を創造していくためには,自己にたいしてか,他者に対してか,セラピストに対してか,転機の物語が語られる必要があるのである.

 科学上の発見,アルキメデスの定義もケクレのベンゼンの発見も,ひらめきを他者が理解可能な形で発表することによって初めて発見と認められるのである.科学論の野家(1993)は,科学上の「発見の物語」が科学の本質的な特徴であることを示した.科学とは「大きな物語」であり,「大きな物語」としての自らのアイデンティティを維持していくために,「小さな物語」としての発見の物語を求めているのである.同様に私たちも,自己という物語を保つために,転機の物語を必要としているのである.


転機のプロセスがもたらす変化

 私たちは転機によって様々な自己変容を認識する.私たちが転機によって認識する変化は,たとえ転機となる出来事が異なっているときでも,しばしば非常に似通っている.杉浦(2001a)は,青年期における転機の調査において,自分らしさの認識や視野の拡大,他者受容,精神的強さ,積極的行動などを多く見い出しているが,同様の変化は,本論で取り上げた文献にもしばしば見られる.

 それは例えば,自分らしさが分かることだったり,自分の進む方向性が分かることだったりする.


 あなたはあなた自身のものなのだという認識は,解放という経験から引き出される途方もなく自由な結論です.(中略).あなたは再び人生が自己管理できるようになったことを感じるでしょう.それに前を向いてもっとはっきりと新しい人生の可能性をとらえることができるようになるでしょう(ブラマーp.79).


 そこで浩子さんは本来の自分を取り戻し,自由に振る舞えるすべを獲得したのである(高橋,p.47).


 例えば,前向きになったり,積極的,楽観的になったりすることである.


 「人生は今生きているよりももっと価値があるものだ」「私はついに穴から抜け出た」「前進するときだ」(中略)この段階で勢いを増した力やエネルギーは,確実なものになりながら働き続けるでしょう.(ブラマー,p.84)


 例えば,視野が広くなったり,物事を別の角度から見られるようになったりすることである.


私はまるで目から鱗が落ちたような感じで,はじめて世界が見えました(ブリッジズ,p.153)


 ニュートラル・ゾーンは,人生の他のどこでも得ることができないような人生の見方を提供する(ブリッジズ,p.159)


 このような変化は,転機のプロセスと密接に関連している.これらの変化は,どれも転機の一過程である空白の期間において失われていたものである.空白の期間においては,進む方向性は分からず,将来は見通せず,「自分はもうおしまいだ」といった固着した絶望にかられ,アイデンティティは失われ,生きる意味や働く意味,行動する意味は分からず,無力感にさいなまれ,立ちすくんだ状態になる.それが転機の一連のプロセスを経験し,空白の期間において失われていたものが回復したとき,いったん失われていたことの存在がより強く感じられるようになるのである.私たちは,喪失と回復という転機のプロセスの中でこそ自分の変化を感じられるのである.

 ただ,それは単なる回復ではない.例えば,かつて仕事に邁進していた人が,自分のしている仕事の意味が分からなくなり,他の仕事に手を出してみたり,いろいろ迷ったあげく,再び自分の仕事のやりがいを見出して,前向きに仕事に取り組めるようになったとしよう.そのように迷ったあげく手に入れた前向きさは,迷う前に仕事に邁進していた前向きさと同じものであるとは言えないだろう.それは,危機を乗り越えた自信や,なにもしないことのしんどさや,客観的に(一歩離れて)見た自分の姿や,明確化した仕事をする意味の付随した前向きさであり,表面上は同じ「前向き」という言葉でも,その前向きさを支える土台が大きく異なるのである.転機後の前向きさという氷山の一角の下には,その何倍もの隠された土台があるのである.転機後の前向きさは,より安定した前向きさなのである.

 転機のプロセスを経験することで起こるこれらの変化は,多くの人に共通する.だからといって,そのことは,すべての人が同じような成長のプロセスを示すということを意味しない.すべての恋愛小説が恋愛を扱うからといって,すべて同じ物語であるわけではないのと同じように,転機の物語がすべて同じ成長物語であるとは言えないのである.同じように恋愛が成就する(もしくは恋愛が破局する)物語でもその形が異なるように,得られる成長が同じだからと言って,転機の物語がみな同じであるとはいえないのだ.

 私たちが変わるためには,その物語は一回限りの(自分にとっての)オリジナルな感動を誘うものである必要があるのだ(たとえ端から見ると陳腐な物語に見えようが).そしてその転機の物語は,端から見ても感動を誘うものになる可能性を秘め,時には,他の人にも変わる力を与えてくれるのである.転機の書物が多くあるのは,私たちが創作する自分にとっての転機の物語が,他の人も変える力を持っているからなのである.


まとめ:人生という物語の創造の現場としての転機のプロセス


 本論では,自己変容をもたらす重要な一側面として転機のプロセスを明らかにしようとしてきた.そこで明らかになったのは,1.転機にはある程度,共通のプロセスがあるだろうということ,2.人は,共通の転機のプロセスを経験することによって,かなり共通した自己変容を経験すること,3.転機のプロセスは,学問や芸術における発見や創造のプロセスに類似していることであった.

 本論において明らかになったのは,私たちが人生という道のりをただ歩いているだけではないということだ.私たちの人生は,単なるライフコース,単なるライフヒストリーではない.転機のプロセスには,様々な危機と危険が満ちている.私たちは,それらを様々な発見とブレークスルーとによって乗り越えて,自分自身の行く道を発見していく人生の冒険者であり,自分自身の人生を作っていく人生のクリエーターなのである.人生は,私たちによって創造されるライフストーリー(やまだ,2000)であり,私たちによって発見されるフロンティアである.転機のプロセスは,人生という冒険の道程であり,人生という物語を創造するプロセスなのである.

NO REASON

 このHPの中でも,またスポーツ選手と個人的に話す時でも,私はことあるごとに,スポーツをする目的・スポーツをする意味を明らかにすることを推奨してきた.


 これはなぜかというと,人は意味の無い行動にはやりがいを見出せないからです.私たち人間にとって,目的の無い行動を続けさせられるのは拷問と言ってもいいだろうと思います.例えば,ギリシャ神話には,ある罰として,山の頂上に大きな石を運び,頂上につくと,その石を今度は山の下まで運び,下につくとまた石を頂上まで運ぶという永遠の苦役を続けさせられる神様が出てきます.


 私たちはスポーツをする意味や目的を明らかにすることで,競技にやりがいをもち,集中して取り組むことができるようになります.だからこそ,私はスポーツ選手がしっかりとした競技をする目的を持つことを勧めるのです.


 しかしながら,矛盾するようですが,競技に対して高いやる気と集中力を持って取り組んでいる選手は,「自分にとってこれ(競技)をする意味は?」などと考えていないものです.むしろ,けがやスランプに陥ってやる気を失っている者が「こんなこと(競技)をやっていてはたして意味があるのだろうか?」と悩んでいるものです.


 非常に矛盾するようなのですが,


スポーツをする意味は?と問いかけるその最終目標は,意味を考えなくてもよいようになること


なのです.つまり,競技をするのは,自分にとって当たり前,今の自分にとって必要なものと考えられるようになるためなのです.



 私は調査研究でスポーツ選手に多くインタビューをしているのですが,長く競技を続けているスポーツ選手にインタビューして,あなたはなぜ競技をしているのかと聞くと,しばしば「好きだから」「していない自分は考えられないから」「自分にとって切り離せないもの」など,非常にシンプルな答え,シンプルな競技をする理由が出てきます.


 かれらにとってスポーツは,ちょうど長年連れ添った夫婦のように,特に一緒にいる理由がいらないものになっているのでしょう.競技とそんな付き合いができるようになることはスポーツ選手のスポーツ選手の目指す一つの理想なのかもしれません.



でも考えてみたら,現役スポーツ選手で長年連れ添ったパートナーがいる人はあまりいませんか(笑).

故障の泥沼に注意

 スポーツ選手なら誰しも,目標設定の大事さを認識していることだろうと思います.人は高い目標(理想)を持つからこそその理想に向かって努力できるし,その目標にたどり着くことができるのです.しかしながら,時に高い目標・高い理想は,自己否定・現実否定に伴う無気力につながってしまう可能性があります.


 ある時メールをもらいました.やる気は十分あるのだけれど,けがをしてしまっていて,治りかけては再発を繰り返しており,先のことが考えられなく,やる気を失いがちであるとのことでした.

 これは実際よくあることです.けがをしているにもかかわらず,高い目標を目指すがために無理をしてけがを再発させ,次第に「学習性無力感」になってやる気を失ってしまう,ときには競技からドロップアウトしてしまう例が後を絶ちません.


 自尊心の研究が明らかにするところによると,自尊心の低い人は,目標の低い人ではなく,むしろ分不相応の,現実の自分を無視した高い理想を持つ特徴があるということです.「目標設定のメリットとデメリット」でも書きましたが,目標や理想があまりにかけ離れたところにあると,その目標は私たちに力を与えてはくれず,むしろ現実の自分を否定するように働いてしまうのです.


 けがにおける問題は,理想は変わっていなくても,自分の現状が変わると,目標が不当に高いものになってしまうことです.身体が元気な時は十分にたどり着ける,そしてエネルギーを与えてくれる目標も,けがをしている時には,目標は強いプレッシャーになってやる気を蝕むのです.


 けがを繰り返している人は,自分の現状を見失っていないか?理想の自分に無理矢理近づこうとしていないか?を自問自答する必要があるのでしょう.


 もちろん,時には重要な試合が近づいているにも関わらず,けがが完治していないために,ある程度無理をしないといけないという状況も十分に考えられます.そんな時は身体が元気な時のように「ホットなやる気」で目標にまい進するのではなく,「ホットなやる気」を少し隠して,今,自分のできること,例えば良い医者を探したり,けがに効く治療法に関する情報を集めるなどの行動をクールにこなす「クールなやる気」が大事なのです.


 けがをした時は自分の足元を見るのです.理想と現実がかけ離れすぎないように,理想や目標に囚われることなく,「今できることを精一杯する」のです.

楕円球は努力した者の方に転がる

 みなさんご存知の通り,ラグビーボールは楕円形をしています.ときどき「人生はラグビーボールのようだ」といわれたりします.いわく「どちらに転がるか分からない.」そこにラグビーにも人生にも面白さがあるのですが・・・


ですが,どうもラグビーボールはどちらに転がるか分からないわけではないようなのです.

ボールは努力した者の方に転がる」んだそうです.

この言葉はあるラグビー選手に教えてもらった言葉で,彼は中学の先生から教えてもらったそうです.

彼がこの言葉を「実感」したのは,高校3年の時の全国大会でした.

彼はそのときひざを怪我しており,全力で走れない状態でした.

 敵陣内でのスクラムから,相手にボールが出て,キックで逃れようとするところ,インターセプトをしようと味方がいっせいにラッシュしました.彼も,彼の言うところの「全力でダッシュ」したそうです.しかしながらいかんせん怪我で全力で走れない状態であり,他の選手よりもワンテンポ遅れてしまったのです.

 ところがそのワンテンポ遅れたところへ,味方がインターセプトしたボールがまさに目の前に転がってきて,彼はそのままトライを奪ったのです.

 彼は高校時代,ありとあらゆる怪我をしたそうです.ラグビーはそういうスポーツだと言ってしまえばそれまでですが,無傷な時はほとんどなかったようです.しかしながら,このときばかりは怪我が幸いしたのです.

彼は言います.「もし怪我をしていなくて全力でダッシュできていたら,トライは取れていなかっただろう」「僕は別に神様は信じないけれど,この時はラグビーの神様が自分のところへボールを転がしてくれたんじゃないかと思いました」

彼は今でもラグビーを続けています.相変わらず怪我につきまとわれているのですが・・・

彼が信じて努力する限り,いつか彼のところにボールは転がってくるのです.

今日一日絶対にシロクマのことは考えないでください

-開き直るということ-

 はじめにこの文章を読む前にひとつお願いをしたいと思います。表題にもありますが、

「今日一日、絶対にシロクマのことは考えないでください」



 最近、弓道の選手に話を聞く機会がありました。お酒を飲みながら、メンタル面の問題についていろいろ話を聞いたのですが、レベルの高い選手の方たちでしたので、問題も究極的なところに行き着き、弓道の団体戦などで、この一矢で勝負が決まるという土壇場のときに、どうしても不安になったり、いろいろ考えてしまう、そういうときにどのように心をコントロールしたらいいのか、何ができるのか教えてほしいというのです。私はその場では即答できず、ずっと考えていたのです。


この一矢で勝負が決まる。このような機会は様々なスポーツで訪れることなのですが、そんな時いったいどうしたらいいのでしょうか?


私の答えは、「開き直るなよ~!」と非難されそうですが、「余計なことは何もするな!」ということです。つまり「開き直れ!」ということです。


この一本の矢で勝負が決まる、そんな時に「新たに」やることは何もないのです。逆にそこで「何とかしよう」と思うと、その「何とかしよう」という心が邪魔になってしまうのです。


はじめに「シロクマのことについて考えないでください」と言いました。でもみなさんはついシロクマのことについて考えてしまったのではないでしょうか?この文章を読む短い間ならまだしも一日シロクマのことについて考えない人はいないのではないかと思います。人間は、考えないようにしよう、と思うと逆に考えてしまうのです。


「不安になるまい、緊張しないようにしよう」と考えたり、その考えを打ち消そうと努力しようとすると、矢を正しく射るための活動にプラスして、もう一つの心的活動をしなければいけなくなります。心理学の世界では、二重課題と言います。たとえるならわざわざ歌を歌いながら、算数の問題を解くようなもので、当然のことながら肝心の算数の成績は落ちてしまうのです。


緊張するから、不安になるから成績が落ちるのではないのです。緊張や不安に対して、成績が落ちないように何とかしようと余計な心のエネルギーを使うから成績が落ちるのです。


「緊張しまい、不安になるまい」と考えるのではなく、「あ~、緊張しているな」「あ~、不安になっているな」と思っても、それが当たり前と開き直って、正しく矢を射るために集中する。やるべき事をやる。そんな開き直りの心が最後の一本での平常心をもたらしてくれるのです。




 蛇足ながら、どこまで関係するかどうかはわからないのですが、私が今取り組んでいる転機の研究には、しばしばどん底に落ちた時に「開き直り」、危機から抜け出すことができたということがしばしば見られます。「開き直り」ということは、スポーツ選手の心理的成熟にあたって非常に重要な心理状態だと思うのですが、実はまだ私の中では十分捉えきれておらず、今後研究を進めていきたいテーマになっています。

理由と言い訳は紙一重

 私のメントレの基本は、「根性出し惜しみ」であり、自分を知り、合理的なトレーニングによる能力の向上を目指すことなので、どちらかというとあまり厳しいことは言わないほうなのですが・・・今回は少し厳しいことを言いたいと思います。


 近年は運動生理学やスポーツ科学も進歩してきて、科学的・合理的な根拠に基づいたトレーニングが行われるようになってきています。科学的・合理的に意味のないトレーニング、もしくは逆効果のトレーニングは排除され、より効率的に能力を高めることが可能になっています。例えば、足腰を鍛えると言われたうさぎ跳び(「巨人の星」で有名ですよね)などはもう行っているチームは皆無でしょう。もちろん科学的・合理的トレーニングが重要であることは言うまでもないですし、そのようなトレーニングが「主流」になることはとてもよいことです。


 しかしながら、理由と言い訳は紙一重です。


 為末大という陸上競技のハードル選手がいます。彼は高校記録をひっさげて大学に入ったのはいいのですが、1,2年生のときにはなぜか記録が伸びず、スランプに陥ります。ところが3年生・4年生になってから再び上昇気流に乗り、ついには世界選手権で3位まで上り詰めたのです。


 彼は、後になぜ1,2年生の時に記録が伸びなかったのかという事に対して、大学に入ったらシステマチックにスマートに科学的トレーニングを行おうとしていた、ところが結局それは絶対的な練習量の不足につながってしまったと言います。彼はあるとき、このままではダメだと一念発起して、中学や高校でかつてやっていたような、彼の言葉では「がむしゃら練」を始めたのです。専門外の100mの選手や400mの選手について走ったり、意味など考えずにひたすら動くような練習を続けた結果、スランプを乗り越え、海外遠征で得た経験もプラスして、世界選手権3位という結果を出したのです。必ずしも「がむしゃら練」が効果的であったわけではなく、逆効果のこともあったそうです。フォームなども崩れたと言います。しかしながら、全体的なキャパシティは上がったと言います。


 理にかなった科学的なトレーニングも、それが長く続いて惰性になると、常に言い訳や妥協、自分の限界を限定してしまうものになりえます


 運動生理学的に言っても、同じトレーニングを続けていると身体がその刺激に適応してしまい、トレーニング効果が薄れてしまうことが分かっています(というか「トレーニング漸増性の原則」という「常識」です)。時には不合理とも思える、また意味が無いと思える「がむしゃら練」が自己の身体的・心理的限界を破りうるのです(いつも不合理なトレーニングが「主流」では困りますが・・・)。

 

 そういえば、私の好きな選手の一人である阪神タイガースの藤田太陽投手がオフに「不動の滝」に打たれたことが賛否両論を巻き起こしたのも記憶に新しいことです。


そこでの批判の中心は「そんなことをしても意味はない」でした。


 でも、そんなことをしても意味がない、というのは合理的であると同時に、限界の設定になってしまいます。高橋尚子がオリンピックの前に3000m超の高地トレーニングをしたときも同じ批判が起こりました。


 しかしながら、高橋尚子は金メダルを獲得しました。そして、藤田投手は、4月17日現在、3試合に登板して防御率1.50、セリーグの2位につけています。