砂防コーヒーの豆知識

1.世界を支える日本の砂防技術 コスタ・リカ

1963年コスタ・リカの中央に位置するイラス火山(3,432m)は大噴火し、地域一帯は火山灰に覆われました。雨が降ると火山から吹き出された降灰堆積物が一度に押し流されレベンダド川を下り麓のカルタゴ市などで壊滅的な被害をもたらすようになりました。懸命な復旧活動が行われたが、根本的な解決法が見つからないまま技術者達は途方に暮れました。荒廃した大地を見つめ、もっと上流に何らかの工事をしなければと思っては見たものの、どうしていいやら皆目見当が付かなかったのです。

 

1966年コスタ・リカの技術者メンデズは日本に渡りました。活火山の多い日本の砂防技術なら火山国コスタ・リカを復旧出来るのではないかと考えたのです。建設省(現在の国土交通省)を訪れたメンデズは富山県の立山砂防に案内されます。幸田文『崩れ』でも紹介された大鷲崩れを筆頭に100万立方メートル以上の崩壊地が20カ所以上もある場所です。数百年はかかると言われる大事業、白岩砂防堰堤を初め優れた技術が富山平野を守っている現実をメンデズは目の当たりにしました。

すぐに結果が出なくても諦めず長い年月をかけ崩壊を防ぎ、一方で土石流を砂防堰堤により落下エネルギーへと変換させています。滝を見ると判るように流れは落下エネルギーに変換され緩やかになります。このように日本の砂防技術の多くは自然を学び自然の法則を利用した物が多いのです。メンデズは砂防に係わるための心を立山の地で学びコスタ・リカへと帰国しました。


1967年より砂防部長の木村政昭と査定官の近森藤夫は技術指導のためにコスタ・リカへ渡りました。その後、工事計画を日本の技術で作って欲しいとの要請により、矢野勝太郎と横田知昭らもコスタ・リカへ渡りました。レベンダド川下流では通常30メートル程の川幅が500メートルにも広がり、民家、工場、コーヒー園、競馬場など跡形もなく押し流されていました。これ以上崩壊箇所からの土砂が流れ込まないようレベンダド川とレテス川の合流地点に34メートルのレテスダムを上流の荒廃地域には2基の砂防堰堤を計画し10基の砂防堰堤と共に街を守る基本計画は立てられました。また山腹には多くのユーカリの木が植えられました。

コスタ・リカのコーヒーはあまり注目をされてはいませんでしたが、80年代からは国際的な評価が高まり、バリスタ選手権にて世界の頂点を狙うバリスタ達に最も選ばれる豆のひとつにまでなりました。その陰に日本式砂防の心があることは、まったく知られていません。日本砂防の高い志は今もコスタ・リカを支えています。

(参考図書:1969年8月発行『水利科学』掲載コスタ・リカ国への砂防技術援助)


その後の調査により、当時の設計が日本のチームの計画通りには実現出来ていないことが判りましたが、高い志と情熱は、その後の砂防援助にも受け継がれています。SABOCAではインドネシアやブラジルの様子もお伝えする予定です。