インタビュー

2020年度卒業論文インタビュー

本年度はコロナ禍ということで特殊な年度となりました。その中で、就活と並行して卒業論文の執筆を進めた4年生の経験を記録するためにインタビューを実施し、失敗や反省も含めて、率直に語っていただきました。

質問事項は以下の通りです。

 ①卒論執筆(締切は1月末)の大体のスケジュールを教えてください。

 ②「こうしておいたらよかった」という点はありますか。

 ③「こうしておいたのでよかった」という点はありますか。

 ④これから卒業論文を書く後輩に向けて一言。

 ⑤その他


後藤蘭さん 卒論題目「元朝における大都留守司の職掌とその変化―元朝のケシク制と関連させて―」

①3年次の3月ごろから、元朝の大都に関することを卒論テーマにしたいと考え、関連の本や論文を読んでいました。ただコロナ禍のためあまり動けず、実際の本を手に取る機会はそこまで多くなかったです。

 そのあと、4年次の5~6月までは就活に専念していました。5月前半に内定が出て、最終的にはそこに決めたのですが、就活自体は6月に入っても続けていました。また部活(サッカー部)が解禁されてからは、そちらの活動にも参加していました。

 4年の夏休みに入る前には、卒論で取り扱うことになる「大都留守司」という官職にたどりつき、これに興味を持って関連論文を読むようになりました。しかし夏休みに入ってからは正直言って怠けてしまったのが反省点です。あまり作業を進めることができませんでした。

 夏休みあけの10月には提出締切が現実に見えてきてましたが、夏休みに怠けたのが響き、どういう方向性に行くべきか、迷っていました。大都留守司の任官者を調べようとはしたのですが、史料不足や自分の力不足で焦っていた時期でした。

 11月終わり頃には、卒論のもう一つのテーマとなる「ケシク」という単語にたどりつき、方向性が定まりました。そのあとケシクやそれと官僚制との関係など、細かい知識のつみあげのために論文を読み、執筆を進めました。必要な史料や書籍などは、図書館を通じた取り寄せで全て対応することができました。


②反省点としてはやはり夏休みに怠けてしまったことです。テーマ設定が他の学生よりも遅かったので、もっと細かいテーマ設定や方向付けが早めにできていればよかったと思います。


③よかった点としては、2年次の頃には既にモンゴルに注目するという点が固まっていたので、その後に史料などを読むと関連用語にピンときたりして、理解しやすい状況が作れていたことです。また、1月に入ってからのラストスパートが効いて、ある程度は遅れを取り戻せたかなと思います。


④とにかくテーマ設定を早くしたほうがよいです。また卒論提出後、試問会用のレジュメを作っていて思ったのですが、こういう要約のレジュメを執筆過程でどんどん作っておけばよかったと思いました。頭の整理ができて、とても勉強になります。

 

⑤卒業後は地元に帰って電子部品メーカーに就職します。就活をするなかで、周りに歴史を専攻している学生が少なかったのですが、そのことでかえって面接時に盛り上がったりしました。3年の時に中国研修に行った経験を語ることで、海外勤務をした面接員と話がはずんだこともあります。

 仕事は総合職で、海外転勤の可能性もあります。フィリピン、シンガポール、中国ですが、これまで歴史を学んだことが役立つかもしれません。語学が必要になってきますので、今はTOEICの勉強に励んでいます。


楢崎僚一さん 卒論題目「清末民初審定歴史教科書に見る「中国」の創出」

①3年の3月には、1万字レポート(注:東洋史研究室では3年の3月末に卒論の準備として1万字レポートを課しています)に意識して取り組みました。3年のときにやっていたテーマを変更することにしたので、その遅れを取り戻す良い機会と思い、また4年の前半は就活で時間が使えないことがわかっていたので、この時期に一生懸命レポートに取り組みました。

 教員採用試験や教育実習の時期にはそれに集中するので、卒論のことを考える余裕は全くありませんでした。ただ、課題演習での担当の前にはなんとか時間をやりくりして、発表の準備をするようにしていました。具体的なテーマとして、清末の歴史教科書を比較するか、清末から民初にかけての時代変化を分析するかで迷っていましたが、先生方との相談のうえ、最終的には後者に決めました。1、2学期の課題演習の発表を通じてじっくり考えたことがよかったと思います。

 8月には教員採用試験が終了し、卒論に取り組む時間が増え、9月頃までには使う史料を決定しました。清末民初の歴史教科書を使うこと自体は前から考えていたのですが、その質がバラバラだということに気づいていたので、このあたりで時間を使って具体的にどの教科書を用いるのかを決めました。

 11月にはコロナ禍で延期されていた教育実習も終了したので、本格的に卒論の執筆に入りました。書くことと並行して調査も進めました。12月以降、「書いてみないとわからなかった」ということが色々と出てきて、当初のイメージとは変わってきましたので、早めに取りかかって書きながら考えていくことが重要だと思います。メインのテーマは変わらないのですが、書くことによって着眼点が変わったり、明確になっていくことがあります。


②コロナ禍というイレギュラーな時期だったにしては、うまく時間を割り振れたと思っています。ですので、今年というよりももっと前からの準備の話になりますが、課題演習での発表が「発表に向けた発表」になってしまい、なかなか卒論に結びつかずにズルズルと進んでしまったことを反省しています。一度どこかで時間をとって、卒論に向けて「自分が何をやりたいか」「何ならやれるのか」ということをしっかり考えるべきだったと思います。


③1万字レポートに取り組む前にしっかり考えることができた点がよかったです。就活で時間が制限されるなかで、卒論との両立をなんとかこなせました。また、就活をしている時期はとにかく先が見えず不安になりますが、そうした目の前のことも大事だけど、卒論のことも大事だと考え、どっちもやってこそ学生本来の姿だという意識を持っていました。


④3年生は、毎回の発表や提出物にしっかり考えて取り組むことが大事です。そうすると先生からのアドバイスももらえますし、逆に自分がしっかり考えて意見を出さないと、アドバイスを受け止めきれないことになります。2年生は、色々なことを考えるためにも本を読むことが重要です。


⑤4月からは地元の広島県で高校地歴の教員になります。東洋史で学んだことは仕事に直結します。高校の勉強は、学問というよりも教養だというイメージがあるかもしれませんが、大学での学問と基礎や根元は同じだと思います。特に、自分が何か説明したり、意見を言ったりするときには「根拠」が必要だということを大学でしっかり学べました。これを自分でしっかり理解できたので、今度はそれを生徒に伝えていきます。

大学で学んだことは、教員採用の面接でも、正直言ってとても有利に働いたと思います。これまで自分が授業で発表するごとに、緊張しながらも責任感をもって発言してきたつもりなので、面接の場でも自信を持って発表することができましたし、ウケもよかったです。教採を受けた県は全て合格をいただきましたが、これまでの勉強が生きた結果だと思います。


東可奈子さん 卒論題目「唐代後半期の「追尊皇太后」出現に対する一考察―帝位継承過程に関連して―」

 ※東さんの論文は「岡山大学文学部優秀卒業論文賞」に選ばれました!

①3年次の3月からは就活がメインの生活になり、卒業論文にはほとんど手を付けられませんでした。そのなかで、研究に関係する論文を調べてリストアップするなどの作業はやっていました。自分の関心のあることは日本語の関連文献があまり多くなく、海外のものを見るのが必要とわかっていましたので。ただ、就活のため実家(関西圈)に2月から帰っていて、CNKIなどの利用には不便でした。また緊急事態宣言が出たこともあり、岡山に行けない状況が続きました。

 5月末から6月には就活が終わったので、それまでに入手していた中国語の論文を読みすすめました。7月・8月は本格的に卒論の作業へとシフトチェンジできました。この時期に「皇太后」をテーマにしようと決めました。当初は皇后に関心がありましたが、先行研究を見て自分の入り込む余地があまりないと感じていました。授業で発表を重ねるなかで、皇太后にも注目してはどうかというアドバイスをいただいたので、調べてみると研究があまり多くないと気づき、この方向で進めることに決めました。8月には皇太后に関連する論文を読んでいました。

 夏休みはこのテーマで、何をどういう風にすれば論じられるのか、自分の考え方に矛盾はないか、といったことを考えていました。これはずっと12月くらいまで考え続けましたが。

 10月は史料を読みつつ、議論の軸になる部分を構築していた時期です。史料は4年の初めから、皇后に関係する史料を既に集めていました。『旧唐書』などの関連部分コピーをして読み進めました。

 文章を書き始めたのは11月末から12月初め頃です。書き終わるのはわりと早く、1月上旬でした。提出前に、友達に2回読んでもらい、校正をしました。特に、史料の載せかたとして、本文と区切って見やすくするといったことは、友達から指摘を受けて改善できた点です。


②就活時期に少しでも史料に目を通せていればよかったと思います。就活にはどうしても専念しなければならないので。今年は特に、コロナのために就活が長引きました。選考が止まる企業が出てきて、再開まで1ヶ月かかったところもありました。


③「早めに」ということを心がけました。これで締切直前の時期には余裕ができました。スケジュール的には、12月末までにあらかた構成を決めて書き終える、ということを目標にしていました。


④史料にしても先行研究にしても早めにあたり、また幅広く見ておくのがよいです。後々になってどうしても見ないといけないものが出てきます。特に自分の意見と同じようなことが書いてあるものを後から見つけてしまうと、論文のオリジナリティの問題に関わってきます。

 早めに史料等を探すには、先行研究で使われている史料などを自分の目で確認することが大事です。また気になった言葉や人物について、データベースで検索して、関連のある史料が出てくるか調べるということもやっていました。


⑤卒業後は、物流関係の会社で、おそらく総務、経理などの管理系の職に就きます。大学で学んだことも役に立ちそうです。歴史に限らずですが、大学の勉強で、もとの情報を自分で精査して見極めるという力が培われました。その能力は社会に出ても、特に色々なデータを扱って内容を見極めるときに重要になってくると思います。就活の面接では、授業で学んだ漢文の話になることもよくありました。自分の長所を述べるとき、漢文の授業で地道に色々な書物をたどるということに継続的に取り組んできたということがアピールできました。

 今年度はほとんどがオンライン面接で、対面の面接があったのは3社くらいでした。いくつか内定は出ましたが、最終的に決めたのは、自分の希望である管理系の仕事が最初からできる会社です。私はこまごまとしたことがけっこう好きなのですが、全体の状況を把握して不足を補うという管理系の仕事が自分に合っていると思うので、そうした部署に行ける会社に決めました。

 そういう自分の性格は、茶道部での活動を通して見えてきました。茶道部では、「和を以て貴しとなす」のように、周りと溶け込む行いをするようにと教えられていました。大きな茶会の責任者を任されることもあったのですが、そういうときに全体を見て足りないところを補うという経験をして、それが自分に向いていると思うようになりました。

 春休みの今は、バイトばかりしています。勤務地が遠方になる可能性があり、給料日までの生活費の足しにと思っていましたが、実家から通える場所に決まったので、バイトは切り上げて人生最後になるかもしれないゆっくりの時間を楽しみたいと思います。


野村瑠史さん 卒論題目「馮桂芬の洋務改革案―上海同文館設立を中心に―」

①4年生になる前には、卒論で馮桂芬を取りあげること決めていました。しかし、公務員試験の勉強をしていたので、4月から10月まではそれに専念していて、公務員試験9に対して卒論1くらいの時間配分でした。とはいえ、頭の片隅でテーマについては考えつづけていて、気分転換に資料探しをするといったことも行っていました。

 6月上旬に国家総合職の試験、6月後半に地方上級の試験と7月に面接がありました。8月中旬に国家一般職の試験があり、9月下旬に二次試験があってこのあたりでようやく就活に一区切りつきました。今年はコロナのために試験がどれも2ヶ月ほど遅れたスケジュールになりましたので、よけいに余裕がなかったと思います。前期のあいだは授業での発表も十分にできませんでした。ただ発表準備も気分転換として、試験勉強との時間配分をみながら進めていくという感じでした。

 10月からは切り替えなきゃ、という段階に入りました。ところがこれまでノンストップで試験勉強に打ち込んできたので、休憩が欲しくなってレスト期間みたいになってしまいました。研究室に行ってはいましたが、あまり身が入らないという感じです。

 ただ、テーマの絞り込みは進みつつあり、史料のどこを取りあげるかなどを絞っていきました。最終的には、洋務運動という大枠のなかでの教育について考えることをテーマに、馮桂芬『校邠廬抗議』の、科挙について述べた部分や、同文館設立について述べた部分を見ていました。読んでいるうちに、馮桂芬の人材育成の熱意が見えてきました。孔子に遡って話を始めて、言語学校の設立を提案しており、そのあたりに面白さを感じました。

 11月には本格的な作業に入り、特に漢文史料の翻訳がメインになりました。準備が出揃ったという感じです。12月からは本文を書き始めました。第2章に同文館設立の経緯を書くことを決めていたので、その本論にあたる部分から書き始めました。年内に8割くらいは書き上がりました。

 1月には章立ての変更もありつつ、仕上げに入りました。1月15日くらいにはひと段落し、本当はもっと早くするべきだったのですが、このときに史料の添削を先生にお願いしました。そのあと2週間ほどかけて推敲し、完成しました。

 実は、年末に国家一般職のほうで面接にこないかと電話があり、年明けから面接がありました。なので、卒論前ギリギリにも就活が入り込んでいたことになります。こうしたスカウトの電話があるとは知っていましたが、本来より遅い時期になったのは今年の特徴です。もともと国家公務員への希望があったので、最終的にはこちらに決めました。


②卒論を本論から書きはじめてしまって、あとで章立ての変更が生じることになりました。「はじめに」など他の部分もちょっとずつ書いていけば、まとまりがよかったかもしれません。ただ、これは人の向き不向きがあると思います。自分の特性というか性格にあった進め方を、先生にも相談しながら考えていくとよかったと思います。


③主題となる史料(校邠廬抗議)を早く見つけていて、中国に行った際に買って家に置いていたのはよかったです。常に目に入って、卒論のことを考えることができました。準備期間が増え、読む時間も増えたと思います。


④毎年言われていますが、論文を書くのは初めてのことで、右も左も分からない状態です。論文執筆の先輩である先生に、よく相談したほうが、よりよいものになります。遠慮はいらないと思います。また同学年どうしで励まし合うことが、研究室に来るとできますので、それもよい手段だと思います。


⑤情報を扱う仕事に就くので、漢文史料を扱った経験は活かせると思います。これまで、史料を見つけて情報を読み解くということを、大学で学んできました。情報社会とも言われるので、ソースを探ってゆく力が、東洋史研究室で学べました。面接で、卒論のことを詳しく聞かれることもありました。中国好きの面接官がいらっしゃって盛り上がったので、卒論を書いていてよかったと思いました。

 文学部は就職で不利などと言われたりもしますが、僕は逆に強みになると思います。自分自身で卒論テーマを決めて取り組むので、他人にはない個性がアピールできます。そうしたことをしっかりと自分で語れる軸ができていれば、面接での受けも非常によいと実感しました。自分の個性を理解して話せるようになることは、とても強い武器になります。

宿麗萍さん(2019年9月大学院修士課程修了)

2019年9月に修士学位を取得された宿麗萍さんにお話を伺いました。


――宿さんのこれまでの経歴について教えてください。

学部は中国山東省にある済南大学外国語学院で、日本語専攻でした。その後、北京の首都師範大学教育学院の修士課程に進学し、2016年7月に修了しました。

その頃、ずっと日本の大学に留学したいという希望がありましたが機会がなく、修士課程を終えたあとは出版社に入社して編集者として1年間勤めていました。その間も日本に留学するべきかずっと悩んでおり、最終的にやはり留学を決意しました。

岡山大学を選んだきっかけは、首都師範大学で開催された学会で、岡山大学から来られた土屋洋先生(現名古屋大学)と知り合ったことです。土屋先生を通じて岡山大学のことを知って留学を決め、2017年10月に岡山大学大学院(修士課程)に進学しました。


――日本に留学する動機はどのようなものでしたか?

日本語をきちんとやり直したいと思ったからです。学部は日本語専攻でしたが、修士に入ってからはあまり使う機会が多くなかったのです。しかし将来は日本語を使う仕事をしたいという希望がありました。そうでなければ学部時代の勉強が無駄になると思ったからです。

また、出版社の収益が少なくなっており、その仕事が続くのかという点も心配の一つでした。もしかしたら転職の機会がなくなるかもしれないと不安に感じていたのです。


――実際に岡山に来てみて、印象はいかがでしたか?

とても空気がきれいだと思いました。また、日本語を勉強する中で知った、礼儀を守る日本の風習にも魅力を感じていて、それが自分の性格と合っていると感じました。私は人付き合いが少し苦手なところがあるのですが、日本での人と人との距離感覚、プライベートを重視する感覚が私にはちょうどよいと思いました。その一方で、日本で2年間過ごしたことによって、人間関係について自信を持てるようにもなりました。

でも岡山での2年間は時間がすぎるのがあっというまでした。日本の生活に慣れるのに最初はかなり戸惑い、授業の内容もうまく聞き取れませんでした。おそらく半年くらいでようやく慣れたと思います。その後は自分の研究に専念しはじめることができました。


――岡山大学大学院での研究内容について教えてください。

中国近代における蒙学(初等教育)教科書について研究しました。これは中国史上でも最初期の教科書でしたが、その編纂にあたっては日本との関係が非常に深いため、その点を探りたいという動機がありました。また中国での指導教員からも、中国近代の教科書と日本との関係についてきちんと整理しておくように、とのアドバイスを受けていたからでもあります。


――日本に来て、研究に役だった史料はありましたか?

研究の中でもっとも利用した史料は、日本と中国両方の教科書でした。日本の文部省が1880年代に出した国語教科書を史料として活用しました。また日本の出版社である金港堂の編集者が、中国と関係があり、中国の教科書の編纂にも参加していたので、そのことについても調べました。さらに、明治日本の教育や、学生についての文献も利用しました。


――中国側の史料はどのようなものですか?

『蒙学報』という、1897年頃に中国で出ていた新聞を利用しました。この新聞には当時の日本の教科書の翻訳が載っています。中国では国家図書館が公開している電子版『蒙学報』を見ることができます。


――岡山大学の研究環境はいかがでしたか?

さきほど紹介した資料は、ほとんど岡山大学の図書館で見つかりました。とても便利な環境だったと思います。研究以外にも、岡山大学には語学の教科書も豊富にあり、自分の求める本はほぼ全て見つかりました。

また院生専用の研究室があることも良かったです。私は家ではあまり勉強できないタイプですので、ほぼ毎日研究室で9時から18時くらいまでは研究していました。授業や研究に必要な書籍が揃っている点も便利でした。

もともと私は歴史学の専攻ではなかったので、岡山大学の文献講読の授業で、様々な工具書の使い方がわかったのは大きな収穫でした。また、歴史史料を読むときに厳密性を重視するという意識も学びました。留学期間を通じて、日本人の史料に対する厳密性を感じました。


――修士課程を修了したあとはどうしますか?

これからは北京に戻り、中国で日本語を教えるための教師資格証を取得したいと思います。

学部時代に比べて、今回の留学で自分の日本語に自信が持てるようになりました。中国で院生をしていたときに日本語教師アルバイトの面接を受けましたが、うまく喋れずとても落ち込んだ経験があります。もし次の機会があれば、自信たっぷりで臨めるでしょう。私にとっては、英語に比べて日本語はなかなか身につきづらかったです。しかし留学して日本人と交流したり、ニュースを見たりしたことで、次第に語学力が伸びました。

ものごとの考え方にも変化がありました。それは、自分の包容力が大きくなり、寛容になれたということです。以前、中国で仕事をしていた頃は、自分の忍耐力が足りなかったように思います。しかし日本の人々の包容力、寛容なところを見て、私自身にも忍耐力がつき、心が柔軟になりました。

この2年間の留学はとても貴重な体験で、おそらく私の人生を変えるものだと思います。


(聞き手・編集:土口。2019年9月4日、北京前門にて)

M.Hさん(2018年3月大学院修士課程修了)

研究室を訪問してくださったM.Hさん(2018年3月大学院修士課程修了)に、学生・院生時代の思い出についてインタビューしました。

――Hさんは修士課程から岡山大学に来られましたが、なぜ岡大を受験したのでしょうか?

学部の頃は別の大学で東南アジア史を学んでいましたが、岡山大学東洋史研究室では「東洋史」という広い枠組みで、東南アジアだけでなく中国やその他の地域も含めた広い視野で勉強できる環境があると考えたからです。また実家から近いこともポイントでした。


――Hさんはインドネシア史が専門ですが、それを選んだきっかけは?

もともと、日本近現代史を研究したかったのですが、学部のときには専門の先生がいませんでした。そんななか、インドネシアへの学生派遣プログラムが大学から提供されていたのを見つけ、これに応募しました。インドネシアのマゲランにある農村にホームステイして、ガジャマダ大学の学生と一緒に農村生活をおくり、その地域の課題を発見したりその解決を目指すというプログラムです。

マゲランは火山活動の活発な地域で、火山灰の被害がありました。その避難方法を小学生にレクチャーする活動などを行いました。こうした現地体験をきっかけに、インドネシアの歴史を勉強したいと思うようになりました。

インドネシア・マゲランの風景

――卒業論文はどのような内容でしたか?

インドネシアの政治家で初代首相を務めたスタン・シャフリル(1909-1966)についてです。1930年代に彼が流刑されていた時代の書簡を用いて、彼の思想・活動について論文にまとめました。


――シャフリルをテーマに選んだきっかけは?

学部の頃、指導教員の先生にインドネシア史を学びたいと相談したとき、土屋健治『インドネシア――思想の系譜』(勁草書房、1994年)を読むように薦められました。そこに、スカルノ(初代大統領)とハッタ(初代副大統領)の論争が紹介されていました。スカルノとハッタについては有名ですが、その論争でハッタ側に立ったシャフリルのことについては、日本語で書かれた文章があまりないことに気づきました。

実は、『インドネシア思想の系譜』については大学院入学後に書評を書いたこともあります(編注:実際の文章はこちら)。


スタン・シャフリル(出典:モハマッド・ハッタ著・大谷正彦訳『ハッタ回想録』めこん、1993年、挿図5頁)

――大学院でもシャフリル研究を継続されたわけですが、研究面での思い出はありますか?

夏休みを利用してインドネシアに9日間滞在し、史料調査を行いました。修士論文の執筆のため、インドネシア社会党が1940-60年代に発行していた機関誌(Sikap)が必要だったのですが、日本国内では見られなかったからです。訪問先はジャカルタにあるインドネシア国立図書館です。史料の現物を見ることができるということは幸せでした。


――1人での海外調査ということで、言語面では不都合はありませんでしたか?

言葉が通じなくて困ることはありました。図書館でも英語が伝わらず困っていたところ、司書の方が図書館にいた日本人の男性を呼んできてくれました。その方にインドネシア語の通訳をしてもらい、史料を出してもらうことができました。その方は日本の大学の博士課程に在籍する研究者でしたが、実は以前に私自身もその方の論文を読んだことがありました。


――そこで得た史料が修士論文に直結するわけですが、論文執筆を振り返るといかがですか?

やはり短い期間で修士論文を書くのは難しいです。就職活動もありましたので、時間管理がポイントになります。

私は修士課程に入ってからインドネシア語を始めたのですが、インドネシア史を専門とするODの方に協力してもらい、自主的な勉強会を毎週おこないました。それで次第に自分の力で史料が読めるようになってきました。「シャフリルが何を言っているのかがわかる、史料と会話している、コミュニケーションできている」という感じがあって楽しかったです。史料を読むのはつらいこともあるのですが、内容が少しずつわかってくるという感覚はとても楽しかったですね。

海外調査で得た資料の一部

――論文執筆のほかに院生時代の思い出はありますか?

附属図書館でアルバイトをしていました。色々な分野の本に触れることができ、「こんな本あったんだ」という発見がよくありました。私の専門の、東南アジアの本も意外なところにあること、例えば歴史の棚だけでなく、経済や産業のところも見なければならないことを実感しました。

また、東洋史研究室には色々な地域・時代を学ぶ人たちがいます。演習に出ていると、色んな分野の話が聞けて、自分の世界・視野が広がりました(編注:Hさんは学部生の演習でティーチング・アシスタントを担当していました)。

その場にいるだけで色々な話を聞けるというのは、やはり大学ならではです。社会人になると、研究会や講演会などに自分で足を運ばないかぎり、なかなか専門的な話を聞く機会はありません。


――現在の仕事について教えてください。

メーカーに勤務して、材料の調達の仕事をしています。インドネシアにも工場を持っている会社で、同僚にはインドネシア人もいますので、大学で勉強したインドネシア語が役に立ちます。


――語学のほかに、大学で学んだことが役に立つ場面はありますか?

同僚からの質問に答えるとき、大学で培った説明する力や論理的に話す力が活かせていると感じます。

また勉強する習慣が身についたということもあります。学校から会社へとフィールドが替わっただけで、勉強する態度・習慣や、他人に説明するときの方法は変わらないと思います。

会議資料を作るときにも、授業で繰り返してきたレジュメ作成の技術が役立ちます。もちろん内容は違うのですが、資料の土台をつくるスピードが速くなっていると感じます。

スカルノ(手前)とハッタ(奥)の像ジャカルタの独立宣言記念公園Taman Proklamasi Kemerdekaanにて撮影

―――Hさん、ご協力ありがとうございました。大学院で充実した研究生活を過ごされたこと、またそれが社会人になった現在にも大いに活かされていることがよくわかりました。(聞き手・編集:土口。2019年7月13日)