京都御所の再建に携わった絵師吉田公均







🔷 北前船でやってきた絵師① 🔷

 明治5年夏、同郷で同門の谷口藹山と共に、富山から北前船でここ竹野浜を訪れ、この襖絵を描いたと思われる。北前船が文人達の往来にも大きくかかわっていたことがわかる貴重な資料である。

公均たちは住吉屋から揮毫の依頼を受けてやってきたのだろうか、大変緻密な画で何日も逗留し描いたものと思われる。

客間でひときわ目を引く豪勢な床脇の松鶴図襖絵

吉田公均(こうきん)/文化元年(1804) – 明治9年(1876)


 江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した京都四条派の絵師で、通称平吉、嘉十郎。字は平吉もしくは君平といった。また、号広均、別号に田均、栖霞、江上漁夫。


 越中国新川郡江上村豪農の三男として生まれ、幼少より画を好み、紀広成(山脇東暉)、貫名菘翁に文人画を学び花鳥山水画を得意とした。その後四条派の松村景文に師事する。

 安政2年(1855)に京都御所が再建された際、御学問所の杉戸に「春花車図」「松二鷹図」を描いた73歳で没、墓は郷里上市町の浄誓寺にある。

竹野浜のコウノトリが描かれたと思われる豪華な松鶴図

 明治5年(1872)仲秋(陰暦では八月)公均68歳の作品である。細やかな筆使いと華麗な色彩金箔貼りで御所にあってもおかしくない大変立派なものである。松に集まるたくさんの丹頂鶴が描かれているが、「竹野浜で写すとあることから実際の景色を描いたと思われ、竹野浜に居たたくさんのコウノトリが縁起物の鶴として描かれたのではないだろうか。なお、清冷寺の東楽寺には旧家から移されたという四面の襖絵が残る。

松の枝にたくさんの鶴が止まっているのだが…【壬申仲秋写於竹濱漁荘