BinarySparksTUTORIAL(2025/9/21)にてWeb掲載したやや長編のお話
ライバボが初めて出会って任務に当たる話
ただただ私が楽しく書いたお話です
第一章:やなヤツ
喰われたと気づいた時には
もう負け犬なのだ
***
「遅い……」
狭い路地裏で呟いてみた。言ったら少しは不安が拭えるのではと思ったのだ。自分の口から出た声が案外心許なくて、情けなかった。
上を見上げると、圧倒されるほど無秩序に積み上げられた建物が視界いっぱいに広がっていた。今にもこちらに崩れてくるのではないかと思ってしまうのは自分の気のせいだろう。なにせ、ここは人も建物もたくましい。
ここは香港。世界で最も古いものと新しいものが入り乱れた場所。
指定の路地裏で降谷は人を待っていた。いや、今は降谷という人間は存在しない。ここにいるのは偽りだらけの身分と名前を持つ一人の男だ。
バーボン。酒の名前を、自分の新しい名前を再度胸の内で復唱した。そうやって自分自身に染み込ませるのだ。今後呼ばれても違和感なく応答できるように。その名に相応しい振る舞いができるように。
「バーボンひとつ頼めるか」
どこまでも深く心地の良い声が空気を震わせた。
一瞬反応が遅れた。これは酒をリクエストしたんじゃない。己に向けられたのだとバーボンはゆっくり声の主の方へ視線だけ向けた。どんな相手であろうと動揺を気取られてはいけない。
その男は頭から足先にかけて真っ黒な装いで、ネオンに照らされた背景から闇がぽっかり浮き出たようにバーボンには見えた。
男が一歩踏み出すと月明かりでようやく顔をはっきりと見ることができた。影がある整った顔立ちの男。アジア系のようだがどこか西洋の血も含まれているように思えたのは目元や鼻筋の線が彫刻のように深いからだろう。鋭い翠の瞳がじっとこちらを試すように見つめて、何もかも暴かれてしまいそうだった。
「ライならありますよ」
少し微笑を携えてバーボンは男に答えた。おそらく自然に出来たはずだ。
「随分とのんびりなんですね。30分も過ぎてますけど。そういったお国の出身なんですかね、あ、当てましょうか?北米…いや案外西ヨーロッパあたりかな」
ついでに嫌味もつけておいた。実際遅れたのはこのライという男なのだ。責める権利はあった。
ついでに相手の反応で性格も窺い知ることができる。喜怒哀楽を引き出すのが相手をコントロールする1番の近道だ。短気に怒り出すだろうか、それとも素直に詫びるだろうか。
「新入りのバーボンというのは随分と口うるさいんだな。お前こそ日本人だろう?」
「は?」
一切表情を変えずに言い放ったライの言葉に、バーボンは反射的に返した。組織に入ったのも名前を与えられたのもほとんど同じタイミングだったと聞いていた。だが、新入りなんて言葉を知らないようなふてぶてしさじゃないか。
「図星か?」
バーボンの反応が面白かったのか、ライはふっと唇の片端を上げて笑った。
日本にいた頃は色素の薄い髪色と瞳の色で散々外国人だと揶揄されてきたが、初対面ではっきりと日本人だと言われたのは初めてだった。
それも小馬鹿にしたような、見下したようなそんな顔で。少なくともそう見えた。バーボンは頭の血管がヒクヒクと震えたような錯覚を覚えた。大丈夫。顔には出していない。殴りたい衝動は全部微笑みに変換しているはずだ。
だが言い返された手前返さずにはいられない。
「…………あなただって入ったばかりだって聞いてましたよ。なんでも先日のF国の任務でスナイパーの腕を見込まれて一気に上り詰めたそうじゃないですか」
「ほお……詳しいな。さすが情報屋とベルモットに買われているだけのことはあるな。『安室透』だったか?」
「…………!!」
バーボンは言葉に詰まった。表情も少し崩れたかもしれない。
相手を出し抜こうと動いたが、返って墓穴を掘る結果となった。人の心理を扱うのは得意な部類なのに。なんという有様だ。
ライは相変わらず感情のわからない表情のままじっとバーボンを見つめていた。バーボンも軽く睨み返した。
「…………ここではダニエル・ラウです」
「俺はイーサン・リーだそうだ」
「場所、変えましょうか」
踵を返して路地の奥に進んでいくバーボンにライは無言でついて行った。
近くの酒場に辿り着くと、バーボンは奥の席に座る。ライもそれに倣って同じ卓に座った。
こじんまりとした酒場は満席とまでは行かないものの賑わいを見せていた。程よく人がいた方が案外聞かれたくない話がしやすい。
「バーボンをお願いします」
「同じものをもう一つ」
最低限のマナーとして二人は酒を注文した。
ライはジャケットの裏ポケットからマッチを取り出すと、煙草に火をつけゆっくりと苦い煙を吸った。わざわざマッチを使うところを見るに、案外こだわりが強い男なのかもしれない。バーボンはふんと鼻を鳴らした。どこをとっても鼻につく。
「F国の任務でターゲットを移動する車越しに命中させたそうじゃないですか。随分と腕が立つようですね」
「それも調べたのか?」
「情報収集が取り柄なので」
バーボンはふいと顔を背けた。先ほどのやりとりがささくれのように心に刺さっている。
相手の心理を巧みに操り欲しい情報を抜き出すことは得意、だったはずなのだ。今までずっと。こんなに扱いがわからない男は初めてだった。自分のペースに持っていけない苛立ちがあった。
酒がテーブルに置かれるとライがふ、と笑った。
「……何」
「バーボンが似合わないな」
「僕のコードネームが相応しくないと?」
「よく年齢確認されずに酒が頼めたなと思ってね」
ぴきりと血管が切れた気がした。落ち着け。こいつのペースに持っていかれるな。バーボンはゆっくり息を吐き出した。
対するライは涼しい顔でグラスに口をつけていた。
「あなたこそ来る途中で職質されたんじゃないですか?人を殺してきたような顔して…」
「わざわざ場所を変えたんだ。本題に入ろうじゃないか、バーボン」
「…………ええ、そうですね」
色々と言いたいことはあったが、ウィスキーで全て流し込んだ。バーボンは懐にしまっていた写真をテーブルの上に置いた。
「馬天龍(マー・ティンロン)。香港に古くから根を張る龍月幇の幹部です。ボスの馬飛蘭(マー・フェイラン)から見ると甥に当たる人物ですね。組織の名前ぐらいはあなたもご存知でしょう」
香港には闇社会を支配する組織が複数存在する。そのうちの一つが龍月幇である。表向きはカジノ経営やその他飲食店を束ねる会社だが、その大元は犯罪組織だ。起源は戦前の政治への反体制運動や一部地域の治安維持組織だったが、時代の流れとともにその実態は今のような真っ黒な組織となっていった。
政界にもコネクションを持つほどの力を持つ組織だが、近年その勢力が弱まっている。
「彼らは再起しようと躍起になっているという訳か」
「ええ、仮にも戦前から続いていた組織ですからね。プライドも重ねた年月だけあります。そこで彼らが目をつけたのがこれ」
バーボンが追加で懐から何かを取り出した。テーブルの上に置かれたのは密閉できる透明な小さな袋。その中には薄く色がついた錠剤らしきものが5粒ほど入っていた。ピンク、イエロー、ブルーと色も様々あるが、形も花やイルカ、猫とどれも異なっていた。
「随分とファンシーだな」
「すでにわかっていると思いますが、これは新種のドラッグです。この辺りの繁華街や路地裏を中心に出回っています」
服用すると、視覚・聴覚・触覚といった感覚が鋭くなり、ある種のトランス状態になる効能がある。バーボンが周辺を探っていく中で入手したものだった。
「いかにも繁華街でウケそうなブツだな」
「ええ。この薬を服用して性行為に及ぶ若者が急増中で、売り上げは上場らしいです」
人間の3大欲求に訴える代物は需要が絶えない。これと言って目立つ副作用もなく、依存性は比較的低いという。その手軽さから手を出す人間が増えている。
「だが、うちの組織がわざわざ入手したがる代物には見えないが」
「もちろん。ベルモット…いえ、ラムが欲しがっているのは別の代物です。このドラッグはいわばブラフと言ったところでしょう」
バーボンはぐっとやや前傾姿勢でライに顔を近づけて、声のトーンを落とした。この場で聞かれる可能性は限りなく低いが、気持ちがそうさせた。
「龍月幇が本当に作っているのは、人間の能力を増幅させる薬……『龍影香』。ベルモットが入手した噂です」
ライの眉間の皺が一つ増えた。
「昔の軍が作っていたような視覚や聴覚、記憶力を極端に向上させるアレか?あの女はどうやってその話を手に入れたんだ」
ベルモットに対するライの評価は、その言い草から一目瞭然だった。ライとベルモットの相性はすこぶる悪いのがバーボンにはなんとなく想像できた。
「彼女は有名な大女優ですから。財政界からマフィアが集まるパーティで入手したらしいですよ。彼女を前にして口が軽くなる男は山ほどいます」
「そんな陰謀論めいた噂の特定のために俺たちはここに放り込まれたってわけか?くだらん」
言いながら手に取った写真を無造作にテーブルの上に投げた。
「僕たちに拒否権があると思っています?」
なぜラムがその薬を欲しがるのか。その真意まではライとバーボン両名の元に降りていない。何にせよ、今回の任務をしくじれば二人の立場が危うくなることだけは確かだった。幹部の一員になったとはいえ、完全に信用されたわけではないのだ。
ライとてそれはわかっていた。だが、ライにとってベルモットという女はどうもきな臭い存在だった。なにか面倒ごとを押し付けられたようにしか思えてならない。
「………続けろ」
「良い心がけです。龍月幇の内部は今ぐらついています。ボスの馬飛蘭は御年79歳。来年の誕生日を迎えると共に後継者にボスの座を譲るつもりです。息子の飛龍か甥の天龍のどちからに」
「跡継ぎ争いってわけか。新たなドラッグの扱いのの賛否もそこで二分されて派閥ができているってところか」
バーボンは頷いた。ライの返答はまるで先読みしたようで、不思議と心地よかった。互いだけが存在する世界で情報が交換されているような、奇妙な感覚だった。意外と思考が似ている、と思いかけたところでバーボンは余計な思考を止めた。
「後継争いは順当に保守派で父の意思を継いでいる息子の飛龍の方が有利です。ドラッグについても慎重派…むしろドラッグに頼るやり方はあまり気が進まないようです。今流通しているドラッグも元々は甥の天龍が始めたことですから。正直ボスの座は難しい。組に対しての忠誠心や仲間意識よりも、自分の利益を最優先に考える男ですから無理もないでしょう。だから薬の製造方法を別の製薬会社や軍関係に売り付けてさっさと組を抜けようとしているってわけです」
「なるほど。その甥から上手く情報を抜き取ろうってわけだな。プランは決まっているのか?」
「もちろん。ターゲットへの接触は3日後、『グランド・スター』のVIPルーム」
「カジノ?」
マカオには多くのカジノがひしめいている。そのうちの一つであり、龍月幇の管理下にあるのがカジノ『グランド・スター』。そこではラスベガスのカジノと負けず劣らずの豪華絢爛さを放つ。世界中の財政界、俳優、資産家が破格の大金を注ぎ込む。
「馬天龍とは架空の取引相手を装って話はつけてあります。あちらが指定してきたのがカジノ会場。僕は当日ディーラーとしてその場に居るのでライは取引相手として振る舞ってください」
「…………」
ライはさらに深く眉間に皺を作った。何も知らない人間がこの男の顔を見たら殺されると怯えるに違いない。あからさまに嫌そうな態度だった。
「俺は役者になるためにここに来たわけじゃない。マカデミー賞でも狙う気か?」
「あなたがスナイパーとして優秀でそのためにここに呼ばれたこともわかっています。ですが今回は銃撃はなるべく最終手段にしたいと言っているんです」
「お前がやれば良いじゃないか」
「僕は既にカジノに潜って馬天龍と接触しているので顔が割れているんです」
はぁとライが大きくため息をついた。相当気が進まないらしい。
「……入った当初から単独行動が目立つと聞いていたがここまでとはな」
「ベルモットには伝えて了承は得ています。それに、これが一番穏便かつ正確にデータが入手できる方法です」
「それは確かに信用できる情報か?」
じっとバーボンを見る翠はどこまでも静かで、相手を見定めようとしていた。バーボンも負けじと見つめ返した。ああ、路地裏で会った時と同じ目だ。全てを暴こうとする眼差し。冷酷で、読めなくて、それでいて好奇心を含んだ複雑な視線。
試されている。自分が信用に足る人間かどうかを。
「僕が入手した情報は信用できないと?随分と舐められたものですね」
しばし沈黙が続いた後、ライは新たな煙草を一本取り出して火を付けた。一度煙を吸ってから煙草を写真に押し付けた。丸い焦げ跡はすぐに広がって原型がなくなると灰皿に投げられた。
「良いだろう。お前の作戦に乗ってやる」
ライはそのまま立ち上がりバーボンから背を向けた。
「期待に応えて見せますよ」
幹部として確固たる信頼を勝ち取るには、成果を上げること。組織においてのしあがるにはそれしかない。組織の深部に潜り込み瓦解させるだけの情報を手にするためにここまで来たのだ。半端な思いで来ていない。
「そうだといいが」
言い残してそのまま酒場を後にした。
テーブルに残されたグラスと灰皿。煙草の煙が昇って天井に溶け込んだ。
「…………やなヤツ!」
ぽつりと呟いてバーボンは残りのグラスの酒を煽った。
「どうだった?ライに会って」
部屋に入るなり聞いてきた友人に、バーボンはむっすりとあからさまに不機嫌な顔を向けた。
一時的に借りたアパートの一室は年季が入っているものの案外居心地が良かった。褪せた壁や天井さえ返って愛おしく感じるのも香港の持つ不思議な力なのかもしれない。ベランダに続く大きめの窓からぬるい風が吹いていた。
外ではどこで組織の目が光っているかわからない。幹部になったからと言って完全に信用を得たわけではない。バーボンにとってこのアパートに留まるほんのひと時だけ息がつけるのだ。
同じ組織に身を置くこの友人も同じであった。
「いけすかないニヒル野郎」
「へぇ珍しいね、バーボンがそんな感情的になるの」
「別に……他のやつだって大体そうだろ」
「あはは!らしくない回答だね」
「うるさい。スコッチはもうライに会ったんだろ?」
互いの本名はわかっていたが、見られていないこの場においても、敢えてコードネームで呼び合うことにしていた。どんな時でもボロを出さないように。
「うん、前の任務でね。アイツ良いやつだったよ。それに凄い射撃スキル」
「ふーん……」
良いやつ?あの人をどこまでも小馬鹿にしたような態度を取るあの男が?
信じられない、と言いたいところだったが、バーボンはそれ以上言わないことにした。
スコッチがこれまで人の印象を述べる際に嘘を言ったことがない。案外その人の本質を突いているところがあることをよく知っている。
「あいつ…もう僕の名前まで把握してた」
「は!?」
「安室透って…」
「あ、ああ…そっちか…びっくりした」
驚きのあまりスコッチは飲んでいたペットボトルを落としそうになった。一方のバーボンは開け放たれた窓をぼんやりと見ていた。どこか浮かない表情だった。
もちろん本名は絶対に知られてはいけない。それは即ち己の本来の立場を示すことと同義だ。この組織において即刻始末の対象となる。
「あの名前はまだ組織の人間にも一言も言っていない」
偽造したパスポートや戸籍を用意していただけで必要になったら名乗るつもりだった。事前にベルモットから渡されていた情報はバーボンというコードネームと写真ぐらいだろう。ならば、偽名とはいえ名前を特定したのはライ本人ということになる。
「嫌な感じだ。特にあの男と一緒に行動を共にするのは危険な気がする」
「ちょっと気負いすぎじゃない?そりゃ組織の人間だから警戒するに越したことないけど」
スコッチの言葉にバーボンは目を伏せた。窓から吹く風に彼の髪がさらさらと踊った。
体の奥から訴える予感があった。あの男は危険だ。自分自身でさえ知りえなかった自分の中の感情が炙り出されるような、そんな嫌な予感があった。
組織に潜入した時点で常に危険と隣り合わせになることは覚悟していたことだ。今更の話ではないか。思い直してバーボンは顔を上げた。
「そうだな、考えすぎたかも」
「……でも、あんまり深入りはするなよ」
「え?」
振り返ったバーボンにスコッチは小さくため息をついた。
「いや、なんでもない。じゃオレ行くわ。ベルモットから預かってたもの届けに来ただけだし」
「ああ、ありがとう」
友人が立ち去った後、バーボンは深く長いため息をついた。目を閉じれば、溌剌とした広東語が耳に届いた。香港の夜は長い。まだまだ外は活気が溢れている。静寂の中だとまた男の顔を思い出すので救われた。
黄金に煌めくカジノ会場が休まる日は無いが、その輝きが一層増すのは日が沈んでからだ。ライトが点灯されると星を打ち消すほどの輝きで周囲を照らしていた。
母体が龍月幇にあるカジノ『グランド・スター』は表面上は他のカジノ場と同じだ。訪れる客が天国と地獄のどちらに行くかは財力と経験と実力と運によって残酷に決められる世界。
馬天龍はカジノのそんな紙一重のスリルが好きだった。ある程度は組織の金も自由にできるし、一部のディーラーやスタッフ、監視員に金を握らせておけば多少のイカサマも目を瞑ってもらえる。馬天龍にとってはグランド・スターは遊び場であり、監視の目を潜れる格好の隠れ家でもあったのだ。
その日も馬天龍は傷一つない磨かれたリムジンでグランド・スターに訪れた。今日は遊びで来たわけじゃない。大金が入るビッグビジネスだ。自分に忠誠を誓う限られた者だけを引き連れてきた。
「ようこそお越しくださいました。馬天龍様」
見慣れたフロントスタッフが即座に駆けつけて車の扉を開けた。彼も金を握らせたうちの一人だった。本来の目的を龍月幇の人間に知らせないためだ。
「お部屋にご案内します」
案内された部屋は最上階のVIPルーム。応接室やカジノスペースが用意されており、寝室もあるためホテルとしても機能している。もちろん宿泊も可能だがメインは限られた人間とのカジノとビジネスに利用している。通常のカジノ会場エリアと違って厳格に監視もさない。交渉にうってつけの場所だった。
「金をもらったらどこへ逃げようか…地中海あたりが良いかもしれないなぁ」
応接間で夢を膨らませていると、扉のノックオンが響いた。来客にはまだ早い。
「馬天龍様。遅れて申し訳ありません。ダニエル・ラウです」
「入っておいで」
扉が開くとダニエルと呼ばれた青年がそこに立っていた。ここのカジノディーラー全員に支給される上質な白シャツと黒ベストに身を包んだその青年だった。あどけなさと妖艶さを兼ね備えた顔立ちで、その不思議な魅力に引き込まれる。
色素の薄い柔らかな髪はミルクティー色で、オリエンタルを想わせる褐色の肌とのコントラストが見事だった。
その人物は最近天龍が贔屓にしているディーラーだった。惹きつける外見だけでなく、ディーラーとしての手捌きも他の古株ディーラーと引けを取らない。おまけに話もウィットに富んで飽きさせないときた。
「本日も僭越ながらこちらのテーブル担当させていただきます」
扉の前で胸に手を当ててお辞儀をするダニエルに天龍は満足げに頷いた。今日のカジノを彩るのにふさわしい人物だった。
「……お仕事中でしたか?」
天龍の目の前にはPCが置かれていた。
「いや、大丈夫だ。少し資料を眺めていただけさ」
そう返して天龍はPCからUSBを抜いてジャケット裏の胸ポケットにしまった。
ダニエルはVIPルームに入りカジノテーブルで準備をする体を取りながら、ちらりと部屋の様子を伺った。
部屋の外の廊下に二人、天龍の側に一人の部下が着いている。拳銃は最低でも一丁ずつ所持しているようだ。ゲートの身体検査でそんな物を所持していては確実に追い出されるが、全て金で解決する天龍にとってはそんなルールなど無意味である。
再び扉が開いた。廊下にいた部下に促されるように入ってきたのは黒い長髪を一つに後ろで束ねた男だった。今度こそお待ちかねの相手が訪れた。
「やあ、待っていたよ」
「…………」
扉の前には上下をスーツからワイシャツに至るまで黒で固めた長身の男が立っていた。アジア系の顔立ちだが堀が深い整った顔立ち。切れ長の目元は鋭く、香港では珍しいエメラルドのような瞳の色をしていた。目元の隈や頬骨は影のある印象を与えるが、寧ろそれが色気という形で現れている。ここに辿り着くまでに多くの女性客のため息を作ったに違いない。
イーサンは革靴で迷わず天龍の元へと進んだ。部下たちが躊躇していたが天龍が目で制した。
一瞬。イーサンがちらりとダニエルの方を見遣ったが、何も無かったようにすぐに目線を戻した。
二人は握手を交わした。
「馬天龍だ。今日はよろしく頼むよ、リー殿」
「イーサンで構わない」
ふ、とイーサンは小さく笑った。天龍はその反応に
やや肩透かしを食らった。
「はは、無口な男だと思っていたが、話し合いは上手くやっていけそうだ」
「よろしく頼むよ」
なにが役者になるつもりはない、だ!
ダニエル——バーボンは内心でイーサン扮するライに悪態を付いた。あんなに作戦に渋っていたくせに、なかなか役にはまっているじゃないか。
立っているだけで俳優の如き存在感となり、普段が仏頂面というだけなのに少し笑いかけただけで勝手に良い印象を与える。なんてずるい男だろう。
思わず手にしていたトランプを歪めるところだった。危ない。冷静になれ。バーボンは気づかれないよう深呼吸をしてから、この後の段取りを復唱した。
イーサンの肩書きは化学薬品や軍需品のブローカーという設定にしている。いつ何処を調べられても良いように本人確認された時の偽造書類もぬかりない。ベルモットに計画を伝えた時、電話越しに「あの男にこんな仕事を頼んだのはあなたが初めてよ」と言いながらえらく笑っていた。
馬天龍には通常ルーティンがある。手始めにカジノを通してクライアントのひととなりを把握する。それから本題の話に進むのが彼のパターンだった。交渉において主導権を握る流れを作るのが目的であるが、純粋にカジノを楽しんでいる面もある。ボスの候補に上がるだけの肝は持ち合わせているということだ。
「イーサン。カジノで遊んだことは?」
「昔に一度だけだな。若い頃、友人の誘いに乗ってラスベガスに行ったきりだ」
「へぇ!勝てたかい?」
「60年もののワインを買って友人たちと飲んだよ。ビギナーズラックってやつかな」
天龍とイーサンが会話を弾ませながらカジノテーブルへと近づいてきた。
ライの話が何処まで本当かバーボンには知り得ない。だが、イーサンという男が見かけによらずユーモアのある男だという好印象を持たせるには十分だった。
ライの役割を決めたのは他ならないバーボン自身だったが、そつなくこなすその男に無性に腹が立っていた。何故腹が立つのか、理由はわからなかった。
「バカラをやったことは?」
「ルールは知っている。やったことはない」
「なら、今回もビギナーズラックが降りてくるかも知れないよ」
バカラ。グランド・スターにおいて最も金が大きく動くゲームと言っても過言ではない。勝敗は一瞬で決まり、ルールも比較的シンプル。なにより運に左右されやすい。その分、賭け方や勝ち方に性格が如実に現れる。
バーボンはテーブルに近づいてきた天龍ににこりと微笑んだ。天龍の後ろには部下が1人つく。想定通りだ。
その部下に天龍が声をかけると彼の着ていたジャケットを受け取った。これも予想通り。
天龍がバーボンから見て左手に座ると、ライも続いて右手に座った。
「さっそく始めてもよろしいですか?天龍様」
「ああ、頼む」
バーボンはテーブル下から新品のトランプを取り出した。基本バカラのトランプは使い捨てだ。
慣れた手つきでカードをシャッフルしていく。
「ルールはシンプルに行こう。ミニマムベットは10万ドルから、掛け金上限はなし。チップはテーブルに用意したやつを使ってくれ。掛け金の倍率はプレイヤーなら2倍、バンカーなら1.5倍、そしてタイなら5倍。3回勝負と行こう」
「ああ、それでかまわない」
高額ベットの特別ルール。金に余裕があるか、もしくは相当肝が座った人間ぐらいしか参加できないだろう。負ければ賭けた分だけの金を失うのだ。
ライはチップの山をプレイヤーの文字の上に置いた。
「プレイヤーに10万ドル」
「じゃあ俺はバンカーに10万ドルといこう」
天龍はチップをバンカーの上に置いた。1回目は互いに様子見と決め込んだようだ。
2人がベットしたのを見届けてから、バーボンはカードを2枚ずつプレイヤー、バンカーのエリアに配った。
「それではよろしいですね?プレイヤーのカードはどなたがオープンしますか?」
「ここはゲストのイーサンにお願いしよう」
「かしこまりました。では、リー様。プレイヤーのカードオープンをお願いいたします」
ライとバーボンの視線が交錯した。
ふ、とバーボンにしかわからないように笑ってから、ライはプレイヤーのカード2枚を裏返した。
カードはダイヤの2とスペードの5で合計7。
「ではバンカーは天龍様がオープンなさいますか?」
「そうだね」
天龍が続けバンカーのカードをめくる。
クラブのAとダイヤのQで合計1。10以上のカードは0とみなされる。
「プレイヤーの合計が大きいのでリー様の勝利です。10万ドルの賭け金でしたので2倍の20万ドルとなります」
「幸先が良いね!イーサン」
「どうかな……プレイヤーに20万だ」
「じゃあ私ははバンカーに…40万賭けよう」
直ぐに同じ位置にチップを配置した。天龍は先程の4倍のチップを乗せた。再度カードが2枚ずつ配られる。
ライはジャケット裏から煙草を取り出して、あの日と変わらずマッチで火をつけた。銘柄が目に止まってバーボンはくすりと笑った。
「LUCKY STRIKE……幸運の一撃。リー様は意外とげん担ぎをなさる方ですか」
「意外か?」
「そんな風に見えなかったので。運なんて頼りにしてなさそうでしたから」
「確かに何もかもを運に委ねることは好きじゃない。やれることを全てやって、そこに僅かについてくるのが幸運っていうやつだろう?」
ライがプレイヤーのカードをめくると、ハートのキングとスペードの10で0。ルールに従ってバーボンはもう一枚プレイヤーのカードを引いてめくると、スペードと1が出た。
「今度はついてないねぇ。私はクラブの2とスペードの3で合計5だ」
「おめでとうございます、天龍様。40万ドルなので1.5倍の60万ドルとなります」
「いいね、こっちに勝利の女神がついてきた!」
「流石だ。……おや」
ライが視線を下にずらすと、そこには小さなケースのようなものが落ちていた。ちょうど天龍の足元の近くだった。
「そこに何かあるようだが、天龍殿のものかな?」
「え?」
天龍が屈み、確認しようと手を伸ばした。すかさず部下が手で制して自らがその場に跪いてそれに手を伸ばす。忠実な部下は決して自分のボスの手を煩わせたりしない。
バーボンはその場に駆け寄った。
「これは…ボスのものじゃ無いですね」
「申し訳ございません!おそらくはここの掃除をしていたスタッフのものでしょう。担当の者にはしっかり言い聞かせますので」
部下から拾ったものを受け取ってバーボンは再び元の位置に戻った。残りひと勝負だ。
「さぁ次で最後だ。イーサンは何処に賭ける?」
ライは手元のチップを全てスライドさせた。
「残りのチップを全てプレイヤーに」
ライは三回勝負ともプレイヤーに賭けることにしたようだ。
「面白い!じゃあ私もバンカーに全ベットしよう」
追随するように天龍も手持ちのチップをすべてバンカーに移動させた。
他の一般客が見たら青ざめていたことだろう。2人のどちらか、もしくは両方が破格の掛金を全てドブに捨てることになるのだから。
バーボンが再び残りの山札からプレイヤー、バンカーそれぞれにカードを配った。
「お二人とも決まりましたね?では最後は同時にカードをオープンしていただきます」
「なぁ、ディーラーさん。最後は君がめくってくれないか」
ライの思いがけない提案にバーボンは一瞬戸惑った。そんな小芝居は打ち合わせしていない。煙草の銘柄を揶揄ったことの仕返しか?
「…………よろしいのですか?」
「このゲームの支配者はディーラーである君だ。君に命を預けていると言ってもいい」
2人の視線は再び交差した。バーボンはまだ出会って間もないこの男の眼差しが苦手だった。鋭く深い視線が調子を狂わせる。
「……かしこまりました。では私がオープンいたします。天龍様もよろしいですか?」
「私はいつでも良いよ」
「では、オープン」
カードが同時に捲られた。
バンカーのカードはダイヤのJとハートの5
そしてプレイヤーは……
「ハートのAにスペードの8……ナチュラル……」
バーボンは思わず唖然と呟いた。
合計が8か9であればその時点で勝負が決まる「ナチュラル」。
「プレイヤーの勝利です。リー様は90万ドルのチップでしたので2倍の180万ドルとなりました」
「やるなぁ!イーサン。君は運を味方につけるのが上手いね」
掛け金の全てを失った割にけろりとしている天龍に、ライは軽く肩をすくめてみせた。
「楽しかった!やっぱりカジノはこうでなくちゃ!さて、遊んだところで早速本題に入っていこうか。あっちに良い酒を用意しているんだ」
天龍とライが立ち上がったタイミングで、バーボンはその場を離れた。ただのディーラーという立場上、極秘の話を聞くわけにはいかない。表向きは、だが。
廊下を出て周りに人がいなくなったところで息を吐き出した。任務完了だ。
ほっとしたら先ほどのライの顔が蘇り、意味もなくムカムカと気持ちが込み上げた。「いけすかないニヒル野郎」から「いけすかないキザなニヒル野郎」に昇格だ。
「やっぱりやなヤツ!」
顔をパチンと叩いて気持ちを切り替えた。
第三章:逃避行
——12-xx Bowring Street,
Jordan Yau Tsim Mong, Kowloon
バーボンから行き先の情報がライの端末に送られてきた。
どうやら天龍から抜き取った媒体から薬の製造場所を特定したらしい。
ライは真夜中の街を進んで行った。唐楼と呼ばれる低層のマンションビルが立ち並ぶストリートを進み、徐々に人のいない細い道へと逸れていく。
ほとんど光の入らない路地にバーボンは身を潜めていた。キャップを目深に被ったその姿は余計に幼く見える。だが、ここまでの計画は全てバーボンが立てたものだ。ライは素直にこの男に賛辞を送りたいと思った。
「上手く行ったようだ。さすがだな」
「ええ……お陰様で。あなたのマカデミー賞ものの演技力見させて頂きました」
「光栄だね」
「…………」
バーボンはちら、とライを見遣ってからすぐに視線を元の場所に戻した。褒められたのがなぜだかくすぐったかった。なるべく平常心でいたい。これ以上この男に狂わされてはたまらない。相手は組織の人間だ。スコッチに深入りはするなと言われたことがふと頭をよぎった。
バーボンの視線の先にあるのは古びた低層ビルだった。この一帯でよく見られる2階から上が張り出した街角楼と呼ばれる建築物。泥棒避けの柵が取り付けられた窓はどれも明かりが灯っていない。一階の外壁には『桃春藥房』という文字があった。
「あのビルだな?」
「ええ。1階は薬局で、2階と3階がラボになっています」
この薬局も公にされていないが龍月幇の管理下にある。この町には幾つかその隠れ蓑となる店を構えているらしい。
入手するのは『龍影香』のサンプルと精製方法のレシピ。
天龍たちがこちらの動きに気づく前に早くかたをつけなければ。
「裏口から入るか?」
「ええ、行きましょう」
裏口に回ると旧式の鍵のついたドアがあった。バーボンは躊躇せずに鍵穴に針金を通した。数秒後、カチャリと鍵が開いた音がした。
「ほー…やるじゃないか」
「これぐらい普通でしょう」
二人は同時に隠していた拳銃を手に取った。人がいなくなったタイミングを狙ったが、もしもの場合に備える必要がある。拳銃を構えて屋内へ侵入した。
***
2階と3階で二手に分かれた。やりとりは無線を使う。
3階は殆ど物置のような扱いだった。大量の段ボールが散乱しており、箱の中身は大半が繁華街で出回っているドラッグだった。
『3階は今のところそれらしいもの見つかっていないです。ハズレかも……。2階は?』
『メインPCが設置されていた。そこからある程度の場所はわかりそうだ。もうすぐハッキングが終わる』
『ハッキングもできるんですか』
ライの思いがけない能力にバーボンは呆れた声を上げた。自分のピッキングより凄いことをやっている。
3階には何も無いと判断してバーボンもライの元へ移動した。
「何か情報ありました?」
「これを見てみろ」
デスクトップを覗くとこのビルの見取り図が表示されていた。3階は在庫置き場、2階はオフィス、1階は薬局として用意されているようだ。そしてもう一つ図面があることに気づく。
「……地下室?」
「おそらくそこに龍影香に関わるものを全て隠してある」
「なるほど。地下に繋がる入り口を探しましょう」
地下室の入り口は薬局のレジの床にあった。店員もしっかり龍月幇の人間であることが窺える。地下に繋がる階段を降りると中央に作業場、壁は薬品棚で埋められていた。薬局に充満していた漢方のそれとは別の化学薬品の匂いがした。
「どうやらここが正解らしい」
「ええ」
引き出しや棚の中、PCの中を隈なく探った。棚にファイリングされた紙媒体の資料からそれらしいものを抜き取っていく。
「精製方法の資料ありました」
「こっちはサンプルだ」
ライが手で持ち上げたのはアタッシュケースだった。中を開くと5つほどのガラス製の小型瓶が並んで、その中身はほんのり桃色に色づいた透明の液体が入っていた。
「馬天龍が言っていたものと同じですね」
「これでラムが納得すればいいがな」
「少なくとも僕たちの首が飛ぶのは免れましたよ」
結局ラムがこの薬品を所望する動機は分かっていない。そもそもラムと呼ばれている人間が本当に存在するのかすら、今の二人には分からなかった。
「……バーボン、お前は何故この組織に入った?」
「どういう意味です?」
「言葉の通りだ。お前ほどの能力があればもっと割に合う仕事に着けるだろう」
なんと答えるべきか、バーボンはすぐに返答できなかった。ライに褒められている?いや、試されているのか。組織の裏切り者の疑いをかけられているのだろうか。ぐるぐると頭の中を思考が高速で流れて行った。
真っ直ぐ見つめる翠の瞳が、やはりバーボンは苦手だと思った。どうにも思考が鈍る。
「……成り行きですよ。大体そんなものでしょう?ライだって」
「………ああ、そうだな」
その時、コツコツと地下に降りる足音が響いた。二人はすぐに左右の死角に隠れた。
3人分の足音。カチャリ鳴った金属音から武器を所持していることが窺える。
地下に降り立った3人を盗み見ると、顔や腕に傷があり、どう見ても一般人では無い。2人が拳銃、もう1人は刃物を所持している。警戒して武器を構える様子から、おそらくはこちらの動向に気づいた馬天龍の差し金といったところだろう。
逆サイドに隠れたライが口を動かした。
——拳銃の2人を相手する。お前は残りの1人を
バーボンは静かに頷いた。
ゆっくりと3人の男が近づいてくる。
ライがカウントを始めた。
3…2…1…
「…っ…ぐぁあ!!」
男の悲鳴が上がった時には既に銃弾が一発放たれていた。瞬きする間にライは男の利き腕を無力化したのだ。
「クソ…ッ…!!」
残りの2人がライに的を絞った。その隙をバーボンは見逃さない。体勢を低くしたままナイフを持つ男に素早く接近した。男は慌ててナイフを振り翳したが、それよりも先にバーボンの拳が鳩尾に重い一撃を放った。衝撃に背中を丸めた所にさらに側頭部に同じ追撃が入り、男はその場に崩折れた。
残りの男もライの頭を狙い撃とうとしたが、ライは避けながら距離を詰めて、そのまま勢いよく脚で拳銃を蹴り上げた。男が宙に浮いた拳銃を目で追っている間に喉元を指先で突くと、男は喉を抑えて気を失った。
仕上げとばかりに肩を打たれた男の脚を撃ち抜いた。3人ともこの場に縫い付けられた状態となった。
「早くこの場を離れるぞ」
「はい」
地下を抜け、再び裏口から外に出た。通りの方から何台か車がこちらに近づいている。見つかる前に人気のない道を選びながらその場を後にした。
路地裏に入って、2人は息をついた。
少し間をおいてライが思い出したようにくつくつと笑い出した。
「なんですか急に。頭でも打ちました?」
「いや、お前思ったよりも手が出やすいんだな」
「はぁ!?」
思わず食ってかかったような反応をしてしまい、バーボンは後悔した。確かに拳が出た。そちらの方が拳銃を放つよりも早かった。
「ライだって手も足も出してただろ!」
「ははは!」
ライが笑って唖然としていたが、バーボンもつられて笑った。互いに戦闘の後で気持ちが昂っていた自覚はあった。
これが吊り橋効果というやつだろうか。バーボンは昔警察学校の同期がそんなことを言っていたなとぼんやり思い出していた。もちろん女性を落とす一例での話ではあったが。そんな関係性であってたまるか。
「バーボン」
呼ばれて顔を上げたと思えば腕を引かれた。煙草の匂いが鼻いっぱいに広がって、自分がライの腕の中にいることに気づいた。
「は…、なに……」
「少し大人しくしてろ」
バーボンの理解が追いつかないうちに、ライの顔が近づきそのまま唇を塞がれた。
瞠目した瞳に映ったのは、こちらを真っ直ぐに見つめるエメラルドの瞳。目を逸らすことはできなかった。
胸に置いた手に力を込めて押してみたが、頭に添えられた手で口付けを余計に深くされたので抵抗をやめた。
その時路地裏の外から慌しく走り去る足音が聞こえて、そのまま遠ざかった。隙間から照らされる車のライトが2人を闇の中でスポットライトのように照らした。何もかもが出来すぎた舞台のようだった。
完全に足音が聞こえなると唇も解放された。
「…………行ったな。ここも離れるぞ」
路地裏で戯れる恋人になど、連中は興味などない。咄嗟の判断だった。
「………………ろ」
顔を上げないバーボンにライは怪訝そうな顔をした。
「なんだ?」
「僕に許可を取ってからにしろ!!」
「ガキみたいなことを言うな」
呆れたように肩をすくめてライはすたすたと歩き出した。
行くぞ、と促すライに必死に怒りを抑え込みながらバーボンは後を追った。
***
「どうしたんですか?この車」
ライに従って付いていくと、そこには見覚えのない車が停めてあった。黒のBMWのE39型M5。
「馬天龍とのカジノ勝負で儲けた金があったからな。カジノで勝っておいて良かっただろ?」
「…………そうですか」
「なんだまだ怒ってるのか」
「怒ってないです」
本当は一発殴りたいとバーボンは思っていた。
依然として目が据わっているバーボンに、ライは嘆息しつつも車のキーを投げた。
「ほら行くぞ。お前が運転しろ。俺は追っ手をこれで牽制する」
手には拳銃。妥当な分担だろう。バーボンはまだ釈然としないまま頷いた。
実際のところ、乗ったことのない車種を運転できることに密かに心が躍っていたところはある。
今日1日限りの相棒にキーを差し込んで、バーボンはアクセルを踏み込んだ。
港沿いに2人は車を走らせた。この時にはとっくに日付は超えている。赤、黄、青、緑と眩いネオンの光が2人の行き先を照らした。このまま香港を抜けてスコッチとの合流場所に向かう。
「ちょっと…煙草臭いんですけど」
煙草の香りが先程の出来事をフラッシュバックさせるので、バーボンとしてはやめて頂きたいところだ。
「…………我慢しろ」
バーボンの苦言にライは構わず煙草らを吸い続けた。これだけは譲れないらしい。
「……来たな」
バックミラー越しに3台の車がこちらに向かってくるのが見えた。
その内の一台が前に出て、助手席の窓が開いた。窓から拳銃が覗いて一発威嚇で放たれた。乗りたての相棒のリアウィンドウにヒビが一つ入った。
「ライ、この先トンネルですよ」
「ちょうど良い。トンネルに入ったら速度を一定にしろ。そこで片を付ける」
「ちゃんと当ててくださいよ!」
「もちろん」
先程の1台が続けて追撃を始め、車体に次々と傷跡が増えていった。
トンネルに入り、バーボンは言われた通り速度を固定した。しばらくトンネルは直線だ。
「よし、そのままでいろ」
ライは助手席のドアを少し開け、後ろの車体を目視で確認した。狙う箇所は決まった。
拳銃をドアの隙間から差し込んで位置を固定する。
こちらの攻撃を察したのか、今度は3台同時に鉛玉を放ってきた。車体が凹んだ嫌な音を立てる。
激しくなる攻撃にライは薄く笑みを浮かべた。
「撃ちすぎだなあいつら」
状況を一変させるだけの一撃さえあれば良い。
相手の銃撃が弱まったタイミングでライは鋼を放った。それは先頭車両のタイヤを穿った。一台の車が制御不能になると、後ろに続いた2台も積み木倒しの要領でその場に足止めを喰らった。
遠くでサイレンの音がする。もう時期彼らは香港警察にお縄となるだろう。
「お見事……」
あらかじめ射撃の腕の評判は耳にしていたが、実際に見るのとは体感が全く違う。これは認めざるを得なかった。バーボンが思わず賛辞を呟いていたほどに。
トンネルを抜け、視界が開けるとちょうど朝日が顔を出した瞬間だった。
次第に香港から遠ざかって行った。
第四章:負け犬
「2人ともおつかれ〜!」
合流地点に着くと呑気な声が出迎えた。
香港を抜け、ライとバーボンは無事に目的地のホテルへと辿り着いた。
風穴だらけになったBMWは途中で乗り捨ててまた別の車に乗り越えた。実に惜しい車だった、とバーボンは思っていた。
ホテルのラウンジで出迎えたスコッチは2人のくたびれた様子に苦笑した。
「もしかして……寝てない?」
スコッチに言われて2人は互いの顔を見た。どちらも酷い隈が出来ている。ライほ目元には元々あった気がするが。
「……そういえば…そうですね」
「そうだな……」
馬天龍とカジノでやり取りをしてからずっと働き詰めだった。言われてどっと疲れが押し寄せた。
「3人分の部屋は取ってあるから、ゆっくり休むといいよ」
そう言ってスコッチは2人に部屋のキーを手渡した。
明日にはベルモットと合流して、入手した物を渡せば任務完了となる。今日はひとまずやることはない。久しぶりにゆっくり出来る。
「ああ、そうさせてもらう。お前もゆっくり寝ろ、バーボン」
ぽん、とバーボンの肩を叩いてからライはその場を後にした。
ライが去った後、バーボンはようやく息を深く吐き出してから、ソファに体を深く沈めた。
「…………あのさ、ライとなんかあった?」
バーボンの──友人の様子にただならないものを感じ取り、スコッチは恐る恐る訪ねた。
「別に……なんでもない」
「いや、なんかあるだろ。あ、ちょっと待ってて」
とりあえず何か飲ませようとウェルカムドリンクのホットコーヒーをバーボンに手渡した。
「ありがとう」
一口飲んだら少し昂っていた気持ちが落ち着いた気がした。カップの中のコーヒーに反射した自分は酷い顔をしていた。
ライと接したのはほんの2日程度。たったそれだけで、あの男の優秀さが痛いほどわかった。処理しきれない感情の渦が次から次へと溢れ出してはやり場に困ってまた蓋をした。ずっとその繰り返しだった。こんなことは初めてだった。
「……ライ、良いやつだっただろ?」
尋ねるスコッチの声は柔らかかった。バーボンはゆっくりとコーヒーを口に入れて、飲み込んだ。
「やなヤツだったよ」
「そっか」
これ以上スコッチが言及することは無かった。
『無事に香港から出られたようだね、赤井君』
「ええ、問題ないですよ、ジェイムズ」
用意されたホテルの一室でライ──赤井秀一は自分の上司に報告をした。今回は組織の新しい情報を掴むには至らなかったものの、少なくとも組織からの信頼は得られただろう。
『なんだか楽しそうだね。些か声が弾んでいるような気がするよ。君にしては珍しい』
上司の言葉に赤井は何故かバーボンの顔が浮かんだ。
あの男が何故こんな場所にいるのか。素直に興味が湧いたことは確かだった。
それは捜査官としての性か、はたまた持ち前の好奇心がそうさせるのか。いずれは瓦解すべき組織の人間に抱く感情にしては温度が高いという自覚はあった。
潜入をする際に最も死に近づくのは、感傷的になったときだ。深入りは禁物だ。
手にした煙草から煙を深く吸い込んでゆっくりと吐き出した。
「気の所為ですよ」
fin.
読んでくださってありがとうございます。ポムです。
今回はBinarySparksTUTORIAL2025の開催おめでとうございます!とても楽しみにしていました。
TUTORIALとあるので、書くものもせっかくならTUTORIALな内容にしよう!と思い、それなら赤安の二人の最初の出会いを書こうと思い立ちました。
つまり、ライバボ!!二人の出会いが組織で互いの素性をしらない状態だったってすごいですよね。出会いからドラマチックすぎる。
気づいたらサークルカットもブースのドット絵もポスターまでライバボにしてました。
そしたらなんとコナンカードからライバボが供給されて飛び跳ねました。書いてて良かった・・・
書いたお話の時間軸は原作漫画の現在から5年ぐらい前を想定しています。まだ、ライバボの二人がコードネームをもらって間もない時期。
バーボン視点が比較的多かったのは、私がバーボンの心の揺らぎを書きたかったからです。今までほぼ完璧で何でも淡々とこなせていたあの降谷零がライという男に出会って一気に歯車が狂いだすその様子を書きたかったのですが、言うのは楽で実際書くのは難しかったです。
まあ潜入している身なので、あからさまに取り乱すことはないでしょうが、心の内で激しく揺すぶられているような・・・そんな感じを出したかった。
あとはライをとにかくかっこよくスマートでニヒルな男の描写をしたかった。それでもってユーモアを持ち合わせた余裕も持たせてみました。イギリス人なので。
ライの心理描写少なくなっちゃって分かりづらいと思いますが、彼も知らず知らずのうちにバーボンという男に興味を持ってしまっているんですね。
だから実はバーボンだけが取り乱されているようでいて、ライも案外バーボンに惹きつけられているので50:50です。
組織に潜入していて、誰かに肩入れするような感情って命取りになると思うのです。感情に食われたら負け。そんなところからタイトルつけました。
無意識に、衝動的に引き寄せられる存在はその時点で危険な存在となりうる。
だからライバボの時代はある程度の一線を引いているところはあると思っています。一応組織の人間とお互いに思っている訳だし。
その絶妙な駆け引きとか心理戦とか心の動きがライバボの醍醐味ですよね!!あ〜楽しい。
来年の本番はさらに気合い入れて純黒の赤安を書こうと思っています。
あとがきまで読んでくださってありがとうございました。
2025 9/21 ポム