その日、入舸律の世界は、一切の光を失った。


雪とも雨ともつかない水滴が空から落ちてくるような、冬の夜のことだった。

治療中と書かれたランプが灯る扉の前の長椅子で、雛輪は組んだ手の指を見つめていた。先刻から深呼吸を繰り返しているけれど、心臓の裏側に氷を押し当てられているような焦燥感は少しも消えない。かすかに頭痛を感じて目を閉じれば、赤みを帯びた闇の中に一瞬だけ鮮烈な光が飛び散った気がした。

瞼を開けて、それから一体どれだけ時間が経っただろう。不意に扉の上のランプが消えた。開いたドアから出てきた白衣の男が、凪いだ表情で入室を促した。

緩慢な動作で立ち上がる。怪我をしているわけでもないのに足元がふらついたけれど、己を叱咤して治療室のドアをくぐった。

「律…?」

武骨な機械に囲まれたベットの上で、入舸が振り返った。右足には骨折処置と思わしきギプスが施され、年のわりにまろい頬には至る所にガーゼとテープが貼ってある。満身創痍といって差し支えない様相であるが、何よりも雛輪の目を引いたのは、日頃、表情豊かに瞬く胡桃色を覆い隠す包帯だった。

雛輪はくしゃりと顔を歪める。まるでその表情が見えているかのように、入舸は晒されている口元だけで笑って見せた。

りつ、と再度雛輪の口からこぼれた彼の名は、みっともなく震えていた。

「りつ」

「うん」

「律、目が、」

「うん」

「おまえ、それ、…だって」

「うん、見えてない」

包帯がかけられている所為とか、瞼が降りている所為ではなくて、それはつまり、視力の欠落。いわゆる必要もなく、《失明》と呼ばれる状況。

彼と雛輪が直前に対応していた任務の難易度は、彼らの主観からしてみれば高いものではなくて、むしろ面白みに欠けると言って差し支えない程度のものだったはずだ。

どうしてこんなことになったのか。前後の記憶は定かではないけれど、まさか一昔前のシナリオのように爆発オチをかまされるとは思っていなかった。

死ななかっただけ当たり所がよかったというべきなのか、不運にも視力を失ってしまったと嘆くべきなのか。当の入舸には判断しかねる。

「じゅーさん、泣かないでよ」

入舸はまるで見えているかのようにこちらに手を伸ばしてくる。それがむしろ見えていないことを裏付けているようで、泣かないでというのは無理な話だった。

雛輪はそれから数十分、声も漏らさず滂沱と涙を滴らせ、見えてないはずの入舸は困ったような微笑を浮かべてそれを慰め続けた。


世界を失った入舸律の日常は、彼らが思っていたものの数倍は穏やかなものだった。穏やかな日々は、穏やかなりに、緩やかな速度を伴って過ぎていく。


春は、殊に色彩の豊かな季節であると雛輪藤生は思う。冬特有の、しんと澄んだ空気は緩やかに角を落とし、空は柔らかい青を見せている。近くの河原に並んだ巨木は化粧を施したように薄紅に染まり、雛輪が買い物に行く際に通る道路の片隅には、紫やら黄色やらの小さな花が太陽の光をその身に吸収せんと目いっぱい手を伸ばしていた。

薄い雲を投下して降りてくる日光さえ、無数の光を帯びているように感じられる。

今年に限って、その鮮やかさが輪をかけて美しく感じられるのは、隣にいる入舸の分も世界を見ようとしているからだろうか。

「ねぇじゅーさん、近くの桜はもう咲いてる?」

視力を失ってから、入舸は窓際のソファに好んで座るようになった。雛輪にはそれがまるで、外の世界に焦がれているように見えたのだけれど、それが真実なのかどうかは当人にしかわからないことだろう。

「…咲いてる」

「どう? きれい?」

「ああ」

「例年通りにきれい?」

「…さぁ、どうだろうな、俺にはいつもより綺麗に見える」

「マジでかぁ…」

呟いた入舸の声は、どこか拗ねたような響きを帯びていた。けれど彼は、見えないのが残念だ、とは言わない。

気を遣われているのだろうか、と雛輪は思う。元々気遣い屋的な性質を持っている男だったが、よもや自らが視力を失って尚他人に気を配るとは。余裕があるのか、もしくはただただそうせずにはいられないだけなのか。

後者だとしたら、何と言っていいかわからないが、何となく憐憫を感じる。

「どんな感じ? どんな色?」

「どんな色…? あー…FFF5EEとか…そのあたり?」

「んん? いやカラーコードで説明されてもね?」

「?????」

「見えないけどわかるぞ今「は?」みたいな顔してるだろ!」

雛輪が入舸とこうしてまともに会話できるようになるまでにはそこそこの時間がかかった。その間に季節は一つ先に進んでいたわけだが、すべてが元に戻るまでには一体どれほど四季を見送ればいいのか。

あるいは、どれほど時間を重ねたところで元には戻らないのかもしれない。

様々な色をはらんだ日差しを浴びたまま、入舸は言葉を促すように雛輪の方を見た。彼自身が淡く発光しているような非現実感に、うっすらと眩暈を感じる。

「…花弁は白く見えるんだ。俺には、だけど。花弁そのものに色らしい色はついていない。けど、それが何十にも何百にも重なって、…少しだけ、桃色がかって見える。

白い、…白い建物の壁に、夕日が反射したときの色に、似ているかもしれない」

眉間に皺を寄せて探るように紡がれる雛輪の言葉を、入舸は嬉しそうに聞いていた。包帯の下の胡桃色も、きっと弧を描いているに違いない。

雛輪が落とした表現を記憶と重ねるように一瞬だけ黙った入舸は、

「へぇ、…それはとてもきれいだね」

と呟いた。

「だろう」

お前にもいつか見せてやれたらいいのに、とは言えなかった。いつか彼が、再び自らの目で、その美しさに感嘆を零せる日が来ることを心底願う。

せめてそれまで、自分が、世界の鮮やかさを伝えてやりたいと思った。


「…あめ、」

「飴?」

「んーん、雨の方」

「うん? 雨がどうした?」

「雨がね、降るよ」

きっと。

出がけに雛輪を呼び止めて、入舸はそういった。

雨、と言われても、窓の外に見える空はこの上なく晴れ渡っているように見える。夏の日差しがコンクリートに映し出す影はくっきりと焼け付くようで、この空調の効いた部屋から出れば茹だるような気温であるのは想像に難くない。

「…雨? …降るのか」

「たぶん? 傘持ってったほうがいいかも」

入舸の、半分だけ見えている顔と、晴天、傘立てにささった傘を順繰りに見返して、少しだけ思考する。

まぁ、降らなくても邪魔になるだけで大した実害はないかなぁ、と判断して、傘立てから透明のビニール傘を手に取った。

入舸が失明してからこちら、雛輪はできる限り自宅にいるようにしている。一人にするのが心配ということもあるけれど、どちらかと言えば一緒にいたいだけ、という理由の占める割合の方が多い気もする。

上司の計らいで、仕事は在宅でできる書類関係のものだけになった。定期的に提出しに行かなくてはいけない手間はあるが、今までのあれやこれやに比べたら苦でもない。

完成した書類を提出し、新しい仕事を与えられ、さて帰るかと退室してエントランスに降りた雛輪の視界に飛び込んできたのは、濡れ鼠になった上司の息子とその友人だった。

「ああ~~~~!!!! 雨!!! 急に雨!!! これだから夏の晴天は嫌なんだよ!!!! 無理!! しんどい! パンツも濡れてる!!」

「見事に降られたな…」

「おやおや…ずぶ濡れでございますね。タオルをどうぞ。バスルームの準備をして参ります故、少々お待ちください。よろしければ将様も、どうぞ」

雨が、降ってきたらしい。ここに来る前はあんなに晴れていたのに。

上司の部屋にいたときは窓にカーテンが引かれていたから気が付かなかった。

入舸の言うとおりにして正解だったらしい。

青年は玄関前にも関わらずすでに脱衣を始めていた。降りてきた雛輪に気づいたらしく、青年、もとい飯塚周防は話しかけてきた。

「藤生さん、今から帰り? 外すげぇ雨だけど大丈夫? 傘なかったら車出させようか?」

彼の言葉を裏付けるように、幼い従者が二人、騒ぎながら洗濯物を手に走り回っている。

「ありがとうございます、傘は持っているので大丈夫ですよ」

執事と柏手にも会釈をし、雛輪は帰路につく。

開いた透明の膜の上で、雨水がばらばらと音を立てて踊っている。なかなかの豪雨だ。雨の中で少し色褪せたように見える景色に、かすかな安堵を感じる。

帰宅した雛輪を迎えたのは、だから言っただろう、と言わんばかりのドヤ顔を口元だけで表現した入舸だった。

「本当に雨降ったな」

「でしょ」

「…どうしてわかったんだ?」

「匂いがしたんだよ」

「匂い」

「雨のにおい」

「あめのにおい」

田舎から出てきた知り合いが、いつかどこかでそんなことを言っていた。何度か嗅ごうとしていたけれど、何かを感じることはできなかったことを思い出す。

「…どんなにおいがする?」

「うん、と、…濡れた土? 地面? 何かよくわからないけどね、腐葉土のにおいに似てるかもしれない。科学的なお話しだって聞いたことはあるんだけど、覚えてないなぁ。

きっと上で降ってきたところから流れてきたんだろうね」

目が見えなくなってから鼻が利くようになったんだよね、と、入舸は朗らかに言う。

雛輪は、自分と入舸の世界の隔絶を感じてうっすらと目を細めた。

自分が見ているものは今の彼には見えていないし、彼が感じているものを自分は感じられない。けれどその隔絶感がどうしようもなく愛しいと思ったし、自分とは違うものを見て、見えないものを見えないなりに見て、きっと自分には聞こえないものを聞いているのだろう彼のことを、得も言われぬほど尊いと思った。


彼の世界が美しいことを、切に願う。



「秋深き、って感じ?」

慣れた仕草で鼻をひくつかせて、入舸は言った。雛輪もそれに倣って一応深呼吸をしてみるが、やはり何も感じない。最近この恋人は、少し犬じみてきたかも知れないな、と思って軽く溜息を吐いた。

また何か良からぬことを考えていないだろうか、と恋人の顔を覗き込むが、いつもの通り白い包帯でほとんど察することができない。そろそろ慣れてもいいころだと思うのだけれど、自分が思っているよりも他人の機微を理解するのが苦手だったということだろうか。一方の入舸はと言えば、雛輪の心境を感じ取ったようで、その形のいい唇に一見無垢な笑みを刷いていた。

二週間ほど前に生死に関わるレベルで情緒不安定になっていたとは思えないふてぶてしさである。自分ばかりが振り回されているような。不公平といえばそんな気もする。

「ふふ、もう痛くないから安心してよ」

「………」

もう痛くない。

「痛かったのか」

「まあね」

「どこが」

「どこだと思う?」

入舸は穏やかに笑っている。元々よく笑う男だったが、視力を失ってからは輪をかけて笑うようになったと思う。どんな意図があってそうしているかはいまいち図りかねるが、振りでも笑っていられるのなら、せめてそれが曇らないようにと願うばかりだ。

振りすらできなくなった時の彼のことをふと思う。泣いているのを見たのは、いつぶりだったか。まあ元気になったのなら何よりだ。

一緒に死ぬよりも、一緒に生きる方がずっといい。

「じゅーさん、紅葉狩り行こうよ」

入舸は唐突にそういった。何と言い返すべきか、雛輪はほんの数瞬間だけ逡巡する。

「…………見えないのに?」

けれど結局はその一瞬に考えたことをそのまま口にした。その言葉を聞いて何を思ったのかはしらないが、嬉しそうな顔をしている入舸を見て、雛輪も目元を緩める。

「うん、見えないけど。見えないけど、感じられるものはある。じゅーさんは知ってるでしょ?」

それは例えば、匂い。例えば、音。指先でつかむ微かな振動。目には見えない、色々なもの。

「…知ってる」

雛輪は入舸の柔らかい髪を指に絡ませた。入舸は自分の世界にある様々なものを、さまざまな言葉を使って雛輪に伝えてくる。

いったい彼の言葉の何分の一の世界を、自分は入舸に伝えられているのだろうか。

「いいよ、出かけよう」

久々に、遠くに行こう。

そうして彼らは、いつか振りに二人で家の外へ出た。手に手を取り合って、澄んだ空気をはらんで落ちてくる日の光の中をゆっくりと歩く。

空が高い。

「今年は正月にお寺いこうね」

「年越し?」

「うん」

「なんか御利益ありそうだな」

何気ないことを話しながら、雑踏から離れていく。やがて雛輪にも、少し早めに枯れた葉のにおいが届いた。視界の端に暖色の海が広がりはじめ、その中に身を投じる非現実感に目眩がした。

そういえば、と思う。

そういえば、入舸の目の色も、確かこんな色だったか。思えば久しく彼の瞳を拝んでいない。入舸は一日の殆どを包帯をつけて過ごしているし、包帯を巻いていない時間は瞼が降りている。

赤い光の中で、嬉しそうに空を見上げる入舸に呼びかけた。

「律」

きっと、彼の目に映った紅葉はどうしようもなく美しいに違いない。

雛輪の声に反応して、入舸が振り返った。

「こっちおいで」

小首を傾げながら近寄ってくる彼の足取りは、見えていないのが嘘のように揺るぎない。

柔らかい茶髪に手を入れる。何が何だかわからないような顔をしながら手に顔をこすり付けてくる様を見ていると、何となく猫を手懐けたような気分になった。

後頭部止められた白い帯の結びを外す。緩んだ布は、重力に従って鎖骨あたりにまですとんと落ちた。

ただでさえ大きな目が、驚愕でさらに大きく見開かれている。胡桃色の円形の中に、鮮やかな赤が移り込んでキラキラと光っている。

瞬くようなその輝きが、やはりどうしようもなく美しく見えて、雛輪は目を細めた。


ぼぉん、と、鈍く厳かな低音がすぐ傍で響いた。

百八回目の除夜の鐘、新しい年の訪れを、雛輪と入舸は久方ぶりに神社で迎えた。

まずは互いに新年のあいさつをかわし、ついで静かな興奮に身を震わせる周囲の人々ともおめでとうを交換する。

人込みのどこかから、穏やかながらもはしゃいだようなざわめきが生れ、それはじんわりと伝染するように広がっていく。息をひそめて鐘の音に耳を傾けていた時の、張り詰めたような緊張感が徐々に緩み、酔っ払いの歌い笑う声すら聞こえてきた。

無言で手を差し出してくる入舸に小銭を渡してやり、ついでにその手を取って賽銭箱の近くまで手を引いていってやる。ここまで人込みがひどいと、賽銭箱が見えていようがいまいがさして違いはないだろう。入舸はもともとあまり背が高い方でもないし。

わりと適当に小銭を投げた入舸の後を追うようにして、雛輪も賽銭を放った。何を願おうかと考えて、けれどいまいちぴんとこない。隣を見れば、入舸は目を閉じて何か一心に念じている。どうでもいいけれど、神社で両手を握り合わせてお祈りするのはやめたほうがいい。

神様なんてさして信じてもいないくせに、何を必死に願いっているのだろう。

入舸の願いが叶えばいい、と、ふと思った。思ったところで、入舸が顔を上げる。見られている気配に気が付いたのだろうか、首をかしげて「どうかした?」と聞いてくる。

なんでもない、とだけ返して、再び入舸の手を取った。

「何お願いしたの」

「何も」

「あーーーお前そういうやつか」

「知ってるだろ」

「知ってる~~~」

他愛もないことを言い合いながら、駐車場に止めてあるバイクに向かう。ヘルメットをかぶらせてやって、後部座席に座らせ、自分は運転席に座る。

しかしタイヤを向かわせるのは自宅の方向とは逆である。しばらくすると入舸も違和感に気が付いたのか、「ちょっとこれどこに向かってるの!?」と声を張り上げて訪ねてくる。

「どこだと思う!」

「知らないよ!!!」

耳元でバタバタとはためく風の音に負けないよう、大声で叫び合う。雛輪は何故か無性に可笑しくなってきて、笑い声をあげた。

時間にして二時間程度だろうか、雛輪がバイクを止めたのはかなり高いと思わしき山の駐車場である。こすれ合う木の葉の音に何かを察したのか、入舸は、「……山?」と呟いた。

「そう、山」

「なんで…?」

「初日の出を見に行くんだよ」

「初日の出、」

「そう」

下調べは万全である。リフトがあることもリサーチ済みだし、斯く斯く云々と説明をしてちょっとした交渉もして、今日この時間帯に運行してもらうことも約束済みだった。

片割れの目が見えないことに同情したのだろうか、交渉の際には戦々恐々としていた管理人らしき老人は快く案内をしてくれたし、どころか頂上付近にある山小屋で暖をとる許可さえくれた。正直この気温の中ではなぁとは思っていたところである。

暖かいロッジで三時間程度の睡眠がとれる僥倖を味わったのち、いまだ眠る入舸を置いて雛輪は小屋の外へ出た。

張り詰めたような冷たい澄んだ空気が、若干のぼやけが残る思考を端から端まで冴え渡らせた。見上げた藍色の空は、銀瑠璃の名残をちらつかせながらもゆっくり白けていく。

現在時刻は午前六時二十分。

去年の今頃は、確か目の見えなくなった入舸の世話に四苦八苦していたか。思えばもう一年たった。

時計を確認して、小屋の中にいる入舸に声をかける。数秒の沈黙、ぱっちりと目を開けた入舸は、相変わらずしっかりした足取りで雛輪の元へ歩いてきた。

一番見晴らしがいいと教わった展望台に立つ。穴場中の穴場を引いたのか、こんなにもいい景色なのに人はいない。


ゆらゆらと揺らめきながら、ゆっくり、ゆっくり、光のかたまりがのぼってくる。

赤であり、橙であり、黄であり、白くもあり、どこか緑がかっているようにも見えた。

その光景を神秘的だと言える程度の情緒は、自分にもまだ残っていたらしい。鼻頭がつんとするほどに冷たい空気とも相まって、何とも言えないけれど、洗礼を受けているような気分になった。

キリストなのか仏教なのか。まぁこれもまた日本という国に生まれた者の性だろう。

「ねぇ、藤生さん」

隣から呼びかけてくる入舸の声は、なぜか震えていた。見えないながらに感じるものがあったのだろうか。その可能性も否定できないほどに感動的な景色ではあるが。

「…今さ、太陽、昇ってきた?」

「………あ?」

「眩しいんだ、暗闇の中にさ、ゆっくり光が出てきて。揺れてる。すごく眩しい」

入舸は泣きそうな顔で笑った。彼の胡桃色に映り込む自分の顔は、何とも言えない驚愕の顔をしていたけれど、徐々に同じような顔に崩れていく。


「すごい、俺の世界、こんなに眩しい」

雛輪には、自分が泣いているであろうことが容易く理解できた。入舸の丸い目からも、つるりと滴が零れ落ちる。

「俺、俺さぁ、さっき神様にさ、『藤生さんの顔が見たい』ってお願いしたんだよ、…マジかよ神様、あんたすげぇなぁ、」

入舸は整った顔をくしゃくしゃにゆがめて笑った。弾む声は涙にぬれている。

雛輪も思った。神様、あんたすごい。信じてなんかないけれど、今この一瞬だけは心底讃えよう。

完全に隔絶されていた二つの世界が、ほんの片端ずつ重なり合った。


朔日のあれが何らかのきっかけになったのだろうか。その日から、入舸は日に日に視力を取り戻していった。雛輪にはそれがどんな感覚なのか理解することはできなかったけれど、彼は日毎に色づいていく世界を何よりも楽しんでいるようだった。

今日は赤が戻った、今日は黄、青、細かな陰影がわかるようになった、物の形が見えるようになった。

まるで日記を書くように、日の終わりに語って聞かせてくる入舸を、どうしようもなく愛おしいと思った。

そうしてそれは、いつかのあの日と同じように、唐突にやってきた。

その日、雛輪が眠りから覚めたとき、入舸は既に起きていて、窓から吹き込む風に髪を揺らしていた。いくら暦の上では春になったとはいえ、まだ寒いだろうに。

入舸は雛輪が目を覚ましたのに気が付いたのか、窓を閉めて振り返る。

「じゅーさん、おはよう」

柔らかく細められた甘い茶色の目は、確かに、自分を見ていて、見ていて。

「泣かないでよ」

そのセリフも、その表情も、一年前のあの日と一緒だ。

けれど決定的に違う、たった今、この瞬間、まさに二人は同じ場所にいた。

「じゅーさん、泣き虫になったね」

「お前のせいだよ」

「そうだね」

こうして泣くのも、もう何度目になるか。大丈夫、もう苦しくない。自分も、律も。


「花見に行こう」

「うん」

「夏祭りにも」

「そうだね」

「月見も」

「うん」

「スキースロープ」

「うん? …うん」


いろんな場所に行こう。いろんな景色を見よう。いろんなものを感じて、いつか思い出しながら話し合おう。


おかえり律、俺とお前の世界へ。