京都御所の再建に携わった絵師谷口藹山







🔷 北前船でやってきた絵師② 🔷

 明治5年夏、同郷で同門の吉田公均と共に、富山から北前船でここ竹野浜を訪れ、この屏風絵を描いたものと思われる。藹山らの出身地現立山町は廻船問屋で栄えた富山湾岩瀬のすぐ近くで、この明治5年は居住する京都を離れ、故郷富山に帰っていた時期にあたる。

 また、吉田公均とは共に貫名海屋に師事、京都御所の再建では二人とも杉戸などに画を描いている。

花鳥画と、山水画が交互に描かれている6曲屏風

文化13年(1816)12月 ~ 明治32年(1899)12月30日

明治5年57歳頃

谷口 藹山(たにぐち あいざん


 江戸時代後期から明治にかけて活躍した文人画家で山水画、花鳥画を得意とした。 名は貞二または貞、字を士幹、号は藹山、文齋、室号を鴨浙水荘という


 越中国新川郡鉾ノ木村に農家次男として生まれ、幼少より画を好み、郷里の文人画家水上源渕に画を習う。江戸に出ると谷文晁や高久靄厓に就いて文人画を学ぶ。その後、京都で篠崎小竹、岡田半江、貫名海屋等に師事し詩や書、漢学などを学んだ。

 嘉永大火安政2年(1855) 京都御所が再建された際、修復事業に志願し参内殿に杉戸絵「雪中南天図」「秋野臥猪画」の2枚を描いている。明治になっても私塾立命館や京都府画学校に勤め、日本南画協会の設立など長く京都画壇の中心で活躍した。 享年84。京都西王寺に墓所がある。


参考[気韻生動の軌跡、南画家谷口藹山の生涯(安田良榮)]

それぞれの画には季節を詠んだ漢詩が添えられている

 残念ながら画も詩の内容も竹野の風景とは関係なさそうである