「雨だ」
「雨だな」
ぽつぽつと落ちてきた雫はやがて音を大きくして、灰色の雲まで引き連れてきて土砂降りになった。タクシーが通るような活気も、バス停も駅も遠い。飯塚さんに指示された仕事を終えて、今日はこのまま直帰で良いと言われているから、帰りにはどこかで食事でもしていこうかと言っていた矢先に、この天気だ。生憎、このあたりにはこれといって大規模な商業施設も、小洒落たレストランもない。
思えば、今日の仕事も簡単に言いつけてくれるくせに面倒だった。
うちの傘下の子会社が、どうやら粉飾決算を匂わせる動きをしているとタレコミがあったらしい。余計な動きをされる前に、叩いておかなければならない。と、問題となっている資料のUSBを渡されて手配されたタクシーに乗り込んだのが、日も登り切らない早朝。ちょっと切り込めばすぐに折れると思っていた相手は案外しぶとく、事前に渡されていた資料は既に修正済で何も不正などないような体裁が取繕われていた。
「なあ、じゅーさん。これ不正はありませんでしたって引き返したら怒られるかな」
「怒られるだろ、戻るなら律だけで戻れよ。俺は残るぞ……」
「ええ、真面目だなあ。まあ、付き合いますけど、ね!」
仏頂面を崩さない相手方と向かい合ったソファで律が座り直したのを視界の隅で捕らえ、俺も背筋を伸ばした。赤いラインの引かれた書類に、視線を戻す。
そこからは、思い出すのも億劫だ。最終的には恐喝まがいだったとは認めなければならないが。大抵の問題は暴力で解決が出来る。
がっくりとうなだれたような責任者を見下ろす律は相当お疲れのようで、すっかり表情が抜け落ちていた。気合いを入れるためにと掛けていた眼鏡を少しつつくと、ハッとしたように俺を見上げ、くしゃりと笑って眼鏡をしまった。
本人に直接言ったことはないが、学生時代の試合後に時折見せていた表情が、俺は嫌いではなかった。余裕のない感じが見られるから、好きなのかもしれない。夜明けの薄ら白んでいる窓を背景に見上げる彼の様子が脳裏をよぎり、明日は休日だったとふと思った。悪天候に吹き飛ばされなければ、穏やかで不健全な休日が待っていたはずなのだ。だったのだが、現実は少し先も見えなくなりそうな雨が吹き付けている。律は端末で天気を調べ、今日はこのまま降り続けるんだと、と呻いて空を見上げた。
「どうする?夜も更けてますけど」
「んん、面倒くせえなあ……。ここから一番近いタクシー会社ってどこなんだ」
「エヌキロメートル先」
「遠いことは分かった」
地図を開くと、ここから少し先に商店街があるらしい。傘もないし、道中は濡れるのを承知で雨宿りがてら着替えでも購入できれば良い方か。
「走れるか?」
律はしゃがみこんでスーツの裾を捲った。自身のふくらはぎをパシンと叩いて立ち上がり、大きく伸びをする。
「じゅーさんよりは鍛えてると思うよ」
「は? まだ俺は現役だぞ。……気と鞄は重いけどな」
「じゃあ行きましょ」
「はいよ」
地面を踏みしめる革靴は、次第に雨水を吸って重く冷たくなっていった。
なんてこった。
口にこそ出さなかったが、律も同じことを考えたに違いない。情報の鮮度が命のはずのこのご時世、潰れかけの商店街を、さも賑わっていますとでも言うように広告するのはどうなんだろうか。ザ・シャッター街とでもいった雰囲気なのだが。雨は容赦なく強くなっていくが、濡れ鼠が二匹立ち尽くしていたところで状況は良くなるはずもない。セットされていた律の前髪は既にぐしゃぐしゃで、水がしたたっているのが煩わしいようで律はそれを一気にかき上げた。久々にデコ見たな。
「どうしよう……」
「どうしような。全く……」
もうここからこの時間、帰るのもなあ。ずぶ濡れになってしまったから、タクシーにも乗れない。タクシー云々を抜きにしても、正直スーツが張り付いて気持ち悪い。
「じゅーさん。じゅーさん」
「はい、なんですか」
「ほら。あつらえたように」
のぞき込んできた律は明らかに遠くの一点に視線を移していて、気付かないふりをするのにも限界かもしれない。言いたいことはわかるし、俺もテンプレは嫌いじゃない。品のないネオンと色あせた看板と料金表、かろうじて明かりが付いているから営業中だということが分かる程度の建物。するりと手を繋いでくる律の手は熱い。握り返すと、子どものように無邪気に笑った。けれど、考えていることは子どもとはほど遠い、色めいたものに決まっている。
「仕事に疲れた恋人たち、雨に濡れて、目の前には、ホテル。藤生さんー、ほらー、ね、察して、ほらほら」
「……腕にまとわり付くんじゃない」
「ね?」
こいつのこういう顔に、俺は敵わないんだ。
夜があければ、スーツも乾くだろう。雨に追い立てられるように、俺たちは寂れた入り口をくぐった。