モダンな店内の間接照明は客たちの会話に幕をかけるように薄明かりを灯していた。伽羅色のソファには三人の男が腰掛けて、テーブルには何枚もの書類が広げられている。片側に腰掛けたカジュアルな服装の二人はそれぞれにメニューを眺めていたが、その向かいに座るスーツの男の前には既に空のジョッキがあった。手ふきでその周りの水滴を拭うとチャコールグレーのジャケットを羽織った男――雛輪が切り出す。机の下で足先があたったのを視線だけで詫びて、身を乗り出して長い指を組んだ。

「すみませんね、お待たせしてしまって」

スーツの男はかっちりとネクタイを締めたままで腕時計をちらりと見た。予定の時間からは十五分ほど経っている。窓の外は夕方より夜に近い色をしていて、残暑を抱いた風がときおり街路樹を揺らした。

「いえ、お二人ともお忙しいのでしょうし……。こちらこそ先に飲んでしまっていてもうしわけない」

お二人とも、と言われて、我関せずといった様子で座っていた男は初めてテーブルの方に目を向けた。不機嫌さを隠そうともせず腕を組んでどうも、と素っ気なく吐き捨てる。淡い茶髪の男――入舸をたしなめた雛輪は再び正面に向き直った。気遣わしげに尋ねる。

「いいんですよ、……何かおつらいことでもあったんですか?」

居心地の悪さの滲んだような、気まずそうな表情を浮かべた男は苦笑した。トントン、と指先で書類を叩いて話を逸らすそぶりをして声のトーンを落とした。

「ああ、気にしないでください。……それより、いただいていたメールの件なのですが」

「俺……、いえ私個人としましては貴方があのようなことをするとは考えられないのですが、どうしてもうちのボスが心配性でしてね。この場はビジネスの席ではないので、言及するつもりはございません。懇親を深められたら、そう思いまして。長いお付き合いになるかもしれませんし。ああ、こいつのことは空気とでも思っていただければ。今日はどうにも虫の居所が悪いようで……。俺が教育係なので、社会勉強のためにと連れてきたんです。……入舸、その態度はやめなさい」

「はーい」

言われてようやく組んでいた足を戻した入舸はそれとなく、しかし露骨に品定めするように相手を見た。肘置きに体重をのせて頬杖をついた彼の横腹を雛輪は肘で軽くつつく。

「何がそんなに気に喰わないんだ、いつもはそんなじゃないだろう?」

「別に、雛輪さんのせいじゃないですから」

「あの何か、私が気に障るようなことをしてしまったでしょうか」

眉を下げ首を振って否定の意を示した雛輪は小さく手を振る。言葉を発しようとしたとき、ちょうど個室の戸が開き、店員が顔を覗かせた。グラスとジョッキをひとつずつ置き、深々とお辞儀をして去っていくのを見送って、入舸はジョッキに手を伸ばした。グラスをちらりと一瞥すると、特に何の断りをいれることもなくビールをあおる。残されたグラスでは薄桃色のカクテルが細かい炭酸をはじけさせていた。繊細な泡で喉を潤した雛輪は口許をハンカチで拭い、ゆっくりと目を伏せて視線を合わせた。深みのある濡羽の瞳は水晶のように世界を映し出している。

「もっと楽しいお話をいたしましょう。貴方自身について、俺は興味があります」

ただひとり、入舸だけが水晶のなかで気まぐれに足を組んだ。

「……申し訳ございません、上司から着信がありまして、少し離席しても構いませんか?」

「ええ、ええ。どうぞ、俺たちのことはお気遣いなく」

では、と席を立った男を見遣って、入舸は雛輪の太腿に手を這わせた。短く爪の切りそろえられた指がつつ、と悪戯に繊維の流れをなぞる。しかしパシンとその手を叩いた雛輪は机上の書類から目を離そうとしない。

「藤生さん。俺に何か言うことあるんじゃないの」

「一対一では警戒される恐れがあった。後輩に手を焼いている気遣いの出来る人間だとアピール出来る方が余計なことを喋らずに済む。俺よりお前の方が好みだったらそっちにシフトしやすい。ま、引っかけたのは俺のほうだったけど。あとお前を先に返せばより一層プライベート感が出て警戒が緩む。ついでに、口も」

飲みかけのカクテルを勝手に飲んで、あま……と顔を顰めた入舸は雛輪の手を取り何かを請うように指先に口付ける。その手をそっと払うと、ツンとすまし顔のままで彼は自分の髪に手ぐしを通した。わざと一房だけずらしてから、ジャケットの袖を二度折る。腕時計の盤面が薄い照明を反射した。

「……俺が聞きたいの、そういうのじゃないんだけど」

「そろそろ帰ってくる。……入舸」

男が外から手をかけて、小さく軋んだ。それと入れ違いに入舸は立ち上がる。そのついでに雛輪の耳元に口を寄せて小声で言う。

「邪魔者は先に帰りまーす」

嘆息ののちに、入舸にしか届かない声量で返した。

「明日ホットケーキ焼いてやるから」

「夜には一緒にお風呂入ってくれる?」

「家風呂?」

「もちろん」

「……前向きに検討しておく」

個室を離れて程なくして、入舸は店内のカウンター席に腰掛けた。よく教育された店員は特に何を尋ねるでもない。

「あっちとは別に伝票つけてもらえます? モスコミュールを」

「かしこまりました」

すぐに運ばれてきた薄く溶かした琥珀色の液体をひとくち含んで、小さな鞄から端末を取りだし通知をひとつひとつ確認していく。そのうちのある情報で彼は指の動きを止めた。ふと目をやった腕時計の黒い盤面に数字は踊ってこそいないもののまだ八時を回ったころで、あと四時間か、と呟く。けれど聞く者のいないその声が拾われることはなく、穏やかなジャズに飲まれて消えていった。ひとりで潰すには少し長い時間だ、そう思いつつ、ホットケーキの上にはアイスとフルーツを乗せて、その上からチョコレートソースもかけてもらおう、などと翌朝の楽しみに思いを馳せた。添えるコーヒーはミルクを入れずに、甘さが楽しめるようにしよう。目覚ましより早起きして、寝たふりして藤生さんが準備をするのをこっそり見ていよう。気付いたら怒るだろうか、きっと目を細めてちょっと笑うんだ。そしてこっちに近付いて、ブランケットの隙間からおはようって言ってくれる。そしたら俺もベッドから降りて、一緒に朝の時間を楽しむんだ。

ふと手元のグラスに視線を移せばとっくに空になっていて、俺もまだまだだなと新しい注文をつける。次いで運ばれてくるグラスをあおるとオレンジの風味が香った。そうだ、ホットケーキ用にオレンジも買って帰ろう。

そうして幾つかのグラスを空にしたころに、タイマーをかけていた端末が無遠慮に震えた。表示されている時刻は十一時五十五分を示している。

「魔法がとけるのは十二時って相場が決まってるし」

アラームの少し前に届いていたメールに添付されていたデータを開けば欲しかった情報がまさにそこに入っていた。飯塚家の長男から送られてきたそのファイルには、写真付きで現在雛輪と向き合っている男の経歴が事細かに記載されている。入舸はそれをタブレットに転送して席を立った。どうせすぐ店を出るのだし、と雛輪たちのテーブルの支払いを済ませると、彼は個室の扉に手をかける。ノックなどせず、一気に開けて悪役然とその場の支配権を握るのは雛輪のかつての上司仕込みのものだ。

「どうも、お邪魔しますね」

「……入舸」

対面していたはずのふたりは同じ側のソファに座っていて、突然の乱入者の存在に呆けた表情を浮かべた。そんな様子を見て、部屋の中に踏み入れないままで彼は口を開く。不機嫌な声音ではなく、常の彼のそれが一種の陶酔めいた空気を切り裂いていく。

「じゅーさん、帰ろ。もう全部終わったから」

「な、なんだ君は、帰ったんじゃなかったのか」

「帰ってないでーす。俺は手のかかる後輩なんでー」

「はあ?」

まったく噛み合わない二人の会話に見切りをつけたように、ソファに畳んでおかれていたジャケットに再び手を伸ばして雛輪は軽く入舸を睨んだ。

「そのへんにしとけ」

「はーい」

引き留めようとしてくるのを視線だけで制すると、手早く荷物を纏めて雛輪は立ち上がる。その表情に先ほどまで浮かんでいた甘さや隙といったものはうかがえず、テーブルをまわって入舸の持つタブレットを覗き込こむ様子には厳しささえも感じられた。せわしく動く目線がその動きをやめたときには既に男に向けられる視線からは温度が消えていて、彼が読み終えた頃合いで入舸は状況についていけていない男に語りかけるような――あるいは小馬鹿にするような口調で言う。

「良い夢、見れたでしょう? 先輩はもう返していただきますね」

雛輪の腰に手をまわして、エスコートするように入舸は個室の外を示した。男にも、入舸に対してすら何も反応を返すことなく雛輪は個室から立ち去っていく。残された入舸をソファに座ったまま見上げた男は、自分の身にこれから降りかかるであろうことを思う。時間稼ぎに過ぎなかったのだ。何もかもが。そんな苦々しい顔をする男を見下ろしたままで入舸は言う。ことさらゆっくりと紡がれる文句には、隠すつもりの感じられない嘲弄が滲んでいた。

「親身になって話を聞いてくれて、気を許してくれて、パーソナルスペースにいれてくれて、ちょっとは夢みられた? ぶち壊すようで悪いんだけど、魔法を解くのが俺の仕事だからさ。ま、お前が被ってるのは灰じゃなくて埃だったわけだけど。じゃ、後はごゆっくりー。昼には本家の方から挨拶があるんじゃない? 色々と。……では、失礼します」

部屋の戸を閉める直前、慇懃無礼に一礼してそのあとは一瞥もせず、入舸は先を歩く雛輪を足早に追い掛けた。店を出て彼を待っていた彼は呆れかえったように溜め息をつく。

「お前さあ……、黙って連れてった俺も悪かったとは思うよ? でも本家にまで連絡いれることなくないか?」

「本家って何のことー? あれは親切なベラルさんが個人的に調べてくれたことなので関係ないでーす。そんなことよりも、俺と遊んでから帰りましょうよー。せんぱーい」

「もうやめろってそれ……」

空の真ん中にぷかりと浮かんだ月が柔らかく照らす影がふたつ繋がって、ふたりは寄り添い歩いていく。

「反省した?」

「はいはい反省しました」

「もうしない?」

「ノーコメント」

「くそう……」

あ、でも、と手を繋いだままで入舸は雛輪の顔を仰ぎ見た。先を促すように雛輪が顎を上げる。

「俺のこと入舸って呼ぶの、高校時代を思い出してちょっとドキドキした」

「……あ、そう」

「ふふ」

「タクシーでも呼ぶかあ。もう疲れたわ」

「え、藤生さんセクハラされた? 触られた?」

「いやセクハラというほどでは」

「ほどではないけど触られたんだね、そういうことなんだね」

また厄介なのがはじまった、と雛輪は明後日の方向を見遣った。こうなると気が済むまで問い詰められるから、適当にあしらうのも面倒なのだ。

「お前だって俺の太腿触ってただろ」

「俺は彼氏だからいいの、特別枠なの」

「じゃああれは仕事だからいいの」

「良くないですー!」

「めんどくせえな……」

「聞こえてますけど」

「聞かせてんだよ」

「くそ、ベラルさんに言いつけてやる。浮気されましたって」

「だからあっちを巻き込むなって言ってるだろ……」

タクシーを呼んで二メーターほどで到着した家のリビングは、しめきっていたせいで湿気った空気で満たされていた。ジャケットをハンガーにかけた雛輪は腕時計を外してカウンターに置く。

「除湿?」

「窓開けよう。……律はシャワー?」

「そうだね、さすがに汗かいてるし」

「今からお湯張ったら入るか?」

それを聞いて、入舸は脱衣所に駆け込んでくると風呂の栓をしようとしている雛輪にその勢いを殺さずに抱きついた。ぐえ、と色気のない呻きが溢れる。

「それって、一緒に入って良いってこと?」

「だってそういう約束だっただろ」

あー、やば、と背中にぐりぐりと頭を押しつけて、伸びるからやめろと引きはがされつつ言う。

「俺、藤生さんのこと好きすぎてどうにかなりそう。どうしよう、死んじゃうかも」

「俺を置いて死ぬなよ」

「はぁい」

語尾にハートが付きそうなほどに腑抜けた声で返した入舸は、じゃあお風呂入れてる間に何か食うもんあるか見てくるね、とその場を後にした。腰をさすりつつ見送った雛輪も、着替えを用意しに部屋に向かう。そうして時計の針が深夜二時を刺すころ、風呂が沸いた旨のアラームが鳴った。

「ねえ藤生さん」

「なんだ」

「脱衣所にふたりはやっぱ狭くない?」

「お前がはやく脱がないからだろ」

「だって藤生さんが脱ぐとこみたい」

「変態かよ」

「コスプレ押しつけてくる人に言われたくないですけど」

「あれは別腹」

「ちょっと何言ってるか分かんないですね」

「ったく、しょうがねえなあ。脱がしてやろうか?」

「結構です!」

勢いよく黒のシャツを脱ぎ捨てた雛輪は、入舸のことを置いてさっさと服を脱いで浴室に向かう。

「冷めるぞー」

こもったその声を聞いて、入舸は自分のシャツのボタンを外しはじめた。

「クソ、ボタン多すぎだろこの服」

いくら広めの浴槽を選んだ自覚があるとはいえ、大の男二人で入るには若干狭い。

「かゆいところはございませんかあ」

「ああー気持ちいいですー」

泡立てたシャンプーによって仄かに良い香りが浴室に満ちていく。雛輪がどこからかもらってきたそれは、市販のものより少し高級なものらしく、乾かしたあとも軋みが少ないように思う。ふたりが入ったことで水位が上がった浴槽には、入舸が買ってきたアヒルの玩具が悠々と泳いでいた。

「じゅーさん」

「ん?」

タオルでくらげを作って、ぼこぼこと空気の泡をはじけさせると入舸は不服そうに頬を膨らませた。

「俺としてはこのままえっちなことをするつもりだったんですけど」

「うん」

「……眠くて」

「そうかあ」

「悲しい……」

「悲しいなあ」

水を含んで重くなった入舸の前髪を人差し指でよけると雛輪は愛しさを滲ませて笑う。

「まあ、明日は休みだし」

「……うん」

絞ったタオルで髪の水分を拭う。猫のように目を細めてそれを受け入れた彼は、自分の手元にあったタオルで同様に雛輪の髪を拭った。

「じゃあもう出て寝ようか」

「そうする……」

ふたりはゆるゆると立ち上がり、浴室から出て身体を拭くと下着を手にとった。

「あ、藤生さんそれ俺の」

「ああー、すまん」

「全然色違うじゃん……さては結構疲れてる?」

思案するように視線を彷徨わせて雛輪は言葉を探した。

「疲れてるっていうか、気が緩んだのはあるかも?」

「そういうことサラっと言えちゃうの本当に怖いわあ、そうやって皆のこと誑かしてるんでしょ」

「染みついてるもんで」

寝間着を羽織りつつ入舸はわざといじけた声を出した。表情もいじらしいもの、後輩の表情を選ぶ。

「俺がのうのうと大学生している間にそんな怖いこと身につけなくて良かったのに」

「そうじゃなかったらお前と今こうして一緒に風呂入ってなかったかもしれないだろ」

けろりと表情を戻した彼は換気扇のスイッチを入れるとリビングに向かう。雑音が欲しくてテレビをつけると、売り出し中の地下アイドルがキャアキャアと黄色い声をあげて何やらゲームに興じていた。

「それを言われると、俺はどうしようもない」

「ずるかったな、すまん」

「いいよお」

向かい合って適当に茶漬けをすすって、鏡の前に並んで歯を磨く。特にどちらかが言ったわけでもなく同じタイミングでベッドに潜りこむと、心地好いまどろみが勢い良くやってくる。

「ねえ、藤生さん。まだああいう仕事してるの? 俺が知らないところで」

「半分イエスで半分ノーだ。仕事はするがお前に黙っては行かない」

「……そっかあ」

やめてはくれないんだね、を飲込んでしょぼくれた顔をする恋人を抱き寄せた。すり寄ってくる姿が猫のようで、いつのまにこんな大きな猫になってしまったのやらと苦笑する。さも無力な後輩のように振る舞っているが、そんなことはないときちんと自覚はしているのだろうか。

「だって律、俺が勝手に行ったら相手のこと殺しちゃうかもしれないだろ」

「そんなことないよお、物騒なこと言わないでよね。あー怖い怖い」

目を閉じたままの入舸の口許には若干の笑みじみたものが浮かんでいたが、それが意識してのものか否かには答えを探すことをせずに雛輪はふわふわとうねる栗色の髪の毛先をもてあそんだ。本人は格好がつかないからと文句を垂れているこの髪を、彼は気に入っていた。

「大丈夫だよ、俺はお前を置いてはいかない」

「……うん」

俺もね、あんたのとなりにずっといるから。

寝息に溶けてしまうような声はひとつの約束のようでも、祈りのようでもあった。

意識が黒いシーツから放り出されたとき、ぼやけた頭で入舸は自分の計画が無に帰したのを察した。お揃いのエプロンをつけて休日の朝を楽しむ完璧な計画を思い心の中で涙を飲む。実際に溢れたのはあくびだけだったが。

枕元の時計をみると昼といっても差し支えない時間で、これでは朝ご飯ではなく昼ご飯になってしまうな、と雛輪が寝ていた場所に脱ぎ捨ててある寝間着を集めつつ起き上がる。

「おはよーう……」

「おはよう」

コーヒーカップを傾けながら新聞をめくっている雛輪はなぜだかスーツ姿で、急な出張でも入ってしまったのかとカレンダーをみてもそういった記載はない。しかし机の上にホットケーキはない。

「なんで藤生さんスーツ着てんの? 今日どっか行くんだっけ」

「いや、行くというよりは来る、の方が正しい」

「……ん?」

心なしか普段よりも色つやの良い観葉植物を見て、入舸は思わず唇を噛んだ。前にもこんなことがあった気がする。腰をあげつつ雛輪は重々しく口を開いた。

「これから昨日についての諸々で、阿嵐さんがここに来る」

理解するまでに四秒、時計を見るのに一秒、自分の寝癖を触って五秒。

「はやく言ってよ! ていうか起こしてよ! 何時に来るの!?」

「十二時くらい」

「あと三十分しかないじゃん支度終わんないよ!」

「いけるいける、俺も手伝うし。スーツ選んどいてやるからこれでも飲んどけ」

投げて寄越されたゼリー飲料を握りつぶす勢いで飲み干して洗面所へ向かうと鏡にうつるのは典型的な寝癖頭で、これを直すだけでもう時間になってしまうのではないかと入舸は寝癖直しをいつもより多めに吹き付けた。ひょっこりと顔をのぞかせた雛輪が気楽に問う。

「調子はどうですか律くん」

「さいっあくだよ! 藤生さん何時に起きたわけ、起こしてくれたら良かったのに……!」

「俺もあの時支度終わってようやく一服できたんだよ、飲み終わったら起こそうと思ってた。いざとなったらお前は寝室に押し込んどけば良いかなって。パジャマ脱がすからこっち向いて-、はい腕出して-、次シャツのボタン止めますよー。グレーで良かった?」

「良い! ネクタイは黒っぽいやつ!」

「持ってきてまーす」

「ありがと!」

幼児よろしく服を着せられながら、妥協できる程度に髪を整える。最後にワックスで固めて、ようやく一段落したと時間を確認すれば針は天井を指さそうとしていた。

「やば、ギリギリ間に合った……か……?」

「やあ、おはよう入舸くん。雛輪くんも一昨日ぶり? 一昨昨日ぶり? まあどちらにせよお仕事ご苦労様」

愛の巣に不審者がいる。勝手にパソコン持ち込んで作業してる。そこ俺の席なんだけど。

「藤生さん不審者だよ、警察に通報しよう」

「落ち着け律、気持ちは分かるがあれは阿嵐さんだ」

「え、わかっちゃうの? 上司に対しての口のきき方がなってなくない?」

「もう貴方の部下じゃないです、藤生さんは俺の相方です」

阿嵐さん、そう呼ばれた男はジャケットからUSBを取り出すと雛輪に向かって放った。横から手を伸ばしてキャッチした入舸がそれを握りしめる。

「まだ藤生さんにああいう仕事やらせてるんですか」

「やだなあ、違うよ。僕のことを悪者みたいに言わないでくれるかな。君たちは飯塚とうち、どちらでも適性があると思っているからね。ちゃんと蔵王さんのほうにも話は通っているよ、元々あの人はボディーガードが要るような人じゃないだろう? 適材適所、人材を腐らせるのは惜しいことだとは思わない?」

ちょっと待ってください、と会話を遮った雛輪は息を吐いた。無断侵入はもう何も言うまいが、入舸で遊ぶのは自分の特権だ。

「阿嵐さん、あんまりうちの律のこといじめないでもらえます? あとで困るの俺なんですけど」

面白いものを見たとでも言わんばかりに彼は笑んだ。蛇のようだ、と入舸は彼の紺碧色の瞳を見る。底の知れない深い青だ。

「飼い犬の躾はちゃんとしておけって教えたつもりだったんだけどな」

「首輪が嫌いな猫なんです」

「躾が甘いんじゃない? 僕がやってあげようか」

「駄目ですよ、こいつすぐ噛むんで」

「か、噛んでない」

思わず口を出した入舸に、二人分の視線が集まる。自分の家とは思えない居心地の悪さに視線を彷徨わせていると、隣に立つ雛輪が軽い調子で入舸の頭に手を乗せた。折角セットしたのに、と恨めしげな表情で雛輪を見上げる。

「ふふ、可愛いね」

「でしょう? 自慢なんですよ、毛並みも良くて」

「俺ペットじゃないんだけど」

悠々と座ったままで、男は入舸の名を呼んだ。怪訝な顔を向けられても不敵な表情を崩さずに続ける。

「これは冗談ではないんだけど、雛輪くんと一緒にこっちに来るつもりはない?」

「はあ? 行かないですよ、藤生さんには危ないことしてほしくないんです」

「うーん、即断かあ。まあうちはいつでも歓迎するよ、気が向いたらおいで」

「向かないと思いますね……」

「こっち来てくれるといちいち飯塚の方に許可取らなくて良くなるから楽なんだけどなあ」

「それ貴方の手間の問題じゃないですか」

「そうだよ? 面倒ごとは根元から潰しておくのが得策だろう?」

「はいそこまで、勧誘はほどほどに願いますよ」

芝居がかった様子で肩をすくめて、やれやれと首を左右にふった。

「怒られちゃった、雛輪くんは頭が固いなあ」

「こいつやることが大きいんで扱いが難しいですよ、昨日の一件も長男殿に繋げてましたし」

そこで初めて驚きをのせて阿嵐は入舸を見た。ぱちぱちと瞼の向こうで深海がさざめく。

「え、きみベラルくんとも知り合いなの?」

「知り合い? たまに話す程度ですが」

あーあ、と大袈裟に溜め息をついてパソコンを閉じて、取りだしたメモ帳に何かを書き付けると雛輪にそれを手渡した。

「これ、入舸くんが握ってるやつのパスワードね。それにしてもベラルくんかあ、彼は一回身内認定すると甘いからなあ……。羨ましいなあ」

「それは年上だから仕方ないんじゃないですかね」

「ま、そうなんだけど。年長者というのも様々に思うところがあるんだよ、年下くん。じゃ、今日はそれと勧誘が目的だったからこれで退散。まだ休日も半分あるし、存分に愛を育んでくれたまえよ」

すたすたと出て行く阿嵐を呆然と見送ると、彼が鍵を持っているわけでもないのにカシャンと鍵の回る音がする。口許を引き攣らせつつチェーンをかけて、入舸はUSBを雛輪に渡した。

「あの、じゅーさん」

「なんだ律」

「あの人冗談ではないって言ってたけど、逆にどこらへんが冗談だったの? 全部本気にしか聞こえなかったんだけど」

む、と腕を組んで雛輪は数分前までの会話を反芻する。

「……躾のところとか?」

「あれは明らかにマジだったでしょ目が据わってたもん」

「いや、あの人は躾とかあんまり言わないぞ? 少なくとも日の出てるうちは」

「注釈が怖すぎるんですが……、もうやだ俺ついていけない……」

「教育っていうときはマジ度が高め」

「うわこわ……絶対行かない……」

「この前最低限の研修的なあれはやったし、本当にあの人は手続が面倒だったんだと思うぞ。何気に忙しいからな」

研修と聞いて、突然呼びつけられて分厚い資料付きの授業が始まった時のことを思いだし入舸は思わず胃のあたりに手をやった。思い出すだけで胃痛がしてくる、あのスパルタ。確かに役には立っているけれども。

「忙しいなら来ないで良くない?」

「息抜きだよ、息抜き」

ネクタイをゆるめながら部屋の電気を消していく雛輪に入舸は尋ねる。

「あれ、どっか行く? 俺はそれでも良いけど」

「阿嵐さんも言ってただろ、まだ休日は残ってるんだ」

「うん……、言ってたけど……。ホットケーキは?」

「小学生かよお前は」

それはまた今度な、と部屋を進んでいく後ろをカルガモの親子のようについてくる入舸の手をぐいと引いて、雛輪は寝室のカーテンを閉めた。ベッドに突き飛ばすと僅かに光沢のある黒いクッションが入舸を受け止める。ジャケットを脱いでサイドテーブルに置いて、状況を噛み砕こうと黙りこくってしまった恋人のネクタイに手をかけた。膝でベッドに乗り上げると、衣擦れの音が明瞭に聞こえて、入舸はばくばくと鳴る己の心臓を聞いた。昨夜、名前も知らない男に見せていたそれよりずっと甘やかで、淫蕩な娼婦めいた表情にくらくら思考が揺れる。煮詰めた黒水晶の世界では服従する他になすすべがない。頬に添えられた雛輪の手はあつく、くちびるが触れそうなほど近付けば彼の香水が香った。爽やかな香りのそれは入舸が贈ったものだったが、この状況下ではアンバランスさがかえって色を誘う。

「折角ああ言ってくれたんだからよお」

愛を育もうぜ。