氏子だより
伝統を受け継ぐ若い力‼
次にご紹介する文章(英文と和文)は、昨年(令和6年)9月、海部郡中学校英語弁論大会において当時、海陽中学三年の三浦 美紅さんが、大好きな大里八幡神社秋祭りについて、祭りの喜びやふるさとへの真摯な思いを述べたものです。若者の真っ直ぐで曇りのない眼差しを皆さまにお伝えしたく、ご本人承諾のもとに掲載させて頂きました。
ぜひご一読ください。
Past to Present to Future
~過去から現在へ、現在から未来へ~
海陽中学校三年 三浦 美紅
Do you have something you look forward to each year? For me, the thing I look forward to the most is Kaiyo town's Ozato Hachiman Festival. It's held every October. During the Hachiman Festival, people parade through the town pulling Danjiri and boat-shaped Sekibune. They are pulled by the young people of town called Wakaishi. Riding the carts are Uchiko, children dressed up as girls who play drums and gongs as the cart is pulled. One of the Wakaishi yell out their call "Dottol" which is a sign for everyone to pick up speed. They all immediately start running while pulling the ropes. The music also speeds up in time. The sight of them running along the streets with a cloud of smoke from the sand has the power to overwhelm all who see it. All the elements of this festival have been passed down from generation to generation. Because each generation has maintained the tradition it has stayed alive. I want to continue to treasure the Hachiman Shrine because it is a prestigious shrine festival with a long history.
But, I am afraid of the Hachiman festival disappearing. Every year my town has less kids to ride the Danjiri and less people to pull them. At first the Uchiko would only be young boys, but now because of the population decline the Uchiko are also young girls. The Hachiman festival has changed overtime but you can feel the protection of tradition throughout the festival.
I want everyone to continue the meaningful traditions around them. Some things change with the times, and some things have to change. However, if everyone knows the background of the festivals and traditions and changes them to fit our current time, I think it will become even better while preserving the feelings and intentions of the people that started them. We must learn about our own culture and history so that we are able to skillfully pass down our town's traditions to the next generation.
みなさんは毎年楽しみにしていることはありますか?私が一番楽しみにしていることは、海陽町の大里八幡祭りです。毎年10月に行われます。八幡祭りでは、「だんじり」と船の形をした「せき船」を曳きながら町を練り歩きます。曳くのは「若い衆」と呼ばれる町の若者たち。乗るのは「打ち子」と呼ばれる女の子の格好をした町の子どもたちで、太鼓や証を打ち鳴らします。若い衆の1人が「ドットー!」という掛け声をかけると、すぐに網を曳きながら一斉に走り出し、音楽もそれに合わせてスピードアップします。 砂煙を上げながら駆け抜ける姿は、見ている人全てを圧倒する力があります。この祭りのすべての要素は、代々受け継がれてきたものであり、それぞれの世代が伝統を大切にしてきたからこそ、この祭りは生き続けてきました。古くからの歴史がある格式高い神社の祭りなので、私も八幡祭りを大切にしていきたいです。
しかし、私は八幡祭りがいつか無くなってしまうのではないかという不安があります。私の町は年々だんじりに乗る子どもが減り、 だんじりを曳く人も減ってきています。打ち子もかつては男の子だけでしたが、現在は人口減少により女の子も務めています。このように、八幡祭りは時代とともに変化してきましたが、伝統を守る姿勢は祭りの随所から感じることができます。
身近にある意味のある伝統をみなさんにもぜひ、引き継いでいってほしいです。時代とともに変わるものもあれば、変わらなければならないものもあります。しかし、みなさんが祭りや伝統の背景を知り、今の時代に合わせて変えていくことで、それを始めた人たちの思いや意思を大切にしながら、より良いものになっていくと思います。自分たちの町の文化や歴史を知り、次の世代に上手く伝えていけるようにしたいです。
<総代会後記>
大里八幡神社秋祭りの写真を長年に渡って撮り続け、HPにも多くの写真を提供して頂いた岡田 斎(野江)さんが、「この祭りの日は、どの顔もどの顔も、ほんまに嬉しそうな顔しとんよな‼」と感慨深げに言った言葉が心に残っています。その答えが、ここにあるような気がしています。
氏子だより
明日の八幡神社への願い
総代会 鞆浦 三浦三郎
神社には門がありません。
古代は太陽や山など、自然そのものが信仰の対象として崇められ、自然との一体感が根底にあったようです。門がないことはその象徴なのでしょう。言い換えれば、氏神さまは、遍くすべての人に、いつでも、等しく開かれているということだと思います。
昨年来、神社の役割を「祈り」、「安らぎ」、そして「交流」の三つの視点から整理し、新しい女性神職(現滝川勇宮司次女)の誕生に合わせて痛みの酷い諸施設の修復と整備に取り組んできました。
神社は何よりもまず真摯な「祈りの場」です。朔日の日には老若男女、様々な方がお参りされます。浄らかで静謐な環境のなかでお参りして頂きたいと滝川宮司は毎日、夜明け前から境内を掃き清めています。もうお若くないため、時間的に余裕のある方は出来る範囲でお手伝いいただければ幸いです。また高齢の参拝者も多いので参拝経路の段差や手摺設置などにも気を付けたいと思います。
次いで「安らぎの場」。様々な思いを胸に秘めつつ手を合わせる方々に、境内の木々や草花などにふっと安らぎや癒しを感じて頂ける、そんな場であればと願っています。紫陽花が良く似合うだろうと、この夏、挿し木の苗づくりを行いました。
最後に「交流の場」です。神社の運営に携わって不思議に感じることは、未だ男社会であること、同時に女性の側にも遠慮が感じられること。例えば八幡神社の総代と役員さんには未だかつて女性は一人もおいでません。
10世紀の平安時代に成立した延喜式(法律の施行細則)には穢れと忌みについて、その対象と守るべき期間などが細かく定められています。教義上のことはよく知りませんが、このことが差別や偏見を生み、また助長させたともいわれます。余談ですが平安末期から鎌倉時代、凡夫と女人往生を説いた浄土宗開祖法然上人(1133~1212)と救いを求める人々との問答集「一百四十五箇条問答」という書籍が残っています。そこには当時の人々が暮らしの中で穢れや忌みをいかに重くみていたか、一方、仏教(救い、真理)に忌みはありませんと諭す法然上人の慈悲の心が語られています。
祭神、天照大御神は女性の神さまといわれます。さらに女性の神職が誕生するこの機会に合わせて神社運営のサポート組織、女性奉賛会を設置し、まずは境内の掃除や花づくりなどに携わって頂ければと考えています。そして花づくりなどを通して交流が育まれ、神社を支える新しい力に育ってくれたらと願っています。
またハード面の環境整備にある程度目途がつけば、交流を広げるソフト面での取り組み(催しなど)も考えていきたいと思います。
昔から、奥浦地域に「病(やまい)、市に出せ」という言葉があるそうです。病気など、心身の悩みは一人で抱え込まずに人に話した方が気が楽になる、また色んな知恵や情報を聞かせて貰うこともある、ということでしょうか。
大里八幡神社に集う、おひとり、おひとりのご多幸を心よりお祈りしています。
<写真説明>
裏山の倒壊の恐れのある木々が伐採され、その跡にまた新しい命が芽吹き始めました。再生と循環の始まりです。本殿の屋根には千木が青空に向かって立ち、玉垣も修復されて境内は少しずつ整ってきました。
氏子だより
夏の風物詩 ー 母川
高園 大坪 潤一 (海部川本舗 管理人)
梅雨入り間近のこの季節。夏の風物詩のひとつがホタルです。海部川支流の母川はゲンジボタルの生息地として知られていますが、このゲンジボタルは西日本と東日本で明滅間隔が異なるらしく西は2秒、東は4秒なのだそうです。電気の周波数の違いみたいですね。
恒例のほたるまつりは6月1日(土)から8日(土)にかけて。 すでに10日ほど前からちらほらと飛び始めており、会期中には幻想的な光の乱舞を楽しむことができそうです。ムシっと暑い日の午後8時から9時頃が一番のチャンスタイム。会期中は高瀬舟も運行されるので舟に揺られながら鑑賞するのもまた一興かもしれません。
母川、ホタル乱舞(昨晩:R6年6月5日)
氏子だより
大里松原の話 中小路 佐藤 和久
大里八幡神社を中心に約3キロにわたって広がる大里松原の起源は古く、江戸時代はじめにはすでに広大な松林が広がっていたようです。長い砂浜と松林は地元住民の憩いの場となっており、その美しい景観から白砂青松全国百選にも選ばれています。
この松原はまた、昔から防風、防潮、防砂等の役割を担い、人々の暮らしを守ってきました。これまで何度も台風の被害に見舞われましたが、その度に地域の人々が植樹を重ね松林を守ってきました。
令和元年に襲来した台風はかつて無い塩害をもたらし、4000本以上の松が枯れました。地元住民は町や県、研究機関等と連携し、どのようにすればもとの松林が取り戻せるかを考え、再生に向けて取り組んできました。具体的には、子どもから大人までたくさんの方々の協力を得て、枯れた松の調査・伐採・植樹・育成・草刈り等様々な作業を行ってきました。
毎年、八幡神社の秋祭りにはダンジリや関船がたくさん出ます。ダンジリや関船は松林の中を駆け回り、お昼には曳き手を中心に多くの人が松林の中に陣取り、弁当を広げ楽しいひとときを過ごします。松原と八幡神社はしっかりと地域の中に根付いています。
今、この広大な松原を守っていくためにはたくさんの人の松原への思いと力添えが必要だと強く感じます。雄大でやすらぎと活力を与えてくれる松原。安全と安心を与えてくれる松原。みんなの力でいつまでも守っていくことができればと思います。
NPO法人あったかいようの「おすすめ みどころマップ:㉔大里松原」にも、大里の人々と松原の歴史的な関りなどが紹介されています。ご一読下さい。
リンク先
https://attakaiyo.org/midokoro/
春のお客様・・キハダマグロ
今年(令和6年)、 鞆浦の大敷網ではブリが少なくなった4月中旬頃から、時おり20~60㎏のキハダマグロが一日に数十本も網に入ることがあります。
日本の近海では、マグロ類はクロマグロ、メバチマグロ、キハダマグロそしてビンナガマグロが漁獲されます。クロマグロは水温5~30℃ほどの海域に分布するといわれ、マグロ類では最も冷たい海でも生きていけます。そしてメバチ、キハダ、ビンナガの順により温かい海に広がって分布します。それに応じて肉質の色は赤色からピンク色へと変化し、脂の乗りも薄くなり、最も高温域を好むビンナガマグロでは薄いピンク色の淡白な味わいになります。従って価格も一番安価です。ちなみに右写真のキハダマグロは漁協の市場の入札価格が約千円/㎏ですから、一番、手前の60㎏のものだと6万円です。
先月中旬、キハダマグロが水揚げされた時、地元の魚屋さんが一本、セリ落としたというので早速、刺身を買ってきました。赤身であっさりとした味わいですが、しっかり旨みもあり美味でした。
これまでは毎年この時期になると、クロマグロが入網し、生鮮の中トロ、大トロを口に出来る数少ない機会でした。けれども今年はまだその姿を見ていません。よく分かりませんが海水温の上昇も影響しているのかもしれません。
幸せの贈りもの⁉・・リュウグウノツカイ
昨日(令和6年3月11日)、鞆浦の大敷網にかの有名な深海魚、リュウグウノツカイが入りました。これまでも時おり漁獲されていて、大きいものだと幅30cm、4mぐらいの巨大サイズもいるそうです。昨日、漁獲された個体は特大タチウオをもっと大きくしたような感じです。
元気に生きていて、よく見ると背びれを波打たせてゆっくり泳いでいます。名の如く、竜宮から幸せの贈り物を運んでくれると嬉しいのですが。
その贈りものかどうか分かりませんが、今日も良く肥えたブリが500尾ほど水槽に入って市場に並んでいました!
祝 大漁 ‼(鞆浦発) (2024年3月2日)
去る2月19日、鞆浦大敷網にブリ(8~10㎏)がおよそ1200尾入りました。鞆浦では、彼岸ブリといって春の彼岸前後の水揚げが多いのですが、今年は早めです。良く肥えて、脂の良く乗った寒ブリです!
轟丸(愛称:虹マンボウ)には日の丸が掲げられています。今は無線で船と漁協はすぐ連絡が取れますから、この旗はお祝いの、景気付けです。昔は漁協から双眼鏡で沖の船を覗き、掲げられた旗の種類と枚数により大漁の状況を掴んだといいます。沖の船に日の丸一本が翻るとブリ千尾!すると、その情報が瞬く間に町中に伝わり、市場は活気付きました。
料理の写真は奥浦、生本旅館さん提供のブリ尽くしの品々です!
焼き物
煮もの
ぬた
アラ炊き
氏子だより
CSの会紹介 吉野 岡田 啓
東は太平洋に面し、大里松原海岸、出羽島、大島、そして千羽海岸までを展望する。西は、海部川を遡ると城満寺を眺め、最上流の轟の滝を思い浮かべることができる。春にはシダレ桜のトンネルが海とコラボする。そんな海部川筋の浪漫的の名所として育ちつつある。
そんな海部城跡は、今から約450年前に日本の中央において三好の天下取りに共に奔走した「海部友光」の居城である(*阿波の名将、信長の20年前の天下人「三好長慶」と海部友光は義兄弟として同盟関係にあり)。また、江戸時代初期には阿波九城の一つであり、県南の拠点として存在感を示した。現在も当時の遺構が随分と楽しめる。そして、阿波を代表する刀剣「海部刀」とともに歴史を刻んだ城山である。
海部城山保勝活動「 CS 海部」というのは、海部の C(キャッスル=城)S(ソード=刀)を意味している。CS 海部の活動は、令和6年末で6年が経過する。以前は木や草に覆われた山(標高約50m)であったのを、月一度の作業や歴史環境情報交換会を続けることにより、憩いの場・学習環境の場として整備が進んできた。だんだんと町内・県内外の様々な人たちが活用してくれるようになってきた。
会員の高齢化が進んできたが、無理をせず楽しみながら頑張って活動を続けていけたらと思っている。
登り口
松原を望む
海部川を望む
主郭