2026年1月
問いを失っていた頃の私は、
「何かを足せば、また前に進めるはずだ」と考えていました。
新しい知識。
新しい手法。
新しい正解。
しかし実際には、
足すほどに、問いは遠ざかっていきました。
そこで私は、意識的にいくつかのことをやめることにしました。
問いを持った瞬間に、
「正しい答えは何か」を探す癖がついていました。
生成AIを使えば、答えはすぐに手に入ります。
しかし、その速さが、
自分の中で問いが育つ時間を奪っていたことに気づきました。
問いは、
すぐに解決されるためのものではない。
そう考えるようになり、
答えを急がないことを、自分に許しました。
これは長く仕事をしてきた人ほど、
無意識にやってしまう判断です。
・それは仕事になるか
・それは評価されるか
・それは意味があるか
しかし問いが戻り始めたのは、
「役に立たないかもしれない違和感」を
そのまま放置しなかったときでした。
問いは、最初から有用である必要はありません。
むしろ多くの場合、
扱いにくく、説明しづらい形で現れます。
書籍、講演、SNS。
世の中には、魅力的な問いが溢れています。
しかしそれらを追いかけるうちに、
自分が本当に立ち止まっていた場所が
わからなくなっていました。
問いを取り戻すためには、
「自分は、どこで引っかかっているのか」
という一点に戻る必要がありました。
他人の問いを捨てるのではなく、
一度、脇に置く。
それだけで、視界が少し静かになります。
問いを言語化しようとすると、
つい整った文章にしようとしてしまいます。
しかし、問いの原型は、
たいてい曖昧で、矛盾を含んでいます。
うまく説明できないまま、
メモとして残す。
誰にも見せない前提で書く。
その不格好な言葉の中に、
後から振り返ったとき、
確かに自分の問いだったとわかる痕跡が残りました。
問いは、取り戻そうとして掴むものではなく、
余計なものを手放した先で、残るもの
なのかもしれません。
次のページでは、
問いを取り戻し始めたときに現れた
小さな変化について書きます。