尾ノ上むかしむかし


校区のむかしむかし

 今からおよそ100年ほど前、尾ノ上校区は健軍村という地名で、今の尾ノ上校区のあたりは健軍神社のそばに住むお百姓さんの畑だった。

 その畑の中で、明治10年には「西南の役」があり、京塚、三郎、灰塚あたりは官軍と薩摩軍の戦場となった。その時、赤く燃える熊本城が新外からも見えていたという。

 そのころの小学校はといえば健軍小学校で、新外から歩いて40分ぐらいかかった。尋常小学校は4年までで、4年を卒業すると高等小学校(3年)に行く人もあったが、ごくわずかだった。

 高等小学校に行くには、新外から二里(8Km)離れた今の白山付近まで歩いて行かなければならず、その途中は畑や田んぼがずっと続いていた。

 そのころ、みんなが熊本の街に出かけるのは招魂祭(戦争でなくなった人をおまつりする)や藤崎宮のおまつり、お正月ぐらいである。それも新外から馬車に乗り水前寺まで出て、それから軽便鉄道で段山まで行ったのである。

 

京塚・陸軍病院 

 京塚地区・・このあたりは大昔、阿蘇山が噴火したときに積もった火山灰でできた土地。

 そこへ昭和17年、陸軍病院健軍分院ができた。終戦後、陸軍病院のあとがきれいに整備され、家が建てられるようになった。昭和28年の熊本大水害で家をなくした人たちの住宅も京塚・尾ノ上に建てられている。


京塚五叉路・引き込み線

 60年ほど前、現在の健軍自衛隊に飛行機を組み立てる工場があり、水前寺から工場までの資材を運ぶための汽車が走っていた。自衛隊から京塚五叉路、京塚バス停を通るまっすぐな道は『引込線(ひきこみせん)』といって、その汽車の線路の跡である。戦後、その線路を道路にした。京塚バス停をはさんで道が二本あるが、あれは汽車と道路が並んで走っていた名残である。

 五叉路から南へ錦ヶ丘公園へ通じる道が一番新しい道路で、尾ノ上小学校開校の後につくられた。


詫磨原の戦い・錦ヶ丘公園 

 天授4年(約650年ほど前)南北朝の戦いにて、菊池武朝と今川了俊が戦った詫磨原(現在の県庁、健軍神社、保田窪、帯山付近)の一角。この戦いで南朝方の菊池軍が苦戦に陥ったとき、征西将軍官が錦の御旗を立てて勝利に導いたという。周囲で最も高さが高く、交通の要所だった場所に立てられたことから、錦が丘といわれるようになった。戦いの石碑が水前寺競技場入り口にある。

  錦が丘は昔も交通の要所で木山往還(街道)が通っており、今の中学校あたりで木山に向かう道が分かれていた。学校の前のくぼんだ道はそのなごりである。

 錦ヶ丘公園は、昭和35年から始まった熊本市都市計画によって作られ、昭和51年3月に完成した。これを記念して作られた公園南側入り口のブロンズ像『想(おもい)』は、当時熊本大学教授(現・同大学名誉教授)石原昌一先生の作品である。


鳥井原遺跡※現在の「東部まちづくりセンター」あたり

発掘された「鳥井原式深鉢」は、大昔の人々が木の実や貝などを煮炊きするのに使われていた。


「塚」のつく地名が多いのはなぜ? 

 「灰塚」、「京塚」、「三郎塚」、また周りには「鉄砲塚」など、このあたりには「塚」のつく地名が多い。塚というのはこんもりと土を盛ったところである。大昔の豪族の墓であったり(古墳)、大きな災害で多くの死者が出たときも塚をつくって弔っていた。「三郎塚」は、健軍飛行場をつくるときに崩され、現在は名前だけが残っている。

 三町内の京塚地区もその一つであり、阿蘇山の噴火で亡くなった人たちの塚をつくって弔ったのである。なので、昔は「京(きょう)」ではなく、お経の「経(きょう)」、「経塚(きょうづか)」だったのである。


「三郎」ってだれの名前? 

 今ではたくさんの家が建ち並んでいるが、昔は住む人もなく、何もないところだった。そこへ明治14年に、保田窪村の西村・船津・田中という三人がやってきて、土地が広くて田畑にもしやすいという理由で、ここを自分たちの農地にすることにした。

 その時に、昔この地に「阿蘇三郎」という武士が住んでいたことから、「三郎」と地名をつけた。

現在も帯山線三郎バス停近くに記念碑があり、三人が一生懸命働き、仲良く暮らすためにつくった五つのきまりが書いてある。


陸軍工場

 昭和17年ごろ、今の健軍自衛隊の場所に陸軍の飛行機を組み立てる工場がつくられた。この工場では「飛龍(ひりゅう)」とよばれる戦闘用の飛行機などが組み立てられた。さらに、現在の熊本赤十字病院のところには完成した飛行機の飛行テストを行う飛行場があった。


健軍川

 健軍川は自然にできた川ではなく、人の手でV字型(水路断面)につくった川である。かつての飛行場(現在の熊本赤十字病院)の排水路としてつくられたのが健軍川だとされている。

 飛行場に大雨が降ったときだけしか川の水はなく、川の中を歩いて渡ることができたので当初は農業用に木橋がかけられていたが、昭和17年ごろに木造の手すりがついた土橋がかけられている。


尾ノ上『一町内』はどこにあるの?

昭和39年の尾ノ上小学校の創立後、児童の数はどんどん増えていった。昭和53年に月出小学校が新しくでき、その際、一町内は月出校区(現・山ノ内校区)になった。