生命炭素鎖の化学
私たちは、世界で最も精密な「ものづくり」と言われる有機合成化学を武器として、生命機能の解明や創出に取り組んでいます。特に、「脂質」の新しい化学合成技術を開発し、未踏の生命機能の開拓に挑戦しています。「脂質」は、四大生体分子(核酸、ペプチド、糖、脂質)の中で最も炭素原子を豊富に含み、有機化学が得意とする分子群です。しかし、他の生体分子群に比べ、多様な分子種にアクセスする合成法が乏しく、生命機能解明や創薬応用が大きく遅れています。私たちは、現代の有機合成化学に課された、この「ものづくり」の問題を解決し、「人に感謝される分子・技術・知識」を生み出すことを目指しています。
生命現象の中枢を担う鎖状分子を「生命鎖」と呼びます。通常、生命鎖は①DNA・RNA鎖(核酸)、②ペプチド鎖(タンパク質)、③糖鎖(糖類)の3つを指します。一方、核酸、タンパク質、糖類と並び“四大生体分子”に数えられる脂質にも、生命に欠かせない鎖状分子が存在します。それは、「脂肪酸鎖」です(図1)。生体脂肪酸は、基本的に直鎖状の炭化水素鎖をもち、炭素数、不飽和度、不飽和結合の位置や立体化学、官能基などの組み合わせによって数千〜数万種類の構造多様性が理論的に考えられます。この「部分構造の並び方」を「配列」と捉えると、 脂肪酸鎖の機能もまた高い多様性をもつ 「配列」に支配されていると考えることができます。
図1. 生命に欠かせない鎖状分子:生命鎖
上述のとおり、脂肪酸鎖の配列は莫大な多様性をもちます。一方、脂肪酸鎖配列と生命機能の関係は全くと言っていいほど明らかになっていません。例えば、生体脂肪酸として主要な長さである炭素数3〜22の脂肪酸について、二重結合の数・位置・立体化学(cis/trans)を考えた場合、理論的に考えられる配列の組み合わせは約6千6百万種類にも及びます。実際には、炭素数23以上の脂肪酸も存在し、水酸基などの官能基をもつものも存在するため、その配列多様性は天文学的な数字に上ります。この中で、現在存在が確認されているのは2千種類にも満たず、よく研究されている脂肪酸はわずか20〜30種類しかありません(図2)。
図2.
医薬品となる分子の種類や創薬手法のことを創薬モダリティと呼びます。代表的な創薬モダリティとして、低分子、抗体、核酸、ペプチドなどが挙げられます。医薬品は、基本的に生体分子に作用してその機能を抑制したり活性化したりして調整することで疾患治療を実現します。そして、創薬モダリティによって標的にできる生体分子が異なります。例えば、低分子医薬の多くは酵素や受容体の活性ポケットに結合し、それらのタンパク質の機能・活性を調整します。従来はこの低分子医薬が主流でしたが、低分子医薬だけでは標的にできないものが多く存在し、抗体医薬、核酸医薬、ペプチド医薬などが登場してきました。
一方、これらの既存の創薬モダリティにおいてもなお、全ての標的を網羅し、全ての疾患を治療できるわけではありません。そのため、新しい創薬モダリティの創出は創薬・疾患治療において極めて重要な課題と言えます。
現在盛んに研究されている低分子、抗体、核酸、ペプチドなどの創薬モダリティでは標的にできない代表例として「生体膜」があります。生体膜は細胞膜や細胞小器官(オルガネラ)膜のことです。生体膜は単なる仕切りではなく、細胞機能に大きく関与しています。例えば、生体膜の流動性や柔軟性、膜厚などによって膜上に存在する酵素やタンパク質の機能・活性が変化します。また、物質透過性や細胞の運動性も変化し、細胞の機能に大きく影響を及ぼします。
そこで、私たちは生体膜を標的とする新しい創薬モダリティとして“脂質”に注目しています。生体膜の主成分は脂質だからです。脂質には数十万種類以上の多様性が存在しますが、独自の合成技術を開発し、多様な脂質を生み出すことで“脂質創薬”の実現を目指しています。