陰陽師×鬼シリーズ
散る桜、六花の如く
<あらすじ>
ときは現代。陰陽師である赤井秀一と鬼の先祖返りの一族で唯一の生き残りである降谷零。二人は人々が取り扱えない妖や怪異を相手に、日々の平穏を密かに守っているのだった。そんなある日街では不穏な怪奇事件が相次ぎ、降谷の周りにも不穏な影が……?
<注意書き>
・陰陽師の赤井さんと先祖返りで鬼の血を引く半妖の零くんの長編シリーズです。
・最終的に二人が結ばれる(結婚する)シナリオなのですが、そこにたどり着くまで長くなりそうです。
・呪文等の描写は適当です。雰囲気です。なんちゃって現代和風ファンタジーです。
第一話
しきたり、儀式…そう言った類のものに秀一は興味が無かった。
しかしながら代々陰陽師の家系、ましてや当主である彼には避けては通れないものだ。
今もこうして広い赤井家の屋敷の一室で数十年に一度行われるという儀式が始まろうとしていた。
その主役の1人である秀一は、現代に似つかわしくない狩衣を纏い、不承不承という体で座っていた。秀一から見て両側には赤井家が一堂に会しており、右手に座る母親が「真面目にやれ」と鋭い眼光で訴えている。秀一は思わずため息をついた。
広い畳の一室の半分は赤井家で埋まっており、残りの半分はこれから迎え入れる客人のために空けている。もうじき使用人がその客人を連れてくるだろう。これからこの場所で、先祖返りの一族ーー降谷家と契約を結ぶ儀式が執り行われる。
ーー先祖返り。妖の血を引く一族は数十年に一度の間隔でその血が色濃く現れる子が生まれる。その子は先祖である妖の力を宿し、時に崇められ、時に畏怖の存在となってきた。そう言った一族は現代人の多くは知らないが、世の中には複数存在する。
古来より怪異、妖を祓うことを生業としてきた陰陽師の一族は、本来であれば彼らを祓う立場にある。陰陽師の一族と先祖返りの一族はかつて敵対関係にあった。
明治時代に一族間で取り決めがされ、敵対関係から協力関係という形に変化した。
取り決めの内容は、陰陽師が先祖返りの人間を祓いの対象としない代わりに、先祖返りの人間が陰陽師の生業を共に執り行うーーという内容だった。
今回初顔合わせとなる降谷家も先祖返りの一族で、鬼の血が混ざっているということだった。
それなりに顔の広い赤井家はおおよその先祖返りの一族と面識はあったはずだが、この降谷家は最近耳に入り始めた氏族だった。
天狗、かまいたち、猫又、雪女といった先祖返りの一族はあったが、鬼の一族は前代未聞だ。
大抵は昔からの関係性を重視し、決まった一族間の契約を結んできた中で、突如現れた降谷家に陰陽師の一族はみな動揺し、対処に困り果てていた。
そんな中今まで一度も先祖返りの一族と契約を結んでいなかった赤井家に白羽の矢がたったのだ。
鬼の一族の噂は瞬く間に話題となり、かつて平安の世を脅かした鬼の末裔だとか、類稀なる妖力を持っているだとか、嘘か誠かわからぬものばかりだ。
秀一は面倒ごとを押し付けられたな、と思う反面その件の一族の人間に会ってみたいという興味はそそられていた。
「降谷家の方がお越しになりました」
使用人が襖越しにこちらに呼びかけると、部屋に入れるよう促した。
襖が開かれ、その男の姿を見た瞬間、秀一は思わず瞬きを忘れて彼を凝視した。
襖の前で正座する彼の髪は金色の稲穂のようで、日の光に反射して儚げに輝いていた。少し下を向いていた顔を上げれば南国を思わせる褐色の肌に宝石のような青い瞳をが露わになった。
正装の着物姿を装ったその青年は美しい所作で立ち上がり、部屋へと足を踏み入れ、こちらと向かい合う形で座った。その後ろからもう一人眼鏡をかけた男が現れ、彼の斜め後ろに座った。他に入ってくるものはもういない。
美しい青年は両手を畳の上で重ね、これまた美しい所作で深々とお辞儀をした。
「お初にお目にかかります。降谷零と申します。この度はお招きいただきありがとうございます」
顔を上げた青年の表情はこちらを探るような気配があった。二十歳は超えていると聞いていたが顔立ちは実年齢よりも幼く見える。
「降谷零……綺麗な名前だな」
率直な感想を述べると零はむっとしたように秀一を睨みつけた。
「こちらが名乗ったのですから、そちらも名乗るのが礼儀ではないですか?」
見た目とは裏腹に結構気が強いようだ。秀一はくく、と喉の奥で笑う。
「ああ、すまない。俺は赤井家当主の秀一だ」
「赤井…秀一…」
二人の視線がしばらく交差し、一瞬時が止まったかのように錯覚した。
彼らは予感したのかもしれない。互いに唯一無二の存在になることを。
これから二人の運命が大きく動き出すことをーー。
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夜中の二時を過ぎた頃。昔でいうところの丑の刻ーー常世と現世の境が曖昧となる時間帯。
ここは関東のとある中学校の敷地。人気のない学舎は昼の顔と打って変わってひどく不気味だった。その門前に長身の男が二人立っている。
ニット帽にジャケット、スラックスと頭から爪先まで真っ黒な装いの男と、対照的に白いニットと紺色のジーンズの装いの男の組み合わせで、どちらも恐ろしいほどに整った顔立ちをしていた。
「随分と今日は数が多いな」
青年の一人が呟きながらジャケットからタバコとマッチを取り出して一服を始めた。仕事前の喫煙は彼のルーティンとなっている。
ブルネットの髪はニット帽でほとんど隠れているが、やや癖のあるそれが束となって帽子から溢れている。
深緑の瞳で目の前の校舎、正確にはその周囲を蠢く無数の『それら』を睨みつけた。大抵の人間は視ることはできないそれらは突然の来訪者にざわざわと不快な音を立ている。
隣に立つもう一人の青年が答えた。
「多様な人間が集まる場所ですからね。積もり積もった思いが形を変えたんでしょう……というかタバコやめてくださいっていつも言ってますよね?」
彼の肩に付かない長さの髪が、街灯の光を浴びてきらりと黄金色に輝いた。空を想わせる青い瞳で隣の男をじろりと睨んだが、相変わらず優雅にタバコを吸っている。言ったところで素直に言うことを聞く男ではないことは知っているが、ついつい悪態をついてしまう。
「君はどこから片付けていく?降谷くん」
タバコの男に問われた金髪の青年ーー零は意識を集中させて校舎の中心部を視ると、一際大きい異形の塊の光景が彼の頭の中に入ってきた。あれが親玉のようだ。
「……僕は本体を叩きます。赤井はどうするんですか?」
「周囲の雑兵をまとめて相手しつつ行方不明の生徒を保護する。その方が君も動きやすいだろう?」
無言を肯定だと受け取り、赤井はタバコを携帯灰皿に入れた。
二人が敷地に足を踏み入れると、招かれざる客に蠢くそれらのざわめきが一層大きくなった。これから自分達に危害を加える者の気配を察知しているのだ。
赤井が印を組んで小さく唱えると、敷地の周囲に透明な帳が下ろされていった。一般人には見る事のできない強力な結界で、これの外にいる者からは彼らを認識することはできず、校舎の異変にも気づくことはない。
結界が張られたと同時に、零の周りに幾千もの桜の花弁が旋風となって彼を取り込んだ。それが吹き上がり現れた彼は濃紺と臙脂で染め上げた着物に、赤の鼻緒の下駄という装いに変わっていた。両手には籠手を嵌めており、腰回りには鎧にも似た腰帯が巻かれ、戦闘を考慮しての格好だとわかる。そして、彼の額の生え際から左右対称に10センチほどの黒い角が生えており、滑らかな褐色の肌に初めからあったかのように馴染んでいた。
右手を前にかざすと手元に太刀が表出した。それを掴んで一振りするだけで、周囲の淀んだ空気が浄化された。
「では、行きましょうか」
「ああ……。『透』出番だ」
赤井の呼びかけで突如小さな生き物ーーと言うよりも妖の類と行った方が正しいーーが二人の前に顕現した。ぬいぐるみのような愛らしいそれは手に乗れる程度の大きさで、可愛らしい見た目とは裏腹にきりりと凛々しい表情をしていた。
『何ですか、アカイ』
「あの有象無象たちを惹きつけて屋上まで誘導して欲しい。頼めるか?」
透はむすっと不機嫌な顔になった。
『相変わらず式神使いが荒いですねぇ!』
「まあそう言うな。君ならできるだろ?」
ぶつぶつと文句を言いつつ透はふわふわと浮遊しながら校舎の方へと向かった。透の誘導に乗せられた大小様々な異形たちはざわざわと不快な音を立てながら集まってゆく。
それを確認して二人は校舎内部へ足を踏み入れた。
内部は淀んだ空気で満たされて、零は思わず顔を顰めた。
行方不明の生徒は女子生徒一名だという。数週間前、当校生徒の男女数人が肝試しと称して夜中に校舎へ侵入し、一名の女子生徒が行方不明となった。
警察にも捜索願いが出され、誘拐事件の線でも捜査が行われたが何も手掛かりがないまま時間だけが過ぎていった。神隠しなどと噂が囁かれる中、藁にもすがる思いで女子生徒の両親が赤井家に依頼をした、という訳だ。
「あの教室だな……」
透が雑兵を惹きつけてくれたお陰で敵の本拠地をすぐに特定することができた。
一箇所の教室から瘴気が溢れ出しており、ここが怪異の根城だと伝えている。
零は刀を握り直してその教室へと足を進めた。
一方、秀一は校舎の屋上にたどり着いた。
校舎の周囲を漂いつつ囮の役割を果たしている透は、彼の姿を見つけそちらへと一目散に飛んできた。その後ろには蠢く漆黒の塊が付いてきていた。
『アカイ!今です!』
透の合図に秀一は左手で印を組むと、真言を唱えた。
「降臨諸神、諸真人、縛鬼伏邪、百鬼消除ーー急々如律令」
すると彼の目の前に緋色の炎が出現し、鳥の形へと変形した。その姿は不死鳥のようだ。彼の言霊によって出現した緋色の鳥は有象無象へと飛んでいき、炎を吐き出した。
退魔の炎に包まれた異形はもがき苦しむような音を立て、やがて霧散した。
『やりましたね!』
「ああ……」
まだ、校舎に二つの怨念の気配がある。
一つは零が対峙している異形の主。そしてもう一つの気配は、異形のそれとは違い弱く儚いものだ。
秀一は再び校舎の中へと入った。
「あなたが親玉ですね?」
異形の塊に話しかけてみれば、地鳴りのような低い唸り声が返ってきた。その声には侵入者に対する怒りと畏れが含まれていた。
それを感じ取った零は妖艶な笑みを向けた。
「ふふ、怖い?僕の体には鬼の血が流れているからね。力を解放したこの姿は僕の妖力がダダ漏れだから、あなたのような低級な霊にはキツイでしょう……?」
言葉の意味を理解しているのか、彼の挑発に反応するように勢いよく彼めがけて飛び出してきた。
それを予測していたように、零はふっと目を細めた。
目の前へと飛び出してきた異形の前で、刀で横一文字に空気を切り裂き、そこから通力が放たれて異形は後ろへ大きく跳ね返された。
「あなたはこの学舎の負の感情を食い物にしてきたようだ……」
元々は地縛霊だったが、人間の怨み、妬みといった感情を吸収するうちにここまで誇大化してしまった。
ぐるぐると唸る異形は彼の霊力に気圧されつつも、次の攻撃の機会を窺っている。
「今楽にしてあげる……ん?」
妙な気配が僅かに混じっている。これは生きた人間の魂の匂いだ。
この手の霊は大抵寂しがり屋で共感を求める。同じ感情を持つものを取り込む性質があり、それは時に生身の人間の場合もある。
「この気配…まさか……」
意識がそれた瞬間を異形は見逃さなかった。勢いよく飛びかかってきた異形に、零は一瞬遅れて後ずさった。
「生きた人間と癒着している……!」
異形を倒せば癒着している人間も一緒にも同じだけのダメージが入ってしまう。
「『昴』!」
『はい、お呼びでしょうかご主人様』
彼の呼びかけに、透と同じ種族と思われる大きさの妖が近くに顕現した。
「親玉と人間が紐づいている。このことを赤井に知らせて。僕はそれまでこいつを惹きつけておくから」
『わかりました。透に即座に伝えます』
今日の仕事は少し厄介だな……。零は小さくため息をついた。
ぴくん、と透が体を一瞬震わせた。
『アカイ、昴からの言伝です』
透はふむふむと何かに呼応する様に頷いた。
「零はなんと?」
『あの親玉と人間が紐づいているようです。今、零様が親玉を傷つけないようにしていますが、まずはその人間を取り除く必要がありそうです』
「やはりそうか……」
一瞬異形に混じっていた僅かな気配の正体は人間だ。人間に危害を加える目的で怪異と契約を結ぶ呪術師も稀にいるが、その割には気配が弱すぎる。
<ど……、…て………>
ざわざわと悲痛な声が微かに聴こえる。秀一は声のする方に少しずつ近づいていった。
<どう……し…て………>
女の声、否、少女の声だ。幼さの残る声は時折啜り泣く音を立てながら言葉を繰り返す。
人間の気配の方へと秀一は足を進めた。気配は強くなってくるが、依然弱々しく生気がほとんどない様子だ。
「……やはり君が呪詛を掛けた張本人だったんだな、早川沙耶」
<どうして…………吉田くん……>
声の主は行方不明となっていた女子生徒本人だった。目の前の少女は今はぺたりと座り込み両手に何かを握りしめている。木製の人形の様だ。こちらの声は聞こえていない様子だ。体の半分以上は瘴気に飲み込まれて影のようになっている。
秀一は人差し指と中指を立てて彼女の額に触れ、小さく呪文を唱え始めた。
「オン、アビラウンケンソワカ」
すると彼女の体に巣食っていた瘴気がみるみる浄化され、少女の体はその場に崩折れた。手にしていた木製の人形はぼろぼろと崩壊した。おそらく呪いの依代にしていた物だろう。
「透」
『はい』
「彼女を親玉から乖離させた。校舎の外の安全な場所に運んでくれ。彼にも伝えてくれ」
『わかりました』
ぽふん、と音を立ててトオルの姿が消え、代わりに推定10歳の少年が顕現した。狩衣を纏ったその少年の見た目は零を幼くした姿にそっくりだ。
少年は女子生徒の体をひょいと横抱きに持ち上げて、そのまま女子生徒ごと姿を消した。
それを見届けてから秀一は零の気配のする方へと向かった
異形の気を引いて、零は徐々に広い場所、体育館へと誘導した。
ここならば己の身動きもとりやすい。
こちらが攻撃できないとわかっているのか、異形は次から次へと零に襲いかかり、彼はそれを交わした。
『ご主人様、この者と行方不明の生徒が紐づいていた様です』
「……っ…なるほど…!!」
再び間合いを詰めてきた異形が口の様な物を大きく開いた。
『今、切り離しが完了しました』
「よし」
彼の体から妖力が迸ると、彼は高く跳躍し、異形の真上に飛び乗った。
暴れる塊から振り落とされないように、零は即座に直刀をその塊に突き立てた。
<グァ…!!!!…ググ…ォォ…!!!>
痛みにもがき苦しむ音が体育館中に響き渡る。彼は小さく祈りを述べた。
「……この者の穢れを祓い給え、清い給え」
彼は陰陽師ではないため、呪術を駆使するわけではない。それでも彼は自身の言霊を重視する。
普通の人間ならともかく、鬼の血を引く彼の言葉には力がある。せめて魂が浄化されれば良いと、願いを口にした。
刀の刺し口から光が溢れて、そこからパキパキと異形の体にヒビが広がっていった。最後には爆発する様に霧散した。爆発の勢いが思いのほか強く、零の体は空中に強く吹き飛ばされた。
『ご主人様!!』
とっさに受け身の体勢が取れず、落下の痛みに耐えようと目を瞑った。が、痛みの代わりにふわりと体が浮いた様な感覚があった。
「君、いつも無茶しすぎだ。もう少し自分を大事にしてくれ」
駆けつけた秀一が飛ばされた零を受け止めていた。真上から見下ろす顔はお転婆な子供をあやす様な表情をしていた。
零はむっと秀一を睨みつけてふい、と顔を逸らした。
「あなたが来るのが遅すぎるだけです!!」
「ほぉ、俺のことそんなに信頼してくれているのか」
「ちがう!!」
零の耳がほんのり赤くなっているのを、秀一は指摘しようか迷ったがさらに怒られそうだったのでやめた。
離せと腕の中で暴れるので、秀一はゆっくり降ろしてやった。
ふっと零が目を閉じるとサラサラと砂の様に身に纏っていた着物やツノが消え失せ、元の姿に戻った。
「女子生徒は?」
「校舎の外に避難させた。今保護者が迎えに来たところだ」
今回は行方不明だった女子生徒が見よう見まねで呪術を行ったことが発端だった。肝試しを実施したグループ内に女子生徒の意中の人がいたが、その人は別の人のことが好きだった。なんとか振り向いてもらおうとネットで見つけた恋のおまじないを肝試しの最中に実践したが、なんと恋のおまじないと思っていたのは人を呪う呪詛の類だった。結果的にあの異形に目をつけられ、取り込まれてしまった。というのが今回の事件のあらましだ。
「彼女に怪我はないですか?」
「ああ、無傷だ。数日休めばまた学校に通えるだろう」
その言葉に零はほっと息をついた。
「さあ、帰ろうか、降谷くん」
彼らは二人が住まう邸へと帰っていった。
第二話へ続く
第二話
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ーー
ーーー
大きな桜の木の根元にしゃがみ込んでぽろぽろと涙をこぼしていた。
周りの人間たちは自分は他と違うと言う。そんな言葉を浴びるたびに傷つき、ここを訪れて一人で気持ちを落ち着けていた。
「ぼくもくろい目にくろいかみの毛じゃないとおかしいのかな…」
「なぜだ?こんなに綺麗な髪色なのに」
突然頭上から聞こえた声に驚いて顔を上げれば、自分を上からまじまじと見下ろす少年がいた。
その少年は自分より年上で、少し癖のある黒い髪に緑色の瞳をしていた。その瞳がふっと優しく細められた。
「……瞳は宝石みたいだ。涙でキラキラしている」
「っ……ないてない…!!」
泣いていたことを指摘され咄嗟に袖でごしごし目を擦った。泣いているところを始めて他人に見られてしまった。
「おまえはぼくのことへんって思わないの?」
「うん、とても綺麗だと思う。俺が今まで見てきた中で一番」
はじめて言われた言葉に自分でも顔が赤くなっていくのがわかった。
「そ、そういうのは、すきな子に告白するときのセリフだ!テレビで見たぞ!」
「君、名前は?」
「……れい…」
「名前まで綺麗なんだな」
なんて気障なやつなんだ。緑色の瞳が優しそうに見つめてくるのが擽ったくてしかたない。
「……っ…こっちが名前おしえたんだからお前もおしえろ!」
はは、と少年が笑った。照れ隠しで怒っているのが相手に見透かされているようで余計に恥ずかしい。
「ああ、そうだな…俺は、」
ーーー
ーー
ー
ピピピ、と朝を知らせる目覚ましが鳴った。
降谷は目覚ましを止めて布団から出ると、障子を開けて外の空気を吸い込んだ。
「んんー……」
ずいぶんと懐かしい記憶の夢を見た。
零の住む屋敷は都心から少し離れた郊外にある。平安の世から続く由緒ある家だが、零と長年屋敷に仕える数人の使用人のみが暮すにはいささか持て余す大きさだった。
春になったとはいえ早朝は肌寒い。羽織りを着て廊下を出ると眼鏡をかけた真面目そうなスーツの男、風見が近づいてきた。
「降谷さん、おはようございます」
「ああ、おはよう」
他の使用人と同様に長らく降谷家に仕える者で、降谷家が零のみとなった現在も残ってくれたうちの一人だった。
「本日のスケジュールの確認で参りました」
「朝食をとりながら話そう」
居間でスケジュールの確認を終えて、風見が沈鬱な顔で押し黙った。
「……どうした、風見」
「……本当によろしいのですか、降谷さん」
風見の言わんとしているところを察して、零は少し困ったように笑った。
「皆、よく降谷家に仕えてもらった。僕だけになってしまった屋敷は手に余るし、いつまでもこの家に皆を縛りつけるわけにはいかない。それに…」
「それは……」
ここに仕える誰もが現当主を支えたいと心から望んで残っているのだと言いかけたが、当主の言葉を遮らないよう押し黙った。
「例の件が片付いた時、降谷家は一族として存続する意味はなくなる。だから、そうなる前に皆にはここを辞めてもらう」
零は居間の廊下越しに見える並木の桜に視線を向けた。もうすぐ満開で見頃になるだろう。
「君も含めて使用人たちは皆優秀だから、働き場所には困らないだろう。しばらく暮らせるだけの給金も出すよ」
「私たちのことではなく、あなたはどうなさるんですか…」
零は風見を振り返った。心配そうな顔をしている風見に不敵な笑みを作った。
「僕は最後の当主として役目を果たすまでだ」
その言葉に風見はこれ以上何も言えなかった。
零は身支度を整えて桜並木を歩いた。その並木を進んでいくと「桜木神社」と彫られた石標と赤い鳥居が見えてくる。
この神社は平安の世から存在していたと伝えられており、御神木の桜と青色の目をした狛犬が特徴的だった。そしてここが降谷家が代々守ってきた場所でもあり、零はここを引き継ぎ現在は宮司という立場にある。
『おやご主人様、今日も精が出ますね』
耳元で突如声がした。式神の昴が顕現した。
境内の箒がけの手を止めずに零はちらりと声の主を見遣った。
「こっちから呼んでもいないのに勝手に顕現するのやめてほしいんだけど…。周りに見られたらどうするんだ」
『相当な霊力の持ち主でない限り我々式神は見えないですよ』
秀一と契約を交わした際に、互いの血から生成された式神が透と昴だ。透は零の、昴は秀一の血が元になっている。本来式神は主人の言うことを忠実に聞くはずなのだが昴は随分と自由な式神だ。一体誰に似たのか、頭の中に秀一の顔が浮かんで零は思わず頭を振った。
『あのお話、ご検討して下さいましたか?』
常連の女性参拝客グループが零を見かけてちらちらとこちらを見ながらヒソヒソ話をしている。一瞬昴の姿が見えたのかとヒヤヒヤしたが、自分自身に向けられたものだとわかり、ニコリと爽やかな笑顔で彼女たちに会釈した。彼女たちは頬をぽっと赤く染めて小さく会釈を返した。
零が宮司になってから参拝客は増え、以前よりも神社は賑わいを見せていた。
そのまま昴の質問は聞こえなかった振りをしようとしたが、顔の前まで回り込んだ昴が再度訴えた。
『秀一様と夫夫(めおと)になるお話…』
「お断りします」
参道の掃除が終わり、御社殿の裏にある物置へと足を進めた。次は本殿の掃除と午後からは数件の祈祷の依頼をこなさなければならない。もう時期訪れる祭りの準備も山場だ。やることは沢山あるのだ。あの陰陽師の戯言に付き合っている暇はない。
「あいつとは陰陽師と先祖返りの一族間で交わされたただの契約関係だ。仕事さえできれば十分だろ?それなのにあいつは……」
「つれないな」
背後から突然響いた声に、零は反射的に振り返って声の主から少し距離を取った。
目の前に立っていたのは噂の張本人、赤井秀一だった。今日は着流しに羽織一枚の装いをしている。朝起きてそのままの格好で来たのだろうが、それでも絵になる立ち姿だ。
「赤井!いつからそこにいた?」
「君が昴と話始めたあたりかな」
全く気配を察知できなかったことに零はぐぬぬと唇を噛んで秀一を睨みつけた。
零自身も鬼の血が色濃いことで妖や術師の霊力はほぼ拾うことができた。それを掻い潜って秀一は完璧な術で完全に気配を消して近づいてきたのだ。
「貴様……無駄なことに術を使うな!陰陽師は暇なのか?」
「君の反応が可愛くてついな」
普通に表から現れて声を掛ければ良いものを、わざわざ揶揄いたくて術まで用いて近づいてくるとは、なんと性格の悪い男だろうか。
じりじりと距離を詰めてくる秀一を睨んで、零は少しずつ後ろに後ずさった。
「お前は初めて会った時もそうやって僕を揶揄って求婚してきたな」
半年前の契約の儀式当日。零はすぐに契約を結ぼうとは思っていなかった。自分の鬼の血が色濃く、並大抵の術師では扱えないだろうと客観的に理解していたからだ。自分と同等であれば認める。そうでなければ断ってより強い陰陽師を探すつもりでいた。
そのため、零は秀一の力量を測るつもりで勝負を持ちかけた。内容は一対一の一騎打ち勝負。どちらかが戦闘不能か降参を申し出たときに勝敗が決まる(もちろん互いに死なない程度に)。至ってシンプルな方法だった。自分に勝てた時契約を認めると赤井家に宣言した。
秀一含む赤井家一同は不快な顔をするどころか非常に楽しそうにしていた。その反応に変わった一族だな、と零は思った。
結果、僅差で秀一が勝利した。彼の名誉の為に補足すると、決して零は降参を申し出たわけではない。
悔しがりながらも契約を認めた零に対し、あろうことか秀一は求婚してきた。想定外の出来事に零は言葉を失った。
秀一本人は至って本気だったが、負けた直後の零にとってそれは酷く屈辱で馬鹿にされた気がしたのだ。
本来の契約の方は約束通りに受け入れビジネスの関係性となったが、依然として秀一は結婚を諦めていない。
「屋敷で初めて会った時から俺は本気で言っているよ」
深緑の瞳が真っ直ぐ零を射抜いた。今朝夢で見た緑の目をした少年と何故か面影が重なった。
あまりにも真剣な表情に零の体温が上がっていく。じりじり後ずさっていたがとうとう物置小屋の壁まで辿り着いて逃げ場が無くなってしまった。
間合いを詰めた秀一は壁に片手をついて彼の顔を覗き込んだ。秀一を睨んでいたが、照れが勝ってふいと視線を外した。ほんのり顔が赤い。その仕草が可愛らしくて秀一は思わず喉の奥で笑った。
その反応に零は顔を真っ赤にして怒った。
「お前やっぱり僕のこと馬鹿にしてるだろ!!」
「いや違う。君が可愛くて仕方ないんだ」
『秀一様。そろそろ本題に入ってください。外野の注目が集まっています』
式神の透の発言にはっと零が横を振り向くと、複数人の参拝客がこちらの様子を遠くから興味津々に覗いていた。
着流しの美丈夫が神社の美人宮司を口説いている図。その光景を目に焼き付けようと野次馬が集まっていた。
実は一部の参拝客の間で二人の同人誌が密かに読まれていることを当人たちは知らない。
「ああ、そうだったな。今日君の元を訪れたのは、急遽入った依頼内容についてだ。最近ここら一帯で数件発生している不可解な事象について調査してほしいと同業者から依頼が入った」
「同じ陰陽師を生業としている人物からの依頼ということですか?」
「そういうことだ。まあ正確に言えば、陰陽師を束ねる組合の連中から直々の内密な依頼だ」
かなり重要度の高い事案ということだ。こういう時に赤井家のみが特別扱いされるのは、界隈の中でも飛び抜けて有能な一族だからだろう。
「場所を変えましょう。ひとまず本殿の中へ」
本殿の中へ移動し、二人は本題の話へ入った。
ここは普段一般人は立ち入り禁止領域となっている。密談には打ってつけだった。
「念のため透と昴に周囲を見張らせている」
「今回の内容はかなり深刻そうですね」
「そうなる可能性は高いな」
まだ深刻な事態にはなっていないが、早い段階で対処しなければいずれそうなる、と言うことだろう。悪い芽は早いうちに摘んでおくに越したことはない。
「この一帯で何が起こっているんですか?」
「……最近ここら一帯で動物の亡骸がいくつか見つかった。どれも体の一部が切り取られていたそうだ」
「残忍なことをしますね……。人間には被害はまだ出ていないんですね?」
「ああ、今のところは。問題はその現場に共通した奇妙な気配が残っている点にある」
つまりは世間一般的な捜査方法では原因が特定できない事件、陰陽師が請け負う事案ということだ。おそらく凶器や指紋といった物理的な証拠は出てこないだろう。
「犯人は妖怪の類でしょうか」
「いや、動物の亡骸の傷や切断面は明らかに術によるものだったことから、人間、それも術を使える人物ということになるだろう」
「では犯人は同業者?」
「その可能性はあるだろうが、陰陽師にしては行為が杜撰なようにも見える。大抵の術師であれば気配を残さないもう少しマシな方法ぐらい知っているはずだからな」
「さっきお前が僕にやったような?」
先程のことを思い出して零はじとりと秀一を睨んだ。秀一は苦笑して軽く肩をすくめてみせた。
「君、なかなか執念深いな……どちらにしても悪意のある術を、それも最も禁忌とされる殺生の術を実行した人物だ。今後人間に危害を加えないという確証は持てない」
互いに昼の仕事を済ませ、夜に再び赤井家邸宅に集まって捜査を開始することとなった。今までの犯行は全て真夜中に行われていた。今回も同じ時間帯で実行されるだろう。
時刻はちょうど日付の変わった深夜零時。予定通り、零は赤井家邸宅に赴いた。そこには赤井家一同ーーメアリー、秀吉、真純がその場に集まっていた。一代前の当主である務武は当主の座を息子に譲った後も依頼が絶えることはなく、日本中を駆け回っているらしい。零もまだ務武と会ったことはなかった。
「こんばんは、メアリーさん。それと秀吉さんと真純ちゃんも」
メアリーが零の方を振り向いて優しく笑いかけた。
「ああ、零くん。今日は私たちも調査に加わることになったの」
「そうだったんですね。よろしくお願いします」
それだけ事態を早く収集したい事案ということだろう。
真純と秀吉が続けて零に声をかけた。
「零くん今日はよろしくな!」
「調伏系は兄さんが強いけど、占術と痕跡探しなら任せて!秀一兄さんも零さんも忙しいから久々に顔を見れたなぁ……。あ、これゆみたんと僕からの結婚祝いだよ」
「こちらこそ、よろしくお願いします。結婚祝いとは…?」
秀吉の発言に零は首を傾げた。
発言に困惑する零に、秀吉と真純の二人は顔を見合わせて秀一と零を時折見ながらひそひそ話し始めた。
「あれ…?二人が出会った当日に兄さんプロポーズしてなかった?」
「いやそれがさぁ、零くんなかなかOKしてくれないんだよね…秀兄は今絶賛アプローチ中」
「零さん絶対兄さんのどストレートタイプだからとっくに婚約までしていたと思ってたんだけど……」
「零くん手強いんだよ〜!まあそんなところも秀兄のタイプなんだろうね……」
「…………っ……」
ひそひそ話の形を取っているが全て零に聞こえている。わなわなと両手の拳を震わせて零は怒りを鎮めようと努めた。こんなことで一々心を荒立てていては持たない。赤井家のペースに持っていかれてしまう。
「では本題に入ろうか」
全員が揃ったタイミングで秀一はさっそく話題を切り替えた。こいつも大概マイペースな奴だな、と零はじとりと秀一を見遣った。
「依頼の内容は事前に伝えた通りだ。この一帯が調査対象となる。犯人の素性は未だ明らかになっていないが、相手は禁忌とされる殺生の術を使用した人物だ。くれぐれも気をつけろ」
いつも通り秀一と零は二人組で調査を開始した。
人気が少なく犯行がしやすいエリアを中心に見ていくことになった。
歩いている内に公園にたどり着いた。街路樹と低い柵で囲われ、滑り台や砂場があるようなありふれた公園だった。
と、二人は同時に足を止めた。
「赤井」
「ビンゴだな。どうやら当たりを引いたようだ」
公園の敷地内に植えられたイチョウの木の下にうずくまる影があった。明らかに人間の筈だが、そこからは禍々しい気配が溢れ出ていた。
「秀吉があらかじめ占術で割り出した複数のエリアに式神を潜ませておいた。特定の術を使用した場合に全員に知らせが通知するようにしてある」
「トラップですね」
秀一は印を組んで二人の気配を消す呪文を唱えた。それを受けて零もいつものように鬼の姿に変化した。
じりじりと影に近づいていく。すると何やらぶつぶつと呟いていた。周りに他の人間や怪異の気配はないため独り言なのだろう。二人は耳を凝らした。
「もうすぐ……もうすぐだ……あの方の言った通りにすれば…悲願が叶うんだ……」
声からして男のようだった。呟く言葉がまるで呪詛のように不気味で不快な響きがあった。
男の手元には息も絶え絶えの鴉が横たわっていた。
男がおもむろひ両手を合わせて印を組むと小さく呪文を唱え始めた。それを見て赤井は目を細めた。
「……あれは呪詛の類の手の組み方だな」
次第に男の周囲で不自然に風が吹き始めた。鴉に向けて呪詛を唱え続ける間、男の背後で秀一と零は戦闘体勢の構えを取った。
「……力を与え給え…与え…給え……!!」
呪を唱え終わり、禍々しい色の気が鴉目掛けて飛びかかった。と、その時男と鴉の間に八角形の鏡が出現し、鴉へと放たれようとした物を全て男の方に跳ね返した。男は全身にその呪いを受けた。
男は小さく呻きながらその場にのたうちまわった。全身に裂傷ができて血が出ていた。
零は男から目を離さないまま秀一に話しかけた。
「あれがあなたの仕掛けたトラップ?」
「ああ、単に味方に知らせるだけでは足りないと思って呪詛返しのトラップも仕掛けておいた。こうすればしばらく身動きが取れないし効率が良いだろう?」
「…………」
零は小さくため息をついた。秀一は人間相手でも結構容赦がないことをする。まあ、この怪しい男が普通の人間とは言い難いが。
秀一はのたうち回る男を見据えて呪文を唱えた。
「ーーー縛」
すると男の体がイチョウの木に縛り付けられたように固定された。男は秀一をぎろりと睨んだ。裂傷が生々しい。これが成人男性の体だったからこの程度で済んでいるが、鴉が受けたらひとたまりもないだろう。
零はその隙に傷だらけの鴉へ駆け寄り、手の中に包んだ。
「もう大丈夫だよ…」
ほんの少しだけ彼自身の霊力を鴉に注いだ。鬼の霊力は強すぎるため、たくさん与えれば毒となるが、少量であれば簡単な治癒が可能だ。
息も絶え絶えだった鴉は次第に回復していき、なんとか自力で起き上がれるようになった。だが、まだ飛べることは出来なさそうだ。
瀕死の状態から脱した鴉は、零に感謝するように彼の手に顔を擦り付けた。
「終わったらメアリーさんのところに連れていくね。それまでここでじっとしてて」
メアリーの治癒の術はトップレベルだ。彼女に頼めば鴉はまた飛べるようになるだろう。
そっと草むらに鴉を置いて、零は秀一の方は向かった。
「お前が連日動物に術で危害を加えていた奴なのは間違いないが、お前…陰陽師ではないな?」
秀一の言葉に男は歪んだ笑みを作った。何も言わないが肯定ということだろう。
「今まで痛めつけてきた動物の種類と部位からして、何かしらの呪術に使うつもりだろう……何が目的か話してもらおうか」
秀一の隣に駆け寄った零も男を観察した。陰陽師というには本人の霊力は大した物ではない。それなのに男から発せられる禍々しい気配が不自然でならなかった。その気配はどこかで感じたことがあるような気がした。
「……お前、もしかして鬼と契約したんじゃないか?」
零の言葉に男は頭を彼の方に向けた。すると目を大きく見開いて彼の顔をじっと凝視した。かと思えばにたりと笑みを浮かべた。
零は武器の直刀に力を込めた。
「…………ああ…鬼の一族の……噂通り美しいお方だ……」
「……!?」
驚き警戒する零を見てくつくつとくぐもった笑いを浮かべて再び口を開いた。
「まだお会いするには早すぎる………いずれ……そう遠くない日に……」
そう言って男の体の周囲に黒く悍ましい靄が立ち込め、一瞬で男を取り込んだ。
唖然としていた秀一と零だが、その光景にはっとした。こちらが構えた時には霧と共に男の姿は消えていた。
零は男が消えた箇所を見つめた。
「……あいつは一体……」
自分のことを知っている様子だった。降谷家はひっそりと暮らしてきた経緯から、そこまで存在を知る者は少ない筈だ。ましてや鬼の血を引くことはさらに知る者は少ない。
ぎゅっと刀を握る手に力が入った。
「……零、ひとまず屋敷に戻ろう。ここにあいつはもう来ないだろう」
「……そうですね」
秀一の言葉に頷いて零は変化を解いた。
先程の怪我をした鴉を連れて、二人は屋敷に戻った。
メアリーや秀吉、真純達も何かしらの手がかりや情報は掴んでいるだろう。
屋敷に戻る道中、零の表情は曇ったままだった。腕の中の鴉が心配そうに首を傾げて見つめてくる。不安にさせないように優しく微笑んで頭を撫でてやった。
あの男は鬼の気配を纏っていた。それもどこか零のものに近かった。
(嫌な予感がする)
いけない、と頭をふった。こんなことで弱腰になっている場合ではないのだ。
自分にはこれからやり遂げなければならないことがあるのだから。零は自分自身を奮い立たせた。
第三話へ続く
第三話
赤井家屋敷に二人が戻ると、メアリー、秀吉、真純は既に屋敷に戻っていた。
トラップを仕掛けていたことで、公園に件の犯人が現れたことは既に全員把握済みだ。真っ先に真純が二人に駆け寄ってきた。
「秀兄!零くん!大丈夫だったか!?」
「ああ、だが奴を逃してしまった」
「それと、メアリーさんにこの子の治療をお願いしたいんだ」
真純は零の両腕に抱かれた黒い鴉を覗き込んだ。翼の付け根が酷く痛めつけられて、とても飛べそうにない。
三人が屋敷の一室に入ると、秀吉が真剣な顔で畳の上に置かれた六壬栻盤(りくじんちょくばん)を見つめて占術の真っ最中だった。秀吉は占術に非常に長けており、彼に未来予測や恋占い、物探しを依頼する客は後を絶たない。本人の洞察力も非常に優れているため、依頼人の話を聞くだけで占う前に解決してしまうこともあるらしい。
「……赤井、僕はメアリーさんのところに行ってこの子を診てもらいます」
零は占術の邪魔にならないよう、小声で赤井に伝えて視線を腕の中の鴉に落とした。秀一は頷いてメアリーの場所を伝えると、零は部屋を後にした。
式盤の結果を読み取り深く長いため息をついた秀吉は、彼の仕事を邪魔しないよう静かに座って待っていた秀一と真純ににこりと笑いかけた。
「おかえり。兄さん達が無事に帰って来て安心したよ」
「占の邪魔をしてしまったな」
「いや、ちょうど終わったところだよ」
ちらりと再度式盤を見て表情を曇らせる秀吉に、結果が良くないものだと二人の目からも明らかだった。
「まずは兄さんの話を聞かせて」
「ああ。奴からは鬼の気配を感じられた。降谷くんの見立てでは、おそらくは鬼と契約を結んでいると。今までの一連の犯行は何らかの呪術を達成させる為に行なっているところを見ると、まだ犯行は続けるつもりだろうな」
「陰陽師じゃないんだ?」
真純の問いかけに秀一は頷いた。
「そうだな。一般人というには異様な気配を纏いすぎているが、陰陽師にしては犯行が杜撰すぎる」
それに、と秀一は続けた。
「降谷くんが鬼の一族である事実を知っていた」
鬼の血を引く一族は現時点で存在しているのは降谷家、さらに言えば降谷零本人のみが唯一の生き残りだ。鬼の一族という事実も陰陽師界隈のみが認識しているはずだが、何故かその男は一方的に知っていた。
一通り聞いた秀吉はふむ、と顎に手を添えて自分の占術の結果と照らし合わせた。
「僕の占術でも、その男の背景に人間ならざる者の存在が示唆されていた。それと、その男からは死人の暗示が出ている」
「死人?既に奴は骸ということか?」
「正確には、一度死んだ人間の体に別の魂魄が入っている、といった感じだね」
骸に魂魄を植え付ける術、骸魂術は殺生術と同様に禁忌とされる術だ。火葬が一般的なこの国において、墓荒らしの線は考えられないため、意図的に人間を殺して成り代わったということになる。
不穏な話の流れに真純はごくりと息を呑んだ。
「今回の犯人かなりヤバいやつなんじゃないか…?吉兄の占術でもそう出てるんだろ?」
「そうだね……それと、零さんのことも占ったんだけど…」
ちらと秀吉が秀一を伺うように見ると、秀一は続きを話すよう視線で促した。
「悪しき者が零さんに近づこうとしている、という結果が出た……」
秀一は眉間に皺を寄せて、険しい顔つきになった。真純が二人の兄を心配そうな顔で交互に見つめた。
「なあ、来週には桜木神社で祭りがあるんだろ?零くん大丈夫なのか?」
謎の男の正体と呪術の目的、鬼との関わり、そして零に近づく不穏な影。集まった情報はまだまだ謎に覆われている。今回のことで、相手側と慎重に動くようになるだろう。長期戦になりそうな予感がした。
「祭りの間は俺が彼の警護をしよう。もともと顔を出すつもりだったからな」
秀一の言葉に秀吉と真純は頷いた。
零が赤井家屋敷の台所に行くと、メアリーが実験器具や奇妙な植物をテーブルに広げて作業をしていた。フラスコの中の濃い緑色のどろどろとした液体はテーブルに置かれた植物から生成されたものだと推測できる。アルコールランプでぐつぐつと煮たっているそこからは苦いような渋いような複雑な臭いを出していた。
「……メアリーさん…これは……?」
「ああ、零くん。今その子の治療薬を作っていたの。もう少し待っててね」
まだ詳細を伝えていないはずだが、メアリーは既に事情を把握した上で先回りして治療薬を作り始めていた。式神か、別の術で前もって聞いていたのか。やはり赤井家の人間は皆優秀だ。
メアリーの優しい微笑と裏腹に手元の煮立った液体の異様さに、零は思わず目を丸くした。腕の中の鴉は自分の身の危険を感じたかのように脚をバタバタとさせてガアガアと声を上げた。
「これはね、私が魔女時代によく作っていた薬なの。よく効くわよ」
メアリーはかつてイギリスで魔女の一族として生まれた。夫の務武と出会って日本に移ってきたという話を以前零にしてくれたことがある。
メアリーがフラスコに手をかざして聞きなれない呪文を唱えると、ぐつぐつと音を立てていたフラスコからポンっと小さな破裂音がして、怪しげな緑色の液体から透き通る赤色に変化した。それはまさに『魔法』という言葉が相応しい光景だった。
フラスコの液体を鴉が飲みやすい容器に移したものをメアリーは零に手渡した。
「さぁできた。この薬をその子に飲ませてあげて」
「はい。……さあ、これをお飲み」
受け取ったフラスコを零が鴉の嘴にそっと近づけると、鴉は躊躇いがちに液体に嘴の先を付けた。嘴を上に向けて液体を喉に通すと、次第に体に刻まれた傷が塞がっていった。鴉自身もそれがわかるようで、翼をバサバサと動かして治ったのを喜んでいるようだった。その様子に零はほっと安堵した。
「よかった」
「明日の朝には元通り飛べるようになってるはずよ」
「ありがとうございます」
「今日はこのまま屋敷に泊まっていくんでしょう?」
零はちらりと壁にかけられた時計を見た。時刻は既に夜中の二時、丑の刻。妖怪や霊が特に蔓延る時間帯だ。霊感のある人間や先祖返りの人間はそういった類に特に狙われやすい。
陰陽師と先祖返りの契約が今でも続いている背景には、術師が先祖返りの人間を守るという意味合いも強い。全ての先祖返りの人間が異形の者に対して戦う術を持っているわけでは無い。妖力が弱い者や、逆に強すぎる妖力に精力が持っていかれて病弱になる者もいる。
零自身はとりわけ強い妖力を持ち、なおかつ戦う術も持つため、守られるという認識は一切ない。いつも通りこのまま降谷家の屋敷に帰るつもりだった。
断りの返事をしようと口を開きかけた時、肩をぐいと引き寄せられた。振り返ると秀一と目が合った。
「赤井?」
「降谷くん、もう丑の刻だ。今出歩くのは危なすぎる」
「何今更そんな事言ってるんですか?今までも散々依頼で夜中外を駆け回ってきたでしょう?それに、屋敷の者たちが心配する、」
「君の使用人たちには既に事情は伝えてある。君たちの主人は今日はこちらの屋敷に泊まって昼ごろまでには戻るとな」
「……っ……お、ま、え、はぁ〜〜〜!!」
秀一のしれっとした態度に、零はがばりと秀一の胸ぐらをつかんだ。
「何勝手に決めてんですか……!」
「そうでもしないと君このまま一人で帰るつもりだっただろう?さっきの男の発言も気がかりだ……零、頼む。側にいてくれ」
神妙な顔で言ったかと思えば懇願するような顔になった秀一に、零はたじろいだ。時々秀一は妙に殊勝な態度をとる。健気な子供のようなこの表情に零は弱いのだ。ぐぬぬと零は唸った。
「うう…お前、その顔はずるい……」
「どんな顔?」
「…………間抜けな顔ですよ……」
ふいと顔を逸らして顔を赤らめる零に、秀一は計画通りに事が運んでしめしめと喜んだ。先程の男の件で彼のことが心配なのは事実だが、それはそれとして夜通し二人きりで過ごせる口実が作れるのは実に好都合だと秀一は内心考えていた。幸いにも明日は二人とも珍しく昼までゆっくりできる日だ。もちろん寝室は同じにするつもり満々である。
ごほん、とメアリーがひとつ咳払いした。
「イチャイチャの続きは寝室に行ってからにしてちょうだいね」
「い、イチャイチャしてません!!寝室でもしません!!」
寝室が一緒なのは問題ないのか、と突っ込みそうになったがメアリーの心の中に留めた。二人のやりとりが若かりし頃の務武と自分のそれと重なり、思わず笑みが溢れる。
秀一がここまで一人の人間に固執しているのは零が初めてで、母親の目からも明らかだった。
(務武さんも付き合う前はこんな感じだったわね……)
性質はしっかりと子供達に引き継がれているようだ。血は争えない。
不器用に愛を育む二人を眺め、自分の息子に心の中でエールを送った。
湯浴みを済ませ、渡された浴衣と羽織に着替えた。薄手に灰色に染められた質の良いそれは、彼の体にぴったりの寸法で、彼専用に新しく新調されたものだとわかる。今日泊まる事を見越して用意したのではないかと零は邪推してしまいそうだった。
襖を開けた瞬間、零は目の前の光景に固まった。そこには既に二人分の布団が敷かれており、当然のようにそれはぴったりと隙間なく並べられていた。
「な……!?」
すぐさま布団をずらして、少なくとも腕を伸ばしても体が触れな程度まで離した。ついでに部屋の端っこに寄せてあった木製の衝立を布団と布団の間に仕切りとして設置した。
『ちょっと!僕ががんばってお布団敷いたのに、なんで配置変えるんですか!』
声のする方を振り向くと、式神の透がぷんぷんと憤っていた。
「君か……これやったの……。というか式神をこんなことに使うなよ……」
以前透が秀一は式神使いが荒いと文句を言っていたのを思い出した。赤井家は屋敷の広さの割に使用人が少ないが、その分式神達で補っているところがある。他の陰陽師の一族が知ったら驚くに違いない。自分の血から生成されたこの式神も例に漏れず今日お布団係に任命されたようだ。思わず透に同情した。
ちょうどその時襖が開いて湯浴みを終えた秀一が入ってきた。こちらもくつろぎやすい紺色の浴衣を羽織っていた。
「ああ、透。布団の用意ありがとう……ん?なんだこの衝立は」
『零様が勝手に置いたんです!』
ではこれで、と不機嫌なまま透は姿を消した。やや悲しそうな顔で自分を見る秀一に、零は反論した。
「いつもプロポーズしてくる奴の隣ですやすや寝られる訳ないだろ……!」
「ほぉー…つまり君は俺のプロポーズが本気だとようやくわかってくれたんだな。嬉しいよ」
わなわなと震える零に対し、秀一は衝立をさっさと元の場所に戻した。ついでとばかりに布団もきっちりくっつけた。
秀一が先に布団に入ってぽんぽんと隣の布団を叩いて促した。何を言っても無駄だとため息をひとつついてから、零も彼に倣って隣の布団に潜った。掛け布団を目深にかぶって秀一に背を向ける体勢をとると、背中越しに秀一が近づいてきた。
「君に好意を抱いている男に対して背中を向けるなんて随分と無防備だな」
「〜〜〜〜っ!!」
耐えられずに被っていた掛け布団を勢いよく剥いで起き上がると、してやったりと不敵な笑みを浮かべる秀一と目があった。目を逸らせずに固まる零に、秀一は手を伸ばして彼の稲穂色の毛先を弄んだ。
「綺麗な色だ。髪も、瞳も、肌の色も」
「……あなたよくそんなこと恥ずかしげもなく言えますね」
悪態を吐きつつも、秀一に触れられることを許している。それに甘えて手元を毛先から首筋にするりと移動した。湯浴み後のせいか、この状況のせいか、少し体温が高く肌もほんのり赤い。触れられた箇所がくすぐったいのか少し体を捩る姿に、もっと悪戯をしてやりたいという衝動に駆られたが堪えた。ここで距離を置かれては困るのだ。
零も動揺を悟られまいと必死になっていた。ここで動揺を見せてしまえば、いよいよ戻れなくなると予感があった。既に手遅れかもしれないが。
「赤井は僕の容姿が好みでプロポーズするんですか?」
「容姿ももちろん好きだが、それは好きな要素の一つにすぎないよ」
秀一は首筋に置いていた手を彼の後頭部に移動させ、彼の頭を固定してさらに上半身を近づけた。自分と同じ石鹸の香りが彼の体からする状況に、秀一は高揚感に満たされた。
「気の強いところも、負けず嫌いなところも、一筋縄じゃいかない性格も、全部だ」
「面倒くさい男で悪かったですね」
「可愛いって意味だよ」
お互いが引力を持っているかのように顔が近付いて、そのまま唇が重なった。一度唇が離れて、秀一が角度を変えて再度口付けると、零も素直に応じた。くちづけが深まっていき、零は咄嗟に秀一の浴衣をぎゅっと掴む。安心させるように、秀一は空いている腕で彼を抱き寄せた。室内にお互いの息遣いと唾液の混じり合う音だけが響き、次第に口付けに性的なものを含み始めた。
緊張で強張らせていた零の体が解れてきたタイミングで秀一が彼の口の中に舌を忍ばせると、腕の中の彼がびくりと震え、伏目がちだった瞼を驚きで見開かせた。秀一が舌を絡ませようとするともう片方のそれはどんどん奥へと隠れてしまうので、上顎を刺激してやれば観念したように舌を出した。
「……ん……っ…ふ……」
口が塞がれて頭がぼんやりする中、零はこの先のことを考えた。自分の果たすべき役目を。
自分の役目を成し遂げる覚悟は当にできていた。だが秀一と出会い、彼の存在が零の決意を鈍らせた。気持ちに蓋をしようとムキになった。結局、何度否定したとて、どうしようもなく彼のことが好きなのだと、もう自分に嘘はつけなかった。
秀一は零をゆっくり布団に横たえて、覆い被さるようにして彼を見下ろした。組み敷かれた彼の表情はこれから始まることへの期待と不安と迷いでごちゃ混ぜになっていた。
その時、ふと違和感に気づいて秀一はおや、と声を出した。
「降谷くん……これは……」
「…………?」
秀一が手を伸ばして触れたのは零の額、正確には額からにょきりと生えた鬼の角の根元だった。本来は先祖返りの姿になっている時のみに見えるそれが、何故か顔を出している。しかも普段見るそれは10センチほどの長さだが、今は2センチほどの小ささで、まるで筍のようだった。
零もおそるおそる額の生え際を触った。確かにそこには固いものが二つ、左右均一に生えている。零はしばし固まっていたが、みるみると体温が上がり首から顔にかけて真っ赤になった。
「……っ……!!」
零は突然手元の掛け布団を引き上げて頭まですっぽりと被った。こんもりと布団の小山が出来上がった。
「降谷くん?」
「……こんなこと……ずっと長い間無かったのに…」
そっと布団を捲ると涙目の零と目が合った。恥ずかしいのか両手で小さな角を隠して、眉を吊り上げてぎっと睨んできた。怒ってても可愛いなと秀一は呑気なことを考えた。
「その角は…?」
「お前がやらしいことするから出てきちゃったんだよ……!」
「つまり、興奮すると角が出てきてしまうってことか?」
「それだと僕が変態みたいだろ!」
先程までようやく懐いてくれたと思ったら一気に機嫌を損ねてしまった。猫を飼ったらこんな気持ちなのかもしれない、などと思ったがこれ以上機嫌を損ねたくないので角を隠す手の甲にキスを落として彼を宥めた。ようやく落ち着いたタイミングで零の手の甲を額から退けると、そこにはまだ可愛らしい角が見えていた。じっとそこを見られると落ち着かないのか、零はそわそわと視線を彷徨わせた。
「あ、あの…あまり見ないで…」
「何故?」
「……子供の頃は、鬼の妖力が上手く制御出来ないことがよくあって、感情が昂ったりすると角が出てきちゃうことがよくあったんです……」
零の妖力は現代の世でも稀に見る強さで、子供の精神、肉体で制御しきれるものではなかった。喜怒哀楽の起伏で時に角が出たり爪が伸びることがあった。成長とともに体が妖力に順応したことや、彼自身の己を律する努力によって、力を自在にコントロール出来るようになっていったのだ。今では意識的に先祖返りの姿に変化する時以外に鬼の特徴が出ることは一切無い。はずだった。
「いい大人が自分の意思と関係なくこういうのが出てきちゃうのは、先祖返りの人間にとっては恥ずかしいものなんです……お前相手にするといつかこうなる気はしてたんだ……」
それはつまり、秀一に対して特別に自分のコントロールが効かなくなると言っているようなものだが、本人に自覚はないらしい。なかなかの口説き文句に顔がにやけそうになるのを秀一は堪えた。
急に静かになり、すうすうという規則正しい呼吸音が聞こえてきた。気づけば零は眠りに落ちていた。先程まで額にあった角も既に消えていた。
「……続きはまた今度だな」
秀一はすやすやと眠りに落ちた彼の額に、そっとキスを落としてから、自分も布団に潜った。
ー
ーー
主人が赤井家から降谷家に帰宅したのは昼過ぎだった。屋敷の客間で待っていると、主人が少し遅れて顔を出した。
「すまない風見、待たせてしまった」
「いえ、私も今しがた着いたところです」
主人は自分と座卓を挟んで向かい合うように座った。これから来週の桜木神社の祭りの詳細について念入りな打ち合わせを行う予定である。もしかすると、これが最後の打ち合わせになるかもしれない。
「……本当に実行なさるおつもりですか」
何度目かの同じ質問を投げかけた。聞いたところで、自分の主人の意思が変わるとは思ってはいない。これは祈りを込めた問いだった。
祈りを打ち砕くように、目の前の主人はいつもと変わらない冷静な表情度答えた。
「ああ、計画の変更はない。これは僕の手によって終わらせる必要がある。降谷家の悲しい連鎖を断ち切るために、そして人々の平和と安全を守るために……」
主人の変わらぬ意思に、きつく自分の拳を握りしめた。何故主人がこれほどに重い重責を担わなければならないのか。やり場のない叫びを必死に押さえつけた。
「我が先祖である如月姫尊をーー僕が殺す」
主人の表情は恐ろしいほどに凪いでいた。これから神殺しを実行する人間とは思えないほどに穏やかだった。
第四話へ続く
第四話 new!!
厚い雲に覆われ、時折雷を伴いながら雨が降り続けていた。朝のニュースによれば今日は一日中雨らしいが、秀吉の占によれば昼過ぎから雨は止むらしい。彼の予言はまず外れない。
そろそろ来客が来るだろうと着流しに一枚羽織り玄関のほうへ行くと、入り口の門にその人物が立っていた。
打ち付ける雨粒を一身に受け止めている暗い鼠色の傘。その下には同じく暗めの橄欖色のスーツを着た男が立っていた。
その男はこちらの存在に気づいて軽く会釈をした後、眼鏡の奥で怪訝そうな視線を向けてきた。
その仕草に秀一は目を細めた。こちらの意図を読もうと必死なのだろう。当主ではなく何故自分に、という疑問が眉間の皺に現れていた。
「風見くん……で合っていたかな?」
「……私個人に何のご用でしょうか」
踵を返した赤井が視線だけで屋敷に入るよう促すと、風見はようやく赤井家の敷地を跨いだ。
屋敷の客間に案内された。廊下側の障子が全開に開けられており、広い庭の様子がよく見えた。丁寧に切り揃えられた松や紅葉の木、敷き詰められた白玉石。それらが互いを引き立たせるように配置され、曇り空の下でもその美しさは損なわれていなかった。降谷家の屋敷とはまた違った格式ある風景だった。そうして今後の降谷家の行末を思い、風見はそっと目を伏せた。
ぱたぱたとあどけない足音が聞こえ風見が振り向くと、十ほどの歳の少年がお茶を風見のところまで運んできた。その姿は透き通るような褐色の肌に金色の髪と宝石のような青い瞳をした見覚えのありすぎる姿だった。お茶を目の前に置くその姿に風見は思わずぎょっとした。
その様子が面白かったのか、向かいに座る赤井はくつくつと喉の奥を震わせた。
「降谷くんのところにも『昴』がいるだろう?見慣れていると思っていたが……」
「いえ…容姿が当主を幼くした姿とあまりに似ているので驚いただけです……お茶を注いでもらうことなど恐れ多く…」
「ほぉー…『昴』はあまりあっちで変化しないんだな」
透、ありがとうと赤井が呼びかけると、その少年はぽふんっと音を立ててぬいぐるみの姿に戻った。
ふよふよと空中を漂いながら赤井の方に近づくと、そのまま肩にちょこんと乗り、腕を組む仕草をとった。自分も会話に参加する、という意思が感じられる。その姿も何だか当主の面影があり、やりずらいなあと風見は眉間に皺を寄せた。
ふう、とひと呼吸ついてから、風見は改めて向かいに座る赤井に体を向けた。風見自身に霊力の類の力は皆無だが、それがなくとも目の前の男が只者ではないことはひしひしと伝わってきていた。
一般人は同じ空間に彼がいるだけでその雰囲気に圧倒されてしまうだろう。もう一度小さく息を吐いてから風見はようやく声を発した。
「……それで、わざわざ私個人に式神を飛ばしてお呼びになった理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「降谷家の過去を教えて欲しい」
「……先祖返りとの契約時に既に把握されていたと思っていましたが」
「では言い方を変えよう。降谷くんがこれから行おうとしている禁忌にまつわる過去が知りたい」
風見は瞠目した。何故この男がその計画を知っているのか。あの計画はごく限られた者たちだけで話していたはずだ。
「君にひっそりと式神を忍ばせて会話を盗み聞きさせてもらった。まあ長居はできなかったが……。降谷くんは手強いからな」
なんて大胆不敵な男だろうか。これを知ったら当主は黙っていない。そのことを想像して風見は身震いした。誰にも口外するなと厳重に言い渡されていたというのに、とんだ失態だ。ただ、どこか安堵する思いも同時に存在していた。何より目の前にいるのは稀代の陰陽師、赤井秀一なのだ。
当主の命令に背く意思だとしても、心のどこかでこの男にだけは伝えるべきだ、と思っていたのかもしれない。
意を決して風見は口を開いた。ばれてしまったのだから、もはや取り繕う必要は無くなった。風見は力無く笑った。
「……あの方は、たとえ貴方の説得があっても計画は止めないと思いますが…」
「だろうな。彼はそういう男だ」
「…………私も全てを知っているわけではありませんが……できる限りお伝えします」
「ご存知の通り、降谷家は鬼の先祖返りの家系で、その起源は平安時代にまで遡ります。そしてその始祖となった鬼が祀られているのが桜木神社です」
「確か御祭神は『如月姫尊』で女性の神だったな」
平安時代、妖と人が今よりも互いに認識できていた頃、如月と呼ばれる鬼がいた。如月は人間と関わりを持ち、やがて人間との子を宿し、その後もひっそりとその血筋を繋げていき今の降谷家に繋がっている、と文献に記されている。
「元々鬼の血を引いているというだけで恐れられてしまうため、降谷家はその事実をなるべく伏せてきたそうです。次第に世間は『鬼の血を引く家系』から『鬼の神を祀る家系』という認識に変わっていったのです」
「ここまでの話を聞く限りでは降谷くんが今回の計画を起こす動機はなさそうだな」
「……問題は歴代の先祖返りとして生まれた方々の奇妙な最期にあります。歴代のどの方々も大方二十歳前後という短い生涯なのです」
その言葉に赤井は厳しい顔つきになった。確か彼は二十代後半のはずである。歴代の先祖返りの寿命はとうに過ぎている。
「それは、鬼の先祖返り特有の体への負担のようなものが?」
「いいえ、当人の体への負担ではなく……その……」
風見はそこで言い淀んだ。今更隠し事など不可能だ。わかっていても、言葉が途切れてしまう。
「…………過去の先祖返りの人間は、御祭神の贄としてその体を捧げてきたというのです」
赤井は軽く眼を見張った。現代において贄などという言葉が飛び出してこようとは。透もとても信じられないという表情で大きな瞳をぱちぱちさせている。
大昔であれば雨乞いや災いを防ぐためにと人間が行ってきたこともあっただろうが、現代においてあまりにも現実離れした話だった。
「代々降谷家で鬼の先祖返りだった者は来るべき時が訪れると御祭神からお告げがあるそうです。そこで贄になるようにと神託があると……」
「この科学の時代にお告げやら贄やらまったく必要性を感じない風習だな」
『曲がりなりにも大陰陽師と言われてるあなたの口から出た言葉とは思えませんね……』
やれやれと透は呆れた顔を作った。
降谷家一族は平安時代から御祭神に密かに身内の体を捧げていたことになる。なんとも衝撃的な事実だ。
「歴代の先祖返りの流れを汲んでいるなら降谷くんもその神託とやらを既に受けているだろ?」
「ええ」
「で、降谷くんはなんと?」
——たとえ神であろうと現代において贄を要求するなど立派な殺人罪および死体損壊罪だ。僕はその犠牲になるなどさらさらそんな気はない。
「……だそうです」
「ははははっ」
降谷の言葉に赤井は笑い出した。想定外の反応に風見は唖然とその様子を見つめた。その男の肩に乗る透ですらやや引いて彼を見上げていた。
「彼は妖退治よりも警察に向いているな」
ひとしきり笑って満足したのか、おもむろに着流しの袖から煙草を一本取るとマッチで火をつけた。
『この部屋禁煙ってメアリーさん言ってましたよ』
「まあ今日ぐらいは許してくれ」
赤井も降谷の置かれている状況を聞いて多少は動揺はしていた。紫煙をゆっくり吸い込むと幾分か気持ちが落ち着く。ふっと吐きだした白いモヤがゆっくりと部屋に溶け込けこむ様子を風見はぼんやりと眺めた。
「しかしまあ降谷くんも大胆な行動に出たものだな」
「大胆どころではありませんよ。神に刃を向けるなど……どんな報いがあの方に降りかかってしまうのか…陰陽師一族や他の先祖返りの一族からも禁忌を犯した者として扱われるようになるんですよ」
一般の世間に知れ渡ることはないが、この界隈では大罪人として扱われることになる。
その重荷を降谷は全て背負おうとしている。
はぁ、と赤井は深く息を吐いた。あまり顔には出さないが赤井の心中は様々な感情が渦巻いていた。時に豪胆な行動を取る降谷のことを、そこも含めて赤井は愛おしいと思っている。初対面で彼と対峙した時にその気の強さに心底惚れたのだ。だが、ここまで過酷な手段を選ぼうとは。
自分の行動で赤井家やよくしてくれた使用人に迷惑を掛けたくないからだろうことは用意に想像がつく。
たらまらずもう一歩煙草を取り出して苦い煙を深く吸い込んだ。
「私が知っているのはここまでです」
「ふむ……おおよそ状況はわかった。やはり気になるのは御祭神だな」
贄を所望するなどあまりにも禍々しい儀式だ。はるか昔の人間達が勝手に贄を捧げていたのなら兎も角、神自ら所望することだろうか。
「果たして本当に如月姫尊は神なのか……降谷くんは既にそのことを突き止めた上で今回の行動に至ったんじゃないだろうか」
「それは……どういう、」
「神として崇められていた存在が実は恐ろしい妖怪の類、なんてことは全国各地に存在する。今回もそれに近いんじゃないかな?赤井くん」
赤井と風見が声のする廊下の方を見ると、そこには男女二人が立っていた。
一人は赤井よりも少し年上の壮年の男性で服装は上から下まで品のある装いだった。眼鏡の奥にある柔らかい目元は知的な印象があり、幾重もの経験と深い洞察力を持つ人物だと納得させる力があった。
その隣に立つ女性は、明るいウェーブのかかった茶髪が印象的で、華のある美しい顔立ちをしていた。手足がすらりと長く、おそらくは隣の男性と年齢は変わらないはずだが若々しい顔立ちをしている。
風見はその女性の顔立ちにとても見覚えがあった。そう、昔テレビで見たことが……。
「伝説の大女優、藤峰有希子!?」
風見は咄嗟に大きな声を出したあと、小さくすみません、と謝罪した。隣の男性もテレビや雑誌で今でも見かける顔だ。
「お久しぶりです。優作さん、有希子さん」
赤井は立ち上がって二人に向かってお辞儀をした。肩に乗る透も短い胴体を懸命に折ってお辞儀の仕草をした。
「いやあお互い忙しくてご無沙汰してしまったね。八咫烏の怪異の事件以来かな?」
「久しぶりね秀ちゃん!」
三人のやりとりに風見が付いていけずにいると、透が補足してくれた。
『こちら民俗学研究の第一人者であり、推理小説家の工藤優作様と、その奥方で元大女優の有希子様です』
反射的に風見は工藤夫妻に深くお辞儀をした。が、未だ状況が飲み込めずにいた。
「予定の時間よりもまだ早いですが、何かありましたか?」
「いや、久しぶりだからメアリーさんにもご挨拶しようと思って少し早めに屋敷を訪れたんだ。それで通りがかったら二人の会話が聞こえてきたんでね……実に興味深い内容だ」
お邪魔しても良いかな、と断りを入れてから優作が室内に入り腰を下ろすと有希子もそれに倣って夫の横に座った。赤井家屋敷はどの部屋も広々としているため二人が増えてもまったく狭く感じなかった。それでもさらに存在感のある二人が追加されたことで心理的圧迫感が風見にのしかかっていた。
優作は民俗学の研究を主としているが、妖怪に関する造詣も深い。彼の推理小説にもたびたび妖怪と絡めており、ベストセラー小説を数多く出している。
一方有希子も天才的な演技力で数多くのドラマや映画に出演し、結婚と同時に潔く業界を引退した伝説の女優である。彼女が主演女優賞を受賞した優作原作の『雪女殺人事件』は最高傑作と名高い。
つまり目の前にスーパースターがいるという状況である。
風見が唖然としている中、赤井と工藤夫妻は軽い世間話でしばし歓談していたが、ようやく本題へ戻った。タバコ一本もらえるかな、と申し出た優作に赤井は自分のを渡すと、優作は火をつけてゆっくりと煙を肺に入れた。
「神様と一言で言っても様々な神様が御坐す…八百万の神の国というだけのことはある。五穀豊穣や商売繁盛、安産祈願……そういった御利益にあやかりたいと古から人々は神々を敬い祀ってきた。一方で畏怖の存在として災いを起きないよう懇願する側面もある」
「和魂と荒御魂ですね」
赤井の言葉に優作は頷いた。
「そう、そしてその中には神の形をとっているが実際は全くの別物……という場合がある。それは時に妖であったり人間の怨念のようなものだったり……初めはそれを封印して鎮ませる意図で祀り、長い年月をかけて人々から大事にされて神へと昇華するが、稀に強い執念を持った者はそうならない」
長い時の中で封印が解かれる日を今か今かと待っている……その期間が長ければ長いほど執念は強いものとなるだろう。
「如月姫尊は実のところ古来の鬼のまま現代まであの神社に存在し、封印が解かれる隙を窺っている……」
優作と赤井の会話に風見はごくりと息を呑んだ。では今まで贄にされてきた降谷家の人間達は皆鬼に食べられていたということになる。風見はおそるおそる口を開いた。
「鬼であるなら、陰陽師が調伏することができる……ということですか……?ここまで降谷さんが突き止めていたのなら何故あなたにお伝えしなかったのでしょうか」
赤井はその質問にやや眉を顰めた。
「鬼であることがわかったとしても陰陽師の大抵の人間は尻込みするだろう。何せ長い間神として崇められてきた存在だ。この件に関わればこの界隈での風当たりは強くなる。それを危惧して俺に何も言わなかったんだろう」
赤井としては噂や風評などどうでも良いことだ。赤井がそういう性格だと知っていて、あえて降谷はその件を伏せていたのだろう。
しばし沈黙の後、有希子がぽつりと呟いた。
「……秀ちゃんはこれからどうするの?」
「無論、如月姫尊……いや、如月の鬼を調伏します。彼は怒るでしょうが……」
赤井の迷いのない返答に有希子はふふ、と優しく笑った。
「そうよね!それが陰陽師の仕事だもの!」
風見は目の前の尊大な男の言葉にああ、と一人納得した。この男も大概に自分の意思を曲げない性分なのだ。当主と同等、いやそれ以上かもしれない。
「降谷くんは祭りの日に決行するつもりなのだろう?ならば我々もそこに向けて準備をしよう。くれぐれも降谷くんに気づかれないように頼む」
「は……はい!承知しました」
祭り当日まで残り数日。早急に準備を進めてていく必要がある。
赤井がふと外の方を見れば、すでに雨は止んで厚い雲は取り払われていた。やはり秀吉の占は当たっていた。
第五話へ続く
番外篇 《風見の手記》
◯月◯日 (金) 晴れときどき曇り
今日は自分の身の上で記すことが特段ない。ので、主人について書いておこうと思う。
我が主人はいついかなる時も気高く気品を携えた方である。
父の後を継いで私が降谷家に仕え始めた時、主人はまだ十八であったが、当主たる風格は既に十分にあった。あの方の右腕として役目を果たせることはこの上ない名誉だと思っている。
そんな主人の雰囲気が最近柔らかくなった、ように思う。こうなったのは赤井秀一という男が現れてからだ。
赤井家邸宅に招かれ初顔合わせとなったあの日、力比べと称して主人とあちらの当主が闘うことになろうとは夢にも思わなかった。
見鬼の才ましてや妖の力など微塵もない私の目からも、主人が鬼の血を強く継いでいることはわかる。それなのにあの男は主人と互角かそれ以上ーーなどと言ったら主人に睨まれるので決して口には出さないがーーの実力を持っていたのだ。
それからというもの、あの男は隙あらば主人を口説こうとする。主人を軽んじるかのような態度の男に初めは使用人一同敵意を剥き出しにしていた。あの男が降谷家を後にする際に欠かさず塩を撒く同僚もいたぐらいだ。そんなことをすると庭の土が悪くなると何度注意したことか。
普段仕事の話ばかりの主人の口から「あかい」の三文字が飛び出す頻度が増え、彼に対する愚痴を溢すようになっていた。その話をしている時、とても人間らしい顔をなさっていることに本人は気づいていないのだろう。主人は否定しているが、あの男と同様に主人もあの男に惹かれているのは私の目にも明らかだった。
いつもたった一人で重責を担うあの方は、我々にはそれを分けてくださらない。だがあの男なら何食わぬ顔で主人の重荷を背負うことができるのだ。
あおの男に対していろいろと物申したいことは私にもいくつかあるが、稀代の陰陽師である赤井秀一こそ唯一主人を幸せにできる存在になれるのではないか……。そんな気がするのだ。