名所・逸話

石抱き地蔵の井戸

 柏崎市内には、岩之入の塩水井戸中浜の弘法井戸(茶の池)など、弘法大師(真言宗の開祖:空海)にまつわる水の伝説がいくつか残っている。両田尻の「石抱き地蔵」もそのひとつである。

 その昔、弘法大師が各地をめぐり教えを広め歩いていた時、両田尻の地で老婆に一杯の水を所望した。老婆は「この辺りは水質が悪くて申し訳ないから。」と断ったが、大師が「どんな水でも構わない。ただ一杯でいいから。」というので、一杯の水を手渡した。大師はそれを一気に飲み干し、「確かによい水ではない。水をいただいたお礼に水を出して遣わそう。」と、手にしていた 錫杖で地面を突いた。すると不思議なことに、そこから清水がこんこんと湧き出てきた。後にこの場所を井戸にしようと掘ってみたところ、石を抱いた地蔵尊が出てきた。こんな良い水を飲むことが出来るのはこの地蔵尊の功徳であるに違いないと、すぐに御堂を建て地蔵尊を祀った。

 石抱き地蔵の所在地は、柏崎インターチェンジの近く、両田尻と茨目の境の三叉路である。地蔵尊を祀ったこの場所自体を、かつては「石抱き」と呼び、付近には石抱きという言葉を含む屋号も存在する。地蔵尊の側には現在も井戸が残るが、明治時代に書かれた「刈羽郡案内」に「石抱きといふ所に古井有り」とあることからも、古い時代から使われていたものとわかる。地蔵尊は瘧(おこり※)を病む人や母乳の出ない人に霊験があるとされた。また「疣(いぼ)地蔵」とも呼ばれ、疣に井戸水をつけると治る、と信仰された。平成の世になっても、疣が治ったとお礼参りに訪れる人がいたという。

 かつて一面田んぼであったこの地も今では住宅地となった。子ども達の危険防止のため、この井戸にも石蓋がされ、現在は井戸水を使うことはできない。文献には、地蔵尊の場所にかつて寺があったとも、小さな石祠の諏訪社があったとも記されているが、地蔵尊の造立時期など詳しいことはわからない。しかし、十代以上続く旧家の方が代々この地蔵尊の管理を行ってきたという事実があり、昨今も敷地の草取りや御堂の修繕、側溝に溜まった落ち葉の処理などが行われていた。歴史ある石抱き地蔵に我々が接することができるのは、このような地元の方の地道な管理や整備のおかげであるといえよう。

※ 瘧(おこり)・・・隔日または毎日一定時間に発熱する病で、多くは マラリアを指す。


参考書籍

「田尻村のはなし」 酒井薫風 著(224 サカ)

「柏崎市伝説集」 柏崎市教育委員会 編(388 K キヨ)

「田尻漫歩今むかし」田尻公民館 編(224 タシ)

「石仏のまちを歩く」阿部茂雄 著(387 アヘ)

だき石

 今から百年ばかり前、福巌院の境内鎮守明神の堂内に親鷲上人(浄土真宗の宗祖)の木像が安置してあった。光円寺ではその木像を手に入れたくて所望したところ、福巌院の僧の言うには両田尻に「だき石」という梵字石があるがそれを持ってくれば、やってもよいとのこと。

 そこで光円寺の世話入である茨目の村山庄大夫、同じく喜三右ヱ門の両人が 両田尻の酒井大肝煎方に行って「石抱き」梵字石一つを所望したところ、「一人の力にて持てばやってもよい」とのことで、日ごろ力白慢の喜三右工門、この時とばかり万入力を出して、ようやく茨目村境まで持って来た。それよりやっとのこと福巌院に納めたので、上人の木像を光円寺に奉納した。

 光円寺ではこれを御内仏と称して 崇めると共に世話人二人の骨折りに感謝し、今もこの両人の子孫を招待することがあるという。


参考書籍

「柏崎市伝説集」 柏崎市教育委員会 編(388 K キヨ)

柏崎市東本町 福厳院(福巌院)

同東本町 光圓寺(光円寺)