京都カトリック学生連盟のサイトの追悼ページ
1年半前に、直腸に病変が見つかり、その時の組織検査では前癌病変と言うことでしたが、肺にも陰影があり、手術は適応外、化学療法も放射線治療も出来ない状態でした。
合わせて3か月の入院生活の後、在宅で訪問診療、訪問看護を受けました。遠方の長女、長男は何度も見舞ってくれ、次男、次女は毎日看病してくれて、夫も明るく日々を過ごしていました。
同窓の皆様によろしくお伝えください。
皆様には良い年が訪れますよう祈念しております。(山下倶子 夫人)
● 六甲学院18期 学友の追悼の辞
闘病生活中にもかかわらず山下君は眼鏡をかけ、ノートを見ていましたね。病をものともせずに、一途に研究を続けていたのでしょう。
人生を真面目に生きてきた山下君らしい、素晴らしくいい顔をしていました。
奥様の暖かいメールや、お子様たちが山下君を見舞い、看病されていたそうで、素晴らしいご家庭を築かれたことも理解できました。
山下晴朗君のご冥福を心からお祈りいたします。
谷川 紘一郎
神戸市電通学組の一人であった。
彼の兵庫の自宅で高田潤一郎君を交えて一緒した記憶があるなあ。
彼は早稲田大学へ入学したがいつだったか京都大学へ編入した。
そのころはよく手紙のやり取りをしたもんです。
いつだったか忘れたが彼から連絡があり当社で何度も会った。
そのうちに彼の夢の話題に。出資してくれないかとの話があり
簗瀬泉君 沢田善吾君 安田が彼の夢に出資することになった。
私の仲間でもあった社長職の3人である。
社名は“ラプラシアン”山下が社長 我々3人が株主 沢田善吾が
筆頭株主になって引き受けた。
山下の夢は“空飛ぶ円盤?”だったなあ。彼の発想は空を飛んでたがーーー。
我々はその夢の円盤に乗ったのである。いつの日か億万長者になろうぜと!
何年間その夢を追いかけたか(笑)、そのうちにとんでもない人物が
現れた。知る人ぞ知る日本のメデイア王の一人である。
簗瀬と山下の京大時代の学友であったようである。
結局我々3人はその彼に株式を吸い取られたのであった(笑)
その人物ともゴルフをして若干の交友がしばらく有ったが。
未だにその人物はメデイアに登場している。
以上夢を追いかけさせてもらった本物のストーリーである。
安田光宏
山下晴朗君
先日、安田光宏君、谷垣武史君からのスルーパスのボールが来た。中身は
山下晴朗君の訃報だった。 その後すぐ我々六甲の同級生のネットワークで
確認出来た。 家ではしょっちゅうPCを見ていないので自ら知る事で2度の
ショックを受けた。
其のあと、彼の奥様と電話で話しました。 本年11月に亡くなりそれ以前から
1年以上にわたり直腸がんを患っていて手遅れであったようで手術はせずに病院と
自宅の行き来が続いたようです。最後は、ご家族に看取られ旅立った様子でしたと
話されました。
山下晴朗君とは、小・中・高と12年間同じ学校生活をおくった。お互いに人間形成期
に、学校・家庭生活において友達として過ごした。大学入学以降は、約50歳頃までは
互いの道を歩み、賀状の交換程度でほとんど交遊はなかった。
彼は、学校時代から理科系、技術系の分野が得意であり優れていたが、その他の分野
でも大変な好奇心が根底にあり、私のような者にも雑学含め数々の知識を授けてくれた。
また、高校2年の時、何のきっかけだったかは定かではないが、天文観測部を立ち上げ学校
と交渉して、「望遠鏡」を購入してもらった。 そういう交渉術もあって感心した。
その時にお蔭様で、人生始めて「土星の環」を見て、感激したことを覚えている。
「別れ」とは通常辛いものだが、「辛い」のは先生や友人との別れではなく、学校などで
先生や友達と共有した時間の終焉であり、別れはそれまで一緒に過ごしてきた時間の死で
あり、自分の一部の死でもあるという作家の文章に出会った事がある。
同じ卒業式でも日本とアメリカではとらえ方が違う。日本では先生や友人との別れが第一に
来るが、その作家に言わすれば誰もが過去の一時点で故郷とその伝統や慣習を捨てた人達
であり、過去との絆を絶たれた人々の目線は未来へ向かう。未来志向の彼らにとって、別れは
次の段階への祝うべき出発点に過ぎない。だから、卒業式を(始まり)コメンスメントとも言う。
これは、我々の卒業式の「レコード」古庄先生がまさしくおっしゃていたこ事である。
晴朗君は、宇宙も好きだったし、次のステージに旅立ったと思っている。
彼は、私にとってはまさしく「インフルエンサー」だった。
2022.12.17
髙田 潤一郎
山下晴朗くん
山下晴朗くんは一言でアインシュタインの化身だった。
二十代も半ば、(同輩はもう社会人として働いているというのに) 二人ともまだ学生で、京都の街をよく一緒に徘徊したものだが行くさきは現役の碩学出入りする物理学の館ではなくて、鴨川の河原沿い、今出川通橋付近?にあった小さな中世神学哲学の研究資料館で、彼はここを拠点にしていた。当時はまだ完結していなかった重力の一般相対性理論を完成するというのが彼の当面の仕事であった。彼の渾身試案の方程式を前に拡げて議論もしたが、なにぶん、こちらは具象から抽象の階段を、電気工学から始めて物性物理を通りやっと量子力学という見晴らしのきくところまで登ってきたところ、彼といえばいきなり超抽象の独学相対論を振りかざすものだから、ここで噛み合った議論の進展があったとは言わないが、(そもそもアインシュタインは量子論を是としていなかった) 存命中のアインシュタインの立脚点をじっくり検証するくらいはしたつもりである。それから半世紀、この分野でも、ブラックホールとか、幾らかのセンセーショナルな裏付け実証が行われていて鳥瞰景色も随分豊かに変わったが、表象としての数式も然るべき直観と想像力を伴って読み解かない限りはそれは人の悟性に係ってこないし、それゆえ人間の感性知、理知ともなりえず、架空の物自体(カント)の話となってしまう。彼のように感受性を研ぎ想像力を働かせて独自の直観世界を開拓する権利もあってよかろうというもの。
山下くんに教えてもらった聖者にクルスのヨハネという人物がいて曰く。「もう全ては明らかにされている。これ以上のことはもう知らされることはない。いまは各自がおもい悟るときである」時は満ちている。彼は飛び級で一足先に人生を立派に卒業してしまったが、残るわれわれにはまだ宿題が残っている。
思えば彼とは六甲時代の続きの十年足らずという長くも短い付き合いだったが一回きりの人生を悔なく生きることを身をもって教えてもらった。 感謝。
安田光宏くん、
山下くんについて、ざっくばらんなお話し、ありがとう。愉快に読みました。彼が明石では実業家?であることも聞いていたが、その結末については彼に代わってあしからず。
共に夢に乗った方々のお名前もそれぞれに懐かしく、半世紀を遡りました。
馬渡くん、
彼とはもう半世紀以上も会っていなかったけれど、その後もずっとあの頃の彼のままだったようですね。人を妙に動かしてしまう稀有な才能、愉快な人物でした。(鈴木 周夫)
六甲時代の山下君の記憶は、中1の体育祭で、選手たちが大人のグラブをつけてボクシングをしたことです。ラッコさんのレフェリーでした。途中から本気のような打ち合いになって盛り上がったのですが、山下君がこれに出ていたのかと同窓会で聞いたらそのとおりで思い出を楽しく語ってくれました。ボクシングでも一途だったと思います。
学生時代は栄光学園から来たT君と京都カトリック学連の部屋で光速の測定など相対性理論に至る実験の考察などアインシュタインの追っかけをやっていました。私も同じ物理学徒ではあったのですが、ついていけないくらい先を行ってました。
ちなみに彼とT君は体育の単位を放棄して学則により中途退学になるという猛者でもありました。
カト研の合宿で、琵琶湖の浜にテントを張って彼とT君とA君の4人で一晩過ごしました。それぞれに生き方をしんみり語りあいました。台風が接近する中でしたが、浜に引き上げてあった貸しボートをいたづらしてオールがないのに板切れなどで乗り出たら急に風が強くなって命からがら逃げ帰ったりしました。
卒業後は私は気が向くままに色々な経験をして40歳過ぎに10年ぶりで帰国したらすぐに彼から声がかかり「待ってました」と明石の家に呼び出されて特許出願のAI化という課題をもらいました。当時はICOTという国家プロジェクトが世界的にも話題になった頃でした。論理志向でエクスパートシステムを構築するものでしたが、10年後プロジェクトは無惨な失敗に終わり、産業界では「AI」が禁句になりました。(現在のAIはニューロといって脳神経を模したものですが、人の脳と同様に制御が難しいという課題があります)
五反田付近の彼の勤め先の特許事務所に呼ばれたことがあって、ドアを開けたら大部屋になっていて、職場の全員に起立・礼で迎えられ面食らったこともありました。社長さんの計らいでしたが、彼はそれくらいの重鎮のようでした。
東京では相棒のT君の安アパートに泊まって相対性理論関連の研究をしていましたが、低空で物体を静止させることができるという理屈を発見したという話を聞いたのが50歳の頃だったでしょうか。論文をイタリアの権威ある学術誌に投稿して査読の段階で何度もやり取りをしていました。論文の英訳は引受けましたが、現地に同行して編集者に説明したいとの誘いは受けられなかったことが心残りです。
明石の家で大きなライデン瓶を借りて静電気で模擬実験をしていました。瓶の中の紙きれが浮いたと言ってましたが、再現するのが難しかったようです。この発明を特許申請して上の安田さんたちと会社を作ったようです。私には向いてないと思われていたのかお金の話は聞いたことはなかったです。
米国に住む生物学者の娘さんの画期的な業績を語っていましたが、数年前娘さんの案内で
プリンストン大学周辺のアインシュタインゆかりの場所を訪問したことがたいそう嬉しかったようで、私も話につられてアインシュタインの書簡集を買いました。
最後に会ったのはコロナの前の18期会で高校生向けの相対性理論の解説ができたといってノートの切れはしを渡されました。ざっと見ましたが私の理解を超えていました。これにコメントする機会もないままにコロナで同窓会が途切れていた間に山下君はこの世からいなくなり、寂しくなりました。ご冥福をお祈りします。 (馬渡 恭三郎)