Birch 先生と傘の思い出

2012年9月にイギリス・コヴェントリーにあるウォーリック大学(The University of Warwick)に滞在した. 上の Bryan Birch 先生との写真(11年前なのでだいぶ若い)はカンファレンス最終日に撮ったものだが, そこに至るまでには数々の試練と奇跡があった. 海外出張の思い出:後編 にも少し書いたが, それ以外の話を中心に書く.

この出張では, 自分の海外出張歴の中でもトップクラスのトラブルに見舞われた. 英語圏だから何とかなるだろうと思っていたので, 現地のルールなどをそれほど調べずに準備をしていたが, そんな出発前夜に同行する予定だった Jerome Dimabayao 君(フィリピンからの留学生で, 現在はフィリピン大学の准教授)から電話があり「ビザが大使館から発送されたと言われたのだけれど, 未だ届かない」との SOS. 数日前に確認の電話を入れるよう彼に補足しておくべきだったかもしれないと反省した. 彼はフィリピンに夏季帰省する前に申請していたらしいので, およそ2ヶ月前に手続きをしても間に合わなかったということになる. イギリスはビザ申請に関しては割と厳しいほうだという情報を後で知ったので, これから渡英する人でビザ申請が必要な人が近くにいたら教えてあげてほしい. ちなみに日本人はビジネスなどの用務でなければ半年間までの滞在なら申請不要である(これだけ調べておいたが, これが後で命拾いにつながる).

出発出来ないものはしょうがないので, ひとまず土曜の早朝に1人で福岡を出発することに. 大学の事務さんと ANA カウンターデスクの方に事情を説明して, 旅程をこなすこととなった. 成田からパリ・シャルルドゴール便に乗り継ぐのは簡単で, 少し空き時間があったのでイギリスポンドに換金. 5万円(マイナス端数)が360ポンドになった. 今思えばこのレートは大分お値打ちであり, 円安の今だと250ポンドくらいにしかならないだろう. ちなみにこのトランジットの空き時間で東大の宮谷和尭君(当時は東大数理, 現在は大阪公立大学講師)と落ち合おうと思っていたのだが, お互いのターミナルが遠すぎて断念した. ちなみに彼はフランクフルト経由でマインツへの出張だったと思う. ちなみにこの5年後, 跡部発君(北海道大学准教授)とドイツのマックスプランク出張だったのだが, 僕は ANA の SFC ホルダーのため ANA 国際線ラウンジの同行者を1名誘えるということでわざわざデュッセルドルフ便を合わせたこともある(僕はもっぱらビールを飲んでいたが, 彼はカレーを光の速さでおかわりしていた).

話を元に戻そう. 成田-パリ間の飛行機は, 当時の新型777(トリプルセブン)だったので非常に快適だった. エコノミーにも個別の電源プラグが備えられているのは現在では当たり前になりつつあるが, 当時は画期的だった. 食事もおいしかったし, シートはやや硬めかなとも思いつつ気にならない程度. 昼寝していたらパリ到着. ここから怒涛のハプニングが連発する.

第1の危機はこのシャルルドゴールで起きた. 20分到着が遅れたことで, トランジットのための時間は正味1時間半しかない. 荷物は直接バーミンガムへ向かうのだが, ここからエールフランス(Air France)に使用機が変わるため, 改めてチェックインをしなければいけない. ひとまず係員をとっ捕まえてどうしたらいいのか聞くと, フランス語訛りの英語で「ずーっとあっちに進んでシャトルバス乗り場を目指せ」と言われた. 従って進むも, どんどん人の気配はなくなり「おいおい大丈夫か」と心配になる. あと30歩歩いたら引き返そうかと思っていたところで「Shuttle Bus」の文字を発見. 係員に押し込められてバスに乗る...も, 発車する気配はなく運転手同士で雑談をしていた. 発車したのはそれから7分くらい経ってからだった.

ターミナル1からターミナル2Aへ. 更にここから別のシャトルで2Eを目指さないといけない. ところがシャトルの路線図を見て戦慄した. 何とシャトルは時計回りにしか進まない(2Aから2Eまでは2駅分しかないのに, わざわざ4駅遠回りしていかないといけないのだ). 焦りつつもバスに乗って2Eで飛び降りるが, チェックインカウンターがない. 見えるのは巨大な手荷物検査場だけ. どう考えてもこりゃおかしいと思っていたら, 別の外人さん数人がどうも同じような状況だった様子であった. 直後にその係員に聞くと一言「Follow them」(彼らの後をついていけ)と言われ, おかげで無事にチェックインカウンターへ. しかしそこでまたもやトラブル「UKに入るビザはどこ?」え?日本人はいらないんじゃ, と思って返すも「いいえ、ビザは必要よ」と係員. これはマズいと焦った僕は, 全ての英語のボキャブラリーを総動員して日本人旅行者のルールを説明し, 何なら調べてくれと応戦. そして5分間の格闘の末「本当ね, I'm sorry」と一言. 何ともあっさり終戦してしまった.

一息ついたのも束の間, 現在時刻は 18:10, 出発時刻は 18:45 である. 35分前のチェックインなど, 国際線だとまず弾かれるところであるが, そこは海外, 話が違った. 全力疾走して手荷物検査を通過し, 免税品店には目もくれず41番ゲートへ. よりにもよって端っこだったので汗だくで激走し, 搭乗ゲートに着いたのは飛行機への final shuttle 出発の3分前だった. パスポートを見せた係員が日本人だと分かって僕に「コニチワ〜」と言ってくれた瞬間, 膝から崩れ落ちるかと思った. バーミンガム国際空港に着いてからの顛末(電車を間違え恐怖のホーム&野宿の危機)は ここ に書いたので割愛する.

初めての場所での滞在はいつも不安とほんの少しの寂しさがつきまとうものだが, 今回は違った. この出張の2週間前に九大に訪問してくれた塚崎公徳さん(以下 Kimi さん)と Soma Purkait さん(以下 Soma さん)がいらっしゃったからだ. 2人は当時ウォーリック大学の院生であり, その後ご結婚され現在は日本在住である. Soma さんは現在東京工業大学の准教授であり, 2023年3月に開催した国際研究集会 Number Theory in Tokyo でも共同世話人として大変お世話になった. 貴重な休日にも関わらず, 学内キャンパスの色々なところを案内してくれた.

イギリスといえば雨天・曇天がデフォルトである. 快晴の日は年間を通しても数えるほどしかなく, この日も午後から(それなりに強い)雨が降り出してしまった. 折り畳み傘は持ってきていたのだが, 小さく心もとなかったのと, 予報もずっと雨の予報だったので, 滞在中だけ使うフルサイズの傘を買うことにした. 大学からほど近い所には24時間営業のスーパー「CostCutter」(通称コストカ)があり, 学生さんにも便利そうな店がその周りに並んでいる. その一つ「Wilkinson」で傘を物色したが, 結局見つかったのはピンク色のまぶしい傘一本だけ(5ポンド)だったのでそれを購入した. この傘こそが, 後に幸運をもたらす傘となる.

さて今回の滞在の目的は, 楕円曲線の Selmer 群や descent の話題, およびランクの distribution に特化した研究集会に参加して勉強することだった. 講演はどれも良い意味で常軌を逸していた. 講演が上手すぎる. そして講演者が豪華すぎる. あたりを見渡せば John Cremona 氏(Kimi さんの指導教員)や Samir Siksek 氏(Soma さんの指導教員)など, 博士論文のテーマを決めるきっかけになった大御所が普通に座っており, そして最前列にはあの BSD(バーチ・スウィンナートン=ダイアー)予想の提唱者である Bryan Birch 氏と Sir Peter Swinnerton-Dyer 氏が普通に存在している. とんでもない空間であった. ご存知の通り BSD 予想は, 100万ドルの懸賞金が掛けられたクレイ数学研究所のミレニアム問題の1つであり, 現在も未解決である. ちなみに Swinnerton-Dyer 氏は2018年末に91歳で亡くなられたため, この機会が最初で最後であった. 一方の Birch 氏は現在(2023年)同じく91歳であるが, 現役バリバリである.

自分も火曜日に30分の講演をやった. 出だしの「日本から20時間かけて来ました」がちゃんと受けてホッとしたのを覚えている. 講演途中に Cremona さんがうんうんと頷きながら聞いて下さり, まるで夢のような時間だった. しかし自分の講演の座長が Magma の descent パッケージを書いた Nils Bruin 氏本人だったことは想定外だった(予想の斜め上を行く豪華さがここにも). とはいえ僕みたいな下っ端の学生の講演が何故 Conference dinner の日, しかも Bhargava 氏や Stoll 氏の直後にスロットインしていたのかは謎である. ひょっとすると Cremona さんや Siksek さんの粋な計らいだったのかもしれない. 感謝の至りである. ちなみに Bhargava 氏はこの2年後, フィールズ賞(数学界でのノーベル賞に相当)を受賞した.

そして月曜の夜, reception を兼ねたワインパーティ(無料)が開かれた. この集会の凄いところは, 1日目の夕食, 2日目の Conference dinner と, 全ての日の昼食・コーヒーが無料で出てくるところ. 巨大な予算があるためとはいえ, 日本ではまずこんなことは出来ないだろう. 裏方で働いて下さった事務方の皆様に感謝である. ワインの力を借りて Cremona さんや Bruin さんとご挨拶も済ませ, 夕食をゆったりとっていたとき, 思いがけない Birch 先生との交流の機会に恵まれた(やっと本題). 先生は僕の持っていた派手な傘を見て「私の持っているこの傘も日本のものなんだよ」と仰った(このタイミングで「実はここで買いました」とは口が裂けても言えない).「日本にいらっしゃったのですね!」とお話を続けたかったところだったのだが, 時間の関係でお互い帰らなければならず無念. しかし最後に先生は「後で続きを話すね」と残して帰られた. 最初は社交辞令だろうと思っていたのだが, 先生はこのことをしっかりと覚えてくださっていたのである. ちなみに期間中は Birch 先生のだいたい斜め後ろに座っていたのだが, 細かな字で無地のノートにていねいに全ての講演のメモをとっておられた(スライドの講演でも!). これだけの大先生でもこの姿勢. これは見習わなければと思い, 期間中は(自分の講演の直前でも)しっかりノートをとって勉強した.

Conference Dinner の思い出も少し. 2日目の夜は Baddesley Clinton という国定遺産のあるレストランで夕食会が行われた. この食事もまた格別だったのだが, 何より嬉しかったのは Haluk Sengun さん(当時はウォーリック大学・現在はシェフィールド大学の准教授)と念願の対面を果たせたことであった. Haluk さんはトルコ出身の方で, 実は氏の学位論文に影響を受けて自分の修士論文が出来あがった. 初めて仕事の関係で外人さんにメイルを出したのも Haluk さんが最初だった. たった1通のメイルを出すのに辞書を引きながら半日くらい格闘していた修士1年の頃が懐かしい.

3日目は午前中しか講演がなかったので, コヴェントリーの市街地を少し観光した. 本当はシェイクスピアの聖地(Stratford-Upon-Avon)まで足を運ぶつもりだったのだが, バスを捕まえ損ねるという痛恨のミスをやらかしてしまった(ちなみにイギリスのバスは沖縄と同じで, こちらから乗る意思を示すサインを出さないと止まってくれない). さらにお金を払うのは乗るときで, 両替も出来ないので小銭を用意しておく必要がある. まぁここは次回の滞在のお楽しみとした(が, 4年後に再びウォーリック大学を訪れた際も結局行かなかった).

4日目の最後の short talks の前に, ようやくドバイ経由で追いついた Jerome 君と感動の合流. 結局彼は1日ちょっとしかカンファレンスに参加出来なかったが, Swinnerton-Dyer 氏の講演も聞けたし十分価値のあるイギリス滞在になったのではと思う. せっかく Jerome 君も到着したので, 何かここに来た証を残したいなと考えた結果, Cremona さんと記念写真を撮ることを思いついた. Cremona さんに思い切ってお願いしてみるとあっさり快諾いただいた. ここに来た甲斐があったというものである. Cremona さんとは最終日にも少し相談することができ, LMFDB データベース(数論版 wikipedia のようなプロジェクト)に関する意見交換が目的だったので達成出来て良かった.

Jerome 君もぜひ Birch 先生に紹介してあげたいなぁ, と思っていたが, いつも偉い先生方と話していらっしゃるので機会を失していた. 諦めかけたその時, 何と紅茶を片手に Birch 先生がこちらに話しかけに近づいて下さった.「そういえば, あの話の続きをしよう」この一言に感激し過ぎて思わず直立不動になったほどである. そして話の続きを聞くことが出来た. 昔京都に滞在した際, 観光中に突然の雨が降ってきた. 雨宿りする場所もなくどうしようかと考えていたそのとき, 見知らぬ日本人女性の方が「これを使ってください」と自分の持っていた傘を Birch 先生に差し上げたのだそう. その女性はそのまま名前も名乗らずどこかに行ってしまわれたが, その事が印象的だった先生はその傘を今でも大事に使っておられ, その事を日本人の僕が持っていたあのピンクの傘(イギリスで買ったんだけど)を見てふと思い出した, ということだった.「ぜひ日本にまたいらしてください」そう言って固い握手をし, Jerome 君を紹介, 最後に Cremona さんと同じように写真をお願いするとこれまたあっさり快諾して下さった. コモンルームにあった黒板が丁度良い背景だったので, そこで念願の一枚を撮ることに成功. ちなみに下は Jerome 君の版. こちらは僕が撮影(僕が写っているものは Jerome 君に撮ってもらった). 10年以上経っても忘れ得ぬ, 素晴らしい思い出の1ページである.

Contact:  s-yokoyama [at] tmu.ac.jp